地中海学会月報

MONTHLY BULLETIN

学会からのお知らせ

4月研究会

下記の通り研究会を開催します。
テーマ:熊野への誘い―建築史家と美術史家が聖地で見出したことども
発表者:松崎照明氏,秋山聰氏
日 時:4月15日(土) 午後2時より
会 場:首都大学東京 秋葉原サテライトキャンパス
参加費:会員は無料,一般は500円
日本最古の聖地にして,平安時代の舗装道路たる熊野古道を擁する熊野三山は,近年とみに海外からの観光客を惹きつけています。実際,熊野古道を歩く人々の三分の一は外国人観光客であるという統計結果も出されているようです。その理由の一つは,熊野が聖地としての普遍的特性を備えつつ,かつ地域的特性を濃厚に帯びているからだと思われます。こうした観点から,比較例を交えながら,熊野をめぐって議論してみたいと思います。

第41回地中海学会大会

第41回地中海学会大会(学会設立40周年記念大会)を2017年6月10日(土),11日(日)の2日間,東京大学本郷キャンパス(文京区本郷7-3-1)において下記の通り開催します(予定)。詳細は決まり次第,ご案内します。
6月10日(土)
13:00~13:10 開会宣言・挨拶  青柳 正規氏
13:10~14:10 記念講演     デイヴィッド・アブラフィア氏
14:25~16:25 地中海トーキング 「地中海学会の40年」
パネリスト:樺山 紘一/木島 俊介/陣内 秀信/武谷なおみ/
司   会:末永 航 各氏
16:40~17:10 授賞式 地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞
17:10~17:40 総会18:00~20:00 懇親会
6月11日(日)
9:30~12:30 研究発表
13:30~16:30 シンポジウム「地中海学の未来」
パネリスト:新井 勇治/片山 伸也/貫井 一美/畑 浩一郎/藤崎 衛/
司   会:小池 寿子 各氏

会費納入のお願い

今年度会費(2016年度)を未納の方には本号に同封して請求書をお送りしています。
至急お振込み下さいますようお願いします。
不明点のある方,学会発行の領収証をご希望の方は,お手数ですが事務局までご連絡下さい。
なお、新年度会費(2017年度)については3月末にご連絡します。

会 費:正会員 1万3千円/ 学生会員 6千円
振込先:口座名「地中海学会」
郵便振替 00160-0-77515
みずほ銀行九段支店 普通 957742
三井住友銀行麹町支店 普通 216313

訃報 1月14日,賛助会員の鈴木猛朗氏(星商事株式会社会長)が逝去されました。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

研究会要旨
「ヴェローナ・カピトゥラリアCapitulare Veronense(967年)」
からみる北イタリアの法文化
柴田 隆功
12月17日/首都大学東京 秋葉原サテライトキャンパス

ヴェローナ・カピトゥラリアは,967年10月29日に第3回イタリア遠征中のオットー1世によって発布された。これは,地財をめぐる紛争を解決する際には決闘を用いることや,教会財産を守るために伯と寡婦は守護者advocatus―裁判における代理人―を保有できることを定めたものである。オットーの残した法令は3例のみで,10世紀の独伊法文化圏で立法活動は稀であった。ドイツでは国王証書が法秩序を維持する機能を有し,王権は人的結合を基盤に合意に基づく統治を行い,一方の北イタリアの法文化はランゴバルト期・カロリング期からの連続性を有し,本勅令もこの伝統上に位置した。

この勅令の発布は,後に付された序文によれば,北イタリアで偽造証書を宣誓によって正当であると主張する悪習がはびこり,イタリアの貴族がオットーに法を取り換えることを求めたことに端を発する。事実,967年前後では,文書の正当性を集会で確認するostensio cartaeという手続きの頻度が10世紀全体に比べて高まっており,文書への不信感が確認できる。その意味で,この勅令は社会的要請に動機づけられた立法活動であった。

この問題が提起されたのは同年1月で,年内の2度の教会会議を経て10月のヴェローナ集会に至る間に,オットー1世は息子オットー2世を招聘して出迎え,ヴェローナ集会でこの勅令を連名で発布した。このプロセスは計画的で,その構成要素はオットー1世の皇帝戴冠までの統治行為と相似関係にあった。そのうち,951年のフランクフルト勅令に対応する統治実績がヴェローナ勅令であり,立法行為の象徴性が見える。

また,967年に発給された証書などから,前後の集会に数十人の聖俗貴顕の士が参集していたことがわかるため,10月のヴェローナ集会の規模も同程度と推定できる。そこで発布された勅令は,彼らに広く認知されるという意味で公的・一般的な性格を有する規範であった。

同年の皇帝証書はすべて文書官長兼パールマ司教フーベルトと文書官アンブロシウスの作成で,彼らが当時,皇帝に随伴していたと推定できる。彼らは3月と12月に勅令と一見矛盾する内容の証書を発給した。2通は確かに勅令の規定よりも優遇された特権を受給者に許可する。しかし,王権側は,旧ベレンガール2世陣営の者との関係構築や南伊遠征のための後背の安定という政治的な理由から,それを受諾する準備があった。ゆえに,文書発給者は,勅令と特権の関係を承知した上で受動的に与えられた条件の中で主体的に現地慣習を受け容れた。

問題の宣誓に代わって提示された決闘は,頻度は低いものの10世紀の独仏伊で現行の慣習であった。オットーが938年と963年に決闘を行うよう指示した事例や,叙述史料上で宣誓が反乱や陰謀などと結びつく多くの事例から類推すると,決闘が提示された理由はドイツに内在すると言えるかもしれない。一方で,北イタリアの11世紀までの法令を収録した『パヴィーア法書』中の決闘や宣誓に関する規定の頻度から,決闘という選択肢の浮上がイタリア社会の法慣習にも由来すると言える。すなわち,決闘と宣誓はランゴバルト期には有効な司法手続きであったが,カロリング期には宣誓が優位となり,オットー朝期には逆転した。このことから,文書発給者は現行だが正当性を確認されていない慣習を文字の形で追認し,北イタリア社会で受容されやすい選択肢を調整したと考えられる。

本勅令は実のところ宣誓を禁止する文言を含まない。むしろ,文書発給者は,規定がカバーできない部分は先行する規定に従うよう曖昧に表現し,法令が実際に紛争当事者によって使用される際の自由度に配慮した。実際,971年と999年の裁判集会で第1条が使用された。また,971年に土地紛争について決闘を用いるよう簡潔に規定する布告が発布された。これは,法令の社会的記憶を延長するためであろう。

この勅令は守護者の保有目的と保有権者を制限するが,これは当時の社会の慣行を反映している。9世紀の改革で整えられた守護者は,10世紀には教会や修道院の法廷代理人という当初の設置目的を超えて,伯などの世俗官職者や寡婦に保有された。第8・10条はこれを文字化したもので,勅令はその時点で支配的な慣習を公衆の列席する集会で正当化することにより社会的な拘束力を得た。

現状に沿って広く受容されるべく作成された一般的な規範と,受容することが益になる特別な現地慣習は,発給者の認識上区別され,前者は集会の場における勅令,後者は証書として,文字の形で関係が固定化された。これは将来の同様の事件における手続き予測性を担保するものではなく,むしろ,王権は人的結合関係の中で先王の伝統に準えて自己を提示し,立法行為そのものを目的とした。こうした文字と規範に関する姿勢は,文字性と口承性の補完的・相克的相互作用の中に位置づけられる。

「よき時代(ベル・エポック)」の正体
安川 智子

わたしたちが生きている今,この時代は,「よき時代(ベル・エポック)」だろうか。この問いに答えを出すのは,おそらくわたしたちではない。歴史学では,フランスのある一時代を指して「ベル・エポック」と呼ぶ。1900年前後,広くとれば1871年の普仏戦争後から,あるいはフランスでは,パリ万博が開催された1889年以後を指すことが一般的だそうだが,いずれにしても,終わりは1914年の第一次世界大戦勃発までと決まっている(ドミニク・カリファ氏による)。このことからも,「ベル・エポック」という時代名称が,後の時代からの回顧によってつけられたことは明らかである(もっとも,時代名称とはそういうものである)。

筆者は2016年8月に,訳書『ベル・エポックの音楽家たち―セザール・フランクから映画の音楽まで』(フランソワ・ポルシル著,水声社)を上梓したことから,ベル・エポックという「時代区分」への疑問と関心が増し,11月25日に日仏会館で行われたドミニク・カリファ氏(パリ第1大学教授)の講演会「ベル・エポックとは何だったのか」を拝聴しに出かけた。氏は2017年1月に,『「ベル・エポック」の本当の歴史』と題する著作を刊行したところである(Dominique Kalifa, La véritable histoire de la “Belle Époque”, Fayard)。詳細は本書に譲るが,講演では,ベル・エポックという一時代を作り上げた「時の想像力imaginaire temporaire」が決して虚構ではなく,本や映画や歌,といった物質的なものによって枠組みが作られていったのだ,ということが具体例とともにいきいきと立体的に語られた。カリファ氏によるとベル・エポック(という時代区分)の歴史は,1940年代に始まる。

ベル・エポックを形作るものは,戦争や政治よりもむしろ文化や芸術である。しかし当の芸術家たちは,ベル・エポックという言葉を特定の一時代の専売特許とすることにはあまり関心がないだろう。回顧の精神は芸術にとっていつの時代にも不可欠であり,誰しも個々人の「よき時代」を「辛き時代」の反射として内に抱いている。結局よき時代の感覚とは一人一人の幸福感とその記憶(あるいは記録)の集合体であり―たとえそれが想像によって作られたものであっても―,現実を照射することによって浮かび上がるものなのではないか。

ベル・エポックのまさに代表者たる作曲家,クロード・ドビュッシーは,第一次世界大戦のさなか,1918年に55歳で亡くなった。彼が死の直前に気にかけていたことは,まもなくオペラ座で上演されることになっていた,18世紀の作曲家ジャン=フィリップ・ラモーのオペラ《カストールとポリュクス》のことであったという。ドビュッシーの早すぎる死に直面し,残された文化人たちはその喪失感から,一様に「ドビュッシーとその時代」を回顧した。一方でそのベル・エポックの作曲家たちは,フランス革命以前の失われた宮廷文化を回顧し,ラモーをはじめとする17~18世紀のフランス芸術を再現することに人生の多くの部分を費やしていたのである。

ドビュッシーは晩年に,それまで書くことのなかった器楽ソナタを続けて作曲した(6曲の予定であったが3曲のみが完成している)。これらはいずれも,循環形式を用いている。ヴァンサン・ダンディが「循環式ソナタ」と名付けたこの作曲形式は,ソナタ形式に代わって,あるいはソナタ形式と組み合わせて,とりわけベル・エポック期(音楽史では後期ロマン派と言った方がしっくりくる)のフランス人作曲家たちが好んで用いている。私はこれこそ,音楽による回顧の形式であると考えている。

ソナタ形式では,主要主題の存在が楽章中忘れられることがないほど,変形しつつも繰り返し鳴らされる。ソナタ形式の再現部はたしかに主題の再現であるが,それはあくまで主題の「現在形」であって,回顧ではない。しかし循環形式では,楽章を超えて,ふと思い出すかのように,忘れていた過去の主題が立ち戻る。オペラのような劇音楽でこの循環形式を用いれば,死の直前に「走馬燈のように思い出される」効果を音楽によって実体験することができる(たとえばマスネ《ウェルテル》)。ベートーヴェンの《交響曲第9番「合唱つき」》に循環形式の原型が見られるのは(第4楽章で前の3つの楽章の主題が回帰する),ベートーヴェン自身が晩年にあったことを考えると興味深い。

さてわたしたちが生きている今この時代は,よき時代だろうか。個人的な心象としては,留学をしていた20代の頃に比べて―その留学はアメリカ同時多発テロのニュースで幕を開けた―刺激はない分波乱も少ない今はよき時代と感じる。カリファ氏は,ベル・エポックの輪郭を作る5つの表象として,次の5点を挙げた。1.パリ(地理的枠組み),2.申し分のない人々(良家,資産家,演出された社会),3.幸福,4.大胆さ(あるいはアヴァン・ギャルド),そして5.終わりが来る脅威,である。今この時代を,「ベル・エポック」としてふりかえる日が来ないことを,心から願っている。

ヴェネツィア,サン・ジョルジョ・マッジョーレ島滞在記
宮坂 真紀

2013年3月,ヴェネツィア,サン・ジョルジョ・マッジョーレ島にある「ヴィットーレ・ブランカ」イタリア文化研究国際センターに3週間ほど滞在した。同センターは1951年にこの島に設立されたチーニ財団が運営する施設で,人文科学を専攻する若手研究者たちへの助成のほか,イタリア(とくにヴェネト)研究に携わる各国の研究者の受け入れも行っている。利用者には宿泊施設と30万冊以上の蔵書を誇るチーニ財団の図書館の利用,同財団が所有する貴重な歴史的資料の閲覧,同財団主催のセミナー等への参加が認められる。

滞在期間に制約がなく,滞在費の補助を受けられるのは,宿泊費の高いヴェネツィアでは大変貴重である。申請のため18世紀の劇作家カルロ・ゴルドーニの詩に関する研究計画書と履歴書を送ると,書類の受け取りを確認する返信がすぐ届き,間もなく(12日後に)受け入れ承認の通知が届いた。その後の手続きにおける対応も迅速かつ丁寧で,さらに島への到着後もサーヴィスが行き届き,研究者のヴェネツィア滞在を有意義なものにするため全面的にサポートしようとする財団の人たちの姿勢が一層強く感じられた。個人的には図書館司書の皆さんにヴェネツィア方言のテクストの読解まで助けていただき心から感謝している。

さらに嬉しかったのは,短い期間だが,この島の雰囲気に浸りながら生活できたことだった。サン・マルコ広場から海のほうを向くと対岸にパッラーディオが設計したサン・ジョルジョ教会のファサードが一際目を惹くが,水に隔てられたこちら側はサン・マルコ広場の賑わいとは対照的にひっそりと静寂に包まれていた。982年にベネディクト会の修道院がここに設立されて以来,ヴェネツィア共和国の歴代ドージェ(元首)の庇護を受けながら,この島は祈りと学究の場として発展してきた。かつての修道院宿坊の長い廊下を改修した図書閲覧室や中庭を取り囲む回廊など,その伝統の気配を感じ取ることのできる瞑想的空間がここでは日常の場であり,そのことだけでも私にとっては大きな感動だった。

それにしても,これほど研究に適した環境とサーヴィスを提供できるチーニ財団とはどのような組織なのか,と改めて驚嘆せずにはいられなかった。数々の出版物や文化事業を通して,ヴェネツィアに関心のある人なら,必ずどこかでその名前を目にしているはずである。1806年,ナポレオンの命令によって修道院が閉鎖された後,この島は約150年間,主に軍事施設として使用された。その間にすっかり荒廃したこの島をイタリア政府から譲り受け,文化遺産の修復と人文科学の研究促進を目的としてここに財団を設立したのがヴィットリオ・チーニ(1885-1977)だった。20世紀前半におけるヴェネツィア沿岸部の産業推進と経済的発展に深く関与した大企業家であり,政治家としても活躍した人物が戦後,なぜこの島で文化事業を展開したのか。財団の正式名称となったジョルジョ・チーニとは1949年に不慮の事故で亡くなった息子の名前である。実業家として優れていただけでなく,第二次大戦時ナチスに捉えられた父ヴィットリオをダッハウの収容所から飛行機で救い出したのもこのジョルジョだった。奇しくも同名の聖人に捧げられたこの島の修復再生事業には最愛の息子への深い哀惜の念が感じられる。

また,長年財団の運営に携わったパドヴァ大学ヴィットーレ・ブランカ教授(ブランカ・センターの名称はこのイタリア文学の碩学に由来する)が財団設立50周年記念に寄せて,社会貢献や知的探求という形で実現される財団の活動の中心的動機として,真実と善意への力強く楽観主義的な信頼に基づく無償の愛を挙げ,それがまたヴィットリオ・チーニという人物そのものでもあったと述べているのは印象的である(La Fondazione Giorgio Cini, Cinquant’anni di storia, a cura di Ulrico Agnati, Milano, Electa, 2001)。純粋な知の追求に人間の尊厳を重ね合わせようとする人文学研究への深い理解と敬意,それこそが短い滞在をとおして間近で見ることのできた,この島の美しい秩序とそこで働く人々の勤勉さを支えている精神的支柱ではないかと考えさせられた3週間だった。

島での滞在中,イギリスやデンマークからの研究者には出会ったが,日本の研究者に会うことはなかった。4年前のことなので事情は変わっているかも知れないが,この拙文を機にブランカ・センターに興味を持って下さる方がいれば幸いである。

ちなみに,サン・ジョルジョ・マッジョーレ島唯一のバールは1879年創業の老舗ローザサルヴァの支店で,とくにコーヒークリームを丸いココアビスケットで挟んだお菓子が格別だったことも付け加えておきます。

「ドイツ゠トルコ映画」と「移民法」
古川 裕朗

ドイツ国内には現実的に多くの移民労働者が存在するにも拘らず,ドイツ政府はドイツが移民国であることを長らく認めてこなかった。ドイツが公式の移民国へと転換したとされるのは,2004年に成立し,翌2005年に施行されたいわゆる「移民法」を契機とする。その背景の一つには,「平行社会」という言葉によって表現されるにも至った既存のドイツ・ホスト社会と移民社会との分断現象があった。移民法は,シュレーダー政権(社会民主党と緑の党との連立)の末期において誕生した法律である。独立法人「労働政策研究・研修機構」の報告を参照すると,新設された「連邦移民・難民局」の主な任務としては,1)外国人の「中央登録」,2)教育などの統合プログラム,3)自由意思による帰国促進,4)関係機関との情報協力,の4点が上げられる[「ドイツの移民政策と新移民法」2004年]。またこうした政策が,「支援と要求」の論理のもと同時期に成立した「労働市場改革法」による雇用環境の柔軟化という新自由主義風の目論みと連関していたことも忘れてはならない。移民政策の大まかな方向性は,2005年のメルケル大連立政権発足以降も継続されたが,「統合の失敗」や「多文化主義の失敗」がたびたび唱えられたように,ドイツの移民政策は必ずしも成功したとは言えず,修正の試みが常に模索されている。

「ドイツ゠トルコ映画」という言葉がドイツの映画シーンに登場してきたのは,もうじき21世紀を迎えようとする90年代の終わり頃であったと言われる。それは,ちょうどシュレーダー政権発足の時期(1998年)と概ね歩調を合わせることにもなった。現在,言わばドイツのアカデミー賞に相当する「ドイツ映画賞」は,ドイツ映画アカデミー(2003年設立)と文化・メディア連邦政府委員との協調関係という新体制の中で授与されるようになったが,その作品賞受賞作を概観してみると,「ドイツ゠トルコ映画」がその一角を占めていることが分かる。そして,その受賞作は「統合」と「帰国」という「移民法」の思想と明らかに同方向性を示していると言ってよい。

ファティ・アキン監督《愛より強く(Gegen die Wand)》(2004年金賞)は,非トルコ系の妻を亡くしたトルコ系男性ジャイトと父権的なトルコ系移民家庭に育つシベルとが偽装結婚をし,やがてその関係が本物の愛へと変化してゆく中での葛藤を描いた作品である。また,同じくアキン監督の《そして,私たちは愛に帰る(Auf der Anderen Seite)》(2008年金賞)では,トルコ人親子の葛藤と和解が描き出された。主人公のネジャトはトルコ系移民の2世で,ハンブルク大学でドイツ文学を教える。父親のアリが愛人として連れてきたトルコ人娼婦のイェテルとネジャトが心を通わせると,それに嫉妬したアリがイェテルを殴り殺してしまう。こうして親子の確執が生じる。両作に共通するのは,主人公達にトルコ・アイデンティティに対する執着が無い一方で,いつしか郷愁に襲われて,自身のルーツの地へと帰ってゆく点である。ここにはナショナリズムを欠いたローカリズムと呼ぶべきものが存在し,これは移民法における「帰国」の思想と強い親和性を示す。そして,アンドレアス・リヒター《おじいちゃんの里帰り(Almanya -Willkommen in Deutschland)》(2011年銀賞)においては,この思想が明示的に表現されることにもなった。

これに対してデトレフ・ブック監督《タフに生きる(Knallhart)》(2006年銀賞)は,「平行社会」の存在を明るみに出す。15歳のドイツ人少年ミヒャエルは,ベルリンのツェーレンドルフという高級住宅街から移民の多いノイケルンに引っ越してきた。そこで彼は,エロールというトルコ系の少年がリーダーを務めるギャングによって「いけにえ」の対象とされるが,やがてギャングへの抵抗を試みる。だが,その結果ミヒャエルは,麻薬の密売人ハマル(アフガニスタン系)とバルート(イタリア系)にその度胸を買われ,裏社会へと引きずり込まれてゆく。この映画はノイケルンに実在するリュトリ基幹学校の閉鎖要求騒動(2006年)によっても明らかになったように,「統合」の必要を印象づける作品となった。また,フェオ・アラーダー監督《よそ者の女(Die Fremde)》(2010年銅賞)は,トルコ人社会における「名誉殺人」の問題を告発する。ただし,この作品はトルコ人コミュニティの因襲を批判するだけでなく,トルコ人女性が現代ドイツ社会へと統合されてゆくことを阻むものとしてトルコ人コミュニティを非難するという機能も担う。

このように「ドイツ゠トルコ映画」を「ドイツ映画賞」と「移民法」の視点から見たとき,それらがドイツ映画とは言えても,果たして本質的にトルコ映画と呼び得るかどうかが疑問として浮かび上がってくるのである。

自著を語る85
『チュニジア革命と民主化
―人類学的プロセス・ドキュメンテーションの試み―』
明石書店 2016年9月 530頁 5,800円+税
鷹木 恵子

本書は,中東現代史に大転換をもたらした「アラブの春」の起点となったチュニジア革命とその後の民主化について,ほぼ5年にわたるその経過を文献と人類学的現地調査を踏まえて,プロセス・ドキュメンテーションの手法を用いて描いたモノグラフである。

多くの中東北アフリカ諸国を巻き込んだその民主化動向は,当初,期待を込めて「アラブの春」と呼ばれ,そして実際にチュニジアに続き,エジプト,リビア,イエメンにおいて長期独裁政権を崩壊させた。しかしその後は思い描いたような展開とはならず,それとは反対に,クーデタや武力抗争,内戦,ISの台頭,難民流出,テロ事件の多発化など,今日,「複合危機」「多重戦争」とも呼ばれるような地球規模の難題となってしまった。

そうしたなか,チュニジアは,革命後,幾つもの試練や紆余曲折を経ながらも,2014年1月には新憲法を制定し,同年秋には国民代表者議会選挙と大統領選挙を実施し,翌2015年の初めには新政権を発足させた。こうして革命の第一義的目標であった政治的民主化をなんとか無事に達成したのである。中東北アフリカ諸国の一部では凄惨な武力抗争が続くなかで,それは一筋の希望の光ともなるものであった。

ではなぜ,中東北アフリカ諸国のなかで,チュニジアは民主化移行を無事に達成することができたのか。またその成否を分けたものとは何であったのか。そしてその民主化への移行は,具体的にどのような道筋をたどり,達成されたものであったのか。

本書は,こうした設問の下,「リーダーなき革命」とも呼ばれた,都鄙の多様な市民たちが参加した壮大なる出来事の過程を,開発学分野での評価手法であるプロセス・ドキュメンテーションの手法を採用し,現象の多面性,多声性,多所性,多元性をも捉えつつ,しかしそれらを一つのプロセスという時間軸に乗せて描くということを試みた。また現地の生の声を伝えるために,学者や研究者ばかりでなく,若者や主婦,公務員,自営業者,農民,政治家,大臣,外交官,軍人,市民活動家,弁護士,医者,宗教指導者,タクシー運転手,ホテル従業員など,多様な分野の老若男女からの多数の聞き取り内容も紹介する手法を採った。

まず第1章では,革命の背景として,権力腐敗の実態とともに深刻な地域格差があったことを「二つのチュニジア」として紹介し,第2章では革命の始まりとベンアリー政権崩壊までを描いた。続いて第3章では,革命後の民主化移行と制憲議会選挙でのイスラーム政党「ナフダ党」の勝利と,その後のトロイカ体制,すなわち民主化移行期の微妙な時期を国体の三大要職ポストを異なる政党で分け合うという連立体制を採用したこと,そして第4章ではそのトロイカ体制下で,イスラーム過激派による2人の野党議員の暗殺事件と,この国家的危機を4つの市民団体「国民対話カルテット」が仲介調整して,民主化過程の軌道に戻し,新憲法制定,自由選挙の実施,新政権誕生まで支援したことについて述べた。この「国民対話カルテット」はその功績を讃えられ,2015年,ノーベル平和賞を受賞したことは記憶に新しいだろう。

第5章では,革命や民主化移行過程での女性たちの活発な政治社会活動について,選挙法へのパリテ法(男女交互拘束名簿制)導入,女性団体FEMEN活動家の例などとともに,「ジハード・アルニカーフ」(結婚の聖戦)の社会問題化などについても論じた。第6章では新憲法制定と自由選挙により発足した新政権の下,その直後にバルドー博物館で起ったテロ事件による治安問題,観光産業への大打撃と経済再建に向けた課題などについて論じた。そして最後の第7章では,革命と民主化過程で力を発揮した市民社会とそのトランスナショナルな連携について考察した。

こうした革命から民主化移行の過程を跡付けてみると,チュニジア革命は,文字通り「市民革命」であったと評価することができるだろう。そしてその成功の要因はと問われれば,以下のような点が指摘できよう。第一に,旧政権は崩壊したが,リビアなどと異なり,国の枠組みは合法的に存続していったこと,民主化移行も一定の法秩序の下で進められたこと。第二には,革命や民主化過程で軍事力や武力行使が少なかったこと,政府レベルではトロイカ政権に象徴されるように妥協や連携,また市民レベルでも国民対話カルテットにみるように,対話や論争を主とする「コンテンシャス・ポリティクス(争議政治)」の手法が採られたこと。第三に市民社会の関与や活動が極めて活発であったこと,特に女性たちの平和裏な活動には目覚ましいものがあった。そして最後に外国からの直接的干渉や介入がなかったことである。

そしてこれらの特徴は,目下,紛争下にある国々における民主化過程と比較するならば,多くの点でことごとく異なることにも気づかされるのである。

表紙説明

地中海世界の〈城〉2:ディデュモテイコン/高田 良太

ギリシアは西トラキア地方に,ディディモティホという町がある。エブロス県の中心都市アレクサンドルポリからは北に約90キロ,車で2時間ほどの距離にある,人口1万人弱の町である。この町の名前は古典ギリシア語では,ディデュモス(双子)+テイコス(壁)を意味し,それはすなわちこの町の城塞としての起こりを示す。ビザンツ千年の歴史とともにあった,ディデュモテイコンのあゆみをひもといてみたい。

エルスロス川とエヴロス川(トルコ語ではマリツァ川)の合流点に位置し,そこから東にひろがる東トラキア地方の平原を見下ろす小高い丘に最初に目をつけたのは,ユスティニアヌス1世(在位527-565)である。トラヤヌス帝(在位98-117)によって建設されたプロティノポリスが谷地にあって防御に不向きであったため,そこからほど近い,カレスと呼ばれていた丘の上に新城塞を建設した。

新城塞とプロティノポリスはしばらく併用され,両者がまとめて「双子の壁」と呼ばれた。その後,プロティノポリスは8世紀までに放棄され,丘の上の城塞のみを指してディデュモテイコンと呼ぶようになった。ひとつの城を「双子」と呼ぶのはなんとも奇妙だが,同様の違和感をビザンツ人も抱いていたようだ。コンスタンティノス7世ポルフュロゲニトス(在位913-959)が,自著の『テマについて』において説明するところでは,丘の上の城塞はプルティヌポリスであるという。ブルガリアやセルビアに対する前線基地として強化が進められ,13世紀後半には7重の壁と多くの塔(24の塔が現存している)を誇る,壮麗な城郭となった。

この城塞は,しばしば君府を去ったビザンツ人のよるべともなった。古くはバシレイオス2世(在位976-1025)に対して反乱を繰り広げたバルダス・スクレロスが最後に身を寄せた。1243年には,十字軍によって奪われた首都奪還への野心を燃やすニカイア皇帝ヨハネス3世ヴァタツェス(在位1222-1254)が,自身の生誕の地でもあったこの城塞を占領している。また,1341年には,国境防衛の名目でこの城に入ったヨハネス・カンタクゼノス(のちの皇帝ヨハネス6世カンタクゼノス,在位1347-1354)が,若き皇帝ヨハネス5世パライオロゴス(在位1341-91)に対し昂然と反旗をひるがえした。

1361年にオスマン・トルコによって征服されて以降,この城塞は町ともどもディメトカと呼ばれ,地域支配の拠点となった。17世紀の旅行家エヴリヤ・チェレビの記述にも,二重の壁と数百の塔を誇る,古城の姿が描写されている。しかし,18世紀以降は荒れるに任され,今や往時の威容は望むべくもない。1420年に落成したメフメット・モスクの,今の町の規模には著しく不釣り合いな巨大な佇まいが,かつての栄光をかろうじてしのばせる。