地中海学会月報

MONTHLY BULLETIN

学会からのお知らせ

4月研究会

下記の通り研究会を開催します。奮ってご参集下さい。
テーマ:ニコラ・プッサンの風景画に見る官能的快楽のテーマ
発表者:瀧 良介(東京大学人文社会系研究科博士課程)
日時:4月11日(土)午後2時から
会場:学習院大学北2号館10階大会議室
(JR山手線「目白」駅下車 徒歩30秒、東京メトロ副都心線「雑司が谷」駅下車徒歩7分)
参加費:会員は無料、一般は500円

ニコラ・プッサンの晩年の風景画は、ヴェネツィア派の牧歌的風景の伝統を踏襲しつつも、突如そこに挿入される破滅的な出来事の存在によって、同時代の画家の作品の中でも異彩を放つ。本発表では、プッサンが特に好んで描いた蛇と嵐の両モティーフの出自を、ペトラルカと後続の詩人たちによる自然界の官能的快楽に対する戒めの議論に求め、この人文主義画家が風景画という新興ジャンルに向けた両義的な視線について検討する。

第44回地中海学会大会

地中海学会では第44回地中海学会大会を2020年6月13日(土)、14日(日)の2日間、関東学院大学(金沢八景キャンパス)にて下記の通りに開催します。

6月13日(土)
13:00 開会宣言
挨拶:大塚雅之(関東学院大学 建築・環境学部 学部長)
13:15~14:15 記念講演:大髙保二郎「ピカソと地中海──神話的世界から《ゲルニカ》へ」
14:30~16:30 地中海トーキング
「異文化との出会いとその後」
パネリスト:菅野裕子/斎藤多喜夫/堀井優/石井元章
司会:飯塚正人
16:40~17:10 授賞式:地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞
17:10~17:40 総会(会員のみ)
18:00~20:00 懇親会(於:3号館食堂)

6月14日(日)
10:00~12:00 研究報告

丸亀祐司(古代ローマ史)
森田優子(イタリア・ルネサンス美術史)
森佳子(音楽学、オペラ/音楽劇)
12:00~14:00 昼食
14:00~17:00 シンポジウム「地中海都市の重層性」
パネリスト:黒田泰介/高山博/山下王世/加藤磨珠枝
司会:黒田泰介(パネリスト兼任)
17:00 閉会宣言:島田誠
※月報427号にて地中海トーキングの報告者として飯田巳貴氏のお名前をあげましたが、学会事務局の手違いでした。訂正してお詫びします。

会費納入のお願い

今年度会費(2019年度)を未納の方は、至急お振込みいただきますようお願い申し上げます。不明点のある方、学会発行の領収証をご希望の方は、お手数ですが、事務局までご連絡下さい。
会 費:正会員 1万3千円
学生会員 6千円
振込先:口座名「地中海学会」
郵便振替 00160-0-77515
みずほ銀行 九段支店 普通957742
三井住友銀行 麹町支店 普通216313

アンナ・ペレンナの聖なる泉
河島 思朗

薄暗い階段を深く降りていくと、小さな部屋のなかに崩れかけた古代の噴水やそれをとりまく水路が現れる。アンナ・ペレンナの聖なる泉だ。

この遺跡は、ポーポロ門(ローマ)から約2㎞離れたエウクリデ広場の近くにある。公開は月に1度で、事前に予約も必要だ。モダンな地下駐車場の一角にある入り口は分かりにくい。にわか雨のなか慎ましい表札のまえをなんども通り過ぎてしまった。

アンナ・ペレンナの起源について、オウィディウスは複数の説を伝えている。そのひとつがカルタゴの女王ディードーの妹アンナのエピソードだ。ウェルギリウス『アエネーイス』にも描かれる彼女は、カルタゴが滅んだときに逃れ、ラティウム地方にまでやってきた。その後ヌミーキウス川に飛び込んで、「尽きない川」(amnis perennis)のニンフになったという。

もうひとつは前494年に勃発した聖山事件と関連する。平民は貴族に対抗して聖山(モンス・サケル)に立てこもった。しかし、すぐに食料が乏しくなってしまう。そのときに老女アンナが毎朝パンケーキを焼いて配り、人々は命を長らえたという。そして平和が訪れたときに、人々はアンナの像を立てた。

1999年、アンナ・ペレンナの聖なる泉は地下駐車場の建設作業中に発見された。地下6.2~10.3mの深さにある。聖なる泉は2層の構造からなる貯水槽で、上段から下段へと水が流れる。ひとつは泉源を囲むように造られている(幅2.93m、高さ約2.50m、奥行きは不明)。もうひとつの貯水槽は長方形で、上段の貯水槽の前面、少し低い位置にある(幅4.38m、奥行き0.88m)。いくつかの水路や排水溝も確認できる。遺構自体はもっと奥まで続いているようだが、工事のときに破壊され、いまは地下駐車場のコンクリート壁に埋められてしまった。

聖なる泉からは549枚のコインが見つかった。トレヴィの泉のように、願いをこめて投げ入れられたものだろう。出土品はアウグストゥス時代以降のものが多く、少なくとも前1世紀から6世紀頃まで使用されていたことが分かる。また他の出土品から、この泉は前4~3世紀頃にはすでに聖域に指定されていたと考えられている。

貯水槽の壁には3つの碑文が埋め込まれている。そのひとつには年代を表わすコンスルの名が記されており、156年4月5日に奉献されたことが分かる。他の2つの碑文も同時代のものとみなされる。その碑文から、アンナ・ペレンナとニンフたちに捧げられた泉であることが確認された。

アンナ・ペレンナの祭は、3月15日におこなわれた。開催地はフラミニア街道1マイルストーンのところ、テベレ川のそばと伝えられている。それはポーポロ門から南に約300mのあたりだと想定され、聖なる泉からは離れているために、関連はいまだ議論されている。

古代ローマの新年は3月から始まり、最初の満月が15日だった。アンナ・ペレンナの祭は新年と春の到来を祝う。アンナ・ペレンナ(Anna Perenna)の語源は一説にannus perennis(永遠に続く歳月)と理解され、「年月の繰り返し」を体現する女神だとみなされる。

オウィディウス『祭暦』第3巻に祝祭の様子が描かれている。人々は長寿を願い、望む年数と同じだけ盃を飲み干す。3倍の寿命を与えられたネストールと同じ数を、1000年の命を与えられたシビュッラになれるくらい、飲む人々がいる。酔っぱらった老女が酩酊した老人を引きずって帰る様子も見られたという。歌い踊る人々。じつに楽しいどんちゃん騒ぎの祭だ。そこには、男も女も老人も若者もいた。聖なる泉の周りでおこなわれたなら、酒に焼けた喉を水で潤したに違いない。

聖なる泉からは、コインのほかにもランプや松毬、銅板などの奉納品が出土している。そこには、呪いの文言やまじないが刻まれているものも多い。固有名をあげて恨みを綴るもの。恋人の心を自らにとどめようとするもの。絵が描かれているものもある。それらはディオクレティアヌス浴場跡の国立博物館で見ることができる。

アンナ・ペレンナの聖なる泉は物語を伝える。それは、オウィディウスが語る神話だけではない。人々の暮らしの痕跡が物語を喚起する。泉を囲んで酒を飲み、歌う人々。願いを込めて投げ入れられたコイン。聖域を奉献した人々の思い。さらには、工事中の発見。コンクリート壁のなかに失われた遺構。過去の断片がわたしたちに語りかける。

古代ローマ時代の地層にある「聖なる泉」をあとにして、雨あがりの澄んだ光に貫かれたとき、ながい旅から戻ったような、晴れやかな気持になった。新しい物語のはじまりを感じる。物語に浴した喜びだ。物語を垣間見た喜びだ。

去勢されたのは誰?
――ヘラクレイオス帝(在位610-41年)の家族の身体切断に関する小考
紺谷 由紀

歴史上の人物についての詳細な情報を後代の私たちが知ることは、その人物がたとえ皇帝であっても容易なことではない。時には史料や文献を前に頭を抱え、当時の人間に直接話を聞けたらどんなに良いかと夢想することもあるかもしれない。ここでは、そのようなプロソポグラフィをめぐる問題の1つとして、7世紀のビザンツ皇帝ヘラクレイオスとマルティナの間に生まれた皇子たちの身体切断・追放について取り上げる。そして、錯綜する史料記述を整理し、これらの皇子のプロソポグラフィに関して現時点での私見を述べたい。

7世紀後半、エジプトの主教ニキウのヨハネスは、皇帝ヘラクロナス(在位641年)の廃位時、皇帝および彼の母后マルティナ、そして彼の弟たちが身体の一部を切断されて島流しの憂き目に遭ったことを伝えている。ヘラクロナスは既に死没していたヘラクレイオス帝の息子であり、この追放の結果、ヘラクレイオスとマルティナの間に生まれた息子たちが宮廷から排除され、ヘラクロナスの異母兄コンスタンティノス3世の息子であるコンスタンス2世(在位641-668年)が即位することになる。『テオファネス年代記』がヘラクロナスの鼻とマルティナの舌の切除を伝える一方、ヨハネスはヘラクロナスの兄弟たちの処遇についても言及し、マルティナと彼女の息子ヘラクロナス・ダヴィド・マリノスが鼻を削がれた後ロドス島に送られたという。さらにヨハネスは、マルティナの息子たちについて興味深い話を付け加えている。すなわち、彼女の最も幼い息子は将来彼が皇帝になることを恐れた者たちによって去勢されたが、その際の傷が原因で間もなく死亡し、他方で彼女の2番目の息子は、聾唖者であったが故に帝位に就くには不適切と判断され、傷つけられることはなかったという。彼のこの記述が正しければ、ここでのヘラクレイオスの息子の去勢は東ローマ、ビザンツ帝国で皇子が去勢された最初期の事例として注目に値するものである。しかしギリシア語の原文が現存していないというこの史料の来歴上の問題に加え、解釈の困難さゆえに、プロソポグラフィ事典を眺めてみても皇子たちの切断に関する説明は曖昧で一貫性がない。

最大の問題は、兄弟たちがそれぞれどのような処遇を受けたのかという点について、ヨハネスの記述内に矛盾が見られる点である。先行研究では、去勢された最年少の息子はマリノスを、聾唖者であった2番目の息子はダヴィドを指すとする。しかしそのように解釈すると、マリノスは鼻を削がれた上に去勢されたことになり、さらにダヴィドにいたっては自身の障害故に切断を免れた筈であるのに何故か鼻は切断されるというちぐはぐな事態が生じてしまう。さらに別の史料は、ダヴィドは父帝の治世中にカエサルに、641年にはティベリオスと名を変え共同皇帝として戴冠されたと伝えている。もしこの情報が正しければ、ダヴィドが聾唖故に帝位に就く資格を有していなかったとは到底考えられないのである。

以上の点から、ニキウのヨハネスの叙述の信憑性に疑問が生じ得る。しかし、彼の記述を矛盾に満ちたものとして切り捨てる前に、別の解釈の可能性も模索してみたい。すなわち、ヨハネスがその処遇について説明しているヘラクレイオスとマルティナの息子は3人ではなく、5人であった可能性である。ニケフォロスの『歴史抄録』は、ヘラクレイオスと彼の姪であるマルティナとの婚姻を不当なものとして非難した上で、この婚姻の結果生まれた息子ファビオスは生まれつき頸部の麻痺を持ち、そして彼の弟テオドシオスは耳が聞こえなかったと伝える。彼らはヘラクロナスの兄にあたり、諸説あるがファビウスをマルティナの第1子、テオドシオスを第2子と見なす研究者もいる。ここで改めてニキウのヨハネスの記述を読み直してみると、聾唖者であったマルティナの2番目の息子というのは、ダヴィドではなくテオドシオスを示唆していた可能性が浮かび上がってくる。結果として、ニキウのヨハネスが、ヘラクロナス、ダヴィド、マリノスの3人の兄弟の後に、無名の2人の兄弟の処遇に関する説明を付け加えたと考えるならば、当該箇所の記述を矛盾なく解釈することが可能になるのである。すなわち、ヘラクロナス、ダヴィド、マリノスは鼻を削がれ、テオドシオスと目されるもう1人の皇子は見逃された。そして最後に、マルティナの末子、マリノスの無名の幼い弟が去勢され、ただ1人命を落としたのではないだろうか。

残念なことに、ニキウのヨハネスの記述が正しいものであるのか、そして実際に641年に彼らの身に何が起こったのか確かめる術はない。だがもし叶うならば、表題のように同時代人に尋ね、答え合わせができたら良いのにとも考えるのである。

洗礼者ヨハネとドラグティン
瀧口 美香

聖アキレウス聖堂(1296年)は、セルビア南西部のアリリェに位置するセルビア正教会の聖堂である。この聖堂のフレスコ壁画に、自らの頭部を器に載せて抱える有翼の洗礼者ヨハネという、変わった図像が描かれている。翼を持ち、しかも断頭された頭部を手にする洗礼者ヨハネの図像は、聖なる者を描くにしてはあまりにも奇怪であるように映り、ぎょっとさせられる。この図像は、パレオロゴス朝のビザンティン美術にさかのぼるもので、クレタ島のポスト・ビザンティンのイコンに多く描かれた。有翼の洗礼者ヨハネの図像にかんする、クレタ出身のビザンティン美術史家であるリンベロプロウ氏の説明を、以下に紹介したい。洗礼者ヨハネはヘロデによって捕らえられ、首をはねられた。断頭された頭部の描写は、その経緯について語るマタイによる福音書(14: 1-12)に基づいている。洗礼者ヨハネが翼を有している点については、マタイによる福音書の「『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ」(11: 10)という箇所が典拠となっている。マタイの記述は、マラキ書の「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える」(3: 1)や、出エジプト記の「見よ、わたしの使いがあなたに先立って行く」(32:34)に基づく。使者とは、すなわち神の御使い(天使)のことを指すことから、洗礼者=天使=有翼という図像が生み出された。

教父たちは、洗礼者ヨハネが単なるキリストの先駆者なのか、あるいは受肉した天使なのかということについて論じてきた。たとえば、7世紀のエルサレム総主教ソフロニオスは、洗礼者ヨハネが本質において天使と類似すると述べている。また、洗礼者ヨハネが有翼であることは、ヨハネがイエスに洗礼を授ける「キリストの洗礼」の図像に天使が描かれることと関連していると考える研究者もいる。リンベロプロウ氏が述べているように、カトリック教会は洗礼者ヨハネを天使の類型と見なす見解を異端としたために、西ヨーロッパの美術に有翼のヨハネ図像は見られない。

ところで、アリリェの有翼の洗礼者ヨハネの図像を、同じ聖堂のナルテックスに描かれた寄進者の肖像と比べて見ると、おもしろい対比が見えてくる。寄進者は、セルビア王ステファン・ドラグティンである(在位1276-1282年)。セルビア王国は、ネマニッチ王朝の創始者ステファン・ネマニャにより建国された。アリリェのフレスコを寄進したことで知られるドラグティンは、ステファン・ネマニャの曾孫にあたる。1276年、ドラグティンは、父ステファン・ウロシュ1世から王位を簒奪する形で王となり、1282年に弟のステファン・ウロシュ2世ミルティンに王位を譲るまでの間、セルビア王国の王を務めた。アリリェに描かれたドラグティンは、聖堂の模型を抱えており、その姿は、同じ聖堂内に描かれた、自らの頭を抱える洗礼者ヨハネを模範としているように見える。断頭された頭部によって端的に表されるように、洗礼者ヨハネは自らの命を神にささげた。ドラグティンは、その洗礼者の行いにならって聖堂を差し出し、神にささげているかのように見える。ドラグティンの肖像に目を向けてみると、彼が頭上に頂く王冠は、お椀を伏せた形状の聖堂模型のドームに似ていることに気づかされる。つまり、ドラグティンが抱えている聖堂は、自分の頭の置き換えと見なすことができるかもしれない。

さらに、この聖堂模型は、頭部にとどまらずドラグティン自身を体現するものであったかもしれない。ドラグティンは、晩年王の地位を退いて修道院に入った時、テオクティストと改名した。テオクティストとは、ギリシア語のtheós(神)+ ktízō /ktísma(作る、建てる、設立する、建造物)を組み合わせたもので、この名前は、神が作られたもの、あるいは神の建造物を意味している。つまり、改名した名前をとおして、ドラグティンは自らを神の建造物にたとえたということである。彼のささげる聖堂模型が、彼自身(テオクティスト=神の建造物)を表すものと考えるならば、ドラグティンは、頭部を抱えて自らを差し出す洗礼者ヨハネを繰り返しながら、まさに自分自身を、神にささげていることになるのかもしれない。

癒やしの食と音楽と
──日・英・伊──
井上 果歩

私は現在イギリス南部に位置するサウサンプトン大学に留学し西洋中世の音楽理論を研究している。地中海学会月報415号でも書いたとおり、私の所属する学部の博士課程では必修授業は一切ない。私のやるべきことは、論文のため、学会発表の原稿のため、文章・図表をひたすら書いて描いて書くことだ。この孤独で欝々した作業で大事なのはインスピレーションだ。そしてインスピレーションを得るために必要なのは精神の休息だ。私にとって精神の一番の活力になるのは「食」である。

人を癒すという点で食と音楽は似ている。事実、ヨーロッパ・イスラーム中世世界では、医学者が音楽を論じることがしばしばあった。例えば、イブン・スィーナー(980~1037)は『医学典範』の中で音楽が人間の体に及ぼす影響について述べており、また修道女ヒルデガルト・フォン・ビンゲン(1098~1179)は医学書『自然学』・『病院と治癒』の著者であり、作曲家でもあった。両者ともに著書の中で、食材・料理と人間の健康との関係を論じている。中世においては、良い音楽と良い食事はともに人間を正しいあり方にするという考えが普及していたようだ。そしてこのような考え方が今日の音楽療法や医学の根源となっているのは言うまでもない。

音楽を探究して国際的環境に身を置くようになり、筆者の食生活は大きく変化した。横浜の実家に住んでいるときは、食をいかなるときも楽しんでいた。週末はよく家族と一緒に木更津や三崎港で海鮮を楽しんだ。家での食事は、ホウレン草のお浸しや豆腐や焼き魚など決して凝ったものではないが、季節の味、素材の風味に舌鼓を打った。また、時間のないときのお昼は牛丼やコンビニで済ますことがあったが、安価でお腹いっぱい食べられるし、私には大満足であった。

だが私のサウサンプトンでの食生活は寂しい。外食は高いので、自炊が基本だ。だが、一般的にスーパーマーケットに売っている食材は日本に比べて割高で、野菜はぼろぼろ、腐っていることもしばしば。お惣菜類は高いだけで、まずい。一番受け付けないのは肉の臭みだ。鶏・豚は特に臭く、醤油や酒、ニンニクなどで臭みを抜いても、アレルギーがあるわけではないのに、食べると気持ち悪くなってしまう。なるべく魚を取り入れるようにしているが、種類に乏しい。

今のところ食に対するストレスは2つの方法で解消している。一つは、数週間に1度行きつけのパブでサンデイ・ローストを食べることである。決して安くないが、イギリスのロースト・ビーフは厚切りで肉の旨味を感じることができる。もう一つのストレス解消法は、ロンドンまで長距離バスで行き、和食やエスニック料理を楽しむことである。

私のもう一つの活動拠点は夫の実家のミラノである。イタリアといえば食の国というイメージがある。しかし、私がミラノに定期的に長期滞在する中で気付いたのは、イタリアで美味しいものを毎日食べるのは大変だということだ。イギリス同様、イタリアでの外食はかなり高く付く。ミラノには多くのレストランやチェーン店があり、ナポリなどイタリア各地からの有名店が並ぶが、東京に比べればレストランの数は圧倒的に少ないし、ランチの割引などもなく、頻繁に行ける雰囲気でもない。夫曰く、イタリア人は日本人ほど外食はせず、家で食べるのが基本で、イタリア料理の基本は家庭料理にある。なるほど、料理上手な義祖母はほとんど外食しない。

そして、食に強いこだわりを持つ義両親は、いつも比較的高いスーパーマーケットで買い物をしたり、親戚から有機野菜や肉、オリーブオイルを取り寄せたりしている。日本にも言えることかもしれないが、イタリアの安価な食料品店の食材はかなりまずい。あくまで個人的な意見だが、日本で安い食材(例えば米や豆腐)を買っても、風味に欠くことはあっても変な味がすることはあまりない。一方、イタリアの食事において特に欠かせないパンやチーズ、ハムやサラミ、オリーブオイルの場合、その製造工程の複雑さゆえか、その素材の繊細さゆえか、味の良し悪しがかなりはっきりしている。質が悪いと素人でも分かるような変な風味や酸味がある。

つまり、料理上手で、かつ良い素材を見極めそれを買う経済力がある家庭では食が楽しめるが、その逆は悲惨である。日本ではたとえ家庭料理がまずくても、外食などに逃げ場があるかもしれないが、少なくともミラノで連日外食するというのは現実的ではない。そうなると、やはり日本での食生活はかなり恵まれていたのかもしれない。ただし、日本の食もいいところばかりではない。出来合いのものが多く、不健康な食品添加物を過剰に摂取しがちだ。レストランは多種多様だが、中には衛生面や価格の面で不適切なものもある。

癒しの力を持つ音楽と食。日本、イギリス、イタリア──異なる3国において実感しているのは、癒しを得るためには、自分の体に合う音楽と食を選ぶ「審美眼」を養わなければならない、ということである。そしてこの審美眼こそが、明日の研究を育むための健やかな体と精神を作る糧になると信じている。

ヴィンチェンツォ・ラグーザと清原玉
河上 眞理

江戸時代後半から明治期に日本を訪れた欧米人が日本の美術工芸品に魅了され、一大コレクションを築き、各地の美術館に保管され現代に至るという例は多数ある。1876(明治9)年、工部美術学校の彫刻教師として来日したヴィンチェンツォ・ラグーザもこうしたコレクターの一人である。が、蒐集目的は他とは異なっていた。

日本初の国立美術学校である工部美術学校は工芸や商業美術など「百工ノ補助」を目的として企画されたが、日本政府が教師の選考をイタリア政府に一任したことにより、思わぬ方向へ展開した。イタリアは対日本外交上の配慮もあり、創設される学校を純粋美術の教育機関と理解し、建築、絵画、彫刻の専門家を選んだ。彼らは西洋の美術アカデミーと同様の教育を行い、近代日本を代表する美術家が巣立った。ラグーザは大熊氏廣や藤田文蔵などを育て、西洋彫刻や彫塑の教育・普及に寄与した。

しかしラグーザは、当時のイタリア美術は凋落の一途を辿っていると考え、そのてこ入れに日本の美術・工芸が役立つと考えた。故郷パレルモに美術・工芸を教育する学校を設立し、そこで日本の古美術品を活かすという目的をもって蒐集したのだった。

妻の清原玉(ラグーザ玉)の回想によれば、日本滞在中、給与の3分の1を古美術品の購入に当てたという。工部省との雇用契約を満了し、ラグーザは1882年8月、玉、姉の千代夫婦と共に膨大なコレクションを携えて帰郷し、夢の実現に向かった。だが、学校を設立したが、運営は容易くはなく、やがてコレクションを売却した。大部分は現在、ローマの国立ルイージ・ピゴリーニ先史民俗誌博物館に収蔵されている。漆器、陶器、磁器、胡銅(古銅)甲冑、鐔、印籠、浮世絵、錦絵、着物などさまざまである。

学校は名称と所轄の変更を経て、パレルモには「ヴィンチェンツォ・ラグーザ、清原玉国立美術高校(Liceo Artistico Statale “Vincenzo Ragusa, Otama Kiyohara”, Palermo)」が現存する。

ラグーザの蒐集品の一部は、玉による《古器物写生画》によって知られている。東京文化財研究所旧蔵で、現在は東京国立博物館所蔵の22点である。この他に、近年、上述の国立美術高校に31点が現存することが確認された。東京国立博物館所蔵の《古器物写生画》に描かれた蒐集品のほとんどが、国立ルイージ・ピゴリーニ先史民俗誌博物館に現存することを確認し、その報告書を執筆中である。

さて、玉の回想によれば、ラグーザとは明治10年の初秋に出逢ったという。玉の生家は当時、花園を経営しており、ある日そこにやって来た近隣の官舎に住む外国人がラグーザだったという。縁側で絵を描く玉に、ラグーザは日本語で「いい絵ができますね」と声を掛け、玉から筆と紙を受け取り、人の顔を描いた。日本画を学び幼くして雅号も得ていた玉は学んだ描法との違いに驚いた。ラグーザは日本画と西洋画の違いを説明したという。

工部美術学校は女子の入学も認めていたが、玉は入学しなかった。その代わり、ラグーザから直接に手ほどきを受け、西洋画を描くようになった。習得の成果は《古器物写生画》の精確な描写に見て取れる。裏面にはラグーザによる蒐集品の説明書きが記されているものもあり、蒐集品の記録のための作画と考えられる。静物画として見た場合に物足りなく感じるとすれば、記録としての側面が強いせいなのだろう。

玉は当初、ラグーザがパレルモに開設した学校で水絵や蒔絵を教える一方、本格的に西洋画を学び、やがて画家として活動した。だが、帰国後の玉は画家としてよりも、明治、大正、昭和の初めまでを異国の地に生きたという面ばかりが注目された。事実、本格的な展覧会は1939年の遺作展、1986年の展覧会だけである。半世紀を生きたパレルモにおいては皆無だった。

2017年5月から7月までパレルモ市のサン・テーリア館において「お玉とヴィンチェンツォ・ラグーザ 東京パレルモ間の橋 (O’Tama e Vincenzo Ragusa Un ponte tra Tokyo e Palermo)」が開催された。玉の研究を続けてきたマリア・アントニエッタ・スパダーロさんの研究の賜である。展覧会開催中にはシンポジウムが開催され、執筆者も発表の機会を得た。その報告書も漸く刊行の運びとなったばかりでなく、現在パレルモのパラッツォ・レアーレで新たに玉展(Migrazione di stili)が開催されている(2020年4月6日までの予定)。

2017年の展覧会ではパレルモに現存する多数の玉の作品が展示された。花や着物姿の女性像の作品が多数並ぶ中で、かつてカルーゾ館にあった《バッカスの勝利》(キャンバス、油彩、220cm×610cm)は異彩を放っていた。イタリアにおける玉に関する研究からも目が離せない状況にある。

表紙説明

地中海の〈競技〉10:カルチョ・ストーリコ・フィオレンティーノ/太田泉フロランス

6月24日頃にフィレンツェを訪れたことがある方は、そこかしこにルネサンスの風薫るこの街が普段とは異なる熱気を帯びていることを体感されたかもしれない。カルチョ・ストーリコ・フィオレンティーノのことである。この日はフィレンツェの守護聖人、洗礼者ヨハネの祝日。サンタ・クローチェ聖堂の前の広場は、土を敷き詰められた競技場へと姿を変え、取り囲む観覧席は熱狂する人々で埋め尽くされる。

サッカーとラグビーとレスリングの全ての要素を取り込んだようなこの競技は、一説によると、古代ギリシアのスファイロマキアーという競技を母体としてローマで発展した球技ハルパストゥムが、植民地フロレンティア時代に持ち込まれたものをその起源としている。27人の男性が1チームとなり、祝祭行事の際に街の広場で2チームずつが競うというものである。競技場は100×50メートルの広さで、中央線によって二分される。ボールを手に持って相手チーム最奥まで突き進み、ゴールにあたる場所から投げ出せば得点となる。試合時間は50分、得点が入るごとに両チームは陣地を代える。この競技では相手からボールを奪うための格闘が許可されているため、かなり暴力的な光景が目に入ることとなる。負傷者も多いが選手交代は不可。2006年には乱闘で50人近い選手が裁判沙汰となり、翌年の競技禁止が決定された。

表紙はこの競技を描いた最初の作例だ。オランダ美術史研究所フランドル素描部門学芸員のファン・サッセ・ファン・イーセルト氏によると、16世紀の後半にメディチ宮廷で活躍したフランドル出身の画家/図案家ジョヴァンニ・ストラダーノによるもので、ヴェッキオ宮のグアルドラーダの間のフレスコ画として、1561年から62年にかけて制作された。選手たちは高級なヴェルヴェットの上衣を着用し、膨らんだパンツと長靴下を履き、羽飾りの付いた帽子を被ってボールを奪い合っている。

表紙下部はこの競技が可愛らしいプットーたちによって再現されているフレスコ画だ。同画家の手によるものと考えられており、枢機卿アレッサンドロ・デ・メディチ(後の教皇レオ11世)の註文によってフィレンツェのゲラルデスカ宮にグリザイユ技法で描かれた。右側でプットーたちがボールを膨らませ、中央に向かって運んでいる。中央からやや左側にかけてはボールの奪い合いが起きている。枢機卿自身も若かりし頃はこの競技に参加していたからこその註文だったのだろう。

この競技には、若者に戦いの技術と戦術とセンスを学ばせるという役割もあった。選手は貴族階級からのみ選出され、競技の高貴さは折に触れて喧伝されたという。イタリア戦争只中の1530年、神聖ローマ皇帝カール5世の軍隊に包囲された折、フィレンツェの市民は敵に不屈の精神を見せつけようとカルチョを執り行った。結局は敗北を喫し、都市は占領されてしまうこととなるが、古代由来の高貴で激しい競技の試合は市民の心を奮い立たせたのではないだろうか。現在のカルチョは少々野蛮に過ぎるという批判もあるが、その精神が果たして今に伝えられているのか、目撃してみることも面白い。