地中海学会月報

MONTHLY BULLETIN

学会からのお知らせ

12月研究会

下記の通り研究会を開催します。
参加を希望される方は、お手数ですが、学会ホームページ・トップページのNEWS欄「研究会のお知らせ(12/5)」に掲載されているGoogleフォームにて参加登録の手続きをお願いいたします。参加登録をされた方には、後日メールでZoomアドレス等の詳細についてご連絡いたします。

テーマ:イスラーム都市と水施設:マムルーク・オスマン期カイロのサビール・クッターブについて
発表者:𠮷村 武典氏(大東文化大学)
日 時:12月5日(土)午後2時より
会 場:オンライン会議システム(Zoom)
参加費:無料

東地中海から北アフリカにかけてのイスラーム圏の諸都市では、道路に面した公共の水場の遺構が多く見られる。サビールやシカーヤと呼ばれるこれらの給水施設は住民生活を支える重要なインフラであるが、その形態は地域によって異なる。特にエジプトのカイロでは、上階にクルアーン学校を備えたサビール・クッターブと呼ばれる形式の給水施設がマムルーク朝からオスマン朝にかけて発展し多数建設された。近年行った現地調査をもとに、その立地状況や構造から15-17世紀を中心としたカイロの都市拡張と水施設の関係を考察します。

9月・10月研究会

学会ホームページでお知らせしましたが、コロナウイルス感染拡大のために延期されていた4月開催予定の研究会(月報427号、428号参照)は9月5日の午後2時~4時にオンライン会議システム(Zoom)により、また10月研究会も下記の通り開催しました。

テーマ:古代エジプト・ギリシア・ローマにおける建築と人体の比例理論の相互関連性について
発表者:安岡 義文氏(早稲田大学高等研究所)
日 時:10月3日(土)午後2時~4時
会 場:オンライン会議システム(Zoom)

地中海文明圏の芸術家たちは、美の問題に直面した時に、必ず建築と人体の比例という原点に立ち返ってきました。特に、ルネッサンス期以降は、ウィトルーウィウスの『建築十書』の公刊に負うところが大きく、未だ不明な点が多い古代の比例理論を考える際の起点となっています。本発表では、古代地中海の覇権を握った3文化圏に知られる建築と人体の比例に関する主たる史料を分析し、『建築十書』の成立に至る過程に迫ります。

アーティゾン美術館土曜日講座:地中海学会連続講演会

ブリヂストン美術館改築工事のため、2014年11月を最後に休会していた地中海学会連続講演会は、このたび同館がアーティゾン美術館という新館名のもと、新しい美術館として開館したことにともない、再開されました。再開後の第1回は「アーティゾン美術館コレクションの魅力」と題して、同館所蔵の作品を取り上げながら、美術を堪能していただく全4回の企画となりましたが、毎回満員の盛況、好評のうちに終了しました。

9月19日   ミケランジェロの「古典主義」の継承と革新――ロダン・藤島武二・ポロック 小佐野 重利氏
9月26日   マネ、ファンタン=ラトゥールと女性画家たち――フランス近代絵画の知られざる魅力 三浦 篤氏
10月3日   変貌するピカソとアーティゾン美術館――事物から人間へ 大髙 保二郎氏
10月10日 革新の海――近代絵画と地中海 高階 秀爾氏

研究会要旨
ニコラ・プッサンの風景画に見る官能的快楽のテーマ
瀧 良介 (2020年9月5日/オンライン)

ニコラ・プッサン(1594~1665)が後半生に手掛けた風景画は、その幾何学的な明晰さや建築的なモニュメンタリティによって、後世の批評家や芸術家たちにアカデミックな風景画のひとつのモデルを提供した。しかし、そうした様式的側面とは対照的に、プッサンの風景画に付随する主題の特異性とその背後にある思想については、今日においてもなお、十分な理解が得られたとは言いがたい。なかんずく、幸福な生の喜びに満ちた牧歌的な風景の中にしばしば唐突に挿入される不吉なエピソードは、彼を同時代の風景画の描き手たちの中でも異質な存在としており、先行研究における論点のひとつとなってきた。本発表では、そのうち特にプッサンが固執した、蛇との遭遇というモティーフに着目し、その文学的な源泉について議論しつつ、当時の鑑賞者がそこに読み取ったであろう道徳的なメッセージについて考察を行った。

フランスの銀行家兼絹織物商人ジャン・ポワンテルのために描かれた1648年の《蛇に殺された男のいる風景》(ロンドン、ナショナルギャラリー)は、牧歌的な風景の中での蛇との不幸な遭遇を描いたプッサンの絵画のうち、もっとも有名な作例である。また画家は、この絵から遡ることおよそ10年、ローマのダル・ポッツォ家のための《蛇に追われる男のいる風景》(モントリオール美術館)においても、すでに同種のモティーフを描いている。両作品には今なお多様な解釈が施されているが、おそらくこれらの絵は、かつてR・ヴァーディが提唱したように、「草むらには蛇が潜む」(Latet Anguis in Herba)という、ウェルギリウスの『牧歌』に起源を持つ有名な警句を参照したものである可能性が高い。プッサンも傾倒したタッソーやマリーノの詩、さらには幾つかのエンブレムが示しているように、当時この警句が、官能=五感に強く訴える地上世界の美や快に耽溺することへの戒めを意味していたという事実は、あらたに強調しておく必要がある。こうした「草むらの蛇」のキリスト教的・プラトン主義的な道徳モティーフ化は、ペトラルカ以降に本格化した。17世紀においても依然文学や芸術に対して多大な影響力を及ぼしていたこの詩人によれば、花々と緑に彩られた野原の心地よい眺め=風景は、人の魂を脆く儚い世俗的快楽に縛り付けてしまう危険をそのうちに孕んでいた。しかし人は、やがてそこで草間を這う蛇に出くわし、こうした景色の美しさが人を欺くための「罠」であったことに気づき、ついには自己の内面に立ち返って天上へと魂を高めることにしか救いがないことを悟るのである。プッサンもまた、文学的教養を備えた鑑賞者が彼の絵画から同様の道徳的教訓をひき出すことを期待し得たはずである。

《蛇に殺された男のいる風景》のすぐ後、同ポワンテルのために制作された1650年の《オルフェウスとエウリュディケーのいる風景》(ルーヴル美術館)、さらには現在素描によってのみ画面の全貌が知られる、「ピュク氏」と称されるフランス人のための1649年の《エウロパの略奪》(ストックホルム国立美術館)もまた、牧歌的な風景の中での蛇との予期せぬ遭遇を描いた作品にほかならない。それぞれ明確な神話主題を有しているために、上の2点の蛇のいる「純粋な風景画」との関連がこれまで十分に議論されてこなかった両作品であるが、おそらく「草むらに潜む蛇」にまつわる道徳の論理は、これらの神話風景画における異例の物語表現の創出にも一役買っている。これらの作品は、一方は竪琴を弾くオルフェウスとその聴衆を、他方は雄牛に変身したユピテルと戯れるエウロパと侍従たちを前景に伴っており、いずれもそのすぐ背後に、蛇に怯える若い女性の姿をあらわす。このように無垢な喜びと死の恐怖とを同居させる群像構成は、各主題の先行作例に照らし合わせても、他に類を見ない。また、そもそも、《オルフェウス》における蛇に驚く女性像がエウリュディケーとして解釈可能であるのに対し、《エウロパ》の女性については、物語上なんら必然性のない要素である。ここで注目に値するのは、両神話の筋書きが「乙女が花を摘んで遊んだ野原」という場=トポスを共有している点である。ペトラルカの詩やフィチーノの寓話、あるいはヤン・ライケンのキリスト教的エンブレムに示されている通り、花を摘む少女のイメージは、地上の美や快楽の裏に潜む「罠」の犠牲者のアーキタイプとして、「草むらに潜む蛇」の道徳と容易に結びつくものであった。プッサンが《オルフェウス》のみならず《エウロパ》の中にも蛇を描きこんだ理由も、おそらくここに求められる。両作に共通するもうひとつのイレギュラーな要素である、城塞から吹き出して画面上空へと広がる不吉な煙と雲の存在は、以上の仮説を支持するように思われる。プッサンの座右の書であったリーパの『イコノロジーア』によれば、煙や雲のイメージは、「草むらに潜む蛇」と対になって「罠」や「策略」の概念を象徴するものであった。

ティノス島の《誕生ピトス》
福本 薫

ティノス島は、キュクラデス諸島のやや北寄りに位置している。私はこの島の考古博物館の至宝、通称《誕生ピトス》を見るために、2019年3月に同地を訪ねた。ティノス考古博は、港からすぐの目抜き通りの坂道の中腹にある。展示室わずか4室ばかりのこじんまりした博物館であり、所蔵されているのは専らこの島の遺跡からの出土品である。

受付からすぐの部屋に入ると、部屋の中央に《誕生ピトス》が鎮座していた。この通称は、本作の頸部に表された、ギリシア美術史上初の「女神アテナの誕生」場面に由来する。高さ1メートル超、腹部がはちきれんばかりに膨らみ、逆に脚部が極端にすぼまった器形で、器の頸部と胴部がなだらかにつながる。各部の連結部がくっきりと分かれていた幾何学様式陶器に比べ、その外見は生命感を感じさせる。素焼きの、薄茶色の器の肌には、器と同じ粘土を用いた手づくねの装飾が貼り付けられている。この装飾方法が一見浮彫のように見えるため、こうした特徴を持つ作品群は「浮彫ピトス」と呼びならわされてきた。浮彫ピトスは、紀元前8世紀後半から前6世紀にかけて、キュクラデス諸島や東ギリシア、クレタ、ボイオティア、スパルタなどで広く制作された。クノッソス宮殿の貯蔵室から出土したピトス群がよく知られているが、この時期新たに始まった神話表現が見られるのは、ここティノス島周辺とボイオティアから出土した作品群である。ギリシア最古の「トロヤの木馬」を表す、名高い《ミコノスのピトス》をご存じの方もいるだろう。

ティノス島の《誕生ピトス》は、島にそびえる岩山クソブルゴの頂にあった聖域の跡から出土した。制作年代は前7世紀の第1四半期と考えられている。画面中央には、驚いたように目を見開き、顔と上半身をこちら側に向けて座るゼウスが表されている。古代末期のオランス像のように両腕を広げた有翼のゼウスは、短く切りそろえた髪に、丈の短い衣裳を身に着けている。その頭頂部からは、小さな人物が半身をのぞかせている。この小さな人物は高いクレストのついた兜を被り、両手には棒状の武器を握っており、女神アテナだと考えられている。後代の作例から類推するに、中央のゼウスの傍らに立つ有翼の女神はお産を助けるエイレイテュイア、右端で鼎の前に座る人物はヘファイストス、右上で驚いたように誕生の場面を注視している人物を誰とするかには諸説ある。本作は女神アテナの誕生を表す最古の例で、この主題はこの後も非常に好まれ、やがてパルテノン神殿の東破風彫刻に表されることになる。

私は、この正面を向いたゼウスの顔に釘付けとなった。古代ギリシア陶器画では、登場人物の顔は側面観、すなわち横から見た姿で描くのが常である。本作が制作された前7世紀、ギリシア本土では、顔を正面向きに描くのは、ゴルゴンのような怪物に限られていた。このゼウスの下半身は側面観なので、作者はあえて頭部を正面向きに表しているのだろう。キュクラデスはオリエント世界に近く、かの地の正面向きの神の表現、例えばポトニア・テロン図に倣っているのか。または、写実的な表現が未発達な段階ながら、限られた造形言語を駆使して、異例の方法で物語の神秘を表そうとしたのだろうか。いずれにしても、まるでゼウス自身が驚いているかのような本作は、女神アテナ誕生の驚異を示すのにこの上なく成功しているように思われる。

ところで、ちょうど私が考古博を訪ねたこの日は、ギリシア独立記念日であった。博物館が面している目抜き通りをまっすぐ登っていくと、そこには奇跡のイコンで名高いパナギア・エヴァンゲリストリア教会の堂々たる姿がある。このイコンは、ギリシア独立戦争中に発見され、数々の奇跡を起こしたことから、現在でもギリシア全土から熱心な巡礼者を集めている。前日まで人影がまばらだった大通りは人々でごった返し、通りの右端にはロープで区切られた、献身を示すために這って進む巡礼者たちのための通路が設けられていた。

いよいよパレードが始まる。私は、考古博の静かな窓辺から、近代ギリシアの誕生を喜ぶ民族衣装の市民たち、軍人たち、鼓笛隊を見た。最後に、黄金に輝く山車に載せられたイコンが、長衣の聖職者によって掲げられ、滑るように坂道を下っていく。古代世界から、窓の外のギリシアの今へと、急流のように時間が流れていった。

 

 

 

 

「アテナの誕生」《誕生ピトス》著者撮影

キプロスとダンヌンツィオ
内田 健一

10年ほど前、たまたま安い航空券を見つけて、キプロスを訪れた。3月半ば、愛と美の女神アフロディーテの島には、名も知れぬ黄色い花が咲きこぼれていた。イタリア文学を専門とする私は、ポリツィアーノが『スタンツェ』で描くキプロスの一節、「そこでは年月がページをめくることはない。/にこやかな〈春〉は決して立ち去ることなく、/黄金の波打つ髪をそよ風になびかせ、/幾千もの花を可愛らしい冠に編む」(I, 72)を思い出す。島の南岸を西にパフォスへ向かう車窓からは、きらめく浜辺と遥かな水の広がりが見えた。同じく『スタンツェ』のアフロディーテ誕生の場面、「その中で生まれた優美な姿の/若い娘は、人ならぬ神々しい面持ちで、/盛んな西風に吹かれて岸へと、/貝殻に乗って行く」(I, 99)を思い出す。これらの詩行にインスパイアされたボッティチェッリの絵画が、目の前の景色と重なり合う。

とはいえ、ポリツィアーノもボッティチェッリもキプロスを訪れたことはない。古来、この島を舞台にした作品は数多あれど、それらの作者のほとんどが実際に訪れたことはない。『オセロ』のシェイクスピアも然り、『アドニス』のマリーノも然り。作品の舞台を訪れることは、どれほど芸術の本質に関わるのだろうか。

私が研究するダンヌンツィオ(1863-1938)も、キプロスを訪れることはなかった。しかし、彼の初の長編小説『快楽』(1889)の主人公アンドレアは、『キプロス王』という詩篇の作者とされる。その中に登場する幻獣キマイラの言葉が、アンドレアの記憶に蘇る。「お前は見たいのか、血の川を?/高く積まれた黄金を? 奴隷たちを?/[…]/お前は大理石に命を与えたいのか? 神殿を建てたいのか?/不滅の讃歌を作りたいのか?/[…]/お前は神のごとく愛したいのか?」(II, ɪ) ダンヌンツィオにとってのキプロスは、地中海の要衝であり、石像を愛したピュグマリオンの国であり、そして何よりもアフロディーテの島である。

実は彼の私生活では、作品に先立って、キプロスが愛の象徴となっていた。1887年、ヴェネツィアから恋人バルバラに宛てた手紙で、「私はキプロスの女王カテリーナ・コルナーロがどんなだったか知らない。でも、なぜか分からないけど、君に似ていたに違いないと想像する」と書く。カテリーナはヴェネツィア出身の貴族で、リュジニャン家のキプロス王ジャック2世と結婚し、夫の死後、1474年から1489年までキプロス女王だった。

ところで、キプロスの他にエルサレムやキリキアを支配したリュジニャン家の始祖は、伝説によると、半人半蛇の水の精メリュジーヌである。ダンヌンツィオは、さらに先立つ1886年のソネットで、その変身を描いていた。「優美なメリュジーヌは、座って、眺めている、/[…]/弓なりの〈月〉が遠くの森から/朱色に染まって、パレスティナの空を昇るのを。/[…]/硬くなった顔はきらめき、/裂けた舌で口は空しく呼ぶ、/心臓に達する蛇の冷たさゆえに。」(詩集『キマイラ』)

ダンヌンツィオのキプロスに対するこだわりは、1901年の悲劇『フランチェスカ・ダ・リミニ』にも表れている。主題はダンテ『神曲』に出てくるパオロとフランチェスカの不義の恋だが、キプロス出身の召使ズマラグディが登場し、旅の商人に故郷の消息を尋ねる。「それで誰が王様ですか? ユゲ殿?」「ユゲは若くして死にました。今の王は、彼のいとこのユーグ・ド・リュジニャンです。大変な禍事がありました。女たちの毒、領主たちの裏切り、疫病、いなご、地震、そして魔のヴィーナスが現れました。」(III, ɪɪɪ)

キプロスへの憧れは募るばかりで、彼の傑作とされる抒情詩集『アルキュオネー』(1903)の最終盤、7つの詩からなる『遠き地の夢』の、その最後に置かれた『いなご豆』でも描き出される。「〈九月〉よ、いなご豆が熟している。/今お前はキプロスの岸から/キリキアの熱い海を渡る/丸い船体に四角い帆のサイカを導く。/海は凪ぎ、サファイアの空に雲はない。/[…]/確かに、今お前はキリキア海にただよう/濃密な甘い香りの中で、忘れられた歌を見つける、/アマトゥスでキプロスの女神を喜ばせた歌を。」

1906年、遠きキプロスの夢を華々しく咲かせるべく、ダンヌンツィオはオペラ作曲家プッチーニに脚本『キプロスの薔薇』を提示する。しかし、交渉は実らず、その7年後、擬古フランス語で書かれた喜劇『ラ・ピサネル、あるいは香り高き死』へと変容し、ピッツェッティの音楽を得て、パリのシャトレ劇場で上演された。

いつかまた、春の海に浮かぶ祝祭の島を訪れたいものだ。ただし、凡俗な私の一番の願いは、モッツァレッラ・チーズに似た、キプロス名物ハルーミ・チーズを食べることだけれども。

旅するモザイクマニア
鼓 みどり

最後にイタリアを訪れて1年余りが経過した。旅行が気軽にできたこと。現地で実作品と対面し、何とも言えぬ幸福感に満たされたこと。これから当分は繰り返すことができない体験を思うと、改めて旅が自身に与えてくれたものの大きさを知ることになる。

初期中世写本彩飾を専門として研究を続けてきたが、その源泉は古代末期地中海世界である。それを理解するために、モニュメンタルな美術を訪ねて、その声を聴こうと努めた。とくに舗床および壁面モザイクには深く魅了され、旅程にはできるだけモザイクをいれてきた。「行った、見た、撮った」を旨とする旅の成果は、講義「世界遺産の旅」となっている。

昨年2019年8月末にシチリアを再訪した。ピアッツァ・アルメリーナ、ヴィラ・カサーレ・ロマーナは1994年以来25年ぶりであった。モザイクの上に足場を組み、見学しやすくなってはいたが、屋根により暗くなり、写真も撮りづらくなった。それでも筋トレに励む妹はスポーツ女子の大先輩に感動していた。

パレルモの町は中心部が遊歩道となり、観光しやすくなっていた。大好きなマルトラーナでは結婚式に遭遇し、ゆっくりモザイクを見るために翌日再訪した。聖母と天使の相貌が優美かつ凛々しい。ギリシア十字プランの建築と中期ビザンティンの装飾プログラムは、シチリアの文化的特質が凝縮している。いつもまっ先に訪れるカペラ・パラティナは、創世記の諸場面とともにレースのような象嵌装飾が美しい。これは天井の木彫装飾とともに、イスラーム文化が育んだものである。そして郊外のモンレアーレとともに、西欧のバシリカ式建築にパントクラトルのキリストを頂点とするビザンティンの装飾体系を適用させている。1994年にローマで開催された「ノルマン展(I Normanni)」は、映像を用いて雄弁に呈示していた。モンレアーレでは明るい光の下で完成度の高いモザイクと美しい回廊を楽しんだ。

トルコを訪れたのは1997年と2013年の2回である。イスタンブールのハギア・ソフィアとコーラ修道院は、ビザンティン美術の最高峰であり、訪れるたびにそれを実感した。大宮殿の舗床モザイクを展示したモザイク博物館は整備され見学しやすくなっていた。

2013年の旅では、開館間もないガジアンテップのゼウグマ・モザイク博物館とアンタクヤ(アンティオキア)博物館を訪れた。セレウコス朝シリアの首都アンティオキアのモザイクは、ルーヴル美術館をはじめ、各地に所蔵されているが、現地のコレクションは最大である。そしてガジアンテップの新しい博物館は、1980年代以降の発掘成果を公開し、展示にも最新技術が駆使されていた。作品のそばにタブレットが設置され、従来パネルにあった情報より遙かに詳しく図や音声とともに知ることが出来る。また吹き抜けの部分から下の階の展示を見て、舗床モザイクの全体を知ることが出来る。海景モザイクに水の映像を投影した演出も印象的だった。看板作品の「ジプシーの少女像」は強力に印象づけられていたが、オリジナルを見てやや拍子抜けした。来館者も多く、観光資源の価値も高いように思われた。

一方、アンティオキア博物館は展示室の壁面をすばらしいモザイクが埋め尽くしていた。舗床モザイクをタブローとして壁面に展示する伝統的な方法は、絵を注目させるがモザイクを建築的文脈から切り離してしまう。見学者は画集を見るように「永遠の絵画」モザイクを眺めることが出来る。特に5世紀の浴場にあった「ソティリア(癒やし)」の擬人像(図)は、温水と冷水の効能を体現する優美な女性像である。そのたたずまいからは理念や精神を連想させるが、実は公共浴場の宣伝というあたりは古代ローマの深さであろう。なお博物館の一部は改装工事が行われていた。

2006年に訪れたチュニジアの首都チュニスのバルド博物館とスースの博物館で、舗従モザイクを心ゆくまで楽しむことが出来た。コレクションは質量ともにヨーロッパでは太刀打ちできないレベルである。これがローマ帝国と実感した壁面に展示されたモザイクの多彩な内容に心が踊った。人気役者や最強の剣闘士。戦車競争優勝者。雑誌記事のように記された銘文。バルド博物館最後のセクションは初期キリスト教時代。色彩技法ともに質素になるがタバルカのパネルは感慨深かった。

モザイクマニアの思い出は尽きることがないが、とりあげた事例のうち、2014年に痛ましいテロが起きたバルド博物館、内戦が続くシリアへのルートに位置するガジアンテップやアンタクヤの状況を思うと、仮にウイルスを征圧できても紛争は廃絶出来るのかという問に向き合わざるを得ない。それでもモザイクマニアはいずれモザイク達と出会い再会できる日が来ることを信じている。

フィレンツェの想い出
金澤 正剛

今からちょうど半世紀前、私はフィレンツェの郊外にあるハーヴァード大学のルネサンス研究所、通称「ヴィッラ・イ・タッティ」で仕事をしていた。研究所の音楽室は「モリル音楽室」と呼ばれているが、それはピッテイ宮殿の裏隣りに広大な屋敷を構えるモリル夫妻が巨額な資金を投じて楽譜や参考書の充実を図ってくれたためであった。

私もモリル夫妻と親しく付き合ったおかげで、フィレンツェの数多くの名士たちと知り合うことになった。その中にひとり、白髪で品の良い小柄なガンバ伯爵夫人という方が居られた。ちょうど私が研究室でフォルテ・ピアノを弾いているところに入って来られ、「私の家には古いオルガンがあるので、一度弾きに来ない?」と誘ってくださった。「練習するのに、私の家は遠すぎるから」と言って紹介してくれたのがなんと、旧市街でアルノ河畔のサンタ・トリニタ教会。確かに私のアパートからは徒歩5分のところだが、観光客はひっきりなしに出入りするし、信者たちはお祈りをしているしで、いささかめげていると、イタリア版布袋様のような神父様がにこにこと、「どうぞどうぞ、ご自由に弾いてください」と言ってくださったので、思い切っていろいろと弾いてきたが、オルガンの調子はいまひとつ良くないように思われた。

私がガンバ家のオルガンを弾くという話は方々に伝わったようで、アメリカ領事夫妻も同行したいと言ってこられたし、出来れば独奏ばかりでなく、合奏も出来ないかという話になったので、私が弾けるようなオルガン・パートであれば、是非やりましょうと答えたところ、これではどうでしょうかという楽譜が送られて来た。今となってはどのような曲であったかも覚えていないが、確かコレッリの教会トリオのような曲で、オルガンは伴奏するだけの簡単なものであったので、これなら練習無しでもできますと返事をした。

いよいよ当日となって、モリル夫妻と領事夫妻が車を用意し、私の他にフィレンツェ管弦楽団のメンバーであるというヴァイオリン君とチェッロ君が合流し、キャンティ地区の西にあたる丘陵地区へと向かった。やがて小高い丘が見え始め、急な坂を上って頂上に上りつくとそこはかなり広い広場となっていて、その北側にガンバ家の邸宅があり、伯爵夫妻が出迎えてくれた。ひとまずガンバ邸のサロンで全員くつろいで向かった先が、広場を挟んで南側正面の教会だった。つまりガンバ夫人が「家のオルガン」と言っていたのは、この町の教会のオルガンのことであり、ガンバ家はこの地域一帯のかつての領主であったのだということがそこで分かった。教会に着くとその前に盛装した一人の男性が立っていて、私たちを敬礼で迎えてくれた。そしてガンバ夫人が、「この人は教会守で、今日はオルガンのひもを引っ張ってくれることになっているの」と紹介してくれた。つまりこの教会のオルガンは伝統的な楽器で、ふいごの操作は太い紐を引くことで行うという中世以来の典型的な方法で行うものであった。

事実そのオルガンは典型的な18世紀中部イタリアのオルガンで、音色は限られてはいるものの、透明な音色が印象的なオルガンであった。私が小1時間弾いたところでヴァイオリン君とチェッロ君が狭いバルコニーに上がって来て、私の右手に陣取った。そしていよいよヴァイオリン君のサインで教会ソナタを弾きはじめたが、初めから気持ちも実にうまく合った合奏となり、私自身としてはごく自然に2人の合奏を耳にしながら楽しんで弾いていた。暫く弾いたところでチェッロ君が弾きながら、「ところで誰のために俺たちは弾いているんだろう?」と言った。するとすかさずヴァイオリン君が、「勿論俺たち自身のためだよ。分かっているじゃないか」と答え、チェッロ君も「ああそうか」と納得して弾き続けた。全部弾き終わったところで、もう一度最初の曲をやろうじゃないかということになり、結局1時間近く合奏を堪能したが、後で考えるとその間ずっと教会守君が紐を引っ張っていたのだということに思いつき、大変だったなと思った。

後日フィレンツェ管弦楽団の演奏会があり、行ってみたところ、実は私と合奏してくれたヴァイオリン君はフィレンツェ管弦楽団のコンサート・マスターであったということに気づいた。素人である私によくぞ付き合ってくれたと思うとともに、ガンバ家の教会で彼が実に楽しそうに演奏していたことを思い出し、音楽の合奏などというものは本来プロだ、アマだなどという壁を越えて楽しむものであるということを痛感した。フィレンツェで経験した音楽の想い出はこの他にも実にいろいろと多いが、ひとつだけを選ぶとすると、ガンバ家の教会で経験した合奏の想い出になることと思う。

表紙説明

地中海の《競技》15:フランスのジュ・ド・ポーム/小林 亜起子

ジュ・ド・ポーム(あるいはポーム)とは、フランス語で「掌の遊び」を意味しており、中世の時代には、素手や革の手袋を身に付けてボールを打つ遊戯であった。16世紀以降、ポームは本格化し、ラケットを用いた球戯として定着した。いわゆるテニスの原型である。1632年に刊行された『掌の高貴なる遊び』の冒頭を飾る扉絵(左上図)に見られるように、ポームは遊戯とはいえ、激しい身体の動きを伴う競技であった。4人の紳士たちはラケットを手に、白熱した打ち合いを繰り広げている。1694年に刊行された『アカデミー・フランセーズ辞書』(第1版)の「ポーム」の項目にも「老人にとってポームはあまりに激しい運動である」と記されている。ポームには戸外で競技するものと屋内で行うものと2種類あり、この扉絵には壁のある室内のコートで競う「クルト・ポーム(短いポーム)」の場面が描かれている。

ポームはなにより高貴な人々のスポーツであった。その一例として、ジャン・ド・サン=イニーの下絵に基づきイザック・ブリオによって版彫された版画(右上図)を観察しよう。本作は、17世紀に刊行された『フランスの舞台──身分や環境に応じたさまざまな衣装』に収められている。ここには、「ジュ・ド・ポーム(球戯場)やそのほかの場所で、そこで練習している貴族の頼みに応じている小姓の衣装と仕草」が表されている。貴族の姿は見えないが、地面に置かれたラケットとボールがその存在を暗示している。小姓は帽子を片手に優雅な身振りで貴人の依頼に応じている。ここで興味深いのは、貴族が球戯場にいるという場面が設定されている点にある。このことは、当時の上流階級のあいだで、ポームがいかに身近なものであったのかを示唆している。

ブルボン朝の国王たちもポームを愛好していた。ルイ14世の時代には、ヴェルサイユ宮殿の近くに球戯場が作られた。ここがのちにフランス革命の舞台となることを、いったい誰が想像できただろうか。1789年6月20日、この球戯場に集結した第三身分の議員は身分制議会を否定し、国民の代表として「国民議会」を掲げ、憲法制定まで解散しないことを誓った。かくして球戯場はフランス民主主義確立の地として歴史に刻まれることになった。激動の時代に活躍した画家ジャック=ルイ・ダヴィッドは、この歴史的事件を題材とした《ジュ・ド・ポームの誓い》(下図)を描いた。これを見るものは、溢れんばかりの人々の高揚感と熱気で満たされた球戯場の様子に目を奪われるが、画面左下隅に描き込まれたディテールを見逃してはならない。そこには、主人を失ったラケットとボールが、力なく転がっている。これらはアンシャン・レジームにおける華麗なるジュ・ド・ポームの数奇な運命を静かに物語っている。

(表紙写真)
左右上図:©︎Bibliothèque nationale de France
下図:©︎Château de Versailles, Dist. RMN