地中海学会月報

MONTHLY BULLETIN

学会からのお知らせ

「地中海学会ヘレンド賞」候補者募集

地中海学会では第23回「地中海学会ヘレンド賞」の候補者を下記の通り募集します。
授賞式は第42回大会において行う予定です。
応募を希望される方は申請用紙を事務局へご請求下さい。
地中海学会ヘレンド賞
一,地中海学会は,その事業の一つとして「地中海学会ヘレンド賞」を設ける。
二,本賞は奨励賞としての性格をもつものとする。本賞は,原則として会員を対象とする。
三,本賞の受賞者は,常任委員会が決定する。常任委員会は本賞の候補者を公募し,その業績審査に必要な選考小委員会を設け,その審議をうけて受賞者を決定する。
募集要項
自薦他薦を問わない。
受付期間:2018年1月9日(火)~ 2月8日(木)
応募用紙:学会規定の用紙を使用する。

第42回地中海学会大会

第42回地中海学会大会を2018年6月9日,10日(土,日)の2日間,
新宮市福祉センター(和歌山県新宮市野田1-1)において開催します。
最寄り駅(JR新宮駅)の到着列車の都合などを考慮して,
大会開始を通常より1時間繰り下げて,午後2時とします。
また,お泊まりの方は早めに宿泊所の予約をお願いします。
プログラムは決まり次第お知らせします。
大会研究発表募集
本大会の研究発表を募集します。発表を希望する会員は2月8日(木)までに
発表概要(1,000字以内。論旨を明らかにすること)を添えて事務局へお申し込み下さい。
発表時間は質疑応答を含めて一人30分の予定です。
採用は常任委員会における審査の上で決定します。

2月研究会

詳細は405号をご参照下さい。
テーマ:自著を語る──『時がつくる建築』について
発表者:加藤 耕一氏
日 時:2月17日(土)午後2時より
会 場:首都大学東京 秋葉原サテライトキャンパス
参加費:会員は無料,一般は500円

会費口座引落について

会費の口座引落にご協力をお願い致します(2018年度から適用します)。
会員各自の金融機関より「口座引落」を実施しております。
手続きの締切は2月16日(金)です。
なお,依頼書の3枚目(黒)は会員ご本人の控えとなっています。
事務局へは,1枚目と2枚目(緑,青)をお送り下さい。
すでに自動引落の登録をされている方で,引落用の口座を変更ご希望の方は,
新たに手続きが必要となります。用紙を事務局へご請求下さい。

常任委員会報告

・2016年度第3回常任委員会
日 時:2017年 2月18日(土)
会 場:首都大学東京 秋葉原サテライトキャンパス
報告事項:『地中海学研究』XL(2017)に関して/研究会に関して/石橋財団寄付助成金申請に関して 他
審議事項:第41回大会に関して/地中海学会賞・ヘレンド賞に関して/会長・役員改選に関して 他
・2016年度第4回常任委員会
日 時:2017年4月15日(土)
会 場:首都大学東京 秋葉原サテライトキャンパス
報告事項:第41回および第42回大会に関して/研究会に関して/企画講座に関して 他
審議事項:2016年度事業報告・決算に関して/2017年度事業計画・予算に関して/地中海学会賞・ヘレンド賞に関して/役員改選に関して 他

作られる帝国の穀倉
髙橋 亮介

ローマ帝国の最盛期,2世紀のエジプトで作られたギリシア語の農地貸借契約書を読んでいると,複数年にわたり農地が貸し出される場合,1年目に小麦を,2年目に飼料作物(放牧あるいは収穫用)を,そして再び小麦というように,小麦と飼料作物の輪作を規定するものがかなりある。もちろん大麦や野菜が耕作される旨が書かれていたり,「なんであれ借り手の望むもの」の作付けが認められていることもある。また農地貸借契約書からの情報が,ある地方や集落の耕作地の利用状況全般を反映しているわけでもない。それでも,小麦が主要作物であり,それに家畜(主に羊)のための飼料の栽培が組み合わされた農業景観を思い浮かべることができる。輪作については,飼料の需要が高かったという見方もあるが,同時に,ナイル川の氾濫が沃土をもたらすとはいえ,クローバーなどのマメ科の植物の栽培と放牧される家畜の排泄物により地味を回復させる工夫でもあったようである。

このような画一的な農業実践について研究会などで話すと,作物の病気や自然災害といったリスクを軽減するための多様な栽培戦略は取られなかったのかと質問されることがしばしばあった。これに対して,エジプトでは一人の農民が異なる土地を耕作することはあっても,同一あるいは近い水路から水を得ており,環境の違いもさほどないため,リスク分散の効果は薄く,同じような作物を育てたのだろうと筆者は考えていた。だが,それもいささか短絡的ではないかと思うようになってきた。

エジプトは豊かであり,北アフリカと並ぶローマ帝国の穀倉地帯だという認識は,現代の我々にも同時代人にも常識と言えるだろう。タキトゥスの伝えるところによれば,アウグストゥスはエジプトを手にしたものがイタリアを飢えで脅かすことを案じ,元老院議員や上級騎士が許可なくエジプトに立ち入ることを禁じたし(『年代記』2.59),ネロの死後の内乱時に,東方から帝位をうかがうドミティアヌスは,穀物供給の要所たるエジプトを押さえているので,敵軍を食糧不足にして降伏させられると考えていた(『同時代史』3.8)。ヨセフスも『ユダヤ戦記』(2.386)で,アレクサンドリアからは金のほかにローマの民衆を4ヶ月間養うに足る小麦が送られていると,登場人物に語らせている。

帝国の穀倉としてのエジプトの位置付けは疑いえないとしても,その役割はローマ期以前からの豊かさに基づきながらも,ローマ帝国に組み込まれることによって強化させられていったのではないか。いわゆる「モノカルチャー化」が進展し,環境や耕作者にも負荷がかかっていったのではないかと筆者は最近考えるようになった。示唆的な研究を紹介すれば,デルタ地方に由来する2世紀半ばの税台帳を分析したK. Blouin, Triangular Landscapes: Environment, Society, and the State in the Nile Delta under Roman Rule, Oxford, 2014は,支配者からの要求と市場価値の高さゆえに小麦の生産がローマ時代に広がっていた状況を想定しているし,ローマ期における食生活の変化を扱ったP. van Minnen, “Dietary Hellenization or Ecological Transformation? Beer, Wine and Oil in Later Roman Egypt”, in: I. Andorlini et al. (eds.), Atti del XXII Congresso Internazionale di Papirologia, Firenze, 2001, 1265-1280もビールの原料となる大麦の生産が,競合する小麦の需要の高まりによって減少し,小麦と競合しないブドウから造られるワインが普及したと見ている。またイスラーム時代の状況を垣間見ると,エジプトの作物はやはりエジプト外の事情に応じてダイナミックに変化していくようである(熊倉和歌子「砂糖から穀物へ」『イスラーム地域研究ジャーナル』9, 2017, 56-72)。何を今更と思われる方々も多いだろうが,これらの研究に触れたとき,近視眼的に史料に接しておりエジプトの農業実践や慣行を固定的に捉えてきた筆者は,虚を突かれ,なるほど面白いと思った。

だが,ローマ時代における小麦生産の増大という大いにありえそうな変化を,農業実践に直接関わる史料から裏付けていくのは,なかなか困難である。ある土地の作付け比率の長期的な変化を示したり,耕作者がどのように作物を選び,切り替えていったかについて示唆を与えてくれる史料はそう簡単に見つからない。それでも問いなくして,史料が語りかけてくれることはない。こうして,ふたたび,あれこれ想像しながら史料を読むことが始まるのである。

カリフ・カーヒルの評価についての再考
柴山 滋

10世紀前半のアッバース朝のカリフには数奇な運命を辿った者がいるが,同朝第19代カリフ・カーヒル(位932~34)もそのような人物の1人である。彼は一般に「残虐なカリフ」,「目を潰された最初のカリフ」などと言われているが,その評価について検証してみたい。

最初に,諸史料の記述による彼の動向をまとめる。カーヒルの本名はムハンマド,父は第16代カリフ・ムウタディド(位892~902),母はフィトナ(一部にクブール)と呼ばれた女奴隷であった。彼の正式な即位は932年であるが,それ以前の929年2月に短期間カリフに就任している。この時は軍司令官ムウニスが反乱を起こして第18代カリフ・ムクタディル(位908~32)を幽閉し,異母弟であった彼をカリフに奉戴して「カーヒル(勝利者)」と名乗らせた。しかし俸給支払いを要求した軍隊がムクタディルの復位を望んだことで,わずか2日間で廃位された。その際彼は2度目の即位をしたムクタディルに命乞いをして許された。その後932年に再度ムウニスが反乱を起こし,その戦闘中にムクタディルが殺害されると,再びカーヒルがカリフに就けられた。彼は即位後に前カリフ・ムクタディルの家族に様々な虐待を行い,財産を没収し,前カリフの生母も鞭打ち刑によって死亡させた。933年には彼を即位させた軍司令官ムウニス,侍従ヤルバクやその息子のアリーなどの政権内の有力者と対立し,彼らを次々に逮捕・処刑した。また彼は王宮内で常に槍を手放したことがなく,坐る際には自分の面前にそれを突き立てたとされる。さらに自ら「アッラーの教えに仇する者の懲罰者」という称号を冠し,これを貨幣に刻ませたとされる。934年には彼のカリフ就任前の女奴隷を巡る争いを理由に,やはり重臣のイスハーク・ブン・イスマーイールを井戸に投げ込んで生き埋めにした。このようなカーヒルの暴挙に対して同年4月にサージーヤやフジャリーヤといった軍隊の兵士たちが蜂起し,カーヒルを捕らえて監禁した。この時に彼は目を潰されて廃位され,彼の甥のムハンマドが第20代カリフ・ラーディー(位934~40)として奉戴された。廃位後も彼は王宮内の一室に監禁され,その状態は第21代カリフ・ムッタキー(位940~44)時代まで続いた。その後,彼はバグダードの西市街にあるダール・イブン・ターヒル地区に移された。後に彼は解放されたが,第22代カリフ・ムスタクフィー(位944~46)時代のある日にかつては円城内の大モスクであったマンスール・モスクにみすぼらしい姿で現れ,礼拝時に集まっていた人々に対して物乞いをしたという。それ以後,彼は自由な外出を禁じられ,第23代カリフ・ムティーウ(位946~74)時代の950年に53歳で亡くなった。

このように史料中のカーヒルは在任中に多くの重臣を殺害し,拷問により財産を没収したりした残忍・無情なカリフであり,そのために廃位後に監禁され,みすぼらしい生活を送った不遇なカリフであったとされている。だが,そのような見解にはやや注意を要するのではないか。なぜなら彼は一度廃位を経験し,また軍隊の反乱における前カリフの殺害も認識している。そのため即位後も,周囲の軍人や重臣たちには信用が置けないという状況であったことが推察できる。彼の王宮内における槍に関するエピソードは,その点を端的に示したものであろう。また彼を擁立した重臣である軍司令官のムウニスや侍従のヤルバクなどと対立・謀殺したことは,ほぼ政治的な実権を喪失していたカリフがその実権の回復を試みた故のことであったとも解釈できる。さらに当時は,失脚した重臣や市中の大商人などが政権側から財産没収の対象とされることは頻繁にあった。すでにこの時期のアッバース朝政権は歳入に必要な税収確保の手段が機能不全に陥っていたので,自らの政権運用のための資金を必要とするカーヒルにとり,財産没収は確実な財源確保の手段であったと思われる。しかしこのような政策を推進するカリフは,事実上の政治の実権を掌握していた軍人や重臣たちにとって大きな脅威となった。そのため彼は最終的に彼らの反撃により,廃位された。このようにカーヒルはカリフ権が衰微しつつある時期に,そのような風潮に対抗してその権力や権威を取り戻すことに果敢に取り組んだカリフであったといえよう。「目を潰されたカリフ」とは,権力や権威の回復に努力したものの達成できなかったカリフを象徴する事柄であった。実際,ブワイフ朝のバグダード支配下でカリフがそのような試みを放棄すると,「目を潰される」ことも無くなったのである。

なお,「目を潰す」ことに関しては,カリフの資格の1つが「心身ともに健全であること」が条件とされており,当時はカリフを殺害せずに廃位する手段としても用いられた。その方法は真赤に焼いた串等を眼に突き刺すもので,これはビザンツ帝国から伝わった風習とされている。

ルイ14世治下のカストラート受容
川田 早苗

カストラートは,17~18世紀の西洋音楽界の象徴的存在である。美声ゆえ,生涯その声を保持するよう,彼らは変声前に去勢された。彼らの大部分はイタリア人,特にナポリ出身者である。少年の声帯と成人男性の強靭な肉体を持っていた彼らの歌声は,同時代人から透明かつ官能的であると評されていた。「女性を教会から遠ざけるべし」という聖書の言葉に従い,少年やファルセット歌手が聖歌隊の高声部を担っていたが,徐々にカストラートに入れ替えられた。教皇がカストラートを公認したのは1599年であるが,実際には16世紀のスペインやイタリアの教会に,彼らはすでに多数存在していた。

カストラートが脚光を浴びるようになるのは,17世紀にフィレンツェで誕生したオペラにおいてである。彼らはキャリアを教会から始めたが,多くの先達がヨーロッパの劇場や宮廷で活躍し名声を得るのを目にし,後輩らは同じキャリアを夢見てイタリアだけでなくヨーロッパ各地へと旅立った。バロック期の西洋音楽界は,全てをイタリアに負っていた。「オペラ」という語も,音楽用語もイタリア語であり,一般向けの劇場および機械仕掛けや遠近法を用いた舞台美術を創出したのもイタリアであり,カストラートもイタリアで養成されていた。彼らの一部はオペラの切り札として,ヨーロッパ中の宮廷や興行主たちから引く手数多であり,高額な報酬を手にし,常に熱狂的なファンに囲まれていた。

上記のようなヨーロッパ全体のカストラート受容の状況に対し,フランスはやや特殊な様子を呈している。これは,フランス人の心性とルイ14世が行った文化政策に起因している。

まず念頭に置くべきは,フランス人の合理主義である。彼らはカストラートの音楽性や声楽技術を称賛してはいたが,去勢された「不具者」のレッテルを払拭することはできず,また,舞台上での性別の逆転によって劇の「真実らしさ」を損なうカストラートの存在を, 容易には受け入れることができなかった。

ルイ14世は親政開始以降,カストラートを含むイタリア人音楽家を1666年までに全て国外に追放している。彼はカストラートを嫌悪していたわけではなく,むしろ称賛していたのだが,なぜ彼らを追放したのか。

その要因はマザランの文化政策に対するフランス人の反発にある。枢機卿ジュール・マザランは,ローマ同様パリにおいても,諸外国を圧倒するための政策として「偉大さ」を具現する芸術を利用することを目論んでおり,音楽においてはイタリア・オペラをフランスに直輸入した。しかし多額の出費を強いるオペラ上演とイタリア趣味に固執するマザランの態度は,フランス人の反イタリア的態度を誘発した。「フロンドの乱」の後,マザランはフランスにおけるオペラの在り方を再考せざるを得ず,イタリア・オペラをフランス趣味へ改編している。つまり3幕を5幕へ再編し,舞踊と合唱,そしてプロローグを挿入した。しかし,イタリアへの反発は収まらず,ルイ14世は親政開始と同時に,マザランが行ってきた文化政策――自発的ではなく,幼少期の教育によって培われた音楽趣味――を一旦拒絶し,今後の文化政策を再検討した。この時期に頭角を現すのがジャン゠バティスト・リュリ,フランス版オペラ「叙情悲劇」の創始者・専有者である。この叙情悲劇においては,カストラートのための役は存在せず,彼らはフランスの劇場において不要であった。

カストラートは,声楽技法の歴史的変遷において,多大な貢献をしている。胸声と頭声の声区の滑らかな移行により,より豊かな響きとより広い音域を目指す「ベルカント唱法」は,彼らによって発明され「至芸」にまで高められた。歌に生涯を捧げるため人工的に作られた彼らの存在があったからこそ,他の声種の歌手たちも技術向上のため切磋琢磨した。カストラート不在のフランス声楽は,技術面でこの流れに大きく遅れをとり,まもなく声楽技術に関して諸外国の批評家から酷評されるようになる。

一時,カストラートは宮廷から姿を消していたが,音楽界でのリュリの排他的な支配が弱体化した1680年以降,ルイ14世はカストラートたちを新たに招聘した。彼らは,王室礼拝堂で行われた王を讃えるための聖務では重用されたが,オペラにおいては時折,端役を与えられたのみで華やかな名声は享受できなかった。しかし,彼らはヴェルサイユ近郊のモントルイユに小コミュニティーを作り,十分な報酬を得て,一部は帰化し,キャリアだけでなく人生を,最後までフランスの地で全うした。

第3回トゥトアンクアメンGEM会議に参加して
西本 直子

1902年にタハリール広場に開設されたEgyptian Museum(カイロ)が老朽化したため,2018年10月の開館を目途に,ピラミッドに近いギザ台地にGEM(The Grand Egyptian Museum)が建設中である。T. S. Tawfik館長はトゥトアンクアメン王の遺物について世界の知見を集め,約100年ぶりに展示を見直そうとして2015年に国際トゥトアンクアメン会議を発案した。第1回は遺物の移送と展示方法を話し合い,第2回は布と宝飾品に関する集会が図られた。さらに2017年1月には第3回として家具とミイラに関する専門家の発表が公募された。そこで『地中海学研究』XXIII(2000)に掲載された拙稿「トゥトアンクアメン王の折り畳み式寝台」を増改訂して応募し,2017年5月6~8日の3日間にわたり開催された会議で発表を行った。会議録は今年のGEM開館時に出版の予定である。

15年前,GEM国際建築競技設計に応募を試みて出せなかった苦い記憶もあるのだが,今ではそれも懐かしい。館長からメールが届き,会議の発表者に選ばれたのは望外の喜びであった。トゥトアンクアメン王の折り畳み式寝台の重要さを伝える機会は恐らく二度とないと思われ,苦労しながら発表の策を練った。エジプトに戒厳令が敷かれているという情報も耳に入らず,現地に着いてから気づいたような次第で,家族には大変に迷惑をかけた。

さて3回目の会議はカイロ考古局のAhmed Kamal Pashaホールにて,カイロ・アメリカ大学のF. Haikalを議長とし,最初の2日間でフランス,スペイン,ドイツ,スイス,日本,デンマークの6カ国から12人が発表した。実に小規模な国際会議である。最終日はGEMにて最新の修復工房を見学し,M. Abd allahやN. Eldeenの修復作業報告を聴いたほか,戦車の移送に協力しているJICAチームの河合望先生や岡田靖先生,また欧州の専門家が協働で協力している厨子の移送と修復についてはドイツチームのA. Kurpaが作業経過報告を行った。GEMのカフェで若い研究者と話す機会を得たが,本会議の終始一貫した親密な雰囲気は有難く,感激したという意見には心から共感する。高名なエジプト学者たちは権威を振りかざさず,来るべきGEMの開館のために協力しあい,誰もが平等に意見を述べた。会議の終盤,Tawfik館長に急用が生じ,年配のHaikal教授は取り纏めを任されて戸惑っていたが,隣席のベルリン博物館のF. Seyfriedがさり気なくその補佐を担った。館長は退出前に出席者と現地スタッフ一人ひとりに参加証を手渡すことも行った。会議の結論は出席者全員に確認が求められ,承認後に記録された。その中には折り畳み式寝台の模型併用展示の一項も含まれていた。工房で話したAbd allahから念願のシカモアイチジクの用材を頂き,これも有難かった。

以下は内容の概略であるが,雑誌Kmt 28:3 (2017)のM. Eaton-Kraussの報告も詳しい。初日,皮切りの基調講演はケストナー博物館のCh. E. Loeben館長が箱家具の収容物の再確認の必要性を述べた。Loebenの推測した箱と中身の組み合わせは最終日に博物館の計らいで実物により確認する機会が与えられた。王の座家具に関する著作があるEaton-Kraussは,黄金の玉座の既往研究を概括した後,移送時期を利用して専門家による玉座の調査を提案した。実現すれば古代家具研究における大きな一歩となろう。Tawfik館長は金箔張りの寝台(Obj. No. 377)の頭の側にベス神の描写が発見されたことを発表した。私の順番は最後であったので35枚のスライドを十全に説明できた。古代エジプト家具は木工史研究の第一級の史料である。Z型に畳む王の折り畳み式寝台は唯一無二であり,この携行用寝台の実現のために発明された青銅製の二重蝶番の工夫を示し,特徴的な蝶番には永らく扉の蝶番と勘違いされている類例があり,その出土地とアクエンアテン王の関わりに注意を促した。また構造上,8本の獅子脚を創り出さねばならなかった職人の自然主義的な彫刻表現のジレンマと解決の見事さを指摘した。宗教改革を断行した父・アクエンアテン亡き後,揺り戻しを受けた王は領地を巡って関係修復に努めたらしく,また病弱説もある。狩りや旅行に携行される折り畳み式寝台の存在は,困難な人生を送った少年王の思念を無言で語り,詩的でもある。午後はカイロ博物館で専門家の解説付き見学会があり,夕方の前庭では年頭に発見されたプサメティク1世の彫像の横で,少年王の新たな展示品となるハソックの発表がなされた。2日目はSeyfriedとルーブル博物館のV. Rondotが各々展示室の改修計画事例を発表した後,S. Saleemが王のミイラについて,L. Mannicheが胎児のミイラについて,O. Grauertが展示の倫理について,F. Rühliが医学におけるミイラ調査の必要性を述べ,最後にM. GaboldeがDNA鑑定による王の家系調査に関して発表し,現地の研究者と議論が白熱した。1998年以来のエジプトで夫の同行は有難く,JSPSカイロセンターの深見奈緒子先生にも大変お世話になり,感謝している。

自著を語る90
『中世ヴェネツィアの家族と権力』
京都大学学術出版会 2017年2月 336頁 4,100円+税
髙田 京比子

本書は,私が20年近く前に提出した課程博士学位論文が元になっている。「中世イタリア都市国家」に惹かれて研究を始めたものの,適当な切り口が見つからず修士論文をまとめあぐねていた私は,周囲の研究状況に影響されつつ家族史に向かい,その方向で博士論文を書いた。1980年代から盛んになり始めた家族史がヨーロッパ中世史においても,まだ花盛りの時代であった。しかし現在,家族史は一旦,低調になったと思われる。当時,家族史関係の論文を執筆していた人で,現在も継続的に家族史を研究している人は殆どいないだろう。かくいう私も博論執筆後しばらくは,地中海の人の移動など他のテーマに取り組む方を選んでいた。

それを今回,単著で再び「家族」を主軸に研究をまとめたのは,(1)当時古文書から浮かび上がらせた史実が今なお色あせず興味深いものである,(2)都市政治と家族の関係について明らかにすべきことはまだ残っている,と思ったからである。しかし他にも,やはり「家族生活の維持」というような非常に卑近で近視眼的な事柄でも,それに従って生きる人々の実践は「歴史」に結びつくものであることを示したい,と感じたからであろう。また2000年以降のイタリア・コムーネ史の新しい研究動向を消化する中で,家族史研究と親和的な「支配層」研究の隘路を抜け出し,「新しい制度史」と家族史を結びつける展望が開けたことは,これらの「思い」を実現する上で,非常に重要であった。

本書を繙いてもらえば,婚姻時の持参金額(嫁資)を決めるための叔母や母親のやりとり,限られた遺産を少しでも効率よく活用しようとする人々の工夫,子供の養育費に逼迫して政府に援助を求める家長などが登場する。しかし,このような私たちにも身近な事柄を解決するシステムやその効果は,当然のことながら現在とは違う。さらに紋章による「家」の同定や,議場からの親族の退席など,当時のヴェネツィアは今日の日本と比べて,社会における親族の存在がよほど重要であり,また可視化されており,それを前提として制度が設計されていたこともわかる。研究や仕事が最優先とはとても言えない生活を送ってきた私のような人間が,遅ればせながら「家族」という幾分レトロなテーマで単著を世に問う意義があるのだとすれば,それは,まさに今述べたような,目の前の家族の日常にどっぷり浸かっている人間の姿も立派な歴史だ,あるいはそのような人間の営みもどこかで権力や外部経済と通じ,それに働きかける場合があるのだ,ということを,実証を通じて提起することではないか。――本書の「結論」をまとめながら私が考えたのは,そのようなことであった。

ところで,単著をまとめる作業がなかなか進まなかったのは,「中世イタリア都市を研究したいという動機に対して,ヴェネツィアを選んだことは間違いだったのではないか」という危惧や後悔に長らく苛まれていた,ということもある。今でこそ,中世ヴェネツィアを理解するためには,地中海はもとより西洋中世領主世界の知識さえ必要である,ということがよくわかるが,以前はかなり長期に渡って「ヴェネツィア都市社会史を研究対象とするが故の激しい疎外感・孤立感」を感じていた。勉強不足に加えて私自身が,近世ヴェネツィア人が倦むことなく作り上げた「唯一無二のヴェネツィア」神話に囚われていたからかもしれない。しかし,時々発せられる「ヴェネツィアは特殊だ」という周囲の人の言葉は,私にとって「疎外感・孤立感」の再確認のように響いた。一方,巷にヴェネツィア関係の書物が溢れている現実は,「よく知られていない地域の情報を提供することで我々の歴史認識を豊かにする」という役割すら,ヴェネツィア史から奪っているように思われた。本書の序章と第5章の研究史は,この危惧・後悔・さらに絶望がいかにして解消されたかを客観的かつ学術的に説明したものである,と言うこともできるだろう。

いずれにせよ,学部4回生,また修士1年生の当時,二次文献を通じて社会史の面白さが伝わってくるものの,自分でマニュスクリプトを読むことなど夢のまた夢であった史料(第6章3節のgratia),摩訶不思議な体裁に頭がくらくらし,研究を続けていればいつかこのような史料を使いこなせる時が来るのだろうかと,薄暗い京大文学部史学科書庫で足のすくむ思いで眺めた史料(第7章に登場する19世紀末刊行の『アルティーノ年代記』)に,恥ずかしながらこの歳になってようやく取り組めたことには,感慨を禁じ得ない。

手頃な値段でハンディに仕上げていただいたので,都市や家族に興味を持つ多くの人が手に取り,何らかの「ヒント」を受け取ってくだされば,と願う。

表紙説明

地中海の〈城〉10:ドブロヴニクの都市築城/中島 智章

クロアチアのアドリア海沿岸地方ダルマチアは,ビザンツ帝国が弱体化した11世紀以来,ハンガリー王国,ヴェネツィア共和国などの係争地となり,15世紀以降はオスマン帝国も海陸からこの地域に進出してきた。そのため,ダルマチアの各都市には充実した都市築城(urban fortification)が営まれ,現存するものも数多い。1979年に本例やスプリト,1997年にトロギルが世界遺産一覧表に記載され,そして2017年にはイタリア,クロアチア,モンテネグロに分布する数箇所の築城群が「16〜17 世紀のヴェネツィアの防禦構築物群:『陸のヴェネツィア』と『海のヴェネツィア』西部」(筆者試訳)として世界遺産となっている。

ここでいう「防禦構築物」(works of defense)とは「築城」(fortification)とほぼ同じ意味とみてよいだろう。軍事用語としての「築城」は,ラテン語の「強い」と「作る」の複合語fortificatioに由来するヨーロッパ諸語の翻訳語である。それは都市や交通の要衝などの戦略要点(strategic point)を防禦するため,その周囲に構築された建造物,工作物,構造体全般を指す。その目的は,防衛対象への敵の侵入を阻止する,あるいは制限・遅滞させることであり,敵の戦闘力の発揮をできる限り妨げると同時に味方の戦闘力の発揮を容易にするための様々な工夫がこらされる。通常,「城」と邦訳されるcastle(英),château(仏),Schloss(独)も築城の一種である。

今回紹介するクロアチアの都市ドブロヴニクは「アドリア海の真珠」と呼ばれる美しい都市で,1358年のザダル条約により実質上の独立自由共和国「ラグーサ共和国」となり,1808年まで続いた。12世紀から17世紀までの様々な時代の築城がみられ,総延長1.9キロメートルの囲壁は完全に現存する。

写真は西側の囲壁を望んだもので,ピレ(Pile)門がみえる。これは歴史的市街地の目抜き通りであるプラツァ通りと城外に広がるピレ街を結ぶ西の市門である。門の直前には半円形平面のバービカンが設けられ,バービカン上部には火砲を設置するバンケットと砲門が設けられた。囲壁上の歩路を防禦するパラペットも火砲の時代に即して分厚く強化されている。

湾を隔ててピレ門の向こう側にロヴリイェナチュ(Lovrijenac)城郭が断崖上にみえる。11世紀に建造されたといわれ,少なくとも1301年の史料にその存在が記されているが,現状は15~16世紀のものである。砲門が海側のみならず陸側のピレ街の方も指向していることに注目されたい。築城化された港湾拠点を攻略するにあたって,木造艦艇をもって海側から攻撃するのは,接近しての効力射(effective fire)実施や陸戦隊揚陸などが困難かつ危険で効果を挙げにくく,陸地側から陸上兵力をもって攻囲するのが正攻法だった。

そのため,ドブロヴニクでもザダル,スプリトでも稜堡(bastion)などの近世築城は陸側に対する備えとして建設されており,ドブロヴニクでは,囲壁の北東隅に位置するレヴェリン(Revelin)城郭が北側の囲壁と堀を統制している。15世紀半ばに建設され,16世紀に建築家アントニオ・フェッラモリーノ・デ・ベルガモが改修した。「レヴェリン」の名はイタリア語の築城用語「リヴェリーノ」(rivelino)に由来する。