地中海学会月報

MONTHLY BULLETIN

学会からのお知らせ

学会賞・ヘレンド賞

本学会では今年度の地中海学会賞及び地中海学会ヘレンド賞について慎重に選考を進めた結果,次の通りに授与することになりました。授賞式は6月20日(土)に第39回大会の席上において行います。

地中海学会賞:武谷なおみ氏
武谷氏は長年にわたってイタリア文学,特にシチリア文学研究者として業績を積み重ねてきた。とりわけ『ランペドゥーザ全小説 附・スタンダール論』(作品社,2014年)を脇功氏と共訳し,『山猫』の作者として知られるシチリアの貴族ランペドゥーザが短い作家活動の間に世に送り出した全小説を邦訳したことは,明治以来,イタリア中北部を中心に展開してきた日本におけるイタリア文学研究に一石を投じるものとして高く評価できる。さらに,広くイタリア文化を紹介することにより,日本との文化交流にも多大な貢献を行った。このような一連の業績は地中海学会賞に値する。

地中海学会ヘレンド賞:水野千依氏
水野氏の『キリストの顔──イメージ人類学序説』(筑摩書房,2014年)は,イコンを「キリストの真の肖像」という本来の意味でとらえ直し,そのイメージの変容の諸相をルネサンスに至るまで探求した著作である。「イメージ」が時代と土地に根付いた呪術性や礼拝的・行為遂行的価値を失わず,多くの聖像がなおも隠蔽されることによって聖性を高めていたことなどを具体的事例によって証明しており,「イメージ人類学」を我が国において確立しうる優れた研究書である。近年の業績と合わせてヘレンド賞にふさわしい。

地中海学会ヘレンド賞:山本成生氏
山本氏の『聖歌隊の誕生──カンブレー大聖堂の音楽組織』(知泉書館,2013年)は,15〜16世紀の西欧で最も優れた音楽拠点の一つに数えられる北フランスのカンブレー大聖堂に焦点を当て,その聖歌隊の構成員とそれに関わる組織が13〜16世紀の間にどのように変化していったかを詳細に検討したものである。先行研究を周到に検討し,種々のラテン語一次史料に基づいてなされた議論はきわめて水準の高いものであり,音楽史研究に限らず,教会史研究に対しても大きく貢献している。

『地中海学研究』

『地中海学研究』XXXVIII(2015)の内容は下記の通り決まりました。本誌は第39回大会において配布する予定です。

「勇者は,着飾る──マンタ城サーラ・バロナーレ《九人の英雄と九人の女傑》」伊藤 亜紀/「ロレンツォ・デ・メディチの宇宙論的自然観──ポッジョ・ア・カイアーノ正面入口フリーズの解釈をめぐって」秦 明子/「Realtà e finzione nelle opere di Goldoni: sul tema della guerra」大崎 さやの/「研究ノート 15世紀ピサにおける奴隷所有」濱野 敦史/「研究動向 1700周年に見るコンスタンティヌス研究の展開」大清水 裕/「書評 水野千依著『キリストの顔──イメージ人類学序説』」森 雅彦/「書評 池上俊一著『公共善の彼方に──後期中世シエナの社会』」西村 善矢/「書評 フリッツ・ハイマン著 小岸昭・梅津真訳『死か洗礼か──異端審問時代におけるスペイン・ポルトガルからのユダヤ人追放』」近藤 仁之

第39回総会

先にお知らせしましたように第39回総会を6月20日(土),北海道大学において開催します。
議事
一,開会宣言      二,議長選出
三,2014年度事業報告  四,2014年度会計決算
五,2014年度監査報告  六,2015年度事業計画
七,2015年度会計予算  八,役員改選
九,閉会宣言

7月研究会

下記の通り研究会を開催します。
テーマ:ソアヴェのテリトリオ──居住と生産の空間に関する史的考察
発表者:赤松 加寿江氏
日 時:7月18日(土)午後2時より
会 場:東京大学本郷キャンパス法文1号館3階315教室
参加費:会員は無料,一般は500円

第39回大会案内
太田 敬子

第39回地中海学会大会は,6月20日・21日(土・日)に,札幌の北海道大学で開催することになりました。札幌では,第28回の北海学園大学(2004年)に次いで2回目となります。6月の札幌はベストシーズンです。緯度の高い北海道は日照時間が長く気候も快適で,多くの花が咲く1年で最も美しい時期といえるでしょう。

北海道大学は大学院に重点を置く基幹総合大学です。その起源は1876年に設立された札幌農学校に遡り,138年の歴史を誇ります。初代教頭のクラーク博士が札幌を去る際に学生に残した「Boys, be ambitious!」は,多くの日本人にとって親しみのある名言で,北海道大学のモットーとなっております。爾来,帝国大学を経て新制大学に至る長い歴史のなかで,北海道大学は「フロンティア精神」,「国際性の涵養」,「全人教育」及び「実学の重視」という教育研究に関わる基本理念を掲げて培ってきました。社会の要請に応えて国立大学法人としての歩みを始めるにあたって,北海道大学はこれらの基本理念を再確認するとともに,社会に対する説明責任を認識しつつ,新たに獲得した自由の中で,新世紀における知の創成,伝承,実証の拠点,さらに国際的な教育研究の拠点を目指して教職員・学生それに同窓生が一丸となって努力を続けています。北海道大学は2026年に創基150年を迎えます。この重要な節目を迎えるに当たり,社会において大学が果たすべき役割の重要性を深く認識し,「世界の課題に貢献する北海道大学へ」向けて,「北海道大学近未来戦略150」を作成しています。

以上北海道大学の基本理念と長期目標を紹介いたしましたが,これらを踏まえた大学改革を大胆かつ着実に進めているところです。そのような北海道大学を舞台として,地中海世界と北のフロンティアとの邂逅による多彩で豊かな成果が生まれることを願って,次のような大会プログラムを立案いたしました。

大会会場としては,北海道大学正門を入ってすぐの学術交流会館を準備いたしました。北大キャンパスは広大ですが,札幌駅から徒歩10分ほどで,交通も至便なところです。大会初日は,美術評論家の木島俊介氏(共立大学名誉教授・ポーラ美術館館長)に「動物と人間の二重肖像画(ダブル・ポートレイト)について」という題目で,地中海世界の動物と人間の表象について記念講演をしていただきます。

つづく地中海トーキングは「動物と人のかかわり──地中海世界の文化とくらしにおける動物」というテーマで行われます。司会兼任パネリストとして鈴木董氏(東京大学名誉教授 比較政治・比較文化・中東地域研究),パネリストとして尾形希和子氏(沖縄県立芸術大学 イタリア中世美術史),近藤誠司氏(北海道大学 畜牧体系学・家畜行動学・家畜管理学・草地学),日向太郎氏(東京大学 西洋古典学)などの方々に,それぞれのご専門の立場からお話しいただきます。農学研究から美術・西洋古典学に亘る幅広い分野のお話の中から,活発な議論が展開されるでしょう。

授賞式および総会後の懇親会は,札幌ファクトリー内にある「ビヤケラー札幌開拓使」でご用意いたしております。札幌ファクトリーは,明治9年に創業された日本人の手による初のビール工場,サッポロビールの前身である開拓使麦酒醸造所の跡地に1993年に造られた大型商業複合施設です。その中には当時の赤レンガを残した開拓使時代の歴史をたどる見学施設もあります。

二日目の午前中は,気鋭の研究者による三つの研究発表が行われます。西欧中世やビザンツ帝国の文化,そしてオスマン帝国の建築に関する多彩な報告を頂戴できると思います。

引き続き午後は,シンポジウム「海のかなたへ──移動と移住」が開催されます。パネリストとして石井元章氏(大阪芸術大学 ルネサンス期イタリア彫刻,明治期日伊文化交流),工藤晶人氏(学習院女子大学 フランス・マグリブ関係史),佐藤健太郎氏(北海道大学 マグリブ・アンダルス史),師尾晶子氏(千葉商科大学 古代ギリシア史)という方々に,それぞれのご専門の立場からご報告いただき,太田敬子(北海道大学 中東社会史)が司会として進行役を務めます。古代から近代に至るまでの地中海を巡るダイナミックな人の動きが各報告や議論の中から浮かび上がってくるでしょう。いずれのセクションでも,会場との活発な議論,意見交換ができればと願っています。

花々と青葉の輝く6月の札幌の北海道大学の大会に是非ご来場ください。第39回大会が盛会となりますよう,皆様の積極的なお力添えをいただければ幸いに存じます。

シエナ大聖堂の舗床モザイク画《嬰児虐殺》とラファエッロ
本間 紀子

シエナ大聖堂の床は14世紀から16世紀にかけて制作されたモザイク画によって彩られている。ここでは便宜上モザイクという用語を用いるが,厳密には図柄に合わせてカットされた色石を組み合わせ(intarsio),輪郭線などの描線を刻みこむ(graffito)という技法が用いられている。残念なことに,人通りの多い所では表面がすり減り,刻まれていたはずの線も消えてしまっている。それゆえ,普段は床を覆い,鑑賞できる期間を限定するという措置がとられるようになったのである。

昨年の9月,モザイクが公開されている時期にシエナを再訪した私は,ある作品を観ることを楽しみにしていた。左翼廊の床面に表されている大作《嬰児虐殺》である。画面底部には,1481年の年記と大聖堂造営局の監督官アルベルト・アリンギエーリの名前が刻まれている。「嬰児虐殺」は‘ユダヤの王’の誕生を恐れたヘロデ王がベツレヘムとその付近にいる二歳以下の男児を皆殺しにさせるという場面である。「キリスト幼児伝」連作の中で表されることが多い主題だが,15世紀末のシエナではしばしば単独で表されている。

画面は横長で,左端には命令を下す玉座のヘロデ王が,中央と右には王命が遂行される場面が表されている。画面の大半を占めているのは,赤子が殺害される場面なのである。十人以上の兵士,二十人以上の嬰児,十人以上の母親が描かれており,残酷なシーンが圧倒的な迫力で描写されている。兵士たちは剣を手に嬰児に襲いかかり,母親たちは我が子を守ろうと必死である。その顔には恐怖や怒りや悲しみといった感情が表されている。剣を振り上げる兵士のダイナミックな身振りには,明らかに古代ローマの浮彫やアントニオ・デル・ポッライウォーロの版画(1470年代)に表された戦闘図の影響が見られる(当時の芸術家にとって,後者は動きの激しい人物群を描く際の手本であった)。

このモザイク画の下絵を描いた画家は,一般的にマッテオ・ディ・ジョヴァンニと考えられているが,確かな裏付けがあるわけではない。マッテオは1482年以降に同じ主題の祭壇画を3点も描いており,それらにモザイク画と共通するモティーフが見られることから,作者と見なされてきたのである。ジョン・ポープ=ヘネシーは1982年の論文において,マッテオ説を否定した。彼は本作品をフランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニに帰属したのだが,その説はあまり支持されていない。2006年にシエナで開催されたマッテオ・ディ・ジョヴァンニの企画展カタログにおいても否定されている。だが,建築空間と登場人物の関係,人物のアクション表現を比較するなら,やはり作者はマッテオではないように思われる。現時点で作者を特定することはできないが,少なくともマッテオよりも洗練された技術をもつ画家なのではないだろうか。

私がシエナのモザイク画に興味を持ったのは今から10年ほど前で,ラファエッロの同主題素描を研究テーマに選んだことがきっかけとなった。ラファエッロの《嬰児虐殺》(1510年頃)は銅版画の下絵として構想された作品である。そのような特殊な作例であるためか,「嬰児虐殺」の表現伝統と結び付ける研究がほとんどされてこなかった。影響関係が指摘されていた作品は,ドメニコ・ギルランダイヨのフィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ教会主祭室の壁画(1486-90年)だけだったのである。ラファエッロの素描のルーツを探していた私の目にとまった作品の一つが,シエナのモザイク画であった。

ラファエッロの《嬰児虐殺》とシエナのモザイク画の共通点は,闘争シーンのように表現されている点,古代彫刻だけでなくポッライウォーロ版画の影響も見られるという点である(躍動する人物たちが整然とした構図でまとめあげられているなど)。ラファエッロの作品にはヘロデ王の姿がみられないのだが,虐殺の場面のみという異例な表現も,シエナのモザイクの画面右側を発展させたものだと考えれば納得できるのではないだろうか。

《嬰児虐殺》は版画による複製を前提に描き下ろされた最初期の作品である。ラファエッロはもともとアクション・シーンに興味を持っており,戦う男たちの素描を繰り返し描いていた。その成果がこの作品に活かされている。戦争の主題を選ぶこともできたはずなのに,あえて「嬰児虐殺」という主題を選択した彼の脳裏には,15世紀末の先行作品が浮かんでいたに違いない。先人たちは「嬰児虐殺」の無力な母親を兵士に立ち向かう勇敢なヒロインに成長させた。そのようなベースがあったからこそ,彼はこの主題を裸体の男性と着衣の女性が争うドラマティックな物語画として描くことができた。そして,複製版画を通して,自分の優れたデッサン力や表現力を広く知らしめることができたのである。

フィレンツェの南で訪れた集落跡と墓地
──ある寄り道の思い出──
濱野 敦史

ルネサンスの面影を残すフィレンツェからカッシア街道経由で南に30キロほど,バルベリーノ・ヴァル・デルサのコムーネ(日本の市町村に相当する)にペトロニャーノという地区がある。1202年,フィレンツェの軍勢は,ここにあったセミフォンテという城塞集落を降伏させた。フィレンツェ軍は住民を退去させると,執拗に抵抗したこの集落を徹底的に破壊している。その後,建築物をつくることが禁じられたため,セミフォンテという名の集落が再建されることはなかった。現在でも集落のかわりに,かわいらしい姿の礼拝堂が立っているだけだ。

何度も丘を越える必要があったことを思えば,フィレンツェ側の軍勢がここまで容易に行軍できたはずはない。フィレンツェの人々を突き動かした執念は,この距離の移動をものともせず,破壊への衝動となったのだろうか。ともかく,そこにはかつて激しい戦いがあったことを物語るものは,なにも残されていない。時を経るうちに,集落の存在や苛烈な戦闘があったことは忘れ去られていっただろう。

カッシア街道沿いには,セミフォンテとは反対に,過去の戦争について生々しく伝える場所がある。道筋をさかのぼって,フィレンツェの門を出たところに戻ろう。観光客はカッシア街道を素通りしてシエナに向かってしまうことが多いが,この街道沿いにもいくらか魅力を備えた場所がある。南下していくと,城塞と見間違えてしまいそうなチェルトーザ・デル・ガルッツォ(もともとはカルトゥジオ会の修道院だったが,現在はシトー会のものになっている)があらわれる。それを過ぎると,シエナ方面へのスーペルストラーダ(無料の高速道路)の入り口にたどり着くが,そのまま一般道をグレーヴェ川に沿って進むと,やがてスコペーティ通りが分岐する。この道は,フィレンツェの街を追放されたニッコロ・マキアヴェッリが日々を過ごしたアルベルガッチョに通じている。ここでは街道をそのままたどるが,どちらもサンカシャーノに向かっている。そこはキャンティ・クラッシコというワインの産地の一つだ。

その場所は,分岐点から若干南に進んだところにある。最初は,右手に整備された空間があるように見えるはずだ。しかし,そこは公園や緑地帯ではない。そこには,英語でこう書いてあるはずだ。「フローレンス・アメリカ人墓地」と。

敷地内に入り,二つの入り口から弧を描くような道の最奥から橋を渡ると,墓地が迫ってくる。台形をした空間の中央部には,芝生に覆われた地面が手前から奥に上へ傾斜しながら広がっている。その左右には,十字架の形をした石碑が並ぶ。その無数の墓石はなだらかな斜面をのぼって,列をなしている。その数,数千。その光景に圧倒され,思わず息をのむ。ここが墓地でなければ,その眺めを美しいと形容してもよいのかもしれない。ここにある墓石の下で眠っている人々の多くは,1944年から1945年に亡くなっている。ここは戦没したアメリカ人兵士の墓地だ。

坂をのぼっていくと,奥には建物があり,内部に第二次世界大戦中のアメリカ軍の侵攻経路が示された地図があったように記憶している。そこには太平洋での日本との戦闘についても描かれていた。それを発見したときには,自国が敵として扱われていることへの困惑と気まずさを感じた。

とはいえ,かつての敵味方はもはや関係ない。この場所も,アメリカからすれば,交戦相手だったファシズム政権がかつて支配していた地域だ。墓石を見渡せる斜面を出口へ向かって下っていくと,なんともいえない罪悪感のようなものが湧き上がってくる。そこに広がっていたのは,おなじ人間が行ったことの結果だ。そのことを胸に刻みながら,墓地を後にした。

フィレンツェ県には,第二次世界大戦で戦没した英連邦諸国の兵士のための墓地や,ドイツ人墓地も存在する。また歴史的な景観がそのまま残されているかのような印象のあるフィレンツェやその周辺地域だが,大戦で無傷だったわけではない。フィレンツェの旧市街にある橋は,ポンテ・ヴェッキオを除いて,退却中のドイツ軍によって破壊されてしまっている。ピサのカンポサントでも,こちらは連合国側の攻撃の結果,もはや往時のフレスコ画を鑑賞することはかなわない。

セミフォンテの跡地やアメリカ人墓地を訪れたのは数年前のことだ。そこにたどり着いたのは,ほとんど偶然にすぎない。どちらも,フィレンツェ周辺の地域を満喫するべく,別の目的地へ向かっている途中に立ち寄っており,気まぐれな寄り道にすぎなかった。戦闘やテロ行為による惨劇や破壊が世界各地から伝わってくるなかで,ふとその寄り道のことが思い出された。

マーラー音楽資料館の午後
神保 夏子

パリ8区,モンソー公園近くの閑静な界隈に,マーラー音楽資料館(Médiathèque Musicale Mahler)という小さな私立のメディアライブラリーがある。ヴェズレー街11番地2のその建物は,入口に同館のロゴをあしらった地味なプレートが出ているのみで,その存在を前もって知らなければ見過ごしてしまうに違いない。最寄りのミロメニル駅前にはパリ三大コンサート・ホールの一つサル・ガヴォー,反対方面に足を延ばせば楽譜店や音楽書店が立ち並ぶローマ街に出る。筆者のような音楽研究者には嬉しい立地だが,周辺の人通りは日中も決して多くない。

背の高い木製の扉をくぐり,内側の建物のインターフォンを押す。二つ目の扉が開けば,赤い絨毯の敷かれた階段を上り,二階へ。右手のこぢんまりとした部屋が主要な閲覧室となる。部屋の奥には手続きや資料請求を行うカウンターがあり,手前には検索用のコンピュータが一台,大ぶりの閲覧テーブルが二つほど。壁際には音楽書や楽譜がぎっしり詰まった書棚が立ち並び,向かいの部屋では録音資料も試聴できる。手軽に手に取ることのできる書棚の本の多くは,往年の大ピアニスト,アルフレッド・コルトー(1877-1962)の旧蔵書であるという。

マーラー音楽資料館は,フランスの音楽学者アンリ=ルイ・ド・ラ・グランジュ (1924-)と作曲家モーリス・フルーレ(1932-1990)によって1986年に設立された。グスタフ・マーラーの著名な研究者である前者にちなんでこのオーストリアの作曲家の名を冠しているが,マーラー専門の資料館というわけではない。知る人ぞ知る,この目立たない資料館は,実は19・20世紀のフランス音楽にまつわる個人アーカイヴの宝庫なのだ。

筆者は2012年より,博士課程の研究の一環として,コルトーのライヴァルとも目されたフランスのピアニスト,マルグリット・ロン(1874-1966)関係の資料を求め,この資料館に通い詰めてきた。ロンといえば,日本からも多くの入賞者を輩出しているロン=ティボー(現在はロン=ティボー=クレスパン)国際音楽コンクールの創立がよく知られているが,彼女はまた,近代フランスの芸術音楽文化を象徴する作曲家たちの同時代人でもあった。フォーレ,ドビュッシー,ラヴェルの伝統継承者を名乗り,教育事業の分野で大きな社会的成功を収めた,20世紀フランス音楽界の大御所の一人である。

目当てのロン・アーカイヴを構成する品目は,ロンの書簡や楽譜,講演原稿,演奏会プログラムの類から,彼女が運営していた音楽学校やコンクールの関係資料,愛用の手袋やハンドバッグまで,実に多岐にわたっている。実はこれらの品々は,子どものなかったロンの死後二十余年もの間,ロン=ティボー・コンクール事務局の一角に箱詰めのまま放置されていたものだ。1993年にロンの最初の学術的評伝を上梓したC. デュノワイエによれば,これらの「宝の山」は1980年代当時,誰の目も触れぬまま,バスタブやトイレの洗浄装置の上に雑然と積み上げられていたのだという。かつては混沌たる様相を呈していた資料も,今ではプロのアーキヴィストの手で体系的に整理され,目録にそって閲覧したいものを申請すれば,すぐにスタッフが書庫から出してきてくれる。

同館では印刷資料以外の複写・撮影は一切禁止なので,パソコンやノートを持ち込んで,必要なデータを時間の許す限り黙々と写していく。一日の来訪者は数えるほどである。筆者と同様に特定の資料を指定して調査に没頭する研究者もいるが,最も多いのは,付属のピアノ練習室の鍵を借りにやって来る音楽学生たちかもしれない。隠れ家のような空間は土曜日になると一層閑散とし,暇を持て余したスタッフがカウンターで私用の電話をかけていることもある。まことに長閑である。

一昨年の6月,いつものようにロンの資料を閲覧していると,見慣れない老紳士が現れた。資料館創立者のアンリ=ルイ・ド・ラ・グランジュその人であった。館長が東京の学生だと紹介してくれると,数年前に筆者の母校東京芸大を退官されたF教授の名前を挙げて,よろしく伝えてくれと笑う。マルグリット・ロンの資料を調べていると言えば,「彼女のピアノはタイプライターみたいだった」と実に容赦ない。一方,自身の師事したコルトーの弟子のピアニスト,イヴォンヌ・ルフェビュール (1898-1986)(彼女の大規模なアーカイヴもこの資料館にある)については,自らの音楽研究の原点といわんばかりに熱く語ってくれた。閲覧中の資料も気になって早々に話を切り上げてしまったが,今は亡き音楽家たちの記憶を有する89歳の音楽学者に,なぜもっと質問しておかなかったかと,後から大層悔やまれた。

その年,件のイヴォンヌ・ルフェビュールのCDをつい大量に買い込んで帰国したことは言うまでもない。

自著を語る75
ジャン=クロード・シュミット著 小池寿子訳

『中世の聖なるイメージと身体──キリスト教における信仰と実践』

刀水書房 2015年1月 425頁 3,800円(本体)

小池 寿子

自著ではないものの苦楽を共にした本訳書について,あとがきとも重なるが,概要と意義を簡単に記したい。

本書は,Jean-Claude Schmitt, Le corps des images. Essai sur la culture visuelle au Moyen Âge (Le Temps des Images), Paris, Gallimard, 2002 の全訳である。

パリ,社会科学高等研究学院にて中世西欧歴史人類学研究を牽引するジャン=クロード・シュミットについては,『中世の迷信』(松村剛訳,白水社,1998年),『中世の身振り』(松村剛訳,みすず書房,1996年),『中世の幽霊──西欧社会における生者と死者』(小林宜子訳,みすず書房,2010年),『中世歴史人類学試論 身体・祭儀・夢限・時間』(渡邊昌美訳,刀水書房,2008年)などの邦訳があり,画期的な中世研究の方法論を提示した著作群である。

「歴史学叢書」と同じくガリマール社から出版された本書は,〈Le Temps des images〉(イメージの時,1996年創刊)に収録されている。同シリーズでは,歴史学におけるイメージ解釈を問う興味深い著作が出版されている。たとえばハンス・ベルティング『真のイメージ』(La vraie image, 2007),ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『開かれたイメージ』(L’image œuverte,2007)など,美術史学の尖鋭の著作も含まれる刺激的なシリーズであり,それ自体が,本書の目指す中世歴史人類学研究と中世美術史との新たな連携を示している。

構成は以下のように著者が刊行した論文を編纂したものである。第I部:長い歴史 1.歴史家とイメージ(1997年)2.第2ニカイア公会議からトマス・アクィナスまで(1987年)3.テクストとイメージ(1988年)4.西方における画像の解放と規範(2000年) 第II部:イメージの信仰 5.紀元1000年前後における新しいイメージの正当化(1994年)6.画像の奉遷と力の移動(1999年)7.磔にされたシンデレラ(1998年)8.聖遺物と画像(1977年) 第III部:夢,幻視,幻想 9.夢の図像学(1989年)10.ビンゲンのヒルデガルト,あるいは夢の拒絶(1998年)11.想像力の有効性(1997年)

これらを通じて,文字資料を至上とする歴史学とイメージの分析を主とする美術史学,さらに美的判断に価値におく感性的認識の学を出発点とした美学との関連性および各々の方法論の相違に対するシュミットの根本的な問題意識が明かにされつつ,脱領域的・領域横断的な歴史人類学の試論が,文字と画像資料を用いて展開してゆく。そこでは,イメージを美術史的ないしは図像学的に解釈するだけではなく,政治・社会・宗教的意味と実践的機能という多角的視点で捉えることにより,歴史学他の既存分野にも開かれた美術史の可能性が提示される。

画像資料の不足と不備は否めないものの,全編はイメージの歴史人類学という方法論の内に有機的に展開する醍醐味を有し,基幹となる第I部の内2と3は特筆に値する。そこでは日本では十分に論じられてこなかったニカイア公会議前後の東西世界におけるイメージの拒絶と受容,そして6世紀のローマ教皇グレゴリウスのイメージ(画像)をめぐる言説の複雑な議論の展開が,文書(文字)を通じて詳らかにされているのだ。この箇所は,是非,は読んでいただきたいと願い,あとがきに簡単に整理しておいた。

西洋中世美術史は大きな展開を迫られており,今はさらにそれを踏まえた上での新たな地平が提示されている。本書は,次なる展開を促すための歴史人類学という視座の必要性と魅力を確認させてくれる。

翻訳に当たっては,数々の訳語のみならず専門用語に関しては呻吟の極みを続けた。そもそも2003年春から2004年にかけての一年間,サバティカルの恩恵に浴することになり,私自身の研究テーマである「死の舞踏」の集大成に至らん,と欧州に旅立つ直前の翻訳依頼であったため,本腰を入れて取り組んだのは帰国して数年後となってしまった。しかもシュミットの超域的な研究を訳すのは並大抵ではなく,また文章も内容も難解に過ぎ,ついに引き受けてから刊行まで十数年に及ぶ歳月を重ねることとなった。刊行期限をいくどか更新したものの,数々の心残りがある。第I部2の注64(トマス・アクィナスによる『ペトルス・ロンバルドゥス註解書』より),第II部7の注10(ギラルドゥス『教会の鑑』より)の原点に当たれなかったことは未だに夢に見る始末だ。ともあれ,人生はもとより,すべからく終わりは訪れるものである。苦難と呻吟の日々は新しい春の息吹とともに過去のものとなっていった。

この翻訳を通じて痛切に感じたのは自身の非力ばかりではあったが,ただひとつ,硬質なダイヤモンドのような核を心に残してくれたことは本書のこの上ない賜物であった。それは,中世という時代を通じて築き上げられた「言葉とイメージ」の集積の中に屹立する,まさしくその「土地」に「生死」した人々の不撓不屈の魂である。

表紙説明 地中海世界の〈道具〉7

楽器 オルガネット/金光 真理子

「楽器musical instrument」はただ音(音楽)を鳴らすための道具に留まらない。世界各地の楽器を眺めてみると,それぞれの風土で手に入る素材を活かし,ときに細部まで緻密に作り上げた工芸品,ときに表面に美しい装飾を施した美術品であることがわかる。地中海世界においても楽器は工芸品・美術品として,その土地の文化を窺い知る貴重な手がかりの一つとなる。

今,私の手元には「オルガネット」(小さなオルガンの意)と呼ばれる,イタリアの全音階式小型アコーディオンがある。オルガネットは大きく分けて三つの部分:①ふいご,②ベースキーの箱,③旋律キーの箱から成る。木製の箱を開けると,中に木枠があって金属製のリードがはめて止めてある。ふいごの開閉によって中の空気がリードを振動させ発音する。オルガネットは,演奏者一人で旋律も伴奏も演奏でき,音が大きく,持ち運びしやすいため,屋外の演奏に適している。イタリアの中・南部では,オルガネットが村の聖人祭や私的な集まり等さまざまな場で演奏され,聖行列や舞踊や歌を伴奏する。

実はオルガネットがイタリアへ流入する以前,伝統的に聖行列や舞踊・歌を伴奏するのはザンポーニャ(イタリアのバグパイプ)であった。バグパイプは放牧文化で羊の皮袋や葦のリードを素材に作られた楽器で,地中海世界に広くみられる(バグパイプについては月報354号の表紙説明を参照されたい)。イタリアのザンポーニャは,祭りに不可欠な楽器として現在も演奏されているが,オルガネットは確実に次第にザンポーニャに取って代わってきた。その理由はオルガネットの利便性にある。ザンポーニャは調律が難しく,3〜5本の管をすべて調律するには多くの時間を要する。一方,金属製のリードで各音のピッチがすでに固定されたオルガネットは調律の必要がない。また,ザンポーニャの皮袋に息を吹き込み続けるのは労力がいるが,オルガネットはふいごを使って発音するので,演奏者の身体的負担ははるかに軽い。

オルガネットが誕生したのは19世紀中葉,ヨーロッパで産業革命が進み,科学技術が進歩する中,より優れた・より便利な新しいものを発明しようとする機運の下であった。1829年,ウィーンの楽器製作者ダミアンがアコーディオンAccordionを発明し,それがフランスやイタリアへ広まる。イタリアのオルガネット発祥の地,カステルフィダルド(マルケ州)の言い伝えによれば,1863年のある晩,ロレートの巡礼から戻る途中の外国人がカステルフィダルドで一晩の宿を求めた。巡礼者が持っていた楽器に感激した農夫は,その楽器を夜中こっそりと解体し,すべての部品をコピーした。その男がパオロ・ソプラーニであったという。言い伝えの真偽はさておき,パオロは兄弟4人でイタリア初のオルガネット工房を作り,市場で演奏・販売した。時は共和国誕生(1861年)後,軍隊にとって持ち運びに便利で,価格も手頃なパオロのオルガネットはイタリア各地へ瞬く間に広まった。

私のオルガネットはアルパリツィオ・パルマのものだが,光沢のある木箱は寄せ木で美しく縁どられ,民族衣装の女性像がはめ込まれている。工業製品であり民俗文化を象徴する楽器であるオルガネット,その陰には19世紀末から今日まで続くイタリアの歴史の一端が刻まれている。