地中海学会月報

MONTHLY BULLETIN

学会からのお知らせ

2月研究会

下記の通り研究会を開催します。
テーマ:幻視主題における遠近法とその意味―― 一六世紀初頭の作例を中心に
発表者:森田優子(東北大学非常勤講師)
日時:2月22日(土)午後2時から
会場:学習院大学北2号館10階 大会議室
(JR山手線「目白」駅下車 徒歩30秒、東京メトロ副都心線「雑司が谷」駅下車徒歩7分)
参加費:会員は無料、一般は500円

幻視体験の描写とは「現実性のレヴェルを分裂させる」(ストイキツァ1995年)ことにより、とくにカトリック改革期の美術において表されてきた。それ以前の幻視主題は現実性のレヴェルをいかに描いたか。遠近法空間において幻視という現象を描くことの困難はマンドルラを描くかどうかという点1つとっても大きな課題である。発表では後世に創られた逸話「聖アウグスティヌスの幻視」に焦点をあて、ラファエロ以前の幻視主題について考察する。

「地中海学会ヘレンド賞」候補者募集

地中海学会では第25回「地中海学会ヘレンド賞」の候補者を下記の通り募集します。授賞式は第44回大会において行う予定です。応募を希望される方は申請用紙を事務局へご請求下さい。
地中海学会ヘレンド賞
一、地中海学会は、その事業の一つとして「地中海学会ヘレンド賞」を設ける。
二、本賞は奨励賞としての性格をもつものとする。本賞は、原則として会員を対象とする。
三、本賞の受賞者は、常任委員会が決定する。常任委員会は本賞の候補者を公募し、その業績審査に必要な選考小委員会を設け、その審議をうけて受賞者を決定する。
募集要項
自薦他薦を問わない。
受付期間:2020年1月8日(水)~2月14日(金)
応募用紙:学会規定の用紙を使用する。

第44回地中海学会大会

地中海学会では第44回地中海学会大会を2020年6月13日(土)、14日(日)の2日間、関東学院大学(金沢八景キャンパス)にて下記の通りに開催します。
6月13日(土)
13:00 開会宣言
挨拶:大塚雅之(関東学院大学建築・環境学部 学部長)
13:15~14:15 記念講演 大髙保二郎(題名未定)
14:30~16:30 地中海トーキング
テーマ:「異文化との出会いとその後」
パネリスト:菅野裕子/斎藤多喜夫/堀井優(予定)/石井元章
司会:飯塚正人
16:40~17:10 授賞式「地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞」
17:10~17:40 総会(会員のみ)
18:00~20:00 懇親会(於:3号館食堂)

6月14日(日)
10:00~12:00 研究報告(3名程度)
12:00~14:00 昼食
14:00~17:00 シンポジウム
テーマ:「地中海都市の重層性」
パネリスト:黒田泰介/高山博/山下王世/加藤磨珠枝
司会:黒田泰介(パネリスト兼任)
17:00 閉会宣言 島田誠

大会研究発表募集

第44回大会の研究発表を募集します。発表を希望する会員は、2月14日(金)までに発表概要(1,000字以内。論旨を明らかにすること)を添えて事務局へお申し込み下さい。発表時間は質疑を含めて、一人30分の予定です。採用は常任委員会における審査の上で決定します。

アテネの陶器画に見る「スキタイ人」
岡田 泰介

歴史学は過去の出来事を研究対象とする学問だ。過去を直接に見ることはできないから、歴史家が頼りにするのは過去の人々が残してくれた記録や痕跡だけということになる。これらを史料という。現在では史料として扱われるものは実に多様で、その分類方法も様々だが、ごく大まかに言えば、文字史料と非文字史料の2つのカテゴリに分けられる。文字史料は自分で語る史料、非文字史料は直接には自分から語らない史料だ。こうした史料を読み解くのは、見かけほど簡単ではない。史料の表面に見えていることを、どこまで額面通り受け取ってよいものか見極めるのが難しいからだ。中でも、自ら直接には語らない非文字史料の解釈はただでさえ難しいのに、それが文字史料と矛盾していたりすると、研究者たちは髪を掻き毟ることになる。学者たちを悩ませてきた、そんな史料の1つとして、「スキタイ人」と呼び習わされている絵柄を描いた古代アテネの陶器画がある。

「スキタイ人」は、紀元前530頃から500年頃にかけて突然流行し、その後間もなく廃れてしまった、異国風の人物をモチーフとする絵柄である。人物は、身体にゆったり巻き付ける懸衣(かけぎぬ)系の服を着ていたギリシア人と違って身体にフィットしたシャツとズボンからなる窄衣(さくい)を着、特徴的なとんがり帽子を被り、キューピットが持っているような反り返った弓を携えた姿で表現されていることが多い。ちなみに、スキタイ人というのは、当時黒海沿岸地方に実在した騎馬遊牧民だ。この絵柄が何を表しているのかをめぐって、学者たちは、もう百年以上も論争を続けている。何より厄介なのは、「スキタイ人」の絵柄が流行した(現存しているものだけで500点もある)時期のアテネにスキタイ人がいたと言っている文字史料が1つもないことだ。好奇心旺盛な学者・旅行家で、スキタイ人の歴史や文化について詳細に語っているヘロドトスですら、一言も触れていない。そこで、学者たちの意見は、真っ二つに分かれる。「スキタイ人」の絵柄はアテナイにいた本物のスキタイ人の姿を写し取ったものだという意見と、そうではないという意見だ。

一方の学者たちは、アテネに本物のスキタイ人がいたと固く信じている。絵柄の「スキタイ人」の衣装はとても正確に表現されているから、画家がスキタイ人を直接目にしていなかったはずがないというのが彼らの言い分で、それらのスキタイ人は、当時アテネの政権を握っていたペイシストラトス家の僭主たちや貴族たちの用心棒や従者、奴隷だろうと考える。それなら、どうしてヘロドトスは何も言っていないのか。ある学者は、スキタイ人のお供を連れて歩くのはステイタスシンボルだったので陶器画の絵柄としては人気があったが、スキタイ人の人数自体はとても少なかったから目立たなかったのだと弁明しているけれども、少し苦しいような気がする。別の学者は、絵柄の「スキタイ人」は確かに写実だが、モデルはスキタイ人の衣装を着たアテネの若者だったという奇抜なアイデアを提案している。それなら、ヘロドトスが「アテネのスキタイ人」に言及していなくても不思議はないというわけだ。

もう一方の学者たちの意見は、本物のスキタイ人がアテネにいなかったという点では共通しているけれども、その他の点ではいろいろだ。ある人たちに言わせると、「スキタイ人」の絵柄は、本物のスキタイ人を描いているのではなくて、神話や英雄叙事詩に出てくる弓の達者な英雄を、弓を得意とする東方の民族の姿を借りて表現したものということになる。最近人気があるのは、「スキタイ人」を「視覚的描写の言語」つまり絵画上の記号とみなす解釈だ。このアイデアを採る人たちは、「スキタイ人」の絵柄の中にギリシア人の戦士とペアになったモチーフが多いことに目を付ける。それらは、その頃市民戦士の主流になりつつあったホプリテス(重装歩兵)というタイプの戦士で、陶器画では神話や叙事詩の英雄を表すという約束があった。英雄戦士の武器は槍だ。相手に肉薄して戦う槍こそが勇敢な英雄戦士(市民戦士)にふさわしい武器だった。一方、飛び道具である弓は、臆病者の使う武器だということになっていた。つまり、弓の得意な異邦人の衣装を纏い、弓を携えた「スキタイ人」は、英雄戦士が正に英雄であることを強調する記号なのだ。

「スキタイ人」の絵柄は、紀元前500年頃を境に廃れ始め、ちょうどペルシア戦争の頃に描かれなくなる。ある学者は、その理由を、「弓を携えた異邦人」の記号としての意味が変わったからだと考える。今や、それは英雄戦士の慎ましい引き立て役でなく、「敵(ペルシア人)」のイメージになったのだ。

ボン-ハインリヒ1世――中世の道
柴田 隆功

居住環境の整備がようやく一段落した渡独2か月後の11月下旬。4時には日が暮れ、昼でも5度しかない外気温に閉口し、ボン郊外の半地下の自室にこもって私はこのエッセイを書いている。

留学先のボンは、ハインリヒ1世が921年にライン川に浮かべた船上で西フランク王シャルル3世と和平会談を行った場所だ。来年には会談から1100周年を迎える。ハインリヒは、東のカロリング王家が断絶した後にオットー朝を創始し、この会談において西のカロリング王家のシャルルから「東フランク王」の称号を認められた。会談を記録した史料には、シャルルの滞在地はライン川左岸のBonna castrumとある。この呼称はローマ期の軍団駐屯地に由来し、現在のCastellという地区名やその地区の学生寮Römerlagerはこれに因んでいる。

この駐屯地はマインツからケルンに向かうライン川左岸の街道上に位置したが、それを思うと、道というものは今も昔も人間の定住や移動と切っても切り離せないものだ。特に移動についていえば、初期中世の王は、ひとところにとどまって統治するのではなく、勢力圏内を巡行して先々の滞在地で問題を処理したので、当時のことを理解するためには、道は重要なファクターとなる。

私の目下の研究課題は、ハインリヒ1世の治世における国王証書の発給や王権と教会勢力の関係なのだが、これを調査する際にも、王の移動を無視することはできない。当時の王にとって大事なルートはふたつあった。本拠地のハルツ山地周辺からヴェストファーレン方面へ向かうHellwegという東西交通路と、ドイツ南部やフランケン方面に抜けるヘッセン・テューリンゲンの道路網だ。通行の際には、王とその随行者たちは道沿いの王領地や教会・修道院所領に滞在し、物資を提供された。そのため、どのようなルートで、どれくらいの頻度で王が移動したのか、そして、それがどのように変化したのかがわかれば、王権がその道沿いに存在する勢力とどのような関係を築いていたのかが推定できるのだ。

とはいえ、王の移動を再構成するのは、史料の限られる初期中世においては難しい。基本的には、王の証書に記録された日付と場所をベースに、叙述史料に記録された出来事の情報を重ね合わせることで、巡行路を再構成する。しかし、例えば証書が1年に2通しかない場合は、その間の移動については見当をつけづらい。それどころか、出来事の時期の記述が、複数の叙述史料の間で矛盾していたり、そもそもなかったりするので困ったものだ。

そのため、巡行路を正確かつ絶対的な確度で再構成するのは無理なのだが、個々の滞在の情報とその地に存在した(と推定される)道を結びつけて、直前直後の移動を推測したり、その移動を支えた周辺勢力と王権との協力関係を考察したりすることはできるだろう。

私がこうした視点で史料を読んでいると、王がフルダ修道院に王領地を贈与した922年の証書が気になった。この領地はザクセンからマインツに向かうヘッセン交通圏の道沿いにあったのだ。しかも、この贈与が「所領に付属する道ごと」だったのがとりわけ興味を引いた。

それが書いてある箇所は、所領に付属するものを列挙するだけの定型表現で、特別に力点が置かれたものではない。しかし、この表現が9世紀後半の東フランク王の証書に由来することを踏まえると、話は変わってくる。

道は放っておけば悪くなり、これを維持管理するには相応の人力と物資が必要だ。そこで、カロリング期の王は、後期古代のように街道と橋梁の整備を臣下に命じた。しかし、9世紀の間に、交通網の維持管理は徐々に臣下全般の義務ではなくなっていき、道や橋そのものすらも各個の臣下に譲渡されるようになった。定型表現は、この傾向とともに現れた。つまり、道を所領の付属物として譲渡する文言は、道の管理を手中に留めようという気が王からなくなってしまう流れから生じたのだ。

一方、道を委ねられたフルダ修道院は、ヘッセンのもうひとつの重要な修道院であるヘルスフェルトとともに、王の移動の面倒を見る重要なパートナーだった。ヘッセンは王領地が少なかったため、一帯に大規模な所領を展開していた両修道院が王の移動の際の宿泊や物資の手配をしたと考えられている。以上を踏まえれば、ハインリヒがこの交通の要衝における道や橋の整備を彼らに頼ったと考えるのは、的外れではないだろう。

この小さなケーススタディからは、当時の政治世界の特徴もうかがえる。ひとつは、王が全般的な命令を発することなく、個別の文書で問題に対処したという特徴だ。こうした問題解決の方法はオットー朝期の統治の基本路線だった。そのうえ、交通政策や定型表現の連続性からは、オットー朝の諸王の振る舞いが、一部の領域でカロリング期の東フランク王の延長上にあったということもわかる。その意味では、王朝交代のあった10世紀前半について詳しく調べることで、当時に関する理解を深めることができるだろう。かくして、この取り組みを私の留学における課題のひとつにしようと思う次第だ。

イタリア滞在雑記
北田 葉子

2019年4月から9月まで、在外研究でフィレンツェに滞在した。6か月足らずのそれほど長い滞在ではないが、私が経験したことで、会員にも有益だと思えたことを書きたいと思う。

まずは研究者用のヴィザのことである。以前は自分でイタリアの大学からの招聘状などをとって、大使館に提出しなければならなかったが、現在ではイタリアの大学が移民局に外国人大学教員を招く許可をとらなければいけないシステムになっている。したがって、こちらでやることは少ないのだが、自分で何もできない分ストレスがたまる。一方イタリアの大学教員や事務担当者の負担はかなりのもので、それを頼めるような教員を知らないと、そもそも話が始まらない。私の場合、頼める教員はいたが、彼が手続きをよく知らなかったため、私に許可が下りるまで4か月以上を要し、予定の日に出発できないかもしれないと気をもまされた。現地では大学の事務担当者に連れられて、私も移民局に行ったが、そこは文字通り移民局で、明らかに移民と思われる人々が多かった。なぜ大学が招聘したことになっている研究者が移民局に行かなければならないのか、そこもよく理解できず、しかも大学の事務担当者も、何のために行くのかわかっていなかった。予約も必要で、朝から数回移民局に通ったあげく、通っているのは滞在許可証のためであることが後から判明した。しかし私はすでに郵便局で滞在許可証を求める書類を提出してしまっていた!移民局の担当者は、「間違って既に書類を提出した」という一筆をつけて、私の書類を警察に提出することになったのであるが、大学の事務担当者には、もう少し理解していてほしかったところである。ちなみに、私の帰国日までに、滞在許可証は出来上がらなかった。

次にフィレンツェ国立文書館であるが、私の滞在中の6月に、システムに変化があった。それまでは月曜から金曜まで同じサーヴィスで、午前中に文書の受け取りが可能で、17時半まで開館だったのだが、それ以後、火曜と木曜は13時半に閉館、しかもその日は文書は一切出てこなくなってしまったのである。短期滞在の場合、見ることのできる文書数がかなり減ってしまうだろう。このようなシステム変更の原因は人手不足とされており、説明のために来館者にはペーパーも配布された。その後サーヴィスをもとに戻すよう要求する署名活動もあり、私も署名をしたが、それでどうなるわけもなく、現在もこのシステムのままである。ただしこれまでは2週間ほど全面的に休みとなっていた8月は、祭日以外すべての日が13時半までであるが開館していた。やはり火曜日と木曜日には文書は出てこないのであるが、思い切った変更である。平常時のサーヴィスの低下の埋め合わせだったのかもしれない。

大変になった話を2つしたが、むしろ便利になった側面もある。聖母被昇天の祝日である8月15日にマッサの城を見学に出かけた。インターネットのサイトに年中無休と書いてあったからだが、8月15日という日程もあり、観光地でもないので、実際に行ったらお休みという事態も覚悟していた。ところが本当に開いており、ほかにも観光客がちらほら来ていた。マッサの駅から歩いて行ける上に、見ごたえも十分で、要塞だけではなく、中にあるパラッツォも自由に見学でき、満足度は非常に高かった。城塞の有効利用に関わる委員会Istituto Valorizzazione Castelliが、マッサのコムーネと協力していくつかの城を公開しているとのことで、中にあるバールまでも開いていたのである。

最後にささやかな私の発見を書き留めておきたい。近年トスカーナの辺境地帯を拠点としていた封建貴族についての調査をしているが、実際にかつてのトスカーナ大公国と教会国家の国境地帯(現在のトスカーナとエミリア・ロマーニャの州境付近)を訪れて分かったことがある。山岳地帯はほぼトスカーナに含まれ、エミリア・ロマーニャ地方はかなり平地に近くなっているのである。これを見てこの地域に対するイメージはがらりと変わった。これまで最も急な山岳地帯に国境線があると思い込んでいたのである。地図をよく見ればわかったことであるが、もし地図を見てそのことが分かったとしても、実際に行ってみるほどのイメージはわかなかったであろう。1,000年以上変わらない地理的状況を実地で確かめることの重要性を思い知った次第である。要塞もいくつか訪ねたが、山の中の要塞もあれば、完全な平地にある要塞もあり、辺境地帯の要塞と言えばすべて山岳地帯のものとイメージしていた私は、ここでも目から鱗が落ちる思いであった。

日伊の近代地籍史料の比較
福村 任生

2018年に博士課程を修了し、筆者はいま山深い南信州の飯田市歴史研究所に勤めている。2020年を迎えた現在から2010年代を振り返ってみると、研究のフィールドであったイタリアのヴェネト地方をほぼ毎年訪れていたことが懐かしく思い出される。

イタリアから日本の南信州へのフィールド転向といえば、それなりの覚悟がいるかもしれない。しかしながら、筆者はヴェネト地方の研究で、ナポレオンカタストなどの近代初期の地籍史料を専門的に扱ってきた経験があり、それによって案外すんなりとこの地域の研究に入ることができた。そもそも近代の地籍史料とは、中世より文字のみでつづられてきた課税用の帳簿に加え、地番が割り振られた正確な測量図(=地籍図)を揃えて編製された不動産課税史料群のことである。欧州で最初に体系的に実践された例は、カタスト・テレジアーノとして知られる18世紀のミラノ公国カタストである。その後、ナポレオンの征服地域を中心に、19世紀初頭から欧州各地で近代地籍図が編製されたことはご存知の方も多いだろう。つまり、近代の地籍史料とは、近代国家の必需品であり、それらにイタリアで触れた経験は日本の近代史研究でも案外役に立つのである。なお、筆者はイタリア以外でもオランダやフランスの地籍図をみる機会があったが、日本のものは全く見たことがなかった。そこで、飯田では日本近代の地籍史料を徹底的に研究しようと思いついたわけである。

近代初期の地籍史料は、その性質上、非現用の旧公文書として大切に保管されるべき史料である。イタリアではたいてい地方都市の国立文書館で閲覧できる。特に現ヴェネト州の範囲のナポレオンカタストの史料群は、ヴェネツィアの国立文書館に一括で保管されており、また地籍図はかなりの量がすでにデジタル化されているので、すぐさま画像資料として研究に利用できる。けれども日本ではそうはいかない。そもそも、どこにそうした史料が保管されているのかも不明のため、史料の所在調査から研究は始まる。一般に日本では、法務局に明治期の旧土地台帳とその付図が保管されていると聞くが、法務局は必ずしも歴史研究者に開かれた機関ではないため、経験上は旧市町村の役場史料をあたる方が良い。ちなみに飯田市は、昭和から平成にかけてたびたび周辺の町村と合併してきたのであるが、合併された旧町村の行政史料は、もともとの旧役場にそのまま置き去りにされることが多い。旧役場文書の保管状況はケースバイケースだが、鉄筋コンクリート造の旧役場建物の近くに、漆喰で塗り固められた明治期の土蔵が文書蔵として現在も活用されている例を多く目にする。こうした各地の旧役場の蔵をめぐることで、当地域の明治から大正期の地籍史料の残存状況がようやくみえてくる。

さて次に問題となるのは、みつかった明治期あるいは大正期の地籍図を研究に使いやすいようデジタル撮影することであるが、これがまた難しい。ふつうのサイズの文書史料であれば、一般的なコンパクトデジカメで難なく撮れるのだが、19世紀の地籍図となると、幅1メートル以上に及ぶものも少なくなく、いわゆる大判資料のカテゴリーとなる。フィルム時代ならば中判カメラや俯瞰式の可動台を用いた本格的な撮影システムが欲しいところである。もちろんそんな高級な機材は望むべくもないので、趣味の範囲で買いそろえた一眼レフのデジカメと単焦点レンズを、ジブクレーンというヤジロベエ式の簡易架構システムに固定する。これがなかなか安定せず、撮影には毎回苦労する。

飯田では、このようにまるで技術屋のような工夫をしながら研究を進めているわけだが、明治期の日本の地籍図とナポレオン期のカタスト地図を較べていくなかで根本的な違いがあることがわかってきた。日本の地籍図には建物が全く描かれないのである。これは時代が下った大正期のものでも変化がなく、地図上では一貫して「宅地」と文字で記されるのみである。そのため建物の具体的な形状を知りたければ、建物台帳なる別史料にあたる必要がある。ところでこのような建物のみの台帳はイタリアでは見覚えがなく、日本独自のタイプの史料の可能性もある。欧州では原則的に土地と建物を一括して不動産とみなすシステムであり、地図のなかに建物が描かれるのは必然なのだろう。一方、日本の地籍図は国税である地租の徴収に特化し、家屋を除いた耕地と山林のみを精密に描くことになったのではないだろうか。

こうした推測は、制度史の側から本来検証すべきことではあるが、モノとしての地図史料から具体的に考察できるのは、なかなか楽しい経験である。今後も日伊の比較を大事にしながら丁寧に研究に取り組んでいきたい。

ゴミ問題で揺れるレバノンから地球環境を考える
熊倉 和歌子

去る11月27日、レバノンのベイルート・アメリカン大学にて、高田秀重先生(東京農工大学・教授)による講演“Marine plastic and microplastic pollution: The reality and solution”があり、筆者は共催機関の代表者の1人として出席した。高田先生は、講演会に先立ち、レバノン国内の海岸のいくつかのポイントで、水質検査のためのサンプリングなどのフィールドワークを行っていたのであるが、海岸の環境は、大きなプラスチックゴミの漂着という点では、これまで訪れたどの国よりもひどい状況であったという。講演では、私たちの生活の中で使用されるプラスチック製品が、その後マイクロプラスチックとなって海洋、そして空気までをも汚染すること、さらに、海水中に漂うマイクロプラスチックに水中の有害物質が付着し、それが魚の体内に入り、食物連鎖にのって生物の身体に蓄積されていくことなどが詳細に説明された。質疑応答では、聴衆から次々と手があがり、現地の人たちの関心の高さがうかがわれた。

レバノンでは、近年、ゴミ問題が噴出し、人々の生活に深刻な影響を及ぼしている。国際社会の耳目を集めたのは、2015年のことである。この年、ベイルートとレバノン山岳地域のゴミの集積地であった廃棄物埋立地の閉鎖により、ゴミ収集がストップし、人々の生活圏のあちこちにゴミが積み上げられていった。街路脇に積み上げられたゴミからは悪臭が発せられ、その場しのぎでそれらのゴミを焼却したことにより大気汚染の問題も浮上した。この状況に怒ったレバノン国民は立ち上がり、抗議行動へと発展していった。

そして今、レバノンの人々は再び声を上げ始めた。経済問題に端緒をもつ今回の抗議行動の矛先は、政治家の腐敗に向けられている。10月には、首相が退任に追い込まれ、抗議行動(レバノンの人々は「革命(thawra)」と呼ぶ)も一端は落ち着いたかと思われたが、11月末に筆者がベイルートを訪れた際にも抗議集会や行進が見られた。今回の抗議行動も、ゴミ問題とは無関係ではない。2015年の抗議行動の結果、2箇所の埋立地が新設されたが、その運営権を得たのは、政治有力者と縁故を持つ企業家であった。このようにゴミ処理事業は、利権化し、縁故を通じて取引され、一部の者たちの私腹を肥やしている状況にある。つまり、レバノンのゴミ問題は政治の問題でもある。

しかし、この問題はもはやレバノン国内の問題では済まされない。現在稼働している埋立地の1つブルジュ・ハンムード埋立地は街の中心からほど近い沿岸部に位置する。ここでは、分別をしないまま埋め立てを行っており、有害物質が海に垂れ流されているとの報告がある。無論、このような状況が、マイクロプラスチックをはじめとする海洋汚染の元凶となっていることは疑いようがない。プラスチックは軽く、波にのって海を漂い続けるという。ときには驚くほど長い距離を移動する。ましてや、地中海はジブラルタル海峡で大西洋と接続されるのみであり、環境的に見れば閉鎖的な海である。マイクロプラスチックや有害物質が地中海に蓄積されていくことは想像に難くない。レバノンのゴミ問題は、間違いなく、地中海沿岸地域に居住する人々にも影響してくるのである。

筆者の研究フィールドであるエジプトでも、近年大気汚染がひどく、嫌気がさすほどである。そんなときに、学会や仕事の関係でレバノンにくることが増えた。レバノンのゴミ問題を知ってはいたものの、来てみれば楽園である(数回の訪問時には、路上にゴミがあふれかえるという状況には出会わなかったし、私の目には海も美しく映っていた)。ビブロス(ジュベイル)の古城跡を訪問したあとに立ち寄った地中海沿岸のレストランでいただいたスルタン・イブラヒム(イトヨリダイ)のフライと白ワインの組合せなどは絶品であった。しかし、今思えば、なんと呑気なことか。私たちが口にする魚介類は、汚染された海域を泳いできたのかもしれない(そもそも汚染されていない海域などあるのだろうか)。「私たちは汚染するものであり、汚染されるものでもある」という高田先生の言葉が身にしみる。しかし、だからといって、今後一切の魚を口にしないというのは極端であろう。高田先生によれば、私たちにできることのうち、プラスチックゴミを減らすことが最も重要だという。ベイルートのカフェやバーで、紙製のストローが使われているのが印象的であった。ゴミ問題が日常的に顕在化しているからこそ、環境問題への意識も高い。彼らの行動に学ぶことも多い。

表紙説明

地中海の〈競技〉8:オスマン帝国のレスリング/川本 智史

表紙は1720年にオスマン帝国皇帝アフメト3世の4人の息子の割礼を祝って開催された祝祭の一場面である。仔細を記録する『祝典の書』にはレヴニーの手になる細密画が付されていて当時の情景をよくしのばせる。場面ではレスリングがおこなわれており、上半身は裸で下半身にはゆったりとしたズボンをまとった2組の男が組み合っている。左側には審判とおぼしき男性が立ち、周りでは太鼓と管楽隊が音楽を奏でる。なぜかレスリングの試合の眼前では三角帽子をかぶった手妻遣いのような男が技を披露している。

東は日本の相撲、韓国のシルム、モンゴルのブフから、西は古代ギリシアのパレーに至るまで、2人の男が道具をもたずに組み打つレスリングは人類最古の競技といって間違いないだろう。古代のオリンピックでもパレーと、これに打撃技などを加えたパンクラティオンは競技のひとつとして採択されていた。遊牧時代のテュルク族では女性もレスリングをしたようで、英雄詩デデ・コルクトの書では自分にレスリングで勝利することを結婚の条件とする逸話が登場する。イスラーム時代に入ってアッバース朝宮廷ではスポーツとしてレスリングが推奨され、カリフ自らがこれをおこなうこともあった。オスマン朝でもペフリヴァーンとよばれる力士たちは技芸者として重用され、15世紀後半からは力士組として扶持を得た。近代になってレスリングにとりわけ入れ込んでいたのはアブディルアズィーズ帝(在位1861-76)で、全国から多数の力士をイスタンブルに呼んで大会を開催し、外遊時にも同伴したという。

現在では帝国第2の首都エディルネ(旧名アドリアノープル)近郊で毎年夏にオイルレスリング=ヤールギュレシュの全国大会が開催されて活況を呈している。今日のルールではぴちぴちの革ズボンを履いて全身にオリーブ油を塗るため、相手をつかむことは困難を極める。そこで相撲のように腰回りをつかまずに、レスリングのように相手の頭から肩口を取るのが基本のポーズとなる。『祝典の書』ではズボンの裾をつかんでひっくり返す技が見られるが、今日でもこのような技でフォール勝ちを狙うのが常道なようである。興味のある方はインターネットなどで是非ご覧いただきたい。

レスリングの種類にはオイルの有無などいろいろあったようで、たしかに祝典の書ではオイルを塗っているようにはみえない。貴重品であるオリーブ油を惜しげもなく用いる今日のスタイルは、オリーブがたわわに実る地中海世界特有なものであろう。中央アジア流のレスリングとパレーを源流とするスタイルがどのように融合したのかなど、興味は尽きない。ちなみに日本の大相撲ではかつてのオスマン帝国領とその周辺であるブルガリアやジョージア、エジプト出身の力士が登場したものの、本国というべきトルコからは残念ながらまだ参戦がないようである。