地中海学会月報

MONTHLY BULLETIN

学会からのお知らせ

第39回地中海学会大会

第39回地中海学会大会を6月20日,21日(土,日)の二日間,北海道大学学術交流会館(札幌市北区北8条西5丁目)において開催します。
懇親会の会場は下記の通りに決定しました。

6月20日(土)[2階 講堂]
13:00〜13:10 開会宣言・挨拶
13:10〜14:10 記念講演
「動物と人間の二重肖像画(ダブル・ポートレイト)について」 木島 俊介氏
14:25〜16:25 地中海トーキング
「動物と人のかかわり──地中海世界の文化とくらしにおける動物」
パネリスト:尾形 希和子/近藤 誠司/日向 太郎/(司会兼任)鈴木 董 各氏
16:40〜17:10 授賞式
地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞
17:10〜17:40 総会(会員のみ)
18:00〜20:00 懇親会[ビヤケラー札幌開拓使]

6月21日(日) [1階 小講堂]
10:00〜11:30 研究発表
「西欧中世における球形懐炉──その歴史的展開および異文化圏との関連を中心に」
太田 泉フロランス氏
「14世紀前半のビザンツ帝国におけるヘレニズムの変容」 窪 信一氏
「オスマン朝のモスクと中庭」 川本 智史氏
13:00〜16:00 シンポジウム
「海のかなたへ──移動と移住」
パネリスト:石井 元章/工藤 晶人/佐藤 健太郎/師尾 晶子
司   会:太田 敬子 各氏

会費納入のお願い

新年度会費の納入をお願いいたします。ご不明のある方,領収証を必要とされる方は,お手数ですが事務局までご連絡下さい。

会費自動引落日:4月23日(木)

会 費:正会員 1万3千円/学生会員 6千円
振込先:郵便振替 00160-0-77515
みずほ銀行九段支店 普通 957742
三井住友銀行麹町支店 普通 216313

第3回常任委員会

日 時:2015年2月21日(土)
会 場:東京大学
報告事項:『地中海学研究』XXXVIII(2015)に関して/研究会に関して/石橋財団助成金に関して/会費未納者に関して/2014年度財政見込みに関して 他
審議事項:第39回大会に関して/地中海学会賞に関して/地中海学会ヘレンド賞に関して/役員改選に関して 他

研究会要旨
18世紀フランス啓蒙期におけるJ.-Ph.ラモーの音楽理論について

伊藤 友計

2月21日/東京大学

フランス・バロック期の音楽家J.-Ph.ラモー(1683-1764)の活動範囲は実践と理論の両面にわたる。ディジョンにて生を受けたラモーは,両親の意向で当初は法律家を目指すも結局は音楽家であった父の跡を継ぎ,アヴィニョンやクレルモンの大聖堂のオルガニストとなる。最初の《クラヴサン曲集》の出版が23歳の時という,西洋クラシックの作曲家としては遅いデビューを飾ったラモーは,1722年にパリで公刊した自身最初の音楽理論書『和声論』によって楽壇のみならず,当時の学術界にも進出していく。

以下では理論面に特化して考察を進める。そもそも西洋クラシック音楽の構造面に注目した時に,時間軸に沿って継時的に進む音楽の横のラインに対して,同時的響きである縦のラインを成す和音の配置に多大な意識を払う点がその特徴であり,この縦のラインと横のラインの調和的な布置をもとに紡ぎだされるのが音楽作品であるということができる。こうした作品構築の際に引き合いに出されたのが協和と不協和という概念であり,ラモー以前にも西洋音楽理論史においてこれらの概念に関しては長い思索の歴史があった。

まず,西洋音楽の協和の概念と,その核ともいうべき長三和音の存在の立証の経緯を簡単に振り返る。ラモー以前ではピュタゴラス(BC.571-495)とG.ザルリーノ(1517-1590)が特に重要である。前者はテトラクテュスに基づく4までの数によって,後者はセナリオに基づく6までの数によってモノコルドを分割し,まずピュタゴラスによってオクターヴ,5度,4度が,そしてこれらにザルリーノによって長短3度と長短6度が追加された。ラモーも当初はこうした協和音程導出の伝統に連なっていた。『和声論』においてはモノコルドの整数比に基づく分割による諸協和音程の導出の仕方が具体的な図例によって説明される。ここで重要なのはこのモノコルドの分割から直接的に引き出される協和音程は5度と長3度のみである点であり,『和声論』ではこれが長三和音の理論的根拠として提示される。しかし『和声論』脱稿後にラモーはJ.ソヴール(1653-1716)らの音響物理学,具体的には上方倍音列に関する知見に触れ,その低次倍音列に12度(オクターヴ+5度)と長17度(オクターヴ+長3度)が含まれていることを知るに至る。任意の基音を鳴らせばこれらの音程が自然に共鳴することを跡付けた科学的研究成果は既に長三和音の存在を裏打ちしており,ピュタゴラス以来の数の論理に依拠する必要性は消失する。それゆえに次作『新体系』(1726)においてラモーはモノコルドの伝統に言及せず,長三和音の根拠説明を倍音の共鳴現象へとシフトする。

次は横のラインに着目する。音楽作品の時間的推移を成すまとまりはカデンツという名称で呼びならわされる。『和声論』においてラモーは主なカデンツとして完全・不規則・中断カデンツ等を挙げ,具体的な譜例を用いてその内実を説明しているが,注目すべきは,それらのカデンツにおいては諸上声部がいかなる進行を示そうとも,最下部であるバスラインは基本的に5度音程の上下動のみから構成されることをラモーが強調している点である。そしてこの5度間隔の上下動の理論的根拠として『新体系』で提示されるのが「幾何数列1:3:9」である。これは理論書第三作である『和声の生成』(1736)では「三倍比」と名称が変わるが,いずれにしても5度のバスラインの正当化としては依然として数比の存在しか明示されない。

以上二点を18世紀前半のフランスの知的土壌の中で捉えなおしてみる。17世紀のヨーロッパの科学革命の正統的継承者とされるフランス啓蒙主義において,特に18世紀初頭にはデカルト主義とニュートン主義の相克が明白になっていた。ここでの問題は,デカルト主義的思考形態が数学的論理の明証性から演繹的に推論を進めるのに対し,「われは仮説を作らず」をモットーとするニュートン主義は,デカルト主義とは対照的に,事実や実験を第一要件とし,そこから帰納的に論証を導いた。音楽の縦のラインの最重要構成単位の一つである長三和音の根拠がモノコルドの整数比による分割から実験に基づく音響物理学の知見にシフトしたことは,西洋音楽理論においてニュートン主義への転換が果たされたとみることができる。しかし横のラインのバス声部のカデンツ進行においては,その根拠としては1:3:9という数比以外に依拠すべきものがないのは,依然としてデカルト主義的思考形態の中にあることの証左と言える。ラモーの音楽理論のテクストにはこれらの両者の要素が確認されるものであり,これら二つのイズムの混在は18世紀前半のフランスの時代精神を如実に反映したものと言うことができるであろう。

ミノスとアイアコスの邂逅
西井 奨

ギリシア神話においてミノスとアイアコスが並列されると,ラダマンテュスと共に,死後,冥界の裁判官を担っている人物たちというイメージが湧く。彼らの生前はというと,ミノスはゼウスとエウロペとの息子で,クレタの王であり,ミノタウロス(妻パシパエが牡牛と交わることで産んだ子)を迷宮に幽閉したことや,またそのミノタウロスを退治しにクレタに潜入したアテナイ王子テセウスを娘アリアドネが手引きしたこと,またその迷宮の制作者ダイダロスとその子イカロスをも迷宮に投獄したことが思い浮かぶ。一方アイアコスは,ゼウスと河神の娘アイギナとの息子で,母と同名の島アイギナの王であり,島民たちが疫病で絶え果てかけた折,ゼウスに祈ることで蟻が変身した人間ミュルミドネスを得たことや,息子ペレウス・テラモンを身内殺しのために追放したことが思い浮かぶ(その後ペレウスはプティア王となり,かのアキレウスを儲け,テラモンはサラミス王となりアイアスを儲けた)。ラダマンテュスはミノスの兄弟ということで生前にミノスと繋がりはあるのだが,ミノスとアイアコスの間で生前に接点があったかどうかということには,ギリシア神話の概説書等を見る限りあまり関心が払われていないようである。実際,ギリシア語文献には特に両者の生前の関わりについて書かれているものはない。しかし,唯一つ彼らの生前の接点を描いている作品がある。それがローマの詩人オウィディウスの『変身物語』である。

『変身物語』第7巻453行目からは,ミノスがアイゲウスの治めるアテナイへ兵を進める準備をしていく様子が述べられていく。息子アンドロゲオスがアテナイで殺されたことへの報復をしようというのである。その際,ミノスはギリシアの島々をクレタの強大な海軍力で次々と自分の味方に付けていくのだが,一方でクレタに従わない島もあった。そうこうして,ミノスはアイギナ島も訪れ,アイアコスに援軍の要請をするのである。『変身物語』での遣り取りは以下のものである。

「アイアコス自らも,老年の重みで足取りが鈍くなりながらも出ていき,そして訪問理由は何なのかと尋ねる。百の民族を束ねるミノスは父としての悲しみを思い出して溜め息し,彼にこう告げた。『息子の為に立ち上げた軍を手助けして頂きたい。義軍の一員になってはくれないか。息子の墓に鎮魂をお願いしているのだ』。これに答えてアイアコスは言った。『無理な頼みだ。我が街にはできぬ。というのも,ここよりも深くアテナイと結び付いている土地はどこにもないのだからな。これが我々の盟約なのだ』。ミノスは不機嫌そうに立ち去るが,その時こう言った。『貴方のその盟約が,貴方に高い対価を支払わせることになるぞ』。彼は,脅かして戦については仄めかしておくだけで,ここで戦って自軍の力を前もって消費するよりは有益だと考えたのだ」(7. 478-489)

アイギナ島はアテナイからそう遠くなく,アテナイと密な結び付きがあったであろうことは想像に難くない。それを裏付けるように,この場面の直後に,アテナイからケパロスが援助を求めにアイギナを訪れて,ミノスに応じた時とは対照的にアイアコスがケパロスを極めて親切に歓待する様子をオウィディウスは描いている(ちなみに結局アテナイはクレタに屈することになり,アテナイはかのミノタウロスへの生け贄を定期的にクレタに差し出さねばならなくなるのだが)。

このミノスとアイアコスの遣り取りで注目したいのは,両者間で一触即発を感じさせる空気が漂ったことである。冥界の裁判官ということで一括りにされるミノスとアイアコスだが,『変身物語』を読むことで彼らの生前の接点を初めて知ることになった当時のローマの読者たちは,「後に冥界で共に裁判官をすることになる二人にこのような因縁があったのだなんて」,と心躍らせたのではないだろうか。ギリシア神話の該博な知識から,ただ既存の物語をretellするだけでなく,「起こり得る物語」を新たに創造する,それがオウィディウスの描くギリシア神話の魅力のうちの一つである。

『変身物語』ではその後,第9巻434行目以降でユピテル(=ゼウス)が,他の神々のお気に入りの人間と同様に自分の息子たちも力を失くし老年に苦しんでいるのだとしてアイアコス・ミノス・ラダマンテュスを挙げる。こうして晩年の三者が揃って言及されると,ミノスとアイアコスの間にはかつて際どい緊張感があったけれど,結局死後には同じゼウスを父に持つ異母兄弟だということで,きっとそれなりに協力し合って冥界で裁判官を務めたのだろう,という思いに馳せられる。

アナラトスのルトロフォロス

──アッティカ陶器の新しい息吹──

福本 薫

2012年の年末から3か月,パリに滞在する機会を得た。最も贅沢だったのは,年間パスを片手にルーヴル美術館に日参する時間を持てたことである。アルカイック期以前の東方化様式期の古代ギリシア陶器を専門とする筆者は,中でもドゥノン翼のエントランスを入ってすぐの「クラシック期以前のギリシア美術」の展示室に入り浸った。人気の展示エリアへの経路に位置するこの部屋で足を止める人は少ないが,ここにはルーヴル美術館が19世紀末から20世紀初頭にかけて収集した青銅器時代からアルカイック期までの傑作が展示されている。

中でも,筆者にとって特別な存在だったのは《アナラトスのルトロフォロス》(CA2985)である。ルトロフォロスとは,婚礼前の入浴や,葬儀における身づくろいのための水をためておくのに用いられた細身の器で,頸部が長いのが特徴である。当該のルトロフォロスは,80cmくらいの大型で,頸部と胴部はほぼ同じ高さを有する。アナラトスとは,アテナイの南に位置した,現在のネア・スミルニにあった古代遺跡の名称である。この作例の陶画家は,同地から代表作例が発見されたことにより,「アナラトスの画家」と呼ばれるようになった。「アナラトスの画家」が活躍した時期は,紀元前8世紀終盤から前7世紀初頭,すなわち幾何学様式期から東方化様式期への移行期である。ギリシアはこの時期に,積極的に地中海に進出してきたフェニキア人らを介して,東方の先進的な文物に触れた。アルファベットが成立し,人類の遺産であるホメロスの叙事詩が成立したのもこの時期である。陶画の分野でも,この時期の展開は目覚ましい。直線的かつ抽象的な文様装飾を特色とする幾何学様式が終わり,東方的な空間充填紋様と,人間や動物といった形象表現が登場する,東方化様式が成立する。この東方化様式が約1世紀間続いたのち,ギリシア美術はアルカイック期を迎えるのである。

話を《アナラトスのルトロフォロス》に戻すと,度々この作例に足を運ぶうちに,一つ気になる点を見つけた。胴部の主たる装飾帯には,器をぐるりと周回するように4台の戦車による行列,もしくは競走が表されており,各戦車にはひとりずつ御者が乗っている。御者たちは右方向に戦車を操り,全員が判で押したように同じ姿勢を取る。しかし,そのうちのひとりだけ,他の3人とは顔の表現が異なるのである。「アナラトスの画家」の時代,アッティカの陶画では,人物の顔を表すのに,輪郭線を用いるようになった。横顔を輪郭線で表し,目を描き入れることによって顔貌を表すのである。自然主義的な表現に慣れていると,この人像表現はまだまだぎこちないものに見えるだろう。しかし,それまでのアッティカの陶画では,人像は黒いシルエットによって全身を表され,マッチ棒のような姿をしていた。こうした前代のテクニックと比べると「アナラトスの画家」の描写は格段に自然主義的な表現と言える。画家は,この革新的な手法を最初に確立し新時代を切り開いた存在と目されている。

しかし,問題の御者は,顔が黒いシルエットで表され,白い彩色によって目が示されている。他の3人は輪郭線による描写,すなわち新しい手法によって表されているにも関わらず,である。4人の御者のうち,ひとりだけ顔の表現が異なるという,この不規則性は何を意味するのであろうか。この御者だけ,特別な存在,例えば行列の先頭を意味しているのか。あるいは誰か特定の神話上の人物を表そうとしているのだろうか。

想像をたくましくするには理由がある。この時期のアッティカの陶画には,時々このようなイレギュラーな存在が描写されているためである。戦車行列の中で,ひとりだけ手綱の持ち方が違う御者や,1台の戦車にだけ飛び乗ろうとする人物が描かれるなど,規則的なパターンの均衡を破る存在が見受けられるのである。

前7世紀に入ると,アッティカでは神話叙事詩の主題が徐々に表されるようになった。「アナラトスの画家」は,そうした動向の直前に位置づけられ,彼の作例群の中に明確な神話表現は確認されない。しかし,こうしたイレギュラーな表現を見ると,この画家が限られた造形のボキャブラリーを駆使して,何か特定の神話の物語を伝えようとしたのではないかと想像したくなる。事実,先行研究では,この時期の戦車行列や葬送儀式,輪舞の図が現実的日常的情景描写なのか,それとも特定の神話的場面なのか,例えば輪舞の場合,テセウスと解放されたアテナイ子女の踊りと解するか否か,といった議論が行われてきた。この問題を解く鍵は今のところ見つけられておらず,議論も膠着状態が続いている。ルーヴル美術館でこの作例を前にするたびに,この問題の難しさを感じるとともに,いずれはこの黒い顔の御者が誰なのか考えてみたい,との思いが湧き上がるのである。

古代ローマにおける卜占
小堀 馨子

現代日本では新聞や雑誌の巻末頁などに十二星座占いが登場しないことはほとんどない。この星座占いは古代バビロニア及び古代エジプト起源であって,ヘレニズム時代に地中海世界で発展を遂げ,ローマ皇帝の中にもティベリウスやドミティアヌスのように占星術に信を置いた者がいた。しかし共和政末期に東方から流入した占星術はローマの卜占の主流ではなかった。ローマでは既に王政期以前の伝承の時代以来,国家の方針を決める際に異なる類の卜占が用いられていたのである。卜占を用いた国家運営などと耳にするとさぞかしオカルティックなものであろう,と思えて,合理性を重んじたローマ人気質とは矛盾するのではないか,という疑念が生じるかもしれない。しかし,古代ローマにおける卜占を見てゆくと,ローマ的な合理性及び実利性と矛盾しない様相が浮かび上がってくる。本稿ではその一端をご紹介したい。

古代地中海世界において,卜占とは神々の意志を知る手段であった。神々は天上において自分が受け持つ都市の市民団を守護する存在であり,人間が正しく敬い祀れば幸福や安寧を与えるが,誤った祀り方をしたり蔑ろにしたりすれば警告を発し,ついには怒って市民団に災厄を下すこともある存在であった。各都市には定められた守護神たちがおり,都市ローマにおいてもそれは例外ではなかった。それゆえ,市民団の守護神の意向を知ることは重要な国事行為であり,法令発布や宣戦布告,公共建築物の定礎といった具体的な国事行為の土台となったのは卜占であった。卜占を司る職は官職であり,しかも複数種類の官職があった。それは,鳥卜官,十五人委員,腸卜官である(腸卜官は共和政末期にローマの官職とされたが,3世紀以前は有事の際にのみエトルリアから招聘されており,その時期の存在を指す場合には腸卜師と訳す方が正確であろう)。

この三者はそれぞれ役割が異なる。ローマには様々な種類の神官がいたが,神官の職務は神を祀ることであり,神の意志を探ることは許されていなかった。この三種の職にある者だけが,神の意志を知ることが許されていた。鳥卜官は,人間が開戦や定礎といった国事行為を起こす時にそれを神々が承認するか否か,神々に問う役割を担っていた。しかし,鳥卜官が主導的に行動を起こすのではなく,元老院が動議を最終決定する際に,元老院からの依頼があって初めて行動を起こすことになっていた。十五人委員及び腸卜官は逆に,神々の側から予兆という形で送られてきた警告を解析して,どの神がどのような理由で怒っており,どのような儀式を以て宥めるか,の方針を導き出す役割を担っていた。予兆とは,落雷や異音などの異常気象,異形の生物の誕生や出現といった異常事態の報告であるが,それらが神々から送られた予兆であるか否かを判断するのは元老院であった。さらに,腸卜師は犠牲式の際に犠牲に捧げた動物の臓器に変色や肥大,欠損などの異常が見られた場合,そこに示された神々の意志を読み取る役割をも担った。腸卜師が有事の際にのみエトルリアから招聘され,共和政末期に至ってようやくローマの官職となったのに対して,十五人委員(共和政期初期には十人委員)はローマの古来の官職であり,予兆の報告があるとシビュラの書を繙いて対処法を探した。この対処法探し及び儀式の執行は恰も処方箋もしくは法廷手続きの如く合理性を有し実利的であった。

このような国事行為の基本をなす卜占であったが,そのシステムを都合よく用いる人間の存在も伝わっていることは興味深い。例えば自身も鳥卜官であったキケロは『卜占について』(“De Divinatione”)2,35,73-74で,上代のローマ人は空飛ぶ猛禽類の数と方向で神の意志を判断していたのに,今は家禽が餌を食べるか否かで判断する,鳥を空腹にしておけば餌を食べるに決まっているので人間が望む通りの結果を得られる,と当代の鳥卜のあり方を非難している。しかしここでキケロが批判しているのは「家禽の餌の食べ方を判断基準とする」ことであって,「神意を伺う」ことそのものではないことに注目したい。また彼は『法律について』2:33で鳥卜が「学問(disciplina)であり,技術(ars)であり,知識(scientia)である」と定義している。さらに彼は『ピリッピカ』5:7-10で政敵アントニウスが「ユピテルが雷鳴を轟かせているときに議場で議事を進めてはならない」という古来の掟を破った廉で非難を浴びせ,彼が嵐の最中に強行した法案採決は無効だと論じている。しかし,現代に置き換えてみた時この非難は社会的に成立するだろうか? 逆に,この非難が非難として成立する言語空間が当時のローマ社会に存在した,と見た方がよいのではないか。古代ローマにおける卜占は当時の政治史・宗教史・精神史と密接に絡む論題であり,この三分野が密接不可分であったローマ社会の特徴を顕著に表す事象だと言えよう。

450年後のトレント会議
根占 献一

2014年10月30,31日の両日,私は日本の研究者4人とともにトレントでの学術集会「中近世の宗教の歴史──ヨーロッパと日本からの視角」に臨んだ。それは当地のブルーノ・ケスラー財団イタリア・ドイツ歴史研究所の招待により実現した。当研究所のフェルナンダ・アルフィエーリ(Fernanda Alfieri)博士がその前年に来日して,11月30日早稲田大学開催の国際シンポジウム「トレント公会議と近世キリスト教世界──思想・社会・規律」で「トレント公会議後の教会における肉体の規律と精神の統制」と題された基調講演を行い,それに基づいて私を含む日本の研究者,皆川卓,坂本宏,大場はるか諸氏が学術発表(総て『西洋史論叢』第36号,2014年に所収)をしたのだが,今回はこれに応える形で行われた。なお,アルフィエーリ博士は早大シンポジウムに先立って,「長い近代(17-19世紀)の中での医学・神学・心理学にわたる悪霊憑依」と題して,示唆に富む講演も行った。

相互交流が実現したのは,甚野尚志早稲田大学文学・学術院教授を代表とする「中近世ヨーロッパにおけるキリスト教世界の多元性とグローバル・ヒストリーへの視角」(科研費基盤研究A平成25-28年度)があってこそであり,公費獲得からこのような出会いの実現に至るまで甚野先生の努力による所が大きい。夕方遅くまで2日間に渡って15本に迫る研究発表が対面形式で行われた。この本数の中には,日本側の5人の研究者,甚野,平山篤子(帝塚山大学),踊共二(武蔵大学),皆川卓(山梨大学)の諸先生方とそれに私の口頭発表が含まれている。発表から討論まですべて英語で行われた。また発表後の活発な議論,会終了後の夕餉──「前夜祭」での食事からこちらは盛り上がって文字通りの晩餐となり,私たちに対する歓迎の証しであった──の折の会話など,有意義な情報交換の時間を持つことができた。

イタリアの発表者は総じて私たちより若かった。個別発表はしなかったものの,最後の全体の総括を行ったパルマ大学のエレーナ・ボノーラ教授が重鎮の面持ちで参加していた。驚いたことは,一昨年,アメリカ・ルネサンス学会が開かれたサン・ディエゴで面識を得たセレーナ・フェレンテ博士と再会できたことである。その時と同様にジェノヴァ史の専門家としてその黒海植民地を扱い,シンポジウムの題目にはかなり遠かったものの,現代日本に対する知識と関心が高いことを知った。あの時は亀長洋子教授と一緒であった。アルフィエーリ博士は専門の医学史的,教会法的知識を活かして,「近世のカトリシズムと身体──道徳,神学,医学,教会法」と題する発表を行った。それは全体趣旨を踏まえ,アレッサンドロ・ヴァリニャーノにも言及した。昨年から思考法に親しんでいることがあり,彼女に質問もした。

今回の各発表者の個別発表などについては,先の甚野科研のホームページサイトをご覧いただきたい。私の場合のみをここに記しておくと,早大での「トレント公会議への哲学的・神学的傾向──アリストテレス主義者ガスパロ・コンタリーニを介して」(『西洋史論叢』第36号,25−38頁)についで,トレントでは「魂の不死性と日本──イタリア・ルネサンスの世界的問題」(『学習院女子大学紀要』第17号,2015年,99-108頁)と題する発表を行った。これは2014年3月末ニューヨークでのアメリカ・ルネサンス学会での発表を踏まえてもいたし,私が代表となっている科学研究費B「西欧ルネサンスの世界性と日本におけるキリシタンの世紀」に基づく,同年の第2回目の国際シンポジウム「アリストテレス主義伝統とキリシタンの世紀」(学習院女子大学7月19-20日)でも,いくらかは使った素材であった。発表内容の可否はともかく,憧れの地で学術研究を披露できるとは考えたことがなく,とても不思議な気持ちになった。

ルネサンスや宗教改革の近世に,あるいは公会議史全般に関心を持っている研究者は日本にも少なくなく,またトレントを知らない者はいないだろう。初日の午前中,私たちは現地のガイドに案内されてトレント市内の主要場所を廻った。トレント公会議開催が宣言されたり,会議が行われたりした教会やブゥオンコンシリオ城館などを見学した。ブゥオンコンシリオでは折しもこの城館内の壁画装飾と関わるドッソ・ドッシ展が開かれていた。町が決して大きくないように,断続的とは言え,18年間も続いた重要極まる公会議の割には聖堂も小ぶりに映じた。そのためにかえって,相手の表情やら口ぶりが目の当たりに見えて真剣な話し合いが続けられたのではないかと推測した。研究所前にマルティーノ・マルティーニの胸像があり,紛れもなくトレントに来ているのだと確信した。ここで生まれたマルティーニは,杭州で死去する重要なイエズス会士である。

表紙説明 地中海世界の〈道具〉6

カイロの買い物かご サバト/岩崎 えり奈

カイロの住宅街を歩いていると,アパートのベランダや窓から籠が吊るされているのを目にする。買い物用の籠で,エジプト人はサバト(sabat)と呼ぶ。丸いバケツのような形をしており,竹に似た葦(ghāb)を割いて編んで作られることが多い。

朝,カイロの住宅街では,朝食の定番料理であるフール(乾燥そら豆の水煮)売りの「フール,フール」という掛け声が聞こえてくる。そうすると,アパートの上階の住民がベランダから路上へ籠をするすると下ろす。フール売りがその籠にフールを入れ,籠のなかの代金を受け取る。それが終わる合図とともに,籠はアパート上階のベランダへと引き上げられていく。

トマトを売り歩く行商人の「トマート,トマート」という掛け声とともにアパート上階から籠が下りてくることもあれば,買い物リストの紙きれを入れた籠が下りてくることもある。アパートの門番が買い物リストを受け取り,アパート上階の住民にかわって店に出向き買い物をするためである。買い物リストの定番はエーシュ(パン),タアメイヤ(そら豆のコロッケ),チーズ,野菜,果物など。ただしスイカなど重たいものは難しい。

さらにサバトは,外出のついでに家の者に頼まれた買い物をする際にも使われる。妻や母親と携帯で連絡を取りながら,ベランダから吊るされた籠に品物を入れれば,階段を上り下りしないで済むのである。

しかし,このようにサバトは便利な暮らしの道具であるが,田舎ではあまり見かけない。ほかのアラブ諸国においても,筆者が訪れたことのあるチュニジアの首都チュニスやヨルダンの首都アンマンでは見たことがなかった。カイロのように,アパートがひしめく住宅街が多くないからであろう。

他方,イタリアの都市ではサバトに似た買い物かごが使われていると聞く。地中海世界では高密度な都市空間が発達しているから,ほかの地中海都市でも使われているかもしれない。

カイロの人口は,カイロ県にその周辺県都市部を加えた大カイロを範囲とすれば1,350万人(2006年)にのぼる。アフリカ大陸,アラブ地域で最大の都市,世界でも有数の大都市である。その中心のカイロ県の人口は約900万人,人口密度は1平方キロメートル当り2万人であり,カイロ中心部の古い住宅街では1平方キロメートル当り10万人に達する。つまり,ナイル川沿いの限られた空間に建物が密集し,人々が暮らしている。

しかし,高密度空間というだけではサバトが愛用される十分条件にならない。もう一つの条件は建物の高さにある。サバトは戸建住宅なら必要ないし,高層アパートでは使うのが難しいであろう。サバトを使うのにちょうど良い高さは中層アパートである。

そして,この高さに関して,カイロはサバトにうってつけの都市である。カイロは高密度中層都市だからである。実際,カイロには1階建てや2階建ての戸建住宅,7階以上の高層アパートが少なく,3階か4階,5階建ての中層アパートが多い。カイロではこのような中層アパートが農村郊外に建設され増えていくだろうから,今後もサバトは重宝され続けるに違いない。