地中海学会月報

MONTHLY BULLETIN

学会からのお知らせ

第40回地中海学会大会

6月18日,19日(土,日)の二日間,首都大学東京南大沢キャンパス11号館204教室(八王子市南大沢1-1)において,第40回地中海学会大会を開催した。会員114名,一般11名が参加し,盛会のうち会期を終了した。会期中1名の新入会員があった。次回は東京大学(文京区)で学会設立40周年記念大会を開催する予定です。

6月18日(土)
開会宣言 13:00~13:05 山田幸正氏
挨拶 13:05~13:10 上野淳氏
記念講演 13:15~14:15
「ミケランジェロの芸術」長尾重武氏
地中海トーキング 14:30~16:35
「ニュータウンの古今東西」
パネリスト:島田誠/中島智章/松原康介/吉川徹/司会:山田幸正 各氏
授賞式 16:40~17:00
「地中海学会ヘレンド賞」
地中海学会総会 17:00~17:40
懇親会 18:00~20:00[レストラン ルヴェソンヴェール]
6月19日(日)
研究発表 10:00~11:55
「バナサ青銅板に見るマルクス・アウレリウス治世の北アフリカ」大清水裕氏
「ダンテにおける《太陽と月の比喩》」星野倫氏
「ジュゼッペ・ヴェルディのオペラ《リゴレット》(1851)における作劇法
─《ヴァンドーム公》(1850)を手がかりとして」園田みどり氏
シンポジウム 13:00~16:40
「地中海の水と文化」
パネリスト:飯田巳貴/樋渡彩/深見奈緒子/司会兼任:陣内秀信 各氏

第40回地中海学会総会

第40回地中海学会総会(石川清議長)は6月18日(土),首都大学東京南大沢キャンパス11号館204教室で下記の通り開催された。審議に先立ち,議決権を有する正会員521名中(2016.6.15現在)515名の出席(委任状出席を含む)を得て,総会の定足数を満たし本総会は成立したとの宣言が議長より行われた。2015年度事業報告・決算,2016年度事業計画・予算は満場一致で原案通り承認された。2015年度事業・会計は大髙保二郎・木島俊介両監査委員より適正妥当と認められた。
議事
一,開会宣言
二,議長選出
三,2015年度事業報告
四,2015年度会計決算
五,2015年度監査報告
六,2016年度事業計画
七,2016年度会計予算
八,閉会宣言

2015年度事業報告(2015.6.1~2016.5.31)
I 印刷物発行
1.『地中海学研究』XXXIX発行 2016.5.31日発行
「西欧中世における球形懐炉に関する一考察─聖具から君主の蒐集品へ」 太田泉フロランス
「ヴィンチェンツォ・デ・ロッシとポントルモ
─フィレンツェ公爵コジモ1世のための「ヘラクレスの泉」初期構想」 友岡真秀
「パライオロゴス朝前期ビザンツ帝国におけるヘレニズムの変容
─ヘシュカズム論争前後の学問観の変化から」 窪信一
「研究ノート レオンの『960年聖書』挿絵師の同定問題について」 毛塚実江子
「書評 高山博著『中世シチリア王国の研究─異文化が交差する地中海世界』」 藤崎衛
「書評 渡辺真弓著『イタリア建築紀行─ゲーテと旅する7つの都市』 赤松加寿江
2.『地中海学会月報』 381−390号発行
3.『地中海学研究』バック・ナンバーの頒布
II 研究会,講演会
1.研究会
「ヴェネトの丘陵地帯における居住と生産の領域─ソアヴェのテリトーリオ」
赤松加寿江(東京大学 7.18)
「1640年代のイエズス会本部と日本管区の交渉」木﨑孝嘉(東京大学 10.24)
「神話の語りと叙事詩の性質
─オウィディウス『変身物語』における統一性をめぐる考察」河島思朗(東京大学 12.19)
「フランチェスコ・ボッロミーニによる『オプス・アルキテクトニクム』と
オラトリオ会の建築計画」岩谷洋子(東京大学 2.20)
「川村清雄のヴェネツィア滞在後期について」石井元章(東京大学 4.16)
2.連続講演会(休会中)
III 賞の授与
1.地中海学会賞授賞 受賞者:該当者なし
2.地中海学会ヘレンド賞授賞
副賞 受賞記念磁器皿「地中海の庭」(星商事株式会社提供)
受賞者:奈良澤由美
IV 文献,書籍,その他の収集
1.『地中海学研究』との交換書:『西洋古典学研究』『古代文化』『古代オリエント博物館紀要』『岡山市立オリエント美術館紀要』Journal of Ancient Civilizations
2.その他,寄贈を受けている(月報にて発表)
V 協賛事業等
1.NHK文化センター講座企画協力「地中海:「本」の文化」
2.同「地中海の風景」
3.同「地中海・人々の暮らし:祈りの場」
4.ワールド航空サービス知求アカデミー講座企画協力「地中海学会セミナー:地中海世界への誘い」
VI 会議
1.常任委員会     5回開催
2.学会誌編集委員会  4回開催,他Eメール上にて
3.月報編集委員会  1回開催,他Eメール上にて
4.大会準備委員会  2回開催,他Eメール上にて
5.大会準備委員会・実行委員会(合同) 2回開催,他Eメール上にて
6.電子化委員会   Eメール上で逐次開催
7.賞選考小委員会  1回開催,他Eメール上にて
8.将来構想委員会  3回開催
VII ホームページ
URL= http://www.collegium-mediterr.org
「設立趣意」「役員紹介」「活動のあらまし」「入会のご案内」「NEWS」「事業内容」「『地中海学研究』」「地中海学会月報」「地中海学会の出版物」
「写真で綴る旅」
VIII 大 会
第39回大会(於北海道大学学術交流会館)
IX その他
1.新入会員:正会員10名;学生会員11名
2.学会活動電子化の調査・研究

2016年度事業計画(2016.6.1~2017.5.31)
I 印刷物発行
1.学会誌『地中海学研究』XXXX発行
2017年5月発行予定
2.『地中海学会月報』発行 年間約10回
3.『地中海学研究』バック・ナンバーの頒布
II 研究会,講演会
1.研究会の開催 年間約6回
III 賞の授与
1.地中海学会賞
2.地中海学会ヘレンド賞
IV 文献,書籍,その他の収集
V 協賛事業,その他
1.NHK文化センター講座企画協力
「地中海・人々の暮らし:祈りの場」
2.ワールド航空サービス知求アカデミー講座企画協力「地中海学会セミナー」
VI 会議
1.常任委員会  2.学会誌編集委員会
3.月報編集委員会  4.大会準備委員会
5.電子化委員会  6.将来構想委員会
7.その他
VII 大 会
第40回大会(首都大学東京) 6.18~19
VIII その他
1.賛助会員の勧誘
2.新入会員の勧誘
3.学会活動電子化の調査・研究
4.展覧会の招待券の配布
5.その他

論文募集

『地中海学研究』XXXX(2017)の論文・研究動向および書評を下記の通り募集します。
論文・研究動向 400字×80枚以内
書評 400字×20枚以内
締切 2016年10月末日(必着)
投稿を希望する方は,テーマを添えて9月末日までに事前に事務局へご連絡下さい。「執筆要項」をお送りします。本誌は査読制度をとっています。

新事務局長および本部変更

高山博氏の事務局長任期満了により,陣内秀信会長より山田幸正氏が新事務局長に委嘱されました。これに伴い学会本部を下記の通り変更します。

旧:東京大学 高山博研究室
新:首都大学東京 山田幸正研究室

10月研究会

下記の通り研究会を開催します。

テーマ:ルネサンス期フィレンツェにおける〈異端〉の争点
─ボッティチーニ《パルミエーリ祭壇画》をめぐる関連史料の検討を通して
発表者:秦 明子氏
日 時:10月15日(土)午後2時より
会 場:首都大学東京 秋葉原サテライトキャンパス
(東京都千代田区外神田1-18-13秋葉原ダイビル12階 JR秋葉原駅から徒歩1分,つくばエクスプレス秋葉原駅から徒歩2分,東京メトロ日比谷線秋葉原駅・末広町駅から徒歩5分)
参加費:会員は無料,一般は500円

本祭壇画は,人文主義者パルミエーリ(1406-1475)が墓所礼拝堂に注文した聖母被昇天を主題とする作品であり,1477年に設置された。しかし作品は異端視され,本人がダンテの『神曲』を範として晩年に著した『生命の都』の写本とともに,禁令下に置かれたことが知られている。本発表では,異教の学説や図像を寛容に受容した15世紀後半の同地で,作品が異端視された争点を関連史料の検討を通して詳らかにすることを試みる。

新名簿作成

本学会では,今秋,新名簿を作成する予定です。準備のため,会員各位の掲載項目の確認書を本月報に同封してお送りします。ご確認の上,変更がございましたら9月30日(金)までに事務局へご連絡下さいますよう,お願い致します。

研究会要旨
川村清雄のヴェネツィア滞在後期について
石井 元章
4月16日/東京大学

明治期の洋画家として名高い川村清雄は,留学中の1876年2月に物価高を理由にパリを離れ,芸術的にも関心の高かったヴェネツィアに移る。次いで,後に同地駐箚日本名誉領事となるグリエルモ・ベルシェーと美術学校付属の博物館検閲官の職にあったグリエルモ・ボッティの推薦を受けて,同年4月14日,1875-76学年度の人物画,建築,装飾に学籍登録した。3ヶ月後の学年末試験では建築で次席二等を受賞する。1876-77学年度も同じ3科目に登録し,装飾の「衣文と組み合わせた浮彫を水彩で描くデッサン」で一等賞を獲得した。翌1877-78学年度は人物画第二学年,解剖学,遠近法,建築に登録したものの,学年末試験では登録のなかった装飾で前年度とほぼ同じ「衣文と組み合わせた浮彫を油とテンペラで描く作品」に出品し,その反復のために一等賞ではなく「賛辞付き名誉言及」に留まる。

本発表で特に注目したいのは,1878年以降1881年10月末の帰国に至るまでの時期である。1878-79学年度,川村は通常より遅い1879年1月に普通科3年に登録し,かつ7月に行われた学年末試験は全て欠席した。加えて,それ以降美術学校に在学することはなかった。その主な理由は,1878年9月8日に文部大臣デ・サンクティスが打ち出した学制改革と考えられる。これによって生徒たちは,それまでのように自由に科目を選択するのではなく,予備科1カ年,普通科3カ年,専科3カ年の厳格に定められたカリキュラムの中で,イタリア語や美術史といった必須科目を毎年受講せざるを得なくなった。加えて,それまで無料であった学費は年間30リラとなった。これには生徒ばかりでなく,川村の若き教師ジャコモ・ファヴレットも狼狽した。

この時期川村の目が,美術学校から豊かな美術環境と市場を有するヴェネツィアという街そのものに向けられていった可能性が高い。例えば,スロヴェニア人画家イヴァン・ポズニクが川村に宛てた1878年7月付覚書が江戸東京博物館に残されているが,それを読むとポズニクが川村と出会った嬉しい驚きの中で文章を認めた様子が目に浮かぶ。また,川村は同年秋に,親交のあったスペイン人マルティン・リーコ・イ・オルテガと共にパリ万博を訪れて美術の新しい動向を目のあたりにした。次いで,1879年12月18日には親友オレステ・ダ・モリンと共にマグレ・アクワ通のアトリエで,イタリア統一の英雄ガリバルディを賞賛した文面をその写真付葉書の裏面に書き付けている。

川村は彼の生涯について語った「洋画上の閲歴」の中で,この頃ある展覧会に出品した絵が初めて売れたことについて述べる。「絵師の倶楽部,明治美術会のやうなもので[開かれた]一ツの展覧会」にリーコに言われた「精神で」「描いた」二枚の水彩画を出展し,それを英国人画家が購入したという。しかし,具体的な展覧会の名称,開催時期,そして購入した画家の名には言及しない。この芸術家の集まりについて,ダ・モリンは江戸東京博物館収蔵になる1883年2月16日付の手紙の中で「ここのサークルで君の可愛らしい作品が見られるかと思ったが,残念だった」と語る。原文中の「Circolo」が大文字であるから,特定の機関を指すと推測されるが,同じ資料に挟まれたもう一通の1879年10月20日付「ヴェネツィア芸術家サークル」の会費督促状により,それが裏付けられる。ヴェネツィア新聞の記事を繰っていくと,このサークルが芸術家の互助会的存在として1875年に設立され,1879年から毎年夏に会員の作品を売却する展示即売会をサークルの部屋で催したことが判る。1881年の第3回展示即売会は,しかし同年9月にヴェネツィアで開催された万国地理博覧会に併せて大々的に開かれることになった。ヴェネツィア新聞は9月27日の記事で,前26日に「川村清雄作《日本の幻想》(水彩画)第23室,第23番,ヘンリー・ウッズ氏により購入される」と伝える。ロンドンの国立美術図書館に収蔵されるウッズの日記は,9月18日に彼が川村の絵をcombinationと見て,買いたいと思ったこと,そして購入したのは21日であることを伝えている。新聞記事が発行された後,ウッズはその切抜を添えて親友リューク・ファイルデスに宛てて28日に手紙を書いているが,その中で川村の絵が「half natural, half Japanese」と評価する。つまり,川村の絵は日本的な装飾的要素と(西洋「現代」絵画の)自然主義的傾向を合わせた最新鋭のものであるとウッズは考えた。これはジャポニスムの画家たちが目指していた本質を突く概念を表明した数少ない言説である。ウッズの日記は10月27日に川村からもう一枚絵を買ったと述べる。川村は10月30日にナポリ港を出帆して帰国したから,ヴェネツィアを引き払う最後の日までウッズに買ってもらう絵と格闘していたことになる。

地中海学会大会 研究発表要旨
バナサ青銅板に見るマルクス・アウレリウス治世の北アフリカ
大清水 裕

バナサ青銅板(Tabula Banasitana, IAM, II, 94)は,ローマ帝国による地中海世界支配のあり方を示す最重要史料の一つである。この青銅板は,1957年,現在のモロッコ北部,セブー川南岸に位置するバナサという都市の遺跡で発見された。高さ64センチメートル,幅42・5センチメートルであり,53行にわたって銘文が刻まれている。発見されたのがこの都市のフォルム(広場)に隣接する浴場の跡であったことから,この青銅板は,本来,都市の中心たるフォルムに掲示されていたと想定されている。

この青銅板に刻まれたテクストは,現在のモロッコ北部に居住していたゼグレンセス族の長ユリアヌスからのローマ市民権を求める請願に対して,マルクス・アウレリウス帝(在位161~180年)がそれを承認したことを示す三つの文書から構成されている。

まず1~13行目には,ゼグレンセス族の長ユリアヌスの請願に応えて,マルクス・アウレリウス帝とその同僚ルキウス・ウェルス帝が,彼とその家族に対してローマ市民権を付与することを認めた書簡が刻まれている。次に14~21行目には,恐らく先のユリアヌスの息子と考えられる同名のユリアヌスが,やはり自身の家族へのローマ市民権付与を求めた請願に対して,マルクス・アウレリウス帝とその共治帝だった息子のコンモドゥスがそれを認めた返書が記されている。そして,22行目以降には,ローマ市民権付与の正式な証明書の写しと皇帝顧問会のメンバーとみられる12名の元老院議員及び騎士身分高官の署名が記録されている。

この青銅板は,ローマ市民権付与の手続きを記録した重要史料として,ローマ帝国史研究においてたびたび引用されてきた。1957年にこの青銅板が発見された後,まず,1961年にW. SestonとM. Euzennatの連名で速報がなされている。この段階では,その内容が紹介されるにとどまり,属州総督が仲介する形でローマ市民権が付与されていることから,外交による平和維持が図られていたこと,またその付与条件から,当時のローマ市民権が単なる名目だけの形式的なものではなかったこと,などが指摘されていた。その後,1971年になって,両者の連名で,銘文のテクストと写真を伴う形で正式な報告がなされた。ここでも,バナサ青銅板の外交的側面が改めて指摘され,属州総督の果たした役割が重視されるとともに,最後に登場する12名の元老院議員や騎士身分の高官についても,北アフリカ情勢に詳しい人々であり,市民権付与を議論する特別委員会であったと想定されている。反乱を起こしがちな蛮族を訓化しようとするローマ側の一貫した政策の存在さえ主張されていたのである。

銘文のテクストと写真が公開されたことによって,1970年代には研究が大きく進展した。そこで注目されたのは,本青銅板に記録されたローマ市民権の実態や市民権の付与手続きであった。ゼグレンセス族のユリアヌスへのローマ市民権付与は必ずしも例外的な事例ではなく,通常のローマ市民権付与手続きに則ったものであったことが強調されたのである。その結果,近年では,バナサ青銅板の分析に際して,SestonやEuzennatの指摘していた「外交」的要素が考慮されることはほとんどなくなっている。例えば,2006年に刊行された『ケンブリッジ版古典文明辞典The Cambridge Dictionary of Classical Civilization』の本青銅板の項目においては,請願者のローマ文化への憧れを示すものという解釈が提示されている。ローマ帝国の「中央」からの視点で理解されることの多い史料だと言える。

しかしながら,ローマ市民権の付与手続きだけではなく,本青銅板が製作され,公に掲示された経緯を考えたとき,SestonとEuzennatの指摘した「外交」的側面が全く的外れであったとは思えない。今回の報告では,バナサ青銅板がどのような状況で制作され掲示されたのか,より具体的に言えば,誰のイニシアティブで製作・掲示されたのか,という点に着目し,本青銅板の史料的意義を再考した。そもそも,本青銅板の発見された都市バナサは,アウグストゥス時代に退役兵が入植したローマ植民市であり,マウレタニア・ティンギタナというローマ帝国の南西端に位置する属州にあって,支配の拠点となる都市であった。本青銅板にローマ市民権付与の事実が記録されたユリアヌス一家の属するゼグレンセス族の町ではなかったのである。本報告では,その事実を出発点として,マウレタニア・ティンギタナ属州におけるローマ支配の実態を踏まえ,本青銅板の位置づけを見直した。バナサ青銅板は,ローマ文化に憧れを抱く原住民への単純な市民権付与の記録ではない。むしろ,支配の安定を目指す属州総督のイニシアティブで製作された宣伝媒体とみなすべきものであり,その地域的・時代的特色を捨象して理解することはできないのである。

地中海学会大会 研究発表要旨
ダンテにおける《太陽と月の比喩》
星野 倫

ダンテは,ラテン語政治論Monarchia(『帝政論』)第3巻4章で,当時流通していた《太陽と月の比喩》すなわち「教皇=太陽・皇帝=月」という図式を完全否定する。だが,ダンテのテクストを広く見わたしてみると,かなりの箇所で教皇・皇帝に関連した《太陽》や《月》の比喩が登場し,中には,件の「教皇=太陽・皇帝=月」の図式を是認しているものもある。この比喩に対する態度をメルクマールとして,ダンテの関連テクストをいくつかのグループに分けることができれば,成立年代のわかっていない『帝政論』を時間軸上に位置づける手がかりを得ることができるかも知れない。

当時流通していた《太陽と月の比喩》は,『創世記』の「神は太陽と月をつくられた」という記述を,教皇/皇帝に関するfigura(予言的象徴表現)と解釈するところに端を発する。そして,月がその光を全面的に太陽に負っている以上,同様に,皇帝もその権威を教皇に依存していると考えるのである。教皇の一方的な優位性を表象するこのような比喩は,比較的新しい発明である。

ダンテ自身のテクストは大きく3グループに分けられる。第1のグループに属する書簡V,VI,VII(いわゆる「政治書簡」)は,ハインリヒ7世が1312年に予定されたローマでの戴冠をめざしてイタリアに南下してきた時期(1310年10月~1313年8月)のものである。一つ目の書簡Vは,「イタリア諸君侯・人民への手紙」となっており,ハインリヒは平和の太陽 (Titan pacificus)と位置づけられるが,手紙の最後になって突然,「クレメンスが照らしだしているより小さな光明」という表現で,「月としての皇帝ハインリヒ」への言及がなされる。この姿勢は,続く1311年3月31日付の書簡VI「市内のフィレンツェ人への手紙」にも受け継がれる。翌月の書簡VII「ハインリヒ7世への手紙」では,ダンテは,ハインリヒ7世に向かって直接,太陽(Titan および sol noster)と呼びかける。書簡V・ VIにあった《太陽=教皇・月=皇帝》という表現は見あたらない。以上3通の政治書簡は,クレメンス5世とハインリヒ7世との良好な関係を前提に教皇庁側の《太陽=教皇・月=皇帝》という図式を受けいれつつ,いっぽうで,皇帝ハインリヒを太陽として礼讃しているという点で,明白な共通性をもつ。

だが,1312年,クレメンスはローマに来なかった。クレメンスとハインリヒの協調路線が崩れた1312年以後,もはやダンテには,流通する《太陽=教皇・月=皇帝》の図式を受けいれる必要性は全く残っていなかった。

第2のグループでは,《太陽=教皇・月=皇帝》の比喩の消失と「二つの太陽」という特異なイメージの登場が特徴的である。『神曲』〈煉獄篇〉16歌で,詩人マルコ・ロンバルドは,かつてのローマ帝国をふりかえって,「二つの太陽due soliがあって,現世の道と神の道を照らして見せていた」と語る。《教皇=太陽・皇帝=月の比喩》は完全に姿を消し,(古代ローマの話としてだが)同時に《二つの太陽》があったという二元論を端的に表象する新たなイメージが提出される。ダンテの用いる比喩は,新たなステージに入ったと見るべきだろう。1314年5月~6月のダンテ書簡XI「イタリア人枢機卿への手紙」に見える「ローマはいずれの光からもうち捨てられてutroque lumine destitutam」という表現も,『創世記』のluminariaおよびluminareとは別のlumenという語を用いており,《教皇=太陽・皇帝=月の比喩》からすでに離れ,むしろ〈煉獄篇〉の「二つの太陽」にきわめて近い表現であるという印象を与える。

最後に第3グループとして,『帝政論』第3巻4章における《太陽と月の比喩》への論駁がある。『創世記』では4日目に太陽/月が創造され,6日目に人間がつくられた。もし太陽/月が教皇/皇帝のfiguraだとすると,実体以前に偶有性がつくられたことになり,また人間の罪への治療薬である政治的・宗教的統治システムが人間の存在以前につくられたことになる。さらに,もしかりにこのfiguraが成り立つとしても,月蝕の際わずかながらも月自身が自分の光を発していることが観測される以上,月は独自の存在・力能・働きを有する実体であり,むしろ,皇帝は教皇に依存していないということを示す証拠になる。最後に推論形式の誤謬もダンテは指摘する。こうして,流通する《教皇=太陽・皇帝=月の比喩》は完全に否定され,のみならず《太陽》とか《月》に関する一切の比喩が一掃されることになる。

以上3つのカテゴリーにおいては,もっとも自然な時間的順序は,1→2→3ではなかろうか。最大の傍証は,教皇ヨハネス22世時代の北イタリアの政治状況だが,加えてテクスト内での状況証拠として,『帝政論』と『神曲』〈天国篇〉とのきわめて大きな近親性が注目される。

地中海学会大会 研究発表要旨
ジュゼッペ・ヴェルディのオペラ《リゴレット》(1851)における作劇法
―《ヴァンドーム公》(1850)を手がかりとして―
園田 みどり

《リゴレット Rigoletto》は,ジュゼッペ・ヴェルディ(1813~1901)がヴェネツィアの歌劇場,フェニーチェ座のために作曲したオペラであり(1851年3月11日初演),ヴィクトル・ユゴー(1802~85)の韻文劇『王様は放蕩三昧 Le Roi s’amuse』(1832)を原作とする。台本は,1843年にヴェルディと出会って以来,すでに5作を提供してきたフランチェスコ・マリア・ピアーヴェ(1810~76)が担当した。

フランス国王フランソワ一世の不行状を描く原作戯曲は,パリのコメディ・フランセーズで初日の翌日に上演禁止処分を受けた「問題作」である。1848年革命直後のヴェネツィアにおいて,この戯曲をオペラ化することにはある程度の困難が予想された。実際ヴェネツィア警察は,ピアーヴェから提出されたオペラ台本(タイトルは《呪い La maledizione》)に対して,1850年11月28日に上演不許可の通達を出した。

《ヴァンドーム公 Il Duca di Vendome》は,この通達を知ったピアーヴェが大急ぎで書き換えた台本である(フェニーチェ座文書館所蔵,発表ではLavagetto〔2010〕による翻刻を使用)。《ヴァンドーム公》は早くも同年12月9日に警察の承認を得たが,ヴェルディの激しい抵抗によってただちにお蔵入りとなった。その後,ヴェルディの厳格な監視下で新台本《リゴレット》が用意され,当初予定していた2月20日前後からそれほど遅れることなく,無事に初日を迎えるに至った。

わずか数日のうちに,作曲家に照会せずに慌てて執筆したため,《ヴァンドーム公》におけるピアーヴェの介入は不徹底で,文意の判然としない箇所もある。しかし今日では,ヴェルディが本格的な台本制作に先立って,ピアーヴェと相談しながら1850年8月5日までに作成したいわゆる「散文スケッチ」(各幕の概要を散文で記したもの)はおろか,上演許可の得られなかった台本《呪い》も,所在不明になっている。そのため《ヴァンドーム公》は,作曲家による本来の翻案意図を探る上で重要な手がかりと言えよう。

1850年6月3日付の書簡において,ヴェルディはピアーヴェに原作のフランス語表現に忠実であるようにと指示していたので,《ヴァンドーム公》においては,原作から離れているが,《リゴレット》の初演時印刷台本(Venezia, Gaspari, 1851)と自筆総譜(ヴェルディ全集第17巻〔1983〕の底本)において原作に沿っている箇所は,ピアーヴェによる介入と考えられる。またヴェルディが1850年11月末頃に,第1幕から順を追って書き始めた楽譜草稿(サンタガタのヴィッラ・ヴェルディ所蔵,発表ではForniのファクシミリ版〔1978〕を参照)では,第2幕以降が新台本《リゴレット》と一致しているので,第1幕部分は最初の台本《呪い》を使用していると思われる。

原作戯曲,楽譜草稿,《ヴァンドーム公》,《リゴレット》を比較してみると,ピアーヴェの介入はA.単語レヴェルのもの,B.筋書きに関わるもの,C.その他に分類できる。

A.は「教会」,「信仰」,「祭日ごとに」,「祭壇」を消去し,「せむし」,「不具」,「道化」,「怪物」,および「売春婦」とそれを連想させる表現を避け,為政者が「放蕩」を礼賛したり,為政者を「放蕩者」,「馬鹿者」呼ばわりしないようにする。また「攻略」や「流刑」,斬首の指示,「誘拐」,「死刑台」を避け,「名誉」や「恥辱」,「汚名」,「地獄」の他,「怒りに震える」,「赤くなる」という単語までも,改変・削除の対象にする。これらは「売春婦」を除き,《リゴレット》においてすべて復活している。

B.は以下の5点に認め得る。①娘の誘拐時に,誰が梯子を押さえるか,②誘拐されたときに家の中に一緒にいたはずの女はどうなったのか,③誘拐された娘はその後どのように父と再会するのか,④川べりのあばら家で,殺し屋の妹は何をしているのか,⑤死体の受け取り方法と,道化が瀕死の娘を発見するまで。

C.その他,ヴェルディの翻案意図をよく理解していなかったことを窺わせる介入もある(原作戯曲第3幕第4景の「たった一日ですべてがこんなに変わるとは」を「わしといれば,悲しい時間も少なくなろう」とする,など)。
もっとも,以下の2点については,ヴェルディは《呪い》の段階からすでに作曲するつもりがなかったと思われる。①原作第2幕第4景の国王と老女による喜劇的なやり取りと,②原作第5幕第4景の終わりから第5景全体(娘が息を引き取った後に助けを呼び,医者が登場して臨終を告げる)である。オペラにおいて①はカットされ,②は,父が娘の死後に助けを呼ぶことなく,「ああ,あの呪いだ」と叫んで幕切れとなる。オペラ《リゴレット》は,急速な展開と「呪い」の循環によってしばしば「ブーメランのようだ」と評されるが,ヴェルディの変更はその印象を決定的にするものと言えるだろう。

コミック『THREE』によせて
古山 正人

昨年度は学内の研究助成を受けて,年明けすぐにイギリスへ行った。S.ホドキンソンと会ってスパルタ史研究の現状について意見交換することが主目的であった。彼はP.カートリッジと並んでスパルタ史研究を刷新した牽引者であり,主著Property & Wealth in Classical Sparta, Londonはスパルタの社会経済史の必読書だ。本稿ではホドキンソンから頂戴した1冊の漫画THREE(Kieron Gillen原作,Ryan Kelly・Jordie Bellaire作画,Imagecomics出版 ISBN: 978 -1-60706-963-8)を紹介する。(画などはK.Gillen:THREEで検索可能)

ホドキンソンはヒストリカルコンサルタントとして関わり,巻末で作者ジッレンと対談している。粗筋は以下のようだ。まず巻頭に「スパルタではこの上もなく奴隷化されたものと,この上もなく自由なものとが見いだされる」というアテナイ人クリティアスの言葉が掲げられ,ついでその証しとしてヘイロタイの密殺の場面が描かれる。物語は前364年に設定される。スパルタがレウクトラの戦いに敗れ,続いてメッセニアを失い,衰退し始めた時期に当たる。エウリュポン家はアゲシラオス2世が王で,アギス家はクレオンブロトスがレウクトラで戦死し,息子アゲシポリスも1年で没し,弟クレオメネスが王位にあった。彼は60年と10カ月王位にあったが,その活動はほとんど何も伝えられていない。

主人公の3人はテルモピュライの300人の英雄を反転したもので,映画THREE HUNDREDS(2007年公開)への批判もあると思われる。彼らの名はクラロス(地片-ヘイロタイの基本的機能,農業を暗示),ダマル(妻。飼い慣らされた女とも読める),そしてテルパンドロス(アルカイック期の詩人の名。彼の詩はテュルタイオスの詩と同様にヘイロタイが口にすることを禁じられていたという)。彼はスパルタとヘイロタイの歴史を記憶する語り部として設定されている。クラロスは臆病者,無能を装っている。彼は脚が不自由だが,脚の悪い王-アゲシラオス-はスパルタにとって凶兆だという神託と関連づけて,スパルタの現状を暗示する。エフォロスのエウリュトス(テルモピュライの戦死者の名)一行が夕刻ヘイロタイの住まいを訪れ宴会をしている場面で,テルパンドロスがエウリュトスの息子アリムネストスに歴史を語る。

実在のアリムネストスはプラタイアの戦いでマルドニオスを斃したが,スパルタ大地震後のメッセニアの反乱時に300人の兵とともに待ち伏せを受けて斃された事-テルモピュライの戦いの反転像-を語り,現状に触れるに及んでエウリュトスの怒りを買い,ヘイロタイの虐殺にいたる。クラロス,ダマル,テルパンドロスが逆襲して,エフォロス一行を殺し逃亡する。これを知り,エフォロイはクレオメネスに追撃を命じる。逃亡する3人はかつてのペリオイコイ地域のスキリティス人に裏道を教えられるが,そこは行き止まりの峡谷で,ついに追っ手が迫る。テルパンドロスは致命傷を負うが,クラロスはスパルタ兵を斃し,その鎧兜を着け奮闘する。翌朝,クレオメネスはクラロスと対峙すると見せかけながら,夜の間に崖に登らせた兵士に岩をクラロスに落とさせ,彼を殺した。極めて非スパルタ的な策略で,ヘイロタイのクラロスが英雄的な戦士として描かれ,スパルティアタイとヘイロタイの関係が逆転している。

この後,スパルタ部隊は残り2人の遺体(1人は顔を潰されたスパルタ兵)を発見して,報復が完了したと考えて帰還する。ダマルは岩陰に身を潜めて逃れ,メッセニア解放後イトメ山の麓に建設されたメッセネ市で,最後の一夜のクラロスとの交わりでできた双子クラロスとテルパンドロスを産む。最後に衰微したスパルタの状況を,傭兵隊長としてエジプトのタコスのもとに赴いた年老い痩せ衰えて,大地に横たわるアゲシラオスの姿で象徴させる。

この漫画は,スパルタのシステムをヘイロタイの視点から捉えていて興味深い。ジッレンはスパルタ史関連の資料・文献を渉猟し,武器,衣装についても綿密に調査して,その成果をプロット,台詞そして絵に反映させ,現実にありそうなヘイロタイ像を描いた。共同食事ではヘイロタイに生の酒を飲ませ,醜態を演じさせ,生の酒の飲酒や大酒を戒めた。それをヘイロタイの必死の抵抗の発端として効果的に利用している。また,ノッティンガム大学の古典学部とスパルタ・ペロポネソス研究センターのこれまでの活動を背景に,センターに所属し,現代におけるスパルタ受容を研究しているリン・ファザーリンガムがジッレンとホドキンソンを仲介したことも見過ごせない。それによって,スパルタの日常生活の細部が正確に描き込まれることになった。ふたりの対談は読者にTHREEが描かれたことの意味を知り,歴史的スパルタを理解することを可能にしている。そこには歴史の専門家と現代芸術家との幸福な連携がある。

女神ベリサマをたずねて
中川 亜希

フランス南部のミディ・ピレネー地方の村サン・リジエSaint-Lizier。スペインとの国境に近く,雪をかぶった白いピレネーの山々が望める。「フランスの最も美しい村Les plus beaux villages de France」に認定され,また「フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路Chemins de Saint-Jacques-de-Compostelle en France」上の村として,旧大聖堂と回廊,ノートル・ダム・ドゥ・ラ・セデ大聖堂,司教館,そしてガロ・ロマン時代の城壁がユネスコの世界遺産に登録されている。そのため,小さな村ながら巡礼者や観光客が目につく。村はガロンヌ川の支流サラ川沿いの急斜面の丘にある。全長およそ750メートルにおよぶローマ帝政後期の城壁に囲まれているのは,現在の村よりもさらに狭い範囲だが,ケルト人(ガリア人)のコンソランニ族の主要な拠点であった。12の塔をもち(現存するのは10),8メートルの高さが残る城壁は,かつての堅固な都市を偲ばせる。

2015年の大晦日,小雨の中,私は塀を越えてサラ川の土手におり,草むらに分け入った。100メートルほど進むと,サン・リジエ村への入り口となっている橋にたどりつく。目的は,橋桁に埋め込まれているはずのローマ時代の碑文であった。村のインフォメーションで教えてもらった場所を中心に,埋め込まれた不揃いの石を1つずつ確認するが,見つからない。30分以上探したか。諦めかけたその時,未練がましく見やった先に,ようやく文字が刻まれた石を発見した。

「女神ミネルウァ=ベリサマへの捧げもの。クィントゥス・ウァレリウス・モンタヌスが誓願により(捧げた)」(『ラテン碑文集成』XIII.8)。

ミネルウァは言うまでもなくローマの女神,戦争,技芸,知恵などを司る。一方,ベリサマはケルトの女神,工芸や女性の仕事,そして温泉源の守護神として癒しを司るが,戦いの神でもある。ローマが支配を拡げていく際,征服した土地の神とローマの神とが同一視されることがあった。その最も明白な証拠が,このサン・リジエの碑文のように名前が並置されている場合だ。女神ミネルウァは,広大なローマ帝国の各地で様々な神と同一視されたはずだが,その一例がケルトの女神ベリサマなのだ。しかし同一視された相手の神の名前が分からないこともある。例えば歴史家ポリュビオスによると,北イタリアの都市ミラノはケルト人のインスブレス族の拠点であり(『歴史』II.34.10),戦争の女神の神殿があった(『歴史』II.32.5-6)。しかしギリシア人のポリュビオスはアテナと呼んでいるので(つまりローマのミネルウァ),インスブレス族がその女神を何と呼んでいたのかは分からない。ミラノからおよそ720キロ離れてはいるものの,同じケルト人の集落サン・リジエでミネルウァと同一視されたのが女神ベリサマであったため,インスブレス族の女神もベリサマだと推測する者もある。以前,そのインスブレス族の女神について書いたので(「ミラノ―ケルト,ローマ,そしてキリスト教」,本村凌二他著『ローマ帝国と地中海文明を歩く』講談社,2013年,109-126頁),雨であれ,悪路であれ,サン・リジエの碑文を見てみたかったのだ。

インスブレス族の戦争の女神がベリサマかどうかの結論は出せない。しかしベリサマに関する興味深い碑文が,サン・リジエとミラノのちょうど中間,アヴィニョンの近くの町ヴェゾン・ラ・ロメーヌVaison-la-Romaineで発見されている。

「ウィッロネオスの息子セゴマロス(あるいはセゴマロス・ウィッロネオス),ネマウススの公職者(あるいは市民)が,この聖域を女神ベリサマに捧げた」(『ラテン碑文集成』XII, p. 162)。

ギリシア文字を用いて刻まれたケルト語の碑文である(紀元前2-1世紀)。この町はケルト人のウォコンティ族の中心的な拠点であった。サン・リジエの碑文のウァレリウス・モンタヌスは,ヴェゾン・ラ・ロメーヌからきたウォコンティ族出身者であり,移住先のサン・リジエで故郷の女神に奉献したのか。あるいはコンソランニ族出身で,ヴェゾン・ラ・ロメーヌで知ったベリサマを故郷にもたらしたのか。いずれも可能性にすぎないが,ベリサマ信仰の広がりがうかがわれ,サン・リジエとミラノの神が同じであるという推測が少し現実味を帯びる気がする。

ガリアのケルト人の信仰を集めた女神ベリサマは消滅した。最初はベリサマ=ミネルウァ,やがてミネルウァとだけ呼ばれるようになり,ローマがキリスト教の帝国となった末に消えていったのかもしれない。残念ながらサン・リジエでベリサマの神域は発見されていない。しかし橋桁として再利用された1つの小さな石碑が,そこに確かにケルトの女神が存在したことを教えてくれる