地中海学会月報

MONTHLY BULLETIN

学会からのお知らせ

4月研究会

下記の通り研究会を開催します。奮ってご参集下さい。
テーマ:中世末期イタリア都市と奴隷──フィレンツェとピサの事例から
発表者:濱野 敦史氏
日 時:4月18日(土)午後2時より
会 場:東京大学本郷キャンパス法文1号館2階215教室
参加費:会員は無料,一般は500円
中世末期のイタリアでは,奴隷が利用されていた。地中海で活動したイタリアの商人は,こうした奴隷を黒海周辺などから持ち込んでいる。中北部イタリアにおいて,奴隷を購入したのは大都市の住民であった。本発表では,トスカーナの主要都市であるフィレンツェとピサの事例を取り上げ,そこでの奴隷という存在について考察する。従来の研究では取引や法的な扱いにおもな関心があったが,それ以外の側面にも注目してみたい。

第39回地中海学会大会

第39回地中海学会大会を6月20日,21日(土,日)の二日間,北海道大学(札幌市北区北8条西5丁目)において開催します。

6月20日(土)
13:00〜13:10 開会宣言・挨拶
13:10〜14:10 記念講演
「動物と人間の二重肖像画(ダブル・ポートレイト)について」 木島 俊介氏
14:25〜16:25 地中海トーキング
「動物と人のかかわり──地中海世界の文化とくらしにおける動物」
パネリスト:尾形 希和子/近藤 誠司/日向 太郎/(司会兼任)鈴木 董 各氏
16:30〜17:00 授賞式
地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞
17:10〜17:40 総会(会員のみ)
18:00〜20:00 懇親会

6月21日(日)
10:00〜11:30 研究発表
「西欧中世における球形懐炉──その歴史的展開および異文化圏との関連を中心に」
太田 泉フロランス氏
「14世紀前半のビザンツ帝国におけるヘレニズムの変容」 窪 信一氏
「オスマン朝のモスクと中庭」 川本 智史氏
13:00〜16:00 シンポジウム
「海のかなたへ──移動と移住」
パネリスト:石井 元章/工藤 晶人/佐藤 健太郎/師尾 晶子
司   会:太田 敬子 各氏

会費納入のお願い

新年度会費の納入をお願いいたします。自動引落の手続きをされている方は,4月23日(木)に引き落とさせて頂きます。ご不明のある方,領収証を必要とされる方は,事務局までご連絡下さい。
退会希望の方は,書面にて事務局へお申し出下さい。4月10日(金)までに連絡がない場合は新年度へ継続とさせて頂きます(但し,会費自動引落のデータ変更の締め切りは,事務処理の都合上4月3日となります)。会費の未納がある場合は退会手続きができませんので,ご注意下さい。

会 費:正会員 1万3千円/学生会員 6千円

振込先:郵便振替 00160-0-77515
みずほ銀行九段支店 普通 957742
三井住友銀行麹町支店 普通 216313

事務局eメール・アドレスの変更

事務局のeメール・アドレスを下記の通りに変更します。
新アドレス:office@collegium-mediterr.org
使用開始:2015年4月1日

ブリヂストン美術館連続講演会休会

ブリヂストン美術館改築工事のため,当分の間,連続講演会は休会となりますので,ご了承下さい。

研究会要旨
ヤコポ・ダ・ポントルモ《キリスト受難伝連作》

──十字架の道行きとの関連について──

児矢野 あゆみ

12月13日/東京大学

本報告で取り上げたヤコポ・ダ・ポントルモ《キリスト受難伝連作》は,1523年から25年にかけてフィレンツェ郊外にあるカルトゥジア会ガルッツォ修道院の中庭回廊のために制作された。この一連の壁画は五つの場面からなり,第一場面《オリーヴ山での祈り》,第二場面《ピラトの前のキリスト》,第三場面《カルヴァリオへの道のり》,第四場面《キリストへの哀悼》,第五場面《キリストの復活》という主題が選択されている。この回廊は修道院の最奥に位置し,長手81.5m,短手72.5mと規模が大きく,修道士以外の立ち入りが禁止される。回廊の中庭には井戸と修道士らの墓地があり,柱廊の側面には修道士らの個室が並んでいる。壁画は回廊をちょうど左回りに一回りするように配置されている。四隅はそれぞれ四方位と対応しており,西隅に第一場面が正面に眺められ,その角を接して第二場面がある。この二つの場面を目にしたあとに,左回りに歩みを進めると南隅で第三場面,東隅で第四場面と正対する。ところが,北隅に壁画が描かれていない。第五場面《キリストの復活》は北隅から右折し,集会室への入口上部に掲げられているのである。

本連作の絵画表現には二つの特徴がみられる。まず,ジョルジョ・ヴァザーリが『芸術家列伝』のなかで指摘した「ドイツ様式」への傾倒である。アルブレヒト・デューラーの《小受難伝》および《大受難伝》からの図像の転用がここに認められる。さらに,第一場面から第三場面までは物語の次の展開を促すような人物群像による説話表現が重視されているのに対して,第四場面,第五場面では空間的な奥行きが失われ,登場人物の動作と表情に重点が置かれる祈念表現へと変化する。注意するべきは,説話表現においても祈念表現が組み込まれ,「祈りの場」すなわち「留(りゅう)—stazione—」をそこに形成していることである。このような特徴から,回廊という空間で本連作がどのように機能したのかを明らかにする。

その機能について述べる前に,五つという物語場面数とその主題について考えなくてはならない。本連作には壁面に描かれることがなかった《十字架への磔》と《十字架降下》という二つの下絵素描が残されている。その理由は注文書などが残されていないため,明らかにすることができず検討の余地がある。さらに受難伝で最も象徴的な《十字架磔刑》がないことが不自然といえるかもしれないが,これは同会修道院の回廊にみられる《モーセの井戸》が《十字架磔刑》を象徴したことが指摘されている。生命の泉であるキリストは永遠の生命を象徴する井戸を舞台にして,自らの犠牲による人類の救済を示唆し,十字架に託された中心的教義へと瞑想を促す図像サイクルをここに形成するのである。

このように,本連作は柱廊の壁面のみならず,井戸を含む回廊全体のプログラムに組み込まれることを念頭に制作したと考えられる。1951年に壁面から剝がされており,各場面の配置について議論が重ねられてきたが,19世紀に撮影された写真をみると,現在考えられている配置に間違いはない。回廊とは修道院建築において様々な役割を担ってきたが,カルトゥジア会にとって修道士の生活の場であり,それは観想の場としての性格を持っている。回廊の装飾は忌避される傾向にあったが,貴族的修道院の成立によって緩和され,イタリアに展開した同会修道院の回廊壁画には,16世紀以降「受難伝」が描かれた二つの例が現地で確認されている。

このことは,本連作の機能を考えるうえで重要な点である。着想源とされるザクセンのルドルフス著『キリストの生涯』は同会の理念を体現する書物であり,キリストに倣い合一を図る「新しい敬虔」の実践を目指すという目的を持つ。さらに,同書において七つの時課に対応して受難の瞑想を分割していることから,『シャルトルーズ修道院慣習律』を読み解く必要がある。本連作が修道士個人の瞑想を助けたことは既に指摘されている。だが,この壁画群が修道士らを集会室へと導く配置であることを踏まえて慣習律をみると,洗足式へと臨む際に食堂から集会室への移動が記されており,そのときに機能した可能性がある。このように,歩む距離を想定した「留」という構想の作例として,同時代である16世紀初めに成立したサクロ・モンテのような,エルサレムの地形を模倣して十字架の道行きの「留」を再現した場との類比もみられる。さらにこの規模に対して,回廊の四隅にのみ壁画を配置するという特徴に着目すると,ここに生み出される白壁が連続する空間は,修道士らが瞑想の訓練をする「記憶の場」であったともいえよう。

今後は,受難伝図像の変遷を辿ることで場面選択の問題を明らかにし,回廊壁画の機能を十字架の道行きの「留」,「記憶の場」という視点からも考察したい。

フェルナン・ブローデルのノートについて
浜名 優美

フェルナン・ブローデルがあの『地中海』を第二次大戦中に捕虜収容所のなかで資料もないまま,記憶力だけで書き上げたというのは,信じがたいことだが事実である。そのことは1999年8月にブローデル夫人にお会いして,『地中海』執筆の経緯を伺ったときに確認しているし,夫人が書いたブローデルの知的形成に関する論文からも知ることができる。驚くべき記憶力であったのは間違いない。ベルギーの歴史家アンリ・ピレンヌも「象の記憶力」を持っていたと言われるが,ブローデルがピレンヌと異なるのは,たとえばコレージュ・ド・フランスの講義の際にノートも見ずに年号も人名も正確に話していたばかりでなく,数々のデータも記憶だけで正確に覚えていたことである。私はコレージュ・ド・フランスで残念ながらブローデルの授業を実際に聞く機会がなかった。ブローデルの授業の様子については,亡くなる1ヶ月ほど前に中学生を相手にトゥーロン包囲戦(1707年)について歴史の授業を行なったテレビの放送を見ると分かる。この授業で「戦争に最も必要なものは何か」とブローデルが質問し,生徒が「兵士」「武器」などと答えたあと,「お金だ」と断定するブローデルの発言をいかにも経済史を得意とする歴史家だと思った。

ところでブローデルは,夫人の話によると,本が出版されると原稿をすべて捨ててしまったという。そのような性癖の持ち主であるブローデルの書棚に一冊の古いノートが残されているのを夫人が発見した。表紙に貼り付けられた紙切れには捕虜時代の仲間の字で「ブローデル,講演,世界の尺度としての歴史,世界を探す歴史」と書かれている。夫人はインタビューの冒頭でこのノートを取り出し,見せてくれた。私がコピーの許可を求めると,夫人自ら近所のお店に出かけてコピーを作って来てくれた。このノートについては,ブローデルの伝記を書いたイタリア人の歴史家ジュリアナ・ジェメッリがコピーを持っているとのことで,ノートそのものは私にはオリジナルと思われるのだが,夫人はコピーをもとに手で書き写したものだとおっしゃっていた。ノートそのものは,伝えられているとおり,子どもが使うものである。それにしてもブローデルの書いた「自筆」ノートはこれしか残っていない。したがってブローデル夫人,ジェメッリ,そして私の3人しか持っていないのだから,こうして私が得意げに書く気持ちが分かっていただけるだろう。またノート全文を紹介したいところだが,夫人から許可をいただいていないのでここではノートの内容の一部を紹介する。

このノートの前半は捕虜収容所で行なった講演「世界の尺度としての歴史」で,捕虜収容所で聴衆が書き留めたメモをもとにきちんと推敲された原稿になっているから,筆跡から判断すると,後でブローデル自身が整理し,書き直したものであろう。この講演はのちにブローデル夫人が編集した『ブローデル歴史集成』第2巻に収録された(藤原書店刊)。ノート後半の199頁から335頁までは『地中海』序文と第一部の補足的覚書であり,見開きで右頁に本文,左頁は注となっていて,ノートを見る限り,書き直しや訂正などがなく,一気に,しかも端正な文字(インク)で書かれている。このノートの書き方を見ると,ブローデルは原稿を書く前に十分に考えてから一つの節を完成形に近いかたちで書く習慣があったことが推測される。このことは『地中海』初版と第2版の比較をしてみたときにも気づいたことだが,改訂版を出すときには一部の字句の修正ではなく,一節を,あるいは一つの章を丸ごと書き直すのであり,このブローデルの執筆姿勢はすでに捕虜収容所時代に出来上がっていたのだと私は確信している。ノートの最後の頁には「1944年3月29日」の日付が書き込まれていることと,ノートに『地中海』「序文」が書かれていることを考え合わせると,1941年1月にいったん完成した博士論文の原稿を書き直していたのだろう。

ノート前半の「世界の尺度としての歴史」はすでに翻訳されているから,詳細はそちらを参照していただくのがよい。この講演から見えてくるのは,『地中海』を執筆していたときにブローデルの歴史観はすでに出来上がっていたということだ。モーリス・エマールは「歴史家ブローデルの成立史,(中略)ブローデル的思想および理論の宣言に至る重要なステップ」,「従来の通念的なブローデル像に変更を迫るもの」と解説している。

それではどのような歴史学の方法だったのか。ここで言及しておきたいのは「深い歴史学」という言葉で示される「構造の緩慢な変化のなかで見られた人間の歴史学」であり,歴史学と社会科学との連携が重要だということだ。もう一つは出来事の歴史は「歴史全体ではない」という考えを明確に述べている点である。

アンフィポリスの大墳墓
中村 友代

2014年8月12日,ギリシア政府はギリシア北部の町アンフィポリスで巨大な墳墓が発見されたことを明らかにした。

発掘調査が進み,次第に墓の規模や豪華な内装が明らかになってくると,かのアレクサンドロス大王の墓ではないかという憶測が流れ始めた。インターネット上には次々と出土遺物や墓室内の画像が公開され,その情報は11月に発掘作業が一段落した今もなお更新されている(公式HP:http://www.theamphipolistomb.com/)。

大変興味深いことに,この墓は従来のマケドニア式墳墓とは異なる特徴をいくつも持っており,被葬者や墓の建造年代を特定しようとする研究者たちを悩ませている。発見当初から,この墓にマケドニア王家との関連性を指摘し,ヘレニズム時代の墓と推定する研究者が多いが,美術史研究者のパラギアなどローマ時代の墓とみなす研究者もいる。ここで現在まで明らかになっている状況を基に,いくつかの特異な点について考えたい。

最初に注目したいのは,入口の建築装飾である。通例,石造りのマケドニア式墳墓の正面は古代ギリシアの神殿を模して造られる。その多くが扉の両脇に柱を持ち(天井を支えるという本来の役割は無く,装飾として浮彫で表されることが多い),メトープやフリーズ装飾,あるいは破風を伴う場合もある。アンフィポリスの墓も,入口の両側にイオニア式柱頭を持つ角柱を採用している。特に目を引くのは,入口上部に左右対称に配された二体のスフィンクス像だ。翼と頭部は破壊された状態で見つかったが,その後墓室から東側のスフィンクスの頭部と複数の翼の断片が発見され,元の大きさは2m近くあったことが判明した。マケドニア式墳墓の正面にはパルメットの彫像を伴う作例がしばしば見られるものの,これほど大きなスフィンクス像を伴うのは異例である。また,マケドニア式墳墓の扉は金属の扉を模した大理石の一枚岩で造られるのが一般的だが,石を積み上げてふさぐこともある。アンフィポリスの墓の扉は既に失われていたが,入口全体がさらに頑丈な石壁で隠されていた。扉が破壊されているだけでなく,破壊されたスフィンクス像の切断面が綺麗であることから,どちらも意図的に破壊されたのだろう。

第2墓室からは,ハデスによるペルセフォネの略奪場面を描いた美しい補床モザイクが発見された。画面にはハデスの操る馬車を先導するヘルメスが登場するなど,古代マケドニア王族の埋葬地として知られるヴェルギナの第1王墓から発見された壁画《ペルセフォネの略奪》に構図が類似している。ハデスとペルセフォネは,古代マケドニアの葬礼美術の主題として好まれていたらしい。マケドニア式墳墓の中で最大規模,かつ最古の例と考えられている,通称「エウリュディケの墓」から発見された玉座の背もたれには,ハデスとペルセフォネが仲良く四頭立て馬車に乗る場面が描かれている。また,王国の首都ペラの一邸宅からテセウスによるヘレネの略奪場面を描いた補床モザイクも発見されており,「略奪」という主題が好まれていたと言えるのかもしれない。

被葬者は室内から発見されなかったが,その後第3墓室の床下から人骨が発見された。それも調査の結果,年齢も性別も異なる5人分の人骨が合葬されていたのである。床下からは石灰岩製の石棺が発見され,その中にはさらに木棺が納められていた。棺からは人骨の断片が,またその周辺からはガラスや骨製の装飾片が見つかったが,その他に目新しい副葬品は見つからなかった。マケドニア式墳墓の場合,通例被葬者は火葬され,骨は金属器や箱などに納められて主室に置かれる。また,副葬品として武具や日用品などが納められた。アンフィポリスの墓の埋葬はこうした慣例と大きく異なっており,墳墓の規模や豪華さとも釣り合わない。現在,人骨は更なる調査段階にあるが,本来の被葬者ではないとする見方が徐々に強まっている。

この他にも,第2墓室の扉両側に立つ二体のカリュアティド像や,第3墓室のアーキトレーヴに描かれている有翼の女性や鼎らしき図像など,興味深い点を挙げればきりが無く,今後も研究の動向からは目が離せない。

大変幸運なことに,筆者は元々この年の夏に古代マケドニアの遺跡・博物館調査を予定していたため,発見の知らせを聞いてすぐに現地へ赴くことが出来た。円形の墳墓の直径は158.4m,その大きさもさることながら,外周に巡らされた立派な石壁は圧巻である。墓は厳重に警備され,中に入ることは出来なかったが,外側から見るだけでも,どれほど身分の高い人物が埋葬されていたのか(あるいはされる予定だったのか),想像は膨らむばかりである。

最後に,研究調査を援助してくださった鹿島美術財団,そして調査に同行しご指導くださった帝京大学教授森谷公俊氏に,この場を借りて謝意を表したい。

プテオリの円形闘技場

──地下世界への誘い──

阿部 衛

一昨年と昨年の夏,イタリア半島南西部カンパニア地方の遺跡をまわる機会を得た。温暖な気候と肥沃な大地に恵まれたカンパニア地方の多くの都市は古代ギリシアの植民活動に由来し,その歴史は古い。ポンペイはもちろん,クマエやパエストゥム,カプア,バイアエ,プテオリ。魅力的な遺跡は枚挙に暇がない。ところで,カンパニア地方を旅していると円形闘技場が多いことに改めて気づく。カンパニア地方が剣闘士試合の本場であったことを実感する。そうした数ある円形闘技場の中でも,筆者にとってプテオリの二つの円形闘技場は非常に印象的であった。

プテオリは現在のポッツオーリであり,ナポリから電車で30分程度の距離にある。古くから港町として栄えた。紀元後1世紀以降,クラウディウス帝(在位41-54年)によるローマの外港オスティアの再整備やトラヤヌス帝(在位98-117年)による新港ポルトゥスの建設を受け,その相対的な地位は低下するものの,帝国屈指の港湾都市であることに変わりなかった。

さて,プテオリの円形闘技場は駅から徒歩数分の距離にある。駅を出て港に向かって少し歩けば,すぐにその巨大な構造物が視界に入ってくることになる。プテオリの円形闘技場は壮大である。その収容人数は36,000人前後と見積もられている。かのコロッセウムの収容人数がおよそ55,000人であると言えば,その規模がどれほどのものかおわかりいただけるだろう。実は,プテオリにはもう一つ円形闘技場がある。これは共和政期,おそらく前1世紀中頃に建設されたものであるが,今日では一部の遺構を残すのみである。この円形闘技場は現存の円形闘技場との比較から現地では,Anfiteatro Minoreと呼ばれている。他方,現存する円形闘技場はフラウィウス朝期(69-96年)に建設されたものであり,そのことに因んでAnfiteatro Flavioと呼ばれている。フラウィウス朝は帝国統治の面のみならず,円形闘技場にとっても画期であった。この時期の円形闘技場の特徴の一つとして地下構造が挙げられる。従来の円形闘技場はポンペイのそれのように地下構造を持たず,試合場と観客席というシンプルな造りであったが,コロッセウム以降,複雑な地下構造を有した円形闘技場が帝国各地に建設されるようになったのである。プテオリの円形闘技場もその一つである。しかも,コロッセウムでは指をくわえて遠くから眺めることしかできなかった地下空間に入ることができる。それでいて保存状態もすこぶる良いから驚きだ。とはいえ,ここでコロッセウムの地下に入れないことに文句を言うつもりは毛頭ない。遺跡の保存という観点からはもちろんだが,そもそも円形闘技場の地下空間は舞台裏であり,当時であっても関係者しか入ることは許されなかったはずである。命の危険もなく,自由に地下空間に入ることのできる喜びを嚙みしめ,円形闘技場の地下に入ってみる。

円形闘技場の楕円の長軸の両端から地下へ向かうスロープが伸びている。30度を超す灼熱の真夏のイタリアの地にあって,その地下は思いの外,涼しく,静かである。しかも明るい。それもそのはず,頭上には,はね戸がはめ込まれていたであろう46もの穴が穿たれている。この穴は動物たちを闘技場へと押し上げる昇降装置が設置されていたと考えられている。ここから動物たちが勢い良く闘技場へと飛び出し,観衆を驚かせていたことだろう。地上部分に劣らず,地下空間も壮大である。長軸を貫く通路は幅4.75m,長さ90mに及ぶ。長軸と短軸には平行する通路が複数あり,それらにより空間が区切られている。天井を支えるアーチが立ち並ぶ姿は,さながら神殿の列柱廊のようである。長軸と短軸の両端には試合場へと続く階段がある。剣闘士はどこにいたのだろうか。そして何を思っていたのだろうか。当時の様子に想いを馳せながら地下を歩いた。

ところで,先にプテオリには二つ円形闘技場があると述べた。もう一つの円形闘技場も訪れたい場所である。ただし,こちらの円形闘技場はほとんど原型をとどめておらず,公開もされていない。一般に円形闘技場の跡地は楕円形のまま残ることが多い。ここもそうならば,なるべく高いところから全体像を眺めたいところだ。あいにく高台は民家で埋め尽くされている。地図を確認すると,円形闘技場は鉄道に両断されている。しかも,帰路のナポリ方面にある。つまり,帰りの電車ならば円形闘技場を概観するチャンスがあるわけだ。帰りの電車では,海側の席に座り身を捩りながら外を覗いた。視界を遮る藪の間に,草木の生い茂った半楕円の空間が一瞬現れ,そして消えていった。いや,今となっては筆者の願望が産み出した幻だったのかもしれない。

現地に行って「見える」か否かは個人によるが,行くことをお勧めする。

ラスキンとアランデル協会

──ジョットの複製版画をめぐって──

川端 康雄

19世紀英国の批評家ジョン・ラスキン(1819-1900)の仕事は多岐にわたるが,『ヴェネツィアの石』,『アルノ渓谷』,『サン・マルコの休息』など,イタリアの建築,美術に関わる著作が重要なものとしてある。初期イタリア絵画を積極的に評価したことが,19世紀半ばのロンドンのナショナル・ギャラリーの購入作品に影響を与えたことも知られる。そうした一連の著作のなかで,『フィレンツェの朝』と『ジョットとパドヴァにおける彼の作品』は,英国でのジョット受容に重要な役割を果たした。『フィレンツェの朝』については,拙著『葉蘭をめぐる冒険』(みすず書房,2013年)で論じた。本稿では後者について,アランデル協会の活動とあわせて見ておきたい。

『ジョットとパドヴァにおける彼の作品』は端的に言えばジョットの略伝とパドヴァのスクロヴェーニ(アレーナ)礼拝堂の壁画の絵解きのテクストである。これはアランデル協会が1853年から1860年にかけて出した『パドヴァのアレーナ礼拝堂──処女マリアとわれらの救い主の生涯を描いたジョットのフレスコ画に基づく木口木版画集』に伴って同協会から刊行されたものだった。

アランデル協会は1848年にロンドンで設立された。名称は17世紀英国の美術愛好家アランデル卿にちなむ。発起人は法律家のベレンデン・カー,画家のチャールズ・イーストレイク,A. ベッツィらだった。その狙いは教育的・美的な目的をもってイタリアやフランドル等の大陸の絵画,彫刻の(多色石版および木口木版による)複製を制作し,会員制の予約出版によって刊行することだった。主眼は盛期ルネサンスよりもむしろ初期イタリア絵画,特に壁画だった。イタリア各地に残されているものの,大方の英国人にはほとんどアクセスできない,しかも国情不安で消滅の危険にさらされている作品もある。「ジョット,オルカーニャ,ギルランダイオのフレスコ画は大半が複製の試みもまだなく,適切に描写されたことさえなく,急速に消滅しつつある」(設立趣意書)。

創立時にラスキンは求められて同協会の評議員となり,複製作品の選定で精力的に働いた。教師肌のラスキンにはその役割はうってつけだった。じっさい,『近代画家論』第二巻(1846年)でラスキンが称賛したヴェネツィアのサン・ロッコ同信会館のティントレット,フィレンツェにあるゴッツォリの《東方三博士の旅》,サン・マルコ修道院のフラ・アンジェリコ,サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂のギルランダイオの壁画が版画にされた。

ジョットのこの版画集の企画もラスキンの意向が反映された。主要場面である「マリアの生涯」と「イエスの生涯」の38点が単色の木口木版で順次出された。版画制作は当時英国で評判が高かったディエル兄弟の手になる。会員価格は一枚2シリング6ペンス,全点揃いが4ポンド4シリング,円換算で現在の15万円くらいか。

現地見学に如くはないのであっても,いまならスクロヴェーニ礼拝堂のジョットの壁画の複製は高品質のカラー図版で見られる。動画記録もある(大塚国際美術館もある)。作品の構図,色合いをそうした複製で賞味できる者からすると,複製者の独特なタッチがどうしても加わってしまう版画(しかも別刷の聖堂内部をスケッチした多色石版一枚を除けば「ジョットの青」など再現しようもない白黒図版)は,過渡期の間に合わせとして片付けられてしまうのかもしれない。じっさい,写真製版の技術革新が進み,1897年に協会は役目を終えて解散した。

だが協会の歴史的意義(ラファエル前派など同時代の英国美術への影響など)を再検証することとあわせて,「独特なタッチ」によるジョット「解釈」をもっと積極的に再評価してみてもよいのではないだろうか。

ラスキンの文もじつに味わい深い。序論でヴァザーリなどを用いてジョットの生涯と業績を概説し,作品解説のパートでは壁画の一点一点について,聖書への深い理解をもとに,独自に発掘した資料を援用してジョットの絵の物語を平易な語り口で読み解いている。著者自身の伝記的事実と照らし合わせてみると,そこには微妙な「自分語り」も含まれていることがわかる。その魅力を伝えたく,私の翻訳計画のひとつにこの著作が入っている。

378-7

《エジプトへの逃避》
ジョットのスクロヴェーニ礼拝堂の壁画に基づく木口木版画,アランデル協会,1854年

表説明紙 地中海世界の〈道具〉5

キリストを貫く矢/水野 千依

キリスト教において主イエスの脇腹を刺し貫いたのはロンギヌスの槍とされる。キリストの血に触れたその槍は聖遺物として崇敬され,磔刑図に描かれることも多い。しかし,キリストを貫くにはきわめて珍しい道具を描く図像が存在する。

昨年,春まだ浅い時期に,ニース近郊,内陸奥深い山あいの小村ルセラムを訪れた。目的はノートル=ダム=ド=ボン=クール祈禱堂,村から道なき道を歩いてようやくたどり着く。地中海からサヴォイア公国へと続くかつての「塩の道」沿いに佇むこの小堂には,巡礼や旅人,商人や農民の道中だけでなく,海から来る黒死病に対する守護も託され,土着の守護聖人や地域固有の図像が描かれた。そこで心を引ひかれたのが,数々の「矢」に貫かれたキリスト像。ファサードもない小祠のごとき祈禱堂は,風雨に晒され傷みも甚だしく,キリストの上半身はすっかり失われているのだが,腰布を纏うのみの身体の各所を刺し貫いているのは,間違いなく羽根をつけた矢であることが見て取れた。いったいなぜ矢が貫いているのだろうか。

壁画は,北イタリアから南仏を中心に活動したイタリアの画家ジョヴァンニ・バレイソンが1470〜80年頃に描いたとされる。矢に加えて特異なのは,キリストの周りに配された様々な道具。キリストの右にはシャベル,大鋏,鏝,水準器,直角定規,定規,鉄床,鍬,葡萄剪定刃が,左には半月形の鎌,長柄の鎌,箕,篩,樽,槌,櫛,糸巻棒,錘,大鎌が鏤められ,さながら農作業道具一覧だ。記憶術に照らせば,キリストの各部位が一つ一つの道具を喚起する記憶の場と化しているようだ。

キリストの周りに労働具を描く図像は「主日のキリスト」と呼ばれ,日曜日を聖とする戒律を人々に喚起し,この掟を遵守しない罪ゆえに苦悩するキリストを示す教訓画で,1325年頃からオーストリア,スロベニア,北イタリア,ボヘミア,イギリスなどに出現し,16世紀半ば頃まで様々な変容を遂げつつ描かれた。「悲しみの人」キリストの周りに「受難具」を配するより一般的な図像から派生し,ときに日常の労働場面が風俗的要素を高め,キリストが女性化,ひいては両性具有化するなど,混成的で逸脱的な性格が強い。そのため,対抗宗教改革へと移行する16世紀の文化的・宗教的変容のなかで検閲・破壊の対象とされ残存例は少ない。

もっとも「主日のキリスト」では通常,血のような赤い紐で道具とキリストの身体が結ばれ,矢が放たれることはない。ふつう矢に射られるのは,黒死病や労働具の守護聖人セバスティアヌスである。隣接して着衣のセバスティアヌスが描かれていることから,本像も同聖人とみなされ間違って矢が加筆されたとも考えられるが,その殉教場面に労働具を配する例はない。セバスティアヌスとはしばしば併置されるため,両者の意味合いは浸透し合い,ニューメキシコのドナ・セバスティアナ(聖セバスティアヌス,キリスト,死を表象する女性像の融合した形象)さながら,一つの図像に圧縮されたのかもしれない。主日の労働を戒めつつも,道具を守護する力をもキリストに託す地方独自の祈りが生んだ稀有な表現といえようか。