地中海学会月報

MONTHLY BULLETIN

学会からのお知らせ

第39回地中海学会大会

6月20日,21日(土,日)の二日間,北海道大学学術交流センター講堂・小講堂(札幌市北区北8条西5丁目)において,第39回地中海学会大会を開催した。会員71名,一般21名が参加し,盛会のうち会期を終了した。会期中1名の新入会員があった。次回は首都大学東京(東京都八王子市)で開催する予定です。
6月20日(土)
開会宣言・挨拶 13:00~13:10 太田敬子氏
記念講演 13:15~14:15
「動物と人間の二重肖像画(ダブル・ポートレイト)について」 木島俊介氏
地中海トーキング 14:30~16:50
「動物と人のかかわり──地中海世界の文化とくらしにおける動物」
パネリスト:尾形希和子/近藤誠司/日向太郎/司会兼任:鈴木董 各氏
授賞式 16:55~17:25
「地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞」
地中海学会総会 17:25~17:55
懇親会 18:40~21:00 [サッポロファクトリー ビヤケラー札幌開拓使]
6月21日(日)
研究発表 10:00~11:40
「西欧中世における球形懐炉──その歴史的展開および異文化圏との関連を中心に」 太田泉フロランス氏
「14世紀前半のビザンツ帝国におけるヘレニズムの変容」 窪信一氏
「オスマン朝のモスクと中庭」 川本智史氏
シンポジウム 13:00~16:30
「海のかなたへ──移動と移住」
パネリスト:石井元章/工藤晶人/佐藤健太郎/師尾晶子/司会:太田敬子 各氏

第39回地中海学会総会

第39回地中海学会総会(和栗珠里議長)は6月20日(土),北海道大学学術交流会館講堂で下記の通り開催された。審議に先立ち,議決権を有する正会員532名中(2015.6.15現在)519名の出席(委任状出席を含む)を得て,総会の定足数を満たし本総会は成立したとの宣言が議長より行われた。2014年度事業報告・決算,2015年度事業計画・予算は満場一致で原案通り承認された。2014年度事業・会計は大髙保二郎・木島俊介両監査委員より適正妥当と認められた。(役員改選については別項で報告)
議事
一,開会宣言        二,議長選出
三,2014年度事業報告  四,2014年度会計決算
五,2014年度監査報告  六,2015年度事業計画
七,2015年度会計予算  八,役員改選
九,閉会宣言

2014年度事業報告(2014.6.1~2015.5.31)
I 印刷物発行
1.『地中海学研究』XXXVIII発行 2015.5.31日発行
「勇者は,着飾る――マンタ城サーラ・バロナーレ《九人の英雄と九人の女傑》」 伊藤亜紀
「ロレンツォ・デ・メディチの宇宙論的自然観
――ポッジョ・ア・カイアーノ正面入口フリーズの解釈をめぐって」 秦明子
「Realtà e finzione nelle opere di Goldoni: sul tema della guerra」 Sayano OSAKI
「研究ノート 15世紀ピサにおける奴隷所有」 濱野敦史
「研究動向 1700周年に見るコンスタンティヌス研究の展開」 大清水裕
「書評 水野千依著『キリストの顔――イメージ人類学序説』」 森雅彦
「書評 池上俊一著『公共善の彼方に──後期中世シエナの社会』」 西村善矢
「書評 フリッツ・ハイマン著 小岸昭・梅津真訳
『死か洗礼か ――異端審問時代におけるスペイン・ポルトガルからのユダヤ人追放』」 近藤仁之
2.『地中海学会月報』 371~380号発行
3.『地中海学研究』バック・ナンバーの頒布
II 研究会,講演会
1.研究会
「碑文に見るコンスタンティヌス治世のローマ帝国」大清水裕(東京大学 7.19)/「東部地中海の40年前と今(ミニ・シンポジウム)」講演:川田順造/コメンテーター:陣内秀信(司会兼任),師尾晶子,鶴田佳子(國學院大學 9.20)/「ヤコポ・ダ・ポントルモ《キリスト受難伝連作》──十字架の道行きとの関連について」児矢野あゆみ(東京大学 12.13)/「18世紀フランス啓蒙期におけるJ.=Ph.ラモーの音楽理論について」伊藤友計(東京大学 2.21)/「中世末期イタリア都市と奴隷──フィレンツェとピサの事例から」濱野敦史(東京大学 4.18)
2.連続講演会(ブリヂストン美術館土曜講座として)
秋期連続講演会「芸術家と地中海都市 IV」
10.11~11.8「13世紀ローマとアルノルフォ・ディ・カンビオ──教皇庁の墓碑彫刻を中心に」児嶋由枝/「水都ヴェネツィアを彩った建築家たち」陣内秀信/「ルネサンス宮廷都市と芸術家たち」京谷啓徳/「フランドルの画家たちとイタリア諸都市──ブリューゲルを中心に」廣川暁生/「“ゴシックの都”ナポリをつくった芸術家たち」谷古宇尚
III 賞の授与
1.地中海学会賞授賞 受賞者:武谷なおみ
2.地中海学会ヘレンド賞授賞 副賞 受賞記念磁器皿「地中海の庭」(星商事株式会社提供)
受賞者:水野千依,山本成生
IV 文献,書籍,その他の収集
1.『地中海学研究』との交換書:『西洋古典学研究』『古代文化』『古代オリエント博物館紀要』『岡山市立オリエント美術館紀要』Journal of Ancient Civilizations
その他,寄贈を受けている(月報にて発表)
V 協賛事業等
NHK文化センター講座企画協力「地中海への誘い:地中海文化圏の「島」を巡る」
同「地中海への誘い:食と文化
同「地中海への誘い:「本」の文化」
ワールド航空サービス知求アカデミー講座企画協力「地中海学会セミナー:地中海世界への誘い」
VI 会 議
常任委員会    5回開催
学会誌編集委員会 3回開催,他Eメール上にて
月報編集委員会  2回開催,他Eメール上にて
大会準備委員会  1回開催,他Eメール上にて
電子化委員会   Eメール上で逐次開催
賞選考小委員会  2回開催
将来構想委員会  3回開催
VII ホームページ
2014年10月よりリニューアル(寄付基金事業)
URL= http://www.collegium-mediterr.org
「設立趣意」「役員紹介」「活動のあらまし」「入会のご案内」「NEWS」「事業内容」「『地中海学研究』」「地中海学会月報」「地中海学会の出版物」「写真で綴る旅」
VIII 大 会
第38回大会(於國學院大學学術メディアセンター常磐松ホール)
IX その他
1.新入会員:正会員9名;学生会員7名
2.学会活動電子化の調査・研究
3.「絵筆が奏でる色彩のメロディー デュフィ展」展覧会招待券配布(第38回大会会場にて)
4.事務局移転:2014年7月末に恵比寿より元麻布へ移転

2015年度事業計画(2015.6.1~2016.5.31)
I 印刷物発行
学会誌『地中海学研究』XXXIX発行
2016年5月発行予定
『地中海学会月報』発行 年間約10回
『地中海学研究』バック・ナンバーの頒布
II 研究会,講演会
研究会の開催 年間約6回
講演会の開催 連続講演会は会場(ブリヂストン美術館)改築のため休会。
若手交流会
III 賞の授与
地中海学会賞  2. 地中海学会ヘレンド賞
IV 文献,書籍,その他の収集
V 協賛事業,その他
NHK文化センター講座企画協力「地中海への誘い:「本」の文化」
ワールド航空サービス知求アカデミー講座企画協力「地中海学会セミナー」
VI 会 議
1.常任委員会      2. 学会誌編集委員会
3.月報編集委員会    4. 電子化委員会
5.将来構想委員会    6. そ の 他
VII 大 会
第39回大会(北海道大学) 6.20~21
VIII その他
1.賛助会員の勧誘     2. 新入会員の勧誘
3. 学会活動電子化の調査・研究
4.展覧会の招待券の配布  5. その他

論文募集

『地中海学研究』XXXIX(2016)の論文・研究動向および書評を下記の通り募集します。
論文・研究動向 四百字詰原稿用紙80枚以内
書評 四百字詰原稿用紙20枚以内
締切 2015年10月末日(必着)
投稿を希望する方は,テーマを添えて9月末日までに事前に事務局へご連絡下さい。「執筆要項」をお送りします。本誌は査読制度をとっています。

新役員

第39回総会において下記の通り新役員が選出されました。(再任を含む)
会  長:陣内 秀信
副 会 長:武谷なおみ 本村 凌二
常任委員:秋山  聰 新井 勇治 安發 和彰 飯塚 正人 石井 元章 太田 敬子
亀長 洋子 小池 寿子 児嶋 由枝 島田  誠 末永  航 杉山晃太郎
高田 和文 高山  博 鶴田 佳子 貫井 一美 野口 昌夫 畑 浩一郎
堀井  優 益田 朋幸 水野 千依 師尾 晶子 山田 幸正 山辺 規子
監査委員:大髙保二郎 木島 俊介

10月研究会

下記の通り研究会を開催します。
テーマ:1640年代のイエズス会本部と日本管区の交渉
発表者:木﨑 孝嘉氏
日 時:10月24日(土)午後2時より
会 場:東京大学本郷キャンパス法文1号館2階215教室
参加費:会員は無料,一般は500円
1640年のポルトガル独立を契機に,イエズス会本部やポルトガル王室は,第8回総会(1646)のために帰欧していた日本管区代表プロクラドールのカルディンを通じて東アジア権益を確保しようとした。一方,カルディンも管区運営資金の取り立てやマカオの帰属を巡る中国準管区との論争など,マカオ市民の協力を得て日本管区の利益のために奔走した。本報告では,この交渉の経緯を東アジアへの波及も含めて検討したい。

事務局変更事項

職員交替に伴い,9月1日より下記の通り変更します。
職員勤務日:基本的に月・木・金曜日の週3日
新アドレス:coll.med@nifty.com

訃報 5月21日,会員の仲谷満寿美氏が逝去されました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

事務局夏期休業期間:
8月1日(土)~8月31日(月)

地中海学会大会 研究発表要旨
西欧中世における球形懐炉

──その歴史的展開および異文化圏との関連を中心に──

太田 泉フロランス

ヴァロワ朝フランス王シャルル5世やその兄弟であるアンジュー公ルイ,ベリー公ジャンの財産目録には,「鍍金された銀製の手を温めるための大きなリンゴ」に類する記述が複数みられ,球形懐炉の所有が確認できる。本発表は,本来教会における典礼用具であった球形懐炉が,なぜ世俗君主の収集の対象となったのかについて,異文化圏における類似の工芸品をも参照しつつ考察を試みるものである。

中世西欧の最も詳しい球形懐炉についての情報源であるヴィラール・ド・オヌクールの素描帖には,その構造の素描と用途や制作方法等の記述が残されており,球形懐炉が聖職者に使用されていたことがわかる。またこれらの球形懐炉内部には,数個のリングを組み合わせて物体を水平の均衡状態に保つ仕組み(ジンバル構造)が備えられていたことも記されている。

石造りの教会は冬の寒さが厳しく,悴(かじか)む手で聖体拝領を行うと聖血や聖体をこぼす恐れがあり,手を温める懐炉は聖職者にとって重要な道具であった。さらに懐炉は高貴なもののみを置くことが許された祭壇に置かれることから,高価な素材で制作され,重要な典礼用具・教会宝物として多くの教会の宝物目録で聖杯に次ぐ位置に記述された。球形懐炉とほぼ時期を同じくして,聖血をこぼすことなく飲むための金属製のストローがつくられはじめ,球形懐炉もやはりミサにおける聖体拝領が重視されだしたなかで,生まれたものと推測される。

この様に早い時期の球形懐炉は,10点余の現存作例も含めて殆どが教会由来と考えられている。聖職者の道具がなぜ世俗君主の収集の対象となったのだろうか。契機となるのは,神聖ローマ帝国の帝国宝物に一時的に球形懐炉が含まれていたことではないかと発表者は考える。

1350年に神聖ローマ皇帝カール4世が対立皇帝側から帝国宝物を譲り受けた折,球形懐炉が含まれていた。皇帝は,これらをボヘミア王家伝来の聖遺物と併せて公開し,自らの皇位の正統性を示そうとした。従来,皇帝権力の証しとしては帝国宝珠が重視されてきたが,帝国宝物の保管のため建立されたカールシュタイン城の,聖遺物を安置する聖十字架礼拝堂におけるテオドリクス親方による聖人像板絵で,国王聖人らがその手に持つのは黄金の球体であり,宝珠は描かれていない。こうした装飾からは,あるいはカール4世が,宝珠よりも純粋な球体を好んでいたようにも思われる。シャルル5世やその兄弟らの球形懐炉への関心も,彼らが甥として皇帝と親しく交流したことを考慮すれば,帝国宝物に懐炉が含まれていたことにより惹起された可能性が考えられる。

球形懐炉のようなジンバル構造を備えた球体の工芸品が君主の収集対象になる現象は,西欧中世に留まるものではなく,東アジアの仏教文化圏にもイスラーム文化圏にも認められる。類似する工芸品の最古の作例は,正倉院に収蔵された,唐由来とされる《銀薫炉》及び《銅薫炉》と呼ばれる球形の2点の香炉である。中国では同構造の香炉が,皇帝と密接な関係を持つ法門寺・地宮でも2点発掘され,文献史料上は,漢時代に既にジンバル構造を有する香炉の存在を確認できる。(『西京雑記』)

イスラーム地域でも同様の構造の球形香炉が制作されていたことが,11世紀末から12世紀前半にかけてシチリアで活動したアラブ人の詩人,イブン・ハミディスによる記述で知られる。また,13世紀以降,特に14世紀から15世紀以降には,その影響下にヴェネツィアで,ヴェネト=サラセン様式の球形香炉が盛んに制作され,西欧世界全体に広がっていった。しかしこれらいずれの球形香炉の現存例も12世紀以降のもので,ジンバル構造を含んだ球形という点では,中国の作例が最も古いと言わざるを得ない。

球形懐炉の起源を探るとき,G. シートラウスキーに倣って,8世紀半ばの聖エリギウスの伝記中に登場する「祭壇上のpoma」を球形懐炉の文献史料上の初出であるとすれば,これはイスラーム地域での作例より古い。この場合,中国で制作された球形香炉に着想を得た可能性も考えられるが,紀元前3世紀のビザンティオンのフィロンによる『プネウマティカ』中の記述にみるように,既に西洋で制作されていたジンバル構造を伴う球形ではない工芸品が,その着想源となった可能性も無視できない。また,同時多発的に制作された可能性もあるといえ,影響関係の確定には,更なる研究の進展が求められる。

その構造の希少性ゆえか,或いは球体という形態の王権にふさわしい象徴性のゆえか,ジンバル構造を備えた球形懐炉や球形香炉は,西欧,イスラーム,中国,日本いずれの文化圏でも,その機能こそ違え,君主との強い結びつきを持っていた。異なる文化圏におけるその受容の諸相を鑑みると,シャルル5世をはじめとする14世紀西欧の君侯の球形懐炉への嗜好が,普遍性を有するものでもあったことが確認される。

地中海学会大会 研究発表要旨
14世紀前半のビザンツ帝国におけるヘレニズムの変容
窪 信一

キリスト教徒で「ローマ人」であるビザンツ人にとって,古典ギリシア語で「ギリシア人」を意味する単語「ヘレネス」は,異教徒という否定的ニュアンスとともに用いられるのが一般的だった。そして「ヘレネス」の古典に基づく学問は,キリスト教徒である「我々の学問」すなわち聖書や教父に基づくキリスト教神学とは厳密に区別される「外側の学問」と見なされた。しかし11世紀以降知識人の中に「ヘレネス」の語を肯定的な意味合いで使う現象が現れる。この現象は研究者によってビザンツの「ヘレニズム」と呼ばれている。

近年のヘレニズム研究はローマ帝国理念との二項対立や現代ギリシアのナショナリズムの影響を脱しつつも,最もラディカルなヘレニズムの現象が現れるパライオロゴス朝期(1261-1453) の研究が不十分である。この空白を埋める一環として本発表では,14世紀前半における知識人のヘレニズム言説を分析し,隠修士ヘシュカストの修行法とその理論の正統性を巡るヘシュカズム論争を境に,ヘレニズムが変容したことを明らかにした。

まずヘシュカズム論争以前のアンドロニコス二世期(1282-1328)の知識人において,「我々」と「ヘレネス」の伝統的な学問区分が遵守されたことを,この時期を代表する知識人テオドロス・メトキテスのテキストから確認した。この時期には「パライオロゴス朝ルネサンス」と呼ばれる学芸の興隆がピークを迎えた。その中でも帝国の宰相だったメトキテスはプトレマイオス『アルマゲスト』の注釈である『天文学綱要』等の著作を執筆した。本発表では『天文学綱要』序文におけるヘレネスの学説とキリスト教信仰との関係に着目した。メトキテスは天文学を称揚するために,哲学を区分して天文学の位置づけを行う。そこで彼は神学においてヘレネスが間違っていること,自然学や天文学においてヘレネスの学説は正しくそれを学ぶことはキリスト教信仰にとって無害であることを強調している。ここから彼が「我々」と「ヘレネス」の伝統的な学問観を慎重に守り,普段自分が携わっている「ヘレネスの学問」をキリスト教信仰に対して消極的にしか評価していないことが読み取れる。

次に本報告の主題であるヘシュカズム論争期におけるヘレニズムの変容を,この時期に活躍した二人の知識人カラブリアのバルラームとニケフォロス・グレゴラスのテキストから明らかにした。

カラブリアのバルラームはイタリア半島カラブリア地方出身のギリシア系正教徒の修道士である。彼はビザンツに渡り,学識が認められて学者として活動した。1334年頃教皇使節が到来して教会合同が議論された際に,彼はラテン神学を論駁する論文を執筆した。その中の聖霊が子からも発出するかは論証不可能であるとの説にヘシュカストのグレゴリオス・パラマスが反発し,両者の論争がヘシュカズム論争へと次第に発展していくことになる。今回扱った『第三書簡』は教父よりもヘレネスを優先しているとのパラマスの批判に対してバルラームが弁明するテキストである。彼はまず教父の権威を絶対視した上で,ヘレネスが教父と一致した部分においてのみヘレネスを賞賛していることを言明する。そしてそのヘレネスの正しい学説が神の照明に由来することを述べ,自身のヘレネスへの賞賛を正当化する。さらに神的事柄の論証不可能性,超越性を理解するヘレネスはキリスト教徒に改宗する準備ができているとまで言う。以上から彼がキリスト教神学の領域においてヘレネスを積極的に評価し,彼が重視する教説を共有するヘレネスに対して相当の親近感を抱いていることが分かる。

ニケフォロス・グレゴラスはメトキテスの弟子で,官職には就かずに学者としての生活を優先させた。彼は1347年からヘシュカストのパラマスを批判する陣営を主導するが,1351年の教会会議で断罪され敗北した。今回扱ったテキストは彼の歴史書『ローマ史』の,パラマス派に寝返った友人に対して断罪後になされたパラマス批判の個所である。彼はまず異教徒ヘレネスの学知を,教父との一致に従って善い学説を取捨選択しつつ学ぶ必要性を説く。その上で彼は教父と一致するヘレネスの善い学説に基づいてパラマス説を批判し,擁護できないヘレネスの悪い学説さえも逆にパラマスになすりつけることで攻撃材料へと転化させている。以上からグレゴラスはパラマス批判において,キリスト教神学と結びついた激しいヘレニズムを表出させていることが分かる。

結論として,14世紀前半において従来の学問区分を越えて「我々の学問」であるキリスト教神学領域へと浸透するヘレニズムの変容が起きたことが分かる。それは「ヘレネス」をアイデンティティとすることへの最大の障壁である宗教の違いに対する認識の緩和を意味する。

地中海学会大会 研究発表要旨
オスマン朝のモスクと中庭
川本 智史

15世紀から17世紀にかけてオスマン朝の帝都イスタンブルにスルタンが寄進した多くのモスクには,決まって大ドームの礼拝空間の前面に回廊を巡らした大きな中庭が付属している。列柱廊で囲われた中庭は地中海世界の建築で幅広く使用され,またオスマン建築に大きな影響を与えたペルシアやシリアの建築でも中庭はあらゆる場面に登場する。ところが15世紀半ばまで,シリアの影響が強い東部を除けば,アナトリア地方のモスクではほとんど中庭が用いられることはなかった。他方アナトリアでもマドラサ(高等学院)や隊商宿など別用途の建築では中庭の利用が一般的だったから,モスクにのみ中庭が存在しなかったのはいささか奇妙な現象である。

このような背景を踏まえた上で本発表では,第一に,15世紀半ば以降オスマン朝のスルタンが建設したモスクで中庭が象徴的な儀礼空間として用いられるようになったことを明らかとする。第二に,1570年代まで一般のモスクでは中庭を付属させることが禁じられていたこと,しかしスルタンのモスクにある中庭を模倣しようとマドラサを付属して「擬中庭」を創出する試みが一般のモスクで見られた事例を考察する。第三に,1570年代からスルタンの専制体制に弛緩が生じてオスマン朝の権力構造が宮廷人や皇太后らによる寡頭体制へと移行するのに同期して,これら新興の権力層が寄進したモスクにも中庭が付属されるようになった点を指摘する。

最初に中庭が付属されたオスマン朝のモスクは,ムラト2世が寄進し1447年に完成したエディルネのユチュ・シェレフェリ・モスクである。同モスクには,巨大なドームで覆われた礼拝空間と列柱廊付きの中庭という,後世までオスマン朝の大モスクで定型となる様式が登場したことで知られている。なぜここにおいて突如中庭が登場したかについては諸説あり,未だに定説が定まっていない。ところで興味深いことに,同じ時期首都エディルネに完成した宮殿にもやはり列柱廊付きの中庭が建設されていた。この宮殿にはスルタンの私的区画である内廷に加えて,政治や宮廷儀礼の場となる外廷空間が整備されその中核となったのがこの中庭だったのである。これは,スルタンが寄進したユチュ・シェレフェリ・モスクの中庭にも王権の象徴性とともに,礼拝に付随する儀礼が行われる機能的な側面があったことをうかがわせるものである。その証左として,2例目の中庭付きモスクであるエユプ・スルタン・モスクの中庭と王朝儀礼の関わりを挙げることができる。このモスクは,征服直後の1450年代にイスタンブル近郊に建設され,即位後まもないスルタンが帯剣式を行う儀礼的な宗教施設であった。中庭内部に式が行われる聖者廟が配置されるという特殊な平面は,中庭の儀礼空間としての機能を浮き彫りにするのである。

さて、オスマン王権と密接に結びついた儀礼的・象徴的なモスクの中庭をスルタン以外の寄進者が建設することは禁止されていたと考えられる。明確にこれを規定する条文は存在しないが,一般のモスクの平面には開放空間と列柱廊から構成される,いわゆる「中庭」の事例は見つからない。その代わり,モスクの前庭にコの字型のマドラサや初等学校を建設してここを囲い込み,一見中庭のような空間を作り出す手法が15世紀末から採用された。初期の事例には,イネギョルのイスハク・パシャ複合体などがあり,宰相や有力商人は地方都市に「擬中庭」を備えた施設を寄進していた。ただしこれらはいずれもスルタンのモスクが集中する首都イスタンブルを避けて建設され,またスルタンのモスクとは異なり「中庭」はモスク以外の建物によって形成されていた。

この手法を洗練させたのがオスマン朝最盛期の宮廷建築家スィナーンで,16世紀半ばには王女や有力廷臣らのためにモスクとマドラサをセットとして「擬中庭」を備える複合施設を多数建設したが,ここでもモスクとマドラサは視覚的に明確な区分が存在していた。例えばスィナーン・パシャ複合体ではモスクとマドラサ部分は構造的に切り離され,モスクのポルチコとマドラサの回廊の分離はこれを覆うドームの高さと大きさの違いによって明示化されている。

ところが1570年代に入ってオスマン朝の権力構造がスルタン専制から皇太后や有力廷臣らによる寡頭制へと変質すると,王権の象徴である中庭が彼らの寄進したモスクにも登場するようになった。最初の事例が,1580年代に中庭部分が増築された時の皇太后ヌルバーヌ・スルタン複合体である。ここではマドラサは中庭の裏側に建設されており,中庭はスルタンのモスク同様にモスクに付属するものであるということが明確になった。ここに至ってモスク建設においても,新興の権力者たちはスルタンに匹敵する格式ある平面形態を手に入れることに成功したと結論づけることができる。

アウグストゥスの家
小森谷 慶子

先日ローマを訪れた。初代ローマ皇帝アウグストゥスの没後二千年祭が始まってからもう半年以上経っていたからか,さほどの賑わいはなかった。それどころか,アラ・パキスの隣で再整備を待っている初代元首の墓はなおも工事壁に囲まれたままで,不景気のためか,作業が進捗しているようには見えなかった。

ともあれ,パラティーノの丘に登り,アウグストゥスの家を訪れた。2008年から公開され,当初は長蛇の列をなしていたのであるが,今は,修復と防湿対策を施し終えた「リウィアの家」とともに,見学は予約制となっていた。目新しいところでは「仮面の間」や「松葉の飾り綱の間」などのある西側の部分が整備されて見学できるようになっていた。もちろん,アポロン神殿に直結していたカラフルな通廊や,アウグストゥスが「シュラクーサイ」と呼んでいたと思われる小さな書斎は今でも見学できる。もしかしたらそこで,皇妃リウィアお手製の部屋着をまとった元首が自らの『業績録』をしたためたりしたのかもしれない。エジプト由来だと考えられる優れた画家による精緻な壁画はばらばらに剥落していたのであるが,修復士の根気あるパズル的作業により,ほぼ当時の状態を愛でることができる。

そもそもパラティーノの丘のテヴェレ川に面した西側の高みはゲルマルスと呼ばれ,その裾野には,ローマに流れ着いた双子が牝狼によって授乳されていたという洞窟ルペルカル(2007年にそれらしき遺構が発見されている)があり,その裾野からは「カークスの階段」によって最初の集落へと登ることができた(カークスはゲリュオンの牛を盗み,ヘラクレスによって退治された怪物)。つまり,ローマの建国時代にさかのぼる由緒ある地なのである。パラティーノは共和政期にはローマの名門貴族が住まう高級住宅地であったが,アウグストゥスははじめからこの一角に邸宅を構えていたわけではない。2011年のローマ大学の発掘によってアウグストゥスの生家が認められたことは耳新しいが,それはパラティーノの丘の北東部,ティトゥスの凱旋門の傍らにあった。

一方,有名な「アウグストゥスの家」は,オクタウィアヌスがアウグストゥスと呼ばれる以前に,権力基盤を築いていく上で意図的に土地を入手し,建設に着手したものであった。つまり紀元前36年,シチリアに拠してローマの制海権を脅かすセクストゥス・ポンペイウス(大ポンペイウスの息子)を破った海戦から帰還するとすぐに,パラティーノの南西部にあったホルテンシウスの家などを買い取り,市民の合意を得た上で公費により質素な公邸とそれに隣接するアポロン神殿を着工したのである。

アウグストゥスはたまたまこの敷地を選んだのではなかった。その崖下には聖なる洞窟ルペルカルがあり,隣にはローマ建国の祖ロムルスの小屋跡があり,バイテュロス(天から落ちてきた聖なる石柱,大地母神のご神体)を奉じる大地母神キュベレーの神殿と勝利の女神ウィクトリアの神殿が建っている。そこに抜け目のないアウグストゥスによって新たなる聖性が加えられることとなった。前28年に奉献されたアポロン神殿である。現に,「仮面の間」と呼ばれる演劇の仮面が描かれた部屋の壁画の赤い建築物の開口部には,バイテュロスと,それに寄り添うようにして斜めに地面に突き刺さっている槍が描かれている。まさに,前36年の落雷によってユピテルがそこにアポロン神殿を建てるべきことを示唆したと思われる場面である。

このアポロン神殿を,アポロンを自らの守護神と確信するアウグストゥスは自分の住まいと隣接させて建てた。今となってはセメント工法の土台を残すのみであるが,最寄りの博物館には、ダナオスの娘とおぼしき柱像や,デルフォイで狼藉を働いたヘラクレスを戒めるアポロンを表すテラコッタの装飾板などの装飾部材が展示されている。

アグリッパはアウグストゥスのために多くの戦争を勝ち取り,もうひとりの竹馬の友マエケナスは自らの庇護する詩人ウェルギリウスにユリウス氏族の血統を讃えさせ,前17年の世紀祭のために同じく庇護下の詩人ホラティウスに黄金時代の到来およびローマの覇権と繁栄を言祝ぐ世紀頌歌を詠わせた。頌歌を歌う少女合唱隊の声が,大競技場を睥睨するアポロン神殿のテラスから響き渡る様がまぶたにうかぶ。こうして,パラティーノの丘のこの一角はローマにとって新しい政治と宗教の拠点となっていった。

このアウグストゥスの家と皇妃リウィアの家は,ロムルスの小屋跡とともに,帝政期を通じて重要な聖地として保存され続けた。あのネロやドミティアヌスでさえ,これらのモニュメントを壊して自分の建物を建てたりはしなかったのである。

摩多羅神とアルレッキーノ
和栗 珠里

和泉流狂言師の小笠原匡氏と知り合ったのは,偶然のようでもあり運命のようでもあった。氏はかねてから狂言とコンメディア・デッラルテのコラボレーションに取り組んでおられたが,私がその舞台を見に行ったのがきっかけで親しくなり,2012年度から日本とイタリアの伝統的喜劇に関する共同研究プロジェクトを立ち上げることになった。メンバーには,私が勤務する桃山学院大学の教員数名のほかに,交換留学の提携などで以前からお世話になっていたヴェネツィア・カ・フォスカリ大学のボナヴェントゥーラ・ルペルティ教授,小笠原氏の仲間であるイタリア人俳優アンジェロ・クロッティ氏とアンドレア・ブルニェーラ氏,ローマ在住の演出家である多木陽介氏に加わっていただくことになった。プロジェクトが発足してから,メンバー相互の間にさまざまな個人的なつながりがあったことが次々とわかり,大いに驚いたのだが,ここでその詳細に立ち入ることは控えておく。

それ以上に運命的と思えるのは,研究のなりゆきだった。狂言とコンメディア・デッラルテには共通点が多く,両者の比較研究や同時上演は何ら目新しいことではない。しかし,小笠原氏が取り組んでいたのは両者の融合だった。そのことに興味を惹かれた私の,どちらかと言えば軽い思いつきで始めたプロジェクトだったのだが,話し合っていくうち,小笠原氏たちの関心と私自身の関心がともに,それぞれのジャンルの根源的な部分に向いていることがわかってきた。

私の専門は近世初期ヴェネツィアの社会文化史である。そのような私にとって重要なのは,コンメディア・デッラルテそのものよりもむしろ,その前身となったルネサンスの祝祭劇や,さらにその前身となった中世の聖史劇である。とりわけ,15世紀末から16世紀前半にかけてヴェネツィアで隆盛を見た「モマリア」と呼ばれる仮面寓意劇は,私の研究対象のひとつであった。

いっぽう小笠原氏は,もともと狂言師の家の生まれではなく,成長後に自分の意志で狂言の世界に入った経歴を持つ。氏は,幼いころから理屈抜きに「型」を仕込まれたのではないがゆえに,「型」が持つ意味についてひとつひとつ自問せずにはいられなかったという。そして,それを理解するには,「型」が洗練される過程で削ぎ落とされていったものを知る必要があると考え,模索する中で,今日の狂言から失われた要素をコンメディア・デッラルテに見いだしたのである。しかし,一般的にコンメディア・デッラルテとして上演されることの多いゴルドーニ作品もまた,洗練によって本源的な要素を薄められてしまっている。そこで,われわれの研究は,狂言とコンメディア・デッラルテの源流を探り,その原初的なエネルギーを現代の演劇実践に取り戻す方向を目指すことになり,3年をかけて,大阪,ヴェネツィア,ボローニャなどでワークショップやシンポジウムを重ねた。

その成果のひとつが,摩多羅神とアルレッキーノの類似性の発見である。「式三番」のなかで狂言師がつとめる「三番叟」は,庶民喜劇的な他の狂言演目とは異なる儀式的な舞であり,古代から中世の祭祀,とくに摩多羅神祭に由来すると考えられている。摩多羅神は,謎の多い「異神」である。図像的には鼓を持って笑う姿で表現され,芸能の守護神,すなわち宿神,「後戸の神」である。「三番叟」の翁舞は,この神の権現なのである。摩多羅神は仏教的には阿弥陀仏の護神であるが,日本の土着信仰と習合した荒神,道祖神,来訪神としての性格も持つ。摩多羅神の祭りは,熱狂と陶酔に満ちた,きわめて秘儀的かつカーニヴァレスクなものであったらしい。それは,摩多羅神がその起源(おそらくサンスクリット語のmātarah)において,生と死をつかさどる女性神格であったこととも関係しているだろう。このように摩多羅神にはディオニュソス的性格が色濃いが,それはコンメディア・デッラルテの代表的なキャラクターであるアルレッキーノにも共通している。アルレッキーノの起源は古く,異教(ギリシア・ローマだけでなく北欧神話も含め)の神がキリスト教時代にデーモン的な存在に置き換わったものと考えられている。アルレッキーノは道化であるが,道化がそもそもシャーマンであることは言うまでもない。

コンメディア・デッラルテと狂言の比較においては,通常,アルレッキーノと太郎冠者が対比されるが,むしろ「三番叟」の黒い翁とアルレッキーノの間にこそ,深い関係があるのではないだろうか。洋の東西を問わず,あらゆる芸能は豊穣や子孫繁栄や安寧を願う宗教儀礼に根差している。「笑い」の本質もそこにある。小笠原氏たちは,その精神を思い起こすことが現代の演劇に求められているとの立場から今後も活動を続けていくであろう。

「国家フェミニズム」から「市民フェミニズム」へ

──チュニジア民主化移行期の変容──

鷹木 恵子

チュニジアの民主化は,革命から約4年,中東諸国の一部では紛争や混迷が深まるなか,当初の予定より長い時間を要したが,2014年年末には独立後初となる自由選挙で選出されたベージー・カーイド・エッセブシー新大統領の就任,そして今年2月のハビーブ・エッシード首相率いる新政権の発足により,一つの大きな歴史的転換点を迎えた。この間,民主化移行期においてはまた,そのさまざまな節目にとりわけ女性たちの顕著な政治社会的活躍がみられた。

チュニジアでは,1956年の独立と同年制定の個人地位法で,アラブ諸国初となる重婚(一夫多妻婚)の禁止と夫側からの一方的離婚の禁止が法制化された。その後も,58年には教育の権利の男女平等,59年制定の憲法では20歳以上の男女に選挙権と被選挙権の付与,66年には労働法で公共部門での雇用機会と賃金の男女平等が法制化されている。こうしたことから,チュニジアはアラブ諸国のなかではフェミニズムのリーダー的存在ともみなされてきた。しかしその一方で,こうした女性の権利や地位は女性が自ら主体的に獲得したものであるというよりも,国家によって,女性自身の福利厚生よりも国力増強や近代化を推進する目的で策定されたものであり,その意味ではそれは「国家フェミニズム」と呼ぶべきものともされてきた。それでは,独裁政権が崩壊した革命後,政府の後ろ盾をも失うなかで,そのフェミニズムはどのような変化を遂げることになったのだろうか。

チュニジア革命やその後のアラブ諸国の動乱は,情報技術の果たしたその役割の重要性からも,フェイスブック革命やツイッター革命などとも呼ばれた。チュニジアでも政権崩壊に至る過程では,女性たちもサイバー・アクティヴィストとして大活躍した。その代表的な一人がリーナ・ベンムヘンニーで,そのブログ“Tunisian Girl”は同名タイトルでの書物として刊行され,彼女はこの年のノーベル平和賞候補者にもノミネートされた。

革命後の臨時政府下では,早くも制憲議会選挙に向けて,ファーイザ・スカンドラーニー女史が自ら創設したNGOとともに,選挙法に,これもアラブ諸国では初となるパリテ法(男女交互拘束名簿制)の導入を働きかけ,すでに2011年4月にはそれが選挙法に採用されている。同年10月に実施された制憲議会選挙ではイスラーム政党のナフダ党が第一党となったが,世俗派の人々の思惑に反して,女性議員の割合が最も高かった政党が議員の43.8%を女性が占めたこのナフダ党であった。制憲議会の副議長にもナフダ党の女性議員が就任している。その後の憲法草案準備過程では,最大の争点となったことの一つが,男女の関係性をいかに憲法に明記するかという,まさにジェンダー・イシューをめぐっての論争であった。ナフダ党とその支持者たちは男女の補完性を強調し,それに対して世俗派は男女の完全なる平等を主張して双方とも譲らず,それをめぐってデモが組織されたり,大学キャンパスにおいてもイスラミストと世俗派の学生たちが小競り合いや衝突を繰り返す展開となった。

当初,制憲議会は1年の予定であったが,憲法草案がなかなかまとまらず,そのようななかで,ナフダ党を舌鋒鋭く批判していた野党の党首ショクリー・ベライード氏が2013年2月に暗殺され,さらに同年7月にももう一人の野党政治家ムハンマド・ブラーフミー氏が相次いで暗殺されるという事件が起こったのである。これらの事件は,革命後の民主化がそのまま頓挫しかねないという国家的な危機を象徴するものであった。このような状況下で,市民の側から強力な政治的イニシアティヴをとったその一人が,チュニジア産業商業手工業連盟(UTICA)の女性会長ウィデード・ベンシャンマーウィーであった。彼女はブラーフミー氏暗殺の翌日,チュニジア労働総同盟(UGTT)の代表に連絡を取り,その後チュニジア弁護士会,チュニジア人権連盟という,4大市民組織と連携して,「カルテット」と称する連合団体を組織し,政府と交渉しつつ,「国民の対話」(La Dialogue Nationale)をリードしていった。ベンシャンマーウィー女史は,その後「チュニジアの未来を作る100人」の一人に選ばれたほか,国際的平和賞なども幾つか受賞している。昨年9月にはまた,日本政府が主催した「女性が輝く社会に向けた国際シンポジウム」に出席するため,チュニジアの代表として来日している。

こうしてチュニジアの民主化移行期には,その節目ごとに女性たちの目を見張るような顕著な活動や活躍が数々みられた。これらの事例を踏まえるならば,チュニジアのフェミニズムは,革命後,それまでの「国家フェミニズム」を脱皮し,まさに「市民フェミニズム」と呼び得るようなものへと,大きく変貌を遂げてきているようにも捉えられる。