地中海学会月報 MONTHLY BULLETIN

学会からのお知らせ

「地中海学会ヘレンド賞」候補者募集

月報435号でもお知らせしましたが、地中海学会では以下のとおり、第26回「地中海学会ヘレンド賞」の候補者を募集しています。授賞式は第45回大会にて行う予定です。応募を希望される方は申請用紙を事務局にご請求下さい。
地中海学会ヘレンド賞
一、地中海学会は、その事業の一つとして「地中海学会ヘレンド賞」を設ける。
二、本賞は奨励賞としての性格をもつものとする。本賞は、原則として会員を対象とする。
三、本賞の受賞者は、常任委員会が決定する。常任委員会は本賞の候補者を公募し、その業績審査に必要な選考小委員会を設け、その審議をうけて受賞者を決定する。
募集要項
自薦他薦を問わない。
受付期間:2021年1月6日(水)~2月19日(金)
応募用紙:学会規定の用紙を使用する。

第45回地中海学会大会研究発表募集

第45回地中海学会大会は2021年6月12日(土)、13日(日)の2日間、大塚国際美術館にて開催する予定ですが、この大会での研究発表を募集しています。発表を希望する会員は、2月19日(金)までに発表概要(1,000字以内。論旨を明らかにすること)を添えて事務局へお申し込み下さい。発表時間は質疑を含めて、1人30分の予定です。採用は常任委員会における審査のうえ決定します。

地中海学会研究会発表者募集

ご存知のとおり、地中海学会は事業の1つとして年間4~6回の研究会を開催しており、今年度もすでに3回の研究会を開催しました。これまでの研究会は学会事務局のある東京都内で開催してきましたが、今年度は新型コロナウイルス感染拡大防止のため、オンラインでの開催に移行しており、世界中どこからでも参加できます。ご自宅での研究発表も可能ですので、発表を希望する会員は事務局にお申し込み下さい。次回研究会は2月20日(土)、次々回は4月10日(土)を予定しています。

第1回常任委員会

日 時:2020年10月3日(土) 16:30-17:30
会 場:オンライン会議システム(Zoom)
報告事項:学会Zoomアカウントの取得について/研究会について/企画協力講座について
審議事項:第44回大会のオンライン開催について/第45回大会について/学会の新体制について/Dropbox有料版の導入について

第2回常任委員会

日 時:2020年11月14日(土) 17:00-18:00
会 場:オンライン会議システム(Zoom)
審議事項:第44回大会の役割分担について

第3回常任委員会

日 時:2020年12月5日(土) 16:30-17:45
会 場:オンライン会議システム(Zoom)
報告事項:第44回大会について/『地中海学研究』XLⅣ(2021)について/研究会について/企画協力講座について
審議事項:第45回大会について/地中海学会賞候補者の推薦について/地中海学会ヘレンド賞候補者の推薦について/会長選挙および役員改選について

会費納入のお願い

2020年度会費の納入をお願い申し上げます。自動引き落としの手続きをされていない方は、以下のとおりお振込をお願いいたします。なお、正会員の会費が改定されていますのでお間違いのないようにご注意下さい。

会 費:正会員 10,000円
学生会員 6,000円
シニア会員 8,000円
準会員 8,000円
振込先:口座名「地中海学会」
郵便振替 00160-0-77515
みずほ銀行 九段支店 普通957742
三井住友銀行 麹町支店 普通216313

地中海学会第44回大会 記念講演要旨
ピカソと地中海──神話的世界から《ゲルニカ》へ
大髙 保二郎

パブロ・ルイス・ピカソは地中海人である。同時に、イベリア半島の港町マラガで生まれた生粋のアンダルシーア人だ。1904年の春、パリに居を構えて以降、フランス美術やフランス文化で得た多種多彩な影響を自覚的、積極的に自己のもの、すなわち「ピカソ化」(Picassización)していった。ピカソがフランスに越境しなければ、巨大な、普遍的なアーティストにはなり得なかったであろう。とはいえ、スペイン人であることこそ、人間としての根源的なアイデンティティーであった。

ピカソは宗教画家ではない。しかし生涯、磔刑だけは一貫して取り上げた。それが私生活での“あがない”、贖罪を意味していたからだ。磔刑は、牡牛を主役とする闘牛に融合・変容する。牡牛信仰や闘牛の競技は神話や生活において広く古代地中海世界に見出されたもので、神への供犠をルーツとしていた。しかもピカソの場合、その深層心理において闘牛と磔刑が共生していた。

闘牛は暴力や獣性や欲望、暗黒の力と同時にエロチシズムの表象だ。「闘牛は真正の宗教的ドラマで、人はそこで神を礼拝し、そして供犠とする。」(ガルシア・ロルカ『ドゥエンデの遊戯と理論』)

一方、ピカソはマルローにこう語った。「俺たちスペイン人って奴は、朝はミサ、午後は闘牛、夜は淫売屋ときている。一体、何を通してそれが混じり合えるかって。悲しみだよ。奇妙な悲しみだ。」(『黒曜石の頭』)

ミサは聖餐の儀式とキリストの贖罪(=磔刑)、闘牛は供犠として血を流す牡牛、売春は女=エロス、いかにもピカソらしい聖と俗の融合ではないか。牡牛は牛頭人身の怪物ミノタウロスに変身し、その姿は画家のアルターエゴと化す。地中海人ピカソでしかあり得ない“アントロポモルフィスム”だ。

1937年1月、ピカソはスペイン館の壁画制作を委嘱される。4月26日、古都ゲルニカはナチス・ドイツのコンドル軍団により無差別爆撃されて壊滅、画家はその悲劇に衝撃を受けて5月1日、壁画の制作に着手し、6月初旬に完成した。都市ゲルニカと壁画《ゲルニカ》。歴史上の事実と、芸術上の真実である。

構想上の本質的な変更は、牡牛の臀部を左端に反転させ、中央にピラミッド状の空間を生み、そこに瀕死の馬をクローズアップしたところだ。《ゲルニカ》最大の特徴は①色彩がなくモノクロミーで描かれた、②都市ゲルニカの無差別爆撃が描かれていない、ことである。

この問題を解けば、《ゲルニカ》成立の謎とピカソの真の意図が明らかになるだろう。馬は受難の象徴たる「キリストの磔刑」に変容する。口から突きだす舌は剣のように鋭く、背からの長槍はロンギヌスの長槍を連想させ、崩れ落ちる馬は十字架上のキリストと重なるだろう。

ゴヤの戦争画では、犠牲者はつねに「無辜の民」である。民衆こそ受難劇の主役だ。戦争を自ら体験したゴヤを通じて、ピカソは《ゲルニカ》でも、時と場を超えた、どこにでも起こり得る近・現代の戦争の普遍的な表象を目ざしたのではないか。《ゲルニカ》は象徴的なのだ。

この死と喪のテーマにはモノクロミー以外はあり得なかった。ピカソは、「本当の色彩はただ黒あるのみ」、「スペイン人ならばだれでもこのことを理解している。ベラスケスの黒を見たまえ」などと語った。スペイン人画家において、絵画は明と暗、光と影の関係性の中で成立する。さらに決定的なのは、ゴルゴタの丘での最期のキリストの劇的な情景であろう。

「時はもう昼の12時ごろであったが、太陽は光を失い、全地は暗くなって、3時に及んだ。そして聖所の幕が真中から裂けた。」(ルカ福音書、23章)

《ゲルニカ》は歴史的記録画ではない。宗教的かつ世俗的寓意画と言うべきだろう。

「《ゲルニカ》は現代の「ラオコーン」、「ゴルゴタの丘」、最後の審判の絵であった。その象徴はバスクの小都の運命を超えロッテルダムとロンドン、ハリコフとベルリン、ミラノと長崎──我等の暗黒時代を予言する。」(『ピカソ 芸術の50年』、1946年)なぜ広島ではなく長崎か、しかも原爆投下直後のアメリカ政治の難しい局面で、Barrはなぜこのようなメッセージを発することができたのか。

1939年4月、共和国政府は敗北。《ゲルニカ》は難民救済キャンペーンのために、大西洋をわたってアメリカ合衆国に上陸。オデュッセイア・ゲルニカの始まりである。作品は極端に劣化し、移送が困難な状態にある。《ゲルニカ》の悲運であった。しかし、ドイツ占領下のパリにあったら、破壊されていたかもしれない。

本記念講演は、ピカソが神話と史実を融合し、物語を実際の悲劇へと奇蹟的に変容させながら、世界に共通する反戦・平和の普遍的なメッセージに創り上げていく、《ゲルニカ》への道をたどる試みであった。

地中海学会ヘレンド賞受賞によせて
伊藤 拓真

この度は拙著、『ルネサンス期トスカーナのステンドグラス』(中央公論美術出版社)に対して、ヘレンド賞という栄誉ある賞を頂戴し、大変光栄に存じます。ヘレンド社およびヘレンド日本総代理店星商事株式会社の皆さま、地中海学会の皆さま、特に審査の過程で貴重なお時間を割いていただいた先生方に、心より感謝を申し上げます。

拙著はタイトルの通り、ルネサンス期のトスカーナ地方のステンドグラスを総合的に論じたものです。ステンドグラスというとアルプス以北の中世の装飾事例が良く知られていますが、イタリア・ルネサンスについては美術史研究者であってもにわかには具体的作例が思い浮かばないかもしれません。しかし、ドナテッロ、ギベルティ、ウッチェロ、フィリッポ・リッピ、ギルランダイオ、ペルジーノといった芸術家の名は広く知られているでしょう。ここにあげた芸術家は、いずれもステンドグラスに下絵を提供しています。

著名な芸術家が制作へ参加したという点は、ルネサンスのステンドグラスの興味深い特徴であり、また研究上の困難を引き起こしている要素でもあります。多くの先行研究において、ステンドグラスは下絵を提供した画家(ときに彫刻家)の研究の一環としてとりあげられています。しかし彼らは作品制作の中心というわけではありませんでした。注文主と契約を結び、制作のための材料を用意し、ガラスを切り、絵付けを焼き付け、それを組み立てるという仕事は、現在ではほぼ無名といえるステンドグラス師の役割でした。ルネサンス期のトスカーナではこの分業が進みます。分業といってももちろん、画家とステンドグラス師は互いに無関係に制作を進めていたわけではありませんでした。画家はステンドグラスという技法の特徴を踏まえて下絵を制作し、またステンドグラス師も提供された下絵をいかにしてガラスという素材で表現するかに腐心しました。彼らの間の共同制作の実態は、注文の形態や作業の進め方、双方の技法的な理解に応じて流動的に変化します。その結果から立ちあがる制作主体を、ステンドグラスの本当の意味での作者ということができるでしょう。

ステンドグラスについての私の研究は、2007年にピサ高等師範学校に提出した博士論文として始まりました。「芸術家の共同制作について研究したい」というあいまいな計画を携えてきた日本からの留学生に、ステンドグラス研究を勧めてくださったのはマッシモ・フェレッティ先生でした。本格的に勉強をはじめるとすぐに、ステンドグラスで用いられたであろう「下絵」については多くの議論がなされている一方で、作品そのものについてのまとまった論考はなかなかないということに気が付きました。この不均衡な状況に鑑みて、博士論文ではあえて下絵を提供した画家の議論には踏み込まず、ステンドグラスに特有の要素だけを集中的に取り上げて分析を進めました。論文審査を担当していただいた先生方には幸いにもその試みを評価していただき、現地の学術財団に推薦していただいたことで、博士論文はほぼそのままの形でイタリアで出版することができました。

しかしその一方で、下絵を提供した画家についての議論を避けたことは、大きな宿題をやり残したようにも感じておりました。そのような折に、中央公論美術出版社の小菅勉社長(当時)から研究内容を日本語にしてみないかというお誘いを頂きました。これを機にかつての研究を見直し、画家の役割にも十分な分析を行うことで、対象とするステンドグラスを本当の意味で総合的に論じるものにしようと考えました。その結果できあがったのが、受賞対象としていただいた拙著となります。博士論文を提出し帰国した後はもっぱら絵画についての研究を行っていたことで、多少は画家について論じる自信がついたということもありました。しかしこれは始めると簡単な仕事ではなく、博士論文をもう一度書くのと同じような気持ちで臨みました。担当編集者の柏智久さんにはご無理をお願いして、度重なる校正刷りを出していただきました。費用面では、日本学術振興会の出版助成をいただいたことで、多くのカラー図版を掲載することができました。

これまでの研究の過程では、地中海学会の先生方・先輩方をはじめとする多くの方々にご助力を賜りました。私がはじめての学会発表を経験したのも、地中海学会の研究会のことです。また東京大学名誉教授の小佐野重利先生には、研究の当初から現在まで、研究の行方を常に温かく見守っていただきました。今後もヘレンド賞受賞者として恥ずかしくない研究を続けていく所存でおりますので、皆様どうぞご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます。

地中海学会大会 研究発表要旨
ローマ共和政期における「慣例」
―キケロの弁論での用例を中心に― 丸亀 裕司

本報告では、ローマ共和政末期の政治や法廷で雄弁を振るったキケロの弁論に見られる「慣例」の特徴と、こうした特徴が形成された歴史的経緯を検討した。

古代ローマにおいて、「父祖の威風(mos maiorum)」「先例(exemplum)」「習慣(consuetudo)」などの言葉で示される「慣例」は、日常生活から政治的判断に至るまでの規範とされており、政治や行政の制度も含めた「国家」(res publica)のあり方をも規定したとされる。報告者は旧稿において、ポンペイウスへの例外的軍隊指揮権の付与を求めた法案への賛成演説の中で、キケロが「私たちの父祖は新しい危機には時宜にかなった新しい判断を適応してきた」という旨の論を展開していることに注目し、権力争いと論争の中で「慣例」をめぐる極端な解釈が繰り返された結果、前例のない権限の創出が許容され、軍事独裁とも呼びうる帝政が成立する土壌が醸成されたと主張した。本報告では、旧稿での主張をより広い文脈に位置づけるために、キケロ以前に「慣例」はどのように形成されてきたか、キケロは旧稿でとりあげた以外の弁論で「慣例」をどのように用いているか、の2点を確認した上で、こうした用いられ方をするに至った歴史的経緯を考察した。

まず、キケロの時代に至るまでに「慣例」とこれを生み出してきた「父祖(祖先)」がいかなるものだったかを概観した。ローマ人にとっての「父祖」とは、後世に語り継がれるべき国家への貢献を果たした人物であり、こうした人物は何世代にもわたって元老院議員や最高位の公職コンスルを輩出し続けた「ノビレス」に属していた。高位公職に就任した人物が残した蝋製の面はその子孫の葬列に持ち出され、その葬送演説では一族の父祖の業績も称賛された。こうして故人の振舞いは模倣されるべき規範として後に伝えられた。前2世紀になると、ノビレスの慣例は批判される。喜劇作家プラウトゥスは、ノビレスが「慣例」を誇りながらも汚していると揶揄し、祖先にローマの元老院議員を持たない大カトは、「慣例」を形作る「父祖」を全ローマ人の祖先として提示することで、ノビレスによる「父祖」と「慣例」、そして支配階層としての地位の独占の打破を試みた。

これらを確認した上で、キケロの弁論における「慣例」の用例に注目してその特徴を検討した。全体的な傾向として、キケロは「慣例」を行動規範や判断基準として提示し、「慣例に則している」または「反している」と主張することで自説の正当化、または反論への批判を試みている。一方、旧稿で注目したような「慣例を逸脱する慣例」を論じる用例もいくつか確認できた。そのひとつに、論敵が軍隊で採用される「十分の一刑(decimatio)」に喩えてケンソルの裁定の正当性を主張したことへの反論がある。この事例は、ある「慣例」をまったく別の問題に当てはめて自説の正当化を試みることが一般に行われていたことを示唆している。また、選挙違反の被告を弁護した際、キケロは、贈与自体は「慣例」であることを強調し、被告による選挙買収が「慣例」を逸脱した規模でなされたことを証明するように原告に迫ることで、「慣例」と「選挙違反」の境界を曖昧なものとしている。キケロ自身、ある弁論の中で「父祖の先例を追い求めるのではなく、先例を生み出した父祖の精神を解き明かす必要がある」と述べているように、「慣例」はもとより解釈に幅を持つものではある。しかし、中には詭弁ともとれる論法で「慣例」が用いられており、少なくとも発信者は、それにより自説の正当性を補強できると考えていたことが確認できた。

最後に、弁論におけるこうした「慣例」の利用が許容された歴史的背景として、ローマの急激な拡大により「ローマ(人)」やその「父祖」という概念が曖昧になっていた可能性を論じた。ローマは、前3世紀半ばにイタリア半島全体を勢力下に置くと、前2世紀には地中海一体を支配する帝国へと膨張し、前1世紀初頭の同盟市戦争後、イタリア半島のほぼすべての自由人にローマ市民権が付与されるに至った。キケロは、2世代前にローマ市民権を獲得した家柄だと推測されるが、当時の多くの人々は出身地とローマの「ふたつの祖国(duae patriae)」を持っていると述べている。ここから、何世代にもわたって元老院議員を輩出し続けてきたノビレスはともかく、弁論の聴衆の大多数を構成していたノビレスに属さない人々の「ローマ」への帰属意識や「慣例」を形成する「父祖」との関係性、そして帰属意識の拠りどころとしての「ローマ」自体の概念が曖昧なものとなっていた可能性を想起できる。このように、ローマ共和政末期に「ローマ」やその「父祖」が曖昧な存在となったことが、「慣例」の極端な解釈が許容された背景にあったのではないだろうか。

地中海学会大会 研究発表要旨
ヴィットーレ・カルパッチョ作 「スラヴ人会」連作にみられる東方の表象
森田 優子

15、16世紀イタリアで活躍した芸術家には外国出身者も少なくない。活動の場を求めていた芸術家のみならず、国際情勢の変化とともに様々な地域からイタリアへの移住者も同時に存在した。この場合、かれらの依頼した美術作品について語る際には様々な困難が生じる。たいていは移住先の当地の芸術家が制作に携わるため、意向が直接的には反映されないという問題である。ヴェネツィアの「スラヴ人会」に描かれた、画家ヴィットーレ・カルパッチョによる絵画連作(1502年頃~1511年頃に制作)もこうした移住者たちが依頼した作品のひとつである。

この連作の制作動機を語る際には三者の視点が存在する。ひとつはヴェネツィア貴族パオロ・ヴァッラレッソで、1502年に聖ゲオルギウスの聖遺物をスラヴ人会に寄贈した人物である。ペロポネソス半島の要塞におけるオスマン帝国との攻防戦において責任を問われたが、結果的に過失は無いとされた経緯を持つ。寄贈の際、パオロと同時に一門から複数名が入会し、作品中に同年の年記があることから絵画連作とのなんらかの関係があることは確実だと見られている。ふたつ目は、画家の創作面の動機を探るものである。連作は一見すると伝統に則ったキリスト教聖人伝なのだが、モチーフの選択や構想においても当時の流行やベッリーニ周辺の繰り返しではなく、場面の取捨選択や物語表現のアプローチに際だった独自性があると指摘されてきた。とはいえ、上記の視点はスラヴ人会の意向やそもそも取り上げる聖人の選択、主題選択を無視しては論じ得ない。

そして、依頼主たるスラヴ人会の意向を問う視点は、作品の説明とうまく合致する場合にのみ指摘されてきたように見える。作品にみられる東方的モチーフについては、同時代のヴェネツィア絵画における流行、もしくは当時のオスマン帝国との関係が反映しているとされた。この「スラヴ人会」絵画連作はマムルーク朝エジプトとオスマン帝国の風俗を混同している部分は同時代のヴェネツィア絵画と共通しているものの、異なるのはキリスト教国と異教との対立が構図上にも明確に表されている点である。連作中のゲオルギウス伝の逸話は、建築のモチーフを用いてコンスタンティノープルを象徴的に表し、1453年の陥落以降の状況を反映させている。また、メフテルハーネと呼ばれるオスマン帝国の軍楽隊を取り上げているのは当時の美術においては珍しい。ゲオルギウス伝には異教徒と戦うキリスト教の騎士の表現が伝統的に存在し、そこに当時の国際状況が重ねられるのは当然の見方といえる。しかし、ゲオルギウス伝以外の他の作品にそうした状況は無関係なのかという疑問が当然わいてくる。

従前の研究ではアウグスティヌスの逸話が選ばれている意味については、まるで主題の特定で充分とするかのごとく不問に付されてきた。というのもアウグスティヌスは会の守護聖人でもなく、会員の出身地となにか関連があるわけでもない。この関連性の無さをはっきり指摘した先行研究が無いわけではないが、当時スラヴ人会と関わりのあった人物──アンジェロ・レオニーノやベッサリオン枢機卿等──を指摘することで、アウグスティヌスの逸話をどうにかこの組合に結び付けようとしていたように見える。この聖人選択を問い直すには、物語表現を詳細に検討した上で、他の移住者コミュニティの存在も含めた「スラヴ人会」のヴェネツィア社会における状況を考える必要がある。当時バルカン半島からの移住者の組合は、アルバニア人が既に1442年に組合を設立し、スラヴ人会は1451年、ギリシア人会の設立はやや遅れて1498年のことになる。

スラヴ人会にとってこうした組合は会の方向性を決める上で重要な要素だったのではないか。ギリシア人会の創設が遅れた理由には、正教の儀礼の許可をめぐる問題が含まれていた。スラヴ人会の会員に正教からの改宗者が実際にいたかどうか明らかにする調査は不可能にみえる。しかし多くの会員の出身地域だったコトル地方において、カトリックから正教へ集団的な改宗事例が1455年に存在したことや、上記の組合すべてにアルバニアのゼタ地方の出身者が存在したことなどを鑑みると、ヴェネツィア社会において組合の方向性をどう表すかという問題が存在したと考えられる。こうした状況を考え合わせると、この絵画連作全体はヴェネツィア社会にたいする忠誠の表れと見ることができる。ヴェネツィア社会において存在したであろう「スラヴ人会」の異質さはキリスト教と異教の対立のなかでほとんど表現されない。さらにアウグスティヌスの表現に聖三位一体の概念を強調することで、正教ではなくカトリックの信仰をもつことの表明だと考えられるのである。

地中海学会大会 研究発表要旨
グランド・オペラの音楽と舞台演出
―マイヤーベーア《悪魔ロベール》を例に 森 佳子

グランド・オペラとは、1830、40年代のパリ・オペラ座で創造されたジャンルの一種で、合唱、バレエ、オーケストラ効果、舞台美術が1つに融合した、4ないし5幕で構成されるフランス語のオペラである。最初の作品、オベール《ポルティチのおし娘》(1828)に始まり、マイヤーベーア(Meyerbeer)《悪魔ロベール》(1831)、《ユグノー教徒》(1836)などによってジャンルとしての完成をみた。

《悪魔ロベールRobert le diable》初演成功の背景には、当時のオペラ座における視覚面の改革があったと考えられる。先行研究によれば、第3幕の墓から蘇った修道女たちのバレエの場面では、ガス照明によって初めて舞台上にムーンライトが実現し、その舞台効果はドラマや音楽と1つになったという。では実際に、これらの視覚的要素と音楽の融合はどのように行われたのか。

13世紀のパレルモで展開する《悪魔ロベール》の物語は、主人公ロベールが、一度は悪魔である父の誘いに乗るものの、結局母の遺言に従い、悪魔の仲間入りを拒否するというものだ。11月に行われた初演は、オペラ座支配人ヴェロン、作曲家マイヤーベーア、台本作者スクリーブとドラヴィーニュ、舞台美術家シセリ、そして初めての「ディレクトゥール・ド・ラ・セーヌdirecteur de la scène」となったデュポンシェルらの共同作業が実を結んだものである。批評によれば、視覚面の改革は照明だけでなく、近代的な舞台装置にも現れている。舞台上では、三次元の空間にセットが配置され、近代的なトラップ(仕掛け)が使われた。特に第3幕フィナーレに関して、カスティル=ブラーズは「この場面はビクトル・ユゴーのサバトのロンドで、(……中略)音楽、美術、演出そして実演ともに優れていた」と称賛した。「サバトのロンド」とは、1822年に出版されたOdes et ballades所収の詩で、ブランジェは1828年にこの詩に着想を得たリトグラフを発表している。

この第3幕フィナーレは、一体どのように上演されたのか。全体は、Aセーヌとエヴォカシオン、Bバッカナール、Cレシタティフ、D陶酔による誘惑、E賭事による誘惑、F愛による誘惑、G踊られる合唱、で構成される。Gではまさに「サバト」を思わせる、ユニゾンによる力強い合唱が強調されて幕となる。このフィナーレに関して、印刷されたヴォーカルスコア(ピアノ伴奏譜)、印刷された演出台本(Duvergerにより初演後に出版)、手書き演出台本(Paliantiによる前者のコピー)を比較検討した結果、興味深い事実が明らかになった。

演出台本によると、Bバッカナールに入る前、修道女たちはペチコートに着替えるため舞台袖に下がる。そして、入れ替わりに悪魔やフリアイが現れる。続く3つのバレエの後、G踊られる合唱に入ると、修道女たちは再び宗教服を着るために下がる。そして最後にタブローが形成されるまで、舞台の上では悪魔やフリアイによって様々な演技が行われる。しかしこれらの演出は、ヴォーカルスコアと整合性がないため、この通りに上演されたのかどうか疑問が残る。

一般に19世紀のフランスでは、演出は初演時に固定され、台本で維持されたと言われる。しかし考察によれば、そう断定できないことが明らかだ。2つの演出台本には、概ねヴォーカルスコアのト書きを補完する形で、舞台美術・演出に必要なことが記載されている。ところが、少なくとも先述の部分に関して、演出台本はヴォーカルスコアと全く別のヴァージョンであると言える。

マイヤーベーアによる初演前の草稿譜を確認すると、「彼は我々のものになった」(Gの合唱の歌詞)の後、父ベルトランとロベールの二重唱を経て、合唱は各パート別にストレッタを形成し、「驚きに打ちのめされたように」演技を行い、静かに幕となる。以上の記述はヴォーカルスコアと異なるため、少なくともG踊られる合唱は急遽書き換えられたものとわかる。ただし演出台本には、この草稿時のアイディアが反映されたのではないか。

以上から、初演時の実態が見えてくる。ラストはもともと、修道女たちの退場とともに悪魔とフリアイが現れ、音楽はデクレッシェンドして終わる設定になっていた。しかし初演の直前に、修道女たちが亡霊に変わり、地下から悪魔が現れる演出に変更された(ヴォーカルスコア)。そのために音楽も差し替えられ、この部分は全体的に短くなった。そして最後をより印象深くするため、力強い合唱で終わる形に落ち着いた。しかし演出台本には、変更前の要素が残されている。これらのことから、音楽と視覚的要素の融合の際に、後者の変更が音楽にも影響を与えた可能性があったと同時に、当時の演出台本は全てを固定する訳ではなく、より自由な発想を引き出すためのものでもあったと考えられる。

*本研究は、2020年度 花王芸術・科学財団「音楽の研究への助成」を受けています。

学会からのお知らせ

ご存知のとおり、昨今の地中海学会の活動は、新型コロナウイルス感染拡大防止のために大会を延期したにもかかわらず、最終的にはオンライン開催を余儀なくされるなど、コロナ禍の影響を強く受けています。学会のコロナ禍への対応については月報431号でも簡単に報告済みですが、新年を迎えたのを機にあらためてご報告いたします。

  • 研究会について

昨年8月に学会としてZoomプロのライセンスを購入し、4月に予定していた研究会を9月にオンラインで実施して以来、研究会はすべてオンラインでの開催となりましたが、オンラインの効用か、研究会出席者は以前より増加しており、国外からの参加者も見られます。研究会終了後に発表者を囲んで慰労できないのは残念ですが、こうした利点を考えると、コロナ禍が無事収束した後も、研究会は対面とオンラインのハイブリッドで開催するとよいかもしれません。

  • 協賛事業について

新型コロナウイルス感染拡大防止のため、昨春開講予定のNHK文化センター青山教室Jシニアーズアカデミー水曜講座「世界史再発見 地中海の魅力」は今春に延期されました。一方、ワールド航空サービス知求アカデミー講座「地中海学会セミナー」は昨年3月を最後に休止状態で、海外旅行がふつうにできるようになってから再開される見通しです。

  • 大会について

第44回大会は昨年11月、地中海学会史上初めてオンラインで開催されましたが、大会実行委員会は新型コロナウイルスの感染拡大状況や他学会の動向を注視しつつ、最初は予定どおり6月に大会を現地開催できるかどうか、大会延期を決めた後も、新たな日程で現地開催が可能か、それともオンラインで開催するしかないのか、長期にわたる検討を強いられました。

こうした苦境は、目下第45回大会の準備を進めている新たな大会実行委員会にも付いて回っており、昨年末までに次回の大会プログラムはほぼ固まったものの、果たして予定どおり6月に現地で大会を開催できるかどうか、今後も状況を注視して行くことになります。会員の皆さまのご理解・ご協力、どうかよろしくお願いいたします。