地中海学会月報

MONTHLY BULLETIN

学会からのお知らせ

訃報

地中海学会会員各位
地中海学会会員で常任委員の太田敬子氏が、11月7日木曜日にご逝去されました。
太田氏のご専攻は前近代中東社会史、特にムスリムとキリスト教徒の関係史を地中海東部地域、現在のシリア、トルコ東部、イラク北部などをフィールドに研究されておりました。地中海学会には1986年にご入会、2003年からは常任委員を務められ、学会の活動に大きく貢献されてきました。
地中海学会としては突然のご訃報に大変驚き、また哀悼の念に耐えません。衷心からご冥福をお祈り致します。
なお、すでにご葬儀はご家族、ご近親の方のみで執り行われ、ご香典等はご辞退されるとのことです。
地中海学会会長  本村凌二・事務局長  島田誠

「地中海学会ヘレンド賞」候補者募集

地中海学会では第25回「地中海学会ヘレンド賞」の候補者を下記の通り募集します。授賞式は第44回大会において行う予定です。応募を希望される方は申請用紙を事務局へご請求下さい。
地中海学会ヘレンド賞
一、地中海学会は、その事業の一つとして「地中海学会ヘレンド賞」を設ける。
二、本賞は奨励賞としての性格をもつものとする。本賞は、原則として会員を対象とする。
三、本賞の受賞者は、常任委員会が決定する。常任委員会は本賞の候補者を公募し、その業績審査に必要な選考小委員会を設け、その審議をうけて受賞者を決定する。
募集要項
自薦他薦を問わない。
受付期間:2020年1月8日(水)~2月14日(金)
応募用紙:学会規定の用紙を使用する。

第44回地中海学会大会

地中海学会では第44回地中海学会大会を2020年6月13日(土)、14日(日)の2日間、関東学院大学(金沢八景キャンパス)にて開催する予定です。詳しいプログラムは決定次第お知らせします。
大会研究発表募集
第44回大会の研究発表を募集します。発表を希望する会員は、2月14日(金)までに発表概要(1,000字以内。論旨を明らかにすること)を添えて事務局へお申し込み下さい。発表時間は質疑を含めて、1人30分の予定です。採用は常任委員会における審査の上で決定します。

会費納入のお願い

今年度会費(2019年度)を未納の方は、至急お振込みいただきますようお願い申し上げます。不明点のある方、学会発行の領収証をご希望の方は、お手数ですが、事務局までご連絡下さい。
会 費:正会員 1万3千円/学生会員 6千円
振込先:口座名「地中海学会」
郵便振替 00160-0-77515
みずほ銀行 九段支店 普通957742
三井住友銀行 麹町支店 普通216313

正会員の会費改定について

2019年6月8日神戸大学にて開催された第43回地中海学総会において、2020年度(2020年4月1日)より正会員の会費を下記のように改定することが決定されました。
(現 在)「正会員は、一ヶ年につき13,000円の会費を納入しなければならない。」
(改定後)「正会員は、一ヶ年につき10,000円の会費を納入しなければならない。」

会費口座引落について

地中海学会では、会員各自の金融機関の口座より会費の「口座引落」を実施しております。
今年度(2019年度)入会された方には「口座振替依頼書」をお送り致します。また、新たに手続きを希望される方、口座を変更される方にも同じく「口座振替依頼書」をお送り致しますので、事務局までご連絡下さい。今回、申し込まれる方は、2020年度から口座引落を開始します。
なお、個人情報が外部に漏れないようにするため、会費請求データは学会事務局で作成しております。

コンスタンティノープルのマルマラ海城壁
仲田 公輔

ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープル(現イスタンブル)といえば、幾度もの攻囲戦を耐え抜いた難攻不落の街として知られている。その威容を伝える囲壁は今なお一部が現存し、見るものを驚嘆させている。特に良好な状態で残っているのが街の西側、すなわち陸側のいわゆるテオドシウス(2世、在位408-450年)の大城壁だが、往時はこの街の周囲全体が巨大な城壁で囲まれていた。コンスタンティノープルは大まかに言って北と南の海側に2辺、そして西の陸側に1辺を持つ三角形状の構造をなしていた。かつては北の金角湾側とマルマラ海側を含めた三方全てに囲壁があったが、オスマン朝統治下で近代に入り、鉄道等の建設のために撤去されたらしい。なお、その際にテオドシウスの大城壁も取り壊すという話が出ていたが、西欧の学者が反対したこともあって実現しなかったという。それでもなお、随所で海側の城壁の面影を偲ぶことはできる。特に南側のマルマラ海城壁については、現在は海岸線が変化したためやや内陸となっているが、テオドシウスの大城壁の南端とマルマラ海城壁の西端にあたる塔(メルメル・クレ)と街の東端のクリストス・フィラントロポス修道院の跡地の間にいくつかの遺構が点在している。

筆者は2019年9月にイスタンブルを訪れ、そうした遺構を目にする機会に恵まれた。その際に筆者の目を引いたのが、ビザンツ時代の皇帝の名を刻んだ、城壁の塔の修復を記念する数多くのギリシア語碑文である。コンスタンティノープルの城壁は建造当時のものがそのまま残っているわけではなく、数多の自然災害、火災、戦乱等による損耗を経験し、そのたびにより強固なものへと作り変えられていった。首都の市民を守る城壁の修繕は皇帝たるものの重要な責務であり、その業績を誇示するプレートが各所に残されているのである。その内容は「皇帝だれそれの塔」とか、「皇帝だれそれがこの塔を基礎から再建した」といった具合である。

マルマラ海城壁については、特に9世紀の皇帝テオフィロス(在位829-842年)の名を冠した碑文が目立つ。最後のイコノクラストとして知られるこの皇帝は、なぜそのようにマルマラ海側の城壁の補強に力を入れたのだろうか。これにはいくつかの理由が考えうる。第1に、コンスタンティノープルは同帝の父ミカエル2世の治世(在位820-829年)、いわゆるスラヴ人トマスの大乱によって2年にわたる包囲戦を経験している(821-823年)。その際トマスは地方のテマ(軍管区)の艦隊を掌握し、その助力を得て海側からも街を攻撃した。ミカエル2世は当時共同皇帝であった息子テオフィロスとともにこれをなんとか凌いだが、海城壁も甚大な被害を受けたことは想像に難くない。実際、修復を記念する碑文の中には、修復工事がミカエル2世の治世から始まっていたことを示すものもある。第2の理由として考えられるのが、エーゲ海におけるムスリムの海賊活動の活発化である。以前の月報でも述べたとおり(368号、2014年3月)、820年代にアブー・アフス率いる軍勢がクレタ島を占領すると、同島を拠点としたビザンツ領沿岸への略奪活動が頻繁に行われるようになった。タウロス山脈という自然地形がビザンツとイスラーム勢力のおおよその国境をなしていたアナトリア半島と異なり、妨げるものの少ないエーゲ海においてムスリム海軍はその奥深くまで侵入することができ、首都コンスタンティノープルですらその脅威から無縁ではいられなかった。時代は下るが、帝国第2の都市テッサロニキも904年に海からの攻撃を受けている。テオフィロス帝がこれに備えるためにマルマラ海側城壁の補強を行ったとしても不思議はない。

ところで、テオフィロス帝とマルマラ海というと、1つのエピソードが思い浮かぶ。10世紀半ばに編纂されたとされるゲネシオス『皇帝伝』を始めとするいくつかのビザンツの叙述史料には、以下のような話が伝わっている。ある日テオフィロスがマルマラ海城壁沿いのブコレオン宮殿(その一部とされる遺構が現存している)から外を眺めていると、1隻の商船が通り抜けていくのが目に入った。皇帝がそれは誰のものなのか尋ねると、側近は皇后テオドラのものだという。テオフィロスはこれに激怒し、「我が妻がその船を持っているというのだから、余はさしずめ商人か」と皮肉(?)を言い、直ちに積荷ともども焼却することを命じた。従来このエピソードはビザンツ人の皇帝観や「商業精神」の欠如のあらわれの証左とされてきた。しかし、そもそもテオフィロスはなぜそこまで行き交う船のことを気にしていたのだろうか。想像力をふくらませると、もしかしたらムスリム海軍の脅威が迫る中、日々マルマラ海を不安げに見つめる中での出来事だったのかもしれない。だとするとテオフィロスは、想像以上に海に目を向けていた皇帝だったのだろうか。

ミケランジェロの穴
友岡 真秀

2015年の春先、イタリアはトスカーナ北西部に位置する大理石の採石場を訪れる機会に恵まれた。この地で産出される石材は「カッラーラの大理石」として世界的に知られる良質なものであり、今なおこの大理石を求めて現地に赴く者は後を絶たない。私自身は20歳の頃、イタリア各地を巡り歩いた際カッラーラに立ち寄り、採石場を一目見たいとその術を模索したものの、何の伝手も無かった身としては、切り出された面が陽射しを受けて白く乱反射する大理石の山脈を目に焼き付けるのみで同地を後にするしかなかった。しかしミケランジェロに魅せられていた私はその数年後イタリアに留学していた折、とある彫刻家を通じて、この地に彫刻スタジオ──そこではイサム・ノグチをはじめ幾多の名だたる彫刻家が鑿を振ってきたと同時に、今なお精力的に作品が生み出されており、同地域で産出される大理石の質の高さを物語っている──を構える方と知り合い、そのご厚意にあずかり冒頭のとおり念願叶って採石場へ足を踏み入れることになった。

我々一行が向かったのは、「ミケランジェロの穴(ブーコ)」と呼ばれる場所である。イタリア・ルネサンスを代表する彫刻家ミケランジェロ・ブオナローティが切り拓いた採石場として知られ、アプアーネ山脈の高峰の1つ・アルティッシモ山に連なる丘陵に設けられている。すなわちカッラーラから約20キロ南方のセラヴェッツァの内陸側に位置し、そこから直線距離にして約10キロ先に見渡せる最も近い海岸フォルテ・デイ・マルミまでは、クエルチェータやピエトラサンタを経由する。現在この採石場は、大理石材の採石加工販売を手がける株式会社Henrauxの管理下にある。マッキアと呼ばれる斑らや筋が見られるなど質が落ちていたため閉山していたが、訪問の数年前より段階的に採石を再開し、徐々に良質な石層の開削が進んでいるとのことであった。

1518年1月19日、ミケランジェロはメディチ家が代々改修を重ねてきたフィレンツェのサン・ロレンツォ聖堂のファサードを制作することに関して正式に契約を結んだ。これはその凡そ2年前よりメディチ家の教皇レオ10世より依頼を受けて設計を進めていた計画であり、早くも設計段階にて、使用する大理石は従来どおりマラスピーナ一族の支配下にあったカッラーラにて調達する旨が指示されている。契約の翌2月には、大理石の調達にかかる費用を受領した上で、ミケランジェロは予定通りカッラーラへ赴いた。しかしこの間に教皇は、フィレンツェ人の所有地であるピエトラサンタの山中すなわち上述のアルティッシモ山に連なる丘陵でも質の高い大理石を採掘しうるという情報を得たため、フィレンツェ領内の事業振興のためにも、当初予定されていたカッラーラではなくピエトラサンタでの開削に切り替える決定をした。この変更をめぐりカッラーラ側とは不和が生じたほか、ミケランジェロは同地に渡って新規に採石することに加え、海岸までの輸送路の拡張と開拓という大事業への従事を余儀なくされたのである。

現在の輸送路はミケランジェロが切り拓いた道を利用しており、岩肌をジグザグに這うその細い道を、滑落の恐怖に包まれながらジープで駆け上ると(普段は陽気に絶え間なく喋り続ける同行のイタリア人達さえも一様に口をつぐんだ)、目の前に聳え立つアルティッシモ山に向かって叫ぶように口を開く大理石の巨大な「穴」が現れる。当然ながら現在に至る長い年月を経てその形状は変化しているが、その圧倒的な量感と文字通り屹立する岩肌の厳しさを前にすると、1518年2月末以降ミケランジェロがこの地で行った仕事量は実感しうる規模のものでは到底無く、むしろ文字史料上での理解をはるかに超越していた。その開拓を進める苦しみは、肉体的な辛苦にとどまらない。同時期に甥のブオナロートへ幾度となく宛てた書簡には、同行の石工が使いものにならないこと、大理石塊の切出しにおける失敗とそれらにかかる費用の負担等をめぐる憂慮に加え、サン・ロレンツォ聖堂ファサードの制作に先立って先代の教皇ユリウス2世による委嘱で着手していた同教皇の墓碑制作に用いるためカッラーラで採石した大理石についても、その輸送作業が妨害されていることが記されており、憤りや嘆きのほか、こうした苦難の先に待つ制作に対して燃え上がる情熱が入り乱れるように噴出している。

1520年3月、教皇レオ10世はサン・ロレンツォ聖堂ファサード制作にかかる契約を破棄し、ミケランジェロがピエトラサンタで新たに切出した大理石はフィレンツェの大聖堂の舗装等に流用されることになった。同時期の書簡では、この不条理な結末に対する憤怒を露わにしながらも、ピエトラサンタの採石場については「今なお見られるとおり私が採石の起源を切り拓いた地であり、それまでは一切開削されたことのなかった場所である。」と誇らしげに語っている。「ミケランジェロの穴」には、500年が経過した今でもなお、その超人的な偉業を巡る苦悶と激情、そして自らの仕事に対する誠意と自信が宿り続けている。

ドラクロワの庭で古代と出会う
湯浅 茉衣

国立ウジェーヌ・ドラクロワ美術館は、パリ6区のサン=ジェルマン=デ=プレ教会近く、小さな広場(Place de Fürstenberg)に面した扉の奥にひっそりと建っている。2017年春、私はインターン生として同美術館に勤務することになった(留学先のパリ・ナンテール大学修士課程では美術館におけるインターンシップが必修単位であった)。ドラクロワ(1798-1863年)の終の住み処を、油彩画・素描・版画といった作品群や手稿などと共に公開するこの美術館は、画家自身が「私の隠れ家(エルミタージュ)」と呼んだように、パリの街中にありながらその喧騒から隔絶されている。とりわけ、美術館の奥へと進む者しか辿り着けない中庭で過ごす、静謐なひと時は格別である。留学1年目の私は、次期展覧会の準備やルーヴル美術館への“おつかい”に従事するかたわら、花の盛りを迎えた中庭で、ちょっと休憩するのを何よりの楽しみにしていた。その静かな庭には、住居部分とは別の棟として建てられたドラクロワのアトリエがある。来館者は、庭に点在する椅子のどれに座っても、アトリエの白いファサードをじっくりと眺めることができるはずだ。

ある日のランチ後、いつものように中庭の椅子の上で大きく伸びをしていた私は、ふとアトリエのファサードを飾るレリーフに目を留めた。「そういえばこの古代風の浮き彫り、来館者の皆様には“ロマン派の旗手たるドラクロワ”のアトリエに似つかわしくない、と思われてしまうような……。でもこの画家さん、若い時分に、大英博物館で公開されて間もないエルギン・マーブルを現地で熱心に素描していたり、実は古代マニアの一面があるのよね。はて、そもそもこのレリーフ、何だったかしら……」。こんな考えにとらわれた結果、インターン業務の傍ら進めた調査に、以下お付き合いいただきたい。

1857年春、ドラクロワは引っ越してきたばかりのアパルトマンの中庭に、自身のアトリエを建てることにした。借家だったにもかかわらず、大掛かりな工事に乗り出すとはなかなか大胆であるが、その庭はすでに彼が1人で使用していて、好みの植物を勝手に植え替えたりしていたらしいので、家主との関係はよほど良好だったのだろう。こうしてドラクロワは、18世紀イギリスの新古典主義建築にインスピレーションを受けながら、自由な構想に基づいてアトリエの設計に取り組んだ。

ドラクロワが設計したそのファサードには、2つのささやかなピラスターが設けられている。大きく取られた中央の窓からは、庭に注ぐ陽光をアトリエ内部に採り込めるようになっている。この大きな窓の両脇には、小さな2つの縦長の窓が添えられており、シンメトリーの構成を演出する。さらに大窓の下には、庭に直接通じる扉がある。各窓が幾重かの枠で縁取られてはいるものの、全体的に簡素な印象を与える建物であるが、その純白の色も相まって、どこか優美な雰囲気を漂わせている。さて、本ファサードの唯一の装飾部分とも言える、3点の浮き彫りを見ていこう。つまり、大窓の下部(すなわち中央扉の上部)に取り付けられた横長のレリーフと、左右の小窓の上部をそれぞれ飾る方形のレリーフである。前者は、2世紀ローマの大理石彫刻の傑作《ムーサの石棺(サルコファージュ)》(ルーヴル美術館所蔵)の、石膏による複製だ。後者も同じく、大理石のオリジナルに基づく石膏の複製だが、ヘファイストス神殿(アテネ、紀元前449-415年)のメトープに彫られた装飾の一部であり、ミノタウロス退治で名高い、アテナイの英雄テセウスの冒険譚が描写されている。向かって右のものはスケイロンとの闘い、左のものはケルキュオンとの争いの場面である。1857年5月3日付けの画家の日記には、これらの複製を購入したことが示されている。また、これまでの研究で、ドラクロワはこれらをルーヴル美術館付属ムラージュ(複製彫刻)工房で注文した、ということも明らかになった。

「ドラクロワと古代」と題された展覧会(ドラクロワ美術館、2015-2016年)が記憶に新しいように、近年、彼の古代研究に改めて光が当てられている。確かに、最晩年の画家が、自分だけの庭において、密かにアトリエを古代作品の複製で飾り付けたという事実は、その生涯を貫く古代趣味の証となり得るだろう。ロマン派の画家の新たな側面を知るためにも、ぜひドラクロワ美術館を訪れてほしい。さらにお得な情報を付け加えれば、運の良い来館者は、この秘密の庭で、近所のアパルトマンに住む猫に出会える。その名も「Wi-Fi」。21世紀の世に欠かせないテクノロジーと一緒に日向ぼっこをしながら、19世紀パリジャンが愛した、古代の遺物を眺めてはいかがだろうか。

ドラクロワのアトリエ(筆者撮影)

第9回イタリア都市史協会(AISU)大会とチェントロ・ストリコのボローニャ
會田 涼子

去る2019年9月上旬、第9回イタリア都市史協会(AISU)大会がボローニャ大学で行われた。フィレンツェ大学留学時代の恩師に声をかけていただき、末席ながら発表することになった。大会のテーマは「グローバル都市:浸透する現象」で、7つの主要テーマによる大セッションに10前後の小セッションという構成で、各小セッションには5~6人の発表者がおり、総勢約600名の大会であった。ヨーロッパ都市史協会(EAUH)と連携した国際学会という位置づけで、2000年の設立以降、隔年で大会が開催されている。参加者はイタリアからが主であるが、南アメリカやアジアなどからの参加者も多く、参加者総数は年々増加しているようである。会期は4日間で、初日はオープニングとして大会テーマに関するシンポジウム、ボローニャ市からチェントロ・ストリコ整備事業の経緯と現状についての基調講演があった。

せっかくなので、空き時間にボローニャの街を歩いて回った。都市史を勉強する以前に訪れて以来、十数年振りであった。まず驚いたのはこれまで写真や図を通して認識していた代表的なポルティコとは趣の異なるポルティコが次々と目の前に現れたことだった。木造のものや、近代にできたものや、おそらく再建されたもの、広々としたホールのようなもの、2人がすれ違うのがやっとの幅の狭いもの。とりわけサンタ・マリア・デイ・セルヴィ聖堂周辺のポルティコは新鮮に感じられた。本堂の前面にアトリウムのある形式をとっているが、その回廊は外側の壁がないうえ、街路に接しているため回廊が街路のポルティコと一体化し、街路からアトリウム空間と本堂の正面が見通せて、なにか神社空間にも通ずるすがすがしさがあった。そしてその回廊の一方は本堂側面に回り込み、もう一方は隣接したパラッツォ地階部分のポルティコに繋がっていて、都市空間と建築空間が一体となっている。この透けたポルティコはどうも19世紀に入って「オリジナル」案に基づいて完成させたもののようで、1845年以前の都市図を見てみると街路に開いていたのは四方の1辺のみであった。それから三角形のサン・サント・ステファノ広場に面して建ち並ぶパラッツォには、各々に独立したポルティコがあり、連続したポルティコになっていく過程が見て取れるようだった。

面白くなって次の日もいそいそと出かけ、ボローニャ大学付属のパラッツォ・ポッジ美術館を訪れた。ここには数多くの17~18世紀の都市の模型が展示されている。日頃、模型は見慣れているものの、やはりこの時代の模型となると迫力がある。実際の都市や理想都市を模型にしたもの、要塞の数々の平面パターンが寄木でつくられたもの、さながら工芸品のようであった。先に訪れていたアルキジンナジオの人体像も木彫で、木が痩せて黒ずんだ木目がまるで筋繊維のようであったことが思い出された。模型には瞬時に空間と実態感を把握させる力があることを改めて実感した。

ポルティコを通りながら北東の市門の手前にある、同大学付属の鉱物学博物館を訪ねた。放射線状の街路がつくるV字型の建物の翼部に、木製の標本ケースの棚がずらりとならんでいた。大学院生と思しき学生が受付をしていた。標本されている鉱物の多くは19世紀に採集されたL・ボンビッチのコレクションで、中には17世紀のものもあるようだ。一角に石材のコーナーがあり、数々の大理石やトラバーチン、アラバスターなどが標本されていた。石の切断面をじっと見ていると、渦巻き模様、斑点模様、蛇柄模様、幾何学模様など様々あって面白い。特に層状になったものが波のようにうねっているものなどを見ていると、これらの石もかつて運動をしていたことが感じられた。

夜になって市壁内に残っているかつての運河を見に行った。水路は今やほとんどが道路で覆われて暗渠化し、残っている箇所は地面の蓋をとったような状態で、建ち並ぶ建物の裏側に流れていた。その流れは予想以上に速く、轟音が響いていた。海からも大きな川からも遠いボローニャに今も水を運び続けているのだ。

発表は無事(?)終わり、パラッツォ・レ・エンツォでの懇親会の後、恩師とその門下生であり現在フランスの大学で教鞭をとるベルトーニ氏とマッジョーレ広場を歩いた。彼らにとってもフィレンツェから100㎞も離れていないボローニャの文化が建築や言語、気候にいたるまで、フィレンツェのそれと大きく異なることは驚くべきことのようだった。確かに、アペニン山脈を潜り抜けるトンネルは不安を覚えるほど長く、トンネルを抜ければ別世界というわけである。今やボローニャとフィレンツェはものの40分で行き来できる。しかし、その傍らで強かに時を刻んでいる世界がそこかしこにあることを今回の滞在で実感した。

ラビリントスの音楽活動
佐藤 文香

クレタの主要都市イラクリオから南に向かって島を約20キロメートル縦断したところにフデツィという村がある。オリーブの木が立ち並ぶ山あいの閑静な小村だ。ここに本拠を構え、ラビリントス音楽ワークショップは「世界中のさまざまな地域の伝統的な音楽様式に創造的に取り組む」術を授けるために活動をつづけている。その一環として開催する講習会にはさまざまな地域から講師が招かれる。今回、ラフタという楽器の講習を受けるチャンスに恵まれた。その時の様子の報告を中心に、ラビリントスの活動の一端を紹介したい。

講習会は6日間にわたり、日中と夕方に3時間ずつの集団レッスンが全部で10回ある。ラフタの担当はペリクリス・パパペトロプロス氏である。バーラマ(サズ)という長棹撥弦楽器の演奏にも長けており、ギリシアにおいてはその第一人者と言ってよい。教えていただいたのは全部で19曲。トルコ民謡やツィツァニス作のギリシア大衆歌謡に始まり、トルコ古典音楽、小アジア由来のギリシア伝統歌などに加え、先生自身の作品から器楽4曲と歌2曲。ここ20年に及ぶ活動成果で、すべてCD『ミカ』(2015年)に収められている。レッスン4回目のこと、調弦を終えた先生が《ミカ》の冒頭部をかきなでる。「おお、ペリクリ、それをやるのか」、受講生の1人が思わず声をもらし、皆で聴きほれる。ラフタは前世紀末に復興した撥弦楽器で、マカームといった旋法体系で必要とされる微小音程を発音できるようにフレットが巻かれている。独奏されたことを示す記録は少なく、その後ウードの人気に押されて前世紀初頭に廃れてしまった。それが豊かな表現力を秘めた楽器として蘇り、情感たっぷりにうたいかけてくるのだ。それからタクスィームの奥義。これは前奏や間奏として挿入される即興演奏で、曲がもとづく旋法を示す機能をもつが、器楽奏者にとっては腕の見せ所でもある。15人ほどの受講生が輪になって座る前を先生が楽器を片手にリズム伴奏を奏でながら順番に回ってゆく。マカームに詳しい受講生から見習うことも多い。楽譜が配布された曲もあるが、ほとんどは口頭伝承だ。フレーズごとに先生が手本を示し、皆で一斉に模倣する。それを何度も繰り返す。時に先生は表現の基本として歌を交えながら、めざす演奏を示す。とりわけ自作品で装飾の仕方や奏法などのわざが細かく丁寧に伝授された。

毎日みっちり楽器をかき鳴らしつづけ、弦を押さえる指が疲弊してくる頃に、演奏会が開かれる。各講習会の担当講師が中心的な役割をにない、ラビリントスの専属楽団とともに繰り広げる。会場は事務所のある古い建物に面した広い庭に特設される。22時すこし前に始まり、ペリクリス氏とウードの講師を中心とする前半、クレタのラウト奏者として名高いヨルゴス・クシルリス氏を中心に楽団の楽器編成も改めた後半から成り、24時すぎに終わった。前半は《ミカ》に始まり、全9曲が披露された。約半分は習った曲で、見事なタクスィームによって聞き応えのあるように構成され、受講生にはめざす先のひとつの理想的なかたちがいい具合に示される。そして翌最終日、最終回では備忘録として撮影の場も設けられた。

こうした講習会が夏季には毎週のように開催されている。フデツィでの活動は今世紀初頭以来つづいており、時には講習会を冬季に、また演奏会をイラクリオ中心街で開くこともある。基本的に無料であるため、村での演奏会にも近隣やイラクリオから聴衆が多く来る。ラビリントスはこうして地域と互恵的な関係を築きながら、ここ数年は他地域(イタリア、トルコ等)にも拠点を置き、そのネットワークを広げている。活動の萌芽は1982年に遡り、軌道を修正しながら着実に育ってきた。牽引してきたのはロス・デイリー氏で、ペリクリス氏も師匠と仰ぐ音楽家である。非営利目的を受講料や宿泊の面でも徹底しており、そもそも村には銀行がない。音楽が社会生活に欠かせないクレタという土壌のもと、ラビリントスが育んできた活動は、音楽学者タイトンが思い描く、「音楽することが労働などではなく」、生きるためにごく「自然なこと」としてある、そんな世界の実現につながっていそうだ。

《関連リンク》

ラビリントス音楽ワークショップ:https://www.labyrinthmusic.gr/en/

タイトン氏のブログ:https://sustainablemusic.blogspot.com/2015/10/toward-sound-ecology-activism-community.html

表紙説明

地中海の〈競技〉7:アウロスのアゴンのゆくえ/金光真理子

ゴールの順位や得点の合計で勝敗を争うことができるスポーツ競技と異なり、音楽の演奏はその技術や表現が高いレベルになればなるほど優劣をつけるのが難しくなる。にもかかわらず、ピアノや声楽を始め数多くの音楽コンクールが世界中で開催されるのは、とりもなおさず演奏が身体的な表現活動であり、その妙技を競わせたくなるのが人間の性なのだろうか(419号表紙をあらためて参照されたい)。

この音楽の競技、コンクールの最初期の形とみられるのが、古代ギリシアのアゴンである。体育のアゴンだけでなく音楽のアゴンがあり、合唱や独唱やキタラの弾き歌いやアウロス演奏等、さまざまなジャンルのアゴンがあり、素人から音楽家まで技量のレベルに応じたアゴンがあったという。古代ギリシアを代表する楽器の一つ、アウロスは双管の葦笛で、ディオニュソスの楽器として蔑まれながらも、葬列や軍隊の伴奏から悲劇の奏楽まで儀礼や社交の場で広く用いられていた。それゆえ、演奏の専門化・職業化も進んでいた。ライバルともなる演奏家の関係があったからか、アウロスのアゴンは壺絵や皿絵に数多く描かれている。表紙の壺絵(BC510頃、ルーヴル美術館所蔵)は少年によるアウロス競技会で、1人の少年がアウロス片手に登壇しようとしている。周りの少年は、老人のように杖をつくことで、威厳ある審判の様相を呈している。このアウロスのアゴンで、どのような演奏がなされたのか、それがどのように判定されたのかは残念ながらよく分かっていない。

アウロスのアゴンはいつまで続いたのだろうか。アウロスはその後廃れたものの形を変えた同種のリード楽器が地中海世界に広く普及している。イタリアには単管の「チャラメッラciaramella」やバグパイプの「ザンポーニャzampogna」、サルデーニャ島の三本の葦笛「ラウネッダスlauneddas」等がある。ソロ楽器であるザンポーニャにせよラウネッダスにせよ、しかしながら、アゴンのようなコンクールの存在は聞いたことがない。どちらの楽器も製作・演奏できるようになるには、それなりの年月と努力と才能が必要で、とはいえ社会的に職業にはなりえず(ラウネッダスは一時期セミプロ化したが)、演奏家の数も限られる状況では、コンクールどころではなかったのかもしれない。

コンクールとして制度化はされなかったものの、演奏家が集まれば、そこは互いに自分の楽器の「力」を競う場になる。イタリア中南部の大きな祭りの一つ、ポッリーノの聖母祭は、各地からザンポーニャ奏者が集まり、聖母子像の行列や聖堂付近で入れ代わり立ち代わり演奏する。誰が、どのタイミングで、どこで演奏するか。ときには2人の奏者が互いに譲らず、根競べのように吹き続けることもある。原始社会の「音楽」の機能を論じたC.ザックスによれば、大きい音を長く吹けることは一つのステータスであるが、楽器の音が及ぶ範囲はまさにみずからの力の及ぶ空間であり、そこに音と音による対決を今もみることができるだろう。