地中海学会月報

MONTHLY BULLETIN

学会からのお知らせ

10月研究会

下記の通り研究会を開催します。奮ってご参集下さい。

テーマ:スペイン映画「オール・アバウト・マイ・マザー」の女性表象と
スペイン・地中海文化性
発表者:矢田陽子氏
日 時:10月14日(土)午後2時より
会 場:首都大学東京 秋葉原サテライトキャンパス
(東京都千代田区外神田1-18-13秋葉原ダイビル12階
JR秋葉原駅「電気街口」改札からすぐ,
つくばエクスプレス秋葉原駅から徒歩2分,
東京メトロ日比谷線秋葉原駅・末広町駅から徒歩5分)
参加費:会員は無料,一般は500円

スペインを代表する映画監督ペドロ・アルモドバルの作品で,2000年にアカデミー賞最優秀外国語映画賞を受賞した「All about my mother」の女性表象を,地中海の古代神話に存在し「母なるものの原型」とされる「大いなる女神」の象徴性と,スペインの特徴とされる「聖母マリア崇拝」の二点から分析し,この二つの観点が如何に現代スペインの女性アイデンティティに影響しているのかを明らかにしていく。

寄贈図書

『キリストの受難 十字架の道行き 心的巡礼による信仰の展開』アメデ・テータールト・ドゥ・ゼデルヘム著 関根浩子訳 勉誠出版 2016年3月
『オスマン朝宮殿の建築史』川本智史著 東京大学出版会 2016年8月
『いつも時分の花に』前田信輝著 龍書房 2016年9月
『チュニジア革命と民主化 人類学的プロセス・ドキュメンテーションの試み』鷹木恵子著 明石書房 2016年9月
『西洋美術の歴史4 ルネサンスⅠ』小佐野重利,京谷啓徳,水野千依著 中央公論新社 2016年10月
『レコンキスタと国家形成 アラゴン連合王国における王権と教会』阿部俊大著 九州大学出版会 2016年10月
『ウェヌス 豊饒からエロスへ』高橋朋子著 悠書館 2016年10月
『コプト聖人伝にみる十四世紀エジプト社会』辻明日香著 山川出版社 2016年1月
『訴える人びと イタリア中世都市の司法と政治』中谷惣著 名古屋大学出版会 2016年11月
『青を着る人びと』伊藤亜紀著 東信堂 2016年11月
『ポケットマスターピース13 セルバンテス』野谷文昭編 集英社文庫 2016年12月
『スペイン初期中世建築史論 10世紀レオン王国の建築とモサラベ神話』伊藤喜彦著 中央公論美術出版 2017年1月
『古代ローマの港町 オスティア・アンティカ研究の最前線』坂口明・豊田浩志編 勉誠出版 2017年2月
『中世ヴェネツィアの家族と権力』髙田京比子著 京都大学学術出版会 2017年2月
『カタルーニャ建築探訪 ガウディと同時代の建築家たち』入江正之著 早稲田大学出版部 2017年3月
『フルカラー メディチ家の至宝 驚異の工芸コレクション』松本典昭著 勉誠出版 2017年3月
『ヴェネツィアとラグーナ 水の都とテリトーリオの近代化』樋渡彩著 鹿島出版会 2017年3月
『外務官僚マキャヴェリ 港都ピサ奪還までの十年』澤井繁男著 未知谷 2017年4月
『水都ヴェネツィア その持続的発展の歴史』陣内秀信著 法政大学出版局 2017年4月
『マルセイユの都市空間 幻想と実存のあいだで』深沢克己著 刀水書房 2017年6月

図書ニュース

石井 元章『明治期のイタリア留学 文化受容と語学習得』吉川弘文館 2017年
倉科 岳志『イタリア・ファシズムを生きた思想家たち クローチェと批判的継承者』岩波書店 2017年

地中海学会大会 研究発表要旨
アルテミジア・ジェンティレスキとトスカーナ
川合 真木子

17世紀イタリアの女性画家アルテミジア・ジェンティレスキ(1593年-1654年以降)は,ピサ出身の画家オラツィオ・ジェンティレスキ(1563年-1639年)とローマ出身の女性プルデンティア・モントーニ(1575年-1605年)の娘としてローマに生まれた。父の工房で修業した後,結婚を機にフィレンツェに移住したが,その後ローマに戻り,ヴェネツィアを経て1630年以降ナポリを活動の拠点とした。

アルテミジアの画業は,ロベルト・ロンギの論考(1916年)以来,主にカラヴァッジェスキ研究の文脈で研究され,特にカラヴァッジズムに強く反応した前半生の作品は学術的興味の対象となってきた。また,1970年代以降,アルテミジアの再評価に重要な役割を果たしたフェミニズム美術史の文脈においても,前半生に描かれた力強いヒロイン像が評価される傾向が強かった。アルテミジアの後半生,つまりナポリ時代は,画家が成功をおさめた時期である反面,後世の学術的興味をさほど引いてこなかったといえる。

しかし,20年以上にわたるアルテミジアのナポリ時代は,この画家のキャリアの上で大変興味深い時期であると発表者は考える。アルテミジアは,なぜ係累のない南の大都市にこれほど長くとどまったのか。必ずしも政治的に安定しているとはいえないスペイン支配下のナポリにおいて,彼女はいかに生き抜き,かつ画家として成功をおさめたのか。

18世紀の伝記は,アルテミジアの墓がナポリのサン・ジョヴァンニ・デイ・フィオレンティーニ教会にあったと伝える。同教会は,ナポリにおけるフィレンツェ人コミュニティの中心的な場であった。ジェンティレスキ一族はトスカーナに出自を持ち,アルテミジア自身もフィレンツェ出身の夫と結婚して20代の大半をフィレンツェで過ごした。従って,彼女が生涯を通して頼ることのできたもののひとつがトスカーナ系の人脈であったと考えるのは,不自然ではないように思われる。実際,ナポリ時代に彼女がトスカーナ系の顧客を持っていたことは,既に知られている。しかし,画家とナポリにおけるフィレンツェ人コミュニティの関係については,これまで具体的な裏付けがなされることはなかった。

そこで,発表者はナポリ時代のアルテミジアとトスカーナ系の人脈,特にフィレンツェ人コミュニティとの関係を探るべく,史料調査を行った。調査対象としたのは,サン・ジョヴァンニ・デイ・フィオレンティーニ教会に所蔵されている洗礼者名簿と,ナポリ銀行歴史文書館に所蔵されている支払い記録である。前者によって,17世紀当時のフィレンツェ人コミュニティのメンバーを知り,アルテミジアの関係者がいるかどうかを確かめることが出来る。また後者によって,経済活動の側面から同コミュニティのメンバーと画家の関係を探ることが可能である。

結果として,発表者の発見した未刊行史料からは,以下の2点が裏付けられた。まず,サンジョヴァンニ・デイ・フィオレンティーニ教会の洗礼記録から,1610年代からアルテミジアのパートナーであったフィレンツェ貴族の男性,フランチェスコ・マリア・マリンギ(1593年-1653年以降)が,ナポリにおいてフィレンツェ人コミュニティに所属していたことが確認された。従って,画家自身もパートナーを介して,同コミュニティの人脈とつながっていた可能性が高いといえる。

次に,洗礼者名簿と1983年にエドゥアルド・ナッピによって報告されたアルテミジアへの支払い記録を対照したところ,ロレンツォ・カンビ(生没年不詳)とシモーネ・ヴェルツォーネ(?-1647年)という2人のトスカーナ系商人がアルテミジアへの注文を仲介していたことが判明した。この2人の商人は,1636年,リヒテンシュタイン公カール・オイゼビウス(1611年-1684年)が,アルテミジアの作品を買った際に支払いを仲立ちしており,これまでは単に顧客の代理人と考えられてきた。しかし,彼らがフィレンツェ人コミュニティに属していることから,むしろアルテミジアが顧客との取引に際し,「同郷人」の人脈を頼ったと見ることもできる。

未刊行史料が示すマリンギやカンビ,ヴェルツォーネといった人物との関係は,アルテミジアがサン・ジョヴァンニ・デイ・フィオレンティーニ教会を中心とするフィレンツェ人コミュニティの人脈を活用していた可能性を示唆するものである。トスカーナ系の人脈は,ナポリにおける彼女の職業的成功を支えた重要な要素のひとつといえるのではないだろうか。

地中海学会大会 研究発表要旨
「朝のうた」mattinataの魅惑
横山 昭正

Ⅰ.「マッティナータ」mattinataの再評価
「マッティナータ」mattinataは「セレナータ」serenataのようには一つのジャンルとして認められていない。

翻って,serenataはまずフランス語に「セレナード」srnadeの形で移入され(初出=1556),ついでSerenade〔独〕・serenade〔英〕に受け継がれる(17世紀中葉)。一方でmattinataは英・仏・独・西・葡の辞書にはない。おそらく「マッティナータ」というジャンルはイタリア以外の欧米諸国では確立していない。畑中良輔によれば,トスティの“Mattinata”も「開けておくれ」Apri! も夜明け前のセレナードである(『トスティ歌曲集 2』全音楽譜出版,1993, p.180)。要するに「マッティナータ」は「セレナータ」の一種に過ぎないとみなされている。

夜明け前,歌い手は恋人の眠る部屋の窓の下から「起きて! ついておいで,爽やかな自然の中へ」と歌いかける。セレナータの場合,「共に出かけよう」と誘うことは殆どない。 歌われるのは朝の光,花と遊ぶ蝶や蜂,鳥の声,朝露に濡れた草原や森。よく4月と結びつけられる。大抵は軽快なテンポで,曲調は清爽である。

あらためてmattinataに関する文献を欧米の主要な図書館で検索したところ,公刊された研究論文は見当たらない。楽譜と曲目解説は数多いが,レオンカヴァッロの“Mattinata”に関するものがほとんどである。

本発表の趣旨は「朝のうた」mattinataを独立したジャンルとして認めることである。これまで筆者が「マッティナータ」とみなしているのは,次の16曲である。

ロッシーニ(1792-1868)「空に曙光がほほえみ」(『セビリャの理髪師』第1幕第1場(1816)/グノー(1818-93)「おいで,芝生は緑だ」Viens! Les gazons sont verts!(1875)・「四月の歌(『行きずりの人』のセレナード)」Chanson d’Avril〔=Srnade du Passant〕(1872, 同じ歌詞にマスネーも作曲)・「Chanson de Printemps(春の歌)」・「Le premier jour de mai(五月一日)」/フォスター(1826-64)「金髪のジェニー」Jeannie With the Light Brown Hair(1854)/ビゼー(1838-75)「四月の歌」Chanson d’avril(1866頃, 詩=ブイエ)/トスティ(1846-1916)「マッティナータ」Mattinata(1895)・「第二のマッティナータ」Seconda mattinata(1903, カルーソーに献呈)・「お前なしで」Senza di te!・「四月」Aprile・「春」Primavera・「開けておくれ!」Apri!/レオンカヴァッロ(1857-1919)「マッティナータ」Mattinata(1903, 詩=レオンカヴァッロ)/レスピーギ(1879-1936)「マッティナータ」Mattinata(『6つのメロディー』第3曲,1906)/チマーラ(1887-1967)「マッティナータ」Mattinata(『5つの抒情歌』Ⅰ-4, 1914)

Ⅱ.名歌手たちのマッティナータ
〔歌詞の邦語訳はすべて筆者による/原詩は省略〕

1)レオンカヴァッロ「マッティナータ」Mattinata 歌:カルーソーEnrico Caruso(1873-1921)
「白いガウンをまとった夜明けの女神が/もう大きな太陽に向かって扉をあけ/バラ色の指で花たちを愛撫している[・・・]君がいなければ光はかげり/君がいれば愛が生まれる」(1899年頃)

ここにはマッティナータの要素のほとんどが見られる―「夜明け(の女神)」l’aurora・「太陽」・「花たち」・「愛(の神)」l’amor(=クピド;エロス)など。

この歌は,献呈された伝説のテノール,カルーソーが1903年に作曲者自身のピアノ伴奏で創唱・録音して以来,名歌手たちに愛唱されてやまない。

2)トスティ「マッティナータ」Mattinata 歌:ベルゴンツィCarlo Bergonzi(1924-2014)
作曲は1895年,レオンカヴァッロの曲より4年前であるが,後者ほどは知られていない。なお,トスティは1903年に「第二のマッティナータ」Seconda mattinataを作曲し,カルーソーに献呈している。レオンカヴァッロへの対抗意識もあったのではなかろうか。

3)グノー「おいで,芝生は緑だ!」Viens! Les gazons sont verts! 歌:ラプラントBruno Laplante(1938-)
「眠っているのなら,少女よ/起きて,ほらお日様だ[・・・]目覚めの時間だよ!/ついておいで[・・・]」

この歌は1875年,トスティの「マッティナータ」より20年前に作曲されている。

4)ビゼー「4月の歌」Chanson d’avril 歌:ゲッダNicolai Gedda(1938-)
「起きて!起きて!ついさっき春が生まれたから!/遠く谷間の上に,真紅の霞がたゆたっている![・・・]森に眠っていた愛の神が目を覚ましたよ![・・・]」

作曲は上記のグノーの歌より20年ほど前(1866年頃)である。今後の課題は,イタリア・フランス以外の国の歌曲を対象にマッティナータを見つけ出すことである。

南フランス田舎町に残るキュベレー信仰の痕跡
――レクトゥール出土タウロボリウム碑文より――
長谷川 敬

多くのフランス人がヴァカンス明けを前に吐息を漏らしていたであろう昨年8月末。筆者は本村凌二早稲田大学特任教授が代表者を務める科研費の研究協力者として,トゥールーズに滞在していた。同市を基点に周辺地域に点在する帝政ローマ期都市遺構やウィッラ遺跡での現地調査を行うためである。その一環で我々は,トゥールーズの北西,車で1時間半の距離にあるレクトゥール(Lectoure)の街を訪れた。この街は,帝政期ラクトラテース族共同体(civitas)の首邑ラクトラ(Lactora)に直接的な起源をもつ。帝政末期には司教座も置かれるなど地域の中心として一定の重要性を帯びる都市ではあったが,見るべき古代遺跡はごく僅かで,一見するとあえて足を延ばすほどの街には見えない。ところが,宗教面に限れば,古代史家にとってこの街は,「ガリアの首都」リヨン(ルグドゥヌム)にも比肩しうるほどの重要な意味をもつ。その理由が,レクトゥールで発見された女神キュベレー信仰の重要儀式タウロボリウムに伴い奉納された22基の碑文付祭壇(CIL, XIII, 504-525(= ILA, Lectoure, 3-24. 但しCILと一部収録順が異なる))である。小アジア起源の大地母神キュベレーの信仰は,ローマ世界には第二次ポエニ戦争も終盤の前204年,国家ローマの招聘によりキュベレーの御神体が小アジアからローマに遷座したことによりもたらされた。当初は様々な制限を課されていたが,帝政期に入ると皇帝家の保護を受けてアッティス信仰と共に公認され,2世紀にはガリアを含む帝国西方にも広まることとなる。

前述の22基の祭壇の大半は,1540年頃,サン・ジェルヴェ大聖堂内陣の改修工事の際に発見されたものである。22基のうち現存する20基が,考古学博物館(館内での写真撮影には事前許可必要)で展示されており,いずれも保存状況は良好である。ちなみにこの20基という数は,タウロボリウム関連の碑文コレクションとしては,首都ローマのそれに次ぐ規模である。祭壇には奉納者が刻ませた碑文がはっきりと残り,キュベレーを表す「偉大なる母」または「神々の母」に祭壇を捧げること,そして奉納者が自前で用意した犠牲獣(おそらく牡牛)で以ってタウロボリウム(原文ではtauropolium)を執り行った(fecit(-erunt))または授かった(accepit)ことが主に記されている。タウロボリウムの儀式は,当初は特定の神格と結びついたものではなく,後2世紀にイタリアの港湾都市に伝わった後キュベレー信仰に取り込まれた。実際,レクトゥールの祭壇も全て2世紀後半から3世紀前半に奉納されている。さてこの儀式,HBOなどが制作したテレビドラマ『ローマ』でその異様で血生臭い光景をご覧になった方もいるだろう(ちなみにドラマの時代設定は共和政末期)。神官が生きた牡牛を屠り,その流れ出た鮮血を信者が全身で浴びるのである。こうして信者はその後長きに亘り神聖な人生を送れるものとされた。この儀式のために信者は犠牲獣の購入など少なからぬ出費を強いられたが,興味深いことに,祭壇奉納者(祭壇1基を複数人で奉納する場合含む)のうち男性が4名であるのに対し,女性は18名を数える。これについては,女人禁制であったミトラス教密儀の代わりにキュベレーに帰依したとする仮説も提示されているが,真偽は不明である。一方,2基の祭壇はラクトラテース族またはその都市参事会によってキュベレーに奉納され,さらに付随する碑文からは,部族,参事会それぞれが皇帝本人や皇帝一家,または部族のためにタウロボリウムを行ったことが知られる。都市当局などが宗教祭儀を執り行うことは決して珍しいことではないが,コミュニティーにおけるキュベレー信仰の定着度と公的祭儀としてのその重要性は,注目に値するだろう。その背景として,少なくとも1世紀末から2世紀前半,レクトゥールに駐在し周辺の皇帝領を管轄したであろう財務官吏の存在(CIL, V, 875 ; XIII, 528)が,何らかの形で影響しているのかもしれない。

さて,ここまで筆を進めてふと脳裏に浮かぶのは,2012年9月末,やはり本村教授と共にマドリッドのラス・ベンタス闘技場で見た闘牛である。確かに,近代スペイン闘牛,またはその起源とされるスペイン各地の民衆祭事については,キュベレー信仰よりもミトラス教における豊穣の牡牛屠りとの共通点を指摘すべきかもしれない。しかし,初期のタウロボリウムは,一種の生贄や闘牛の性格を帯びていたようでもある。いずれにせよ,筆者はこれ以上の詳細な知識を持ち合わせないため,素人の妄想はこの辺でやめておこう。しかし,観戦を終え,闘牛場の外に出たとき,息絶えた牡牛が引きずられていった際に残したのであろう,鈍く光る血の上を歩いたことが今不思議と思い出される。その時の半ば怯えにも似た感情は,タウロボリウムを受けたレクトゥールの人々には無縁だったのだろうか。静まり返った博物館で奉納祭壇と向き合ったとき,もっと耳を澄ませば彼らの本音が聞こえてきたのかもしれない。

日伊修好150周年を機に
原田 亜希子

2016年は日伊修好150周年という大きな節目の年であったことから,両者の文化交流のための様々なイベントが行われた。例えば東京では,ボッティチェッリ展やカラヴァッジョ展など,錚々たる顔ぶれの展覧会が次々に開催され,日本にいながらこれらの画家の作品を見ることができる貴重な機会となった。

その中でも特に印象的だったのが,東京国立博物館で開催された「天正遣欧少年使節伊藤マンショの肖像」の特別公開である。1582年に九州のキリシタン大名の名代として4人の少年がヨーロッパに派遣されたことはよく知られている。天正遣欧使節を外交使節とみなすか否かは研究者の間で意見が分かれるが,少なくとも当時のイタリアに使節が与えたインパクトは大きく,彼らが日本とイタリアを結ぶ最初の交流であったことは間違いない。今回公開された伊藤マンショの肖像は,使節が1585年にヴェネツィア共和国を訪問した際に,セナートがヤコポ・ティントレットに発注したものであり,ヤコポの死後,息子ドメニコが作成した。セナートは当時火災によって損害を受けたドゥカーレ宮の装飾のために肖像画を発注したと考えられ,遠き日本からの「大使」の肖像はヴェネツィア共和国の威信を表明する絶好の題材だったのだろう。残念ながら当初の予定からは大きく縮小され,最終的に伊藤マンショ単独の肖像画として完成された。白い襟飾りに包まれたマンショの顔立ちからは,正直日本人というよりも西洋人である印象を受ける。とはいえ,薄い口髭は,若さと同時に西洋人に比べて体毛の薄い日本人を思わせるし,また黒い眉毛や瞳からはどことなく東洋の香りを感じる気もする。長らく史料上でしか確認されていなかった本作品の発見が,2014年にミラノのトリブルツィオ財団によって発表された。以来待望の日本初公開が,満を持して2016年に実現したのである。日伊修好条約が結ばれるよりもはるか前から日伊の交流が存在していたことの証である本肖像画は,まさに記念の年にふさわしいものであった。

なお,同じく天正遣欧使節関連で史料上でのみ確認されているものとして思い出されるのが,織田信長が狩野永徳に描かせた「安土城屏風」である。教皇グレゴリウス13世に献呈された屏風の消息に関しては,これまで多くの調査が行われてきた。私も以前に旧安土町より連絡をいただき,同地を訪れたことがある。安土城跡や,安土城郭資料館などを案内していただき,地元の方々の屏風の発見への期待を強く感じた。一日本人として屏風の発見を心から願うが,その一方で16世紀のローマ史研究者としては,その道行は険しいといわざるを得ない。屏風はヴァチカンの地図の間に置かれたことが確認されているが,その後地図の間では大幅な改修工事が行われている。また近世のローマでは教皇の交代の際,“Saccheggio rituale”とよばれる略奪行為が行われた。特に16世紀末は在位の短い教皇が続いたことから,屏風が略奪の対象となった可能性も容易に想像される。とはいえ,現存する可能性はゼロではない。伊藤マンショの肖像のように,どこかのコレクションに残っている可能性は否定できないし,ヴァチカンの膨大なコレクションの中に眠っている可能性も考えられる。

実際,近年ヴァチカンから見つかった例もある。それが2011年にヴァチカン図書館で発見された1万点以上に及ぶ切支丹統制に関する資料群である。これは昭和初期に来日したサレジオ会のイタリア人神父マリオ・マレガが大分で集めたものだ。この発見を受け,2013年に日伊の機関・研究者が参加してマレガプロジェクトが発足した。プロジェクトは資料の概要調査,目録作成,画像のウェブ公開を目指すだけでなく,日本の修復技術普及のためのワークショップの開催など,現在日伊において精力的に活動している。幸運にも私は,ヴァチカン図書館修復ラボで行われた概要調査に参加する機会を得た。日本人でありながら近世の日本文書を読めないことに歯痒さを感じながらも,興味深かったのは資料とともに発見されたマレガ氏のメモである。メモからは資料のローマ字書き下しや内容の翻訳など,彼の研究者としての活動が垣間見える。時にはイタリア語と日本語が混在し,特に画数の多い漢字を避けるためにイタリア語を使用している点には,親近感を覚える。もし彼が資料をヴァチカンに送っていなければ,大戦の戦火で消失していたであろうことを考えると,現在日伊の研究者が共同で研究を進めていることは感慨深い。と同時に,イタリア人として切支丹史を研究したマレガ氏の功績は,日本人研究者としてイタリア史を研究する身にとって希望を与えてくれるように感じた。

気が付けば日伊の最初の交流から,近年のヴァチカンの研究者の交流までずいぶん話が飛んでしまったが,個人的にも両国の交流の歴史を振り返る機会に恵まれた日伊修好150周年は,日本人としてイタリアを研究する意義のようなものをふと考えさせられる年であった。

「われら失いし世界」のコレクション
大平 雅巳

昨秋,長野県信濃美術館で「西洋民藝の粋――生活を彩る道具たち――村田コレクションから」という展覧会が開かれた。展示されたのは,15世紀から19世紀にかけてのヨーロッパ各地の陶器のジャグや壺・皿,ネーデルラントのナイフ,ガラスの杯やパイ生地をのばす棒,木製の菓子型や糸巻き,金属製の暖炉周りの道具やベッドウォーマー,錠と鍵,デルフトや各地のタイルなど,さまざまな生活道具およそ160点余りであった。中には17世紀ベルギーの巡礼用の水筒やら,北欧の木製彩色くびきなど,日本ではめったに見られないものが数多くある。

収集されたのは,村田新蔵さんと夫人の洋子さん。昭和5年,埼玉県春日部市に生まれた村田さんは,若い頃から美術や哲学を志したが,大学進学はかなわず,家業の製パン業のかたわら,独学でベルグソンやハイデガーなどの書物を読破しつつ,現代文明についての思索を深めていった。そして,ロシア文学に傾倒していた洋子さんと結ばれた。

おふたりが収集を始めたのは昭和36年頃と聞く。村田さんは,明治以降,欧風近代化を進めた日本が,とくに敗戦後,西洋化をいっそう加速し,物質主義・効率主義に偏り,人間性を喪失しつつあるような世相を見つめながら,現代日本の諸問題を解決する手がかりは,産業革命以前のヨーロッパの暮らしの中に見出せるとの確信に至った。それも王侯貴族や権力者ではない,一般庶民の暮らしの中にこそあるとの思いから,「われら失いし世界」を再現すべく,生活道具の収集を始めたのであった。

しかし,村田さんはけっして資産家でも事業家でもなかった。質素な暮らしの中で,洋子さんの献身に支えられながら,こつこつと収集を続けた。そして昭和47年,春日部駅前に内装もすべて手作りの「生活工芸資料館」という,小さな,しかしとても魅力的な空間を創り,公開した。ここを訪れる人たちが一杯のコーヒーや紅茶を味わいながら,近代以前のヨーロッパにかつてあった生活道具に囲まれ,その語りかける声に耳を傾け,現代文明が失いつつあるものや,人間性の本質のようなことを感じ取ってほしいと願ってのことだったと思う。

ちょうどそのころ,仕事の必要に迫られて西洋陶磁を勉強し始めた私は,毎週末のようにこの資料館を訪ねた。クラシックが静かに流れる不思議な空間で,サヴォナローラ型の椅子に腰掛け,洋子さんの煎れてくれるコーヒーをいただきながら,村田さんが一点ずつ出してきてくれるやきものを実測させていただいた。村田さんのお話はつねに興味深く,帰りには4万冊に及ぶ蔵書から参考図書を拝借した。やがて村田さんは「海外美術研究所」を立ち上げて,同好の士を集い,西洋美術工芸誌『カロス』(創樹社美術出版)の編集を始めた。ギリシア語の「よい」という意味の『カロス』は,残念ながら数年で廃刊となったが,そこには村田さんの含蓄に富む文章とともに収集品が数多く掲載されている。私事ながら,毎号1頁を与えられて四苦八苦したのが,私の西洋陶磁に関する拙文の始まりであった。

しかし昭和62年,春日部駅前の区画整理にともない,生活工芸資料館は閉鎖を余儀なくされる。地元に残ってほしいとの声もあったが,村田さんの思想に共鳴し,ヨーロッパの庶民生活を再現するような美術館の建設という提案までしてきた長野県豊科町(現 安曇野市)の熱意にほだされ,村田さん夫妻は故郷を離れ,膨大な収集品とともに信州へ居を移した。当初はここに,中世修道院風の回廊をもつ施設をつくり,その随所にヨーロッパ各地の民家を再現展示していくという構想であった。

しかしその後,行政側の姿勢は変わり,村田さんとの理念の相違から当初の計画は実行されることなく,コレクションも日の目を見ることなく長い歳月が流れた。不本意にも不自由な生活を強いられたまま,村田さんは平成20年に78歳の生涯を閉じる。その後,苦しい生活の中,地元の支援者に支えられたとはいえ,収集品を一点も散逸させることなく守ってこられた洋子さんのご苦労は想像に余りある。

ようやく,「村田コレクション」の名で公開が始まったのが,冒頭に記した展覧会である。そしてこの4月,同館から,『村田コレクション資料目録』が出版された。収録されているのはおよそ1600点。4000点を超える村田コレクションから見れば半分に満たないが,掲載されているヨーロッパの生活工芸品の幅広さと質の高さ,そして美しさは国内屈指である。ここには,「大量消費」「使い捨て」とは無縁の暮らしがあり,家族の歴史と温もりがある。村田夫妻が目指していた「われら失いし世界」が,愛惜とともに胸にせまってくる。

今,村田コレクションをはじめ,日本に残るウィンザー・チェアの優品を集めた特別展が,駒場の日本民藝館(11月23日まで)で開催されている。この秋,ぜひご高覧いただきたい展覧会である。

表紙説明

地中海世界の〈城〉6:エジプトの城砦集落カスル(ダハラ・オアシス)/岩崎 えり奈

エジプトでは城砦集落をあまりみかけないように思われる。実際,城(砦)はアラビア語でカスルと言うが,エジプトの行政区分の町・村名で数えたところ,このカスルを名前にもつ集落は,複数形のルクソールを含め,エジプト全土でおよそ5000ある町・村のうちのたった21であった。しかもカスルの多くは館(城)の意味で使われている。

城砦集落がかつて多かった数少ないエジプトの地域は西部砂漠(リビア砂漠)である。西部砂漠には5つのオアシス群があり,古代の時代からスーダンをエジプト,地中海と結んでいた隊商路ダルブ・アルバイン沿いのハルガ・オアシスに城砦集落がとりわけ多かった。街道沿いには,カスルを名前にもつ遺跡が多く点在する。

ダハラ・オアシスにも城砦集落がいくつかある。アイユーブ朝期に建設されたカスル,カラムーン,ブドゥフル,マムルーク朝期に建設されたムート,バラートである。カスルは,その名の通り,西方や南方からの遊牧民の襲来を防ぐために,砦で囲み高台のローマ時代の遺構上にアイユーブ朝期の12世紀に建設された集落である。

現在のダハラ・オアシスはカイロからバハリーヤ,ファラフラ・オアシス経由,またはアシュートからハルガ経由でしか辿り着くことができず,ナイル川流域からみて辺境にある。しかし,地下水に恵まれ,小麦などの農産物が豊富であったダハラ・オアシスは農産物を求めてナイル峡谷の諸都市から商人が往来し,南方や西方から遊牧民がしばしば襲来という形で訪れる農業センターであると同時に,いくつもの隊商路が交差しナイル川とアフリカを結ぶ要衝の地でもあった。その中心だったのが,ダハラ・オアシスの西側のカスルと東側のバラートである。

カスルの旧市街は,夜になると門を閉じる複数の街区に分かれ,細い通りと路地,4階や5階建ての住宅が密集するイスラーム都市に特有な構造を現在も保っている。旧市街のランドマークは12世紀に建てられたとされるナスルッディーン・モスクであり,高さ21メートルのミナレット(表紙写真右側)が目印である。モスクは19世紀に再建されたものだが,ミナレットは12世紀当時の形を留めている。そのすぐ横には,マドラサがあり,現在も使われている。さらにその隣には,プトレマイオス王朝期の神殿跡に建てられたとされる邸宅があり,アーチ型の廊下や木彫を施したドアをみることができる。そのすぐ近くには,法廷や広場などの公共施設が並んでいる。

20世紀後半以後の砂漠開発とともに,城砦集落はハルガ・オアシスでは消滅した。西部砂漠で昔の城砦集落の景観を保っているのはダハラ・オアシスのカスルとバラートだけである。史跡保存区域に指定されているので城砦集落の街並みがなくなる恐れはないが,この2つの集落においても,周辺には新しい住宅が増え,昔の景観が失われつつある。本年8月に表紙の写真を撮った際にも,周辺の住宅が写らないように撮影するのに苦労した。