地中海学会月報 MONTHLY BULLETIN

学会からのお知らせ

研究会要旨
トリグリフを有する祭壇 —地表近くに計画された構築物
川津 彩可  8月7日(土)オンライン会議システム(Zoom)

先行するミケーネ文化が前1200年頃に崩壊し、石造建築物の減る初期鉄器時代を経て、前700年頃に古代ギリシアのポリス社会が成立する。建設活動も再び華やぎ、ドリス式建築では装飾帯フリーズが建物上方の軒部分をめぐった。フリーズには3本の筋の刻まれた部材トリグリフとメトープ板とが交互に並んだ。一方で、地上にあたかも建物のフリーズ部分が構築されたようにトリグリフ・メトープが配された矩形の祭壇の例も散見され、その出現はドリス式神殿の創出と同時期のアルカイック期にまで遡る。初期のドリス式の特徴は、ギリシア本土や南イタリア・シチリアの植民都市に多く分布するものの、その起源の足跡をたどることは容易ではなく、ウィトルウィウスが信じた、建築が石造化する過程で木造建築の構造が装飾的に模倣されたとする木造起源説は歴史上根強い人気を誇った。神殿が神々の住まいとしての奉納物である一方、ポリス社会を結びつける宗教儀式を執り行う祭壇は、聖域を構成するのに不可欠の根源的要素であった。それにもかかわらず、1949年に至るまで祭壇に関する包括的な類型化は図られず、1970年代に一部の地域や祭壇の種類について類型化が試みられる。ようやく近年、最初期のトリグリフの出現が、祭壇よりも神殿に先行していたと断定できないとする見解も出され始めた。

動物の犠牲を伴う儀式では、選ばれた動物は祝いの行列で祭壇に導かれた。祈りが唱えられ、最後に犠牲獣の喉が切られ屠殺され、祭壇上で焼かれた。神々は煙を、人間は共に肉を食べ、都市国家規模、家族単位の共同体を結束させた。パウサニアスは、始原の祭壇の一形態である灰の祭壇がオリンピアにあった旨を伝える。犠牲獣を焼いた灰を堆積させ、階段を設けながら高く上方に構築された祭壇だ(『パウサニアス案内記』5巻13章11節)。ウィトルウィウスは祭壇に関しては方位などわずかな情報を述べるが、神々と祭壇の高さに関して、ユーピテル(ゼウス)や天の神々には高く、ウェスタ(ヘスティア)や地の神、海の神には低く配置されるようにと言及する(『建築十書』4書8章9節)。炉の女神ヘスティアは後の時代までほとんど具現化されることはなかったが、儀式で祝詞をあげる際には真っ先に彼女の名前が呼ばれた(ヘスティア讃歌29番)。住宅内では中庭に石で構築された炉が祭壇として用いられ、また、テラコッタ製の持ち運び式の祭壇も室内やパスタスから出土する。

聖域を形成したトリグリフを有する祭壇は通常、建物上部に配されたトリグリフ・メトープとは異なり、石材の裏側は未加工のまま残された。古い事例としては、母市をコリントスとするケルキュラやシュラクサイ、また、コリントスの対岸に位置するペラホラなどで確認される。トリグリフを有する祭壇と同じく地表近くにトリグリフ・メトープが配された事例として、コリントスの聖なる泉の聖域を囲む境界壁が挙げられ、ドリス式に関する何らかの革新がコリントスで起こっていた可能性はこれまでにも指摘されてきた。

ところで、ドリス式を単一モデュールとして記述するウィトルウィウスは、神殿外形寸法から決定したモデュールを、いったん、柱の高さを介しながら神殿下方から上方に向かって各部を規定し、そこからフリーズなどの割付けを決定する。トリグリフ・メトープについて、両者がドリス式の一要素として建物に組み込まれた状態を想定し、柱との位置関係に応じた割付け方を述べる(4書3章2-7節)。さて、先に挙げたケルキュラの祭壇について、その残存部分は約9.0×2.2 mと細長い矩形平面で、高さは約0.9 m。前600年頃のものとされ、粗石をその中核としていた。もとはアルテミス神殿の東側に位置していたものであったが、神殿は既に失われてしまった。祭壇の長手面と短手面とではその割付けは僅かに異なり、幅41-2 cmの8枚のトリグリフが残る長手面では、約65 cmのメトープが交互に配され、端のメトープ板が69 cmと僅かに幅広である。また、3つのトリグリフが配された短手面では、隅のトリグリフは36-7 cm、中央のトリグリフは長手面のトリグリフと同様41 cmにて構成される。間を埋める2つのメトープは54-5 cmで、長手面のそれよりも幅狭だ。だが本タイプの祭壇に柱は存在しない。だとするならば、この長手と短手にみられるトリグリフ・メトープの割付けの違いはいったい何により規定されたものなのだろうか。ウィトルウィウスは何も応えない。彼の生きた前1世紀から遡り、ドリス式建築が出現する前7世紀までの時間的隔たりはあまりにも果てしない。その果てしない空白を埋めたいと願う筆者に、本研究会を通してさまざまなかたちでご助言をくださり、支えてくださる方々に心より御礼申し上げる。

古代アテナイの十部族制と相互授冠
橋本 資久

アテネ中心部から東方を望むと、10km足らずの距離にあるヒュメットス(イミトス)山脈が視界を遮る。最高点では海抜1000mを超えるこの山脈が、南北20kmほどにわたりアテネの東側に聳えるので、アッティカ半島西部に位置するアテネと、空港などがある半島東部メソゲイア地域との交通路は、現在でも、山脈北端の要地パッレネ(パッリニ)を迂回する必要がある。アテネやその外港ペイライエウス(ピレウス)を中心とする地域は、さらに、北西をアイガレオス(エガレオ)、北東部をペンテリコン(ペンテリ)の両山脈で区切られ、狭く閉ざされている(南西方向はサロン湾)。この狭い地域が、紀元前508年とされるクレイステネス改革での、アッティカの三地域のひとつ、中心市域(アステュ)だった。しかし、古典期のアテナイ(アテネ)は、この地域の外にある、マラトン・テトラポレイスや、エレウシス周辺、大邑アカルナイなど、それぞれまとまりをもつ諸地域を統合し、2500㎢に及ぶアッティカ半島全体を本国領域とした。理想国家の領域を、「一目でよく見渡せるεὐσύνοπτος」(Pol. 1326b 24; 1327a 1-2)としたアリストテレスからすれば、由々しきことだったろう。

アリストテレス『アテナイ人の国制』21章によれば、クレイステネスは、「前より多くの者たちが参政権にあずかるように、市民たちを混合しようとし」て、「全土をいくつかの区からなる三〇の部分に分け、そのうち一〇は市周辺の土地から、一〇は沿岸部地域から、また一〇は内陸部地域から成り立つようにした。そしてこれら各部分をトリッテュスと名づけ、どの部族も三地域すべてにあずかりうるように、各部族に三つのトリッテュスを割り当てた」という。これが、高校世界史の教科書にも載っている十部族制で、部族毎に同じ役人を選出した結果の十人同僚制により、権力の集中が妨げられ、古典期民主政の基礎となったと説明される。しかし、この「部族」(フュレ)という地縁共同体の社会的機能については、史料が少なく、あまりよくわかっていない。

その部族の社会的機能の一端を垣間見せてくれる碑文が、IG II/III³ 4 76である。これは、紀元前341/0年にアイゲイス部族を代表して選出された評議員団(五百人評議会の十分の一の五十人からなり、プリュタネイスと呼ばれる)が、アテナイの評議会と民会によって顕彰・授冠されたのを記念して、奉献したものである。奉献に関する部族決議文の下に全評議員名が記され、さらにその下と別の2面に、別のアイゲイス部族決議が4つ刻まれている。これらは全て、この部族の評議員が他の評議員を顕彰しているもので、延べ15人が顕彰されている。

最初の部族決議では、内陸トリッテュスのエルキア区(ヒュメットス山脈の東)のタッリアスが、部族財務官であるヘスティアイア区(市域トリッテュス)のポセイディッポスへのオリーブ冠授与を提案している。第二の部族決議では、イカリオン区(市域トリッテュスだが、ペンテリコン山脈北麓)のアリストファネスが、タッリアス、内陸トリッテュスのガルゲットス区(パッレネの近く、ペンテリコン山脈の南だが、ヒュメットス山脈の東)のディオドロス、そしてもうひとりの評議員へのオリーブ冠授与を提案している。

そして、第三の部族決議では、タッリアスが、エレウシスでの秘儀でヒエロポイオスを務めた十人の評議員へのオリーブ冠授与を提案している。この十人の中には、第二決議の提案者アリストファネスと第一決議の受賞者ポセイディッポスが含まれている。さらに、第四の部族決議では、ディオドロスが、アリストファネスへのオリーブ冠授与を提案している。つまり、タッリアスとアリストファネス、ディオドロスとアリストファネスの間では、互いに相手への冠授与を提案していることになる。

この碑文に見られる相互授冠は、既にScafuro, 2008が注目しているところだが、主としてヒュメットス、ペンテリコン、アイガレオス各山脈の内側にあたる中心市域の市民と、各山脈の向こう側、つまり市域外の内陸、海岸部トリッテュスの区に所属する市民との間で、授冠を提案しあうという行為は、部族レベルでの顕彰が、アテナイという、例外的に広大な領域を占めるポリスの凝集性強化に寄与したのではないだろうか。現代の目からすれば煩雑な手続を経て作られた十部族制が、改革当初のクレイステネス自身の思惑はともかくとして、紀元前4世紀には、地域を超えた人的紐帯の醸成に寄与していた可能性が、この碑文からは想定できるように思われる。

同種の碑文は、残念ながら、現在まで発見されていない。また、近年に刊行された、ギリシアの「部族」に関するモノグラフ(Grote, 2016)でも、この碑文は詳細には扱われていない。しかし、私には、この石碑が、興味深いものであるように思われる。

預言の棺
藤崎 衛

奇妙な伝説が残されている。12世紀半ば頃のこと、いくつかの記録は「ローマのサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂には、現教皇の死期を報せる棺がある」と語り出す。そして、「そのときが近づくと、棺が湿り気を帯びて泥が生じる」、また或いは「水が滴り流れ、その量は死する教皇の威厳がいかほどかによる」と、さまざまなバリアントとともに、どこか真夏の怪談めいた話をしめくくる。

事の真偽はわからない。ただ、この「預言の棺」におさめられた人物が、教皇シルウェステル2世(在位999~1003)だと明かされれば、なるほどそうかと首肯する読者もおられるだろう。

駿才という言葉ほど彼に似つかわしいものはない。とりわけ若き日、バルセロナ伯領内のリポイ修道院などへ留学したことは、生涯にわたる衝撃と刺激を与えただろう。彼はこの地で「異教徒のもの」であるアラビア語文献がラテン語に翻訳される現場を目撃し、自らも学究の徒として先進的な数学と天文学を修得しながら、その卓越した知性を輝かせていった。しかも彼は修道院の一角に隠棲するタイプの人物ではなく、叡智を実践へむすびつけることにも長けていた。たとえばボッビオ修道院長時代の写本蒐集やランス大司教時代の教育事業はその後のヨーロッパに多大な知的遺産をもたらし、晩年、「紀元千年の教皇」の座へ就いた際には、神聖ローマ皇帝オットー3世(在位996~1002)と理想を分かち合い、新たな世界秩序の構築を企図していた。

しかし、彼はあまりに優秀だった。最先端の天文・計算機器ですらやすやすと使いこなすその様は、人々には神秘的な魔法使いのようにみえたのかもしれない。

死後ほどなく、11世紀初頭には早くもシルウェステルの生涯は伝説化し始める。高名な学者であり、聖職者としてキャリアを積みやがて教皇になったという事実を踏まえつつも、当時なおイスラム教の勢力下にあり一留学生が赴くには危険すぎた「コルドバで」学業を修めたと記されるなど、一片のあやしさを匂わせるものとなっていく。

圧巻はグレゴリウス7世(在位1073~1085)の対立教皇クレメンス3世(在位1080~1110)お抱えの枢機卿が書き残した記録であろう。曰く、「グレゴリウス7世は邪悪な教皇であったが、その師の師であるシルウェステル2世もそうである。この男は自らの死期を悪魔に訊ね、それはエルサレムでミサを挙行する前だとの答えを得た。エルサレム行きはさしあたりの予定ではないため安堵したが、ローマのエルサレム聖十字架教会に赴き、ミサを執行する際に死亡した。すなわちこれは呪術である」と。枢機卿がグレゴリウス7世を「邪悪」と決めつけた発言の背景には、聖職者叙任権をめぐる神聖ローマ皇帝との政治的抗争(叙任権闘争)があったことはいうまでもない。しかしグレゴリウスの正統性へ疑義を示すため、同様に正統的な「かしら」の列にならぶシルウェステルを持ち出し、彼の胡散臭さの根源が「悪魔や呪術とかかわり」にあったと主張したことは注目に値する。

教会は中世初期以降、悪魔を異教の神と同一視しながら反キリスト的な存在とみなし、あらゆる民間信仰を呪術と指弾して徹底的に排除しようと努めてきた。こうした地道な教化活動は、まさに紀元千年を迎える頃、すなわちシルウェステルが教皇座にあった時期、西ヨーロッパがローマ・カトリック信仰のもとにむすびついた同質性を獲得し、「西方キリスト教世界」として自立する契機のひとつとなった。したがって教皇自らが悪魔や呪術とかかわることは、スキャンダラスなタブー以外の何物でもない。事実、その棺をめぐる伝説がささやかれ始めた12世紀以降、「シルウェステル伝説」は、彼の瀆神的な様相を露骨にまた精緻に描き出しながら、彼への批判や嫌悪の度合いをますます高めていくのである。

現職教皇の死を報せる「悪魔的教皇」シルウェステル2世の棺。これは気味の悪い伝説にみえる。しかし当時ラテラノ大聖堂にあったのは、彼の棺だけではない。10世紀まではサン・ピエトロ大聖堂が教皇の墓所として独占的役割を果たしていたが、その後は教皇宮殿かつ教皇庁行政の中枢だったラテラノに移り、12世紀にはこちらが「教皇のネクロポリス」と化していた。しかもその棺にはローマ市内の霊廟から略奪した古代皇帝の石材が用いられるようになり、中世史家パラヴィチーニ・バリアーニが述べるように「教皇は皇帝として埋葬されることを望んだ」とみなすこともできる。しかしシルウェステルの棺は警告する。教皇であろうともやがて死ぬ、もうすぐ貴殿にもそのときがくるであろう、なぜなら、見よ、我こそは、神聖ローマ皇帝と手を携えて世界に向き合った者、そう預言するに相応しき者である、と。

Opes adipiscendae ut dignis largiamur ―ジェームズ・ローブとLoeb Classical Library―
川本 悠紀子

ジェームズ・ローブを知る日本人はほとんどいないだろう。実は彼こそ、西洋古典学・西洋古代史研究者であれば誰しもが良く知るLoeb Classical Libraryを構想し、刊行を実現させた人物である。

Loeb Classical Libraryは、ハーヴァード大学出版会が出版しているギリシア・ローマ時代の原典に、その英訳と注を付した書籍である。緑色はギリシア語、赤色はラテン語の作品を収録しており、2021年3月の時点で542巻が刊行されている。古典籍の編纂・翻訳の一大事業を開始するには、桁違いの財力と人的ネットワークが必要とされるが、彼の人生を辿ってみると、その両方に恵まれていたことがわかる。

ジェームズ・ローブの父、ソロモンはユダヤ系ドイツ人で、その家族はラインラント=プファルツ州にあるヴォルムスでワインと穀物の取引業を営んでいた。ソロモンは、1848革命を受けて1849年にドイツから米国に移民として渡り、従兄で妻ファニーの兄でもあるアブラハム・クーンと共にクーン・ローブ商会を創設、その後投資銀行を立ち上げて成功をおさめた。ファニーの死後、ソロモンはピアニストのベティー・ガレンベルクと再婚、1867年にジェームズが生まれた。

経済的に恵まれた家庭で育ったジェームズ・ローブは、ハーヴァード大学で経済史、経済、商法、古典学、美術史を学び、音楽に親しみつつ、ギリシア・ローマの美術品の収集をしていたという。卒業後にはパリやロンドンでエジプト学を志すこともできたが、兄が家業を継がなかったため、次男のジェームズが1888年に入行した。彼が投資銀行でどのような任務に従事していたかは定かではないが、銀行のパートナーである義兄との折り合いが悪く、終生患った双極性障害が原因で心身に支障をきたしがちだったという。しかし、アビ・ヴァールブルク(ロンドンにあるウォーバーグ研究所の創設者。彼とローブは非常に親しく、ローブがヴァールブルクの書籍購入援助を行う一方、ヴァールブルクはローブに研究者を紹介した)の縁者がローブ一族と婚姻関係を結んだことで銀行の経営陣が増えて職を退きやすくなり、1902年に退行した。その後ローブは欧州歴訪を行い、ヴァールブルクを訪ねたり、古美術品の購入を行っていたそうだ。またこの間、ローブは精神科医エミール・クレペリンの診察を受けており、これがきっかけとなって米国からミュンヘンに拠点を移すことを決意している。

実はミュンヘンは、古典考古学・古典学研究を行いたいと考えていたローブにとって最良の地であった。なぜなら、グリュプトテークの館長にして古典考古学の権威であるアドルフ・フルトヴェングラー(著名な指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの父)がミュンヘン大学で教鞭をとっていたいたからである。

ローブはかねてより米国でも諸機関へ資金援助を行っており、たとえばジュリアード音楽院の前身の音楽芸術研究所を友人のダムロッシュと創設している。彼はミュンヘンとその近郊にあるムルナウに居を構えてからも支援事業を継続し、マックス・プランク心理学研究所の前身となる研究所の設立、女子学生寮建設、ドイツ・ギリシア・イタリアの研究機関への支援、ミュンヘン市への資金援助なども行った。そんな彼が最も力を入れたのがLoeb Classical Libraryの刊行である。第一次世界大戦が終わり、平和が戻った暁には、ドイツ語とフランス語訳本も出版することをも計画していたという。結局、この計画は実行されなかったが、ジェームズ・ローブの視野の広さを垣間見られるエピソードといえるだろう。戦時中はローブに対する風当たりも強かったが、継続的に行ってきた寄付事業や周囲の支援もあり無事終戦を迎えた。

その後ローブは、20年来の付き合いがあったマリー・アントニー・ハンビューヘンと結婚し、ムルナウで翻訳や執筆、音楽を楽しむ生活を送った。近所に暮らすワシリー・カンディンスキーとガブリエル・ミュンターら青騎士との交流はなかったようだが、学者や芸術家の経済的支援を行っていたという。ところが、1933年には仲の良かった義弟が、続いて妻が亡くなり、さらにムルナウではナチスへの支持が広がりを見せていた。このことから、ローブはアメリカへの帰国を決意する。しかし、それも叶わず、同年5月にムルナウで亡くなった。1912年に出版が始まったLoeb Classical Libraryは、彼の死までに360巻が刊行された。

遺言により、財産の一部がハーヴァードならびにLoeb Classical Libraryに、収集した全ての考古遺物が現在のAntikensammlungenに寄贈された。歴史と運命に翻弄された20世紀のマエケナスの遺志は、博物館、諸研究機関、そしてLoeb Classical Libraryに今なお引き継がれている。

自著を語る105
『よみがえる天才6──ガウディ』
筑摩書房(ちくまプリマー新書) 2021年3月 272頁 1,078円(税込) 鳥居 徳敏

筑摩書房編集部からメールで執筆依頼を受けたのが昨年2020年7月初旬、即座に快諾、9月下旬に脱稿、この新コロナ禍のなかメールで原稿を送るという迅速さだが、今考えれば、何とも危険な振舞であった。

私には記憶にないのだが、30年ほど前のこと、筑摩書房とは関係を持っていたらしい。しかし、それ以降は音信不通であり、編集部の誰ひとり知る人はいなかった。メールを信じ、担当者に会うことも契約書を交わすこともなく、原稿を送ったのだ。まさかと想うのだが、詐欺の可能性がなかったわけではない。

なぜ、突然の依頼を即座に快諾したかと言えば、「よみがえる天才」シリーズの企画に共感したからであり、これまでは専門書、少なくとも建築分野に関係する人々を対象とする本のみを執筆し、一般の初心者向けの本を書いたことがなかったからだ。

ガウディとは、もちろん「下町ロケット」のガウディではない。スペインの建築家、バルセロナのサグラダ・ファミリアで知られるガウディのこと。摩訶不思議な建築造形の作者、その名は奇才・天才として知られる。この人物を題材にすれば、必ず建築の話にならざるを得ない。建築を語れば、専門的で一般読者には難しいとされる。しかし、建築家も人であり、その人の生涯や生き方を語るのであれば、誰もが理解できる内容になろう。今から36年前、建築家の生涯を扱った「アントニオ・ガウディ」を出版した。この本は、人生と建築作品解説を織り交ぜた、それまでのガウディ書で一般的な構成を避け、生涯のみに特化した稀有な本であった。誰が読んでも理解できる内容でありながら、建築を専門とする鹿島出版会からの出版(SD選書)であったため、一般読者には手に触れ難いものであった。それでも、手に取ってくれた一般読者からは高評価を得ることができたものの、論文的だという苦言もないわけではなかった。

そもそも、私がなぜガウディ研究をすることになったかと言えば、第一に、建築造形に唖然とさせられたこと、第二に、それまでの研究が不確かな伝聞に基づいていたこと、第三に、あの前代未聞の造形がどのように生まれたかを知りたいのに、既存のガウディ書では、あたかも「天才だから何でも可能」的な論調になっていたこと、などにあった。

作品の評価として「天才」と呼ぶなら、それは聞き流すことができる。しかし、逆に「天才だから、何でもできる」と、不思議な造形を説明するならば、それは受け入れ難い。これは研究の放棄であり、「天才」を殺すことをも意味する。「よみがえる天才」には、その天才がどのようにして生まれたのかを明らかにすること、すなわち、天才を生き返らせるという主意があろう。私の研究は、この天才が一般の人と変わらないことを明らかにすることにもあったから、この視点から天才を現在によみがえらせたいと考えた。これが、執筆依頼に即答した大きな理由だ。

もう一つの理由、初心者向けの本を書きたかった理由は、研究書を含めガウディ書には思い込みや誤解からの記述が多々見られるため、より正確な情報を一般にも紹介したいという願望による。36年前の拙書がその役割を十分に果たすであろうと想定したのだが、そう簡単ではなかった。同じ著者が「確かなデータ」をモットーに同一人物を取り上げるのだから、この小冊子が36年前のものと相違する内容にはなり得ない。しかし、本書では時代の建築趨勢に併行するガウディ建築の変遷(折衷主義=歴史主義➡自然主義➡幾何学主義)や現代にも影響を与え続けることになる独自の三大様式(パラボラ様式・洞窟様式・平曲面様式)の生成、およびそうした前代未聞の造形世界に導いたガウディの建築思想にも触れている点では前書と異なる。また、この36年間で深化させた部分も前書とは相違する。例えば、兄と母の他界後の学生時代から家族(父、姉、姪、叔母たち)と同居していたこと、晩年のガウディによれば、「できの悪い学生」であったのだが、これは絶対評価であり、他学生との比較に基づく相対評価では「優等生」であったこと、サグラダ・ファミリアの財源と工事費の集計結果によれば、聖堂建設は赤字続きで工事自身が奇跡であったこと、また今でこそこの聖堂はカタルーニャを代表するバルセロナのシンボルであるにもかかわらず、建設中断の危機に際し、大詩人マラガイやその他の著名人たちが聖堂への献金を訴えたにもかかわらず、バルセロナ市民もカタルーニャ人たちも全く反応していなかったことなどは、前書には見られない記述である。

無味乾燥なデータだが、正確さには不可欠であり、時には予想外の結論に導くことにもなる。本年完成予定のサグラダ・ファミリア聖堂のマリアの塔が、イエスの塔に次ぐ二番目の高さに変更されたのは、確かなデータ解析に基づく拙論(2014)による。

表紙説明

地中海の《癒し》4:上エジプト・ドゥルンカ聖母マリア修道院/岩崎 えり奈

マタイ福音書によれば、イエスが誕生したあと、預言を恐れたヘロデ王が男児を皆殺しにしようとしたので、聖母マリアと夫ヨセフは夢の中の天使のお告げに従い、幼子イエスを連れて、パレスチナからエジプトへ逃避行の旅にでた。聖家族はベツレヘムからシナイ半島を経て、ナイルデルタの町々を通り、現在のオールド・カイロに逗留した後、カイロ南のマアーディーで船に乗り、ナイル川を上って、上エジプトに向かったとされる。

聖家族は、上エジプトでの逃避行中に多くの場所に立ち寄った後に、アシュートのクスカーム山にたどりつき、そこで6か月間逗留した。その逗留中に、ヘロデ王が亡くなりパレスチナに戻ることができると天使から告げられたという。そこで、アシュートからナイル川を下る舟に乗る前に訪れた洞穴がドゥルンカである。この一帯にはファラオ時代に石切場や墓地としてくりぬかれた洞穴が多くあるが、そのような古代の洞穴に聖家族は滞在したのであろう。キリスト教が広がるとともに、この洞穴には信仰者が集まり、4世紀には多くの修道士、修道女が生活していたという。

聖家族が逗留したとされる洞穴には、聖母教会が建てられた。その後さらに修道院や巡礼施設が建てられ、修道院は発展していった。現在、ドゥルンカ修道院は教会、修道院、巡礼者宿泊施設からなる巨大な複合施設である。

ドゥルンカには、エジプト中からバラカ(恩寵)を得るために、多数の巡礼者が訪れる。子供に洗礼を与えるためにやってくる家族も多い。イスラーム教徒が参詣することもある。

とりわけ聖母マリア被昇天を祝う8月21日までの2週間は、マウリド(誕生祭)を参詣する大勢のキリスト教徒がドゥルンカにやってくる。この時期にはエジプト各地の巡礼地でマウリドが開催されるが、ドゥルンカのマウリドは規模が大きく有名である。

近年、教会を狙ったテロ事件以来、修道院は警察の監視下におかれている。山のふもとの修道院の入り口には装甲車がならび、マウリドは物々しい雰囲気になかで開催される。マウリドは買い物と娯楽の場でもあるが、山のふもとにひしめきあっていた土産品屋、菓子売り、焼き芋売りやトウモロコシ売り、サトウキビジュース売り、子供用の娯楽施設もみられなくなったという。しかし祭りの活気が失われても、山の上で行われる聖母マリアの被昇天祭の祝日は参詣客で賑わっている。コロナ禍の去年と今年も開催されたという。

表紙写真1 洞穴教会
表紙写真2 ドゥルンカ修道院
表紙写真3 修道院からナイル河谷を望む (収まるが悪ければ、写真3はなしにして構いません)