地中海学会月報

MONTHLY BULLETIN

学会からのお知らせ

12月研究会

下記の通り研究会を開催します。

テーマ:ヤコポ・ダ・ポントルモ《キリスト受難伝連作》
――十字架の道行きとの関連について
発表者:児矢野 あゆみ氏
日 時:12月13日(土)午後2時より
会 場:東京大学本郷キャンパス法文1号館2階215教室
参加費:会員は無料,一般は500円

 受難伝より五つの場面が選択される本連作は,1523年から25年にかけてガルッツォ修道院中庭回廊装飾のために制作された。各場面は回廊の四隅に配置され「留─stazione─」のごとく立ち現われては十字架の道行きを創出し,回廊全体を巡ることでキリスト受難への観想を促す。本発表では本連作のこの特徴に着目し,聖務日課を通して機能的側面について再考する。

ブリヂストン美術館秋期連続講演会

ブリヂストン美術館において秋期連続講演会「芸術家と地中海都市 Ⅳ」を開催しています(詳細は372号掲載)。各回のテーマと講師は,11月1日「フランドルの画家たちとイタリア諸都市:ブリューゲルを中心に」廣川暁生氏/11月8日「“ゴシックの都”ナポリをつくった芸術家たち」谷古宇尚氏。

表紙説明 地中海世界と動物20
古代ギリシア美術の兎/篠塚 千惠子

あどけない少女が腰に巻き付けたマントのたるみで作った「巣」のなかの兎をつかんでいる。仄かに笑みを浮かべて,いかにもうれしそうである。紀元前320年頃に年代づけられるこの大理石彫像はアテネの東38km,アッティカ半島東海岸のほぼ中央に位置するブラウロンのアルテミスの聖域から出土し,現在この遺跡の付属博物館に展示されている。この聖域に祀られていたアルテミス・ブラウロニアは都市国家アテネとその領土のアッティカ地方独特の信仰を具現し,子供の出産・養育を守護する女神として,とりわけ少女たちの守り神として厚い崇拝を受けていた。アッティカ地方の5歳から10歳くらいの年齢の良家の子女たちはここに一定期間おこもりをして女神に仕え,「アルクトイ(熊乙女たち)」と呼ばれた。そのおこもりは幼年期から思春期へ無事に移行するための一種の通過儀礼であったらしい。アリストファネスの喜劇『リュシストラテ(女の平和)』にも「ブラウロニアのお祭に,サフラン色の衣の熊乙女」(646-647行)と言及され,遺跡からはこうした熊乙女の奉納像が数多く発見されている。この高さ77cmのいとけない熊乙女が抱いている小兎はお気に入りのペットであるにちがいない。

兎はギリシア美術にはわりあいよく登場する動物だが,実は,少女よりも少年と結びついて表されることの方がはるかに多い。少年と結びつくとき,兎は少女の場合とは異なり,複雑な意味を発信した。それは少年愛のシンボルだった。アルカイック,クラシック時代のアッティカ陶器画の少年愛の場面に関する研究によれば,年長の男が少年へ贈って喜ばれる贈り物の筆頭は雄鶏で,その次が兎だった。兎はまた少年たちの狩猟場面で恰好の獲物として表される。狩猟は良家の少年たちにとって娯楽であるとともに,体育がそうであったように,有能な戦士になるための教育と軍事教練も兼ねていた。兎を狩る少年は男たちの愛の対象だった。贈り物としての兎の表現に二種あるのも隠喩に富んでいる。狩られたばかりの兎と飼いならした兎,つまりは野兎とペットとしての兎。

ブラウロン博物館に展示されているもう一点は,ブラウロンからやや南に下った港町ポルト・ラフティで発見された前400年頃の大理石墓碑浮彫である。高さ約180cmのこの美しい墓碑浮彫は,かつて二つの断片に分かれ,別々の作品としてブラウロンとニューヨークにあったが,ある学者の炯眼によって同一の墓碑と判明,近年ようやく合体してその全体像が把握できるようになった。破風地に残る碑銘から,左の兜をかぶった有髯の戦士はメノン,中央の裸体の青年はクレオブロス,右の頭部の欠けたマント着衣の人物のみ,名が知れない。クレオブロスが左手に持つ体育場への必携具,ストレンギス(垢を搔き落とすための道具)と小香油瓶,右手につかんだ兎,足元の猟犬,これらは彼の体育と狩猟に秀でた資質をほのめかしている。墓主は誰なのか。夭折した輝く裸身のこの青年ではないのか。博物館の解説には「クレオブロスの死がこの墓碑建立の動機であったが,すでに戦死していた親族のメノンも浮彫に付け加えられた。右側の人物は青年の父親であろう」と。だが,一方,これらの人物に少年愛の関係を見ようとする解釈もあり,観者は立ち止まり,凝視と観想へ誘われる。

地中海学会賞受賞挨拶
伊藤 重剛

この度,地中海学会賞を授与いただき,誠に有難い気持ちで,光栄に感じている。受賞理由は,熊本大学の前任者である堀内清治教授による古代ギリシア建築に関する研究の蓄積を継承し,さらに発展させ,地中海研究に貢献したということであり,私としては今までの仕事が評価され,喜びに堪えない。

熊本大学の地中海建築研究は,堀内教授が1969年と1971年に行なった環地中海建築調査に始まる。研究者の少ない当時の日本で,西洋建築史を専攻する研究者としては,その基礎となる西洋古代の建築をまず研究する必要があり,そのためには西洋人の書いた研究書を介してではなく,実際に現地に行って独自の一次資料を得て研究する必要があるとの考えからであった。調査は2回それぞれ半年ほどかけて,地中海の約三分の二を踏査するもので,これにより膨大な建築写真や実測図面などが得られ,その後の西洋古代建築研究の一次資料となった。

建築史研究の方法は,基本的には文献による研究と実物を調査しての研究の二つである。私は20代終わりの1980年から2年半ギリシアに留学し,そのとき発掘調査に参加したこともあり,その後博士号を取得してからは,いつか自分で調査隊を組織し,実際のギリシア古代建築をこの手で調査し,直接研究したいという強い憧憬を持っていた。

現地調査をやる直接のきっかけは,1992年と1993年に参加した東京大学の青柳正規教授(当時)のイタリアのタルクィニアの発掘調査である。青柳隊は楽しい隊で,この調査に大いに触発されて,自分の専門であるギリシア建築の現地調査をやりたいと強く感じ,憧憬は意志へと変わり,1993年のタルクィニア調査後,研究室の学生3人とギリシアの遺跡の一般調査をした。結果として,ギリシア留学時代の指導教授に紹介され,翌年からフランス隊が発掘したデルフィの建築遺跡の再実測調査をすることになり,長く夢見ていたことが現実となった。デルフィの調査は1994年から3年間であったが,ペンテリコン産大理石のトロス(円形建物)など,ギリシアの古典時代を代表する教科書にあるような素晴らしい建築を自ら調査できて,私の人生で最も有意義で感動的な建築調査の体験となった。

1997年からは,調査地をペロポネソス半島のメッセネに移し,メッセネ考古学協会を主宰するクレタ大学のテメリス教授が行なっている大規模な都市遺跡の調査に参加した。ギリシア隊が発掘を行ない,日本隊が建築遺構を調査するというやり方で,結局2012年まで17年間,最初は家型墓から始めて,メッセネではスタディオン,アスクレピオス神域,メッセネ神殿,劇場などの実測調査を行なうことができた。現在,現地調査は終わり,最終報告書を作成している段階である。

私は建築を専門としており,しかも工学部に属する研究者であるので,研究の目的は建物がどのような設計のプロセスを経て,最終的な形が得られたか,あるいは建築を施工する技術はどのようであったか,など技術的側面から建築を明らかにすることである。発掘して出土する建築遺構なので,数少ない出土部材から復元図作成も重要な仕事である。完成形も分からず,ピースも全体の何分の一しかない立体ジグソーパズルをするような仕事で,複雑で難しいが,それだけ楽しい仕事でもある。

実際の調査は,夏休みに2ヶ月ほど研究室をあげてギリシアに行き,発掘されたばかりの手付かずの建築遺構の実測図面を描き,写真撮影をし,文章で記述し,野帳を作成するという作業である。炎天下の作業であるが,私はもちろん,学生たちも含め,夏の地中海でビーチに行ったりワインを飲んだりしながらの,楽しい調査生活であった。学生たちは帰国して図面を整理し,資料を分析してそれがそのまま卒業論文や修士論文ともなった。

調査は必ず結果を出版する必要があるが,最終報告書は必ず英文で出版することにしている。国内だけでなく,欧米の研究者を含めた古代研究に貢献することが必要だからである。19世紀半ばから150年以上の長い研究伝統をもつ欧米の研究レベルにはまだまだ到達したとはいえないが,些かなりと貢献できたかと思っている。

これまで20年間ギリシアでの調査をしてきたが,心残りは日本隊として発掘調査ができなかったことである。発掘にはギリシア国内に研究所を有するなどの条件があり,私の代では実現できなかった。発掘をすれば,建築遺構だけでなく様々な遺物が出土し,建築や考古学はもちろん,美術史,歴史,あるいは理系の研究者も必要で,学際的な研究ができて学問の平野が大きく広がる。多くの博士論文が生まれ,研究者の層も厚くなり,そうすれば日本の地中海研究は格段に裾野が広がり大きく発展し,日本の研究に対する海外からの評価も高くなる。発掘は大変な事業であるが,今後若い世代でぜひギリシアの発掘に挑戦し,西洋文明の起源に迫っていただきたいと念願している。

「地中海の庭」に育まれて
──地中海学会ヘレンド賞の受賞にあたり──
藤崎 衛

このたびは第19回の地中海学会ヘレンド賞(Collegium Mediterranistarum Herend Prize)を授かり,まことにありがたく存じます。一介の歴史学徒にとって専門的研究書を上梓できるということだけでも僥倖でありますが,ヘレンドの名を冠した賞までいただくことができたというのは,まことに光栄の至りです。副賞として色鮮やかな花々や小鳥の絵が散りばめられた記念磁器皿「地中海の庭」をいただきました。このとても素敵な磁器を賜られたヘレンドの日本総代理店・星商事株式会社様に衷心よりお礼申し上げます。そこに描かれた模様からは,いのちを育む地中海のあたたかさが滲み出ていますが,私自身も古の昔から多様な人・モノ・文化が行き交い,豊かな文明を生み出してきた地中海に,そしてその豊饒さを体現した地中海学会に研究者として育まれてきたことを想い起こし,関係各位への感謝の気持ちをあらたにしています。研究会での発表や月報エッセーの執筆,論文の掲載などで学会にはたいへんお世話になりましたが,さまざまな分野の方が集う地中海学会は,物事を多元的に観るよう私を訓練し,たえず知的刺激を与えてくれる,それでいて実に居心地の良い,まさに「地中海の庭」と言いなぞらえることのできる交流の場であるだけに,その学会から身に余る評価をいただいたということで,喜びもひとしおです。

受賞作の『中世教皇庁の成立と展開』は,東京大学大学院人文社会系研究科に提出した博士学位論文に加筆修正を施したもので,東京大学学術成果刊行助成を受けて2013年12月に八坂書房より出版されたものです。この場を借りて,同研究科でご指導いただいた樺山紘一先生および高山博先生,ローザンヌ大学でお世話になったA. パラヴィチーニ=バリアーニ先生に特別のお礼を申し上げます。また,出版を引き受けてくださった八坂書房にも篤くお礼を申し上げます。

振り返れば,西洋中世史の研究を志した頃,私はヨーロッパ文明を規定する主たる要素の一つとしてキリスト教に注目し,中世盛期に庶民レベルにまでキリスト教が定着する過程,さらにはその定着過程と並行して盛り上がりを見せた異端運動に興味を持つようになりました。しかし異端の「実像」に迫ろうとしたところで,手掛かりの多くは異端を認定する正統の側の言葉であったため,いつしか私の関心は体制側の教会,なかでも教皇権へと向かっていきました。ほどなくして,教皇権の歴史は「教皇の歴史」とは異なるのだということが日を追うごとに明確になり,むしろ「教皇庁の歴史」として提示することの可能性と必要性を強く感じるに至りました。教会の顔であり頭たるその時その時の教皇個人の性格や考えだけが歴史を動かしてきたわけでは必ずしもなく,むしろ教皇を取り巻き,その背後に控える数多くの役人や組織こそが教皇権の意思を左右したのではないか,という見方を意識するようになったのです──もっとも,現在では教皇の個性もやはり看過してはならないと考えていますが。

こうして中世教皇庁という未知の世界に踏み入ってみると,そこにあったのは大きくそびえる史料と先行研究の山,そして欧米のありとあらゆる国の研究者たちが議論を重ねている現場でした。こうした現実を前に,一方では,半ば途方に暮れつつ,自分にできることは何かあるのだろうかという問いと向かい合わざるをえず,その作業は今でも続いていますが,他方では,教皇庁研究がヨーロッパ人にとって地域史という枠組みを超えた,アイデンティティの重要な拠り所であるということに得心が行ったものです。実際,私はローザンヌ,ローマ,ベルリンに留学しましたが,それぞれの国や地域で傾向にいくらかの差異が認められるとはいえ,どこでもひとしなみに中世教皇庁研究が活発であることに違いはありませんでした。

実は,教皇庁がその名称(ラテン語で「クリア」curia)を獲得し,組織や制度といった行政的実態を具備するのは,中世中期を迎えてからとなります。こうした事情もあり,本書が目指したのは,中世中期の史料を用いつつ,教皇庁の成立と展開を,その組織や人員の編成,職務,給養等を分析することで,明確に描き出すことでした。行政的な部署とそこに勤める役人集団だけでなく,侍従や使用人など教皇の日々の生活を補佐する奉公人集団,そして教皇庁付属大学や聖歌隊など外郭団体のような組織も取り上げて検討しました。さらに当時の教皇宮廷が頻繁にローマを離れ,多くの組織や人員とともに移動したという事実に着目し,この空間的な移動が教皇庁組織の形成と変容に影響を与えたことを示しました。

今回の受賞を機に,今後ますます研究に精励する所存であります。樺山先生が拙著の帯文に書いてくださった,史料に基づいた「手触り感のある」学問を目指します。各方面の先生方と学会員の皆様には,より一層のご指導とご助言をお願い申し上げます。

春期連続講演会「地中海世界を生きる II」 講演要旨
労働者,失業者であること

──エジプトにおける変遷──

岩崎 えり奈

2011年初頭に「アラブの春」が起きてから3年がたつ。その間,2011年11月に人民議会選挙でムスリム同胞団を母体とする自由公正党が勝利し,イスラーム政党の政権が誕生した。ところが,2013年7月には軍による「クーデター」が起き,政権は崩壊した。そして,軍による暫定政権がしかれ,今年6月にシーシー元帥が国民投票で大統領に選ばれた。

こうして逆転劇が繰り返されるエジプト政局のなかで,若者の存在感は薄くなった感がある。しかし,言うまでもなく,革命の立役者は彼らである。彼らが4月6日運動や「我らは皆ハーレド・サイード」などの様々なグループを組織して抗議行動をリードし,ムバーラク政権を打倒した。

労働者も今回の革命への参加が後手に回ったとはいえ,革命の担い手である。労働運動は1990年代以降に再活性化し,2000年代後半には,繊維産業の中心地マハッラ・クブラーを中心に労働者のストや座り込みが頻発化した。とくに2008年4月6日のストライキは大規模で,4月6日運動の結成につながった。

これら二つの社会層による運動は,上からの統率された集合行動ではなかったことで共通する。それは既存の組織を土台にしておらず,また,ネットワーク型であった。ムバーラク政権崩壊直後に様々な若者グループが集まり結成した1月25日青年連合の解体に象徴されるように,彼らが一つの組織にまとまらなかったことはそのあらわれである。1952年革命の際の労働組合とは対照的である。

今回の革命における「労働者」に関して象徴する出来事は,2014年の国民投票で承認された改正憲法において,人民議会議席の50%が労働者と農民から選ばれるとの条項が削除されたことである。この条項は,ナセル大統領による1956年憲法において,アラブ社会主義の精神に沿って導入され,1962年の国民憲章,サダト大統領による1971年憲法に引き継がれてきた。それが削除されたことは,現実の社会における「労働者」や「農民」の変質と無関係ではないだろう。

講演では「労働者」の変遷をみるにあたり,人口センサスを取り上げたが,それはセンサスは統計の取り方がその社会を反映しているとともに,統計それ自体がその社会を映し出している鏡でもあるからである。つまり,エジプト社会において「労働者」とその裏返しとしての「失業者」がどのようなものとして認識され,実際にどう変容したのかを辿ることができる。加えて,エジプトは早くから国家により統計が整備され,長期的なタイムスパンで変化を追うことが可能である。

センサスにおける「労働者」観について時代を遡ってみると,1927年以前の「労働者」は学生や乞食なども含んでおり,幅広い意味をもっていた。ところが,1927年のセンサスでは,産業部門別の分類,生産的と非生産的な職業の区別,自営業者と雇用者・被雇用者の区別,年齢制限(5歳以上)が設けられ,「労働者」が現在の概念に近い形になった。

1960年のセンサスでは,「労働者」は賃金労働者と無報酬労働者に区分されたほか,当時の社会主義的な経済体制を反映しているが,政府・国有・民間部門に分類された。1976年からは,「労働者」は15歳以上の者に制限されるとともに,労働力人口と労働力外人口とが区別され,学生,家事労働,退職者が後者に分類された。これにより,学生と労働者の区分が明確化され,家事労働が労働力としてみなされなくなった。

以上の「労働者」観の変遷は,「失業者」の創出過程でもあった。しかし,定義が厳密化されれば,そこに当てはまらない者が出てくる。失業統計からはずれる失業者,すなわち仕方なく自分の希望でない仕事に従事する者や家事手伝いなどの「非労働力」として現れる失業者である。前者は男性に,後者は女性に多い。

現実の社会においても,定義に収まらない「労働者」や「失業者」が増えている。「インフォーマル」雇用である。インフォーマル部門とは,労働市場においては不安定,低賃金,雇用契約の欠如を特徴とし,「不完全雇用」ないし「低雇用」とも呼ばれる。このような雇用形態は,これまで安定雇用の典型であった政府部門雇用においてさえも増えている。実際,官庁や役所における若い職員の多くは任期制で低賃金の雇用形態にある。

こうして,今日のエジプト社会では「労働者」の在り方が変わり,「労働者」と「失業者」の境界が曖昧化している。先に述べた革命における二つの社会層による運動の性格は,かかる「労働者」の変化を反映している。

春期連続講演会「地中海世界を生きる II」 講演要旨
古代ギリシアの女性神官たち
桜井 万里子

古代ギリシアでは年間を通じて多数の祭儀が挙行されていた。ポリスレベルの祭儀が挙行される聖所や神域の場合,神官がそこに属していることが多く,ポリスの社会的,政治的変化は,彼ら神官の選出方法や職務内容にも変化をもたらした。史料から窺い得る女性神官たちの具体例はそのような変化を伝えており,国家と宗教の関係について考えるヒントを提供してくれる。

①女性神官テアノ(1)
エレウシスの秘儀の高位神官たちの一人であるデメテルとコレの女神官は終身で,神殿財政を担当していたことを,紀元前460年ごろの碑文史料は伝えている。前5世紀末にこの神官の職にあったテアノについては,プルタルコス『アルキビアデス伝』22章に以下のような記述がある。「アテナイでは,(民会が)欠席裁判のままアルキビアデスに有罪宣告をし,財産を没収し,さらに男女の神官が一斉にアルキビアデスに対し呪いをかけるよう追加決議が出された。しかし,アグリュレ区民メノンの娘テアノだけは,『私は祈りの神官で,呪いの神官ではありません』と主張し,決議に抗った」。

②女性神官テアノ(2)
アルゴスのクレオビスとビトン兄弟は,母を牛車でヘラ神殿まで連れて行こうとした時に,牛が調達できなかったため,二人が牛の代わりとなって車を曳き,無事に母を目的地に送り届けた。女神ヘラから望むものを褒美として与えるといわれた二人が人間にとって最善のものをと願うと,二人には死が訪れた,という伝承が残っているが,彼らの母の名は古辞書『スーダ』によればテアノであった。

③女性神官テアノ(3)
以上二人は同名だが,この名は何に由来するのだろうか。トロイアのアテナ女神神殿の女性神官については,「さて,一同が城山の上にあるアテネの社に着くと,頰の美わしいテアノが扉を開いて招じ入れた。この女はキッセウスの娘でテアノという名で,馬を馴らすアンテノルの妻だったが,トロイア人により女神アテナの祭司に任命されていた」と『イリアス』6.297-310にある。このテアノが以後の時代の女神官の原型になったようだ。

④ アテナイのパルテノン神殿に祀られているアテナ・ポリアスに仕える女神官は,アテナイの名門エテオブタダイ家出身の女性のあいだから選出され,その任期は終身であった。以下のような墓碑銘が残っている。

「リュシマケ,ドラコンティデスを父とする生まれにして,八八年の生涯なり。4人の子供をもうけし後,都合六四年にわたり女神アテナに奉仕せり。フリュア区の(数字欠・・)エオスの母リュシマケ」(『ギリシア碑文集成』II2 3453,前360年頃)。このリュシマケは,64年間もアクロポリスのパルテノン神殿の主アテナ・ポリアスに仕え,人々に尊敬されていたらしい。アリストファネス『女の平和』の女主人公リュシストラテのモデルだったのではと推測する者もいる。

⑤ エレウシスのデメテルとコレの女神官は,エレウシスの名門フィレイダイ家出身の女性のあいだから選出され,神域の会計を担当した。任期は恐らく終身。「(入信者から受け取った手数料の)総額は,1,600ドラクマを除き二柱の女神のものたるべきこと。そしてこの1,600ドラクマからデメテル(とコレ)の女性神官は年度期限内に支出された額を,支出された額通りに支払うべきこと。」(『ギリシア碑文集成』I3 6.92-103)

この前460年頃の民会決議の一部から,このデメテル(とコレ)の女性神官が①のテアノと同一人物かあるいは①の娘か,時間差は約45年あるので,後者であろうか。

⑥ アテナ・ニケの女性神官の選出
「アテナ・ニケ女神のために全アテナイ人女性から女神官を抽選で任命し,神殿に扉を設けること・・・。」(『ギリシア碑文集成』I3 35,前427-424?年)

④や⑤の世襲の女性神官とは異なり,アテナイの市民身分の全女性のあいだから選出。民主政の理念が反映されているのだろう。

⑦ テスモフォリア祭担当の女性神官の職務規定(『ギリシア碑文集成』II2 1184)も,コラルゴス区の全市民の妻たちのあいだから選出とあり,この女性神官に特別な宗教的資格は求められていない。

⑧ デモステネス第59弁論73「この女はポリスのために秘密の供犠を行い,彼女のような外人女が見るに相応しくないものを見たのだ。そして,そのような身でありながら,アルコン・バシレウスの妻以外の他のアテナイ人の誰も立ち入ることのない場所に入ったのである。」

非市民の女が偽ってポリス恒例の宗教儀礼を執り行う女神官の役を果たした事例。

以上,アテナイ社会の変化を伝える具体例の一部である。

自著を語る74
『地中海文明史の考古学――エジプト・物質文化研究の試み』

彩流社 2014年5月 176頁 1,800円+税

長谷川 奏

このたび,上記の書籍を著した。学会からのご厚意に甘えて,ごく簡単に執筆の沿革を紹介させて頂く。本書は,地中海文明そのものの解説に重点を置いている書ではなく,文明と文明の関わりに焦点を当て,ひいては古代と現代社会との繋がりをどう理解したらよいのかを考え,知の系譜を捉えるための試みの書である。現在の中東イスラーム世界は,西欧的な価値観とは異なる個性的な側面が目立つ。だが,中東の文明堆積層と西欧社会とのあいだには,歴史的・文化的に密接な関係がある。その関係を解明するために,著者は中東と現代の西欧社会を結んだ分析軸で堆積層を切ってみて,断面に現れる文明層を観察する。中東と西欧を結んだ断面のラインは地中海を通る。そこで本書は,その地中海をざっくりと切ってみた絵模様を,物質文化研究の観点から考察する,いわば地中海・文明史探訪の考古学なのである。

本書でエジプトを事例に取り上げた理由は,エジプトがいわば文明史探訪の「試験管」であるからに他ならない。エジプトは,ファラオ的な文化の均質性が古代の時間軸の多くを占めた稀な地域である。豊かな河川がもつ吸引性と砂漠による周囲からの隔絶が,「侵入はあれど流出はない」メカニズムを作り出し,灌漑が組織化された社会において,集権的な組織化が促進され,土地と労働を支配する政府の権力が社会の内部にまで浸透する専制的な社会がイスラーム時代にまで保持されたとする地理学説は刺激的である。しかし,前身伝統が極めて強く残されたエジプト社会も,あるきっかけを境に,その内部から変質していき,どっさりと前身伝統が切り倒されていく姿は,エジプトの文明史の中でも最もダイナミックな一瞬でもある。特に考古学で扱う変化の少ない生活文化では,変貌の画期は驚きでもある。

本書は,この変動の姿を捉える手掛りを,〈知〉の構造に求め,物質文化研究の観点から探ったのであった。具体的には,初期文明を神権社会の知に奉じる時代として捉え,自然の成り立ちを考えるギリシア的な知と一線を画す。ギリシア的な知は,その後人間そのものに関心をもつ古典時代の哲学に受け継がれたが,エジプトの文明史の中で最も大きな影響を与えたのは,ヘレニズム時代の精密科学であった。ローマ時代には,さらに実践科学のインパクトが加わる。精神文化史では,4世紀のキリスト教の登場は古代末期世界の一大画期となるが,本書ではその意義を十分に認めながらも,物質文化の領域の側から,当該時代の生活空間が,あたかも地中海世界の情報に席巻されていたかの状況にあった可能性を提示する。その双方のエネルギーが組み合わさった形が,いわゆるコプト文化の骨格をなし,初期イスラーム文化に受け継がれた点を筆者は強調するのである。

初期イスラーム時代に,バグダードの「智恵の館」において,古典時代の知がギリシア語からアラビア語への翻訳活動によって受け継がれ,さらに独創性を加えたイスラーム文明の開花に繋げていく話は良く知られている。これに対し,本書は,エジプトにおける初期イスラーム時代の生活雑器の分析を通して,生活史の中での実態に迫ろうとしている。それによれば,初期イスラーム時代には前身のコプト社会の物流構造が温存されていたが,言語や徴税システムの変貌と恐らく期を一にして,9世紀頃から最も変化しにくい生活文化の局面における変貌が始まる。おそらくその背後には,異域(エジプトの場合には南方ヌビア世界)との触れ合いが触媒となった可能性があり,施釉陶器の登場という一大技術革新に繋がっていく。そこから先は,またお馴染みの「十二世紀ルネサンス」のストーリーが待ち受ける。古典の知はイスラーム文明という〈迂回した経路〉によって西欧文明に受け渡されていく,という大筋にまで繋げたところで役割を終え,本書は記述を止めている。

本書は,筆者が大学院生の頃から関わってきた考古学の研究が柱になっている。もともとエジプトの古代文化に関心を寄せていた筆者は,初期イスラーム時代遺跡の発掘調査において,いつも2~3mもある厚い堆積のうちの,ごく僅かな薄い最下層に関心を向けていたいわばへそまがりであった。石灰岩盤にねっとりと張り付いた深緑色の堆積層から現れた最初期のイスラーム文化のアセンブリッジが,ギリシア・ローマ世界に繋がる文脈を想起させる一群であった衝撃は忘れることができない。筆者はその背景を知るために,コプト博物館とアレクサンドリア博物館の資料でおおよその道筋を確認しつつも,その細部は,早稲田大学が1970年代に行った発掘調査の整理を通じて脈絡づくりをしていった。その作業のために,手で感触を確かめていった研究サンプルの数は3万点を超えるであろう。ただ,それでもなお考古学資料は寡黙であり,だからこそ,道筋の探索は楽しい。はたして,古代とイスラームを繋げる試みはうまくいっているのであろうか。

〈寄贈図書〉

『ランペドゥーザ全小説 附・スタンダール論』G. トマージ・ディ・ランペドゥーザ著 脇功・武谷なおみ訳 作品社 2014年8月
『美味しくて健康的で太らないダイエットなら地中海式』佐々木巌著 大学教育出版 2014年9月
Mediterranean Review, vol.5-1(2012), vol.5-2(2012)
『文藝言語研究』「文藝篇」「言語篇」 筑波大学大学院人文社会科学研究科文芸・言語専攻 62(2012),63(2013)
『日本中東学会年報』28-2(2012),29-1(2013),29-2(2013),30-1(2014)
『日本ギリシャ協会会報』131-134(2012-2014)
『イタリア圖書』イタリア書房 47(2012),49(2013),50(2014)
『Aspects of Problems in Western Art History』東京芸術大学西洋美術史研究室 10(2012),11(2013)
『日仏美術学会会報』33(2013)
『館報』石橋財団ブリヂストン美術館・石橋美術館 62(2013)
『エクフラシス ヨーロッパ文化研究』早稲田大学ヨーロッパ中世・ルネサンス研究所 4(2014),別冊1(2014)