地中海学会月報

MONTHLY BULLETIN

学会からのお知らせ

4月研究会告知

下記の通り研究会を開催します。奮ってご参加ください。

テーマ:熊野における大会に向けて
発表者:林 雅彦氏,田村 義也氏,松﨑 照明氏,秋山 聰氏
日 時:4月14日(土)午後2時より
会 場:首都大学東京秋葉原サテライトキャンパス
(東京都千代田区外神田1-18-13 秋葉原ダイビル12階)
参加費:会員は無料,一般は500円

第42回地中海学会大会案内

第42回地中海学会大会を2018年6月9日,10日(土,日)の2日間,新宮市福祉センター(和歌山県新宮市野田1-1)において下記の通り開催します。

6月9日(土)
14:00~14:15 開会宣言本村 凌二氏
開会挨拶田岡 実千年氏(新宮市長)
14:15~15:15 記念講演「熊野の魅力」林 雅彦氏(明治大学名誉教授)
15:30~17:30 地中海トーキング「世界の中の熊野」
パネリスト:高木 亮英/松本 純一/奈良澤 由美/守川 知子/
司会:秋山 聰 各氏
17:40~18:10 授賞式 地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞
18:10~18:40 総会
19:00~21:00 懇親会
6月10日(日)
10:00~12:00 研究発表
「古代小麦の再評価におけるシチリア州小麦栽培試験研究所」牧 みぎわ
「西行歌にみる海浜の風景―「海人」への視線」中西 満義
「佐藤春夫と中国・台湾」辻本 雄一
「二つの聖地風景―那智熊野とゲミレル島(トルコ、ムーラ県)のHodology」辻 成史
13:00~16:00 シンポジウム「聖なるモノ」
パネリスト:山本 殖生/奥 健夫/太田 泉フロランス/加藤 耕一/
司会:松﨑 照明 各氏

新年度会費納入のお願い

2018年度の会費の納入をお願いいたします。不明点のある方,領収証を必要とされる方は,お手数ですが,事務局までご連絡下さい。

会費自動引落日(予定):4月23日(月)
会 費:正会員 1万3千円/シニア会員 8千円/準会員 8千円/学生会員 6千円
振込先:口座名「地中海学会」
    郵便振替00160-0-77515
    みずほ銀行九段支店普通957742
    三井住友銀行麹町支店普通216313

退会希望の方は,書面にて事務局へお申し出下さい。4月2日(月)までにご連絡がない場合は新年度へ継続とさせて頂きます。会費の未納がある場合は退会手続きができませんので、ご注意下さい。

2017年度常任委員会報告

・第1回常任委員会
日 時:2017年10月14日(土)
会 場:首都大学東京秋葉原サテライトキャンパス
報告事項:第41回大会及び会計に関して/研究会に関して/企画協力講座に関して 他
審議事項:第42回大会に関して/新規会員種別への対応に関して/小委員会の活動状況に関して 他
・第2回常任委員会
日 時:2017年 12月9日(土)
会 場:首都大学東京秋葉原サテライトキャンパス
報告事項:『地中海学研究』XLI(2018)に関して/研究会に関して/企画協力講座に関して 他
審議事項:第42回大会に関して/地中海学会賞に関して/地中海学会ヘレンド賞に関して 他

熊野における大会に向けてⅡ
熊野への道
松﨑 照明

熊野は遠い。

熊野新宮まで名古屋経由でも,新幹線特急を乗り継いで約5時間かかる。

「熊野へ参らむと思えども 徒歩より参れば道遠しすぐれて山きびし 馬にて参れば苦行ならず 空より参らむ羽賜(た)べ若王子」

平安時代,後白河上皇によって編まれたと考えられている今様集『梁塵秘抄』の一首である。若王子とは熊野の御子神で熊野までの間で拝する九十九王子の一つ藤代王子の事らしく「王子に羽をもらって空から行こうか」というほどの意味である。古来熊野へ参詣するには主に4つの道が使われていた。紀伊路田辺から内陸を本宮に向かう中辺路,海岸沿いに那智,新宮へ向かう大辺路,紀伊路から高野山をへて本宮に至る小辺路,そして伊勢路から熊野へ入る道である。平安中期から盛んになる熊野詣では,出発に先立って精進屋に数日籠って肉,魚,匂いのする野菜を絶ち,言葉や行いを謹んで身を清める精進潔斎に始まり,道中でも祓や海辺,川辺での水垢離,王子社での奉幣などを行いながら約1か月かけて往復約600㎞を歩いた。建仁元年(1201)10月,後鳥羽院3回目の熊野御幸に供奉した藤原定家は早朝に出発,輿に乗り,馬を走らせて先触れや王子社での奉幣,経供養の準備と走りまわった。本宮への最後の山越え「手を立つが如」き難所雲取越えの道では大雨に会い輿の中は水浸しで,「終日嶮岨を超す,心中夢の如し。いまだかくの如き事に遇わず」と書いている。

熊野の参詣には,これよりも更なる苦行の道がある。それが大峰奥駈けの道である。都から吉野,金峰,大峰山頂までの参詣路は熊野詣が盛んになる以前,平安中期には御嶽詣といわれて貴族たちも登拝し,寛弘4年藤原道長が参詣した時,山頂(山上岳)に納めた経筒(国宝)は名高い。しかしこの道は『新猿楽記』(11世紀中頃か)に「(真言師)次郎ハ…一生不犯ノ大験者…久修練行年深く…大峰葛木ヲ通リ(礒ノ)辺路ヲ踏ムコト年々ナリ」,『梁塵秘抄』に「聖の住所は何処何処ぞ,大峰葛城,石の鎚…」と修験者(山伏)が修行する筆頭の行場として挙げられた山岳修行の道だった。吉野を早朝4時に出発,拝所を拝み,碑伝を供えながら標高1719mの山上ヶ岳まで1日で一気に登る。1484mの洞辻茶屋から先は大岩が連なる行場で絶壁をよじ登る鐘掛岩,新客が断崖で逆さ吊りにされる覗きの行をする表行場。裏行場の岩窟を抜ける胎内くぐり,切り立った岩をしがみついて回る平等岩めぐりの行を終え,山上大峰山寺(国重文)で護摩行,山上参籠所で1泊して,ここからが奥駈けの道(古くは小篠から)で,標高1700m級の険しい山々を毎日平均約20㎞本来は10日間ほど歩く。聖宝修行の小篠,名だたる行者が籠った秘所「笙の窟」,難行苦行,疲労困憊で本宮に至る。能楽の「谷行」に残るように,もしも山中で病気や怪我で修行を続けられなくなれば谷へ落され,生き埋めにされる谷行が定めだった。

人は何故こうまでして熊野に行きたがったのか。それは恐らく熊野(隈・くらい野)が都から遠く離れた僻地,半島南端にあったからである。そこは『日本書紀』(神代巻7)にイザナミ尊を「葬りまつる」と伝えられる「花の窟」,平安初期の『日本霊異記』にある山に入り両足を麻縄でつなぎ岩にかけて身を投げ屍骸となっても舌は腐らず経を読んでいた僧,貞観10年(868)から記録のある,小舟に乗って観音の補陀落浄土を目指して海に死ぬ補陀落渡海,『法華験記』(1040~44鎮源選)の那智山における応照上人の焼身往生(火定),どれも日本最古の死(風葬,山中海上他界)にかかわっている。

しかし,この地は死と闇だけの場所ではない。そこは自然に戻ることで心身を復活させ,宗教的な装置(システム)によって魂を救済蘇生させる場所でもあった。

目も見えず口もきけない餓鬼姿の小栗は熊野の湯(湯之峯)を浴びて元の姿に戻り(説教節『小栗判官物語」),念仏札を受け取ることを拒まれ布教に悩んだ一遍(1239~89)は熊野本宮証誠殿で「信不信をえらばず札を配るべし」(『一遍聖絵』1299)という神勅を受けて悟り,一生念仏札を配り続ける。そして今この瞬間にも大峰山中では山伏が万人の無事を祈って修行を続け,那智の行場を復興し正月厳寒の滝壺に入って修行した修験者は参詣者のために護摩を焚き続けている。

人はそこで一度死んで再生する。死は生に転じ,俗は聖に,賤は貴に変換される。歴史によって凝縮し完成されたこのシステムは全世界の文化に共通する「聖なるモノ」の生成の原理のように思われる。

定家は本宮を見て「感涙禁じ難し」と感動し,先の『梁塵秘抄』は「熊野へ参るには 紀路と伊勢路とどれ近しどれ遠し 広大慈悲のみちなれば 紀路も伊勢路も遠からず」と詠う。

学会参加には前行も,厳しい修行の道を経る必要もないが,電車で5時間の道程はそれに代わるものとしてある。

熊野はあなたを待っている。

研究会要旨
16世紀の教皇空位期における都市ローマの統治状況
原田 亜希子
12月9日/首都大学東京 秋葉原サテライトキャンパス

選挙制をとる教皇には,前教皇の死から新教皇選出まで権力が不在となる空位期が頻繁に存在した。本報告ではこの教皇空位期に注目する。16世紀以降,教皇個人に権力を集中させることで中央集権化を確立していった教会国家にとって,空位期に対処することは死活問題であり,首都であるローマはその影響を最も受けることになった。そこで,教皇の不在によって既存のバランスが大きく変化する空位期にどのような要素が都市ローマにおいて権限を有していたのかを,近年の儀礼研究の成果も踏まえて明らかにした。そしてその中でローマ都市政府がこれらの要素とどのような関係を構築し,どのような活動を行っていたのかを,都市政府の空位期専用会議記録を用いて考察を行った。これらの考察から,平常時には見られない都市の複雑な権力構造を確認すると同時に,その中でローマ都市政府が状況にどのように対処していたのかを明らかにすることを目指した。

空位期に都市ローマに権限を有していたものとして,まず教皇庁が挙げられる。中世以降,教皇庁では空位期に秩序を与えるための様々な儀礼が発展すると同時に,教皇選出方法(コンクラーベ)や,空位期に教皇庁を指揮する枢機卿団の権限に関しての法的規定が定められていった。中でも13世紀以降の教皇の世俗権力の拡大に伴い問題となったのが,空位期に枢機卿団が持つ世俗権限である。各規程によって法的には枢機卿に新教皇選出以外の全ての世俗活動が禁止されていくものの,実際には近世においても彼らの活動は続けられた。特に16世紀には教皇庁内に都市ローマに権限を持つ役職が確立していたことから,彼らとともにそれまで以上に枢機卿団がローマの統治に積極的に関わっていたといえる。

これに対して空位期に法的に唯一従来の活動の維持を認められていたのが,都市政府である。15世紀以降教皇庁のもとで権限を奪われつつあった都市政府にとって,空位期は自らの伝統的活動を取り戻す最大のチャンスであり,会議の開催や布告の発布,市門や地区の管理など,都市に根ざす都市政府の役職がその機能を最大限に活用することで,都市の治安を維持するために平時よりも活発に活動していたことが確認できる。

また同じく空位期を利用して都市における自らの活動範囲を広げたのが,ローマの伝統的封建貴族層(バローニ)である。近世のバローニは表向きは都市政府の活動に参加できず,衰退したとみなされてきたが,実際にはローマ近郊の封土や伝統的人的つながりを利用することで市内に権限を保持しており,そのことが最も顕著に現れるのが空位期だった。バローニは武力勢力によって自らに有利な教皇が選出されるよう教皇選出に圧力をかけ,彼らの持つ国際的クライアント関係を利用することで,空位期の都市に影響力を行使し続けていたのだ。

このように空位期には様々な要素が都市に権限を行使していたが,次にこれらの要素の間にどのような関係が構築されていたのかを,ローマ都市政府の活動状況から考察した。まず一つに司法権を巡る状況である。空位期は多くの場合ローマの治安が大幅に悪化し,対処を迫られたのが市内の司法権を管轄する教皇庁と都市政府の役職者である。平時には権限を求めて対立関係にある彼らだが,空位期には都市の治安を維持するという共通の目的の前に協調関係が主張され,行進という儀式を通じて表明されていたことがうかがえる。しかしこれはあくまで都市政府の権利が保障されている限りにおいてであり,教皇庁の役職者が都市政府の活動を侵害した場合には反発が起こり,空位期を利用して都市政府が平時よりも活発に活動していたことも確認できた。

また都市政府と教皇庁との関係は,前教皇によって奪われた都市の伝統的特権の返還を求めて都市政府が行う恩恵の請願からもうかがえる。さらに教皇庁による大幅な権利の侵害に対しては,この恩恵の請願だけではなく,都市政府はバローニとの共同路線を利用して都市の伝統的特権を保持しようとした。ただしこのような共同路線は教皇庁の打倒を目的としたものではない。ローマの発展を教皇庁の存在に負っているために,あくまで既存のバランス関係を大きく変えるつもりはないものの,一方で都市に対する権限が著しく侵害された際には,空位期という非常事態に都市政府,バローニがともに互いの存在を利用しあうことで,教皇庁に対して自らの「最大の利益」を得ようと画策していたのである。

このように空位期に都市に存在する諸勢力は,治安維持のために協力関係を結びながらも,自らの利益を確保するために,時に対立,譲歩を繰り返す複雑な関係を構築していた。予測できないとはいえ,定期的に必ずやってくる空位期の存在をローマ都市政府は長期的活動の中で意識し,それぞれの要素との不断の交渉を通じた複雑なバランス関係を再構築する絶好の機会として重視していたといえるのである。

ジェルバ島のイバード集落
松原 康介

地中海で10番目に大きなこの島(514km²)には,オルリー空港から3時間程のフライトで行ける。着陸態勢に入った飛行機の窓からは,海に縁取られた島の輪郭と,土漠のような大地に点々と生えるオリーブの樹木,そして大地に貼りつく白い集落が見える。そんなジェルバ島の景観と,その背景にある人々の暮らし,とりわけイスラーム教イバード派の集落空間について当たりをつけることが旅の目的であった。

ジェルバ島の歴史は,島の外からやってきた様々な人々の受け入れの歴史であった。前15世紀には,原住民たるベルベル人が,フェニキアの植民国家であるカルタゴと交易していたといわれる。続いて交易と漁業,農業によってゆるやかに栄えていた島にやってきたのが,前586年に陥落したエルサレムからディアスポラ(離散)を開始したユダヤ人であった。トーラー(律法書)を抱えて流浪した後にジェルバ島に辿りついたユダヤ人は,漁業と農業には目もくれず,自らの集落としてハーラ・ケビーラ(大きな地区)とハーラ・セギーラ(小さな地区;現在はエリアーダと呼ばれる)を内陸部に形成し,もっぱら商業に従事した。多いときには5千人を超えていたユダヤ人住民は,しかし,今日では千人に満たない。

島への更なる来訪者は,イスラームの異端であるイバード派の人々であった。バスラで成立したイバード派は,スンナ派の中央政府に追われ,8世紀にアルジェリアのターハルト(ティアレット)に逃れてルスタム朝を建国したが,10世紀に滅ぼされた。この際,南に逃れた人々がムザブの谷に秘境ガルダイヤを建設する一方,ジェルバ島に逃れた一派はそこでスンナ派と和解しつつ,独自の教義を守りながら今日に至っている。

ガルダイヤといえば,戦前を通じて不遇だったル・コルビュジエが来訪し,その美しさにインスピレーションを受けてスケッチに残し,戦後復興の一貫であったロンシャン教会の作風に影響を与えたとされ,以後建築家たちの巡礼の場となった集落である。日本からは,例えば原広司が70年代に調査に訪れ,集落が微細な計画によって形成され部分と全体が入れ子状の関係にあることを指摘している。では,同じくイバード派の人々が流浪の果てにたどり着いたジェルバ島にも,そのような原体験を期待できるのではないだろうか?

ユダヤの集落を車で抜けると土漠のような大地が続く。道路に沿って背の高いナツメヤシが並んでいる。ホメーロス『オデュッセイア』では,島に漂着したオデュッセウスがその甘美な味わいに帰国をしばし忘れたという「ロトスの実」が描かれているが,それがこのナツメヤシだといわれている。チュニジアの名産であるオリーブの木もそこかしこに生えている。島には雨は少なく,土地は決して肥沃とはいえないが,住民は井戸を掘って農業用水とし,羊やヤギ,鶏などのわずかな家畜とともに生計を立ててきた。住宅に接してよく見かける,子供用プールのような白い漆喰塗りの平たい水槽は,雨水を集めて地下に貯める形式の取水槽である。このように,住居を中心に井戸,家畜小屋,作業場,倉庫,などからなるいわば屋敷地をホウシュと呼び,平坦な土漠地帯に特徴的な居住形態の一つとみられている。

恐らくそのためであろう,ジェルバ島の白くなめらかな漆喰塗りのモスクには,以前に訪れたガルダイヤのそれを思い起こさせるものが多い。そのうちの一つ,島の東北に位置するファドゥルーン・モスクは,14世紀にイバード派によって創建されたモスクである。訪れてみると,モスクを中心に,複数のドームを持つマドラサ(学校)と,製油臼小屋,パン焼き釜,それに大規模な取水槽が付設された複合施設である。全体が低い壁で囲われており,その全てが白く分厚い漆喰により塗り固められている。モスク本体は,地盤と躯体,躯体をしっかりと支えるバットレス,そして短めのミナレットから構成されている。構造的には木造と日干し煉瓦造の混交であるが,漆喰のおかげでなめらかで丸みを帯びて,かつどっしりとした印象を与える。室内を覗くと,やはり白く塗られた柱廊空間が広がっている。中庭はなく,薄暗い本堂に僅かな光が窓や階段から差し込んでいるさまが,ガルダイヤのシディ・ブラヒムモスクに確かに似ている。施設周辺にはヤシの木のオアシスが隣接している。

なるほど,ここには確かに,隠された島の秘境といった趣きがあるのだろう。聞くところによると,イバード派の教義はガルダイヤにおいては秘儀とされ近づくことすら容易ではないが,ジェルバ島の生活様式からわかることもあるということで,近年は研究者が注目しているそうだ。イバード派を経由して,ジェルバ島からガルダイヤ,そしてル・コルビュジエのロンシャンを幻視することができるとしたら,それは近代都市・建築論においても決して少なくない意味を持つであろう。

素人のイタリア語あれこれ
田辺 和光

昔のことになるが1990年から1993年にかけてイタリアのヴェネト州に駐在する機会を得た。イタリア語を全く知らない状態での急な赴任だったので,初めて現地に向かう飛行機の中で勉強を始めた。uno,due,tre,….. grazieまでは何とかすぐ覚えられたものの,pregoはどうしてもde nada(スペイン語)に引きずられ,arrivederciはアリベデルチがアベリデルチになる始末。それでも1~2年するうちには片言が話せようになっていた。ある日のこと,同僚から「どうして君は今日はそんなにallegro(陽気)なのか?」と訊かれた。allegroといえば音楽の授業では速度記号として教えられるが,実は表情を示す記号であることを実感した。allegroに演奏すれば当然スピードはそれなりに速くなるもの。昔,中学校の音楽のテストで「allgroは♪=○~△,○と△に入る数字を示せ」という出題があった。今考えれば何と無意味なことか。

ヴェネツィアの運河を水上バスに乗っていると停留所にはfermataと書いてある。対応する動詞の原型はfermare(英stop)であるから停留所をfermataと呼ぶことは何の違和感もない。しかし音楽の授業では fermataは「その音符または休符を持続させる」と教えられる。fermataなのだから,動きを止めてその音をすぐに中止するべきでないのか?解答は辞書にあった。 fermare il tempo(時間を止める)という言い回しがある。そうか,状態を持続させるから,その結果として時間が止まったように感じられるのだ。

ヴェネツィアの水上バスにはaccelerato(英accelarated)という船がある。加速する船だから急行バスかと思いきや各駅停船の緩行バスである。物理の世界では物が静止状態または等速直線運動をしている間は加速度ゼロということになる。各停留所に停船するから,再び動き出すたびに加速度をつけねばならない。だから acceleratoと呼ぶのではないだろうか。それに対し主要停留所しか停まらないバスはdiretto(英direct)と呼ばれる。決してespresso(英express)やrapido (英rapid)とは呼ばない。途中停まらないが,特に速くもなく運航するから単にdirettoと呼ぶのかもしれない。ただし仮に一定の速度で運航していても加速度はゼロでない。何故ならばヴェネツィアの運河は曲がっているので等速であっても直線運動とはなり得ない。だから常に回転の加速度がかかっている。その意味でdirettoもまたacceleratoである。

見かけ上,イタリア語と他の言語では違う意味になっている場合がある。よく知られている例であるが,Sarah BrightmanとAndrea Bocelliの共演による「Time To Say Goodbye」。恋人達の別れ話の歌と思いきやオリジナルのイタリア語曲名は「Con Te Partirò (君と旅立つのだ)」。英語の意味は,「(今の生活に)別れを告げるとき(=新しい生活に旅立つとき)」の意味なのだろう。気になるのは旋律の中でのアクセントの置き方。英語で歌えばTime To Say Goodbyeとbyeにアクセントが置かれ自然に聞こえるが,イタリア語ではCon Te Partiròとなってtiにアクセントが置かれている。ròに置かれなければ自然な響きでない。それに比べPucciniの歌劇「Turandot」のアリア「Nessun dorma(誰も寝てはならぬ)」では最後を「All’alba vincerò! Vincerò! Vincerò!(夜明けと共に私は勝つ! 勝つぞ! 勝つぞ!)」で締めくくる。最初のvinceròはvinにアクセントが置かれているが,2番目と3番目のvinceはきちんとròにアクセントが置かれている。 Vincerò(英I shall win. /勝つべくして勝つ)のshallの感じが次第に力強く響きわたって心地良い。

話を「Con Te Partirò(君と旅立つのだ)」に戻そう。partiròだから主語は一人称で単数。あくまでも私がいて君がいて二人は別人。かつてイタリアでio siamo(英I are)と書かれた看板を見かけた。文法的には完全な誤りで,正しくはio sono(英I am)またはnoi siamo(英we are)。実は若い恋人達の心情を表現したもので,私と君の心がひとつとなった状態を表現していた。美しい言葉遊びである。

別の広告看板には単に eravamo…と書かれていた。背景は1920年代と思われる海辺のリゾートのモノクロ写真。人影は無い。eravamoはコピュラ動詞essereの半過去一人称複数形。老夫婦が昔を懐かしんで「昔はそうだったよね」と言っている姿が目に浮かぶ。これを英訳したらWe used to be….となってしまう。一言で感情や雰囲気まで言ってしまうイタリア語の何と表現力の豊かなことか。

これからもallegroに生きたいと思う。ma non troppo(でもやりすぎないように)。

自著を語る92
E・ル゠ロワ゠ラデュリ&A・ビュルギエール監修 浜名優美監訳
叢書『アナール 1929-2010』(全5巻)
藤原書店 2010年11月~2017年06月 400~576頁 6,800~8,800円+税
浜名 優美

歴史学に革命を起こした雑誌『アナール』の創刊号から2010年までの論文のアンソロジーをつくるという「とんでもない」企画は藤原書店社長によるものであり,この世界初の企画に賛同したビュルギエールとル゠ロワ゠ラデュリの2人の歴史家が全体の編集に当たった。したがって本書にはフランスに原書があるわけではなく,原稿はすべて『アナール』掲載の論文のコピーである(今ではすべての論文をインターネット上で無料で読むことができる)。全5巻の構成は論文発表の年代順となっていて,第1巻は1929-1945年,第2巻は1946-1957,第3巻は1958-1968,第4巻は1969-1979,第5巻は1980-2010である(第2巻から第4巻は10年区切りで,やや機械的である)。第5巻の標題は2010年までとなっているが,のちの時代にまで影響を及ぼしたものとしては2002年までの論文が選ばれている。この『叢書』全5巻に収録された論文の数は全部で71編である。

『アナール』80年の歴史を俯瞰するこのアンソロジーの編集方針は,『アナール』の論文採択の方針と一致している。「序文」でビュルギエールが述べているように,「ある論文が『アナール』に採り上げられるようになるのは,考察対象の時代や領域の重要性ではなく,その論文が提起している問題の独自性と,その問題に答えるために論文が実際に用いているデータの活用方法の独自性による。」ハミルトンの「経済革命期のカスティーリャにおける通貨」,ブロックの「中世における金の問題」などが第1巻に選ばれるのは,社会経済史に重きを置いた『アナール』としては当然だが,技術史と社会史を結ぶ画期的なブロックの研究「水車の出現と普及」はまさに「アナールの精神」を代表するものとして現在に至るまで読み継がれるべき論文のひとつである。またフェーヴルの「歴史学,経済学,統計学」,ベルクの「モロッコの土地について」,デュメジルの「若者,永遠,夜明け」は,まさに『アナール』が創刊当時から目指した学際性を示すものとなっているし,フェーヴルの「いかにして往時の感情生活を再現するか」は,のちに流行にまで発展する感性の歴史の嚆矢である。社会史,経済史を重視するあまり政治史をおろそかにしていたと批判されることもあるアナール派だが,ヴァルガの「フォラールベルク州のある谷間の村」のナチス問題の考察を読むとき,これが1936年に発表された意義を考慮に入れるとますます民族学,歴史学,政治学が一体化しているという印象を受ける実に興味深い論文である。

以下,基本的に同じ方針で選び抜かれた論文が第5巻まで続くわけだが,すべての論文を紹介するページの余裕はないので,ここではわたしの個人的な関心を引いた論文についてコメントしてみることにしよう。まずブローデルの全体史のマニフェストとも言うべき「長期持続」のような古典的論文が採択されるのは当然であるが,これを読み直すと改めて歴史学における長期的視点と他の社会科学との連携の重要性に気づかされる。人口歴史学の古典となったグベールの「ボーヴェジにて―17世紀における人口学的問題」や,ブローデルが強調していた共同研究の成果のひとつ「中世初期のペスト」(ル゠ゴフ,ビラバン)やル゠ロワ゠ラデュリの「歴史と気候」などはいわゆる重要論文に属する。アルヴァクスの「シカゴ」,フリードマンの「アメリカ産業界における人的要素の諸問題」,のちに『モードの体系』で記号学の旗手となるバルトの「衣服の歴史学と社会学」,グリバルディ「労働者の空間と社会的経歴」,リンシャン,ティロー共著の「中国における正義の意味―新たな労働権を求めて」などには,社会学の視点が明確に見られるし,リンシャン,ティロー論文は現在の中国労働者の問題を考える上で必読であろう。

数量史の権威となったピエール・ショーニュの論文は第2巻に2編収録されたが,「イエズス会の日本での活動開始」を副題とする「経済界,金融界の一大勢力」すなわちイエズス会の活動を布教活動の基盤となる資金調達=財政の観点から絹と武器の仲買人であったことを権力政策の必然として解明した論文はきわめて興味深いものであった。キリスト教世界における高利貸しのなかでわたしにとって最も有名なのは,シェイクスピアの『ヴェニスの商人』のシャイロックであったが,長いこと無知ゆえに高利貸しがなぜいけないのか理解できないままであった。しかしル゠ゴフの「中世における教会の時間と商人の時間」の冒頭で「商人たちに対して投げかけられる不満の第一は,彼らの儲けが,神にのみ属するものである時間を抵当に取ることを前提としているという非難である」という文に出会ったとき,いままでの謎が一挙に解けたのである。

わたしたちの翻訳が日本の歴史学界に少しでも貢献できれば幸いだと思っている。

表紙説明

地中海の〈城〉12:アッコの十字軍城塞/太田 敬子

アッコʿAkkōは,イスラエル北部の西ガリラヤ地方に位置する北部地区にある。アラビア語ではアッカー,英語ではアクレと呼ばれる。アッコは地中海に面した港湾都市であり,古来東地中海交易の拠点として栄えた。

十字軍によるアッコの占領は1104年のことである。アッコ攻撃に際してイェルサレム王ボードゥアン1世は90隻以上の戦艦で町を封鎖したという。占領後,十字軍は同市を堅牢な港湾城塞都市として発展させた。アッコがムスリムの手に再び帰したのは1187年7月のヒッティーンの戦いの後である。ヒッティーンで十字軍に大勝利を収めた後,サラーフ・アッディーン(サラディン)は速やかに軍を展開し,7月9日にアッコを征服した。ヒッティーンにおける惨敗とイェルサレム陥落の知らせは西ヨーロッパに伝わり,教皇グレゴリウス8世は救援を訴える教皇勅書を公布した。

一方,イェルサレム王ギー・ド・リュジニャンは,1189年になると反撃を開始,8月28日,52隻のピサ船に伴われてアッコの前に陣を張った。さらにヨーロッパ各地から十字軍の先発部隊がつぎつぎと到着し,アッコ包囲戦に加わった。こうして第3回十字軍はアッコを巡る攻防戦となった。1189年9月,サラーフ・アッディーン自身がアッコに到来したときには,すでにキリスト教徒軍は膨大な数になり,町の包囲体制を固めていた。ムスリム軍はギーの軍を外側から逆包囲する形で布陣した。1190年になると,国王に率いられた本格的十字軍団が聖地へと出発,フランス王フィッリプ2世は1191年4月に海路でアッコに到着,イングランド王リチャード1世も6月に合流した。これに対して,サラーフ・アッディーンは増援部隊をエジプトから呼び寄せ,50隻のエジプト艦隊もアッコ沖に展開した。アッコ包囲は町の守備隊,町を包囲している十字軍,さらにそれを外から攻めるムスリム軍との間の複雑な戦闘となった。

7月になると町の城壁の一部が十字軍の攻城機によって破壊された。城内の守備隊は疲弊し,7月12日にアッコはキリスト教徒に引き渡された。イェルサレムを失ったとはいえ,13世紀に亘り,アッコは貿易によって大きな利益を上げていた。当時アッコの歳入はイングランド王国全土のそれとほぼ匹敵していたという。しかしながら,アッコの繁栄は1250年より新たなエジプトの支配者となったマムルーク朝によって脅かされていく。

1290年,マムルーク朝第7代スルターン・カラーウーンはアッコ征伐に出陣したが,その直後の11月11日にカイロ郊外で亡くなった。後継者となったハリールは父の事業を受け継ぎ,1291年4月,大軍を率いてアッコに到来,大投石機を立てて包囲した。包囲攻撃は1ヶ月に及び,5月18日,マムルーク朝軍は町に突撃し侵入することに成功した。マムルーク朝軍は5月25日にアッコの城塞に入り,28日にアッコの市壁は破壊された。アッコの陥落はシリアにおける十字軍国家の終焉を象徴する出来事であった。