地中海学会月報

MONTHLY BULLETIN

学会からのお知らせ

「地中海学会ヘレンド賞」候補者募集

地中海学会では第22回「地中海学会ヘレンド賞」(第21回受賞者:奈良澤由美氏)の候補者を
下記の通り募集します。授賞式は第41回大会において行う予定です。
応募を希望される方は申請用紙を事務局へご請求下さい。
地中海学会ヘレンド賞
一,地中海学会は,その事業の一つとして「地中海学会ヘレンド賞」を設ける。
二,本賞は奨励賞としての性格をもつものとする。本賞は,原則として会員を対象とする。
三,本賞の受賞者は,常任委員会が決定する。常任委員会は本賞の候補者を公募し,
その業績審査に必要な選考小委員会を設け,その審議をうけて受賞者を決定する。
募集要項
自薦他薦を問わない。
受付期間:2017年1月6日(金)~2月15日(水)
応募用紙:学会規定の用紙を使用する。

第41回地中海学会大会

第41回地中海学会大会は,2017年6月10日(土),11日(日)の2日間,
東京大学本郷キャンパス(東京都文京区本郷7-3-1)で開催されます。
学会設立40周年記念大会として,ケンブリッジ大学の地中海史教授
デイヴィット・アブラフィアDavid Abulafia氏による記念講演が予定されています。
なお,大会のプログラムは決まり次第お知らせします。
大会研究発表募集
本大会の研究発表を募集します。発表を希望する会員は2月15日(水)までに
発表概要(1,000字以内。論旨を明らかにすること)を添えて事務局へお申し込み下さい。
発表時間は質疑応答を含めて一人30分の予定です。
採用は常任委員会における審査の上で決定します。

2月研究会

詳細は395号をご参照下さい。
テーマ:13世紀末ビザンツ政治史を巡るクロノロジーの再考
発表者:佐野 大起氏
日 時:2月18日(土)午後2時より
会 場:首都大学東京 秋葉原サテライトキャンパス
参加費:会員は無料,一般は500円

会費口座引落について

会費の口座引落にご協力をお願い致します(2017年度から適用します)。
会員各自の金融機関より「口座引落」を実施しております。今年度手続きをされていない方,
今年度入会された方には「口座振替依頼書」を月報394号に同封してお送り致しました。
手続きの締切は2月17日(金)です。なお,依頼書の3枚目(黒)は会員ご本人の控えとなっています。
事務局へは,1枚目と2枚目(緑,青)をお送り下さい。
引落用口座の変更をご希望の方は,新たに手続きが必要となります。用紙を事務局へご請求下さい。

第4回常任委員会

日 時:2016年4月16日(土)
会 場:東京大学
報告事項:第40回大会に関して/研究会に関して/企画協力講座に関して 他
審議事項:2014年度事業報告・決算に関して/2015年度事業計画・予算に関して/地中海学会ヘレンド賞に関して/『地中海学研究』XXXI(2016)に関して 他

第5回常任委員会

日 時:2016年6月18日(土)
会 場:首都大学東京
報告事項:研究会に関して/ブリヂストン美術館連続講演会に関して 他
審議事項:第41回大会に関して/第40回大会役割分担に関して/学生会員の見直しに関して 他

研究会要旨
ルネサンス期フィレンツェにおける〈異端〉の争点
―ボッティチーニ《パルミエーリ祭壇画》をめぐる関連史料の検討を通して―
秦 明子
10月15日/首都大学東京 秋葉原サテライトキャンパス

現在ロンドンのナショナル・ギャラリーに所蔵されているフランチェスコ・ボッティチーニ(1446-97)の《パルミエーリ祭壇画》は,フィレンツェのサン・ピエール・マッジョーレ聖堂のパルミエーリ家の礼拝堂のために制作され,パルミエーリの死後二年を経て礼拝堂に設置された。しかしこの祭壇画は,パルミエーリが晩年に著した長編詩『生命の都Citt・di vita』の写本とともに,その後,異端のかどで非難され,禁令下に置かれたと伝えられている。そのため祭壇画はA・ブラントによる論考以降,トレント公会議以前に異端視された唯一の事例として美術史上重要性をもってきた。ブラントは,対抗宗教改革以前の異教的な絵画に対する教会の態度がとりわけ寛容であったこと,ルネサンス期にはヴァチカン内部においてさえも,教皇自身によってそれらが黙認されていた事実を挙げながら,この祭壇画が異端視されたことがいかにまれな事例であったかを述べている。

一方D・フリードバーグは,トレント公会議の決定が絵画に及ぼした影響を論じた文章のなかで,教義の正統性の是非をめぐって,神学者と芸術家との関心が乖離していたことを示す一例として,ヴァザーリの言説を挙げながらこの祭壇画に言及している。ヴァザーリの言説からは,作品の神学的な正当性は二次的な問題であり,作品の造形がいかに美的にすぐれているかという点こそが重要な要素であったことが示されており,フリードバーグは,〈異端的〉であるという評価が多くの場合,芸術家の側にとっては重要な関心事ではなかったことを指摘しながら,教義上の是非という問題に「巻き込まれたくない」と言うヴァザーリの態度をその代表的なものとして取り上げている。

このように,〈異端的〉絵画であるというレッテルを貼られつつも,本祭壇画について,なぜ作品は禁令下におかれることになったのか,そして作品のどのような点が異端であるとみなされたのか,もしくは,本当に作品は異端的表象だったのか等,作品が異端視された経緯や争点が十分に検討されてきたとは言い難かった。本発表では上記の点を明らかにすることを目的として,パルミエーリの詩と祭壇画,及びパルミエーリ家の礼拝堂をめぐる関連史料を検討した。

まず,パルミエーリが1455年にナポリで詩の着想を得てから,どのような思想的背景のもとで詩を著したのか,14世紀の終わり以降フィレンツェで積極的に受容された異教の哲学が知識人たちに普及していった過程を見ていった。パルミエーリの詩には,オリゲネスに由来する「人間の魂が天使の起源をもち,魂が肉体に先立って存在する」という異端的な見解が含まれており,この点こそが,教会の伝統を逸脱した詩が非難された部分だった。パルミエーリはトラヴェルサーリからオリゲネスの思想を学んだと考えられている。しかし当時の知識人たちのオリゲネスの思想に対する強い関心に反して,オリゲネスへの教会の見解は好意的なものではなかった。パルミエーリは自らの詩が批判を招くことを十分自覚していたことが明らかとなっている。

続いて15世紀から18世紀までの関連史料を検討していきながら,まず,詩が異端的であると非難され始め,16世紀になって祭壇画に批判が及び,礼拝堂が聖務禁止下に置かれた経緯を詳らかにした。祭壇画は16世紀の半ばから17世紀の半ばにかけて布で覆われていたが,禁止令は1765年に解除されている。

最後に,祭壇画は本当に異端的表象だったのか,昨年提出された最新の見解を含めて図像に関する先行研究を検討した。ナショナル・ギャラリーのカタログは,これまで一貫して天使の位階のなかに聖人や預言者たちが混在している描写を祭壇画の正統でない点として挙げてきた。またバゲミールは,聖人や預言者,天使の胸部に各各印された星に着目し,こうしたアトリビュートの均一性にパルミエーリの異端的な思想が反映されていると指摘した。対して昨年スリフカは,祭壇画に描かれた「場所」や「都市の肖像」に着目することで,祭壇画がパルミエーリの詩に含まれる異端的思想の図解ではないことを強調し,ドメニコ・ディ・ミケリーノによる板絵を祭壇画に影響を与えたものとして指摘しながら,祭壇画の構図は,パルミエーリの詩よりも,ダンテの『神曲』をより喚起させるものであり,パルミエーリは「新たなダンテ」として描かれたと主張した。スリフカの見解には,作品の観者である当時の市民の視点が踏まえられており,説得力もあるように思われる。しかしなぜ,天使の位階を通常とは異なった珍しい表現で描く必要があったのかについては言及されておらず,この点についてはさらなる考察が必要であろうことを本発表で指摘した。図像が異端的であるか否かの判断については,今回は保留としたため,他の天国図や先行作例との比較を含め,今後考察を続けていきたいと思う。

古代ギリシアの「巡礼」
齋藤 貴弘

愛媛大学には法文学部附属「四国遍路・世界の巡礼研究センター」というものがある。学部研究プロジェクトとして2000年に発足し,2015年4月にセンターとして開設された。四国遍路を中心とする研究会や講演会では一般聴衆が100名を越す。埼玉から赴任した筆者が地元にお遍路が深く根付いていることを実感した体験の一つだ(本センターの詳細や調査報告書については,HP [http://henro.ll.ehime-u.ac.jp/]を参照)。

さて,世界の巡礼といえば,サンチャゴ巡礼,メッカ巡礼などが有名なところだが,当センターの「国際研究」部門に籍をおく筆者の専門は古代ギリシア史である。では,古代ギリシアの「巡礼」とは? M. Dillon, Pilgrim and Pilgrimage in Ancient Greeceなどに拠れば,オリンピア競技祭などパンヘレニックな祭典へ全ギリシアから集う競技参加者,観客,そして「神聖休戦」を布告する使者や諸ポリスからの公式使節(ともにテオロイと呼ばれる)たちが「巡礼者」とされる。この他,神託伺いやアテナイの近郊エレウシスでの秘儀入信もまた,「巡礼」と見なされる。

ただ,何をもって「巡礼」と見なすのか,という定義に翻ってみて疑問を感じないわけではない。そもそも,古代ギリシア世界にはpilgrim/ pilgrimageに相当する語は存在しない。また,巡礼をキリスト教あるいは一神教的な宗教活動と見なすならば,時間軸と宗教体系という二重の齟齬を古代ギリシアの「巡礼」は内包する。この巡礼の定義を巡る論争については,J. Elsner and I. Rutherford (eds.), Pilgrimage in Graeco-Roman & Early Christian Antiquity: Seeing GodsのIntroductionで比較的詳しく扱われており,細かいところを措けば狭義に定義するよりは包括的な概念として古代ギリシアにも適用した方が有意であるというスタンスのようだ。こうした考え方にも一理あるが,その一方で古代ギリシアとしての差異を担保し続ける視点も維持しながら複層的に比較検討していく必要があるのではないかと感じている。

このような思いを漠然と抱く中,2016年9月に巡礼研究の一環としてギリシアを訪れる機会を得て,エレウシスに着目することにした。「聖道」ヒエラ・ホドスという「巡礼路」に着目することで,「巡礼」の目的地である神域という「点」に「線」を加えて,新たな視点が得られるのではないかと考えたためである。幸いな事に,厳密に同じルートではないにせよ,現在でも,ケラメイコスからエレウシスへ至る道がまさしく,hiera hodosの名で機能している。アスファルトで舗装され,ギリシアの荒っぽい運転の車が猛スピードで通り過ぎる脇を,まだ日差しの強い日中に20キロを歩き通すことは難しくとも,その一部を実際に歩くという体験を取り入れることで,既に失われた「古代ギリシア」の「巡礼」考察に,息吹を吹き込むようなものにならないか,ともかすかな期待を抱いてのことだった。

この思いつきの域を出ない計画に,同時期にアテネに滞在していた知り合いのギリシア史研究者や院生が興味を持ち同行を申し出てくれ,4名での「巡礼行」となった。ケラメイコスの北,ヒエラ・ホドスの基点からスタートし,途中,街道沿いの地下鉄の駅では,発掘された古代のヒエラ・ホドスの遺構を見ることもできた。見た目や道路の物理的な感触は変わっても,聖道は地下水脈のように,今も足元に存在しているかと思うと感慨深い。ダフニの修道院を過ぎ,10キロほど歩いたところにアフロディテの神域がある。そこから先は道路事情も勘案し,タクシーでエレウシスに向かった。
翌日,Alexander Herda氏と知り合う機会があり,その際に氏は前日の我々のエレウシス「巡礼」に興味を示し,processionという重要な側面を指摘してくれた(後日,氏自身の論考を含む Greek processionに関する詳細な文献リストも送ってくれた)。今回,「歩く」という行為を個人的な体験として意識し過ぎて,「祭列」pompeという重要な側面を見落としていた。事実,エレウシスの秘儀は個人単位での入信を基本としつつ,大秘儀の際に入信希望者たちは祭列をつくってエレウシスまで途上幾つかの儀礼を経つつ行進したのであった。

こうして考えてみるとエレウシス「巡礼」には,「公(集団)」と「私(個)」が重層的に組み合わさった側面が見えてくる。具体的な考察は今後の課題だが,世界の巡礼研究の一環として,豊かな可能性が感じられる体験であった。

トルデシーリャス
久米 順子

トルデシーリャスという町を初めて訪れたのは,今から16年前の2001年の春だった。初のスペイン留学中で,この機会を逃せば次はいつ来られるか分からないと中世美術行脚に励んだ一年間だった。マドリードに留学中だった先輩Oさんがときどきご一緒してくれた。

ふたりでレンタカーを借りてカスティーリャ地方を回っていたときのこと。10世紀頃建造とされるサン・セブリアン・デ・マソーテ聖堂で,鍵番をしていたご近所のおじさんと少し話をした。彼にしてみれば,東洋人の女ふたりが村の聖堂を開けてくれと頼みに来たばかりか,熱心に写真を撮っているのが珍しかったのだろう。「わたしたちモサラベ美術arte mozrabeに興味があるんです」。つたないスペイン語でそういうと,おじさんは「じゃあトルデシーリャスのサンタ・クララは見たか? まだなら帰りに寄っていくといい,すぐ近くだから。あそこは行く価値があるぞ」と勧めてきた。

トルデシーリャス? なんとなく聞き覚えがあるような(という時点でしっかり世界史を勉強していなかったことが分かってしまうが)。でもそんな地名はゴメスモレノの古典『モサラベ教会』にも他のスペイン10世紀美術の論文にも出てきた覚えがなかった。しかしミシュランの道路地図をみると,確かにマソーテから約30キロメートル,半時間で行けるところにある。行程にゆとりもあった。

そして訪れたトルデシーリャスのサンタ・クララ修道院。ここはコルドバかグラナダかとばかりに豪華なイスラーム風装飾が目を引く。もともと修道院として建てられたのではなく,14世紀のカスティーリャ王アルフォンソ11世が建設を開始し,その子ペドロ1世が完成させた宮殿だったと知って納得する。しかしそうすると,どう考えても10世紀のモサラベ建築であるわけがない。してやられたかと呟きつつ修道院内の現聖堂に足を踏み入れて,はたと膝を打った。祭室部分の上で,巨大な木造ムデハル天井が黄金に輝いていたのだ。これだ! あのおじさんは「モサラベmozrabe」と「モカラベmocrabe」を混同したのに違いない。

モカラベとは,蜂の巣天井や鍾乳石装飾とも呼ばれるイスラーム建築の持ち送りの一種ムカルバスのスペイン語読みである。イスラーム建築史では,ペルシア起源とされる東方イスラーム世界のムカルナスと,マグリブやアンダルスなど西方で発達したムカルバスとが区別されることもあるが,スペイン語ではどちらもモカラベと呼んでいる。モサラベ,モカラベ,ともにアラビア語起源で音も似ているうえに,美術・建築か歴史でしか用いられない特殊な単語である。専門家でなければ間違うのも無理はなかった。しかし確かにサンタ・クララ修道院の繊細な漆喰装飾や複数のリブがかかった穹窿,隣接するアラブ浴場の典雅な装飾などには,10世紀の聖堂の馬蹄形アーチの曲線美とは異なる魅力があり,結果的にわたしたちはマソーテのおじさんのおかげで幸運な出会いをはたすことができた。

イスラーム趣味で知られるペドロ1世が,同時代人のナスル朝ムハンマド5世が作らせたアルハンブラの獅子宮などに刺激を受けて建設させたと考えられるのがセビーリャのアルカサルでありトルデシーリャスの現サンタ・クララ修道院であることを学んだのは,もっと後になってからのことである。「ムデハル美術」と呼びならわされてきた美術にも関心が広がり,どうしてももう一度見たくなって,昨夏マドリードから日帰りで再訪した。サモーラ行のバスに乗れば2時間あまりで着く。再訪を望んだ理由のひとつは,手元に建物の写真が残っていなかったためなのだが,チケットを買ってすぐに内部の撮影は入口近くのパティオ(中庭)のみといわれてうなだれる羽目になった。そうだった,ここは当時も今もスペイン王室ゆかりの宮殿や修道院を統括する国立の部局パトリモニオ・ナシオナルの管理下にあり,クララ会の修道女たちの暮らしを邪魔することのないよう,グループ見学のみ,撮影不可なのだった。しかし建物の修復が進展したのか,記憶以上にきれいになっていた。

トルデシーリャスは,また,「狂女」(La Loca)カスティーリャ女王フアナ1世(1479-1555)が1508年以来その死まで幽閉されていた場所としても知られる。その城館はサンタ・クララ修道院の西隣,聖アントリン聖堂との間に位置したそうだが,あいにく現存しない。ドゥエロ川のほとりの眺望の良い立地だったようだ。1494年に教皇承認のもと新大陸の領土の分割を定めた「トルデシーリャス条約」がスペインとポルトガルの間で締結されたのもこの地であった。昨年は,毎年9月のこの町の祭りで行われる槍を多用する闘牛に対してカスティーリャ・レオン州が出した牛の殺害を禁止する条例に,町が法廷闘争も辞さない構えで反対して,全国区のニュースになった。賛成派は「中世以来の伝統行事だから」というが,果たしてペドロ1世やフアナ女王はこの町の闘牛を見たことがあったのだろうか。

ミロと日本美術,日本文化の接点
松田 健児

バルセロナ生まれの画家ジュアン・ミロは長らくシュルレアリストの画家としての側面ばかりが強調され紹介されてきた。しかしパリに拠点を構え,アンドレ・ブルトンが率いるグループに所属して,名実ともにシュルレアリストとして活動していた時期は意外と短い。一方,ミロが90年にも及ぶ長き生涯にわたって日本的な要素を積極的に取り込んでいったことに関しては,漠然と指摘されることこそあったものの,本格的な調査,研究はまだ端緒についたばかりだ。

先日,バルセロナとパルマ・デ・マジョルカのミロ財団,そして著作権管理団体であるスクセシオ・ミロで調査を行う機会があった。そこに保管されていたのは美術品に限らない日本の品々,あるいはミロと日本人との間に密接な交流があったことを裏付ける大量の史料だった。漠然とは把握していたものの,ひとつひとつを実見してみると,ミロと日本の間にはこれほどまでに多くの接点があったのかと驚かされる。彫刻のアトリエには《富嶽三十六景 神奈川沖裏》の絵葉書が貼りつけられ,ミロの個人蔵書のなかには歌川国虎の『近江八景』があった。他にも瀧口修造を筆頭とする,多数の日本人から送られた書簡,九州の郷土玩具である雉車,東北のこけし,書の掛軸,鎌倉に店舗を構える蒟蒻店の前掛け,「美露」と篆刻された印鑑など,挙げていくとキリがないほどだ。どれも史料としての価値が高く,たとえば峰岸義一や松尾邦之助,小城基の連名で送られたお茶会への招待状は,1932年の東京・巴里新興美術展にミロがどのように関わっていたのか,その一端を明らかにしてくれる。

しかし,本稿で紹介したいのはミロ本人のことだけではない。ミロと日本美術や日本の文化全般に対する愛好を共有していた二人の人物,彫刻家アウダル・セラと陶芸家ジュゼップ・ジュレンス・アルティガスについてである。

アウダル・セラの名前は,最近までスペインでもあまり知られていなかった。それもそのはず,遺族が保管している貴重な史料はつい最近まで研究者の目に触れることがなく,ある意味,歴史の影に埋もれた存在に留まっていたのである。セラはシュルレアリスムの影響を強く受けた前衛芸術家としてバルセロナで活動したのち1935年に日本へ渡り,1948年まで神戸に居住する。日本では濱田庄司に陶芸の薫陶を受け,さらには二科展に自身の彫刻作品を出品してさえいる。バルセロナに戻った後も,バルセロナ人類学博物館の収蔵品を購入するため1957年と1961年に二度,日本を再訪し,それぞれ861点と864点の美術,工芸品を持ち帰った。このときも日用品,とくに陶器に関心を寄せ,陶芸と深い関わりをもつ場所を訪れている。1957年の旅行では関西を巡り,1961年の二度目の旅行では瀬戸,信楽,伊賀,丹波,備前,益子,伊万里,多治見,有田,京都が主な滞在先となった。セラはミロと親交を結び,1949年にバルセロナでミロ展を実現させた「クルブ49」のメンバーだったのみならず,日本での収集品のお披露目展では,その入口でミロと一緒に写真に収まっている。

陶芸家ジュゼップ・ジュレンス・アルティガスもミロと共同でパリのユネスコ本部やハーバード大学,あるいは大阪万博のガス館のために陶板壁画を制作したことで名を知られている。このアルティガスも,セラに負けず劣らず,日本と密接な接点をもっていた。その息子ジュアン・ガルディ・アルティガスは陶芸を学ぶため濱田庄司のもとに留学し,四谷のイグナチオ教会で行われたマコ(允子)さんとの結婚式には,濱田のほかに土方定一やバーナード・リーチが出席している。バルセロナ郊外ガリファにあるアルティガスの陶房には日本風の登り窯が設置され「益子」という貼り紙が掲げられているほどだ。

つまり,セラもアルティガスも民芸運動のメンバー,とくに濱田庄司と密接な交流をもっており,日本の民芸や陶芸に関する知見をミロと共有していたはずだ。でなければ1966年,東京と京都の国立近代美術館で開催された大規模な個展をきっかけに初来日を果たしたミロが,なぜ日本民芸館,あるいは信楽の楽斎工房や宗陶苑を訪れているのか,説明がつかなくなる。

そして,セラやアルティガスと土方の交流もバルセロナを舞台に実を結んでいる。セラや土方の尽力によって1959年7月,バルセロナの副王妃宮殿で日本版画展が開催され,棟方志功や北川民次,脇田和,浜口陽三を含む19人の芸術家の作品,計120点が展示された。この展覧会をきっかけとして土方はアルティガスの陶房を訪問しており,帰国後『芸術新潮』に「ミロの絵がここから生まれた」と題された記事を発表することになる。

こうした日本(人)との接点,日本の美術や文化に対する愛好は仲間内の狭い範囲で共有されたものだったのかもしれないが,20世紀後半にも日西間に双方向の交流があったことを示すものであり,しかもミロ自身の二度の来日,あるいはミロが瀧口修造と詩画集を共同制作することになる素地をなしていると言えるだろう。

自著を語る84
『オスマン朝宮殿の建築史』
東京大学出版会 2016年8月 264+25頁 6,600円+税
川本 智史

イスタンブル観光の目玉のひとつであるトプカプ宮殿は,いざ訪れてみるといささか拍子抜けする場所かもしれない。同じく宮殿とはいっても,紫禁城やベルサイユ宮殿,あるいは我らが江戸城にかつて存在した広大な御殿群と比較してみればその規模は控えめで,建築そのものから強大な権力の存在はうかがい知れない。前近代において大帝国を築いたオスマン朝は,16世紀半ばにはスレイマニエ・モスクで壮麗な巨大ドームの空間を実現したが,最も王家の権威が反映されるべき同時期のトプカプ宮殿は今日一見して感銘を与えるものではないのである。即位式など重要儀礼時に君主が群臣と対面したのは,200メートル四方にも満たない第二中庭とよばれる空間で,そこが宮殿の中核として機能していたことは説明を受けなければなかなかそうとは気づかないだろう。

オスマン建築史研究の泰斗であるネジプオールもこのような見解を認めつつ,トプカプ宮殿がそこでの宮廷儀礼と一体となることではじめて帝国の権勢を表現した点を指摘する。オーダーや数の理論を磨き上げて人間の存在を抜きに,文字通り伽藍堂となっても美を表現しうる同時代のルネサンス建築とは対照的に,オスマン朝の宮殿建築は明らかに異なった文脈のもとに成立した。トプカプ宮殿とは,そこで宮廷儀礼が開催されることではじめて理解されうる空間だった。

ではこのような建築=儀式空間はどのような経緯をたどって成立したのだろうか。定説に従えばトプカプ宮殿とは,コンスタンティノープルの征服者メフメト2世が,15世紀後半に新制を定めて大帝国建設を企図する過程で創出された新式の宮殿,いわばビッグバンであった。拙著はこのような見解に異を唱え,15世紀から16世紀にかけてオスマン宮廷が各地に建設した宮殿群を俯瞰することで,その歴史的な展開と性格を明らかにすることを目標とした。近年オスマン建築史研究は発展著しいとはいえ,依然研究対象としては現存するモスクなど宗教建築が取り上げられることが多く,世俗建築でありしかもそのほとんどが現存しない前近代の宮殿建築については,トプカプ宮殿を除けば考察の対象となってこなかった。文献史料から宮殿群の姿とその機能を復元し,ひとつのストーリーを読み解くことでオスマン宮廷が宮殿建築に何を求め造形していったかが明らかとされる。

詳細な議論は本書の内容に譲るとして,ここでは大まかな枠組みのみ示しておきたい。第一の主題となるのが,先述した儀礼用中庭の成立をめぐる状況である。当初西アナトリア地方の宮殿では,君主の御座所となり謁見に用いられていたのは高楼建築であり,15世紀初頭になって旧都エディルネに登場した宮殿ではじめて中庭空間とこれとセットとなる大規模な謁見儀礼が現れた。同時期にはイェニチェリを主体とするスルタン直隷のカプクル軍団が拡充されてオスマン軍の屋台骨を支えた反面,彼らは待遇に不満を抱けば容易に反旗を翻す危険な存在であったから,定期的に接見し要求を聞き入れた上で食事を振る舞う必要があった。トプカプ宮殿の第二中庭とは,このような背景のもとエディルネの宮殿に誕生した中庭空間を継承するものだったのである。当初の中庭とは,他者に対して権威を主張するものでも,繊細な美意識が表現された建築空間でもなく,あくまで大軍団とスルタンが直接対峙する機能的な場だった。

ところが専制体制を強化したメフメト2世が晩年にトプカプ宮殿第二中庭での定期的な謁見儀礼を廃すると,その裏にあるスルタン個人の空間である内廷が改変されるとともに,中庭横に閣議の間が建設されるなど絶え間なく増改築が進められた。多様な建物の寄せ集めのようなトプカプ宮殿も,儀礼の変化という観点からみればこのように合理的に読み解くことができるのである。

その一方で,中庭が中心となって宮廷儀礼がおこなわれるトプカプなど主宮殿以外にも,主要都市には移動するスルタンとその家族の滞在先となる宮殿が数多く建設されていたことが判明する。これらは高楼建築が主体となる旧来の宮殿形式を継承し,儀礼用中庭を持たないものであった。たとえば現在イスタンブル中心部には,イスタンブル旧宮殿とよばれる宮殿がトプカプ宮殿と相前後して建設された。前者を居住用,後者を宮廷儀礼主体の施設とみれば,一見無駄な造営にも十分な理由があったことが理解されよう。イスタンブルにおける儀礼用の主宮殿であるトプカプ宮殿建設以降も,各地の宮殿群は継続して利用され,さらにはイスタンブル郊外の庭園や牧地も宮廷活動の舞台となっていた。

ほとんどが遺構すら存在しないこれら宮殿群の分析は,もっぱら文字を通してその意味を解読していく作業となる。そこから浮かび上がるのは,柔軟に自らの領域を築き上げていくオスマン宮廷の姿であった。

表紙説明 

地中海世界の〈城〉1:カイロの城塞/堀井 優

新テーマ「地中海世界の〈城〉」の開始にあたり,防御機能を端的に示す建造物の一例を取り上げたい。表紙は,エジプトの中心都市カイロの「山の城塞」(カルアトアルジャバル,シタデル)を描いた図版である。ナポレオンのエジプト遠征に伴って行われた学術調査の成果を示す『エジプト誌』に収録されており,18世紀末頃の景観を伝えたものといえる。この城塞は,カイロの市街地の東縁をなすムカッタム山に連なる高台に位置しており,この図版は,ムカッタム山に面する城壁の一部を描写したものと思われる。

カイロの城塞の歴史は12世紀後半にさかのぼる。アイユーブ朝(1169-1250)の創始者サラーフアッディーン(サラディン,在位1169-93)は,ファーティマ朝(909-1171,エジプト支配は969以降)が造営したカーヒラの内部に居住したが,旧王朝の残党が危険を及ぼす恐れがあったため,より安全な居所を求め,1176年にこの城塞の建設を開始した。最も早く建造されたのは君主の護衛部隊を居住させる区画であり,その南西部分には,用水供給のために約90メートルの井戸が掘られ,のちには宮殿が建設されることになる。また城塞とともに,十字軍の来襲にそなえて,フスタートとカーヒラを囲む長大な市壁の建設も開始された。

この都市内外に対する防衛的な性格のきわめて強い建設事業は,その後のカイロの発展過程に一定の影響を与えた。まず市壁の意義は限定的であり,13世紀前半まで断続的に建設が続行されたものの,結局完成しなかった。とはいえアイユーブ朝およびマムルーク朝期(1250-1517)からオスマン帝国支配期(1517-1798)にかけて発展した市街地は,城塞からカーヒラの東辺および北辺を経てマクスに至る市壁の大半を輪郭の一部としつつ,カーヒラの南部,北部,西部に拡大していくことになる。こうした市街地が商工業,司法文教,居住等の民生的機能を担ったのに対して,城塞は堅固な統治拠点として機能した。サラーフアッディーンによっては完成されなかったものの,13世紀初頭にアイユーブ王家のカーミル(在位1218-38)によって整備されて支配者の居所とされ,以後19世紀まで,増改築を伴いつつ,カイロおよびエジプト支配の中心であり続ける。アイユーブ朝およびマムルーク朝スルタンはここに中央政府を置き,オスマン期に帝都イスタンブルから派遣されるエジプト州総督もここに居住した。ムハンマドアリー朝(1805-1953)もこの伝統を継承する。西洋化政策を推進したヘディーヴイスマーイール(在位1863-79)が新市街の建設を進め,新旧両市街の接点に造営したアブディーン宮殿に居所を移したことをもって,城塞は旧来の統治上の意義を失うことになる。