地中海学会月報 MONTHLY BULLETIN

学会からのお知らせ

第41回地中海学会大会

6月10日(土),11日(日)の2日間,東京大学本郷キャンパス法文2号館1番大教室(文京区本郷7-3-1)において,第41回地中海学会大会(設立40周年記念大会)を開催した。会員180名,一般35名が参加し,盛会のうち会期を終了した。会期中1名の新入会員があった。次回は2018年6月9日(土),10日(日),三重県新宮市で第42回大会を開催する予定です。

6月10日(土)
開会宣言 13:00~13:05 山田幸正氏
挨拶 13:05~13:15 青柳正規氏
記念講演 13:20~14:20How to Write the History of the Mediterranean
デイヴィッド・アブラフィア氏
地中海トーキング 14:35~16:35
「地中海学会の40年」パネリスト:樺山紘一/木島俊介/陣内秀信/武谷なおみ/司会:末永航 各氏
授賞式 16:50~17:15「地中海学会賞」「地中海学会ヘレンド賞」
地中海学会総会 17:15~17:45
懇親会 18:00~20:00 [カポ・ペリカーノ]
6月19日(日)
研究発表 9:30~12:40
「古代エジプト,クフ王第2の船の船体上部における木造技術について」柏木裕之氏/「古代末期美術におけるエジプト・トレードマーク図像の可能性―ヴィア・ラティーナ・カタコンベ壁画の図像生成」宮坂朋氏/「レモンから見る中世地中海世界の食生活の特質―12世紀アイユーブ朝サラディンの宮廷医イブン・ジュマイウ『レモンの効能についての論考』を中心に」尾崎貴久子氏/「モデナ大聖堂ファサード彫刻図像―古代の大理石再利用と図像の関係をめぐって」桑原真由美氏/「アルテミジア・ジェンティレスキとトスカーナ」川合真木子氏/「『朝の歌』mattinataの魅惑」横山昭正氏
シンポジウム 13:30~16:40
「地中海学の未来」パネリスト:新井勇治/片山伸也/貫井一美/畑浩一郎/藤崎衛/司会:小池寿子 各氏

第41回地中海学会総会

第41回地中海学会総会(石川清議長)は6月10日(土),東京大学本郷キャンパス法文2号館1番大教室で下記の通り開催された。審議に先立ち,議決権を有する正会員503名中(2017.6.8現在)490名の出席(委任状出席を含む)を得て,総会の定足数を満たし本総会は成立したとの宣言が議長より行われた。2016年度事業報告・決算,2017年度事業計画は原案通り承認され,予算は一部修正のうえ承認された。2016年度事業・会計は大髙保二郎・木島俊介両監査委員より適正妥当と認められた。

議事
一,開会宣言
二,議長選出
三,2016年度事業報告
四,2016年度会計決算
五,2016年度監査報告
六,定款の一部改定
七,2017年度事業計画
八,2017年度会計予算
九,役員改選
十,閉会宣言

2016年度事業報告(2016.6.1~2017.5.31)
I 印刷物発行
1. 『地中海学研究』XL発行 2017.5.31日発行
「オウィディウス『変身物語』における叙事詩と非叙事詩の混交―序歌,オルペウスの物語,アラクネーの織物」河島思朗/「主の祈りにおけるパン―ἐπιούσιοςとsupersubstantialis」井阪民子/「ダンテにおける《太陽と月の比喩》」星野倫/「『エルサレム解放』の分離型の直接話法―行の途中から始まるタイプの文形態と効果について」村瀬有司/「フランチェスコ・ボッロミーニによるローマのオラトリオ会における礼拝堂の領域の計画」岩谷洋子/「ジュゼッペ・ヴェルディのオペラ《リゴレット》(1851)における作劇法―《ヴァンドーム公》(1850)を手がかりとして」園田みどり/「地中海宮の誕生―戦間期フランス近代建築の大作」三田村哲哉/「研究動向18世紀イタリアにおける土地台帳編纂研究の射程―ヨーロッパ政治の中の啓蒙改革」大西克典/「書評 樋渡彩+法政大学陣内秀信研究室編『ヴェネツィアのテリトーリオ 水の都を支える流域の文化』」片山伸也/「書評 大髙保二郎著 大髙保二郎古稀記念論文選『スペイン 美の貌』」貫井一美
2. 『地中海学会月報』 391~400号発行
3. 『地中海学研究』バック・ナンバーの頒布
II 研究会,講演会
1. 研究会
「ドラクロワ作《キオス島の虐殺》におけるギリシア人をめぐって」湯浅茉衣(7.23)/「ルネサンス期フィレンツェにおける〈異端〉の争点―ボッティチーニ《パルミエーリ祭壇画》をめぐる関連史料の検討を通して」秦明子(10.15)/「「ヴェローナ・カピトゥラリアCapitulare Veronense(967年)」からみる北イタリアの法文化」柴田隆功(12.17)/「13世紀末ビザンツ政治史を巡るクロノロジーの再考」佐野大起(2.18)/「熊野への誘い―建築史家と美術史家が聖地で見出したことども」松﨑照明・秋山聰(4.15)会場はすべて首都大学東京 秋葉原サテライトキャンパス
2. 連続講演会(休会中)
III 賞の授与
1. 地中海学会賞授賞 副賞 東横イン宿泊券(株式会社東横イン提供)受賞者:星商事株式会社
2. 地中海学会ヘレンド賞授賞 副賞 受賞記念磁器皿「地中海の庭」(星商事株式会社提供)受賞者:安岡義文
IV 文献,書籍,その他の収集
1.『地中海学研究』との交換書:『西洋古典学研究』『古代文化』『古代オリエント博物館紀要』『岡山市立オリエント美術館紀要』Journal of Ancient Civilizations
2. その他:寄贈図書は月報にて発表
V 協賛事業等
1. NHK文化センター講座企画協力「地中海世界・人々の暮らし:祈りの場」
2. 同「地中海・人々の暮らし:水の物語」
3. 同「地中海:神話・伝承を紡ぐ」
4. NHK文化センター講座[Jシニアーズアカデミー]企画協力「世界遺産の中に歴史と文化を探る」
5. ワールド航空サービス知求アカデミー講座企画協力「地中海学会セミナー:地中海世界への誘い」
VI 会 議
1. 常任委員会 5回開催
2. 学会誌編集委員会 3回開催,他Eメール上にて
3. 月報編集委員会 1回開催,他Eメール上にて
4. 大会準備委員会 Eメール上にて
5. 大会準備委員会・実行委員会(合同) 3回開催,他Eメール上にて
6. ウェブ委員会     Eメール上で逐次開催
7. 賞選考小委員会 1回開催,他Eメール上にて
8. 将来構想委員会 4回開催
9. 役員候補推薦委員会 Eメール上にて
VII ホームページ
URL= http://www.collegium-mediterr.org
「設立趣意」「役員紹介」「活動のあらまし」「入会のご案内」「NEWS」「事業内容」「『地中海学研究』」「地中海学会月報」「地中海学会の出版物」「図書紹介」「写真で綴る旅」
VIII 大 会
第40回大会(於首都大学東京 南大沢キャンパス 11号館204教室)
IX その他
1. 名誉会員の推薦:桐敷真次郎氏,久保正彰氏,高階秀爾氏,福本秀子氏を,本会における長年の功労により,名誉会員に推薦した(定款第10条)。
2. 新入会員:正会員15名;学生会員7名
3. 学会活動電子化の調査・研究

2017年度事業計画(2017.6.1~2018.5.31)
I 印刷物発行
1. 学会誌『地中海学研究』XLI発行 2018年5月発行予定
2. 『地中海学会月報』発行 年間約10回
3. 『地中海学研究』バック・ナンバーの頒布
II 研究会,講演会
1. 研究会の開催 年間約6回
III 賞の授与
1. 地中海学会賞
2. 地中海学会ヘレンド賞
IV 文献,書籍,その他の収集
V 協賛事業,その他
1. NHK文化センター講座企画協力「地中海:神話・伝承を紡ぐ」
2. NHK文化センター講座[Jシニアーズアカデミー]企画協力「バロック世界の輝き」
3. ワールド航空サービス知求アカデミー講座企画協力「地中海学会セミナー」
VI 会 議
1. 常任委員会
2. 学会誌編集委員会
3. 月報編集委員会
4. 大会準備委員会
5. ウェブ委員会
6. 将来構想委員会
7. そ の 他
VII 大 会
第41回大会(設立40周年記念大会)(東京大学) 6.10~11
VIII その他
1. 賛助会員の勧誘
2. 新入会員の勧誘
3. 学会活動電子化の調査・研究
4. 展覧会の招待券の配布
5. その他

論文募集

『地中海学研究』XLI(2018)の論文・研究動向および書評を下記のとおり募集します。
論文・研究動向 32,000字以内
書評 8,000字以内
締切 2017年10月末日(必着)
投稿を希望する方は,テーマを添えて9月末日までに事前に編集委員会(j.mediterr@gmail.com)へご連絡下さい。「執筆要項」をお送りします。本誌は査読制度をとっています。

定款の一部改定

第41回総会において定款の一部改定(新たな会員種別の導入)が決まりました。
定款は下記の通り変更されます(下線部分を改定)。
第6条 本会の会員は,下記の六種とする。
1.正会員,2.シニア会員,3.準会員,4.学生会員,5.賛助会員,6.名誉会員
第8条 シニア会員,準会員,学生会員は,本会の目的に賛同し,常任委員会の承認を経たものとする。
2.シニア会員,準会員,学生会員の入会金,会費は別に定める。
新たな会員種別(シニア会員,準会員)の要件,会費,細目については追ってお知らせします。

新役員

第41回総会において下記の通り新役員が選出されました(再任を含む)。
会   長:本村 凌二
副 会 長:小佐野重利 渡辺 真弓
常任委員:秋山  聰 新井 勇治 飯塚 正人 石井 元章 岩崎えり奈 太田 敬子 片山 伸也
加藤  玄 亀長 洋子 小池 寿子 児嶋 由枝 島田  誠 末永  航 杉山晃太郎
高田 和文 鶴田 佳子 貫井 一美 畑 浩一郎 飛ヶ谷潤一郎 益田 朋幸 水野 千依
師尾 晶子 山田 幸正 山辺 規子

10月研究会

テーマ:スペイン映画「オール・アバウト・マイ・マザー」の女性表象とスペイン・地中海文化性
発表者:矢田 陽子氏
日 時:10月14日(土)午後2時より
会 場:首都大学東京 秋葉原サテライトキャンパス
(東京都千代田区外神田1-18-13秋葉原ダイビル12階)
参加費:会員は無料,一般は500円
スペインを代表する映画監督ペドロ・アルモドバルの作品で,2000年にアカデミー賞最優秀外国語映画賞を受賞した「All about my mother」の女性表象を,地中海の古代神話に存在し「母なるものの原型」とされる「大いなる女神」の象徴性と,スペインの特徴とされる「聖母マリア崇拝」の二点から分析し,この二つの観点が如何に現代スペインの女性アイデンティティに影響しているのかを明らかにしていく。

事務局夏期休業期間:8月1日(火)~9月1日(金)

地中海学会大会 研究発表要旨
古代エジプト,クフ王第2の船の船体上部における木造技術について
柏木 裕之

1954年,エジプト,クフ王のピラミッド南脇から東西に並ぶ2基の石列が見つかった。石列は岩盤を穿った浅い竪坑(船坑)を覆う蓋石として据えられ,東側の石材を取り除いたところ,解体された木造船が当時の状態を保ったまま納められていた。一方,西側の石列はそのまま残されたが,同様の木造船が納められていることが強く予想され,東側の船を「第1の船」,西側の船を「第2の船」と便宜的に呼び分けられた。

第1の船は発見後,部材の取り上げ,再組み立てが試みられ,現在太陽の船博物館に復原,展示されている。一方蓋石で覆われた第2の船は,小型カメラによる内部撮影の結果木材の劣化が確認され,早急な保存措置が求められたことから,木造に強い日本に要請が届いた。

2008年,エジプト日本合同調査隊(日本側代表:吉村作治東日本国際大学学長)が組織され,第2の船保存復原プロジェクトが開始された。2011年には蓋石が取り上げられ,2013年秋からは木材の取り上げ,修復作業が本格的に始められた。作業は現在も精力的に進められている。

第2の船の木材は劣化が進んでおり,例えば複数の木片から構成されたパネル状の部材の場合,木片1点ずつにばらして取り上げられた。その後,湿度の安定化が図られ,変形やゆがみの矯正,接合などの修復措置が施された。部材の実測は木片1点ごとに行われ,船坑内の状態を参照しながら図上で元の部材の形に復元された。

第1の船では,船坑内の上方に船体上部を構成するパネル状の部材が重ねられ,その下には船体本体の大型部材が据えられていた。解体されてはいるが,当初の船の形状を反映した納め方であったことが了解される。同様の傾向は第2の船でも認められ,上方の木材は船体上部の部材であったと想定された。2017年2月末の時点で上方のパネル状部材を概ね取り上げることができ,船体上部の様相を包括的に検討できる環境が整った。本発表は船体上部を構成する甲板(床板)および甲板室を中心に,様式および木造技術について報告したものである。

これまでの調査研究の結果,第2の船の船体上部には甲板(床板)が張られ,箱状の甲板室が中央やや後ろ寄りに,船の先端には船首楼が据えられたことが明らかとなっている。いずれの規模,形状,構造も隣接する第1の船と酷似しており,両者の関係が興味を惹く。

甲板室の壁,扉,天井は薄い板を並べたパネル状をしており,側壁は5枚のパネルから構成されている。それぞれのパネルは,框のように四周を額縁で囲み,枠内に板を縦に嵌め外側から2本の横桟で押さえる構造を採っている。周囲の枠同士や羽目板の上下端は(ほぞ)と木栓で留められ,板同士は角だぼで接合された。板に直交して渡された横桟は2本一対の木釘で留められていた。板同士を角だぼでつなぎ,直交する横桟を木釘で留める方法は扉や天井でも認められた。甲板では角だぼに加え,紐で桟木に留められていた。
紐はパネル同士の接合にも使われた。木栓で堅固に留めることをせず,紐で縛られていたことは,解体を想定していたことを窺わせ注目される。

また両開きの扉では,接合面に段差を設け,互いにかみ合う相じゃくりが作られたほか,相(あい)欠きや大入れ,殺(そ)ぎ継ぎ,渡りあごなど継ぎ手,仕口の基本的な技術が見られ,既にこの時代に確立していたことが確認された。

角だぼで数枚の板を繋いだ板パネルについて,角だぼの位置に着目して検討を試みた。例えば甲板室側壁の板パネルでは,端の板だけ角だぼの数が異なるケースや,角だぼが備えられていない場合があった。こうしただぼ数の不一致は,ある大きさの板パネルがすでに作られ,必要な大きさを満たすために板が付け加えられた結果生じたと考えられる。逆にいえば,最終的な大きさが決まってから板パネルの製作が開始されたのではなく,板パネルは別途,先行して作られていた可能性が高く,一種の分業体制が敷かれていたことが察せられよう。

同様の現象は扉板や天井板でも認められ,特に後者では角だぼの位置で板が切断され,角だぼの役割を果たしていない板があった。板を押さえる横桟の位置も縁に寄っており,当初大きめに作られていたが,設置段階で切り落とされたと推定される。それはまた,解体された状態で見つかった木造船は実際に組み立てられたことを示す証左ともいえ重要である。

板パネルの表面には鋸による縦挽製材の痕も確認された。鋸の製材は壁画や模型などで知られていたが,大型の部材にも対応できる技術が既に獲得されていたことが,実際の資料によって確かめられた。

大会当日会場から,船の性格や役割,地中海諸国の古代船への影響を問う質問があった。いずれも今後の課題として引き続き検討を進めたい。

地中海学会大会 研究発表要旨
古代末期におけるエジプト・トレードマーク図像の可能性
――ヴィア・ラティーナ・カタコンベ壁画の図像生成―― 宮坂 朋

4世紀のローマのヴィア・ラティーナ・カタコンベ壁画の図像解釈の鍵は,エジプト交易とアンノーナ(食糧供給の行政サービス)である。神話や聖書からエジプト旅行や穀物に関わる主題が巧みに選択され,あるいはローマのアンノーナ関係のトポグラフィカルな情報により,解読可能な内容となっている。

まず,様式分析から相対的な制作の順番を提示した。人物像の容貌とプロポーションを分析すると,この地下墓壁画全体は4つのグループに分類できる。すなわち,①アフリカ・モザイク様式(墓室D-O),②旧約図像の画家の様式(墓室B),③ヘレニズム様式(墓室C+Aの左アルコソリウム),④最末期のカタコンベ壁画様式(墓室A)である。制作年代もこの順番で,特に①グループは奥から手前に向かって描かれたと考えられる(O→D)。また,区画線の太さによる様式のグループ分けも概ね同じである。この結果は従来の説とは異なる。墓室Oは墓室Cの写しであり,ゆえに誤解が多いと考えられてきたのである。なお絶対年代については,概ね4世紀後半から5世紀初めと考える。これは司教によって,バシリカ式聖堂が建立され始めた時期と重なる。

墓室Eアルコソリウム奥壁右端には,テッルス,左右壁面にはアウラエが6人描かれていると解釈されてきた。しかしながら,「テッルス」の衣装には赤いフリンジがついており,彼女の右側には舵が描かれている。赤いフリンジはイシスの衣装であり,舵はイシス・フォルトゥーナの持物である。バラの花と被り物及び腹部の強調は〈エスクィリーノのヴィーナス〉と共通しており,イシス・アフロディーテの特徴が墓室Eの女神像にも表されていることがわかる。上半身をはだけ地面に横になるポーズは,デア・シリア(神木は糸杉)と共通するが,デア・シリアとアフロディーテは地中海交易の中継地デロス島で習合していた。またイシスとデア・シリアはローマにおける神域が近接していたため習合した。

一方左右壁貝殻の下のアウラエは,カンプス・マルティウスのニンフ神殿(Aedes Nymphae)のニンフを表す。ニンフ神殿は公的穀物に関する文書保管庫の機能も持っていた。この神殿のニンフへの奉納浮彫には貝殻を持つニンフが3人描かれる。カンプス・マルティウスには,アウグストゥスの都市計画以来,川港から運ばれた穀物倉庫,イシス・セラピス神殿,デルタ(貯水池),ニンフ神殿などエジプトからの穀物の輸入や保存,穀物の守護神としてのイシス神殿などアンノーナに関わる建物が並ぶ。墓室Eの発注者もアンノーナに関わる職業についていたと考えることは十分可能である。

他の墓室においても,舵,鳩,糸杉,バラを並べることによって,先述の女神達と習合した〈イシスの顕現〉が描かれる墓室I,ケレス・デメテル(穀物,冥界,クーラ・アンノーナエの守護神)が繰り返し描かれた墓室O,川港に祭祀の集中する航海及び商業の神としてのヘラクレス(さらにプシュコポンポスとしてケルベロスを従えたセラピスと習合)は,ケレスと同じ祭日で祀られたことから隣同士の墓室に描かれる。旧約聖書の主題に関しても,モーセの出エジプトやエジプトのヨセフの逸話などエジプト旅行と穀物に関するテーマが選択されていることがわかる。

アンノーナ関係者による4世紀後半のカタコンベ壁画の発注の例はドミティッラなどにも存在する。特にコモディッラのレオの墓室には碑文が残り,発注者がアンノーナの官僚であった証拠となっている(Leo officialis ann(onae) si[bi] vivo fecit cubuculum in [A]dau(c)ti et Feli[c]is.)。これらの壁画はカタコンベでは最高水準にあり,発注者が富裕であったことを十分想像させる。

VLCの壁画は船や積荷運搬など具体的描写を欠く。海運業の実務に携わったというより,投資家として,あるいは官僚としてアンノーナに関わった者であろう。筆者の考えでは,corpus navicularii(船主組合)の発注が最も相応しい。なぜならVLCにはもともと十数個の壁画で装飾された墓室があり,単独の発注者が作ったと考えることは難しいからである。組合がsumma honorariaで祭壇やモニュメントの発注を行い,また,葬祭組合として機能した例が知られている。

エジプトからの穀物輸入を主体とするアンノーナとの関係からエジプト主題を豊富に含む旧約主題が選択されたと考えられる。また,航海や穀物の守護神イシス教関係の図像がややクリプティックに表現された。富裕な貴族がパトロンであったことで,図像に貴族性や公共性が加わり,公共浮彫のやり方で集団戦闘場面が表現された。それまでの救済の範示とは全く異なり,バシリカ式聖堂内装モザイクのようなモニュメンタルなキリスト教絵画がカタコンベに登場したのである。

地中海学会大会 研究発表要旨
モデナ大聖堂ファサード彫刻図像
――古代の大理石再利用と図像の関係をめぐって―― 桑原 真由美

北イタリアのロマネスク美術を代表するモデナ大聖堂は1099年に建造が開始され,1106年および1184年に献堂された。特徴的なのは,叙任権闘争に関連して司教が破門された後,司教空位のまま建設の意思決定が行われた点である。

この聖堂の建設に関する経緯は『聖ゲミニアヌス移葬記』(以降『移葬記』とする)に記録されており,この『移葬記』の記述から,新しい聖堂の建設は,市民の代表で構成された聖堂参事会によって決定されたことが分かっている。建築を主導したのは建築家ランフランコであり,ランフランコは『移葬記』挿絵や本文において市民を代表する形で強調されている。聖堂の外壁彫刻は,聖骸の移葬や教会の献堂が行われた後,彫刻家ヴィリジェルモを中心として制作された。

建築家や彫刻家の功績は,献堂の銘文でも強調されており,特に建築家ランフランコは,聖堂建築の中心的人物として,その成果である大理石の聖堂とともに称えられている。この大理石とランフランコについて,最も重要な記述が,『移葬記』に含まれている大理石の奇跡譚である。これは,ランフランコが主導する聖堂建設の途中で,壁を囲うための石材が不足する困難が生じた際に,神が「誰もが見たことも,考えたことも,聞いたこともなかった場所に人々を導きそこを掘らせると」「豊かな慈悲により驚くべき量の大理石や石材の堆積物を出現させ給うた」という奇跡を起こしたというものである。

このような奇跡の石材が,都市の守護聖人のとりなしにより,ランフランコに代表される市民達に与えられたという記述は,非常に意味のあることである。したがって,今回の発表では,これまでファサード彫刻の図像解釈において全く注目されてこなかった石材と図像との関係に注目して,新たな視点からの解釈を試みた。

モデナ大聖堂で使用されている主要な石材は,パロス産大理石,イストリア産石灰石,ヴィチェンツァ産石灰石である。パロス産大理石は,古代にのみ採掘されていたものであり,明らかに古代遺跡の再利用であると考えられている。創建時の聖堂において,この大理石はヴィリジェルモによるレリーフ群に使用されている。その他の部分には,大理石の代用として使われるイストリア産石灰石とヴィチェンツァ産石灰石が用いられている。したがって,モデナ大聖堂では,古代の大理石を中心として全体のイメージを統一するように石材が選択されていることが分かる。

聖堂建築における古代の大理石の意味については,同時代のテキストから分析することができる。一般的には,モンテカッシーノ修道院の献堂の頌歌(1071年)のように,大理石は聖俗の権威の象徴であるローマに関連づけられる例が多い。しかし,モデナの場合,大理石がローマから運ばれたという記述はなく,誰も考えたことのない場所に神が人々を導いて大理石を出現させたと『移葬記』で述べているのみである。このような記述は,サン・ヴィクトールのアダムによる教会献堂のセクエンティア(12世紀前半)と同様に,神または神が認めた者によって大理石が与えられた聖堂を称賛するものであり,ここで大理石は,皇帝や教皇の権威に依存せずに聖堂の正統性を保証する役割を担っている。

ヴィリジェルモ作のレリーフのうち,古代大理石を使用しているのは,創世記レリーフ群の一部の場面と,《獅子の口を裂くサムソン》,《下向きの松明を持つ有翼童子》,《碑銘を掲げるエノクとエリヤ》のレリーフである。

特に,創世記レリーフ群に注目すると,大理石が使用されている部分は,神が創造した楽園の場面(《天地創造》と《アダムの創造》)と,《アベルとカインの奉献》の場面に大別できる。《アベルとカインの奉献の場面》の図像は,11世紀後半のケルン近郊の持ち運び祭壇におけるアベルとカインや,後期オットー朝時代の磔刑図を支えるテラモンの図像との関連性が見られることから,キリストの贖いに関連する図像として,楽園の場面と対をなすものであると考えられる。この対をなす場面は,共通して描かれている父なる神が持つ書物の章句(ヨハネによる福音書8章12節)によって明確に結び付けられている。よって,創世記レリーフ群の大理石使用部分は,《獅子の口を裂くサムソン》,《下向きの松明を持つ有翼童子》,《碑銘を掲げるエノクとエリヤ》の図像が示す救済のサイクルと結びつく要の部分であると考えられる。

以上のことから,神の奇跡によってランフランコをはじめとする市民達に与えられた大理石は,救済の図像表現の要の部分に使用されていることが指摘できる。これは,司教不在時に建設が開始された聖堂が,「キリストによる救済を仲介できる正統なものである」という市民の意識の反映だと言えるだろう。

象とローマ
村瀬 有司

16世紀後半の詩人トルクァート・タッソは,『コンテ,あるいはインプレーザについて』(1594年)という対話形式の論考を書き残している。インプレーザは,象徴的な図案とモットーを組み合わせて,貴人の武勇や徳あるいは恋心を,謎解きの趣向とともに表現したものである。当時のイタリアではこのインプレーザの流行にあわせて,インプレーザに関する論考も数多く書き残された。タッソの『コンテ』は,これら同時代の論考とは一線を画す見解を提示している点で興味深いと同時に,彼の詩論における模倣とイメージ(=像)の問題を検証するうえでも重要となるものだが,今回この作品から紹介したいのは,「像」ではなくて「象」のテーマである。

ローマを舞台にしたこの対話篇のなかで,タッソは当時のインプレーザ論に倣って,天体や自然や動植物など様々な図案の象徴的意味を解説している。そのなかに象に関する記述がある。象の賢さ,敬虔さ,名誉を重んじる気質,食べ物に対する節度,弱い動物に対して見せる優しさ,あるいは蛇やサイと戦う際の獰猛さや,自分の姿を見るのが怖いので濁った水を好むといった真偽の定かでない性質などが,プリニウスをはじめとする古代の作家たちの記述をもとに紹介されている。このなかにローマの象にふれた次のような一節がある「ですので,各各の動物は分節化されていない音で魂の動きを伝えることができるのですが,はっきりした言葉をもっているわけではありません。そしてポルトガル王から教皇レオに贈られた驚くべき象,アンノーネも,恐らくこのやり方で調教師に理解してもらっていたのです」。

このアンノーネという名高い白象は,タッソが記すとおり,ポルトガル王マヌエル1世が,レオ10世の教皇選出を祝福すべく1514年に贈呈したものである。この時には象だけでなく,サル,オウム,ヒョウなどが,豪華な織物や宝石類と合わせて教皇に贈られている。アンノーネは,ポルトガルから船でトスカーナの港ポルト・エルコレに運ばれ,そこからサンタンジェロ城に移動した。レオ10世がいる窓の下まで来ると,ひざまずいて頭を垂れ,3度大きな鳴き声で挨拶をし,鼻でくみ上げた桶の水を教皇のいる高みまで振り撒いて祝福をしたという。レオ10世はたちまちこの象が気に入って,専用の小屋をベルヴェデーレに作らせ寵臣をその世話に当たらせた。また教皇は,象を先頭にローマの街中を練り歩き,見物人を大いに楽しませた。アンノーネはラファエロやジュリオ・ロマーノ,アレティーノといった芸術家・文人にも数々の題材を提供したが,ローマに到着してからわずか2年後,気候の違いがもとで病気にかかり息を引き取った。

この白象は愛らしさと賢さで人々を魅了しただけでなく,古代ローマの記憶も喚起していた。ローマと象といえば,ただちにハンニバルの名前が想起される。また古代ローマでは多数の象が血なまぐさいスペクタルに巻き込まれていたことも知られている。実際,アンノーネを歌った当時のある詩には,ハンニバルとポンペイウスの名前が併記されている。象は,古代ローマの記憶,異教世界の歴史を反映する存在でもあった。

17世紀の半ばになると,ベルニーニがローマのミネルヴァ広場にあるオベリスクの土台として,大理石の象を彫り上げた。この土台は,1655年にローマに連れてこられた見世物の象から着想をえたとも言われている。面白いのは,象とオベリスクの組み合わせである。その基部の銘が記すとおり,オベリスクに刻まれた象形文字は古代エジプトの叡智を表しており,土台の象はこの叡智を支える強靭な知性を象徴している。叡智の礎としての象のイメージは,その強さと賢さに由来している。同時に,象がもつ異国情緒と異教世界に通じる歴史性もまた,オベリスクに結びつく。論理的に把握できる象の力強さの寓意と,意味のレベルでは明確につかめない歴史的・文化的背景とが一体になって,象徴的イメージの全体像を形作っているのである。

このベルニーニの大理石像は,2016年の11月に何者かのいたずらで牙を折られてしまった。彫像はすぐに修復されたが,インターネット上のある記事は,象とローマの歴史的な関係を紹介しつつ,今日のローマにおける外国人・移民に対する寛容さの欠如の風潮と結びつけてこの一件を提起していた。ここでは象が,異国から来た人々,虐げられた移民の姿と重ね合わされている。私はこの記事を読んだ当初なぜ象と移民が結びつくのか分からなかったが,象の歴史的な意味が今日なおローマに生きつづけていることにようやく思い至った。ロジックだけでは把握しきれない固有のイメージ。ローマの象にはそのようなイメージが折り重なっているのである。

混交栽培
――分益小作人から見た近世トスカーナ農業―― 大西 克典

近世トスカーナ農業によく見られた混交栽培(consociazione あるいはcultura del mescolo)というものをご存じだろうか? 混交栽培とは,トウモロコシ,インゲン豆やカラス麦,燕麦など複数の異なる作物の種を同じ場所に混ぜて播き,同時に栽培する農法である。(なお,日本語で「混交耕作」と呼ばれるcultura promiscuaは,今回問題にしているconsociazioneを指すこともあるが,他に小麦畑とブドウ畑,オリーブ畑などが混在している農地の混交を指す場合もある。ここでは誤解を避けるためconsociazioneに「混交栽培」の訳語を用いる。)同じ所に複数の作物が混在した状態で生育するので,収穫する際に種類ごとに分けることは困難であり,それゆえ市場向けの作物がこの農法で栽培されることはない。混交栽培は,分益小作人が農地と農地の間の限られたスペースや,時にはブドウやオリーブの木の下のわずかな地面を利用して,自家消費用の農産物を栽培する際に行われるのが一般的であった。

もちろん,同じ場所で複数の作物を栽培するこのやり方は効率が悪い。複数の作物が,お互いにその生育を邪魔しあうので,同じ畑で1種類の作物を栽培するのに比べればどうしても収穫量に劣ってしまう。土地の有効利用を考える土地所有者や農学者の目には,分益小作人たちが畑の片隅でわざわざ効率の悪い方法で作物を栽培しているのは不可解に映ったことだろう。土地所有者たちからすれば,混交栽培は限られたスペースで多くの収穫をあげようと異なる種を混ぜて播くがゆえに,かえって収穫量を減じてしまう分益小作人の浅慮の典型であり,それゆえに19世紀以降トスカーナの農業改良を論じる際にもしばしば言及され,トスカーナ農業の後進性を象徴する習慣であり続けたのである。

だが,この混交栽培は,分益小作人の浅慮というよりは長い経験に裏打ちされたある種の合理的な選択だったことが近年指摘されている。そもそも,毎日畑に出て,その様子を見ている彼らは,混交栽培が,一般的な栽培方法に比べて収量が落ちることなど分かっていたはずである。それなのにいったいなぜ限られた面積で効率の悪い栽培方法を選んだのだろうか?

ここで忘れてはならないのは,分益小作人は基本的に土地からの収穫によって本人とその家族の分の食糧を賄わなくてはならなかったということ,そして,近代以前の農業は必ずしも安定したものではなかったということである。今の我々の感覚からすれば当たり前に見える1種類の作物を畑に植えることで,単位面積当たりの生産率を最大化する農業は,そこで栽培される1種類の作物が順調に生育し,収穫できるという前提のもとに成り立っている。そして,前近代においては,特定の作物のみに被害を及ぼす病害虫の発生も日常茶飯事であり,一旦それらが起きてしまうとそれに対応する術を人々はほとんど持たなかったのだということも忘れるべきではないだろう。

こうした前提を踏まえて今一度考えてみるならば,分益小作人が1種類の作物だけを植えたり,2種類以上の作物の種を別の土地に分けて播くのではなく,あえて混交栽培を選んだ理由も分かるだろう。たしかに単一の作物を栽培した方が収穫量も多くなるかわりに,病害虫により全滅する危険性も高まることになる。一方,混交栽培ならば,平年の収穫量は低くなってしまうが,病害虫により一挙に作物が全滅するリスクを引き下げることができる。混交栽培の場合,一方の作物が生育できず途中で全て枯れてしまったとしても,もう片方の作物が順調に育てば,ある程度の収穫量を確保することができるからである。

もちろん冷害や干ばつなど全ての作物に等しく影響を及ぼす異常気象や天候不順には,混交栽培でも対処はできないのだから,分益小作人は食料不足の危険性を完全に回避できていたわけではない。実際,19世紀から20世紀にかけて農業技術が改良され飢饉の頻度も減り,流通状況も改善されるにつれて,混交栽培は次第に姿を消していった。

農業史を研究する際には,土地所有者や政府の側の記録や,農学者が書いた農業技術に関する著作を用いることが多く,我々は知らず知らずのうちに彼らの側から農業を見てしまうことが多い。しかし,19世紀以後の土地所有者や農学者の視点を一旦離れて,18世紀以前のトスカーナの農村環境に身を置いた分益小作人たちの側から混交栽培の問題を眺め渡してみるならば,分益小作人がもっとも重視していたのは,より効率的により大量の収穫を求めることではなく,不安定な自然を前にしながらも毎年ある程度の食糧を確保することであり,一見不可解に見える混交栽培もこの目的のための合理的な選択だったことが見えてくるのである。

北ギリシャ国立劇場の『テーバイ攻めの七将』
――聴覚劇の視覚化に挑む―― 山形 治江

意外に知られていないことだが,ギリシャ人は古代劇を現代ギリシャ語で上演している。演出も現代的だ。復元上演のような博物館的価値より,現代の観客の批評眼にも耐えうる「演劇」としての価値を信じているからだ。問題は,古代悲劇は幾つもの長台詞から成り立つ聴覚重視の劇だが,現代の観客は前5世紀のアテネ人ほど辛抱強くないことだ。しかも近年,projection-mappingや3D,ARなど高度な視覚技術による映像に慣れた観客は,台詞術だけではなかなか満足しなくなった。だからと言って,「原作尊重主義」の上演伝統に反するような過剰な演出はできない。そこでここ10年は特に,長台詞の削除を最小限に止め,いかに効果的に台詞を可視化して伝えるかが演出の最大の課題の一つになっている。

こうした中,2016年夏に上演された北ギリシャ国立劇場(Κρατικό Θεάτρο Βορείου Ελλάδος)制作『テーバイ攻めの七将』(前467年初演)は,台本に忠実でありながら意表を突く演出が,観客の心を摑んだ。

物語は『オイディプス王』の後日談である。「お互いの手にかかって死ね」と父から呪いをかけられた双子の息子EteoclesとPolyneicesは,交代で王位に就くことを約束する。だが期日がきてもEteoclesが王位を譲らなかったため,Polyneicesは亡命し,Argos軍を率いて王位奪還戦争を起こす。テーバイの7つの門を攻める敵将の詳細な情報を聞いたEteoclesは,彼らに匹敵する味方の勇将を一人ずつ褒め称えながら配備する。最後の門は2人の対決の場となり,双方とも死ぬ。

この劇は,14人の将軍を紹介する長い台詞と,コロスの女たちの何行にも及ぶ歌を特徴とする。動きの少ない典型的な聴覚重視劇だ。視覚的に地味すぎるためか,これまでほとんど上演されなかった。ところが演出家Cezaris Grauinis(ギリシャに帰化したリトアニア人)は,これを視覚劇に仕立て上げた。台詞の意味を逆転させて視覚化し,台詞の行間を可視化するという大胆な手法は,言葉の可能性を改めて感じさせた。

原作のコロス「テーバイの女たち」は,「テーバイの人々(女10人・男6人)」に変更される。まずEteoclesは「第1の門」の守り手として勇士Melanippusを指名する。「高貴な生まれ。思い上がった言葉を憎み,臆病に不慣れな男。栄光の戦士の末裔」。全員がコロスの一人を見る。気弱そうな男が進み出る。観客は驚く。この一般市民風情が将軍だって?! そのギャップに客席から失笑がもれる。コロスに促され,男は雑多な武具の中からおずおずと剣を選び,振ってみる。重さによろける。再び笑いが起こる。コロスは真剣な表情で「神々よ,我らが勇者に武運を!」と祈願する。男は少しその気になり,英雄的なポーズをとる。滑稽さに客席がわく。

こうして次々と,勇者の描写にほど遠い男たちが指名され,彼らの奇妙な張り切り方が笑いを誘う。武具をつけた男たちはコロスの声援の中,自らを誇示して踊り始める。一人選ばれるたびに場は活気づき,鼓舞するリズムも速くなる。やがて女たちまでもが武具をつけ,武器を叩きながら踊りの輪に加わる。全員が熱狂的に歌い,Eteoclesを先頭にお祭り騒ぎで練り歩く。一方,観客の笑いは次第に薄れてゆく。これは,一般市民が戦争に巻き込まれていく過程だと気づくからだ。戦争と無縁に見える男たちが「国家を守るため」にいとも容易く兵士に変貌し,戦争は怖いと怯えていた女たちは戦争のリズムに狂乱してゆく。

言葉が表す内容と実質のギャップ,雰囲気に流され加速度的に戦争へ傾く社会。これらを通して,演出家はオイディプス一族の悲劇に「反戦劇」という解釈を鮮やかに投じてみせた。まさにアイスキュロスの傑作に「現代的手法で視覚要素を接木」(Η Εφημερίδα των Συντακτών紙7/25)し,作品を現代化することに成功したのである。そして公演の白眉は,台本の791行と792行の間に挿入された3分間の沈黙の死闘だった。

覚悟を決め,7番目の門に向かうEteoclesの前に,突如,彼とそっくりな男が現れる。それは原作には登場しないはずのPolyneicesだった。劇を知る観客は思わず息を飲む。2人はシンバルを片方ずつ持ち,睨み合う。コロスが見守る中,2人は何度も激突してシンバルを打ち鳴らす。まるで楯と楯が触れ合うかのようだ。疲れ果てた2人はシンバルを捨てる。今度は相手に勢いよく走り寄る。固く抱擁し,突き飛ばし合う。抱擁は殺し合いの象徴的表現であり,骨肉の情愛と近親憎悪の激闘の肉体的表現でもある。6度目の抱擁後,2人は倒れる。土埃が舞い上がり,服は砂塵にまみれる。死力を尽くした7度目の抱擁。その瞬間,暗転。やがて照明が灯ると,抱擁したまま絶命している2人の姿が浮かび上がる。

原作ではEteoclesが主人公であり,Polyneicesは台詞の中にしか登場しない。その彼を実際に登場させ,2人の死闘を見せることで悲劇的運命は見事に可視化された。演劇は台詞がすべてではない。台詞の行間も表現の一形態なのだと久々に思えた舞台だった。