地中海学会月報 MONTHLY BULLETIN

学会からのお知らせ

第45回地中海学会大会の開催時期について

地中海学会では、第45回地中海学会大会を下記のとおり開催すべく準備を進めてきました。
しかしながら、コロナ禍収束の切り札として期待されるワクチン接種も、大会が予定されている6月までに広く一般に行き渡る可能性はないようで、学会としても大会開催時期の延期を検討し始めております。詳細については決定次第、学会ホームページ、また月報439号でお知らせしますのでご注意ください。会員の皆さまのご理解・ご協力、どうかよろしくお願い申し上げます。

6月12日(土)
13:00 開会宣言
挨拶:田中秋筰(大塚国際美術館)
13:15~14:15 記念講演
「イタリアでの発掘50年」青柳正規
14:30~16:30 地中海トーキング「地中海が見た病と健康(仮)」
パネリスト:篠塚千恵子/畑浩一郎/山辺規子(予定)/吉村武典
司会:小池寿子(予定)
16:40~17:10 授賞式
地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞
17:10~17:40 総会(会員のみ)
18:00~20:00 懇親会(於システィーナ・ホール)

6月13日(日)
10:00~12:00 研究発表
「COVID-19影響下におけるイタリアの舞台芸術──演劇とオペラの場合」大崎さやの
「ランベルト・シュストリスと南ドイツ対抗宗教改革──16世紀ヴェネツィア派芸術家とフッガー家、オットー枢機卿の美術パトロネージ」久保佑馬
12:00~14:00 昼食
14:00~17:00 シンポジウム「模倣し複製する地中海」(仮)
パネリスト:京谷啓徳/飛ヶ谷潤一郎/日向太郎/園田みどり
司会:芳賀京子
17:00 閉会宣言

第45回地中海学会大会研究発表の追加募集

第45回地中海学会大会での研究発表を追加募集いたします。発表を希望する会員は、4月9日(金)までに発表概要(1,000字以内。論旨を明らかにすること)を添えて事務局へお申し込み下さい。発表時間は質疑を含め、1人30分の予定です。採用は常任委員会における審査のうえ決定します。

新名簿作製

新名簿作製のため、会員各位の掲載項目確認書を月報438号に同封しております。ご確認のうえ、変更がございましたら5月1日(土)までに事務局までご連絡下さいますようお願いいたします。

4月研究会

下記の通り研究会を開催します。
参加を希望される方は、お手数ですが、学会ホームページ・トップページのNEWS欄「研究会のお知らせ(4/10)」に掲載されているGoogleフォームにて参加登録の手続きをお願いいたします。参加登録をされた方には、後日メールで Zoomアドレス等の詳細についてご連絡いたします。

テーマ:ゴルドーニの『スタティーラ』──演劇改革の萌芽
発表者:大崎さやの氏(東京大学非常勤講師)
日 時:4月10日(土)午後2時より
会 場:Zoomオンライン会議システム
参加費:無料

イタリアのオペラには、アレクサンダー大王の妻スタテイラや、それ以外のスタティーラ(スタテイラのイタリア語名)を主人公とする作品がさまざまに存在している。ヴェネツィアの劇作家カルロ・ゴルドーニ(Carlo Goldoni, 1707-1793)も、修業時代の1741年に、オペラ・セーリアの台本『スタティーラ』を執筆している。本発表では、ゴルドーニ以前のオペラ台本のスタティーラ像と、ゴルドーニの主人公を比較分析することを通して、彼がこのオペラで、どのようなスタティーラ像を描こうとしていたのかを論じる。また、作品に彼の演劇改革の理念がどのような形で表れているのかを探ってみたい。

古代ローマ時代、ラクダが乗せたモノ/人
小坂 俊介

ローマ帝国が地中海世界を曲がりなりにも支配していた時代、ラクダは帝国の東方で活躍していた。とはいっても、その担当は主に物資の運搬であって、砂漠の戦闘で華々しい戦果を挙げる、などとは期待されていなかったようである。ローマ軍で初のラクダ部隊はトラヤヌス治世、アラビア方面への遠征に際し補助部隊として編成されたと考えられている(E. Dabrowa, “Dromedarii in the Roman Army: a note”, in: Roman Frontier Studies: Proceedings of the XVth International Congress of Roman Frontiers Studies, Exeter 1991, pp. 364-366)。彼らの主な任務は輸送部隊の護衛、街道や辺境域の監視、斥候のような活動であったが、地味ではあれ重要な部分に貢献していたと言える。おそらくこれらの部隊は東方、特にパルミラやアラビア出身者によって構成されており、従って3世紀半ばの帝国を悩ませたパルミラ軍にもラクダ部隊がいたことだろう。現に『ローマ皇帝群像』「神君アウレリアヌスの生涯」28章には、ローマ軍に敗れたパルミラ女王ゼノビアがラクダに乗って逃走を図った、という話がある。

このように見ると、古代ローマのラクダはその背に食糧その他物資、兵士、そしておそらく偶々ではあるが女王を乗せたことになる。その点では牛や馬のようなローマ人にとって馴染み深い動物と変わらなかったと言えるかもしれない(やや牽強付会であることは認めざるを得ない)。ローマ人はラクダの役畜としての有用性を確かに認めていた。時代はやや下り、6世紀の歴史家カエサレアのプロコピオスは、その有名な著作『秘史』において皇帝ユスティニアヌスのやることなすことを誹謗中傷しているが、彼によれば、ユスティニアヌスによってローマ軍のラクダの数が削減されたため、物資の運搬に多大な支障が生じているという(30章)。

ところで、古代ローマ人のなかにはラクダに対してあまり良いイメージを持たない、有体に言ってラクダを馬鹿にする意見もあった。4世紀の著作家、カエサレアのエウセビオスは『パレスチナ殉教録』(短版)でラクダを「分別なき獣」と言っている(12章)。このような偏見を反映しての故か、古代末期の東方では、犯罪者・悪人の市中引き回しという場面で、しばしばラクダが登場する。再びプロコピオスによると、ユスティニアヌスは占星術師を拷問し、ラクダの背に乗せて市中引き回しに処したという(『秘史』11章)。占星術師が権力者から迫害されるのはよくある話だったが、ラクダの背に乗せられることが一種の屈辱とみなされていたのだろうか。

同様の光景が特によく見られた(と伝わる)のはアレクサンドリアであり(例えばエウセビオス『教会史』6巻41章、エウァグリオス『教会史』2巻5章)、なかでも有名な事件は361年の司教ゲオルギオスの殺害であろう。皇帝の後ろ盾のもと強権を振るったこの司教は、しかし当の皇帝の急死ののち、不満を爆発させた市民によってリンチされてしまう。そして彼の遺体はラクダに乗せられて市中引き回しの上、海岸で焼かれてしまった。多くの史料がこの事件を伝えているが、コンスタンティノープルのソクラテス『教会史』によれば、ラクダはゲオルギオスの遺体もろとも焼き殺されてしまったという(3巻2章)。同時代の歴史家で、自身はキリスト教徒ではなかったアンミアヌス・マルケリヌスも事件の顛末を述べている(22巻11章)。彼は、誰もかれもが憎しみに憑りつかれ、キリスト教徒さえゲオルギオスを守ることはなかったと述べ、暗にキリスト教徒を非難しているようにも見える。しかし、誰か1人くらいラクダを助けようとする者がいても良かったような気もする。

もう1つ、ゲオルギオスの虐殺から120年ほど経ったころの事件を紹介しておきたい。5世紀後半~6世紀前半のミュティレネ司教ザカリアスが『セウェロス伝』で伝えているものである(Kugener版29~35頁)。486年の春、アレクサンドリア近郊のメヌーティスにあったイシス神殿をめぐっての一悶着があった。事件の経緯は省略するが、当時の司教を中心とする聖職者と信徒の一団が神殿を荒らし、その神官と共に、神殿に祀られていた像をアレクサンドリアへと運んでいったのである。もちろんそれらの像はラクダの背に揺られていた。ラクダは全部で20頭だった。市の中心にはエジプト総督や軍団指揮官をはじめとする公職者が集められ、司教による神官の尋問ののち、像は燃やされてしまったという。こうしてラクダは市民に神像の無力さを知らしめるのに一役買ったのだが、人々の心性、信仰の勢力図が一大転換期を迎えた時代にあって、ラクダはその変化を象徴するような場面に居合わせた、と言えるのかもしれない。

最後に1つ断っておきたいのは、筆者自身は未だラクダの背に乗ったことはない、ということである。

ラファエロ没後500周年の特別展示と回顧展
永井 裕子

2020年は、1520年4月6日に夭折したラファエロの没後500周年であった。各国ではこの画家のための展覧会やシンポジウムが予定されていた。本稿では、ローマで開催されたラファエロ展覧会ふたつについて触れたいと思う。

ローマにおけるラファエロ関連のイベントでも特殊だったのは、システィーナ礼拝堂でのタペストリー特別展示である。2月17日からの1週間、システィーナ礼拝堂の壁には、ラファエロの下絵に基づくタペストリー(10点と断片2点)が飾られた。1515年頃にメディチ家の教皇レオ10世(在位1513–21年)がラファエロに下絵を依頼したもので、タペストリーそのものはブリュッセルのピーテル・フォン・アールストの工房が制作している。通常時、ラファエロのタペストリーはヴァティカン美術館に保管され、保存の観点から順繰りに一部作品が展示されている。動物性蛋白質を素材とするタペストリーは吊るしておくと生地が伸びやすく、色も退色しやすいため、保存には特別気を配らねばならない。1983年と2010年にもシスティーナ礼拝堂に飾られたことがあったが、展示は一部作品に留まり、礼拝堂に一堂に飾られたのは美術館所蔵となってからは初めてのことである。1787年6月、キリストの聖体祭の時期にあわせて礼拝堂に飾られたタペストリーを見るため、ゲーテはローマに滞在し、以下のように書き残している。「ラファエロの図案によって作られた毛氈を見たことが、私をふたたびより高い観察の世界に引き戻したのであった。確かにその出所を彼に追っているに違いないもっとも優秀なものが一まとめに広げられており……」(ゲーテ『イタリア紀行』下、相良守峯訳、岩波文庫)。その後、1798年にフランス軍がタペストリーを持ち去る事件などを経て、美術館に収まったのは1932年のことであるから、ゲーテがタペストリーを見て以来、システィーナ礼拝堂で見る機会は数えるほどしかなかったであろう。作品とそのオリジナルの設置場所を併せて見ることのできる、特別な展示だった。

3月6日からは、2020年の最大の目玉とされたラファエロ回顧展Raffaello. 1520–1483が、スクデリーエ・デル・クィリナーレにて開催された。展覧会名に付された逆行する数字が示すように、ラファエロの死から始まり、若い頃に遡る珍しい形式の回顧展である。画家・建築家として活躍したラファエロの全生涯の作品を網羅的に扱う展覧会で、多くの重要作品が出品されていた。しかし、単なるラファエロ名作選になっていなかったのは、やはり所有作品の多いイタリアならではの展覧会である。個人的に最も興味を引かれたのは、かなりの数が出品されていた素描である。本展覧会の監修にウフィツィ美術館素描版画室関係の研究者らが関わっていたため、素描の見せ方は実に秀逸だった。関連する油彩作品などと並べて有機的に展示されることで、何のために作られた素描なのか、何を表現したかった素描なのか、理解しやすい構成で展示されていた。一口に素描といっても、既存の作品を模写したもの、個々の人物のポーズを練習したもの、人物像を組み合わせて群像を構成したもの、転写のために制作された作品等身大のカルトンなど多様な種類の素描がある。これらが、どのような役割で作られたのか、視覚的に理解できる展示構成となっていた。素描の役割を理解するには、実物の素描のサイズ感や技法の違いが伝えてくる情報が重要で、カタログではわからないものである。その点で、ラファエロという特定の芸術家の素描を、一挙に見ることができた貴重な機会で、生の作品に触れる重要性を、この展覧会でも再認識した。

さて、2020年はラファエロの数多くの作品に直接に触れられる機会となるはずだった。だが、このルネサンスの巨匠も新型コロナウイルス感染症の騒動に振り回されたようである。ラファエロ関連のイベントが本格的に始まった時期にあたる2月末から、北イタリアでは新型コロナウイルス感染症が爆発的に広まり、3月半ばには全土がロックダウンする事態に陥ってしまった。回顧展に関しては、運よく開催初日と翌日に2回見学することができたが、その翌々日には一時休館となってしまった。開幕からわずか3日である。イタリアではその頃から文化活動と感染症対策にどう折り合いをつけるか早々に議論が始まっており、会場出口では展覧会主催者の危機感のなさについてどう考えるか、記者に取材された。

感染症流行のために美術館見学や現地調査を諦めなければならなかった一方で、国際的な学術イベントに参加するハードルは格段に下がった。没後500周年を記念して開催されたロンドンのウォーバーグ研究所のシンポジウムなどには、オンラインで参加できるようになった。海外文化を研究する者にとって、現地までいかなければ参加できなかった以前と比べると、この状況が有利に作用したことは予想外のことだった。ただ、オンライン会議の普及で海外との距離が縮まっても、時差は残っているので、深夜の講演は辛い。いつの日か、時差を解消するような技術が開発されてほしい。

パンデミック下の作品鑑賞 ―ラファエロ没後500周年に寄せて
深田 麻里亜

新型コロナウイルスのパンデミックが現実となった2020年春以降、オンラインによる学会やセミナーへの参加は、ひろく浸透した感がある。以前のような海外渡航が難しい状況が続くなか、芸術鑑賞においてもまた、オンラインの恩恵を実感する機会が増えた1年となった。

2020年は、ルネサンス三大巨匠の1人、ラファエロ・サンツィオ(1483-1520年4月6日没)の没後500年にあたる年であった。欧米では多くの記念展覧会が企画されていたが、その大半は、会期が延期されたり、中止されたりすることになった。その点できわめて貴重な機会となったのが、イタリアで感染拡大が深刻化する直前、2020年2月17日-23日の1週間限定で開催された、ラファエロの下絵にもとづくシスティーナ礼拝堂用タペストリーの展示である。

ラファエロは教皇レオ10世(在位1513-21年)の注文に応じて、新約聖書に由来する「聖ペトロ伝」、「聖パウロ伝」連作の原寸大下絵を1515-16年に描いた。これらをもとに1515-21年にかけて、ブリュッセルで10点のタペストリー連作が織られ、ローマへ送られた。現在、ヴァティカン美術館に所蔵されている作品である。通常、保存上の理由から連作全てを一度に展示することはできず、ヴァティカン絵画館の第6展示室で、ガラスケース内にローテーションを組んで掛けられている。これら連作全てを、制作当初に意図されていた場所、つまり、システィーナ礼拝堂壁面に掛け一般公開する展示が実施されたのである。

そもそも、タペストリー連作は、レオ10世登位以前、2人のデッラ・ローヴェレ家出身の教皇のもとで行われていた、既存の礼拝堂装飾を考慮したうえで、使徒の召命と伝道の旅の諸場面という主題と寸法が選択された作品であった。堂内では、15世紀後半に「モーセ伝」、「キリスト伝」壁画が描かれ、16世紀初頭にミケランジェロ(1475-1564年)が『創世記』諸場面および預言者像を天井に描いていた。ラファエロの構図は、こうした先達との一種の競合をなすものでもあったのである。これら作品群は、空間内でどのような関連や対比を見せたのだろうか?残念ながら、筆者は現地を訪問できなかったため、展示状況の写真を眺め、評論などを読みつつ、想像をめぐらせている。実のところ、完成したタペストリー連作はラファエロの存命中にはローマに揃わなかった。そのため、堂内に全てが掛けられた光景は、作者本人ですら観ていないわけである。没後500周年を祝う、実に重要な展示となった。

その後、現地への渡航や、従来のような展覧会訪問が容易ではない状況となってしまったが、主催者側のさまざまな工夫のおかげで、オンライン鑑賞の幅は広がりを見せた。ローマのスクデリーエ・デル・クイリナーレ美術館の大規模な回顧展は、3月初旬の開始直後、一旦閉鎖された。その間、会場の展示状況の紹介や、研究者による解説等の動画がオンラインで順次公開された。展示の様子をある程度の臨場感をもって視聴できるのは、非常にありがたいことである。

さらに、オンラインで鑑賞できる作品のイメージには、肉眼では見られないものが写っていることもある。昨年、ロンドンのヴィクトリア&アルバート美術館は、先述したタペストリーの原寸大下絵の高精細デジタル画像をホームページにて公開した。ラファエロによる原寸大下絵のうち現存する7点は、18世紀に英国王室コレクションに入り、以降「ラファエロのカルトン」(Raphael’s Cartoons)と通称され、現在は同美術館に寄託展示されている。16世紀、タペストリーを織る際には、下絵は図柄を転写する過程で裁断され、破棄されるのが一般的であった。しかし本作は、同じ図柄のタペストリーを複数織ることを見越してか、下絵として使用、裁断された後に再び貼り合わされた。ラファエロによる現存する唯一の大型着彩素描として、今に伝えられているのである。

美術館はカラー、赤外線、3Dの三種の高精細写真を2019年夏に撮影した。これによって、作品制作のプロセス、完成後に下絵が被った数々の処置の痕跡について、新たな光が当てられることになった。これらの高精細画像は美術館ホームページで閲覧でき、紙面に施されたウォーターマークといった、撮影を通じて得られた新事実についても解説付きで公開されている。下絵の繊細で入念な筆致、切り取られた後に貼り合わされた紙面の境界や凹凸、描写の輪郭線に沿って穿たれた、下絵を転写するための無数の小さな穴──肉眼で確認できる以上の細部にまつわる情報が、そこには含まれている。こうした画像を、自宅のPC画面上でゆっくりと堪能できるのは、現代ならではの贅沢な鑑賞方法と言えるのかもしれない。感染拡大防止策が継続的に実施される現状では、オンラインによる美術館訪問や作品鑑賞は、今後さらに身近な手段の1つとなり、多様化していくに違いない。

実現しなかったマルセイユの大モスク建設計画
奈良澤 由美

南仏の港町マルセイユの宗教文化財について調べなければいけない機会があり、一昨年の3月、カヌビエール通りのトゥーリスト・インフォメーションを訪ねて、マルセイユの見学すべきモスクにどのようなものがあるか尋ねた。「全くないです」と受け付けの男性は笑顔で答えた。
マルセイユでは住民の4分の1がイスラム教徒であると推定されている。そして70を超えるモスクが市内に存在している。しかし文化財として観光客に訪問を勧めるようなモスクは存在しない。これはある程度予想していた答えだった。
キリスト教の有名な聖堂はマルセイユに数多く存在している。街の象徴として信仰の対象となっているノートル・ダム・ド・ラ・ガルド聖堂。初期キリスト教時代の埋葬用バシリカの遺構をクリュプタとして伝えているサン=ヴィクトール聖堂。その対岸に立つ司教座聖堂。実際、マルセイユ市の保護遺産として挙げられる 72のモニュメントのうち、キリスト教関係のものは15を数え、登録を受けたシナゴーグも存在する。
それでも、マルセイユにふさわしい大モスクが必要である、多くの信者たちを受け入れることのできるモスクを建設しようという計画が近年持ち上がった。2007年、マルセイユの街の北、第15区の屠殺所跡地に大モスクを建設する計画が立ち上がる。以下が新聞記事などから知ることができる経緯である。
2007年、市は「マルセイユ大モスク協会」と上記の土地の50年間の賃貸借契約を結んだ。当時の市長ジャン=クロード・ゴーダンは、「マルセイユの22万人のイスラム教徒たちにふさわしい礼拝の場所」を提供する意思を表明した。モスクの建築予算は2,200万ユーロであり、7,000人の信者を迎えることができ、巨大な礼拝室のほかに、コーランの学校とレストランと書店と図書館を内包する予定であった。つまりフランスで最も大きなモスクの建設計画であった。
しかし、契約の直後、フランス極右政党の国民連合が納税者として裁判所に訴訟を起こした。その結果、建築予定の8,000㎡の土地の借り賃が安すぎるとして、年間300ユーロであった借り賃が24,000ユーロに値上げされた。2009年に建築許可が協会に下りたが、再度国民連合からパーキングがないという理由で訴訟を起こされ、許可は取り消しとなった。それでも2010年には盛大に着工式が行われ、2013年には、たとえモスク建設の意思が消えていないことを示すためだけの行為であったとしても、小さな石門が建造された。しかし、2013年以降は土地の賃貸料の延納が続き、2016年、マルセイユ市は協会との契約の解除を決議。こうしてマルセイユの大モスク建築計画は取りやめとなった。
計画を進めようとしていた10年の間、協会内にも内紛があり、次第に寄付金が尽きていき、財政的に立ち行かなくなった。頓挫したマルセイユの大モスク建造について、その後新しい計画は持ち上がっていない。むしろ状況は悪化している。昨年秋にもパリ近郊で、そしてニースで、イスラム過激派によるテロは相次いだ。フランス国内におけるイスラム教徒との分断は進む一方である。モスクはテロの温床となる危険が強く認識され、各地でモスクは閉鎖となり、あるいは新たなモスクの建造計画への抵抗は強まっている。
マルセイユは地中海への出入り口である港町であり、北アフリカからの移民が大変に多い。「マルセイユはフランスではない」としばしばいわれる。必ずしも悪い意味ばかりには地元の人はとらえていない。コスモポリタンであることがこの地のアイデンティティであり魅力であり続けている。
一昨年のマルセイユの宗教文化財の調査の際、ポルト・デクスの凱旋門の近くのモスクの前では、金曜日であったので多くの人々が通りにあふれていた。ちょうど礼拝がおわったころだったのだろうか。この地において、たとえ壮大なモスクはなくとも、信仰の活気を感じる光景に欠くことはない。
マルセイユの最も篤い信仰をあつめているキリスト教聖堂であるノートル・ダム・ド・ラ・ガルド聖堂は、市からも国からも文化財指定をされていない。指定は「いろいろ不自由になるので拒否されている」というのが、市の文化財担当の方から聞いた話であった。ある意味で、まだ保護の必要な文化財ではないことは、その信仰が現在進行形の存在であることを示しているともいえるのかもしれない。マルセイユはフランス随一のサッカーの街であるが、街にそびえたつこの聖堂には、地元チームが勝利を祈願して訪れることで知られている。「ボヌ・メール(良き母)」と呼ばれるこの聖堂は、人々の祈願を込めた数多の奉納画や奉納碑がひしめく。キリスト教もイスラム教もこの地において「生きた宗教」であり、人々の姿がなによりも活気ある信仰の形を見せてくれる。今後マルセイユに相応しい大モスクが建設される日がくることを、そして平和な共存が実現されることを、ただ願うばかりである。

自著を語る102
『近世フィレンツェの都市と祝祭』
赤松 加寿江

本書は、近世フィレンツェの祝祭において都市や建築がどのように設えられていたのかを明らかにし、コジモ1世治世下の祝祭が空間に果たした役割を論じたものである。東京芸術大学大学院に提出した博士論文がもとになっているが、刊行まで長い年月のなかで大きく構成を変えてこのような形になった。

ルネサンス期フィレンツェの祝祭といえばメディチ家、と誰もが想像できるテーマであり、それに踏み込んだ厚顔無恥な果敢さが本書の特徴のひとつである。筆者なりに本書の試みを述べると、空間を専門とする都市建築史の立場から祝祭を読み取り、祝祭空間がどのようにつくられ、景観や形象が構築されたのかを明らかにしようとしたことにある。本書で意図し、試みたことを3点あげる。

第1に、祝祭の捉え方である。本書では祝祭を、宗教儀礼やカルネヴァーレ、国家儀式、祝祭競技など、集団による演出的かつ象徴的な行為を広く捉えている。聖俗を区別せず多様な行事を拾うことで、祝祭そのものよりも空間の使われ方を考察することをねらった。祝祭は数時間から数日で終わってしまう一時的なものである。しかし毎年繰り返されるという点からみれば、数十年、数百年続いてきたものである。だとするならば、祝祭空間としての設えは一時的なものというよりも、その建築や都市空間において重要度の高い使われ方のひとつではないか。また、為政者が世界観を示そうとした祝祭において、多くの人間が共有した都市景観は、都市像を形成する上で大きな役割を果たしてきたはずだ。そのような発想にもとづき本書は書かれている。

第2に、フィレンツェにおける祝祭の伝統を通奏的に示した上で、コジモ1世治世下に祝祭が都市再編の契機となり、手段といえる役割を果たしたことを明確化しようとした。そのことを示すため、第1部では共和国時代からの祝祭の伝統と変化、第2部では君主国時代における祝祭の変化と創出というように、ゆるやかな2部構成をとった。

第1部ではシニョリーア広場を祝祭空間として捉え直し、周辺の空間が舞台装置、観客席として用いられた事例を示し、広場の利用実態を史料にもとづき空間化することを試みた。聖堂での宗教劇からは、西洋建築史の劇場の系譜において具体事例として取り上げられてこなかった演劇空間の実態を示すことができたと考えている。ロッジアについては、中世以来のロッジアの閉鎖、祝祭空間としての役割の消失、新しいロッジアの登場までを一連の流れで捉えることで、祝祭空間のうつりかわりを捉えることを試みた。

第2部では、祝祭が契機や手段として用いられた君主国時代に焦点を合わせた。祝祭の巡行街路が社会的・経済的価値を獲得していたことや、不適切な景観を隠すために祝祭装置を操作したといった事実から、景観デザインの方法として祝祭の役割を捉えようとした。ピサのジョコ・デル・ポンテの事例からは、新しい都市景観を作りだし既存の共同体を国家行事に結びつける契機となっていたことを示した。最後に、ヴィラと巡幸を祝祭という観点から組み込んだのは、都市から領域へと俯瞰的な視点で君主国の演出的性格を見渡そうとした意図にもとづいている。以上をとおして、共和国から君主国の移行期にあって、コジモ1世の祝祭が伝統を換骨奪胎しながら、君主国の新たな世界観を投影し、空間や社会の再編を具現化していったことを、できるだけ実証的に示すことに挑戦した。

第3に、記述の方法である。近世フィレンツェという過去の都市空間を復元的に描写する方法として、広場、聖堂、ロッジア、街路、橋、ヴィラと6つの空間に分けて章を立て、部分から全体を立ち上げる構成とした。都市の全体像を完璧に捉えることは不可能であるからこそ、せめて祝祭空間の断片を重ね合わせることで、ぼんやりとでも当時の都市を描けないだろうかと考えたからだ。祝祭空間という括りで見ることで、いかに多様な空間が祝祭を契機に作りかえられてきたかを一覧し、共和国時代からフェルディナンド1世の時代まで、幅広くしかも微妙にずれて重なる時代の祝祭空間の断片を重ねあわせることを試みた。その試みが成功したかどうかは読者の判断に委ねたいが、祝祭をフィルターにフィレンツェの都市空間の重層性と継続性を再考する機会になることを祈る。

完成までに時間がかかった分、本書には思い入れと反省、ここまで導いてくださった方々への感謝しかない。そもそも筆者の基本的な関心は、土地や都市の特質がどのように歴史的、空間的に作られてきたのかにある。自然条件にむきあい、人間が多様な営みを重ねることで土地の個性が作られたと考えるならば、その営みのひとつとして祝祭に注目した第一歩が本書だった。今後は、人間の営みとして土地に根差したものづくりに注目し、その成り立ちとしくみを明らかにする研究に取り組んでいきたい。

表紙説明

地中海の〈競技〉18:イスタンブールのヒッポドローム/木戸 雅子

東京オリンピックの延期から1年を経て、依然として今年開催できるかどうかわからず混迷を極めている。オリンピック関係の報道に国立競技場がアイコンとしてよく登場する。それを目にする度に、思い浮かべるのは、第1回近代オリンピックの開催地アテネのパナシナイコ・スタディアムである。古代の競技場を再建したもので、トラックは直線距離の長い馬蹄形で、奥のコーナーはヘアピンカーヴである。広々とした入口に立つとギリシアの青い空に真っ白な大理石の観客席がすり鉢型に立ち上がり実に美しい。現代のオリンピック競技場は楕円形のトラックを囲む、閉ざされた空間である。オリンピアでもデルフィでも馬蹄形なのは、古代の競技の中心が馬車競技だったからである。四頭立ての馬車が並べるようにスタート地点は広く間口をあけ、折り返し地点は急激なカーヴで何周もする。さぞ迫力があったことだろう。

この競技場の形式はローマ帝国で受け継がれた。コンスタンティポリスのヒッポドローム(馬車競技場)跡もその名残である。今は広場となっており幾つかの当時のモニュメントが残る。その1つが、テオドシウスI世がエジプトから移送させたトトメスⅢ世のオベリスクである(左下の写真)。上の写真はその大理石の台座で、四面にはそれぞれ皇帝と親族や重臣たちが特別席で競技を観戦する場面が描かれている。皇帝は勝者に授ける月桂冠を持ち、脇に立つコンスル(執政官)が試合のスタートの合図で振るマッパという白い布を持って控えている。その下段には観衆や、踊る女性たちや馬車競技の様子等が描かれ、祝祭の賑わいが伝わってくる。属州の諸民族が贈り物を献上する様子も描かれており、皇帝の権威を象徴している。

このヒッポドロームは、大宮殿に隣接し、皇帝たちは直接通路を通って特別席のテラスに出られるようになっていた。権力者から無償に与えられる食料と娯楽によってローマ市民が政治的に盲目に置かれていると揶揄した言葉「パンとサーカスを」で知られるように、ヒッポドロームは市民生活の社会的中心であり、戦車競技や競馬だけでなく、皇帝の即位式、凱旋式などの政治的イベントの会場として皇帝が直接市民と触れ合う場でもあった。
アテネのスタディアムの収容観客数が4~5万人であるのに対して、ローマのチルコ・マッシモは30万人、コンスタンティノポリスのヒッポドロームは10万人といわれる。ローマ帝国の競技場がどれほど壮大な施設であったかが想像される。

右下の写真は、イタリアのブレシアのサンタ・ジュリア博物館所蔵の象牙二連板である。こうした二連板は、ローマのコンスルが任地に赴くときにその名誉を示すために制作された。古代末期のローマのフラディウス・ランパディウスのために作られたとされる。中央に立つコンスルは、笏杖とマパを持っており、下段には四頭立て戦車競技が描かれている。2台の馬車はオベリスクのある中央分離帯の周りを走っており、対角線の構図がその迫力を伝えている。地方を治めるコンスルにとっても戦車競技は重要な政治的イベントであった。

[表紙写真出典]上図:ýJosé Luiz Bernardes Ribeiro/CC BY-SA 3.0(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Obelisk_of_Theodosius_-_East_face.JPG)
下図(右):https://commons.wikimedia.org/wiki/File:6058_-_Brescia_-_S._Giulia_-_Dittico_dei_Lampadii_-_Foto_Giovanni_Dall%27Orto,_25_Giu_2011a.jpg