地中海学会月報 MONTHLY BULLETIN

学会からのお知らせ

12月研究会

下記の通り研究会を開催します。奮ってご参集下さい。
梶原洋一氏「中世ドミニコ会統治における総会と総長──修道士による学位取得の問題を通じて──」
日 時:12月8日
会 場:学習院大学 北2号館10階 大会議室
(JR山手線「目白」駅下車 徒歩1分、東京メトロ副都心線「雑司が谷」駅下車徒歩7分)
参加費:会員は無料、一般は500円

13世紀初め、異端の論駁や説教を通じた民衆の教化を使命に誕生したドミニコ会は、中世においては際立って合理的な組織統治の成功例としても知られる。しかし14、15世紀における教会を取り巻く環境の変化の中で修道会制度がいかなる変容を経験したか、という点は未だ十分に解明されていない。本報告は共に修道会統治の最重要機関である総会と総長の間の関係を、修道士による大学学位取得の許認可という視点から考察する。

会費納入のお願い

今年度会費(2018年度)を未納の方は、至急お振込みいただきますようお願い申し上げます。不明点のある方、学会発行の領収証をご希望の方は、お手数ですが、事務局までご連絡下さい。なお、新年度会費(2019年度)については2019年3月末にご連絡します。

会 費:正会員 1万3千円/学生会員 6千円
振込先:口座名「地中海学会」
郵便振替 00160-0-77515
みずほ銀行九段支店 普通957742
三井住友銀行麹町支店 普通216313

会費口座引落について

会費の口座引落にご協力をお願いします(本年度申し込まれると、2019年度会費から適用します)。

1999年度より会員各自の金融機関より「口座引落」を実施しております。今年度(2018年度)入会された方には「口座振替依頼書」をお送り致しました。また、新たに手続きを希望される方、口座を変更される方にも同じく「口座振替依頼書」をお送り致します。事務局までご連絡下さい。
なお、「口座振替依頼書」の提出は、毎年2月半ば頃を期限に提出をお願いしております。具体的な「口座依頼書」提出期限と「口座引落日」等については、後日に改めて月報にてお知らせします。
個人情報が外部に漏れないようにするため、会費請求データは学会事務局で作成します。

学会事務局および会員皆様にとって、下記のようなメリットがございます。会員の皆様のご理解をたまわり会費の「口座引落」にご協力をよろしくお願い申し上げます。

「口座引落」のメリット
・事務局の会費納入の通知、請求事務の手間の軽減化。
・会員が振込のため金融機関に赴く必要がなくなる。
・毎回の振込手数料が不要となる。
・会員の通帳等に会費納入の記録が残る。

訃報

本会会員の真道洋子氏が、9月6日トルコのイスタンブル市内で路面電車との事故に合われて入院中の病院にて、9月13日に亡くなられました。真道氏は、早稲田大学をご卒業され、イスラーム時代のガラス工芸とその文化史をご専攻されていました。
地中海学会といたしまして、慎んでご冥福をお祈りします。
なお、お通夜およびご葬儀は、すでに9月22日、23日に執り行われたとのことです。

研究会要旨
南方熊楠と熊野
田村 義也

1900年、米英遊学がすでに13年に及んでいた南方熊楠は、経済的な理由からロンドン滞在を終えて、帰国した。実家からの送金に頼る私費留学生だったが、父親は1892年に亡くなり、生家は弟が相続していた。

南方の在外研究は、充分に実のあるものだったといえる。アメリカで入学した農学校は中途退学したが、ミシガン州およびフロリダ州、さらにはキューバ島で高等植物及び各種菌類の採集に励み、この時期の標本は今日まで南方資料の中によい状態で保存されている(南方熊楠記念館および同顕彰館蔵)。ロンドンでは、大英博物館の東洋研究者たちとつながりが出来、また学術誌『ネイチャー』へ東西比較科学史的な研究ノートを投稿するようになった。在英中に同誌に掲載した論考は、37本に及んでいる。これら米英での体験は、帰国後の南方が生涯続けた生物採集および文献研究の出発点となった。しかし、研究者以外には価値を理解しがたい、自著掲載学術誌や菌類標本多数を持ち帰ったのみで、学位取得や単行本出版といったわかりやすい成果はなかった南方は、和歌山市の生家で歓迎されず、紀南の勝浦町、ついで1901年には那智村へ移り住む。33歳ではじめて住むこととなった紀南の地で、南方は、20世紀初頭の熊野の山野に出会った。

紀南の生態系は、本来その多様さが特徴だった。中核をなす山地帯では、アラカシ、イチイガシなどの常緑ガシやタブなどの常緑広葉樹が卓越する、いわゆる照葉樹林が自然植生だが、標高千メートルを超える最高部では、ブナなどの落葉広葉樹林も存在する。海岸線まで山塊が迫り、タニワタリやヒルギ(マングローブ)、オカヤドカリのような亜熱帯性生物が棲息する南部から、東北日本の山林のような景観を見せる中央部まで、その生物相は気候帯を横断して多彩であった。

しかし今日では、山地面積の大多数は植林され、単調で、生物多様性に乏しいスギ・ヒノキの人工林が熊野古道のほぼ全域を覆っている。南方が移り住んだ頃、一部には今日より多くの照葉樹の自然林も残存していたと思われるが、江戸時代以来人間の経済活動が活発だった紀南の山地は、すでにそうとう植林化していた可能性がある。

21世紀になって、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」が指定された紀伊半島には、高野山(真言密教)、熊野三山(神道)、吉野・大峯(金峯山修験道)という三種の宗教伝統の拠点が鼎立し、これらへの京都からの参詣道(熊野古道)も古くから開かれていた。こうした参詣道の開発は、地域本来の自然植生の維持には好適な条件ではなかった。

しかし、那智一ノ滝を御神体とする那智大社は、その背後に広大な神域の森を抱えており、そこは人間の生活のための狩猟・採集活動が禁止されていた。そこは、今日でも、常緑広葉樹の自然林が残存する。また、もとは社殿普請に資する意図から人為的に植林されたであろうスギ・ヒノキも、利用がきわめて制約された神域においては、コケに覆われた巨木に成長し、菌(キノコ)類や変形菌といった、南方の研究対象だった隠花植物を多数扶育する深い森をなしていた。人間の影響が大きかった紀伊半島においては、神域として隔離された神社林こそが、生物多様性の連鎖を維持し、複雑な生態系の末端にいる弱い生物たちが残存するレフュージアとなっていたのである。

1904年まで、那智山で研究三昧の生活を送った南方は、政府による神社合祀政策に反対する社会活動に、1909年から乗り出すことになる。この運動の過程で彼が記した多数の著述の内容は多面的に錯綜しており、簡単に要約は出来ないが、豊かな生物多様性を示す貴重な生態系が、紀南にあってはすでに大きく損なわれており、その中で神社林だけは、人間の影響の少ない自然の生態系が残存しているという認識は、はっきりとその根柢をなしている。

南方は、紀南で採集した変形菌標本を大英博物館へ送付し続けたが、紀南における神社合祀政策が彼のフィールドワークの舞台を損なっていることを訴えた英文書簡のなかで、Fox-God(稲荷神社)やMonkey-God(日吉神社、いずれも現田辺市)での変形菌採集に触れて、「あなたとともに私は、こうした動物の神々へ深く感謝しなければなりません。彼等の境内でわれわれは、それこそ多くの粘菌をいただいてきたのですから」と記した。生態系保全を唱えた南方の思想は、こうした土着神崇敬の念と結びついた形で、熊野の地ではぐくまれたものであった。

地中海学会大会 シンポジウム要旨
熊聖なるモノ
パネリスト:山本殖生/奥健夫/太田泉フロランス/加藤耕一 司会:松﨑照明

シンポジウムは、大会2日目の2018年6月10日、大会会場新宮市福祉センターにおいて13時から始められた。

テーマは「聖なるモノ」で、パネリストは発表順に、山本殖生(熊野三山協議会幹事、宗教民俗学熊野信仰)、奥健夫(文化庁主任文化財調査官 仏教彫刻史)、太田泉フロランス(東京大学大学院 西洋美術史)、加藤耕一(東京大学 西洋建築史)の4名が行い、司会は松﨑照明(東京家政学院大学 日本建築史)が担当した。

はじめに、松﨑がテーマの「聖なるモノ」の設定意図について、「物」とせず「モノ」としたのは、物質だけではなく地形や景観あるいは、そこに到達するための時間や想像されるビジョンも含めて「聖性」を考えたいためであり、また「俗」なるものが「聖」なるものに転換されるためには、そこに原理や方法が存在する可能性があり、それが存在するとすれば、日本文化と地中海沿岸文化との差異、あるいは共通するものが有るかを考えたためであることを述べた。

次に、4名のパネリストの簡単な紹介の後、それぞれのパネリストが各専門分野からの発表を行った。

はじめに山本は「熊野三山の聖地信仰 ──霊場成立の原像を探る──」と題して、熊野三山の成立を、本宮の水(水の霊が寄る清められた聖地、雨乞い儀礼、熊野の奥に鎮まる地主神的存在、〈本神・坐神〉)、新宮の泊り(河口の守護、水勢の神格化〈速い水玉〉)、那智の大滝の生命力(長命、止雨〈日乞い〉、補陀落信仰)に霊場成立の原像があると整理した。

次に奥は、熊野速玉大社の神像(国宝)について、日本に先立つ中国での事例、文献をも駆使しながら、速玉大社の神像自体と日本の神仏混淆に関わる像の一般的な特徴について実証的かつ詳細な発表を行った。その中でも、速玉の神像が9世紀中頃から10世紀初めに作られたもので、その造像は宇多法皇の密教修行および熊野参詣(延喜7年(907))と神階の授与に関係があり、耳の形や下半身が省略された半身の像である事に特徴があり、それは金光明最勝王経などにある樹神や土地神の形に基づくのではないかという指摘は注目された。

続いて太田は、12日間480㎞を歩いたサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼と熊野詣の道、那智の滝上流二の滝、三の滝を実際に歩いた体験から、その具体的な様相と両者の比較を行った。熊野詣に、大辺路(海沿い)、中辺路、伊勢路の参詣路があったようにサンティアゴ巡礼路にもフランス人の道、北の道(海沿い)などの複数の巡礼路があり、それぞれに霊地、建物(教会堂、王子の社)、巡礼路特有の景観が有るが、サンティアゴ巡礼路では、点在する小さな教会堂と終着地大聖堂の人工物(巨大建築)による壮大なスケールとの対比的表現が特徴的であり、それに対して熊野詣における終着点(熊野三山の社)では、巨大人工物ではない特異な自然景観による表徴になっている事を示した。ただ、そのような違いがあるにも関わらず、両者には巨岩に対する信仰という共通性も有り、サンティアゴ巡礼路にも建物内に自然の巨岩を残した教会堂が存在することを指摘し、その信仰について述べた。

最後に加藤は、神殿、教会堂などの聖性を持つと考えられる建物を再利用した場合、その聖性はどのように維持、転換、消滅するかに焦点を当て、現代の事例と歴史的事例を豊富に挙げながら発表を行った。歴史的な建物の多くは創建後、違う用途で使用された例が非常に多く、その場合、部材の再利用で石材(大理石)を聖遺物的に扱う例(サン・ドニなど)が存在した。これまでの歴史研究では建物の創建時だけを重要視して点のように並べて論じることが多かったが、建てられた建物が、その後の時間の中でどのような変化を遂げて行ったかに注目する線的な方法論が必要で、その中で行われた宗教性の剥奪(あるいは宗教の変更)とモノの聖性、神々の痕跡と人間の痕跡の扱い、(モノではなく)自然や空間と聖性の関係の三点が重要になろうと問題提起した。

発表の後、発表者あるいは会場からの質問に対する応答が行われ、神像の置かれた場所の問題や信仰対象と考えられる巨岩に対する人間の行為の違い、歴史研究方法の新しい可能性などについて討論され、予定の16時を30分ほど過ぎて閉会した。シンポジウムは、ヨーロッパと日本(熊野)という遠く離れた場所、像、建物、空間、行為に関して行われたが、差異というよりは多くの共通点が浮かび上がり、双方の今後の研究にとって示唆的な内容になったと思われる。(松﨑照明)

地中海学会大会 研究発表要旨
佐藤春夫の1920年の訪台をめぐって
辻本 雄一(佐藤春夫記念館館長)

1920(大正9)年、春夫が訪れた台湾は日本の植民地であった。春夫は、原住民族が多く住む台湾中央部の高地にも出かけている。原住民の地へ足を踏み入れたのは、原住民族の先駆的研究で、原住民から信頼厚かった森丑之助のアドバイスと、台湾行政府のNo.2であった下村宏(号海南・歌人・和歌山県出身)の配慮から可能なことだった。

1918(大正7)年「田園の憂鬱」などを発表して、浪漫派文学の旗手と目された春夫は、家庭内の不和と谷崎潤一郎の妻千代への思慕から、1920(大正9)年には極度の神経衰弱に陥る。2月療養のため新宮に帰省した折、高雄で歯科医院を開業したばかりの友人東熈市に偶然再会、台湾旅行に誘われる。7月6日基隆上陸から10月15日に台湾を離れるまで、百ヶ日ほどの経験は長い年月をかけて作品として紡がれてゆく。春夫は作家としてスランプから脱出し復活する。

代表作「女誡扇綺譚」は、「私」(「台南の新聞記者」)が夏のある日「世外民」に連れられて(「世外民」という命名も、この世から逸脱して生活している者の意)、「禿頭港」の廃港に迷い込む。豪商沈氏の船問屋だった邸宅に足を踏み入れた途端、2階から「なぜもっと早くいらっしゃらない?」と女の声。その家で男が首を吊って自殺したと聞き、失恋自殺だと直感して「声の女」の身元を調べ始める。この軽卒な行動が悲劇を招き、「私」は後悔に苦しむ。自文化にプライドを持っている「世外民」や、「内地人」との商取引で犠牲になる台湾少女の悲恋を描く。さらに幽霊屋敷の女性が使う言葉は泉州語、米屋のお嬢さんは美しい日本語で話すなど、ルビなども使い分けていて、それは台湾における言葉の「現実」を把握してのもの。

一方福建省を舞台にした「南方紀行」は、「私」は「鄭君」(東歯科の書生)と、高雄から対岸の厦門に渡る。船中で「陳」も一緒になり、狭い路地裏に宿泊。鄭は外出したまま帰らない、陳も気心が知れない。排日感情の激しい街で、不安な夜を過ごす。漳州をぜひ見てこいと勧められる。反政府系の広東軍閥陳烱明が、社会主義思想に基づく理想都市の建設を進めている厦門近郊の街。実際に見ると、近代化は貧弱、文物が破壊されていて、陳烱明の人柄に疑問も湧く。しかし広西軍と交戦が始まると、「私」は陳烱明を応援したくなる。

日本の対華21ヶ条要求に反発する五四運動は、1919年以来広がりを見せ、福建省では1920年初頭から対日感情は最悪の事態に至っている。「私」は身の危険や疎外感を味わう。春夫の初の「外国体験」は、日本人としてあることの不安と向き合う旅にもなった。

春夫が、父の知人大石誠之助らが刑死し(いわゆる「大逆事件」)、国家権力の横暴を実感、「日本人ならざる者」と比喩で述べている。春夫自身も「日本人脱却論序説」なども書き始めるが、途中で挫折。日本人でないということで排除されてゆく仕組みとは何なのか、「国体」の問題なども盛んに論じられる。「日本人とは何か」を考えてきた春夫にとって、28歳の旅は、福建や台湾で遭遇した歴史的な現実、台湾の原住民族との接触を通して、あらためて日本人としての「羞恥」のようなものを実感させられる。

植民地政策への疑問、原住民との交流を通しての感慨、「台湾議会の父」といわれる林献堂との面談など、春夫はまさに台湾の「現実」と向き合わざるを得ない。癒しの旅のレベルをはるかに超えるものになっていった。

春夫は、1918年からわずか2年間しか存在しなかった実験都市漳州を見物してきたことになる。しかも、日本人として認知されることが身に危険を及ぼすかも知れない状況のなかで。「南方紀行」は、中国近代化の貴重な証言ともなっている。

春夫はまた、9月の高雄から台中に向かう旅の途中、原住民が蜂起した「サラマオ(蕃)事件」に遭遇し、その実情を知る。このとき春夫の行く手には、暴風雨による交通の寸断と、原住民の蜂起という困難が待ち受けていた。

現在、春夫の台湾作品といわれるものの評価は、植民地台湾の置かれていた現状をよく理解し、日本の近代文学として台湾原住民の姿を最初に描いたのではないか。

植民地であった台湾には、「内地人」といわれる日本人、「本島人」といわれる漢民族、当時「蕃人」と呼ばれた原住民族、そんな住民の構成があったが、春夫の諸作品は、それらの「関係性」「上下関係」と言うような部分にも十分に目が注がれるものになっている、という評価が定着してきている。

辞を畏れる
上野 愼也

世が乱れる時には言葉が乱れる。言葉が乱れると世が乱れる[『論語』子路第十三]。NHKアナウンサーが抑揚もなく「グーグル」と発音するのに悲憤慷慨したり、既に定着した観すらある「ら」抜き言葉に眉を顰めたりするのは御愛嬌だ。コロケイションの妙、妙なコロケイションを懾れるのが正しいのか、「正しく懾れる」のが相応しいのか、分かったようで判らない。ただ、そうした言い回しで何かを説明したり、何かが判ったような気になる風潮が世に瀰漫しているとしたら、懼れてしかるべきであろう。そのかみ「こと」[「事」=「言」]の重苦しさに、「ことの端」が生まれて「事」と「言」の分離が始まったとはいえ、その端が極端へ、さらにはその外へと突き抜けるに及んで、言は意味を喪う。意味を(ずらしながらも)伝達し、(そのために)交渉を遂行する関係が崩れた後に残るものは、一体何であろうか。

「言葉と実態の対応関係が、世に是とされるところに照らして、従来のものとは違ってきた。暴虎馮河は僚友への信義に出る武勇とされ、先々を見通して自重すれば、卑怯者が体裁を取り繕っているとなり、分別は臆病者の隠れ蓑、よろずに目を光らせていると、何事につけても怠け者、であった。我武者羅は士たる者の本分に出るものとされ、起ってことを挙げようと想を凝らすのは安寧追求のしからしむるところであった──ことに背を向ける上で恰好の口実となったからである。憤激の徒が常に信頼を集め、これに異を唱えようとする者は疑懼の眼差しを浴びた。謀議を巡らせば知者、察知すればそれを凌ぐ賢者──そして、こうしたことと関わり合わぬよう、予め策を講じれば、盟友の結束を乱し、敵に怖じて惑う者となる始末であった。平たく言えば、これから何か悪事に手を染めようかという者に先んじれば賞せられ、またそのようなことは思いもかけぬような者を指嗾すれば頌えられたのである」[トゥーキューディデース3.82.4–5]。前427年7月に勃発したケルキューラ内訌の血腥い経緯を描き出す犀利な筆致は、事態の本質を鋭く抉る。

名実の乖離は、史家と同時代人のアリストパネースが『雲』で誇大に描いて嘲笑する、当時のソピスタイのもの言いを思わせる。対句をはじめとする華麗な措辞も、こうした風潮と両々相俟って、アテーナイ社会に根を下ろしつつあった。トゥーキューディデースの筆法は質実を重んじ、ともすれば軽浮に流れる当世流と距離を取るかに見える。実事求是──そんな言葉が脳裏を掠める。

「シモーニデースは絵画を黙せる吟詠と呼び、吟詠を物言う絵画と称する。画家がことのなりゆきを描いてみせるところを、言葉でことのいきさつを物語り、綴っていくからである。一方が色彩と形態、他方が名辞と句法で行う以上、模倣に要する素材と方法は異なれど、いずれもその目指すところは一つであり、史家の場合なら、事態の顛末を辿り、人物の言動を追うことで、恰も絵画のように叙述をしてみせる者が殊に秀でているということになる。トゥーキューディデースこそはつねに言葉でその効果をあげようと心を砕いており、聴衆を観衆となし、事態を目の当たりにする者が抱く驚き、千々に乱れる思いを、読む者も自らの内に体験するようにと望んでいるのである」[プルータルコス『アテーナイ人の声誉は戦と知のいずれによるものか』346f4–347a9]。ホッブズやルソーが敬慕した史家の姿だ。事物をして語らしめる。ただ事物を提示して読者の判断に俟つ[『エミール』4]。

そう読める件はある[1.22.2–3]。自身の際会した事態ですら、厳密な考証を経て記したと書いてある。「人は好悪の念や記憶の精麁に左右されて、同じ出来事をめぐっても様々に取り沙汰するから、実態の究明には骨が折れた」。その一方で演説の載録に際しては一場の趣旨に添うべしと史家自身の見立てたところを書き綴った旨を断っている。解釈や私見が紛れ込んでいない方がおかしい。しかもこの件を構成する対句は精妙である。狡猾ですらある。名目[ロゴス]と実態[エルゴン]の対比構造を崩して、「弁論[ロゴス]」「営為[エルゴン]」を並べる。同じく「筆者所見」を連用しながら、双方の句で扱いを違える。通用する「極力精確」は句法を変える。内訌を描く筆は名実の乖離を如実に示す対句を紡ぐ。史家が自らの方法と所信、本懐を高らかに宣明する段に仕込んだ対偶は何を物語るのか。

同じ対比のどこが違う。名実の乖離が全編で起きてはいないか。「弁論」「営為」の対照的な載筆の狙いは──鏤骨の文藻にそう問いかけることで、はじめて名実の乖離と、それが将来する惨を免れる途が見えるのではないか。所説に馴致されることなく、措辞の戦略と譎詭に向き合わねばならない。言を以て事をなすために今懼れ、懾れるべきこともまた、自ずから明らかとなるだろう。不朽の遺産[アーエイ・クテーマ]たる所以である。

自著を語る94
『水都ヴェネツィア──その持続的発展の歴史』
法政大学出版局 2017年4月 326頁 4,000円+税 陣内 秀信

最近、聞いた話だが、あるTV番組がイタリア都市の人気に関するアンケートをしたら、一位はやはりヴェネツィアだったとのこと。観光客が増え過ぎ、生活感がなくなったと批判されながら、相変わらず魅力があるのも確かだ。

私がこの都市を研究の出発点としたのは、実に幸いだった。ヴェネツィアはまさに発想の玉手箱で、ここから様々なテーマ、着想を次々に得ることができた。本書は、45年以上もの間、付き合ってきたヴェネツィアに関する色々な段階での研究成果を一冊に編んだものである。

自分の研究人生を振り返ると、そこには幾つかのステージがあり、時期によって関心、問題意識が大きく変化してきた軌跡をたどれる。時代の価値観を読み、また様々な出会いなどが切掛となって、研究方法、スタイルも変わってきた。包容力のあるヴェネツィアは、そうした成長脱皮する自分を常に受け入れ、挑戦すべき魅力的な研究素材として私の前にいつも立ち現れてくれたのだ。

そもそもヴェネツィアを留学先に選んだのは、この複雑に出来上がった歴史都市の成り立ちを読み解く方法を学ぶためだった。近代の建築、都市計画ばかりを大学で学んだ我々の世代は、そこに懐疑心を強く持っていた。時代を切り拓く何か新しい考え方、方法があるはずだと。そう考えた私は、最も古いと思われた街ヴェネツィアに新しい哲学と手法を求めて行ったことになる。ここで学んだ「都市を読む」方法は、幸い自分にとってまさに探し求めていたことそのものだった。夢中でそれを吸収。帰国後に、法政大学で教え始め、学生達と一緒に東京を調査研究し始める際にも、その武器が大きな勇気を与えてくれた。まさにそうした方法のもとヴェネツィアの複雑な都市を読んだ成果がまず、本書の基層にある。

しかし、本書の多くのパートは、その段階以後に私が考え、挑戦してきた建築の枠を越える新たな領域に関するものとなっている。留学から戻って著した『都市のルネサンス──イタリア建築の現在』(中公新書、1978 年)を、幸い多くの文系の方々が読んで面白がって下さった。その一人、地中海学会でご一緒の川田順造先生からの推薦で『社会史研究3』(1983年)に執筆したのが、本書の第2章「16世紀における庶民の生活空間」で、これを機会に、私自身の関心領域も学問上のお付き合いも、建築の世界を越えて社会史、人類学、民俗学などへ大きく広がった。

また、ヴェネツィアを研究していたため、イスラーム世界に自ずと早くから関心が持て、折しも開始された「イスラームの都市性」プロジェクト(1988-91年)に参加する幸運を得た。異なる学問分野の専門家達とヴェネツィアを歩き、リアルト市場、ゲットー、エスニック・コミュニティを訪ねたのは、またとない刺激だった。

帰国後に東京研究に取り組み、ヴェネツィアで学んだ方法を応用し、日本の複雑な都市を工夫しながら読む体験をしていたことも、1991年に再び在外研究でヴェネツィアに1年間、滞在した際に、おおいに役立った。嬉しいことに、ヴェネツィアの研究者の問題意識も、研究テーマも、私と波長を合わせるかのように変化していたのだ。自分にとって重要な「港湾都市」「社会史」「イスラームとの関係」などが、ヴェネツィアの建築史・都市史の研究者の間でも新鮮な研究テーマとなっていたのには、驚いた。こうした領域への私の新たな関心は、本書の様々な論考に反映されている。

その後もヴェネツィアには毎年のように戻り、研究者との交流も続いていたが、研究そのものはしばらく開店休業の状態だった。そんな私にカンフル注射を打ってくれたのが、陣内研究室に修士課程から入り、その後、博士課程に進み、ヴェネツィアを一貫して研究した樋渡彩氏の登場だった。川の街、広島で育ち、水の都市に関心をもつ彼女は、最初からその視点を鮮明に打ち出し、しかも島の中だけでなく、ラグーナ全体を、そして本土(テッラフェルマ)を真正面から研究したのだ。それまで定番通り、オリエントばかりに目を向けてきた私の見方を完全にひっくり返してくれた。樋渡氏が注目したのは、川の流域を通しての本土とヴェネツィアの密接な結びつきだ。本土側に広がるテリトーリオ(後背地)の研究である。実に新鮮な視点だった。彼女の指揮のもと、研究室の院生らも参加してふた夏、行った現地調査の成果は『ヴェネツィアのテリトーリオ──水の都を支える流域の文化』(樋渡彩+法政大学陣内秀信研究室編、2016年)に結実した。

彼女と一緒に調査するなかで得た刺激、新たな発想は、自分自身のヴェネツィア研究の集大成であり、私の法政大学退任の時期に合わせて刊行された本書の中にも、随所に盛り込まれている。

表紙説明

地中海の〈城〉16:クレルモン城/櫻井 康人

第4回十字軍がコンスタンティノープルの占領に乗り出している間、本隊から離れて別行動を取っていたジョフロワ1世・ド・ヴィルアルドゥアン(『コンスタンティノープル征服記』を著したジョフロワ・ド・ヴィルアルドゥアンの甥)は、ペロポネソス半島の征服事業に着手していた。彼からの援軍要請に対して、テサロニキ王となっていたボニファッチョ・デル・モンフェッラートが臣下のギヨーム1世・ド・シャンリットを派遣するに及んで、征服事業は本格化した。その結果に誕生したのが、アカイア侯国である(1205~1432年)。同侯国は、半島北西部に位置するアンドルヴィル(現アンドラビダ)を行政上の、そのアンドルヴィルからさらに西方約10㎞に位置する港町のグラレンツァ(現キリニ)を外交上の中心地とした。キリニから南に約5㎞、小高い丘(標高226m)の上にあるのが、クレルモン城である。

これらを含む現在のイリア県アンドラビダ=キリニ市は、とても栄えているとは言えない状況である。それでも、フランク人の建てた教会が残されているアンドラビダの町は、私の目には侯都としての面影をいまだに残しているように映った。キリニの町は、港を出入りする大型船と多くの海水浴客のおかげで、賑わっていた。しかし、クレルモン城およびその周辺は、実にひっそりとしており、人を遠ざけるような雰囲気を持っていた。

ペロポネソス半島におけるフランク人の居城は、ビザンツ帝国時代に建造された城をほぼそのままに流用したものが多く、例えばパトラ城やカラマタ城のように、あたかも町を見下ろすような場所に位置している。しかし、クレルモン城はフランク人が一から建造したものであり、かつ近隣地域の監視や、防衛拠点に適している場所に造られたものではない。同城の建造は、1223年頃、ギヨーム1世の帰欧を受けてアカイア侯に就いたジョフロワ1世の下で始まった。軍事奉仕を拒否する聖職者への報復として、ジョフロワは、教会財産を没収した上で彼らを投獄するために、同城を建造したとも言われており、実際、その後も同城は監獄としての機能を中心とした。

私がそこを訪れたのは2017年7月のことである。ピルゴスから、1日に2~3便しかないバスに揺られること約1時間でキリニに到着した。しかし、そこから先の公共交通手段はない。40度を超える暑さの中で歩く気力も体力もなかった。ようやく見つけたタクシーに乗り、行き先を告げるも、「わざわざあんな所に行くのか?」とさんざん問い詰められた。案の定、城に行ってみると、誰もいなかった。おかげでじっくりと城を見ることができたものの、帰りもタクシーの運転手に「あんな所に行く奴の気が知れない」などとさんざん言われてしまった。帰りのバスの出発まであと約1時間、バスのチケット売り場を兼ねている港近くのカフェで、冷えたビールを堪能した。まるで脱獄に成功したかのような解放感で口にしたビールは、また格別であった。