地中海学会月報

MONTHLY BULLETIN

学会からのお知らせ

会費納入のお願い

今年度会費(2019年度)を未納の方は、至急お振込みいただきますようお願い申し上げます。不明点のある方、学会発行の領収証をご希望の方は、お手数ですが、事務局までご連絡下さい。

会 費:正会員 1万3千円/学生会員 6千円
振込先:口座名「地中海学会」
郵便振替 00160-0-77515
みずほ銀行九段支店 普通957742
三井住友銀行麹町支店 普通216313

正会員の会費改定について

6月8日神戸大学にて開催された第43回地中海学総会において、2020年度(2020年4月1日)より正会員の会費を下記のように改定することが決定されました。

(現 在)正会員は、一ヶ年につき13,000円の会費を納入しなければならない
(改定後)正会員は、一ヶ年につき10,000円の会費を納入しなければならない。

家族割引会費の改訂

正会員の会費改定に伴い、家族割引会費についても下記のように改定されました。なお、家族割引会費は、同居する会員中の一名が正規の会費を納入し、他の同居家族が会費の割引を受けることができる制度です。誤解のないようにお願いします。

(現 在)常任委員会の承認を得た上で、正会員会費13,000円から5,000円、学生会員会費6,000円から2,000円の割引を受けることができる。
(改定後)常任委員会の承認を得た上で、正会員会費10,000円から5,000円、学生会員会費6,000円から2,000円の割引を受けることができる。

会費口座引落について

地中海学会では、会員各自の金融機関の口座より会費の「口座引落」を実施しております。会費の口座引落にご協力をお願いします。今年度(2019年度)入会された方には「口座振替依頼書」をお送り致します。また、新たに手続きを希望される方、口座を変更される方にも同じく「口座振替依頼書」をお送り致しますので、事務局までご連絡下さい。今回、申し込まれる方は、2020年度から口座引落を開始します。

なお、個人情報が外部に漏れないようにするため、会費請求データは学会事務局で作成しております。

地中海学会大会 シンポジウム要旨/span>
文化遺産と今を生きる
パネリスト:奥村弘/深見奈緒子/松田陽/山形治江 司会:末永航

地中海地域を研究する私たちは、研究の対象や資料として、この地域の文化遺産・文化財と関わることが多い。文化遺産は各国の保護法や、ユネスコの世界遺産制度などに基づいて選別され、保護・保存されているわけだが、遠くの博物館・図書館などに移されてしまった場合を除くと、実際に保護・保存しているのはそれが生み出された地域に現在暮らしている人たちだ。

文化遺産の保存も、それぞれの地域の人々が「今を生きる」ことの一環であり、それをよりよいものにしていくために、研究者が果たすべき役割はけっして小さくない。今回はそうして現場に立ってこられた研究者に体験を語っていただくことを企図した。

最近は観光政策との関連もあって文化遺産の活用について語られることが多くなっているが、遺産の種類によって別々に考えられることが多い。歴史資料、建築・街区、発掘遺跡、古代演劇という有形無形を問わない実にさまざまな文化遺産を一緒に論じる機会はほとんどなかったといえるだろう。今回は地域的にも、地元神戸とエジプト、ギリシア、イタリアという多彩な地域から事例が集まった。その意味でもたいへん貴重な機会だったように思う。

今回の大会は神戸大学を会場にして、神戸大学人文学研究科と地中海学会の共催という形をとった。このためもあって、このシンポジウムには日本近代史がご専門の研究科長、奥村弘氏にも参加していただくことができた。

阪神淡路大震災ではボランティア活動が本格的に始まり、1995年は日本における「ボランティア元年」と呼ばれるが、地域の歴史資料を守り生かすという活動でもこの年が時代を画すことになった。

神戸大学付属図書館は、震災直後から震災に関するあらゆる記録を収集する活動を始め、「震災文庫」を開設、現在はデジタル公開も行っている。

また、当然のことながら長く受け継がれてきた過去の文書・記録にも震災の被害は及び、痛んだり失われたりしたものが多い。歴史の専門家は資料の救出、補修などの援助をしながら、災害によって地域社会自体が変容してしまった地域住民の中に入って、住民自身が自分たちの地域をどのように理解し、未来に向かってどのような地域を作っているのかを模索する過程に随伴することになる。

こうした活動は東日本大震災などその後様々な災害を経験するたびに各地の大学などを中心に深化し、日本各地、さらに海外ともネットワークが形成されてきているという。その動きの中心的な役割を果たされてきた奥村氏のお話は海外にフィールドをもつ研究者にとってもたいへん有益だった。

中東地域だけでなく、世界に広がるイスラーム教圏の建築を幅広く研究されてきた深見奈緒子氏は現在、カイロにある日本学術振興会の研究連絡センター所長を務めている。カイロの歴史的街区の住民たちとたびたびワークショップを実施し、行政を巻き込んだ地域の活性化を計り、また日本での住民参加型街づくりの経験を伝えてきた。当初はフライドチキンを提供することで人を集めたこともあったというが、回を重ねるごとに住民の意識が変化していくのがお話からよく理解できた。

東京大学准教授(文化資源学)の松田陽氏は「考古学と社会との関係を研究し、その成果に基づいて、両者の関係を実践を通して改善する試み」であるパブリック・アルケオロジーを専攻され、東京大学を中心とするチームが長年発掘してきた南イタリア、ソンマ・ヴェスヴィアーナの現場では、周辺地域の住民たちと連携を計ることに尽力されてきた。遺跡が発掘前に期待された皇帝終焉の地である可能性が低くなる中、住民の気持ちを傷つけないよう苦労されたという。

日本大学生産工学部で英語教育を担当されている山形治江氏は、はじめ英文科でシェークスピアを専攻されていたが、その後現代ギリシアの古代劇上演を研究され、日本での上演のための翻訳でも活躍されている。現代のギリシアでの、現代ギリシア口語で古代劇を上演する活動について、近年の情勢を熱く語ってくださった。

なお、今回はシンポジウムの前の休憩時間を利用して、大会会場に隣接する山口誓子記念館の見学を行った。大震災で倒壊した俳人山口誓子の旧居を一部移築復元したもので、震災遺構保存活用の一例でもある。現在は学内にある和室として茶道など様々な行事に利用されている。設置に関わった親族として末永が案内を担当したが、同館の米田恵子氏には、地中海を題材とした誓子の作品などの小展示を特別にご用意いただいた。米田氏、所管の神戸大学研究推進課、ことに担当の田中史恵氏の格別のご配慮に感謝したい。(末永航)

J.E.リオタールのムスリム式の扮装・風貌
──「トルコの画家」の自己宣伝戦略
宮崎 匠

18世紀ジュネーヴ出身の画家ジャン=エティエンヌ・リオタールは、イギリスの貴族たちとともに、1738年にナポリからオスマン・トルコ帝国まで、地中海を船で旅した。コンスタンティノープルおよびモルダヴィア(ルーマニア北東部)滞在を経て1742年にヨーロッパに帰還したリオタールが、1744年に制作した自画像が現在ウフィッツィ美術館に所蔵されている。この作品で画家は、白いシャツに茶色の上着をまとい、一方で頭部には赤い縁なし帽を戴き、その上に高くそびえる毛皮の帽子を重ね、口元には灰色の長いひげを生やしている。

この頭部の様子は、地中海旅行中に画家が目にし、自らも身に着けたイスラーム教圏の住人たちのそれを思わせる。縁なし帽は当時のムスリムの男性たちが着用したもの、大きな毛皮の帽子はモルダヴィアの貴族たちが頭に載せていたものである。そして長く伸びたひげは18世紀のキリスト教国ではほとんど見られなかったが、同じ時期のイスラーム教の国々では豊かに男性の顔を飾っていた。

またジュネーヴ美術歴史博物館の自画像では、長袖・前開きで丈長のトルコ式ガウンをリオタールは身に着けている。このような衣装やターバンを、当時の他のヨーロッパ人たちも東方世界滞在中に身に着けていた。そしてその彼らの姿を、リオタールはコンスタンティノープルで描いている。ヨーロッパ人がトルコの衣装を身に着けたのは、ゆったりとした仕立ての衣服の着心地の良さ、そしてデザイン性の高さゆえであった。たとえばイギリスの駐トルコ大使の妻・モンタギュー夫人は、ムスリムの衣装の色彩・刺繍・宝飾について、好意的な意見を手紙の中で述べている。

またムスリム式衣装とひげ面の風貌を特徴とする自画像に関しては、先例として、17世紀にレンブラントが描いた、パリのプティ・パレ美術館所蔵の作品がある。同作中でレンブラントは、ターバンを頭に巻き、寛衣に帯を締め、紫のガウンを身にまとっている。レンブラントは東方に旅したことはなかったが、オリエント世界の文物を収集しており、その東洋趣味に基づき選んだ服飾で装った自らの姿をこの作品では描いている。

だがレンブラントと違い、リオタールは東方世界を旅し、同地の衣装を日常的に着用した。また、同時代の他のトルコ滞在経験者たちはヨーロッパに帰ればもはや東方世界の衣服を着用することはなかったが、リオタールは晩年までそれを身に着け、長髯も維持した。同時代の西洋人の目には珍奇と映ったリオタールのこの姿形は、18世紀ヨーロッパ各国の資料中でもしばしば言及されている。

リオタールが、ムスリム式の装いで衆目を集めようとしていたことは明らかであり、その意図は、フィレンツェの自画像の銘文からもうかがうことができる。画家は、画面左上に姓名、出身地、制作年と制作地に加え、「トルコの画家とあだ名される」と大きな文字で記している。そして「あだ名」について記すこの部分は、自画像に描かれた画家のムスリム風の装束とひげに注目するように促しているといえる。実際リオタールの珍しい姿はヨーロッパの各都市で人々の注目の的となり、一躍有名人となったリオタールは神聖ローマ皇帝・フランス国王・舞台俳優からジュネーヴの銀行家まで様々な人物たちの肖像画を描き、複数の国で大きな経済的成功を収めた。

しかしリオタールの栄光の日々は長くは続かなかった。同時代の証言によると、リオタールは晩年までムスリム式の装いを止めなかったが、人々の好奇のまなざしはだんだんとこの画家に向かわなくなっていった。18世紀後半には新古典主義の趣味が興隆する一方で、リオタールのムスリム風扮装に対する人々の興味関心はすっかり衰えてしまった。珍し物好き・新し物好きの人々は、飽きるのも早かったようである。では新古典主義の趣味に迎合して、フランスの画家J.L.ダヴィッドの一部の弟子たちが19世紀初頭にしたように、今度は古代ギリシア風の衣装を身に着けていれば、リオタールは人気回復を図れただろうか。だがそれも、物語画をほとんど描かず、古代の文化に関心を示さなかったリオタールには恐らく難しかっただろう。

ただし己の外観を珍奇な姿に装うことで人々の注目を集めようとする努力は、リオタール以降の造形作家たちによっても続けられている。そのうち現代日本の例としては、赤い頭髪に、彼女の作品を思わせる赤と黒の水玉模様の衣装で人前に姿を現す草間彌生、あるいは、展示する自作に合わせ、ある時は宝誌和尚像風羅漢に扮し、また別の時には青と紫で彩られた異色のタコをモチーフにした被り物とジャケットを着け登場してみせた村上隆を挙げることができる。リオタールが生涯を通して試みた人目を引く扮装による自己宣伝の手法は、21世紀においても依然有効性を認められ、新しい時代の芸術家たちにより継承・実践されていくようである。

音楽を書き留めることの努力と限界
川田 早苗

ミシェル・コレットMichel Corretteという作曲家をご存知だろうか。バロック期の音楽を演奏する人にはおなじみの名前だが、一般的にはほとんど知られていない。彼は1707年にルーアンで生まれ、1795年パリで長い生涯を閉じた。なんとルイ14世治世の黄昏から革命の最中まで存命したのだ。王から特権を得て出版業にも従事していたことから、多作な彼の作品は印刷譜の形で今日まで残されることとなった。イタリア音楽の紹介者でもあり、教育者として教則本も多数出版している。

現在、私は彼の音楽教則本を翻訳している。当時の音楽原則を、旧来の方法と比較しながら記述しており、バロックからロココ様式への演奏習慣の変遷を見る際の貴重な資料となっており、多くの情報が含まれている。

17~18世紀は、近代五線譜といわれる現在の楽譜形態への過渡期にあたるが、彼の教則本が印刷された18世紀後半当時はまだ、イタリアとフランスの間にも、また現在との間にも違いがあった。近代の楽譜は、18世紀半ばのイタリアの方法が基本となっており、それが欧州全体で採用され、現在まで残ってきたということも彼の教則本から理解できる。

同時に序文は、当時の近代五線譜による記譜法が、なんの議論もなく受け入れられたわけではないことも伝えている。楽譜には記号が多く複雑なため、演奏をする前に楽譜と格闘しなければいけない人たちがおり、その苦痛から彼らを解放しなければいけないという使命を持った様々な発案者によって、新しい方法が提案された。J.-J.ルソーもその一人であったことはよく知られている。

ルソーの発案(実際にはすべてが彼のオリジナルではない)は、五線譜を廃し、音名を1~7の数字に変え、オクターヴ毎の音域を示すために符頭の横に点を付けた。ソヴールSauveurは、7音名から半音を含めた12音に変え、各音をPa, Pi, Ra, Go, Ga, So, Sa, Bo, Ba, Lo Du, Doと読んだ。またドゥモズDemozは、音名は変えないものの、五線譜を廃し、符頭の形と符尾の向きを変えて、音域を表わそうとした。

実際にはこれらの方法は採用されず、近代五線譜が生き残ったわけだが、コレットも言及しているように、これらの「非現実的」で「パラロジスムに溢れた」発案は、音楽の理解をより困難にするだけなのにもかかわらず、なぜ、次々と表れたのだろうか。

この背景には、アマチュア演奏家という新たな固定層の誕生がある。楽譜の解読に苦しんだのも彼らだ。ルネサンス期までの音楽演奏は、町楽士という職業音楽家の専有であり、師匠から弟子へと口伝によって、その技や代々伝わる楽曲が継承されていった。それも多くは世襲であり、その技芸は門外不出であった。17世紀中頃には、王立アカデミーなど権威的な教育制度の創設・発展により、町楽士の制度は衰退・消滅するが、そこで職業音楽家は、教会のメトリーズで子供の総合的な教育の一環として音楽教育を受け、その後、王立アカデミーで王の音楽家になるために養成されるか、教会の音楽家になるという、ほぼ2つの道しかなかった。

ここに音楽演奏に熱中し始めた王族や貴族が、アマチュアとして演奏の世界に現れた。フランスでは、この現象が18世紀中に、ブルジョア層にまで広がることになる(大衆一般にまで広がるのは、まだ先の話であるが)。平行して、彼らを顧客とした音楽の個人教授も現れる。このアマチュア層の拡大は、王室や教会に限定されていた音楽家のキャリアが、それ以外の場へと広がっていく契機になった。

新たな演奏者層の拡大は、印刷業界にも変化をもたらした。職業音楽家たちは、個人教授として新たな生徒を獲得するために、自身の作品や理論書の出版を利用した。出版譜の序文には、自宅の住所と共に「(私の作品や理論を)さらに知りたければ、いつでも私のところに来なさい」などと書いてあるのだ。

フランスでは、18世紀の銅版を使った彫版印刷が主流になり、記譜法の発展とアマチュアの拡大に貢献した。バラール社が独占していた活版印刷は高価であるだけでなく、作曲家の意図を表示するには限界があった。例えばクレッシェンドやスラーなどの記号は活版印刷では難しいが、彫版印刷では容易に表示することができた。オットテールJ.-M. Hotteterreは、最初は活版印刷で作品集を出版したが、後に彫版印刷により詳細な指示を付加して同じ作品集を再出版した。もちろんコレットの教則本も彫版印刷だ。しかし、これで作曲家の意図が余すところなく表示されたわけではない。

ここで問題になるのは、印刷譜にはない情報をいかに読み取り、演奏に反映していくかだ。アグレマンに関してはほぼ記譜されておらず、教則本を頼りに当時の演奏を現代に再現していくのだが、どの教則本の著者も、最終的にはいつもこう言うのだ。「良い趣味、慣例、良き師に従え」と。

フランス国立図書館の思い出
畑 浩一郎

私は憔悴しきっていた。時は2004年5月、場所はフランス国立図書館の敷地内にある警察の分署。2週間前に購入したばかりのノートPCを図書館内で盗まれてしまったのだ。いつもは盗難防止用の鍵をつけているのだが、ほんの5分ほど油断して席を離れた際の出来事だった。ハードディスクの中には執筆中の博士論文の原稿が入っており、バックアップを取っていない部分もある。生まれて初めて「調書」というものを取られながら、私は絶望の淵に沈んだ。その時である、分署の電話が鳴ったのは。ノートPCが見つかったというのだ。何と図書館入口近くのトイレの便器の中に投げ込んであったそうだ。盗難後すぐに私が馴染みの図書館員に泣きついたため、図書館側が出口を封鎖、と言うか出る人の持ち物チェックをしてくれていたらしい。そのため館外に持ち出すことができなくなり、止むを得ずトイレに放置されたのだろう。1日で地獄と天国の気持ちを味わうことになった。

世界で最も歴史が古く、世界最大の規模を誇る(パンフレットによる)図書館のひとつであるフランス国立図書館、通称BNFの起源は、14世紀にシャルル5世がルーヴル宮に創設した王室図書館に始まる。その後アンボワーズ、ブロワ、フォンテーヌブローなど置かれる場所は転々とするが、当時はまだ限られた人しか閲覧が許されない、国王の個人的な蔵書コレクションだった。フランス革命を機に国立図書館となり、教会や亡命貴族から没収した図書を始め、積極的な蔵書の収集が行われていく。19世紀には政治体制の変遷に合わせて、まず王立図書館と名を変え、やがて帝国図書館となると、また国立図書館へ戻って現在に至る。1996年以降、BNFはパリ左岸のトルビアックの旧ガラス工場跡地に建てられた超モダンな建築物(4冊の本が開かれて立っているのを想像していただきたい)を拠点としている。

フランス・ロマン主義の作家ジェラール・ド・ネルヴァルが1851年に発表した『塩密輸人たち』という作品の中に、この国立図書館について興味深い描写が見られる。話者はある時、フランクフルトの蚤の市で1冊の本を見つける。『世にも奇妙な出来事、ビュコワ神父殿の物語』という題で、どうやらバスティーユ牢獄からの脱獄ものらしい。興味をそそられるが、売り手の提示する値段がやや高い。きっとパリのどこかの図書館で見つかるだろうと判断した話者はそのまま蚤の市を後にする。パリに戻ると早速、彼は国立図書館に足を向ける。何人もの図書館員たちが丁寧に探してくれるが、本はどうしても見つからない。そのうちにビュコワ神父の大叔母アンジェリック・ド・ロングヴァルの手稿が国立古文書館の方で見つかり、ビュコワ神父の本が見つかるのを待つ間に、アンジェリックの物語が語られていくなど、話は脱線に脱線を重ねていく。

この作品を読んで強く感じるのは、この時代の国立図書館員の仕事の丁寧さと、それを乱用する図書館利用者の横暴ぶりである。図書館員たちはいずれも学識あふれる優秀な人々で、話者のために様々なカタログを調べ、書庫をひっくり返し、果ては綴りが違うのではないかと調査をやり直してくれる。だがこうした図書館員が通常相手にしなければならないのは、どこの貸本屋でも見つかるようなどうでもよい本を借りに来る人々で、彼らは図書館員に対しまるでカフェのギャルソンに向かって話すように横柄な口を利く。ただ暖を取るためだけにやって来る者もあり、また保育園代わりに子供を連れてくる者もある。こうした惨状を前に、図書館にはある種の貴族制が必要なのではないか、とネルヴァルは憤る。

ある時『ビュコワ神父の物語』の本が競売にかかることが判明する。最後まで話者と値を競ることになったのは、何と国立図書館の代理人だった。フランスを代表する図書館にとって不名誉となる欠本を補おうというのである。だが話者は何とか本を競り落とすことに成功し、晴れて「ビュコワ神父の物語」を語ることができるようになる。その仕事がひと段落すると、話者──ここではネルヴァル自身と考えてよい──は、その本を国立図書館に寄贈する。今この本をBNFのデジタルカタログで検索してみたが、確かに所蔵があり、閲覧も(特別な手続きが必要だが)可能なようである。

私事だが、今年度は私はサバティカルにあたり、4月から1年間パリに滞在している。毎日朝から晩までBNFの同じ席に座り仕事をしている。かつて博士論文を苦労して書いたこの場所はただひたすら懐かしく、また愛おしい。図書館員たちも相変わらず、有能で親切だ。ただ今年の7月にパリが酷暑に見舞われ、最高気温42度を記録した日には、BNFは涼を求める利用者で溢れ(パリの一般家庭にはエアコンは通常ない)、普段は使われないパソコンの乗った机にまでびっしりと人が座った。今も昔も、人のやることは変わらないものと見える。

マグレブ文学翻訳叢書《エル・アトラス》
石川 清子

シュルレアリスムで博士論文を書き、フランス現代文学を専門領域として研究していくなかで、いずれ本道に戻ってこようと「フランス語マグレブ文学」という脇道にそれ、20年以上が経ってしまった。「マグレブ」ではなくて「マグリブ」だと、アラビストからは叱られそうだが、フランス語原典に依拠しているため、この地のアラビア語固有名詞もフランス語読みに倣っている。たとえば、この文学の代表的作家、モロッコ出身のTahar Ben Jelloun はフランス語読みでタハール・ベン・ジェルーン(あるいはベン=ジェルーン)、アラビア語表音に近いターハル・ベン=ジェルーン(あるいはベン=ジェッルーン)と、複数の著者名表記で日本語訳が出ている。

1987年、そのベン・ジェルーンのゴンクール賞受賞をきっかけに、フランスの旧植民地だった北アフリカの仏語文学も世に知られるようになり、私もまた、この作家を導きの糸にしてモロッコ、アルジェリア、チュニジアの北アフリカ=マグレブの文学を読み出した一人である。フランスは戦後のヌーヴォー・ロマン以降の自国文学の衰退に活力を取り戻すべく、フランス語を使用するかつての植民地に目を向け、フランス語圏文学という領域に光を当て始めた。英語圏のポストコロニアル研究の興隆も、この文学を後押ししたが、旧宗主国フランスの文学が揺るぎない本流であって、フランス語圏文学とはフランスの外の世界に散らばる数多の支流である、という見方は未だ根強い。しかし、昨今の低迷する文学を活性化するのは、周縁部からもたらされる異種の力であろう。

90年代から日本でも、マグレブ仏語文学に関心をもつフランス文学研究者が少しずつ現れ始めた。2012年に一種物好きな研究仲間が集まってマグレブ文学研究会を結成し、細々とではあるが現在に至っている。日本で馴染みのない地域の文学研究を続けるには、翻訳による作品紹介が不可欠である。研究会メンバーで翻訳シリーズのリストを作成し、2016年に水声社から叢書《エル・アトラス》として刊行開始、現在4作品が世に出ている。叢書名はモロッコからチュニジアを横断するアトラス山脈に因んでいる。出版の世界、さらには外国文学翻訳の世界から見てもささやかな出来事であるが、話題性のないマイナーな文学で、自己満足に見えかねない研究の成果をかたちにしてくださる出版社に深く感謝したい。

既刊の4作を簡単に紹介したい(括弧内は刊行年)。マグレブ仏語文学の出発点となるムルド・フェラウン『貧者の息子』(1950年)、アルジェリア独立後の矛盾を辺境の村から語るラシード・ミムニ『部族の誇り』(1989年)、カミュの名作をアラブ人側から読み直した話題作、カメル・ダーウド『もうひとつの「異邦人」』(2014年)、フランスにおける戦後マグレブ移民の歴史をたどったヤミナ・ベンギギ『移民の記憶』(1997年)。

シリーズはマグレブ出身の作家が基本だが、フランスによる植民地支配の長さと深さを反映して、アルジェリアの作家が圧倒的に多い。ムルード・マムリ、モアメド・ディブ、アシア・ジェバール、ブーアレーム・サンサールと、いわゆる第1世代から現在活躍中の作家までを入れた。また、純粋にマグレブ出自の作家には限定せず、マグレブに深く関わりをもつ作家を選んだので、フランスの移民第2世代の作家、そしてアルベール・カミュも加わる予定。私の訳したベンギギはアルジェリア移民の両親をもつフランス人映画監督で、訳した作品はドキュメンタリー映画に基づいたノンフィクションなので、純粋な文学作品ではない。だが「マグレブの遺産」という副題が示すとおり、フランスにおけるマグレブの存在に重心が置かれている。植民地支配の歴史や、人の移動が常態化しつつある現在の状況を鑑みると、地図上のマグレブに相当する地域だけからマグレブ的なるものを抽出するのでは、こぼれ落ちるものが多すぎる。たとえばフランスとアルジェリア、スペインとモロッコをきっぱり切り離して、単独の地域としてレッテル貼りして眺めるのは、私たちの発見を貧しいものにするだろう。移動と交流を繰り返してきた地中海の伝統を、マグレブ地域はしっかり受け継いでいる。

マグレブ仏語文学を始点にした翻訳だが、フランス語作品にとどまらず、アラビア語の小説も加わる予定である。たとえば、シリーズ中で刊行年が一番新しい、モロッコのアフマド・マディーニー、『サフサーフ通り』(2015年)、アルジェリアのアラビア語小説の名作、ターハル・ウァタール『地震』(1974年)。私はアラビア語習得を何度か試みて、毎回挫折しているので、アラビア語から訳したものを読めるのはありがたい。

日本に馴染みのないマグレブの文学紹介のために始めた翻訳であるが、シリーズ化されたことで、研究会メンバーの共同作業のようになりつつある。大きな書店、もしくはウェブ上で見つけて本をご覧になって頂ければ幸いである。

表紙説明

地中海の〈競技〉5:アルフォンソ10世の『チェス、さいころ、盤上ゲームの書』/毛塚 実江子

前号のバックギャモンに続き、盤上の競技=ゲーム、チェスの紹介となる。表紙はカスティリャ王アルフォンソ10世(在位1252-84)の名高い遊戯書『チェス、さいころ、盤上ゲームの書』(1283年、エル・エスコリアル王立修道院図書館MS T.I.6)の挿絵(f.64)である。キリスト教徒とイスラーム教徒がチェス盤に興じる姿は、宥和政策をとったアルフォンソ10世の治下のみならず、中世イベリア半島の「寛容」や「共存」の象徴として、多くの歴史書に採用されてきた。

同写本は、チェスとさいころと、盤上ゲームの3部構成であり、チェスに関する記述が3分の2を占める。チェスには実践的な解説と独自の戦術が記され、王侯貴族にふさわしい高度な知的技術を要するものとして認識されていたことが伺える。

全150点の挿絵の大多数がテキストの後、ページの3分の1程度の大きさで描かれるが、この表紙は全ページ大で、チェスのセクションの最後を飾る。場面も室内ではなく、屋外のテントである。チェス盤左のキリスト教徒は色白で明るい髪色、短い髭、右のイスラーム教徒はターバンに長い髭、剣を腰に帯びている。手の届く範囲に2種の長槍とフラスコ状の水差しが、手前とおそらく奥にも描かれている。

同写本ではキリスト教徒とイスラーム教徒はもちろん、ユダヤ教徒、騎士、奴隷、写字生など宮廷に関わる多種多様な老若男女が登場するが、チェスの勝負には社会的な階層意識が反映され、キリスト教徒、男性が勝利する傾向がある。そんななか、表紙ではイスラーム教徒が勝利している。これはなぜだろうか。

この挿絵の解釈には人物の同定も含め諸説あるが、筆者はチェスの先進国であったイスラーム世界に対する敬意によるものであろうと推測する。おそらくインドからペルシャ経由でアラブ世界にもたらされたチェスは、研究者マレーによれば、13世紀にはヨーロッパをはるかにしのぐ技術的水準にあった。同写本が制作された当時のセビーリャもチェスの中心地であり、同写本の103の戦局のうち88がアラブのスタイルを継承している。

巻頭の挿絵では、チェス盤、さいころ、盤上ゲーム盤をそれぞれ献上するターバンを巻いた3人の人物が描かれている(f.2)。明らかに東方三博士礼拝のパロディであり、捧げられる人物も同様にターバンを巻いたカリフ風で、同写本に幾度も登場するアルフォンソ王ではない。ここにもチェスの起源に関する敬意のようなものが伺える。

この表紙のような例外的な勝敗は、同写本では他に2例、キリスト教徒の女性に勝つムスリム女性(f.54)と、老いたムスリム男性に勝つ若いムスリム女性(f.40v)である。チェスの勝負の多くは同じ階層や共通した条件で行われるが、表紙の挿絵では、イスラーム教徒のみ武装し、キリスト教徒は丸腰で、勝負は全く同じ条件では描かれていない。この細かな差に当時の「共存」の複雑さを見るようである。