地中海学会月報

MONTHLY BULLETIN

学会からのお知らせ

「地中海学会ヘレンド賞」候補者募集

地中海学会では第26回「地中海学会ヘレンド賞」の候補者を下記の通り募集します。授賞式は第45回大会において行う予定です。応募を希望される方は申請用紙を事務局にご請求下さい。

地中海学会ヘレンド賞
一、地中海学会は、その事業の一つとして「地中海学会ヘレンド賞」を設ける。
二、本賞は奨励賞としての性格をもつものとする。本賞は、原則として会員を対象とする。
三、本賞の受賞者は、常任委員会が決定する。常任委員会は本賞の候補者を公募し、その業績審査に必要な選考小委員会を設け、その審議をうけて受賞者を決定する。

募集要項
自薦他薦を問わない。
受付期間:2021年1月6日(水)~2月19日(金)
応募用紙:学会規定の用紙を使用する。

第45回地中海学会大会

地中海学会では第45回地中海学会大会を2021年6月12日(土)、13日(日)の2日間、大塚国際美術館にて開催する予定です。詳しいプログラムは決定次第お知らせします。

大会研究発表募集
第45回大会の研究発表を募集します。発表を希望する会員は、来年2月19日(金)までに発表概要(1,000字以内。論旨を明らかにすること)を添えて事務局にお申し込み下さい。発表時間は質疑を含めて、1人30分の予定です。採用は常任委員会における審査のうえ決定します。

第44回地中海学会大会

第44回地中海学会大会は11月21日(土)・22日(日)の両日、関東学院大学建築・環境学部のご後援をいただき、オンラインにて開催されました。事前登録者は124名でしたが、実際の参加者は入退室があり、ほとんどのプログラムに60数名、懇親会には30数名の参加者がありました。
Zoomによるオンライン大会自体、学会にとって初の試みでしたが、特に懇親会のプログラムには工夫をこらし、参加者は5~6人ずつ振り分けられたブレイクアウトルームでフリートークを楽しんだり、会員から提供された写真が地中海のどこかを当てる全員参加のクイズに興じたり、来年こそは大会を対面で開催できることを祈りつつ、オンラインならではの充実した時間を過ごしました。

11月21日(土)
開会宣言 13:00~13:05
記念講演 13:05~14:05 大髙保二郎氏「ピカソと地中海──神話的世界から《ゲルニカ》へ」
地中海トーキング 14:30~16:50 「異文化との出会いとその後」
パネリスト:菅野裕子氏「古典主義建築の意匠と横浜の近代建築への応用」/斎藤多喜夫氏「横浜洋食事始め」/石井元章氏「異文化接触と受容:ヴェネツィアと日本 川村清雄と長沼守敬の差異」/飯田巳貴氏「近世ヴェネツィア商業の人的ネットワーク」/司会:飯塚正人氏
授賞式 17:00~17:15 「地中海学会ヘレンド賞」
懇親会 17:30~19:30

11月22日(日)
研究報告 10:00~12:00
丸亀裕司氏「ローマ共和政期における『慣例』」/森田優子氏「ヴィットーレ・カルパッチョ作「スラヴ人会」連作にみられる東方の表象」/森佳子氏「グランド・オペラの音楽と舞台演出:マイヤーベーア 《悪魔ロベール》を例に」
シンポジウム 14:00~17:00 「地中海都市の重層性」
パネリスト:黒田泰介氏「都市空間と時間の積層:古代遺構のスポリアと再利用」/高山博氏「中世パレルモとシチリア:異文化の重なりと謎解きの楽しみ」/山下王世氏「オスマン朝イスタンブル:ビザンツの遺産を受け継いで」/加藤磨珠枝氏「永遠の都ローマ:カピトリヌスの丘に立ちて」/司会:黒田泰介氏
閉会宣言 17:00

研究会要旨
古代エジプト・ギリシア・ローマにおける建築と人体の比例理論の相互関連性について
安岡 義文(2,020年10月3日/オンライン)

古代地中海文明圏と何らかの係わりを持つ芸術家たちは、デザイン理論を探求する際に必ず建築と人体の比例理論(シュムメトリア)という原点に立ち返ってきた。その起源は、ギリシア・クラシック期にあるとされるが未だ不明な点が多く、それに関する知識の多くはウィトルーウィウスの『建築十書』に負っている。本発表では、本書の記述を出発点としてエジプトとギリシアの関連資料を比較分析し、本書成立以前の比例理論の再構築を試みた。

建築におけるシュムメトリアの技法に関して、ウィトルーウィウスは2種類の方法を伝えている。1つは「連鎖モデュール型」と呼べるもので、ある基準寸法(モデュール)によって導かれた寸法値群の中から複数の主要部位を新たな基準寸法とみなし、これらによって各主要部位に係わるより小さな部位を段階的に規定していく方法である。この方法を採用した代表的な様式はイオニア式であり、またコリント式、トスカーナ式などの後続の様式もこれに準じている。唯一、これに属さないのがドリス式であり、この様式は1つの基準寸法が他のあらゆる部位を規定する「単一モデュール型」を採用している。また、ウィトルーウィウスが扱わなかったエジプト様式も、祠堂の設計図や遺構例を分析する限りにおいて「単一モデュール型」を採用しており、その使用例は前1450年頃にまで遡ることができる。一方、祠堂以外の建築における「連鎖モデュール型」の使用については不明である。また、各様式の成立時代に着目すれば、エジプト様式とドリス式がイオニア式よりも古く、またその他のオーダーはイオニア式以後に成立したと考えられるので、前者2様式が「単一モデュール型」を採用し、その後、より装飾的で規定項目が多いイオニア式のために「連鎖モデュール型」が開発され、それが主流となっていった流れが想定可能である。

人体の比例に関しても、ウィトルーウィウスはシュムメトリアの技法を簡潔に伝えている。これに加え、古くは前5世紀に活躍したポリュクレイトスが彫刻において人体比例を研究していたことも知られている。しかし、彼が理想の人体比例について記した『カノン』という著作とそれを視覚化した彫像作品については、詳細が不明である。また、ガレノスやウィトルーウィウスらが伝えるギリシア由来の人体比例理論において基準とされているのは、肘尺体系であり、足尺にはモデュールの役割が与えられていなかった可能性がある。

一方、エジプトの人体比例理論は前2400年頃まで遡ることができるが、末期王朝時代の始まりを境に大きく変わった。前7世紀頃までの1600年以上もの間、エジプト人たちは、整えられた人体を如何に素早く形作るかに重きをおき、人体の基準高さ(髪の生え際)を2と3で割れる6の倍数を基準とした分割数に設定して表現していた。これに対し、前7世紀中頃に起きた変革は、従来のグリッドの1マスを掌幅に調整し、肘尺体系に則った人体比例の表現を主眼としたギリシア・ローマのシュムメトリアの技法と同等の技法の開発を意味している。なぜ前7世紀にエジプト人たちが人体比例の表現にただならぬ関心を寄せるようになったのか、あるいは、エジプトとギリシアのシュムメトリアの技法がどのような関係性にあるのか、については今後の研究に譲るとして、建築におけるドリス式とエジプトの「単一モデュール型」や人体比例理論における肘尺を基準としたシュムメトリアの技法の共有は、従来のクラシック期にシュムメトリアの技法の起源をみる史観に転換を迫るものである。前1世紀に生きたシケリアのディオドロスや、彼が伝えた2人の彫刻家がエジプトの理論を知ることができて、どうして前5世紀に生き新たな比例理論を構築しようと躍起になっていたギリシア・クラシック期の芸術家たちが、近隣国で、そしてもしかしたら自国でも既に採用されていたかもしれない比例理論に無知でいられたであろうか。問われるべきは、ポリュクレイトスの『カノン』の真の功績とは何か、ということであり、それはシュムメトリアの技法そのものの発明ではなく、既存の技法における規定項目の数値関係の精緻化や視覚補正の技法の導入などであった可能性である。

以上、建築と人体における比例理論は、地中海文明圏において古代エジプトから連綿と研究されてきた問題であった。すなわち、ウィトルーウィウスの『建築十書』は、前20年頃に彼が目にすることのできた諸理論を纏め体系化したものであり、美術理論史上の1つの金字塔である一方で、1つの史観に過ぎない。近代以降、「推論」で埋められてきた古代地中海4000年の美術史における諸史実間に横たわる「空白」を、新たに解明された史実で置換し、より確からしい歴史像を浮かび上がらせることによって、重要な未解決問題を実証的に解明できるようになるはずである。

ウティカのカトーとマウレタニア王ユバ2世
大清水 裕

第二次世界大戦中の1943年11月末か12月初頭、モロッコ内陸部のローマ遺跡ウォルビリスで、大変保存状態の良いブロンズの胸像が発見された。高さは50センチメートルほど。胸部には、「CATO」の文字が入っており、「ウティカのカトー(Cato Uticensis)」こと、マルクス・ポルキウス・カトーを表したものとされている。

「ウティカのカトー」と言えば、「共和政の殉難者」あるいは「ストア派の聖人」として知られた人物である。共和政末期のローマの内戦でカエサルに敗れ、その慈悲を受けて生き永らえることを拒み、自ら死を選んだ。彼の行為は、キケロをはじめ多くの著述家によって称揚されている。この呼び名は、その自死の地、現在のチュニジア北東部の都市ウティカの名にちなんだものである。同じ北アフリカにあるとは言え、ウティカとは千数百キロも離れた都市ウォルビリスと、カトーとの間に何らかの関係があったとは考えにくい。発見された場所が、通称「ウェヌスのモザイクの家」というのは、謹厳実直で知られたカトーのイメージからすれば、ちょっと微笑ましくもある。

さて、このブロンズ像の発見から2カ月ほど後、1944年2月8日、「ウェヌスのモザイクの家」とは小道を挟んだ隣の邸宅から、やはり大変保存状態の良い、高さ50センチメートルほどのブロンズの胸像が発見された。この像はディアデマを頭部につけた青年王を表していた。この青年は、ローマ帝政初期、アウグストゥスによってマウレタニア王としてこの地に送り込まれたユバ2世とされている。この邸宅は、この像に因んで「マウレタニア王の家」と呼ばれている。

マウレタニア王ユバ2世は、数奇な運命をたどった人物である。彼の父、ヌミディア王ユバ1世は、共和政末期ローマの内戦に、元老院派を支援して参画した。元老院派の後ろ盾を得て、一時は事実上北アフリカ全域の支配権を握っていた。しかし、前48年夏、ファルサロスの戦いで元老院派が敗れるとその支配は揺らぎ始める。エジプトに逃れたポンペイウスが殺害されたのに対し、上述のカトーをはじめ、敗れた他の元老院派の面々は、ユバ1世を頼みとして北アフリカに集結した。だが、カエサル自身が軍勢を率いて北アフリカに乗り込んでくると、前46年4月、ユバ1世の加担していた元老院派は、タプススの戦いで再びカエサル軍に敗北した。戦いに参加せず、ローマ属州アフリカの拠点だったウティカで後方支援にあたっていたカトーは、さらにイベリア半島に逃れて再起を期す人々を送り出した後、自ら死を選ぶ。
他方、まだ5歳ほどに過ぎなかったユバ2世は、この時、ヌミディア王国の都の一つ、ザマ・レギアにいたと考えられる。戦いに敗れた父王ユバ1世は、ザマまで逃れ、再起を期したものの、住民に入城を拒否された。妻子の引き渡し要請に回答すら得られなかったユバ1世も、間もなく自ら死を選ぶ。ユバ2世はカエサルに引き渡され、凱旋式で見世物とされた。カトーとユバ1世は同じ陣営に属しながらも、しばしば対立しあっていたらしい。その息子ユバ2世の胸像と、カトーの胸像とが、ウォルビリス市中心街の並び立った邸宅から出土しているというのは何の因果であろうか。

ユバ2世はこの後、ローマのカエサル家で養育された。カエサル自身は間もなく暗殺され、オクタウィアヌスが家を継いだが、ユバ2世の環境に大きな変化は生じなかっただろう。スエトニウスが伝えているように、アウグストゥスは諸王の子息を自邸で養育し、後に王国を返してやることも少なくなかったからである。ユバ2世も、前25年、一度は王統が絶えローマの直轄領とされていた北アフリカ西部、マウレタニアの王として送り込まれた。その後、半世紀近くにわたって、ユバ2世はマウレタニア王としてこの地を治めたのである。

ただし、ユバ2世の名は、王としてよりも博識な文人、あるいは歴史家として知られている。彼がギリシア語で著したというローマやアフリカに関する歴史書は散逸して残っていないものの、プリニウスの『博物誌』など、様々な書物で典拠とされている。彼は、マウレタニアの地で紫貝の染料の生産に乗り出したり、探検隊を組織してナイル川の源流を探させたりもしている。その背後には、クレオパトラとアントニウスの間に生まれた双子の一人で、彼の妻となったセレネの存在も見え隠れしているようだ。王都カエサレア(現在のアルジェリアのシェルシェル)で営まれた宮廷は、ヘレニズムの文化漂う空間であったに違いない。

元老院派に加担して自死に追い込まれた父を持ちながらも、アウグストゥスの恩顧を得てマウレタニア王の地位を得るという複雑な立場にあったユバ2世の胸像と、「ストア派の聖人」カトーのそれが、ウォルビリス中心部の2軒の並びの邸宅にあったわけだ。それらを見た人には、どんな印象を与えたのだろうか。両作品を収蔵するラバトの考古学博物館は、2017年にリニューアルされたらしい。前回訪問時は工事中で両作品を見ることはかなわなかったが、コロナ禍が落ち着いたら、改めて訪問してみたいと思っている。

ベルティノーロの「湖の聖母」イコン
ベルティノーロの「湖の聖母」イコン

『神曲』煉獄篇で「おおブレッティノーロよ、おまえはなぜ逃げないのだ?(第十四歌)」とその堕落ぶりを指弾されるベルティノーロは、チェゼーナの郊外に位置する小邑である。ビザンティン美術を志す者として、イタリアに赴くと、東方由来と思われるイコンを見物するのが毎度の楽しみであるが、ここベルティノーロにもそのような聖像がひとつ、現存する。通称Beata Vergine del Lagoと呼ばれるイコンである。町の中心から離れた同名の礼拝堂に安置されていると聞き、ラヴェンナの知人に頼んで車を出してもらった。出発の前日、知人の父上に呼び止められた。ベルティノーロに行くのかい?あそこはガッラ・プラチーディアが「黄金の如き」ワインを飲みに行ったからBertinoroなんだよ、と。そういえば、城塞に程近いオステリアで供されたラディッキオのカペレッティは地元のサンジョヴェーゼ・ワインで煮込まれていて、頗る美味だった。

観光客の来るような場所ではないとはいえ、イコンにお目にかかるまでは少々難儀した。礼拝堂に着いたものの、司祭が交通事故にあって入院中とのことで、扉が閉まっていたのである。町の観光課に知人が電話をかけ、なんとか近隣に住む堂守の女性に連絡がついた。

2月の北イタリアは濃霧が立ち込め、雑音が霧に吸い込まれる。無音、無人の礼拝堂に通されると、祭壇上方に像高1mはあろうかというイコンが祀られているのが目に飛び込んできた。1702年に落成した現行のバロック趣味の礼拝堂とビザンティン様式の板絵は不釣り合いな気もするが、堂内は穏やかな色彩で纏められ、決してイコンの品位を損ねてはいなかった。聖母子の顔以外の部分は1714年に奉納された金属製のカバーに覆われて見えなかったが、聖母の腕に抱かれ、頬を寄せる幼いキリストの仕種からしてエレウーサ型イコンであると知れた。本作について本格的な学術的記述は未だ成されていない。しかし、結論から述べると、この「湖の聖母」イコンの少なくとも表層は、イタリアで描かれたものと思われる。堂守から手渡された分厚いパンフレットには、イコンの表面には焼けた痕があり、皇帝レオン3世(在位717–41年)による第1次イコノクラスムを逃れてきた証であると記載されている。焚書ならぬ焚像を恐れた何者かによって海中に投じられ、ベルティノーロの裾野に拡がっていたエミリア湖に奇跡的に現れた、という伝説はラヴェンナのサンタ・マリア・イン・ポルト聖堂が所蔵する聖母の大理石イコン招来の経緯とほぼ同じである。聖像に権威を付与する上で、イコンがひとりでに海を渡ってやって来たという筋書きはイタリアで相当好まれたらしい。

図像そのものに目を転じると、聖母とキリストの衣服や身振りはビザンティンの標準から外れていない。とはいえ、聖母の紺一色の出で立ちや左肩のマフォリオンから垂れ下がる金糸の房飾りなどは、ムラーノ島のサンティ・マリア・エ・ドナート聖堂(12世紀後半)やトルチェッロ島のサンタ・マリア・アッスンタ聖堂(11世紀末~12世紀初頭)のアプシスモザイクに最も近い。また、聖母子の顔貌、特に聖母の大きく見開かれた目と憂いを感じさせない弓なりの眉からは、12世紀のビザンティンよりイタリアに相応しい表現との印象を受ける。イコンの上方にはΜ(ΗΤΗ)Ρ Θ(ΕΟ)Υ(神の母)の銘がギリシア文字で記されているが、聖母の両肩付近に散らされた赤と黒の花弁のようなモティーフはビザンティンのイコンに見られるものではない。さらに、剝落は激しいがおそらくオリジナルの層と思しき聖母の左腕外側の区画に、大きな植物であろうか、得体の知れない物体が描きこまれている。ビザンティンのイコンでは、背景はまず金地で塗りつぶすのみである。

イタリアの画家によって描かれたとしても、制作年代については手がかりが掴めない。イコンを安置する最初の礼拝堂が近隣のカマルドリ会士達によって1228年に建立されたという記録が残ることと、先述したヴェネツィア近辺のモザイクとの類似から、12世紀後半を遡らないのでは、と推測される程度である。かつて「湖の聖母」礼拝堂で教区司祭を務めたジョヴァンニ・アレッサンドリーニは本作が貴重な東方由来の聖像としてラヴェンナより「忠誠の報いに」贈られた、と自説を展開している。長らく教皇領であったラヴェンナと、元来皇帝派に与していたベルティノーロとの関係は複雑極まるようで、一考を要する。イコンがビザンティン起源という部分には肯えないが、ラヴェンナから到来した、という氏の説は案外真相に近いのかもしれない。

堂守の女性に多めのオッフェルタを渡して、ベルティノーロの城塞へと戻った。夕暮れ時、厚い霧を裂いて僅かながら晴れ間が見え、ポポロ広場にあえかな光を投げかける。陽の光はかわいらしい鐘の音とともに消えていく。

「歌を知らない」男と「歌を知る」男
濱崎 友絵

「1本の長く細い道にいる。私はこの道を行く、昼も夜も、昼も夜も……」トルコ共和国最大のアーシュク(吟遊詩人)と呼ばれるアーシュク・ヴェイセルが歌った有名な歌の一節だ。

道。トルコ語で「ヨルyol」という。この歌を聴くと、アナトリアのごつごつとした岩場と茶色い砂ぼこりが舞う道が思い浮かぶ。同時に「精神の道」などといった形而上的な「道」をも思い浮かべる。荒涼とした大地で1人、寡黙に歩み重ねる「私」がそこにいる。

アーシュクが民衆の代弁者として支持を受け、この歌が広まっていったのも、民謡をはじめ歌が、感情を媒介するものとして強い役割を持っていたからであろう。少なくともトルコでは我々が考えているより、はるかに歌が土地や感情に結びついている。ヴェイセルの歌がアナトリアの大地や風を喚起するとすれば、おそらくそこには種々の色や香り、過去の記憶がつきまとうに違いない。かつて音楽学者の小島美子は、現代の日本人が「自分たちの歌をもっていない」ことを短くも鋭く指摘したが(1970)、「歌が歌えること」と、「歌を歌ったり聴くことで、ある情景や感情が沸き起こること」とは根本的に違う。

トルコ系ドイツ人の映画監督ファテ・アキン(ファーティフ・アクン)の作品には、そうした「歌を知らない」男と、「歌を知る」男が登場する。

『そして、私たちは愛に帰る(Auf der anderen Seite)』(2007年公開)は、ドイツで殺人犯となるトルコ系移民の父親とその息子ネジャット、ドイツで売春婦をする母親とトルコで反政府活動に身を投じている娘、その彼女と接点を持ったことで人生が変わるドイツ人の母と娘の6人が行き交う物語である。宗教、性、怒り、対立、死が交差するこの映画が、悲嘆に深く沈みこまなくて済む理由は、「許し」が通底するテーマとなっており、かつ音楽が物語に律動と救いを与えているからだ。トルコの古典音楽からロマ音楽、ポップスなどの種々の音楽が映像の背後に添えられるのだが、ただ1曲だけ、映画の中で明確に語られる歌がある。

映画冒頭部、ネジャットがトルコの片田舎にあるガソリンスタンドの売店に車を停めて入る。彼は棚に並んだ商品を眺めながら、今、かかっている歌は何かと店主に尋ねる。店主は「キャーズム・コユンジュが歌っている、知らないのか?ここでは皆が知っている。2年前くらいに若くして死んだ。お前くらいの年だ」と尋ね返す。彼はぶっきらぼうに一言、知らないと言って水と軽食を手に小銭を払って店を出ていく。

ネジャットはトルコ系移民で、この歌を「知らない」。「私がお前を愛したことを世のなか皆に知らしめた」という一節から始まる、緑豊かな黒海地方の歌であることも、キャーズム・コユンジュがラズ音楽とロックを融合させたラズ・ロックの始祖と言われることも、また想い人との愛が終わり、それでもなお断ち切れず時が過ぎさったことを嘆く歌であることも知らない。だが彼は店主に歌のことを尋ねた。何かが彼の耳をとらえたからだ。映画のエンドロールで、ネジャットは黒海を前に砂浜に座って打ち寄せる波を眺めている。その背景で再度、この曲が今度は、元来の民謡で歌われる。「歌を知らなかった」男が最後に心のそよぎを聴いた。そう思いたい。

一方、「歌を知る男」が登場するのは、『愛より強く(Gegen die Wand)』(2004年公開)だ。イスラームに厳格な家庭から逃げ、自由に生きたいがため自傷行為を繰り返すトルコ系ドイツ人女性シベルとアルコール依存症の男性ジャイトをめぐる物語だ。互いに合意の上で偽装結婚をした2人。表向きは互いに無関心を装っているが、ジャイトは、妻シベルに言い寄る男を嫉妬のあまり殴り殺してしまう。ジャイトは刑務所に送られ、シベルは罪の意識から半狂乱となりジャイトの男友達シェレフの元へ駆け込む。シェレフは強くシベルを非難するも、行くところがない彼女に一晩だけ宿を提供する。嗚咽をもらし眠れない彼女に、シェレフが歌いかけるのが次の曲だ。

なぜ泣くの 私の美しい黒髪の娘
起こることはみな消え去るのだから、泣かないで
私の嘆きや訴えは、空に届く
起こることはみな消え去るのだから、泣かないで

5拍子の、ゆっくりとしたリズムの中でメロディーが同じ音型で繰り返され、少しずつ下行していく。シェレフが歌うと、子守り歌を聞いた赤子のようにシベルは初めて泣き止む。ティロティロと口三味線で間奏部のバーラマ(洋梨型の共鳴胴をもつ撥弦楽器)の音をまねて歌うシェレフに、シベルはやっと笑顔を見せる。この曲がエルズィンジャン出身のアーシュク・ダーイミーによって作られたもので、1980年代前後にトルコ民謡の1つとして収録されたものであることを彼が知っていようがいまいが、そんなことはどうでもよい。彼はこの歌を「知っていた」。情景と色を思い浮かべていた。きっとそれで充分なのである。

彫刻家本郷新が海の向こうに見た夢、ピカソ
山田 のぞみ

戦後の日本彫刻界を牽引した作家のひとりである本郷新は、彫刻制作に加えて平和美術展の運営と参加を積極的に行うなど活動の勢いを増すにつれ、社会派の芸術家と目されるようになった。そんな彼が生涯のうちに2度経験した海外渡航は、多くの作家が海外体験によって何がしかの影響を受けてきたのと同様に、本郷新の芸術とその活動において、見逃すことのできない痕跡を残している。特筆すべきは、本郷のパブロ・ピカソに対する深い憧憬の念だ。

本郷の最初の旅は、1952年12月22日から翌年の4月8日にかけて、羽田空港から香港を経て、パリ、プラハ、ウィーン、モスクワ、レニングラードへ向かうものだった。2度目の旅は1956年4月24日から約2か月半にわたり、訪問国と日本の文化交流を目的に美術、演劇、映画、音楽をはじめ各分野から選ばれた団員からなるアジア連帯文化使節団の一員として、アジアとヨーロッパ諸国を訪問している。

注目したいのは、第1回目の渡航だ。この旅で本郷新は、ピカソの作品と出会うことになる。1952年、一般人の海外渡航が制限されていた時代にあって本郷は、国交正常化前の日中間の友好交流に努めた西園寺公一らが参加していた第1回ウィーン世界平和会議への出席と、パリ造形美術連盟での講演を目的として出国した。かの地から家族に宛てて近況を伝える便りには、世界の平和外交の場に居合わせていることへの興奮した想いが綴られている。この旅の道すがら、日本の新聞各紙に海外事情を伝えるコラムとして、情感あふれるスケッチと短文を数多く発表した。本郷はプラハで目にしたピカソの《鳩》が描かれた世界平和会議のポスターに大変な感動をおぼえたとみえ、自らのスケッチを付した「ピカソのハトの絵の前で プラーグにて」と題した文章を平和新聞や中部日本新聞に寄せている。

これ以降も、本郷はとりわけ 1950 年代から70年代にかけて、ピカソの《ゲルニカ》や《鳩》といった反戦、平和を訴えるものと理解されていた作品をとりあげて文章を発表した。「国際美術の二つの出来ごと ピカソ」(「読書の友」1961年11月5日)と題されたコラムでは、次のようにピカソへの賛辞が記されている。「ファシズムに抵抗する芸術家は沢山あっても、彼ほどに、これを作品として昇華させたひとは少ない……ピカソはどれだけ多くのハトの絵をえがいていたであろう。これについても、(日本の美術批評家たちは)ハトだけは黙殺しようとした。ピカソが世界の平和運動のなかで果たしている大きな役割については、ここでも美術批評家たちは知らないか、知らないふりをしている。絵をピカソという人間から切り離して、形式論議を繰り返している。われわれはピカソの芸術のなかの天衣無縫の自由と、ピカソの平和への積極的行動とは切り離し得ないことを知らなければならない。」

本郷はピカソを平和運動の旗手として評価するとともに、思想を主張することだけを目的とした造形にとどまることなく、尽きせぬ芸術的欲求から造形表現を追求する芸術家の理想としてピカソをとらえようとしている。平和主義という戦後民主主義における1つの思想にもとづいて、本郷新は戦没学生を表した《わだつみの声》や、戦禍を生き抜く親子を題材にした《嵐の中の母子像》などの制作に取り組んだ。しかしその一方で、作品が特定の思想を伝えるだけの媒体となることを強く危惧していた。

たとえば、1度目の海外渡航時に訪れたチェコやソ連では、国家体制と強く結びついた芸術様式である社会主義リアリズムに高い関心を抱き、その地の芸術家のアトリエをたずねもしたが、あたかも1936年にソ連に入国したアンドレ・ジッドが社会主義国の現実と芸術のありようを目の当たりにして大きな落胆を経験したように、本郷新はこの芸術に抱いていた期待を、裏切られたように感じた節がある。思想信条と造形表現のバランスに大きな関心を寄せていた本郷にとって、社会主義リアリズムにおいては造形表現が思想を映し出す器としての役割しか与えられず、そこには「美」が欠如してしまっているのだった。

その中で、1度目の海外渡航で目にした揚々と空を飛ぶピカソの鳩に、社会主義リアリズムと対極にある芸術のあり方を見出すとともに、その後、行動する芸術家という理想像をピカソに求めるのである。本郷新のいわゆるヒューマニズム的な作品制作や平和思想にもとづくふるまいには、ピカソへの憧憬の念が関わっていただろう。

本郷は自ら、同時代の批評家の中にはピカソの社会活動と作品の関係をとりあげた者はそれほど多くないと述べる。確かに、未だ筆者は十分な調査を進められていないところではあるが、中原佑介や東野芳明、岡本太郎が主に問題にするのは前衛芸術家としてのピカソという側面が強く、社会運動への関わりについては本郷新ほどの熱量をもって注目していないようだ。彫刻家という立場から折に触れて平和の旗手としてのピカソ像を押し出した本郷新のなかに、日本におけるピカソ受容の一例を、見出せないかと考えている。

表紙説明

地中海の《競技》16:古代ローマの拳闘/豊田 浩志

古代地中海世界にも古くから拳闘競技があり、古代オリンピックでも採用され、レスリング、パンクラティオン(総合格闘技)とともに接近格闘技に分類された。現代と異なり、ラウンドや階級制もなく、一方が失神するか降参するまで続けられた。もっぱら顔面殴打がルールだったようで、壺絵やモザイクでのファイティング・ポーズは、両手を前方上方に伸ばしたものが多い。オスティア出土の上図左がそれだが、このモザイクには面白いエピソードがある。人物の上方に人名が埋め込まれているが、同じ名前がナポリ湾のポッツオリ郊外の邸宅床モザイクでも確認されたので、彼らが当時イタリア半島で名を馳せたヒーローだったことが分かったのだ。

今と異なり、牛革製のグローブは手全体を覆わず指は露出していた。それを子細に観察できるのが下図左の青銅像「拳闘士の休息」で、前腕まで革紐で補強している。ローマ時代のプロ仕様だと、拳部分に鉛板や鉄鋲を埋め込んだので、試合は自ずと凄惨を極めた。ウェルギリウス『アエネーイス』V.362-484を読むと、同じ拳闘競技でも地中海の西はより苛酷だったようだ。上図右のモザイクはそれを題材にしたもの。左がシキリア人勝者、右がトロイア人敗者。横たわる牡牛は犠牲獣として勝者の一撃で眉間を割られたばかり。帝政期になると拳に刃物を埋め込んだものさえ登場したらしいが、これはもはや剣闘士競技の範疇というべきだろう。

下図右は、2018年にイギリスのヴィンドランダ出土の革製グローブ。同地からはこれまで木簡や皮革品が多数出土しているが、グローブの実物は史上初の快挙で俄然注目を浴びた。だがその形状は手の甲を保護するだけの簡便なものなので、兵士の格闘技訓練用と思いたい。

ところでなぜ拳闘なのか。私はかつて古代女性の肉声を保存した希有な史料『ペルペトゥアの受難記』(3世紀初頭)を扱った折、彼女が見た幻視にエジプト人拳闘士と相まみえる場面があり、まあ夢の中の話とはいえ、現実をどれほど反映しているのか興味をもった次第。「私たちは両拳を放ち始めました。(中略)早く決着をつけようと私は、指の中に指をつっ込み両手を組んで彼の頭をとらえ、彼を倒しました」(x.10-11)。なるほどあのグローブだと両手を組むこともできる。

[上図左:Ostia,Ⅳ.ⅶ.4, in situ (3世紀前半)/上図右:南仏Villelaure出土(https://www.flickr.com/photos/lifeontheedge/345494192/:175年頃)/下図左:ローマ国立博物館所蔵,Quilinare丘出土(前1世紀)/下図右: https://www.history.com/news/only-known-boxing-gloves-from-roman-empire-discovered(120年頃)]