地中海学会月報

MONTHLY BULLETIN

学会からのお知らせ

12月研究会

下記の通り研究会を開催します。奮ってご参集下さい。

テーマ:「ヴェローナ・カピトゥラリアCapitulare Veronense(967年)」からみる北イタリアの法文化
発表者:柴田 隆功氏
日 時:12月17日(土)午後2時より
会 場:首都大学東京 秋葉原サテライトキャンパス
(東京都千代田区外神田1-18-13秋葉原ダイビル12階
JR秋葉原駅「電気街口」改札からすぐ,つくばエクスプレス秋葉原駅から徒歩2分,
東京メトロ日比谷線秋葉原駅・末広町駅から徒歩5分)
参加費:会員は無料,一般は500円
オットー大帝は第3回イタリア遠征の最中にヴェローナで「カピトゥラリア」を発布した。これはイタリアにおける地財をめぐる紛争解決手段についての条項を含んだ法令である。本報告では,この法令の内容や作成の過程を,オットーの法的な活動や支配確立の文脈,文書や規範に関する慣習との関係,同時代史料中での法令が扱う事項と関連のある事象という3つの側面から分析し,本法令の作成や運用に関与した人々の規範についての認識を考察する。

第41回地中海学会大会

第41回地中海学会大会を学会設立40周年記念大会として2017年6月10日,11日(土,日)の2日間,
東京大学(東京都文京区本郷7-3-1)において開催します。プログラムは決まり次第,お知らせします。

企画協力講座

NHK文化センター青山教室において企画協力講座が開催されています。
いずれも月曜日,午後1時30分~3時(90分),全6回。
NHK文化センターへの入会が必要,1回のみの受講はできません。
詳細は下記へ直接お問い合わせ下さい。

テーマ:地中海・人々の暮らし~水の物語~
10月3日 水が生み、水が育てた都市ヴェネツィア   陣内秀信氏
11月7日 道しるべとしての「水」─ゲーテのイタリア紀行   田窪大介氏
11月21日 海の民として生きる─中近世ジェノヴァ人の行動様式から   亀長洋子氏
1月16日 トルコの小都市にみる暮らしと水   鶴田佳子氏
2月6日 ベラスケス《セビーリャの水売り》─絵画に描かれる「水」   貫井一美氏
2月20日 水の宮殿アルハンブラ   鳥居徳敏氏
会 場:NHK文化センター青山教室
(東京都港区南青山1-1-1 新青山ビル西館4階 東京メトロ青山一丁目駅直結)
受講料:20,217円,プリント代324円(税込)
入会金:5,400円(税込,3年間有効,70歳以上無料)
申し込み・問い合わせ先:NHK文化センター青山教室 03-3475-1151

図書ニュース

荒井  献 『使徒行伝 下巻』新教出版社 2016年
大髙保二郎 『スペイン 美の貌─大髙保二郞古稀記念論文選』ありな書房 2016年
澤井 繁男 『評伝 カンパネッラ』人文書院 2015年
関根浩子訳 『キリストの受難 十字架の道行き─心的巡礼による信仰の展開』
アメデ・テータールト・ドゥ・ゼデルヘム著 勉誠出版 2016年
田辺 清編集代表 『岡倉天心─明治国家形成期における「日本美術」』
大東文化大学東洋研究所岡倉天心研究班 2016年

ヘレンド賞によせて
奈良澤 由美

長いフランス留学を終えて日本に戻ってきたのは,2011年,東日本大震災の直後でした。学部時代からの恩師であり,震災の翌年の冬にお亡くなりになりました辻佐保子先生から,必ず博士論文は出版するようにと強く言われていたのですが,結局,帰国から出版までも最終的に4年。留学開始の時から数えれば,なんとも長い年月が費やされた末の出版でした。2015年度地中海学会ヘレンド賞をいただくという栄誉にあずかりましたこと,生前に間に合わせることができなかった不祥の弟子ですが,辻佐保子先生に,そして数々の局面で手助けをしていただいた多くの方々に喜んでいただけるだろうと,受賞のご連絡をいただいたときには感無量の思いでした。

 

受章いただきました拙著『Les autels chrétiens du Sud de la Gaule : 5e – 12e siècles』は,南フランス地方の古代末期から初期中世の祭壇を研究対象としています。12世紀以前の祭壇研究は,おそらく日本ではあまりなじみのない分野なのだと思います。この時代の祭壇は考古遺物としても美術品としても特殊なものといえます。キリスト教において,祭壇がどのような形でなければいけないのか,卓部分がモノリスの石であるということ以上に特に規定があるわけではありません。つまるところ単なる石の板であっても「聖別」されることにより,唯一無比の聖性をそなえる典礼備品となります。

古代地中海世界の多くの宗教において,祭壇は供物を捧げ神と交流する場ですが,キリスト教ではひときわ象徴的な意味を担っています。イエスと弟子たちの最後の晩餐の食卓を記念する存在であり,イエスの犠牲を,さらにはイエス自身を象徴します。キリスト教の儀式行為の中心にあり,教会堂が聖なる場所となるための献堂の儀式では,建物と共に聖別されなければなりません。そしていったん聖別された「石」は,たとえその役割から御免になっても,その聖的価値を人々は簡単には捨て去り難く,たとえ断片となっても,聖堂や村の古い記憶としてしばしば後代まで残されています。

そうした「石」を研究するためには,自らの専門である美術史と考古学だけではなく,典礼,郷土史,碑文,教会建築,さらには石の成分分析など,さまざまな専門分野にまたがる研究に交わることが必須でした。留学中,現地の研究者たちとの共同研究に頻繁に参加する機会を得ましたが,専門の異なる研究者たちと連携作業によって統合的に資料を分析判断する重要さを学ぶことができたことは,研究を通じてのかけがえのない経験でした。

そして地中海という大きな風土に内包されるさまざまな地域の,多種多様な専門分野の研究者たちの集う学際的な交流の場である地中海学会から,このように名誉ある賞をいただけましたことは,わたしにとりおおきな誇りです。地中海学会のすべての会員の皆さま,そしてヘレンド賞を支えてくださっている星商事株式会社さまに,こころより感謝申し上げるとともに,来年には40周年を迎える学会と,すでに20年の歴史を持つヘレンド賞の,今後さらなる発展を願ってやみません。

 

研究の上で,実際に目で見て触ること,自らデッサンすることを大事にしてきました。「もの」に対する感覚的な認識,経験に基づく直観的な要素が最終的に非常に重要であることは,調査を通して強く実感したことでした。とはいえ,調査対象である祭壇が現在その役割を果たしているとき,信徒の前で祭壇に近づくこと,触ること,布をはがしたり花をどかしたりすることは,かなりためらわれる作業ではありましたが。祭壇ならではの精神性をときとして強く感じました。

そして,「記憶の伝達」ということを研究において常に強く意識していました。本著では稚拙ながらもデッサンを基本的に個々の事例に付属させましたが,これまであまり祭壇の資料が収集されてこなかった多くの地域で,ただのくり型が施されただけにみえる一見ありふれた石の断片について,その機能を考えてみる助けになるのではと考えたからでした。出版後,フランスだけでなくイタリアやスペインの博士課程の学生などから問い合わせのメールが届くことがありますが,当研究がもしも未来につながる研究の鎖の輪のひとつになることができれば本懐に尽きます。

地中海学会大会 シンポジウム要旨 
地中海の水と文化
パネリスト:飯田巳貴/樋渡彩/深見奈緒子/陣内秀信(司会兼任)

世界のどの地域でも,水は人間の存在と深く結ばれ,文化を育んだ。特に,古くから高度な文明を築いた地中海世界には,多種多様に展開する独自の「水と文化」の結び付きがあるはずである。それを地中海のヨーロッパ世界とイスラーム世界との比較から論ずることを試みた。

先ずイスラーム世界を対象に,深見奈緒子氏が,乾燥地域での水と文化の在り方を「自然の水」「聖なる水」「水を楽しむ」「水技術」という視点から論じた。乾燥地域の厳しい自然の中で独自の思想が芽生え,「聖なる水」の考え方が生まれたとし,コーランにおける天国の4つの川への言及,メッカの聖なる井戸,モスクでの聖なる水の重要性を説明した。一方,水を楽しむ文化が発展し,中庭住居の水をもつ庭園,噴水,水盤,滝などの水の装置や,水の空冷効果を用いた快適環境を生んだことが紹介された。カナートなど水技術の発達で農業革命が起こる一方,都市での水管理が進み,水車での揚水,ハンマームへの水供給が実現したという。いずれも中世イスラーム社会での話であり,高度に発達した水の文化の在り方に驚かされる。最後に,カイロの事例として,ナイル川の役割,都市内の公共給水場,邸宅内の泉と水揚げ水車など,興味深い水の技術や文化が紹介された。

次に,近世イタリアでの水車を使った絹産業の展開について,飯田巳貴氏が報告した。中国起源の養蚕はビザンツ,イスラーム圏を経て,13,14世紀にはこの国の幾つかの地域に伝播し,17世紀までに各地に広がったという。近世には絹撚糸産業がおおいに発達し,近代にかけて北イタリア経済の原動力になった。絹撚糸には手動に加え水車による水力撚糸機械の利用が進み,これが大成功を収め,アルプス以北の諸国へ輸出されたという。こうした絹撚糸製造業の発展に大きく貢献したのがボローニャ式水力絹撚糸機械で,16世紀に水車利用の技術革新が進み,17,18世紀にはカスケード(階段)方式の効率の高い方式が生まれた。一方,近世北イタリアの絹撚糸製造業は都市郊外に展開。南イタリアのカゼルタでも大規模化した絹織物工場がつくられたという。17,18世紀の近世イタリアで水車を用いた産業,経済活動がかくも活発だったという報告は,実に新鮮なものだった。

続いて,樋渡彩氏がヴェネツィアを取り上げ,従来とは異なる視点から,水とこの都市の発展の繋がりを論じた。ヴェネツイアは水に囲われながら水不足に悩まされたという。資源もエネルギーもなく,飲料水も不足するこの水都にとって,都市建設と市民生活を支えたのがテッラフェルマ(大陸)であり,川の水が大きな役割を果たしたことを指摘。シーレ川ではトレヴィーゾを中心に水車による各種産業が栄え,同時に舟運機能もおおいに発達したという。一方,ピアーヴェ川は木材輸送の動脈であり,共和国が管理する森林から切り出された大量の木材が川に運ばれ,製材されて筏に組まれ,ヴェネツィアまで運搬された。ブレンタ川は飲料水の供給も含め,舟運,産業,筏流しなど,多様な機能を巧みに複合化させたという。従来とは異なるヴェネツィアについての川に着目した水の視点からの刺激的な都市論であった。

最後に陣内が,水の実用的側面と象徴的側面の両方に光を当て,地中海世界における飲料水確保(特に貯水槽)と聖なる水の意味を論じた。先ず,これまでフィールド調査で訪ねた地中海世界の諸地域に雨水利用の貯水槽が極めて広く分布する事実を紹介した。次に,聖なる水の意味の視点から,古代のヴェネト地方に存在したピアーヴェ川流域のラグーレ神域の価値,ギリシア世界における水のトポス,中世ヨーロッパでのケルト文化の影響が見られる聖地の状況,サルデーニャに受け継がれる水の聖地,南イタリアに見る水上の宗教行列などを紹介し,地中海のヨーロッパ側にも,今なお水と結び付いた聖なる場の意味が深層に受け継がれていることを論じた。

さらに,議論を深めるために二人にコメントをお願いした。先ず,片山伸也氏は,中世シエナを取り上げ,水源の確保と地下水道(ボッテーニ)の存在が繁栄を支えた反面,内陸の都市故に舟運が得られず,都市発展に限界があったのではという興味深い見解を示した。それを受け稲益祐太氏が,アマルフィ海岸都市は,崖が背後に迫る地形は早くから海洋都市を生んだが,土地が狭くその後の発展の余地はなかった。だが,近世には渓谷の地形を生かし,水車による製紙業を発達させ,再度,水を活かした都市として繁栄したことを論じた。
それを受けたディスカッションでは,中世の早い段階で発展したイスラーム世界の都市での近世の状況,都市ローマの近世の水道の管理,北イタリアと明治の日本の養蚕業の世界での交流などを巡り興味深い議論がなされた。地中海文化を考える上で重要なテーマであり,今後さらに比較研究を深めるべきだとの意見の一致を見た。(陣内秀信)

ロンゴスのレスボス,レスボスのロンゴス
中谷 彩一郎

ロンゴスの牧歌小説『ダフニスとクロエー』(2世紀末頃)の舞台は,地中海世界を彷徨する他の古代ギリシア・ローマ小説とは異なり,レスボス島の都市ミテュレーネー(正確にはミュティレーネーだが写本の綴りに従う)の近郊に限定される。物語中に現れるレスボス島の地勢については,研究者の間でも実際の島の様子を描写しているという考えと,文学的伝統に沿った虚構の理想的世界を描いているにすぎないという意見に分かれている。実際,古代のレスボス島はオルフェウスやアリーオーン,サッフォー,アルカイオスといった詩人や音楽と密接に結びつく土地柄であり,『ダフニスとクロエー』にもその伝統は色濃く現れている。ダフニスとクロエーの恋は季節の移り変わりと呼応して進展していくように意図的に描かれているうえ,随所に過去の文学作品へのアリュージョンが散りばめられているのである。たとえば,フィレータースの庭(2. 3ff.)やディオニューソファネースの庭園(4. 2ff.)の植物のほとんどがホメーロス『オデュッセイア』第7歌のアルキノオス王の庭園と共通しており,自然と人の技が調和して豊穣を産み出している点からも理想的な庭園だということができるだろう。とりわけフィレータースの庭に登場するエロースは可愛らしい姿とは対照的に,ヘーシオドス『神統記』と同じく原初的であらゆるものを結びつける力を持った自然を支配する神であり,いわば自然がエロース自身なのである。

その他の自然描写にもテオクリトスやサッフォーの詩がパラフレーズされていることが指摘されている。さらに物語で重要な役割を果たす牧人の長老フィレータースの名は牧歌詩人の祖とされるコース島のフィレータースに由来するのはほぼ間違いなく,彼の失われた詩の換骨奪胎も多く含まれていると推測される。このように『ダフニスとクロエー』の自然描写の多くが文学的伝統に負っているのは確かだが,果たしてそれだけなのだろうか。

序をみると,「私」がレスボス島で狩りをした折に,木々が繁茂して花が咲き乱れ,豊かな水が流れるニンフの森で実際に見た絵を4巻の物語にしたという体裁を取っている。絵が奉納されているのは物語中では幼いクロエーが発見されるニンフの洞窟(1. 4)だが,『オデュッセイア』第13歌やテオクリトス第7歌にもニンフの洞窟や清らかな水が描かれているとはいえ,大きな岩の中央にある洞窟の入口や中から噴き出す泉,洞窟前の牧草地,3体のニンフ像はロンゴス独自のものである。レスボス島には現在も70以上の洞窟があり,恋物語の記述が実際に目にした者でなければ知りえなかった情報に基づく可能性は十分にある。最新の『ダフニスとクロエー』の註釈者で,筆者の恩師でもあるJ. R. Morgan教授も,レスボス島で夏を過ごした折にロンゴスが描くニンフの洞窟そっくりの洞窟があり感動したと,かつて話しておられた。

具体的な距離がしばしば言及される点も,ロンゴスが現実を描いている証左とされ,それに基づいて物語の舞台を同定しようという研究もある。ただこの点に関しては『ダフニスとクロエー』で表される距離は10の倍数ばかりで,地理的な正確さを表すというよりも具体的な数字を示すことで,本当らしさを出しているといった方がいいのではないかと思われる。一方で第1巻冒頭に,

ミテュレーネーはレスボス島の大きくて美しい都市である。海が流れ込む海峡で区切られ,磨いた白大理石の橋で整えられている。あなたは都市ではなく島を見ていると思うだろう。

とあるのは,パウサニアース8. 30. 2が触れている街を(古代には存在した小島と)二つに分ける海峡や,ストラボーン13. 2. 2が述べる小島の存在と街の美しさがより詳細に描かれているだけでなく,これらの文献にも記されていない橋の存在まで教えてくれる。これも実際に島をよく知る者だからこそできた描写だと考えられる。

また,作者名として以外何も知られていないロンゴスは,ロングスというラテン名のギリシア語表記である。帝政初期の碑文にグナエウス・ポンペイウス・ロングスなるミテュレーネーの有力者の名前がみられることから,恋物語作者もレスボス島に縁のある人物である可能性は高い。他の碑文にもミテュレーネーの神官を務めたアウルス・ポンペイウス・ロングス・ディオニューソドールスという人物が登場する。ディオニューソドールスという名はディオニューソス神との関わりを連想させ,ダフニスの実父ディオニューソファネースやその庭園に祀られたディオニューソスの祠とも通ずるものであり,やはりロンゴスとこの一家,ひいてはレスボス島との何らかの関係を示唆しているといえよう。

すなわち,『ダフニスとクロエー』には,作者ロンゴスが知る実際のレスボス島の情景とホメーロス以来の文学的伝統が融合された新たなレスボス島像が表現されており,現実と理想があいまって独自の理想的景観を醸し出しているのである。

スルバランの聖女たち
楠根 圭子

2015年の夏にマドリードのティッセン・ボルネミッサ美術館で開催された「スルバラン:新たな視座」展は,最新のカタログ・レゾネを刊行したオディール・デレンダが監修したものであり,近年のスルバラン研究の成果を示す内容になっていた。このところの傾向のひとつとして挙げられるのは,スルバランの工房や彼の周辺の画家たちに関する調査が進み,謹厳な作風の“修道士の画家”というだけでなく“聖人像を効率的に生産した工房経営者”という面にも関心が寄せられていることである。

スルバランとその工房が多く手がけたものに,洗練された衣装に身を包んだ聖女の単身像がある。聖女に扮した個人の肖像画として描かれた可能性も否定できないが,多くの聖女像の容貌は似通っており,際立った個性を示しているものは少ない。これらはある程度理想化された顔立ちと,上品な輝きを帯びた色彩豊かな衣装との多様な組み合わせによって創造された。ヴァンサンカシーらの主張によれば,スルバランとその工房による聖女像は,当時のスペインにおける極めて多彩な宗教文化の中に位置付けられる。

たとえば,トレドもしくはブルゴスの守護聖人とされた聖カシルダは,殉教者ではないという点でやや特異な童貞聖女である。また,カシルダはカトリック教会が公認した聖人ではなく,スルバランが活動したセビーリャの守護聖人でもない。カシルダが彼やその工房によって何度か描かれているのは,当時のスペイン全域で自国出身の聖人に対する関心が高まっていたからである。その動きはフェリーペ2世の時代に始まる。16世紀後半から17世紀初頭にかけて出版された聖人伝『フロス・サンクトルム』には,教会に公認された聖人のほか,国内で聖人として崇敬されている人物の生涯も記録された。17世紀前半にはそれらの聖人を扱った絵画やコメディアが制作されるようになる。マドリードの農夫イシドロが1622年に列聖されたことは,各地域に根付いた聖人への崇敬をさらに高めたであろう。

カシルダの伝記で決定版と言えるものはなく,それらには歴史的な根拠を欠くいくつかの物語が組み合わされている。複数の聖人伝に共通しているのは次のような内容である。カシルダはトレドを支配していたモーロ人(ムーア人)の王の娘であったが,ひそかにキリスト教を信仰し,父親が捕虜にしたキリスト教徒たちにパンを運んでいた。ある日,その行為を見とがめた王が「何を持っているのか」と彼女に尋ねたところ,彼女は「薔薇の花です」と答えた。すると,彼女が衣服の間に隠していたパンが薔薇の花に変わった。王はそれを見て,娘がキリスト教徒への慈悲の行いを続けることを許した。カシルダは重い血の病を患っていたが,捕虜の一人は,ブルゴス近郊にある“聖ビセンテの泉”の水を浴びれば治るかもしれないと彼女に告げた。カシルダが王の許しを得てその場所へと向かい,泉の水を浴びると彼女の病は治った。カシルダは洗礼を受け,泉のそばに建てた庵で隠棲し,老齢になるまで生きた。これらの物語によって,カシルダは異教に対するキリスト教の勝利を象徴するとともに,出血を伴う疾患の守護聖人とみなされるようになったのである。スペイン王室においては,カール5世の妃イサベルがカシルダに病の治癒を願ったという記録があり,その後も出産に伴う出血過多に悩む王妃たちによって,カシルダは崇敬されることになる。

ロペ・デ・ベガもしくはその周辺の劇作家の手になる17世紀前半のコメディア『聖カシルダ』は明るい雰囲気に彩られており,道化役と悪魔とのコミカルな会話や,モーロ人の男性たちのカシルダへの恋など,観客を楽しませる要素に満ちている。聖人の生涯を描いたコメディアは喜劇的な要素や恋愛のエピソードを含んでおり,奇跡が起きる場面では大掛かりな演出もなされる。死の影が薄く,現世的な救済のイメージを伴うカシルダは,当時のセビーリャ市民たちにも好まれたのであろう。

スペインの聖女像では,物語的要素を伴わず,アトリビュートとともに単身で描かれる作例が多い。人々はそれらの聖女像から,彼女たちの殉教の物語よりもむしろ自分たちの属する共同体で定期的に行われる祝祭の光景を連想したのかもしれない。セビーリャにおける聖母被昇天祭の様子を描いた1662年頃の絵画には,一時的に設置された劇場のような建築物が見られ,その壁面には天使や聖人たちの絵が多数掛けられている。コメディアの脚本においても,聖人が「絵に描かれるような」姿で登場するという記述がたびたび見られ,舞台芸術と絵画とが密接な関係にあったことが推測される。

描かれた聖女像は,ときに豪華に整えられた祝祭の主役となり,また参加者ともなる存在であった。スルバランの聖女たちの穏やかな眼差しや微笑は,自らの聖性を強調すると同時に,聖画像が信徒たちの生活との間に親密な関係を築いていることを知らしめるものともなりえたであろう。

自著を語る81
豊田浩志編
『モノとヒトの新史料学―古代地中海世界と前近代メディア』
勉誠出版 2016年3月 259頁 2,700 円+税
豊田 浩志

本書は15名の「論文集」であって「自著」ではないが,ご寛恕ありたい。

「見るべき程のことは見つ」。こう言い放って入水した平知盛は享年33歳だった。その2倍馬齢を重ねた私だが,研究人生の店仕舞い間近でようやく見えてきたことがある。それを語ろう。

今夏,科研がらみでここ10年すっかり恒例となったローマとポンペイ・エルコラーノ遺跡を再訪し,幾つかのささやかだが刺激的な出会いを体験した。本論集と関わりあるエピソードを挙げるなら,フォロロマーノ見学(今回の目玉は,修復後10年を経ての30年振りのサンタマリアアンティクァ聖堂の特別公開で,その日は2度目の訪問)を終え,夕刻,丘をくだり地下鉄コロッセオ駅に向かっていて,一息つこうと女神ウェヌスとローマ神殿下の,ベンチならぬフェンスの土台にしばし座った時のこと。スケジュールに縛られた短期調査は思いのほか気ぜわしく,ゆったりした時間はそう持てないが,しかしそれが貴重だった。そこはまさに,3本の樫の木が植わった矩形の台座とコロッセオが重なる場所だったのだが,晩夏の落日を浴びるコロッセオと樫の木を見るともなく眺めているうちに,あの樫の木の高さはどれほどだろうという思いがふと浮かんだのだ。かつてその台座上に30とも37メートルとも伝えられる皇帝ネロに淵源する太陽神の巨像が,紀元後1世紀末から5世紀初頭まで屹立していた。対するコロッセオはその巨像から30メートル離れて,最上階の4層目が今も地上50メートルを誇っている。科研仲間に帰国後問合わせたところ,巨像から20メートル離れた地点に立てば,両建造物はほぼ同じ高さに見える計算になるらしい。こうして,両者を目にしていた当時の人々の実際の目線に,私はようやく気づくことができたわけである。

本論集に誇るべきものがあるとすれば,「定点現地主義によるオリジナリティの追求」だろう。執筆者たちの知見の多くは,研究対象の地をくり返しくり返し訪れ,モノや現地人と渡り合うことで得られたものである。それは民俗学や文化人類学などでは当たり前の手法のはずだが,もともと文字情報中心でやってきた歴史学では,考古学の成果取り入れとの絡みでその必要性は指摘されながらも,実際には最近まで決して本腰が入ったものではなかった。ようやく最近,前世紀の方法に飽き足らない勇気ある若い世代の果敢な挑戦(それは人生を棒に振るおそれさえある冒険)が始まり,彼らの公私にわたる多大の犠牲と尽力が実を結び出してきていて,その成果の一端が本論集なのである。かの地の研究者の成果をかすめ取り,机上の作業で要領よく業績をあげる旧来の研究に較べ,この「現地主義」は迂遠な回り道には違いない。しかし,かの地の住人のメンタリティとそれを育んできた自然風土を体に叩き込んでいくことで,初めて腑に落ちることが必ずある。それが独自の研究視点獲得に通じる,と文献学徒の私が確信できるようになったのは,現地遺跡への日参ならぬ年参が度重なった挙げ句の最近のことである。この実体験が,オリジナルの獲得には10年程度の定点観測が必要,との根拠でもある。

今さらなぜこんなことを書くかというと,前世紀末のある学会の大会記念講演で,西欧の研究者に伍して業績を挙げてきたという触れ込みの著名な大先生が「欧米の学界の方向性がこれまでと異なってきて,戸惑っている」とお話しになったのを聞いたことがあって,まあ正直に心情を吐露されたのには違いなかろうが,いささか虚を突かれたことがあったからだ。彼は果たして「伍して」研究していたのだろうか。欧米研究者の業績の受け売り,これを「横を縦にする」と西洋史学界では自嘲的に表現してきた(それは,かの地の圧倒的な質と量への絶望感の表現である。せめて誤訳・誤読なしであってほしいものだ)。赤面もせずそれを得々とやってきた私のような旧世代は早々に消え去って然るべきだろう。

しかし,かの地の研究に我々が互角に渡り合えることなどできるのだろうか。彼らの研究に多少潤色したもので満足せず,独自の見解を育み提示したいという思いは尊いが,現地に居住して自国史を書く研究者に,異邦の一時滞在者がかなうわけはない。その自明の現実に,はたして一矢報いる手立てはあるだろうか。今に至って私はようやく「ある」と断言できる気がする。あきらめるのは早い。彼らには彼らゆえの盲点がある。彼らがあまりに慣れ親しんでいるため見落としている隙,先入見は必ずある,そこを突けばいいのだ。ただ,それにはコツと時間が必要で,それが定点主義と10年間というわけで,本論集の執筆者はみなその先駆的開拓者なのである。

このような地道で継続的な現地調査は,手厚い経済的支援と見守りなしに成り立たちがたいことも自明である。後続世代のためそれを強く希求して筆を置く。

表紙説明

地中海世界の〈道具〉18:薔薇水瓶/真道 洋子

中国の史書に「大食から琉璃瓶に入った薔薇水が献上された」と記載がある。10世紀当時の大食はアッバース朝の時期で,薔薇水がイスラーム地域の産物のひとつであったことが窺える。薔薇水は現在もサウディアラビアやイランなどで大量に生産され,客を迎える時や食事の前後に散布したり,衣服に香りをつけたり,料理に入れたり,ムスリムの生活の様々な場面で利用されている。

9世紀の哲学者・科学者として有名なキンディーの著には,様々な花から香りのエッセンスを抽出する蒸留法が記されている。薔薇の高雅な香りが好まれるのにつれ,次第に栽培が進み,イラクからシリア,イランにも薔薇水の製造が広がっていった。現在ブルガリアが産地として名高いが,原料の薔薇の名はダマスカス・ローズと呼ばれている。

過去も現在も薔薇水を入れる容器にはガラス製が多いようである。これはキンディーやその他の錬金術師も書いているように,製造時に蒸発して蒸留された水滴を細いロウトを通して先端が細長く伸びた瓶に流し込む仕組みになっている。このような特殊な器形を作ったり,そのまま密封できたり,香りが揮発するのを防ぐのにガラス素材は適していたのであろう。

チュニジアのカヒラワーンを歩いていたら,この瓶をモチーフにした扉を見つけた。薔薇水瓶は古い邸宅の各所随所に展示してあり,市場で売る店にもよく出くわす。細長い首の先に小さな穴があいただけの金属製の瓶にどうやって香水を入れるのかと思いきや,首の根元がネジ式で外れるようになっていた。聖者廟でも門の前に立っていた女性が瓶から香水を振りかけてくれた。最も驚いたのは,昔ながらのコーヒー屋でカフワ(アラブ式コーヒー)を頼むと,おもむろにいわゆる薔薇水瓶を取り出し,コーヒーの中にさっと何か液体を入れたのである。すかさず,何を入れたのかと尋ねると,取り出して見せてくれたペットボトルに「オレンジの花のアロマ」と書かれていた。薔薇水ではなかった。

オレンジやレモンなどの柑橘類はイスラーム教徒がイベリア半島から追い出されたときに一緒に北アフリカに持ち込んだと言われている。ハマメットの博物館ではオレンジの花を蒸留する様子が復元されていた。「春ともなると人々は花を摘み,女たちは家々で蒸留にいそしむ。とくにハマメットでは(オレンジの花の)他に薔薇やゼラニウムの香水も作り,民間療法に用いる。」と解説されていた。

トルコを訪れたときにも,ホテルに到着するとフロントの上に瓶が置いてあって,香水を手にかけて歓迎してくれたが,ここではレモンの香りのコロンであった。バスの中でも車掌が次々と客に瓶から香水をかけてくれたりもした。しかし,バス会社によっては香りの強いウェットティッシュに代わっていた。

モノを通して個性あふれる東西各地の豊かな物質文化やその変化を見て取れるのは調査の楽しみの一つである。