地中海学会月報

MONTHLY BULLETIN

学会からのお知らせ

10月研究会

下記研究会を開催します。奮ってご参加下さい。
永井裕子氏「アントニオ・ダ・モンツァの写本装飾──ロンバルディアおよびローマ教皇庁周辺での活動に関する問題──」
日 時:10月13日(土)午後2時より
会 場:学習院大学 北2号館2階史学科閲覧室 ※会場が変更されております。御注意下さい。
(JR山手線「目白」駅下車徒歩30秒、東京メトロ副都心線「雑司が谷」駅下車徒歩7分)
参加費:会員無料、一般500円

アントニオ・ダ・モンツァは15世紀末のイタリアで、教会関係の写本装飾に従事した画家である。ロンバルディア地方のフランチェスコ会修道士であったこと以外に、この画家に関する確実な史料は残されていない。本発表は、ミラノやローマに由来する作品の様式および図像の分析を通して、この画僧がロンバルディア地方で様式的基盤を築いたのち、ローマにて、ウンブリア派やローマ独自の表現を取り入れたことを確認し、この地で活動したことを論証するものである。

会費納入のお願い

今年度会費(2018年度)を未納の方は、至急お振込みいただきますようお願い申し上げます。不明点のある方、学会発行の領収証をご希望の方は、お手数ですが、事務局までご連絡下さい。なお、新年度会費(2019年度)については2019年3月末にご連絡します。
会 費:正会員 1万3千円/学生会員 6千円
振込先:口座名「地中海学会」
郵便振替 00160-0-77515
みずほ銀行九段支店 普通957742
三井住友銀行麹町支店 普通216313

会費口座引落について

会費の口座引落にご協力をお願いします(2019年度から適用します)。
1999年度より会員各自の金融機関より「口座引落」を実施しております。今年度(2018年度)入会された方には「口座振替依頼書」をお送り致しました。また、新たに手続きを希望される方、口座を変更される方にも同じく「口座振替依頼書」をお送り致します。事務局までご連絡下さい。なお、個人情報が外部に漏れないようにするため、会費請求データは学会事務局で作成します。

寄贈図書

『死者を記念する 古代ギリシアの墓辺図研究』篠塚千惠子著、中央公論美術出版、2017年11月
『アフロディテの指先 パルテノン彫刻を読む』篠塚千惠子著、国書刊行会、2017年11月
『ルネサンス再入門 複数形の文化』澤井繁男著、平凡社(平凡社新書)、2017年11月
『海 マーレ』武田秀一著、藤原書店、2017年12月
『ラファエロ 作品と時代を読む』越川倫明・松浦弘明・甲斐教行・深田麻里亜著、河出書房新社、2017年12月
『ヴェネツィアの歴史 海と陸の共和国』中平希著、創元社、2018年3月
『中世ヨーロッパの美術』(ふくろうの本)浅野和生著、河出書房新社、2018年3月
『初期イスラーム文化形成論 エジプトにおける技術伝統の終焉と創造』長谷川奏著、中央公論美術出版、2017年11月
『レオンの「九六〇年聖書」研究』毛塚実江子著、中央公論美術出版、2017年2月

地中海学会大会 記念講演要旨
熊野の魅力
林 雅彦(国際熊野学会前代表)

『日本経済新聞』2012年6月16日付け朝刊に掲載された「NIKKEIプラス1社寺と自然 楽しむ巡りの道」は、学識経験者の推す巡礼の道で、1位に熊野古道が選ばれ、4位にも関連する西国三十三所があがっている。「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録されてからは、バックパッカーの外国人が増えたとも言う。

「熊野」とは、東西南北の牟婁4郡と考えるのが妥当であろう。この熊野は、何と言っても山・川・滝・海の自然に対する人々の畏敬・崇拝を抜きにしては考えられない。森・洞窟・岩石・海岸・岬・潮流といった文化的景観に秀れた地である。

さて、『日本書紀』「神代 上」には、国産み神話中のイザナミ命が火の神カグツチ出産時に亡くなる話が見られる。女神の霊魂を慰めるため、その土地では「花の時には亦花を以て祭る。又鼓吹幡旗を用て、歌ひ舞ひて祭る」と記す神事が、花の窟神社で二月と十月に今日まで行われているのである。又、『古事記』中巻「神武天皇」条や『日本書紀』巻3「神日本磐余彦天皇」条には、神武天皇東征伝承があり、熊野と八咫烏が登場する。『万葉集』を繙くと、「み熊野の裏の浜木綿百重なす心は思へど道に逢はぬかも」の如く記述された「み熊野」の例が幾つか見られる。高温多雨の熊野の樹木は成長が早くて、当時から船材として用いられていたことが知られる。

日本一の落差(133m)の那智の滝も、早くから文献に登場するが、「那智参詣曼荼羅」は、中世末ごろには屡絵解きに供されてきた。

「熊野詣で」の例は、既に11世紀中頃の増基法師『いほぬし』に見える。増基は、遁世と滅罪のために熊野詣でを実行した。往路は京から住吉に出たが、復路は伊勢路(文献初出)を通って京に戻っている。

院政期から中世の熊野詣でにも些か触れておきたい。平安期(1083年より以前)になると、「三熊野信仰」「熊野三所権現信仰」と称される信仰が生じ、本宮は「山の熊野」、新宮と那智は「海の熊野」と称され、「熊野三山」として一体化が成される。加えて本地垂迹説も顕著になった。かくして、熊野の地は、死者・霊者への中間媒体の場所と考えられ、海彼の「常世(他界)」を信仰する現世の地と見做され、「補陀落渡海」思想も顕著となったのである。かくして、熊野詣では、死後の救済と現世利益を希求する地として認識されるところとなった。因みに、三十三回参詣の後白河法皇をはじめとする上皇たちの熊野参詣は、多数回の参詣が功徳をもたらすという信仰によるものだった。

藤原宗忠『中右記』を見ると、20歳の時熊野詣でを志して精進潔斎を行っている最中に、飼犬の死に出くわし、計画を取り止めた。しかし、熊野詣でへの思いは止みがたく、再度精進潔斎している折りに、叔父の三井寺禅師の死の報せで服喪することになって、またしても中止せねばならなかった。犬の死穢から28年後の天仁2年(1109)3度目の熊野詣でに挑戦した。「此廿八年不レ遂二本意一也。今日幸遂二参詣之大望一、参二證誠殿御前一、落涙難レ抑、随喜感悦、加レ此之事定二有宿縁一歟」と、この度の参詣にいたく感動している。このような真摯な熊野詣でが読む者にもじわーと感慨が伝わってくる。

次に中世に眼を転じてみよう。後白河法皇纂『梁塵秘抄』所収歌謡中にも、幾つか熊野に関するものが見られる。例えば、「熊野へ参らむと思へども、徒歩より参れば道遠し、勝れて山峻し、馬にて参れば苦行ならず、空より参らむ、羽賜べ若王子」には、悪路難路での実践行が現に存在し、それゆえに広大・慈悲の功徳があると考えられる。また、和泉式部が伏拝王子で月の障りになり、本宮参詣を諦めたその夜の夢に「もとよりも塵に交はる神なれば月の障りもなにか苦しき」と神の託宣歌があったという『風葉集』の伝承歌も、熊野詣でを考える際に、忘れてはならない。『玉葉集』には、筑紫の人の子が3歳で大病を患い、熊野の神に縋って快方するが、お礼参りをしなかったため、7歳で再び重病になった時、「待ちわびぬいつかは此処にきの国やむろの郡は遥かなれども」と神が詠んだと伝える。件の歌は神詠となってはいるが、神官などが参詣を勧める背景が見え隠れする。

近世文学を考える際、人形浄瑠璃や歌舞伎中に、青岸渡寺を西国三十三番観音霊場巡礼の第1番札所として描出する例が見られることも記しておきたい。さらに、山梨志賀子の『春埜道久佐』には、女人巡礼のひとり旅が見える。

「人々はなぜ熊野詣でをするのか」を考えてみたい。それは、幸福や救済を求めて旅に出たり、悩みや苦しみを捨てる旅であったり、病気やケガの平癒を願ったり、親・兄弟姉妹あるいは我が子の菩提を弔ったりと、理由は様々である。
熊野の多様な魅力の一端をご紹介しました。

地中海学会賞を受賞して
篠塚 千惠子

この度は地中海学会賞をいただきまして、身にあまる光栄に存じます。この学際的な学会に長く会員として名を連ね、これまで多くの方々が目覚ましくも素晴らしい活動を展開されているのを仰ぎ見てまいりました。それだけに、このような栄えある賞が我が身にもたらされるとはまことに思いがけなく、驚きと喜びこもごもにしつつ、心からお礼を申し上げます。

私はこの3月に武蔵野美術大学を定年退職し、教員生活に終止符を打ったばかりですが、定年前にどうしてもと思っていた本を二冊、昨年11月に出すことができました。一冊は受賞理由に挙げられております『死者を記念する──古代ギリシアの墓辺図研究──』(中央公論美術出版)です。これはかつて修士論文で手がけたテーマを再びとりあげ、徹底的且つ総合的に研究し直したもので、白地レキュトスという前5世紀アテネで葬礼に用いられた香油陶器に描かれた絵、墓碑とその周囲に人物を配した一見墓参りのような場面(墓辺図)を中心にして、古代アテネ独特の埋葬習慣や死者観を探求しました。

遥か昔、早稲田大学で澤柳大五郎先生の講義やご著書を通して白地レキュトス画の美しさを知って夢中になったのが私のギリシア美術研究の出発点でした。以来ずっとギリシア美術を専門に研究を続け、縁あってイタリアに2年ほど留学したことから南イタリアのいわゆるマグナ・グラエキア美術やシチリアに残るギリシア美術にも手を染めるなど、種々のテーマと取り組んできました。それが、還暦という節目を迎える頃から、もう一度白地レキュトスの研究をやり直してみたいという思いが強まり、後で触れるパルテノン調査と並行しながらここ10年ほどこの研究に没頭してきました。修士論文から30年以上もの時を経て再開した今回の研究は、ただ単に白地レキュトスの墓辺図に集中するのではなく、アテネ都市国家とその領土であるアッティカ地方の墓地の歴史を幾何学様式時代から辿って、大理石の墓碑彫刻を含むアッティカの墓の美術という大きな流れを通観する遠大なものへと広がり、書き上げた時には自分でも驚くほどの長編論文になっていました。ギリシア美術史の新しい見方や方法論、歴史学や考古学の成果を大幅にとりいれて、自分のこれまでの研究の集大成というと大袈裟になりますが、それでもやはり長年ギリシア美術の研究を続けてきた蓄積がなかったら完成させられなかった、そういったものになりました。

他方、私の研究生活に大きな影響を与えたものとして、1995年から始まり、断続的に現在まで続いているパルテノン調査があります。パルテノン神殿の彫刻をさまざまな角度から再検討しようとする科研費による国際学術調査でして、当時東京学芸大学教授だった水田徹先生がお始めになり、第二次調査からは筑波大学教授の長田年弘さんが研究代表者として、美術史研究者だけでなく歴史学や碑文学の専門家、絵画彫刻の制作者も含んだ学際的なチームを組織統率されています。第一次調査から参加してきた私にとりまして、この調査はギリシア美術の一つの頂点たるパルテノン彫刻に間近に接してのものでしたから、常に興奮と感動を伴うものでした。この貴重な経験から溢れてきたものを、論文形式ではなく、エッセイ風に、物語風にまとめたのがもう一冊の『アフロディテの指先──パルテノン彫刻を読む』と題した本(国書刊行会)です。

白地レキュトスもパルテノン神殿の彫刻も、一方は私的なつつましい墓の美術、もう一方はアクロポリスに燦然と輝く公的美術、両者は一見無関係のようでいてそのどちらも同じ根から、前5世紀アテネの黄金時代の文化から生み出され、深いところでつながりあっています。両者を同時並行的に対比させつつ思考を巡らせていくことができたことは、私の研究者人生にとってこの上なく贅沢な体験となりました。

これまで半世紀近くもギリシア美術の研究を続けてこられたのは、ひとえに良き出会いに恵まれたおかげです。そうした良き出会いとなった方々、中にはすでに鬼籍に入られた方もいらっしゃいますが、そのほとんどが地中海学会の会員であるのは偶然ではないでしょう。私の研究生活にはいつも地中海学会が直接的にも間接的にも身近にあったのだなと今にして気づかされております。

教員生活の幕を閉じたことだし、そろそろ研究生活の幕引きもと考え始めていた矢先の今回の受賞。〈人間とは何者か?そは影の夢。だが、ゼウスなる天からの輝かしき光が注ぐとき生はよろこばしきものとなる〉、このピンダロスの詩の一節を想い起こさせるまばゆき光を浴びて、まだもう少し研究の深化を、と思います。

第23回 地中海学会ヘレンド賞受賞によせて
河村 英和

この度は、拙書『Storia degli alberghi napoletani. Dal Grand Tour alla Belle Époque nell’ospitalità della Napoli «gentile»』(CLEAN Edizioni, 2017)に対しまして、このような格調高く誉ある賞を有難うございました。ヘレンド日本総代理店星商事の鈴木大介社長、塩谷博子様、審査員の先生方皆さまに、衷心より御礼申し上げます。

本書は、16世紀から20世紀前半までのイタリア・ナポリの都市建築史を、当時存在していたホテル・宿屋・部屋貸し業の文化史から読み解いたもので、ナポリにやってきた歴史上の有名人(詩人、哲学者、画家、彫刻家、作曲家、政治家、王侯貴族など)約150名のナポリでの滞在先が一次史料から同定されています。題名を訳すと『ナポリ・ホテル群史──グランドツアー時代からベルエポックまでのナポリ流おもてなし』になりましょうか。イタリア語の副題にあるNapoli «gentile»(「優しい」ナポリ)という、二重山括弧でくくった形容詞は邦訳しにくく、ここで説明させていただきますと、イタリアの代表的な都市に付けられたニックネームのような、各々の町を象徴する形容詞に由来しています。16~20世紀初頭までに刊行された地理書や都市史書で度々言及されてきた「聖なるローマ、優しいナポリ、美しきフィレンツェ、豪華なヴェネツィア、極上のジェノヴァ、偉大なミラノ、美食のボローニャ、古(いにしえ)のラヴェンナ」という有名なフレーズです。ナポリの順番がローマの次にやって来ること、つまり町のヒエラルキーがローマの順次であるということは、ナポリがイタリア国家統一前までは、ロンドン、パリに次ぐ大都市であり、イタリア最大面積と文化的栄華を極めたナポリ・両シチリア王国の首都であったことと無縁ではありません。

本書の執筆は2005年に学位を修得したナポリ・フェデリコ2世大学建築史科での博士論文に遡ります。当時は、ナポリを擁するカンパーニア州全土のホテル史を構築しようと息巻いていて、ナポリだけでなく、ソレント、カプリ、イスキア、プロチダ、アマルフィ、ラヴェッロ、ポジターノ、サレルノ、カーヴァ・デイ・ティレーニ、カステッラーマーレ・ディ・スタビアといった、カンパーニア州内の主要な観光地の歴史的ホテルの関連史料を集めて調査を行っていました。このような複数都市の研究を同時進行してゆくなか、最も早く成果をまとめることができたのがカプリ島のホテル史で、2005年、カプリの出版社から『Alberghi storici dell’isola di Capri. Una storia dell’ospitalità tra Ottocento e Novecento(カプリ島の歴史的ホテル群──19~20世紀の饗応の歴史)』として上梓しました。その後イタリアを代表する最高級ホテルであるカプリ島の老舗「グランド・ホテル・クイシサーナ」の全史を描いた本を、創業150周年記念の年に、同出版社から『Il Quisisana. Biografia del Grand Hotel di Capri』(Edizioni La Conchiglia, 2011)という題で刊行し、この2冊の功績から、カプリ島と地理的に所縁深いソレント市より、2016年、同市生まれのルネサンス詩人の名を冠したトルクアート・タッソを受賞しました。カプリは一つの島であり、その観光史とホテル発生期は18世紀後半からで済みますが、本テーマとなったナポリの場合となりますと、王国の首都であり宿泊施設の数も桁違いで、その歴史は少なくとも中世(ボッカッチョのナポリ滞在)ぐらいから始めなくてはならず、本書の形になるまでは、想像していたよりも多くの年月を要してしまいました。

偶然にも今年の学会・授賞式の会場が和歌山県新宮市で、国際熊野学会と合同で行われたことは、私の研究歴にとって、とくに感慨深いものとなりました。それは、熊野市とソレント市は2001年から姉妹都市提携を結んでいて、当時ナポリ留学中の私は、その締結式に市長通訳として同行させて頂いたことに加え、今回の『ナポリ・ホテル群史』は、私のカンパーニア州ホテル都市文化史シリーズのカプリに続く第2弾ですが、第3弾はソレントにしようと思っているからです。

今回の第41回大会の会場となった新宮市も、私のホテル史研究と連動して進めているもう一つの研究にとって、とりわけ意義深い町なのです。その理由は次の通りです。19世紀イタリア(とくに地中海沿岸と内陸部)の重要な歴史的ホテルの創業は、しばしばスイス人企業家たちが関わっていたために、私はイタリア・ホテル史研究のために、毎年スイスでも史料収集を行いつつ、スイス観光史にも手を染めています。そのため現行の科研費研究では、スイス国外で建設されたスイス・シャレー風建築の受容史を課題にしています。そんなスイス・シャレーの影響を強く受けた建物の一つが新宮市にあるのです。同市出身の多彩な文化人、西村伊作の自邸(1915年、現・西村伊作記念館)で、今回は修復中のため見学ができませんでしたが、将来また意を新たにして地中海学会とヘレンド賞への熱い想いとともに、新宮と熊野へ戻ります。このような機会を下さり本当にどうも有難うございました。

地中海学会大会 研究発表要旨
西行歌にみる海浜の風景──「海人」への視線──
中西 満義

西行(一一一八~一一九〇)は、二十三歳で出家遁世を果たし、以後、修行の旅として諸所を訪ねた。二度におよぶ奥州への旅(初度、再度)、四国への旅はその主要なものだが、ほかにも、伊勢や熊野など、各地を経巡っている。旅の歌人、漂泊の歌人といわれる西行にとって「海」は、修行の旅の途次に見出された新たな風景の一つであった。西行の旅の目的は聖地巡礼、あるいは歌枕探訪であったが、そこにいたるまでに目にした風物の中には、都人の規矩では捉えることのできないものも存した。海浜で生業を営む「海人」は、その一つであった。

西行歌の中には、古今集以降の王朝和歌が形成してきた類型的な詠法にもとづく詠歌が少なからずみとめられる。「海人」についても、

磯の間に浪荒げなる折々は恨みを被く里の海人(山家集・六九三)
いかにせん来ん世の海人となるほどに見る目難くて過ぐる恨みを (山家集・七〇八)
我が恋は三島が沖に漕ぎ出でてなごろわづらふ海人の釣舟 (聞書残集・一二)

など、漁労の実態とは無関係に捉えた恋歌が見出せる。やるせない恋情というよりも、相当に激烈な恋情を表出した恋歌ではあるが、王朝和歌の規範に則した詠歌と言える。三首目の歌は「知らせて悔やむ恋」という題が付された題詠歌であるが、「なごろわづら」という表現は留意される。浪のうねりを意味する「なごろ」は、院政期の源俊頼に四例、そして、西行にも四例と、用例に偏りがある語彙で、影響関係も気になるところである。

今回の発表では、西行歌の中から海浜でさまざまな生業を営む海人(海士、海女)を詠じた歌々を取り上げて用語、詠法の特長を明らかにした。上掲、歌語、歌ことばとして定着をみていた「海人」ではなく、実際に海浜で漁労を営む様態を捉えた詠歌に西行和歌の有する魅力の一端があることを指摘した。ここでは、伊勢の地での詠を挙げてそのことを確認したい。

伊せのふたみのうらに、さるやうなるめのわらはどものあつまりて、わざとのこととおぼしく、はまぐりをとりあつめけるを、いふかひなきあま人こそあらめ、うたてきことなりと申しければ、かひあはせに京より人の申させ給ひたれば、えりつつとるなりと申しけるに
いまぞしるふた見の浦のはまぐりを貝あはせとておほふなりけり (山家集・一三八六)

二見浦で蛤を採っている人々を見て西行は、「いふかひなきあま人」であるならば仕方がないけれども、「さるやうなるめのわらはども」が蛤を選り集めているとは何事か、と慨嘆するのである。詞書では会話という形式を採りつつ状況を説明し、和歌で「都で執り行われる貝覆いのために、二見浦でこうして蛤を拾い集めていたのだ」と得心する、という仕立てになっていて、海浜での漁労が都の雅事において不可欠なことであることがより強調されることになる。西行自身、周知の事柄であった筈であるが、初めて気付いたという体を装っている。こうして、「殺生」などという観念では截ち切ることのできない現実を西行は和歌に閉じ込めるのである。

掲出歌につづいて配されている次歌も、看過されてしまう海浜の風景を捉えた一首と言える。

いらこへわたりたりけるに、いがひと申すはまぐりに、あこやのむねと侍るなり、それをとりたるからをたかくつみおきたりけるをみて
あこやとるいがひのからをつみおきてたからのあとをみするなりけり (同・一三八七)

真珠を愛でる者は多いが、その残骸たるイガイの殻が積み重なっている光景に目を留める者は少ない。まして、その様を和歌に詠み残す者は西行を置いてほかにいない。

海浜の「海人」を捉えた西行の和歌は、漁労の実際にたいする関心にもとづく観察によって詠じられている。収獲物(海産物)の名前を詠みこんだ歌々などには、機知的、諧謔的なものが散見されるが、それらにも西行の思いは込められている。敢えて非歌語的な用語、非和歌的な表現を用いることで「かたち」にしようとした西行の試みは、和歌の新たな地平を切り拓いた。西行の和歌が時代を越えて愛され続ける理由はそのような点にも見出されるのではなかろうか。

[付記]
二日間にわたる大会(地中海トーク、研究発表、シンポジウム)をとおして、キリスト教やイスラーム教の聖地巡礼の具体相の一端を知ることとなった。守川知子氏「シーア派イスラーム社会の精緻巡礼と移葬」、太田泉フロランス氏「巡礼・聖地・聖遺物──日欧巡礼体験からの一考察──」などを拝聴し、巡礼者たちはどのような詩想を抱いて旅をしていたのかということが気になった。巡礼記などに拠りつつ、宗教文化の比較がなされ得るならば、そこに西行の修行の旅を並べてみたいという思いがよぎった。贅言ながら、記して謝意を表する。

自著を語る93
『凱旋門と活人画の風俗史 儚きスペクタクルの力』
講談社選書メチエ 2017年9月 328頁 1,850円+税
京谷 啓徳

凱旋門と活人画という二つの西洋風俗について、この十五年ほど追いかけてきたことをようやくまとめることができた。

凱旋門の方は皆様ご存知だろう。ローマやパリにある例のものである。といっても、私の研究対象はハリボテで作られた仮設凱旋門だ。もともと古代ローマ人の習慣にあった凱旋門が、ルネサンス期に甦り、君主の入市式の際に仮設建築のかたちで作られた。一方の活人画(タブロー・ヴィヴァン)というのは、あまり耳馴染みのない言葉かもしれないが、衣装を身に着けた人物が静止したポーズで絵画を再現するパフォーマンスを意味する。こちらは、そもそも中世に教会で行われた典礼劇に端を発するとされるが、中世末にはアルプス以北の国々の君主の入市式を飾り、ルネサンス期には凱旋門を舞台に演じられることもあった。凱旋門と活人画は、一体となってルネサンス宮廷の君主のスペクタクルを形作っていたのだ。

このように、凱旋門と活人画という出自を異にするものが、ルネサンスの宮廷祝祭で一緒に用いられていたわけだが、それが近代市民社会においては別々に生き残った。凱旋門は国家の記憶装置として建築され続け、活人画も上流階級の夜会の余興や庶民の娯楽として行われた。そして双方が、万事西洋に学んだ明治期の我が国に移入された。日清・日露戦争の祝捷のために仮設凱旋門が陸続と建設され、活人画も明治のハイカラ風俗として喜ばれた。そして活人画の流れ着く先は、本邦におけるヌード・ショウの嚆矢たる、昭和の「額縁ショウ」だ。

ところで、凱旋門と活人画には一つ共通点がある。それは、いずれもその本質がエフェメラル(束の間の、一時的な)であるということだ。凱旋門は仮設建築として建設され、祝祭が終われば解体される。活人画は、まさに生きた人間が瞬間的に絵画を再現し、たちまち消えてなくなる。忽然と姿を現し、すぐさま消え去ってしまう両者は、そうであればこその力を有した。それはスペクタクルの力と称することができるだろう。スペクタクルとは、視覚に強い印象を与えるものの謂である。日常見慣れているものは、いまさら目を引くものではない。エフェメラルな事物はにわかに出現し、束の間存在し、儚く消えていく。人はその非日常的なスペクタクルに、いささかの胡散臭さも含め、多大な魅力を感じるのだ。

このように儚い運命にある仮設凱旋門と活人画は、ルネサンスから現代の長きにわたって用いられてきた。その役割は歴史を通じて一様であったわけではない。本書で詳しく論じたように、君主や国家のプロパガンダのために使用されることもあれば、人々の娯楽に供されることもあった。それは、それらが魅力あるものだからこそ、強く人々の心を掴むものだからこそだろう。

ここで本書の構成を紹介しておこう。本書は7章からなるが、全体は3部に分かれる。第1部では、主にルネサンス期の「入市式」と呼ばれる儀礼において、凱旋門と活人画がどのように使用されたのかを論じた。第2部では、フランス革命以後の西洋近代において、凱旋門と活人画がいかに市民社会に受け継がれたのかを検討した。文豪ゲーテが活人画のプロモーター的役割を果たしたことは、意外と知られていないかもしれない。そして第3部では、それらが明治期以降の我が国に移入されていく経緯をたどった。1~3部でそれぞれ扱われる凱旋門と活人画は、時を超え、洋の東西を越えて、様々なジャンルの芸術と触れ合いながら、スペクタクルの力によってつながっていく。本書は、凱旋門と活人画というものを通して、スペクタクル文化の表裏、高尚なるものと下世話なものを縦覧する時空の旅へのいざないの書でもある。

凱旋門と活人画という一見奇妙な取り合わせについて以上に説明したが、私としては、美術史と芸能史という、もう一つの取り合わせを試みた書物でもある。私はイタリア・ルネサンス美術を専門とする西洋美術史研究者だが、それとは別に、趣味が高じて近代芸能史研究も手がけている。全く無関係なこの二つの研究分野を、活人画がつなげてくれた。今後も、美術史と芸能史(あるいは演劇史)を縒り合わせるような研究を続けていくことができればと思っている。

思い起こせば、この書物の切っ掛けになったのが地中海学会だった。2003年の金沢での大会の際に「地中海世界と祝祭」と題するシンポジウムが企画され、パネラーとしてルネサンスの宮廷祝祭をテーマに報告をさせていただいた。その折にはじめて、ルネサンスの仮設凱旋門について調べたのだった。その時は、それが近代日本にまで至る遠大な展開の端緒になるとは予想もしていなかったが、研究というのはそういうものなのだろう。研究の肥沃な土壌に種を蒔いていただいた本学会には感謝している。

表紙説明

地中海の〈城〉15:ポルトガルにあるムーア時代の名残り/マウロ・ネーヴェス

ポルトガルにはムーア人がイベリア半島を統治した時代(アル=アンダルス)の城が幾つか残っている。リスボンにあるサン・ジョルジェ城もその一つだが、今回はポルトガル南部のシルヴェス城を取り上げたい。

シルヴェスは、ポルトガル初の王朝であるブルゴーニュ王朝がムワッヒド朝から12世紀半ばにレコンキスタにより奪還した当時、アルガルヴェ(アラビア語で西を意味するアル・ガルブに由来する名前)地方の最も大きな都市であった。
この地域には、旧石器時代から人間が住んでいたとされ、当時の遺跡も残っている。ローマ時代には、表紙写真(左上)に写っているアラーデ川が内陸のアルガルヴェと地中海をつなぐ交通の要衝になり、シルヴェスが建設されたと言われている。シルヴェスにはローマ時代の小さな橋もあり、筆者が泊まったホテルの名前もポンテ・ロマーナ(「ローマの橋」の意)であった。表紙写真(右)は、そのテラスから撮ったシルヴェス城である。

716年のムーア人侵入後、ウマイヤ朝の都市として栄え始めたこの城が最も輝しい時代を迎えるのは10世紀以降である。10世紀、シルヴェスはアル=アンダルスのアル・ガルブ地方の一都市となり、さらに1027年にはタイファ(イスラーム教の君主小国)となった。

シルヴェス城は元々小さな要塞に過ぎなかったが、ムーア人により大幅に改修され、現在の形になった。シルヴェス城は、ポルトガルに現存するアル=アンダルス時代の城のなかで、最も荘厳な城である。

1156年にムワッヒド朝の傘下に置かれたシルヴェスは、イベリア半島西部におけるレコンキスタの戦いの中心地となった。しかしレコンキスタにより1189年に一旦ポルトガル領になったものの、1242年までコルドバ・タイファの治世下におかれた。同年にシルヴェスはようやくポルトガルの一部になると、シルヴェスにあったモスクは大聖堂に改修され、城は放棄された。

1755年、シルヴェス城はリスボン大地震により倒壊した。しかしその一部が再建されたのは1835年、歴史的な価値のある城として認可されたのは1910年、現在の形に修復され始めたのは1985年以降である。

現在のシルヴェスはとても小さな町に過ぎない。しかしアルガルヴェの中心都市ファロよりも美しく、静かに過ごせる町である。そして今尚アルガルヴェの内陸と、アルガルヴェの海沿いのリゾート地やリスボンをつなぐ交易の中心地になっている。

私は2003年12月30日に訪れた際、バスでリスボンからシルヴェスへ向かい、翌日にシルヴェスからアルガルヴェ線の電車でラゴスへ向かった。シルヴェスでは城をゆっくり観光するため、一泊した。朝、日中、夜と一日中町を見渡せる城で、ムーア人が統治した時代のポルトガルに思いを馳せながら過ごす時間は至福の時であった。観光客が溢れているアルガルヴェの海岸と比べて時間がゆっくりと流れ、人も少ないシルヴェスで、アルガルヴェの旅に一息入れることをぜひお勧めしたい。