地中海学会月報

MONTHLY BULLETIN

学会からのお知らせ

「地中海学会ヘレンド賞」候補者募集

地中海学会では第23回「地中海学会ヘレンド賞」(第22回受賞者:安岡義文氏)の候補者を下記の通り募集します。授賞式は第42回大会において行う予定です。応募を希望される方は申請用紙を事務局へご請求下さい。
地中海学会ヘレンド賞
一,地中海学会は,その事業の一つとして「地中海学会ヘレンド賞」を設ける。
二,本賞は奨励賞としての性格をもつものとする。本賞は,原則として会員を対象とする。
三,本賞の受賞者は,常任委員会が決定する。常任委員会は本賞の候補者を公募し,その業績審査に必要な選考小委員会を設け,その審議をうけて受賞者を決定する。
募集要項
自薦他薦を問わない。
受付期間:2018年1月9日(火)~ 2月8日(木)
応募用紙:学会規定の用紙を使用する。

第42回地中海学会大会

第42回地中海学会大会を2018年6月9日,10日(土,日)の2日間,新宮市福祉センター(和歌山県新宮市野田1-1)において開催します。プログラムは決まり次第お知らせします。
大会研究発表募集
本大会の研究発表を募集します。発表を希望する会員は2月8日(木)までに発表概要(1,000字以内。論旨を明らかにすること)を添えて事務局へお申し込み下さい。発表時間は質疑応答を含めて一人30分の予定です。採用は常任委員会における審査の上で決定します。

2月研究会

下記の通り研究会を開催します。
テーマ:自著を語る──『時がつくる建築』について
発表者:加藤 耕一氏
日 時:2月17日(土)午後2時より
会 場:首都大学東京 秋葉原サテライトキャンパス
(東京都千代田区外神田1-18-13秋葉原ダイビル12階
JR秋葉原駅「電気街口」改札からすぐ)
参加費:会員は無料,一般は500円
建築史とは,じつは新築の歴史であった。建築史学は,歴史上の建築を竣工年ごとに並べていく,いわば年代カタログであった。本書では,そうした既存の方法論を〈点の建築史〉と命名し,建設に要する長い期間や,建てられた後の時間変化に着目する方法論を〈線の建築史〉と命名した。ブローデルが呼んだ「長期持続」のなかで,建物がどのように変化したのか,そして長い時間のなかでもたらされる社会変動のなかで,人々の建築観がどのように変化してきたのかを論じていく。

会費口座引落について

会費の口座引落にご協力をお願い致します(2018年度から適用します)。
会員各自の金融機関より「口座引落」を実施しております。今年度入会された方には「口座振替依頼書」をお送り致しました。手続きの締切は2月16日(金)です。
すでに自動引落の登録をされている方で,引落用の口座を変更ご希望の方は,新たに手続きが必要となります。用紙を事務局へご請求下さい。

会費種別の変更申請について

下記の会員種別への変更申請を受付けております。
①シニア会員:3月31日までに満65歳以上になった人で,正会員からの会員種別変更を希望される方。年会費8,000円
②準会員:博士課程等を修了し,常勤職等がない人で,原則,学生会員から会員種別変更を希望される方。年会費5,000円。
いずれも,ご本人からの申告に基づき,常任委員会での承認を必要とします。種別変更を希望される方は,氏名,連絡先(住所・電話・E-mail),変更の理由(必要に応じて,状況等を説明する書類などを添付)を記して,2018年1月31日(水)までに事務局まで,メールまたは郵送でお送り下さい。

事務局冬期休業期間:12月23日(土)~1月8日(月)

研究会要旨
シチリアの海事秩序形成過程
──13―14世紀の請願と海事規定―─
高橋 謙公
7月15日/首都大学東京 秋葉原サテライトキャンパス

1282年以来,シチリアは新たな王国を形成するとともに,地中海における和戦の中心に置かれた。その和戦の激化は,航海者や沿岸地域に暮らす人々の安全確保を目的とする法制度の整備を通じて,海事秩序の形成を促した。本報告はその海事秩序形成の過程及びその状況の一端を,13世紀末から1377年のフレデリクス4世治世までを射程に入れ,都市行政と請願史料に加えて,1338年と1362年のportulanus規定(以下p.規定)及びメッシーナ海事評議員規定(以下Me.規定)という司法行政史料を用いて,考察したものである。

1282年3月の「シチリアの晩禱事件」の後,アラゴン・シチリアとアンジュー・シチリア(ナポリ)の間では,激しい戦闘が行われていた。その一方で島内では1283年にメッシーナが,1296年にパレルモが,それぞれ独自の司法権を獲得し,首邑都市を形成していた。都市とその行政府Universitasは王権の手元から離れ自治傾向を強めるとともに,次第に台頭する伯権力と結びついていった。

このように島内の統治,行政に関する地域史研究は,王権よりも伯権力や都市行政権力を強調する傾向にある。そこでは長らく王権,伯貴族,都市の双方向的な関係性を直接的に観察する手法が取られてきた。それに対して報告者は,港湾管理を巡る権利関係を通して鼎立する勢力の関係を分析した。

シチリアの港は地中海交流の歴史の中で,東西南北を結ぶ最重要拠点の1つであり,シチリアの征服が航路交通の主導権を握る手段として自明視されてきた。しかしその一方で上記の通り,港湾管理を含む地方行政のイニシアチヴは,征服者(王権)というよりも伯や都市の地方権力に置かれる。この認識の齟齬から港湾の権利関係を分析し整理する必要があった。つまり港に着目することは地中海政治史を読み解く上でも,王国内の政治史を読み解く上でも重要な論点なのである。

中世のパレルモ港は遠浅で,商船は沖合に錨を下ろし,小舟で入港しなければならなかった。鉤状になったパレルモの港は,両端に設置された塔に結び付けられた鎖cathena portusによって開閉が行われ,その鎖は,入港のための各種徴税を課すとともに,敵性船舶の不当な侵入を遮る防衛装置としての役割を果たしていた。そしてその鎖はUniversitasの財源によって管理されたことから,港湾部における都市の自衛的姿が確認される。さらに1320年代半ばに同都市がロベルト・ダンジォの攻撃を受けたとき,防衛を有力貴族に依頼していたことは,地方権力のイニシアチヴを強調する。しかし,港の秩序形成のための請願は伯に向けられたものばかりではなかった。1331年9月10日の請願は,王に港湾での秩序維持を依頼するものだった。当時カタルーニャ人とジェノヴァ人の対立から,パレルモ港で彼らが争いを起こすことが危惧され,王が治安維持策を講じたのである。この史料は,港湾の秩序形成を巡って1つの勢力のイニシアチヴを想定することの困難さを示している。

加えて1283年2月13日から1284年3月7日にかけて問題となった商人ボンピサーヌスとその商船サンタ・マリア号の訴追及び拿捕に関する係争について,商人側から王に請願が出された。一連の史料から都市と王権との間の競合した司法権が垣間見られた。その司法権の二重性は,13─14世紀のシチリア海事秩序形成に関わる重大な特徴と言える。

その特徴を,王権と都市双方の海事規定,すなわちp.規定とMe.規定の分析を通してより明確にしようと試みた。p.規定の1338年規定と1362年規定を比べると,portulanusの司法的権限は持続している。次いでp.規定とMe.規定を比較すると,どちらも商業的係争での司法権を有していることが明記されていた。係争当事者の裁判管轄権に対する異議申し立ての権利を定めたMe.規定の第23条は複数の司法管轄を示唆する。同様に1362年のp.規定第17条には「判決を下すに当たって他の法廷に疑念の残らぬよう配慮す」ることが指示されている。ここからそれぞれの海事法廷がそれぞれ他の法廷を想定していることが確認された。

では港でのイニシアチヴをどのように問うことができるのか。請願史料からもわかるように,港は王国内の一つの勢力による管理を許さなかった。史料上で危惧されたように,諸外国との接触が単一勢力による港の防衛と管理を困難なものにしたのである。1282年以降の新たな王国の形成期に,鼎立した勢力が協力的とは言えないまでも,並行的な管理を行い,秩序を形成し維持していた。この形成過程を踏まえれば,上述した地中海交流の政治史とシチリア地域史との間にあった認識の齟齬は解消されていくだろう。

プリンストン大学「ベルリンの画家」シンポジウム
中村 るい

2017年4月1日,米国プリンストン大学の大学美術館で,「ベルリンの画家とその世界」と題されたシンポジウムに参加する機会を得ました。同題の特別展覧会にあわせた企画でした(会期は3月4日~6月11日)。

同大は,古代ギリシア・ローマの美術コレクションで知られ,ギリシアのアゴラ発掘にも深くかかわり,古典考古学の研究が盛んです。ニューヨークの郊外の,のどかな学園都市の一角で行われたシンポジウムでした。

「ベルリンの画家」とは,前5世紀のアテネの逸名の画家で,ベルリンにある代表作から,この通称が付けられました。命名者はオックスフォード大学の陶器研究者ビーズレーです。現在,この画家への帰属作品は300点を超えます。前5世紀初め,ペルシア帝国の脅威にさらされたアテネで活躍し,優美で洗練されたスタイルで知られます。今回は,「ベルリンの画家」の名作54点と,関連の陶器や彫刻を合わせて,計84点が展示されました。

シンポジウムでの研究発表は5編ありました。

1 D゠パリオトドロス(アテネ大学)「ベルリンの画家によるレキュトス──伝統と革新」
2 R゠ニール(シカゴ大学)「ビーズレー,ベルリンの画家,鑑定のエロティシズム」
3 M゠ヨッツォ(フィレンツェ考古博物館)「ベルリンの画家と周辺の画家の隠されたインスクリプション」
4 F゠リッサラーグ(フランス文化研究所)「ベルリンの画家──黒地に浮き上がる絵画」
5 T゠シーア(ゲッティンゲン大学)「古典期アテネにおける神話──背景と機能」

今回のシンポジウムは,「ベルリンの画家」をさまざまな観点から考察する内容で,どの発表も興味深く,たとえば4番目のリッサラーグは,この画家の構図の取り方や物語叙述について論じ,5番目のシーアは,陶器画から,当時の宗教認識や儀礼の実践を読み取ることについて論じました。

最も会場がわいたのが,3番目のヨッツォの発表で,イタリアのコレクションにある,「ベルリンの画家」の陶器に,それまで知られていなかった銘記(インスクリプション)を発見し,その分析結果を発表しました。絵付けの下に文字が描かれていて,最終的には見せることを意図していません。つまり,隠された銘記(hidden inscription)です。これをどう解釈できるのか。工房の指示の語か,またはパトロンと顧客の関係を示すのか。文字は,ローマ字表記では「palindrome」となるようですが,人名なのかどうかも不明で,他にもまだ見つかっていない文字があるかもしれず,今後の陶器画及びインスクリプション研究に新たな可能性を開いたといえるでしょう。

発表後の質疑の時間に,
「そもそも,どうやって見つけたんだ?」
と,皆がいちばん聞きたいと思っていたことをずばり聞いた研究者がいました。発表者は,
「一文字見つかると,あとは次々そのまわりに見つかる。それから特別の光をあてたりする」
と応答し,会場には,何とも形容しがたい,ざわめきが拡がりました。隣の席の,エール大学美術館の学芸員は,「さあ,これから皆が,隠された銘記探しを始めるわ」とつぶやいていました。

ギリシア美術史研究者が数多く集まり,A゠シャピロ(ジョンズ・ホプキンズ大学)や,D゠ウィリアムズ(大英博物館)などの専門家から,活発に質問があり,研究の最前線を垣間見ました。

研究発表の合間に見学タイムが設けられ,特別展示室で,「ベルリンの画家」の命名器をはじめ,ルーヴル美術館,大英博物館,ウィーン美術史美術館や個人コレクターから作品を集めた,見事な展示を見学しました。「ベルリンの画家」のこれだけの陶器が一堂に会するのを見るのは,なんだか夢のような経験でした。

展覧会の企画は,大学美術館の学芸員,M゠パジェット氏で,アッティカ陶器画の専門家です。プリンストンの大学院生がシンポジウムの運営を補佐しており,学生にとってまたとない勉強の機会だとつくづく感じました。

じつは,このシンポジウムの後,ニューヨークとコネティカット州へ移動し,ニューヨークのオナシス財団では,ハニオティス企画の「感情の世界──古代ギリシア,前700年~後200年」展を,コネティカット州のスレーター記念美術館では,ギリシア美術史家のポリット教授に以前から勧められていた,瞠目の石膏ギャラリーを見学しました。紙面がつきましたので,これらはまた機会をあらためてご報告したいと思います。

カイロの霊猫とユダヤ教徒
大稔 哲也

地中海に臨むアレクサンドリアに比べると大分暖かいとはいえ,カイロの冬も深々(しんしん)と冷える。家の立てつけは夏仕様に風通し良くできており,文書館もその例外ではない。ナイル河岸にたたずむ国立文書館に座して仕事をしていると,川筋を渡った冷風が足元へ漂ってくるのを感じる。今から約20年前の冬の朝,私はいつものようにその文書館でシャリーア法廷台帳のマイクロフィルムを繰っていた。オスマン朝期のカイロには10を超す法廷があり,各法廷は裁定を記す文書を発給するとともに,その内容を台帳にも記録していたのである。そこには,民事・刑事事件から,様々な監督職の任免,ワクフ(寄進財)の登録と監督,婚姻,動産・不動産の売買,貸借,遺産相続など,多様なテーマが時系列に沿って記録されていた。我々にとっては,年代記史料からは窺い知れぬ日常生活のディテールが集積された宝の山といえる。

その朝,軍人や官僚以外の一般市民の遺産をもっぱら扱う法廷の,17世紀初めの台帳を繰っていたところ,あるユダヤ教徒の事案が目に入ってきた。当時,エジプトのキリスト教徒やユダヤ教徒も頻繁にシャリーア法廷を利用しており,彼らの遺産についての記録も台帳に載っていたのである。それによると,ムーサー・ブン・マスウードというユダヤ教徒の商人は,カイロ市内の店舗で商売をしていたという。彼には2人の妻がいたが,文書は彼女ら2人と各々の娘の計4人に対して遺産を正しく分配すべく,遺品の内訳を詳細に記していた。さらに読み進めていくと,遺品の中の「猫15匹」という箇所が目にとまった。猫は愛玩のために飼われていたのだろうか,しかし15匹とは多くないのか,そもそも猫は遺産たり得たのだろうか? などと考えをはためかせつつ読み進めると,その猫はザバード(アラビア語で霊猫,ジャコウネコ,civetのこと)であるという記述が続いていた。15匹の内訳はオス12匹,メス3匹であり,1匹はすでに死亡していた。付属の遺品も,角(つの)に詰められた霊猫香,鉛箱,秤など,「その筋の」専門用品の羅列であった。しかも,付記されていた遺産の貨幣換算額を見ると,遺産総額の大半を猫が占めており,恐らく猫2匹で,保有されていたキリスト教徒黒人女性奴隷の金額と同等か,それ以上の高額に値していた。

一般に,霊猫には南・東南アジア系のものとアフリカ系の2種があり,尾の付根の下にある香嚢から,匂いの素が掻き取れるという。その時点では耐え難い臭いであるようだが,それを極端に希釈したものは,えも言われぬ芳香として珍重されてきた。12世紀頃のユダヤ教徒などが遺したゲニザ文書を研究したゴイテインらによると,霊猫香は「チベットやインドシナ,マレー諸島」からエジプトへ,あるいはアデンからインドなどへもたらされていたという。すなわち,12世紀にはエジプトで霊猫香の生産はまだ見られず,輸出入の対象であったと思われる。16世紀前半にカイロを訪れたレオ・アフリカヌス(ハサン・アル゠ワッザーン)は,市内に霊猫香などを扱う生薬商がいたことを記していた。

しかし,17世紀になると,カイロのユダヤ教徒が,盛んに霊猫の飼育を手掛けていたことを確認できる。あらためて先の法定台帳を繰ってみると,霊猫を扱っていたユダヤ教徒の事例は幾つも見つかり,中にはユダヤ教徒女性が他のユダヤ教徒に飼育を委託して,得られた霊猫香を商っていた事例もあった。また,霊猫香を生業として扱う者たちにはザバダーニー,ザッバーディーなどという特別な呼称も付されていた。

このことは,ヨーロッパからエジプトへの到来者の記述からも裏づけられる。1616年にカイロを訪れたピエトロ・デッラ・ヴァッレは市内のヴェネツィア人の家で霊猫が飼育されていたと述べていたし,17世紀半ばに2年間ほどカイロに滞在したジャン・テヴノーは,ユダヤ教徒たちが霊猫を飼っていたことを記録していた。ちなみに,シェークスピアの『空騒ぎ』にも霊猫香(civet)が出てくることは良く知られている。

その後,17─18世紀に霊猫香はヨーロッパで大流行を見せ,オランダ人は猫を本国のアムステルダムへ送って飼育していたという。日本へも,おそらくオランダ人経由で情報がもたらされたのであろう。1725年には,徳川吉宗がオランダへ2匹注文している。

1793年に江戸へ到着した霊猫は,幕府の奥医師であった多紀藍渓によってつぶさに観察され,写生図も残された。一方,1801年,ナポレオンはエジプト撤退に際して,わざわざアフリカ・ジャコウネコをフランスへ移送していた。そして今日,我々はコーヒーの実を食した霊猫の未消化分から取り出した豆を,コピ・ルアクと称して珍重している。

このように,砂埃から逃れられないカイロの文書館の片隅からも,地球大につながる世界が垣間見える瞬間がある。ささやかながら歴史に「引き抜かれる」瞬間であり,共有したい時間でもある。

あるフランス国立図書館司書の想い出
上田 泰史

妖怪漫画で有名な故水木しげる氏の随想に,南国のある少女の死を,日本の自宅に蝶が知らせに来た,という行がある。翅のある軽やかな生き物が死者の霊魂を運ぶという伝承は,世界各地にあるという。2016年の夏,私のもとにも一羽の蝶が訪れた。

パリ国立音楽院(1795年創立)とピアノ教育の歴史を長年研究している。昨年,パリ第4大学と東京藝術大学で取得した博士号をもって研究に一つの区切りがついた。フランス語の博論はパリ音楽院教授J. ヅィメルマン(1785~1853)に関する初のモノグラフィを書くことだった。審査の日まで,義理の息子シャルル・グノーのご子孫,書簡収集家,古楽譜や手稿史料のバイヤー,図書館員,アルシヴィスト,友人,そして指導教授の助力に支えられた。人々が往き交う研究の道程にあっては,ごく自然に出会いと別れが去来する。

留学中の印象深い出会いの一つに,フランス国立図書館司書エリザベート・ミッサウィ氏との邂逅がある。氏との交流が始まったのは,私の指導教官が2013年に主催した学会でのこと。その年のテーマは「第二帝政とフランスのピアノ」だった。ナポレオン三世治下のフランスで進んだ音楽の大衆化の中でピアノ音楽が果たした役割について,あらゆる観点から2日間に亘り徹底した議論が交わされた。ミッサウィ氏がこの学会に出席されたのは,フランス国立図書館音楽部門に未整理のまま保存されていた「ピアノ箱(Cartons-Piano)」の整理状況を報告するためだった。この楽譜コレクションには,パリ国立音楽院由来の未整理楽譜が約8万点(1830年頃~1914年頃)含まれており,これらを一冊ずつ目録・電子化するのが氏の任務だった。

同じ学会で発表していた私は,爾来,氏との個人的交流を深めた。氏は研究者としての私に信頼を寄せ,少々状態の悪い資料でも大概のものは快く複写許可を出して下さった。ヨーロッパの図書館に通ったことのある研究者なら誰もが経験していると思うが,閲覧や複写の許可は通例,その時間帯の閲覧室長の判断で決まる。したがって,室長が「感じの良い」人か「気難しい」人かを見極めるのが史料収集のコツになってくる。だが,私はミッサウィ氏のおかげでどれほど多くの貴重楽譜を複写させて頂いたことだろう。

彼女は,私が企画したコンサートへの招待にも喜んで応じて,一度は登壇して音楽家との対談も引き受けて下さった。

それから暫く,私は論文執筆のため,緑豊かなパリ近郊のアパルトマンに籠りがちになった。一昨春,久々に音楽部門を訪れると,閲覧室長の番に当たっていたミッサウィ氏が,少し大げさな身振りで「ああ,またお会いできて大変嬉しいです!」と私を迎えた。9月に博論審査会が行われることを告げると,激励とねぎらいの言葉をかけて下さった。

その歳のお盆は,審査会の準備に明け暮れた。ある昼下がり,緑の庭から一羽の蝶が台所に迷い込んできた。そっと外に出してやると,また別の窓から居間に舞い込み,今度は真っ直ぐピアノまで飛んできて,鍵盤の裏側で翅を休めた。しばらく見ていると,またひらひらと独りで外に出て行った。

9月16日に審査会を終え,審査員満場一致の最高成績で博士号が認められた。10月に帰国する前日,ミッサウィ氏に帰国を報告しようと音楽部門を訪れた。が,彼女は不在だった。いつもは気難しそうにしている閲覧室長に尋ねると,目に涙を浮かべてミッサウィ氏が夏の間に病で亡くなっていたことを教えてくれた。

私はすぐさま彼女が眠るモンパルナス霊園に赴いた。夕暮れとともに閉園時間が迫り来て,最後の挨拶もできぬままに帰路に就いた。

今年8月6日,調査旅行で来たパリで,再び墓所を訪ねた。ところが,墓石の区画は明らかなのに,列が縦横に並んでいるため,墓の位置を記したメモと実際の配置がなかなか符合しない。炎天下を小一時間彷徨った挙げ句,諦めて「明日,出直そう……」と口にしたその時,足元に彼女の名前を彫り込んだ小さな真新しいプレートを見出した。墓石には彼女の旧姓しか彫られていなかったので,直ぐには気づき得なかったのだ。名前の判らない薄桃色の花の鉢植えを墓石の畔に供え,翌日,帰路に就いた。今度は帰国の日──それは彼女の命日だった──と重ならないように彼女が居場所を知らせてくれたのだろう。

晩年,氏は余命を悟られていたようだ。それだけに,最期の日々に私に示してくれた親愛の身振りを思うと,今でも悲哀の情がこみ上げてくる。会者定離――だが,いかに離別が悲しくとも,出会わずにすれ違う方が,どれほど惜しむべきことだろう。

これからも,私は折に触れて「ピアノ箱」を活用することになるだろう。それが若くして旅立たれた氏への最大の報いとなるように。

自著を語る89
『コプト聖人伝にみる十四世紀エジプト社会』
山川出版社 2016年11月 272頁 5,000円+税
辻 明日香

妻を殺してしまった,とムスリムの男がキリスト教徒の修道士のもとへ駆け込んできたら,修道士はどのように対応すべきなのだろうか。筆者が13─15世紀にエジプトで著されたコプト教会の聖人伝を読み始めたのは全くの偶然であった。14世紀前半に生きたバルスーマーというコプトの聖人の伝記には,当時エジプトのキリスト教徒(その大半はエジプト土着の教会,コプト教会の信徒であった)が直面していた迫害に関する記述があるらしい。大学院においてマムルーク朝エジプトにおけるムスリムとキリスト教徒との関係史を研究していた筆者は,上記の情報をもとにオックスフォードのボードリアン図書館へ『バルスーマー伝』の手稿本を閲覧しに行った。

『バルスーマー伝』には確かに迫害の記述があった。と同時に,『バルスーマー伝』にはすでに一部校訂されている「伝記」部分のほかに,「奇蹟録」が含まれていることに気づいた。「奇蹟録」の内容は部分的に紹介されているものの,校訂はなく,その全容は不明であった。どれどれ,ちょっと読んでみよう,と気楽な気持ちでフォリオをめくり始めたところ,出会ったのが冒頭の妻を殺したムスリムの男の物語であった。

なぜこのような物語が奇蹟譚として聖人伝に含まれているのか。『バルスーマー伝』の世界にひきこまれ,気づくとマムルーク朝期に生きたコプトの修道士たちに関する情報を集めはじめていた。コプト史研究の中心は古代末期からイスラーム初期にある。中世以降,ましてやアラビア語で著された聖人伝に関する先行研究はわずかにすぎず,しかも聖人伝の手稿本はエジプト全土,そしてヨーロッパ各地に分散していた。結局ずいぶんと遠回りをしたが,13世紀後半から15世紀初頭のエジプト(筆者はこれを長い14世紀と位置づけた)に生き,聖人伝が残された7名のコプト聖人について,その生涯とその崇敬のあり方を分析し,そこから浮かび上がるエジプト社会の様相について考察したものが博士論文,そして本書となった。

エジプトのコプトの大半は,14世紀半ばに起きた大迫害を機に,イスラームに改宗したと言われている。同時にこの時代,コプトに信仰の保持を呼びかけ,その行いにより「聖人」として崇敬された隠修士や修道士の活動が目立つようになり,彼らの生涯と奇蹟を記した聖人伝が著された。これら聖人伝の最大の特徴は,聖人の死後まもなく編纂されたと考えられること,同時代のムスリム知識人が著した年代記から裏づけが可能な,聖人が生きた時代の歴史的事件や人物に関する正確な情報が述べられていることにある。本書は,これら聖人伝テクストの生成理由に着目し,聖人伝の著者や聴衆,(資金を提供したであろう)修道院など,テクストの生成に関わった集団について考察した。その上で,聖人伝に著された内容─理想とされた聖人像,聖人崇敬の実践やそれを取り巻く政治社会状況─や執筆の意義を検討した。

聖人伝の記述からは,13─15世紀におけるコプト社会を取り巻く状況,そしてその変化の過程を追うことができる。13世紀後半には,コプト社会は重税や教会破壊,改宗圧力といった問題に直面していた。『バルスーマー伝』からは,1301年に公布された法令に強く抗議する聖人の姿が浮かび上がる。『アラム伝』は教会破壊について伝え,『ルワイス伝』では聖人自身の父親が改宗したとされている。『ルワイス伝』,『ムルクス伝』,そして『イブラーヒーム・アルファーニー伝』では,聖人の逮捕や拷問,改宗問題への対応が主題となっている。聖人伝の内容には,それが著された時代において共同体にとり最も差し迫った政治あるいは社会情勢が反映されているのである。

また,各聖人伝に含まれる「奇蹟譚」には,聖人に恩寵(バラカ),治癒,助言,執り成しなどを求める参詣者の姿が描かれている。聖人に恩寵や治癒を求めることはどの社会においても見られるであろうが,その治癒方法(ハリネズミの血を塗る,等)や相談の内容(改宗したものの,キリスト教に戻りたい,等)にはエジプトの風土や古代からの慣習,マムルーク朝という時代の特徴が反映されている。冒頭のムスリムは聖人に叱られながらも,妻を霊界から取り戻すことができた。このようなムスリムによる参詣はマムルーク朝において日常であったかもしれないし,信者にコプト聖人のムスリム聖者に対する優位性を示す戦略的な物語であるのかもしれない。荒唐無稽ではあるが,前近代の中東社会における,対立や迫害だけでは語ることのできないムスリムとキリスト教徒の関係を示唆した物語である。なじみの薄い分野の本かもしれないが,手にとっていただけたら幸いである。

表紙説明

地中海世界の〈城〉9:ベアトゥス黙示録写本のエルサレム/毛塚 実江子

挿絵は8世紀末の修道士ベアトゥスによるヨハネ黙示録註解を写した写本群,いわゆるベアトゥス写本の一例(ニューヨーク,ピアポント・モーガン図書館,MS644,ff.240-241)である。バビロンの王に攻め込まれるエルサレムが見開き2ページにわたって描かれている。

主題は「エルサレムの崩壊」であり,黙示録ではなく,ダニエル書註解に付されたものである。一部のベアトゥス写本には,黙示録註解に加え,ダニエル書とヒエロニムスによるダニエル書註解も収められている。ダニエル書註解が黙示録註解写本に取り入れられた経緯は不明であるが,この挿絵は現存する最古のダニエル書註解挿絵として知られる940年頃の作例である。ダニエル書はヨハネ黙示録に先立つ黙示文学であり,この「エルサレムの崩壊」挿絵は黙示録の「バビロンの崩壊とそれを嘆く王たち」と形式的に呼応し,その主題は「天上のエルサレム」と対を成している。

エルサレムは,厳密には城というより城壁に囲まれた都市であるが,左ページ(38×28cm)の3分の2を占める挿絵では,城壁と城門の正面部分のみが,一つの城塞のように大きく象徴的に描かれている。城門中央にはわずかに円弧を閉じた馬蹄形アーチ,両脇には一対の塔あるいは櫓が配され,その上部からは,矢や槍,投石などで防戦する人物らが描かれている。線描により簡略化されてはいるが,城の左右には控え壁のような構造体が,壁面には円形や壁龕状の装飾,胸壁に鋸状の装飾などが伺える。挿絵の左下,城壁の外側には,頬に手を当ててエルサレムの崩壊を嘆くエレミヤが座している。

見開き右のページ下部には,エルサレムに攻め入るバビロンの王ネブカドネツァルと,その騎馬軍隊,上部右には,玉座のネブカドネツァルと処刑されるユダの王ゼデキヤの息子たち,左に足枷をされ目を抉られるゼデキヤが描かれている。この場面はダニエル書ではなくエレミヤ書(39章)や列王記(24─25章)に由来する。ダニエル書に登場する同じネブカドネツァル王の話であるため採られたと考えられ,とくに城壁の傍らで嘆くエレミヤ,王や息子の処刑の描写は,960年の年記を持つ聖書写本のエレミヤ書場面にも類例が残る。そのため,この挿絵は,聖書写本と黙示録註解写本であるベアトゥス写本の接点を示す貴重な作例であるといえる。研究によれば,聖書写本と共通するダニエル書の挿絵サイクルには,城に迫る王の騎馬軍隊は含まれていない。騎馬隊は聖書写本の他の部分に散見されるが,新たにこの場面にも取り入れられたのである。それによって,城の上部から矢をつがえ槍を構える兵たちと攻防の視線が交錯し,ページをまたいで緊張感のある場面構成が作り出されている。

挿絵の作者は画期的かつダイナミックな挿絵世界を構築し,「大挿絵師」と呼ばれたマギウスである。この「エルサレムの崩壊」挿絵においても既存の図像を巧みに再構成する挿絵師の卓越した技量の一端が見てとれる。それとともに,城壁の下に敵が迫り来るというリアリティは,当時のイベリア半島南部,アンダルスとの前戦地域におかれた修道院の日常をも表しているのである。