地中海学会月報

MONTHLY BULLETIN

学会からのお知らせ

学会賞・ヘレンド賞

本学会では今年度の地中海学会賞及び地中海学会ヘレンド賞について慎重に選考を進めた結果,次の通りに授与することになりました。授賞式は6月10日(土),第41回大会の席上において行います。
地中海学会賞:星商事株式会社
星商事株式会社は,「地中海学会ヘレンド賞」事業に対して,1995年度の設立以来,長く後援いただき,昨年度までに受賞者は24名を数える。ハンガリーの名窯ヘレンドの日本総代理店として,ヨーロッパだけでなく,イスラームや東洋との交流から生まれた優れた陶磁器の販売を通じて,故鈴木猛朗会長らが中心となって,東西の文化交流に大いに貢献されてきた。20年以上の間,地中海学会ヘレンド賞を通じてなされた地中海学研究への貢献は多大のものであったといえる。
地中海学会ヘレンド賞:安岡義文氏
安岡氏のUntersuchungen zu den Altäyptischen Sälen als Spiegel der Architekturphilosophie der Ägypter(古代エジプト人の建築哲学の反映としての古代エジプトの柱の研究)(Backe-Verlag, 2016)は,古王国期からグレコ・ローマン期までの約3,000年にわたる古代エジプト建築の柱を包括的に論じた労作である。現存する建築遺構をはじめ,文字資料と図像資料に現れる事例を,形態分類をしたうえで様式的展開を論じ,素材の調達や建築の構法・技術等について分析を行い,柱の有する象徴的意味を解明しようと試みている。膨大な分類表も今後の古代エジプト研究の基礎的資料となりうるものであり,ヘレンド賞に値する。

『地中海学研究』

『地中海学研究』XL(2017)の内容は下記の通り決まりました。本誌は第41回大会において配布する予定です。
「オウィディウス『変身物語』における叙事詩と非叙事詩の混交──序歌,オルペウスの物語,アラクネーの織物」河島 思朗/「主の祈りにおけるパン── ἐπιούσιοςとsupersubstantialis」井阪 民子/「ダンテにおける《太陽と月の比喩》」星野 倫/「『エルサレム解放』の分離型の直接話法──行の途中から始まるタイプの文形態と効果について」村瀬 有司/「フランチェスコ・ボッロミーニによるローマのオラトリオ会における礼拝堂の領域の計画」岩谷 洋子/「ジュゼッペ・ヴェルディのオペラ《リゴレット》(1851)における作劇法──《ヴァンドーム公》(1850)を手がかりとして」園田 みどり/「地中海宮の誕生──戦間期フランス近代建築の大作」三田村 哲哉/「研究動向 18世紀イタリアにおける土地台帳編纂研究の射程──ヨーロッパ政治の中の啓蒙改革」大西 克典/「書評 樋渡彩+法政大学陣内秀信研究室編『ヴェネツィアのテリトーリオ 水の都を支える流域の文化』」片山 伸也/「書評 大髙保二郎著 大髙保二郎古稀記念論文選『スペイン 美の貌』」貫井 一美

第41回総会

先にお知らせしましたように第41回総会を6月10日(土),東京大学において開催します。
総会欠席の方は,委任状参加をお願いいたします。
議事
一,開会宣言
二,議長選出
三,2016年度事業報告
四,2016年度会計決算
五,2016年度監査報告
六,定款の一部改定(会員種別)
七,2017年度事業計画
八,2017年度会計予算
九,役員改選
十,閉会宣言

7月研究会

下記の通り研究会を開催します。奮ってご参集下さい。
テーマ:シチリアにおける海事秩序形成過程─14世紀の請願と海事規定から
発表者:髙橋 謙公氏
日 時:7月15日(土)午後2時より
会 場:首都大学東京 秋葉原サテライトキャンパス
(東京都千代田区外神田1-18-13秋葉原ダイビル12階)
参加費:会員は無料,一般は500円
http://www.tmu.ac.jp/university/campus_guide/access.html
13世紀から14世紀にかけて、地中海世界には多くの海事法が成立した。中世シチリア王国では、王権主導の海事規定と都市主導の海事規定が形成され、それぞれが銘々に考察されたために、両者の関係性について明確に示されていない状況である。本報告では、各法規定に定められた内容を整理しつつ、シチリアの港湾や海域に関する係争事例や請願文書の分析を通して、都市と王権双方の側から14世紀の海事秩序が形成される過程を描出したい。

第41回地中海学会大会(学会設立40周年記念大会)のご案内
高山 博

第41回地中海学会大会は,6月10日(土)・11日(日),東京都文京区の東京大学本郷キャンパスで開催されることになりました。本学会は,この第41回大会を学会設立40周年記念大会と位置づけ,学会のあゆみをたどるとともに,地中海および地中海学を深く捉えなおす好機と考え,大会準備委員会で長い時間をかけてプログラムを熟考し準備を進めてまいりました。以下,そのプログラムの内容を紹介いたします。

まず,大会初日(6月10日,土曜日)の記念講演は,ケンブリッジ大学教授デイヴィッド・アブラフィア氏にお願いし,“How to write the history of the sea”という論題でお話していただくことになりました。同氏が2011年に刊行した800頁を超える大著The Great Sea: a human history of the Mediterranean (Penguin Books, 2011)は,9言語に翻訳され,イギリス,ドイツ,スペインではベストセラーになったと伺っていますが,紀元前2万2000年から2010年までの地中海を描いたこの書物に関わるお話です。英語での講演ですが,パワーポイントを使って字幕を映写する予定です。これまで世界における地中海史研究を40年以上にわたって牽引し,ケンブリッジ大学の地中海史教授を20年近く勤めてきたというだけでなく,かねてより当学会の『地中海学研究』の編集委員に名を連ねてきたアブラフィア氏の講演は,学会設立40周年を記念する今大会に最もふさわしいものではないかと思っています。この講演は公益財団法人石橋財団の寄付助成により可能となりました。当財団には心より御礼申し上げます。なお,一緒に来日される奥様のアンナ・アブラフィア氏は,中世西欧・地中海のユダヤ教・ユダヤ教徒を研究する著名なオックスフォード大学教授ですが,同氏の公開講演会(英語)が6月9日(金)17時~18時に東京大学本郷キャンパス法文1号館214番教室で開催される予定です。

記念講演に続く「地中海トーキング」では,「地中海学会の40年」をテーマに,末永航氏(美術評論家,イタリア建築・美術史)司会のもとで,地中海学会と長くそして密に関わってこられた4人の方々に,エピソードを交えながら地中海学会の歴史を語り合っていただきます。4人のパネリストは,西洋中世史が専門で現在印刷博物館館長を務めておられる樺山紘一氏,西洋美術史が専門で美術評論家の木島俊介氏,そして,イタリア建築史・都市史が専門で当学会の会長を務めておられる陣内秀信氏,シチリア近現代文学が専門で当学会の副会長を務めておられる武谷なおみ氏です。学会設立時から現在に至るまで,個性豊かな研究者たち,地中海大好き人間たちがどのように学会の歴史を刻んできたのか,伝説化した話や知られざる学会裏話が聞けるのではないかと,今から楽しみにしております。なお,地中海学会の40年を振り返るために,会場となる1番大教室の外の廊下に,『地中海学会月報』40年分の表紙(1~400号)のパネル,『地中海学研究』1~39号などを展示する予定です。学会の歴史に思いを馳せながらご覧ください。

「地中海トーキング」の後には,地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞の授賞式,総会が続き,その後の懇親会は,医学部教育研究棟13階のレストラン「カポ・ペリカーノ」で行われます。どうか東京大学本郷キャンパスのイタリア料理をご堪能ください。

2日目(6月11日,日曜日)の午前には,気鋭の研究者らによる6つの研究発表が行われます。「古代エジプト,クフ王第2の船の船体上部における木造技術について」,「古代末期美術におけるエジプト・トレードマーク図像の可能性」,「レモンから見る中世地中海世界の食生活の特質」,「モデナ大聖堂ファサード彫刻図像」,「アルテミジア・ジェンティレスキとトスカーナ」,「『朝の歌』mattinataの魅惑」と,地中海学会ならではの多彩なラインアップになっています。

昼食をはさんで, 午後には,シンポジウム「地中海学の未来」が開催されます。小池寿子氏(國學院大學,中世後期美術史)が司会を務め,新井勇治氏(愛知産業大学,中東の建築史),片山伸也氏(日本女子大学,イタリア都市史),貫井一美氏(大妻女子大学,スペイン美術史),畑浩一郎氏(聖心女子大学,フランス文学),藤崎衛氏(茨城大学,中世教会史)にパネリストをお願いしております。新進気鋭,あるいは,中堅の研究者たちが,地中海研究の現在と今後をどのように考えているのか。自らの専門分野に即して,それぞれの熱い思いと課題を語ってくれるのではないかと期待しています。

研究会要旨
13世紀末ビザンツ政治史を巡るクロノロジーの再考
佐野 大起
2月18日/首都大学東京 秋葉原サテライトキャンパス

13世紀末,皇帝アンドロニコス2世(在位1282-1328年)治下のビザンツ帝国は,人々の記憶に残るいくつかの重要な出来事を経験した。こうした出来事の起こった年代と順序,すなわちクロノロジーを確定することは,当時の歴史を再構成するうえで研究者がまずもって取り組まねばならない課題である。ところがこの時期の政治的事件に関しては,比較的多くの史料が利用可能であるにもかかわらず,部分的には今日に至るまでクロノロジーの確定が為されていない。本報告では,特に1293-1297年に対象を絞り,未解決に留まっている「アンドロニコス3世の生年」「アレクシオス・フィラントロペノスの反乱」「ミカエル9世の結婚式」の三つの出来事の年代について,先行研究の議論を踏まえながら検討を行った。

まず,アンドロニコス2世の孫でミカエル9世の息子に当たるアンドロニコス3世については,その誕生日は3月25日という理解で一致しているものの,生年については1296年と1297年の二つの見方が提示されている。『オックスフォード・ビザンツ事典』でA.-M. Talbotは後者を採用しているが,近年の複数の論考は前者を支持しており,今日においてはどちらが定説とも言い難い状況にある。しかし,両陣営がそれぞれ典拠としているR. J. LoenertzとP. Schreinerの議論は,ニケフォロス・グレゴラス『ローマ史』の矛盾する記述を引証しており,共に論拠を欠いている。これに対し本報告では,1297年を支持する見解として今日看過されているJ. L. van Dietenの議論を紹介・検証し,これを採用した。

続いて,アレクシオス・フィラントロペノスの反乱についても二つの説が提示されている。1293年以来,当時の帝国最大規模の軍勢を率いて東方境域のトルコ人討伐に当たっていた彼は,ある年の12月25日,突如皇帝に対し反旗を翻した。間もなく彼は別の将軍により捕らえられ,裁判を受けることなく盲目刑に処された。この悲劇的事件は,1295年末または1296年末に起こったとされている。本報告では,ゲオルギオス・パキュメレス『歴史叙述』と,コンスタンティノス・アクロポリテスおよびマクシモス・プラヌデスの書簡集を基に年代確定を試みた。1296年説の支持者たちは,アクロポリテスの書簡がその執筆順に写本に所収されているという前提に依拠しているが,これはA. Kotzabassiの近年の分析により斥けられねばならないということを我々は確認した上で,同書簡集の中に1295年説を補強する新たな情報を見出した。パキュメレスの記述については,1296年説の支持者であるR. RomanoやG. Pascaleの主張する解釈が不可能であり,やはり1295年説を裏付ける根拠であることを指摘した。そしてプラヌデスの書簡集については,彼が編纂した写本の書き込みに着目することにより,H.-V. BeyerとI. Taxidisが提示する書簡のクロノロジーを裏付け,これも1295年説の傍証であることを示した。以上より,フィラントロペノスの反乱は1295年の12月25日に起こったと結論付けた。

最後に,1月16日に挙行されたと伝えられるミカエル9世の結婚式についても,見解は1295年と1296年に二分されている。結婚式に至る経緯は,そのために派遣された複数の使節も含め,上述の『歴史叙述』が詳しく記録している。本件に関する記事の内容を精読し,かつそれを当時のイタリアの外交文書と照合すると,キリキア・アルメニアから花嫁を連れて帰ることに成功したビザンツ使節は1295年に派遣された可能性が非常に高いことが窺える。しかしながら,先に明らかにしたフィラントロペノスの反乱時期を踏まえたうえでプラヌデスの書簡を精査すると,結婚式を1296年初頭に比定することに不都合が生じる。本報告ではこの問題を重視し,ミカエル9世の結婚式は1295年1月16日に挙行されたと結論付けた。

以上の三つの出来事の年代に関する考察結果は,いずれもなお議論の余地を残しており,現時点では直ちに断定すべきでない。しかしながら確実に言えるのは,いかなる結論であれ,一部の史料との矛盾を免れないということである。本報告が提示するクロノロジーが正しければ,例えば以下のような問題が提起される。すなわち,イタリア外交文書の解釈と交渉経緯,パキュメレス『歴史叙述』の史料的性格,反乱鎮圧の年についてのみ誤った情報を伝える『小年代記』の情報源,アクロポリテス書簡集の編纂方針と意図,等である。こうした課題に取り組み,政治的・経済的に困難を極めた時代の中で皇帝アンドロニコス2世が推進した諸政策の実態を明らかにするために,今後,彼の治世のクロノロジーについて更に詳細な検討が為されねばならない。

アリーファと物狂いの女
田村 愛理

以前,ジェルバ島で女性聖者(レッラ)廟を探し訪ねていた時,タクシーの運転手にその界隈でレッラ・ヌーラと呼ばれているアリーファ(予言者)のところに連れて行かれた。せっかくだから占ってもらい,それは当たってもいたのだが,なによりも彼女のライフヒストリーが興味深かった。

ヌーラは12歳の時に聖ナセル廟の祭礼に行き祈っていた。すると突然夜中に白光の中に聖ナセルが現れた。彼女は泣き出し,聖者を抱きキスの雨を降らせた。聖者は彼女にお前は貧しい男と結婚し,他所の地に行くことになるが,神から特別な力をもらうだろうと言った。そして彼女に数珠を授け,これで娘たちに夫を見つけることができるようになると言い,さらに香を渡し,これで病を癒し家族の争いごとを仲裁しなさいと言い消えた。その後彼女は予言通りに年取った無職の男と結婚しジェルバ島に来たが,あばら家暮らしで非常に貧しかった。ある夜,また聖者が夢に現れて,なぜお前は授かった力を使わないのかと言った。彼女はムフティ(宗教指導者)のところに相談に行ったが,彼は与えられた力を使うことは正当なことだと言ってくれた。それからは多くの人が彼女に助言を求めにやっているようになったのだが,人々を助けてしまうために貧乏のままなのだ。ヌーラは物静かに語る一方,突然轟くような声音で彼女の力を信じない人を落とすとジェスチャー入りで宣言した。

ジャリーラは,チュニス近郊の聖マヌービーア廟のミアーダ(参詣集会)を主導するアリーファの一人である。聖マヌービーアは13世紀初頭~後半の女性で,その生涯において,多くの奇跡を示したことで著名である。聖女はチュニスの通りをボロをまとって彷徨い,男達に混じってモスクで祈り,大声でスルタンにさえも説教をしたというが,スーフィー行者の最高位の尊称を持ち,あまたの男性聖者の上に輝いている聖女である。廟の内陣に入るとすぐ聖女の墓があり,奥の部屋では,アリーファを取り囲むように女達が座り込み,太鼓と唱和が続く中,次々に立ち上がりタフミーラを始める。髪を長くたらし,太鼓のリズムに合わせて身体をゆっくりと揺らすうちにトランス状態に入り,ヒステリーを起こして倒れ るのである。傍の人が水で正気付けると起き上がり,一汗流してさっぱりした様子である。やがて佳境に入ると,アリーファ達がゆっくりと立ち上がりタフミーラを始める。そのうちにいきなり傍らにいた女性の頭をみ,当を得た予言を始めたのがジャリーラだった。

ジャリーラは,貧しい農家に生まれ,12歳の頃に近在の家に奉公に出されたが,虐待を受けた。その頃から彼女は辛い時などは,空間移動ができることが分かったと言う。やがて家出してチュニスの聖人廟での行事などに参加しているうちに,自分が予言の力を持つことを自覚した。奉公先に連れ戻され気に染まぬ結婚をしたが,夫を連れてチュニスに出て来た。彼女は自分の子供達は夫ではなく6本の指のある精霊との間にできた子であると言い,夫には罰が下って卒中で早くに亡くなったと話した。自分の名前が書ける程度の識字力だったが,コーランの章句は全て諳んじることができた。

ジャリーラは自分が神懸る時には,「男を着る」と言っていた。その状態に入ると,空間を自由に移動し,何処でも自分の望む場所に行ける,正統派モスクの男性の礼拝場でかれらと共に礼拝さえできる,誰も彼女の行動を妨げることはできない,と主張した。また,彼女は女性達に助言し,近隣の貧しい人々に施しをするなど慈愛ある性格を示す一方で,夫もその一例であったのかもしれないが,自分の行動を妨げる者には破滅を下すと宣言するなど激しい一面も示した。

ヌーラもジャリーラも,イスラームのマジャディーブ(物狂い)聖人の典型的な特徴を備えているが,日本人にとっても文化的には馴染み深い存在と思う。能の「柏崎」では,夫と子供を失い物狂いになった女性が善光寺に参り,女人禁制の結界を破って御堂の内陣に入り,それを非難した僧を言い負かす。他にも老女や男装した女性,即ち社会規範を逸脱した女性が結界を破り,高僧をやり込めるという痛快な女物狂いの演目があるのは,当時の観客がそのようなドラマトゥルギーを求めていたからだろう。

実は,今のマヌービーア廟には私が最初に訪問した10数年前ほどの盛況はないようだ。2012年10月にこの廟は,真のイスラームではないとしてイスラーム過激派により焼き討ちされたのである。14年春に再訪した時には,予算不足の為か内部の修復も進んでおらず壁は黒焦げのままで,参拝者もまだ少なかった。もちろん,フーコーが指摘したように,日本も疾うに常ならざるものを内包する社会から排除する社会へと変化し,古典芸能の中にしかアジールは存在しないが,マグリブの豊かな聖者信仰文化がもたらした現実社会のアジールは是非とも復興して欲しい。

アナトール・フランス
田窪 大介

フランスの高校生にとって,試練の時期が近づきつつある。6月にバカロレア(大学入学資格)取得試験が始まるからだ。

バカロレアの試験は,高校最終年(Terminal,日本の高校3年生に相当)の学生が,文系,理系,社会経済学系そして職業訓練系の分野に分かれて受けることになる。試験の後で,フランスの新聞などのメディアが,日本のセンター試験の時のように問題と解答例を掲載する。

文系においては,哲学が最重要科目となっている。だが,「文学」の科目も非常に意義深い内容になっている。この科目では,1年かけて2冊の文学作品を読み,バカロレア試験でその内容に関する小論文を書かなければならない。昨年度は,フロベールの『ボヴァリー夫人』と,ソポクレスの『オイディプス王』(原作およびパゾリーニの映画作品,邦題『アポロンの地獄』)が選ばれた。フランス文学だけではなく,国外の文学も重視されているようだ。他にも歴史・地理などの多くの科目があるが,文字数の関係から割愛させていただきたい。

注意すべきは,このようなバカロレア試験が,高校最終年ではなくて1年生(日本では高校2年生に相当)から始まることである。そこでは,「文学」ではなくて「国語」という名称の科目のみが,いわゆる先行試験という形で扱われる。この科目では,予め指定された時代やテーマに基づいて,教師が自由にフランス国内の文学作品(小説・劇作品・詩集)のテキストを作り,学生に読ませることができる。筆記試験で,学生は,それらのテーマにまつわる問題を扱うことになる。

教師が自由にテキストを決めるゆえ,学生たちは試験開始直前まで具体的な問題内容を知ることがない。もちろん真面目に授業に出ていれば,さほど解答に苦労はしないことであろうと(客観的には)思われる。しかし,昨年度のこの国語の試験は,違う意味でフランス全土を騒がせた。

理系および社会経済学系の国語の先行試験には,4つのテキストに関する問題が出された。すなわち,バルザックの葬儀におけるヴィクトール・ユゴーの演説,モーパッサンの葬式におけるエミール・ゾラの演説,エミール・ゾラの葬儀におけるアナトール・フランスの演説,そしてロベール・デスノスの遺灰が戻った際のチェコスロバキア公使館におけるエリュアールの演説。選択可能な問題の中に,アナトール・フランスのテキストについて解説せよ,というものがあった。

「アナトール・フランス???」フランス中で,多くの受験者達が心の中で叫んだ。この人物が何者なのか,知らない学生が多かった。小説家なのか,詩人なのか,それともエッセイストなのか……このような意味なら,知らない学生は多いと言う話は理解できなくもない。筆者自身,まだ作品を読んだことはないが,しかし少なくとも名前くらいは知っている。だが問題は,そういう次元ではなかった。学生の中には「これ,男っすかぁ?」と本気で言う者がいたらしい。つまり一部の学生は,アナトール・フランスが男性なのか女性なのかがわからなかったのである。試験終了後,フランスではこの件でツイッターが話題になった。その中には,「回答に「彼女は」と書いておいて後になってコイツが男だと知った今」とか,「この人男だったのか……もう自分は終わった」など,自分たちの言わば葬式状態を嘆いた。

それだけではない。「アナトール・フランス」が人間の名前とは思っていなかった学生達もいたようだ。彼らの中にはこれを,眼鏡販売店「ATOL」と勘違いしたり,ガスの会社名と思ったりする者たちがいたらしい(名前は不明)。パリの地下鉄をご存じの方なら,「アナトール・フランス」という駅名を連想されることだろうが,しかし報道によると一部の学生は,これが駅名ではあっても,作家の名前に由来していることすら知らなかった。

もちろんだからと言って,全てのフランス国民がこの作家の名前を知らなかったわけではない。上記のような学生達の「嘆き」を見ていた一部の人は,この作家が1921年にノーベル文学賞を受賞していたことを知らない人たちが多いという事実を「嘆いて」いる。すなわち,学生時代からギリシア・ローマの文学を指向し,政治的参加を意図とするような作品を書き,そしていわゆるドレフュス事件においてはゾラとともに積極的に行動した作家がいた,ということを。国葬扱いを受け,歴史に名を残しているアナトール・フランスが,名前ではなく言葉の次元で理解されなかったのは,確かに悲しいかもしれない。

かつては「国が葬式」をした作家が,最近ではある意味,「国に葬式」をもたらしたかのように扱われてしまっている。バカロレアを経験した筆者としては,今年は試験の難易度とは別の次元で波乱が起こらないことを願うものの,試験の内容とそれに対する学生のリアクションが楽しみでもある。

自著を語る87
『ブワイフ朝の政権構造――イスラーム王朝の支配の正当性と権力基盤』
慶應義塾大学出版会 2016年10月 14+400頁 9,000円+税
橋爪 烈

前嶋信次の名著『イスラムの蔭に』(河出書房新社,1991年,45-46頁)にブワイフ家の君主ムイッズ・アッダウラのカリフに対する扱いを紹介した一節がある。

       九四六年の一月二九日のこと,このムイッズ・ウッ・ダウラが,カリフ宮殿に参内した。文武百官がそれぞれ,大広間に身分の順に立ち並んでいたが,やがて二人のダイラム(ブワイフ家の故郷)出身の武官が,カリフの方へ進みいでた。カリフは自分に敬意を表すため,キッスをしようとして近づいたと思ったから,片手を差し出した。すると二人はやにわにその手をつかむと力一杯グイと引いて,カリフを帝王の高座からひき落とし,床に投げ倒しておいて,ターバンをつかんで曳きずって行ってしまった。それを合図にブワイフ家の一党が,カリフ宮殿に乱入し,後宮(ハリーム)にはいって,一物も残さずといわれたほどの掠奪暴行をほしいままにした。自邸にかえったムイッズ・ウッ・ダウラはカリフを連れて来させ,退位を強要したうえ,その両眼を焼串でつぶしてしまった。

アッバース朝カリフの何とも無残な様子が描かれている。これを読んだ修士課程入学当初の筆者は,カリフ権力の衰退のありさまをこのように活き活きと伝える前嶋の文章に魅了されるとともに,この出来事は一体どのような歴史書に記されているのかと思ったものである。ともかく,この一節が,筆者をブワイフ朝研究へと誘った。

上記引用にあるように,ムイッズ・アッダウラは時のカリフ・ムスタクフィーを廃位し,新たにムティーをカリフとして即位させ,彼を傀儡化してイラクの統治を行う。疑問であるのは,ムイッズ・アッダウラがアッバース朝自体を滅ぼし,自らが新たな支配者として君臨するという選択肢を取らなかったのはなぜか,ということである。引用を読む限り,もはやアッバース朝カリフは権威も権力もない無用の長物とも思えるが,彼はそうしなかった。あるいは滅ぼすことなどできなかったのかもしれない。とすると,このアッバース朝とブワイフ朝の関係の中に,これ以後もカリフ制度が長く続き,ムスリムが同制度を必要とする,または同制度による統治をイスラーム的と見なすようになる要因が含まれているのではなかろうか。筆者の根本的な問題関心は「カリフ」のイスラーム史における意義の解明にあるが,その足掛かりとしてブワイフ朝とカリフの関係の解明が必要だ,そう考えたのである。

しかし,本書『ブワイフ朝の政権構造』の内容の大半はブワイフ朝とカリフの関係に焦点を当てたものではなく,ブワイフ朝の内部構造の解明に努めたものとなっている。それは史料の魅力あるいは魔力というべきか,用いた史料に大きく影響された故である。上記引用の典拠はミスカワイフの著作『諸民族の経験』であった。同書はブワイフ朝研究にとって第一級の歴史史料であり,これを解読する作業を欠くことはできない。故に筆者も同書のコピーを手元に置き,ノートにそのテキストを写しながら,解読作業に取り掛かった。

こうして『諸民族の経験』との長い付き合いが始まったのであるが,読み進めていくと,カリフとブワイフ朝の関係よりも,ブワイフ朝内部の在り方を示す記述が多く含まれていることに気づいた。この気づきは従来のブワイフ朝研究のものとは異なる視点をとったことによる帰結である。そしてそれは,ブワイフ朝を「主導権(リアーサ)」を中心に緩やかにまとまった連合政権と捉えること,イラクを政治の中心とみなすべきではないこと,そしてダイラム軍団こそがその権力基盤として重視されていたこと,という本書の議論の核となる考え方へと結実した。

さて本書では,史料の要約を示すよりも,なるべく訳出した文章の提示を心掛けた。これは筆者がアラビア語テキストをどのように読んだかを白日の下に晒し,読者が本書の議論を評価する際の一助としてもらうことを意図しているが,さらに言えば史料の原文がもつ独特の言い回しや意味内容を通じて,史料作成当時の雰囲気をいささかなりとも伝えることができればと考えてのことである。様々な折に,『イスラムの蔭に』の文章に魅了されたと筆者に打ち明けてくれる研究者の方々は多い。筆者の訳文は前嶋の文章とは比べるべくもない代物ではあるが,本書を手に取った読者の中から,興味関心を抱き,アラビア語原典史料にまで遡ってみたいという方が一人でも現れてくれるのであれば,筆者の試みは半ば成功であると考えている。

とはいえ,筆者の研究は終わったわけではない。「カリフ」研究は端緒に着いたばかりであり,アラビア語原典の訳文をより魅力的なものにするための研鑽にも終わりはない。本書をその長い道のりの第一歩として,今後も研究に取り組んでいきたい。

表紙説明

地中海世界の〈城〉5:ロレンツェッティの描いた海辺の城塞/水野 千依

シエナの国立絵画館に2枚の小さな板絵がある。海辺の都市と湖岸の城塞を描いたこの2作は,1340年頃に制作され,ゴシック期のシエナ美術を代表する画家アンブロージョ・ロレンツェッティ(1290年頃-1348年)の手に帰されている(サッセッタやシモーネ・マルティーニの作とする説もある)。これらの板絵は,「天上のエルサレム」を原型とする従来の都市の象徴的な定型表現から自然主義的表現への移行を示す画期的な作品とされる。しかもいずれも,より大きな構図の一部から切り取られた細部ではない。水面に反射する光の色彩が異なるように,2作は個別の独立した作品である。そのため,風景画がまだジャンルとして確立されていない中世末にあって,これらは純粋に「風景として描かれた」きわめて早い時期の作品として注目されてきた。もっとも,2枚が本来,何のために描かれたのかはわかっていない。おそらくはシエナのコンタード(都市周辺の農村部)のさまざまな中心地に関わる資料を保管する収納庫扉を装飾していたという説が主流である。作者や機能に関しては諸説紛糾しているものの,ほぼ異論なく認められていることがある。海景の魅惑的な表現と地誌的描写の精緻さから,湖岸の絵に描かれているのが,トスカーナの「城塞都市(カステッロ)」,タラモーネだという点だ。

「城」というと,一般には領主の住まう邸館や砦を思い浮かべることだろう。だが,イタリア語の「城(castello)」には,丘の中腹や頂,海辺,都市の境界などの要衝地に建てられた防備施設をそなえた「城塞集落」という意味もある。現在は,グロッセート県オルベテッロの一集落であるタラモーネは,14世紀にはシエナ共和国の最も重要な海辺の城塞都市であった。古くはエトルリア人が住み,紀元前280年頃からローマ人の支配下に入り,紀元前225年にはローマ人とガリア人が争った「テラモンの戦い」の場となったことでも知られる。

鳥瞰的視点で捉えられたこの城塞都市は,周囲を城壁に囲まれ,集落を三つの核に分節した多中心的構造を示している。それぞれの核は,広場や教会や世俗の公的建築を中心に形成されている。全体を見渡すように聳えているのが要塞であり,残りの居住空間から隔絶されている。この要塞は,外部の攻撃から集落を守護すると同時に,シエナのために住民を支配する。城塞都市は,10,11世紀頃からイタリアの北・中部で,領主が近隣農民を城の周りに集住させ,守護と支配により領主制度を確立するために次々と建設された。12世紀後半になると,自治を獲得した都市国家が領地拡張に乗り出し,コンタードの城塞都市を自らの領土に組み込んでいく。その流れのなか,これまでは不規則な形状であった集落は幾何学的な構成を示しはじめ,集落内部は党派間の競争を示す塔が林立するようになる。この絵でも高さを競いあう塔がやはり目につく。

もっとも,絵画は現実をそのまま映し出しているわけではない。都市や建築の具体性,地誌的特徴の忠実な描写にもかかわらず,夏の午後の静寂と充満する光のなかで捉えられた晴朗な都市は,人気なく,影を落とすこともない。ただ白い帆を膨らませ碧い水面を進む船と,右下の湖に足を浸ける人物だけが,生気を湛えている。