地中海学会月報

MONTHLY BULLETIN

学会からのお知らせ

第39回地中海学会大会

第39回地中海学会大会を6月20日,21日(土,日)の二日間,北海道大学(札幌市北区北8条西5丁目)において下記の通り開催します(予定)。詳細は決まり次第,ご案内します。
6月20日(土)
13:00〜13:10 開会宣言・挨拶
13:10〜14:10 記念講演  木島 俊介氏
14:25〜16:25 地中海トーキング
「人と動物」
パネリスト:尾形 希和子/近藤 誠司/
日向 太郎/(司会兼任)鈴木 董 各氏
16:30〜17:00 授賞式
地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞
17:10〜17:40 総会
18:00〜20:00 懇親会
6月21日(日)
10:00〜11:30 研究発表
13:00〜16:00 シンポジウム
「海のかなたへ──移動と移住」
パネリスト:石井 元章/工藤 晶人/
佐藤 健太郎/師尾 晶子
司会:太田 敬子 各氏

常任委員会

・第4回常任委員会
日 時:2014年4月19日(土)
会 場:國學院大學
報告事項:第38回大会に関して/『地中海学研究』XXXVII(2014)に関して/研究会に関して/企画講座に関して 他
審議事項:2013年度事業報告・決算に関して/2014年度事業計画・予算に関して/地中海学会賞に関して/地中海学会ヘレンド賞に関して/将来構想に関して/寄付事業に関して/事務局長交代に関して
・第5回常任委員会
日 時:2014年6月14日(土)
会 場:國學院大學
報告事項:ブリヂストン美術館春期連続講演会に関して/研究会(ミニ・シンポジウム)に関して/事務局移転に関して/寄付基金事業に関して 他
審議事項:第39回大会会場に関して/第38回大会役割分担に関して/学生会員の見直しに関して/将来構想に関して 他
・第1回常任委員会
日 時:2014年10月11日(土)
会 場:東京大学
報告事項:第38回大会及び会計に関して/研究会に関して/企画協力講座に関して/HPリニューアルに関して/事務局移転に関して 他
審議事項:第39回大会に関して/ブリヂストン美術館秋期連続講演会に関して/将来構想に関して/学会誌論文等のウェブ掲載に関して 他
・第2回常任委員会
日 時:2014年12月13日(土)
会 場:東京大学
報告事項:『地中海学研究』XXXVIII(2015)に関して/研究会に関して/ブリヂストン美術館秋期連続講演会に関して/HPリニューアルに関して 他
審議事項:第39回大会に関して/地中海学会賞に関して/地中海学会ヘレンド賞に関して/将来構想に関して 他

会費納入のお願い

今年度会費(2014年度)を未納の方には本号に同封して請求書をお送りします。至急お振込み下さいますようお願いします。ご不明のある方,学会発行の領収証を必要とされる方は,お手数ですが事務局までご連絡下さい。なお,新年度会費(2015年度)については3月末にご連絡します。
会 費:正会員 1万3千円/ 学生会員 6千円
振込先:口座名「地中海学会」
郵便振替 00160-0-77515
みずほ銀行九段支店 普通 957742
三井住友銀行麹町支店 普通 216313

秋期連続講演会「芸術家と地中海都市 IV」 講演要旨
ルネサンス宮廷都市と芸術家たち
京谷 啓徳

15世紀のイタリア半島はいわゆる5大国が割拠していたが,それら大国の狭間に小君主国家が存在し,大国間の緩衝地帯としても機能していた。これらの小さな国々は政治・経済力では大国に太刀打ちできなかったが故,ソフト・パワーすなわち文化芸術によってステイタスを打ち立てようとした。かくしてルネサンスの宮廷文化が花開くことになったのである。中でも著名な宮廷都市として,エステ家の治めたフェッラーラ,ゴンザーガ家のマントヴァ,そしてモンテフェルトロ家のウルビーノが挙げられる。

講演では,15世紀の後半にこれらの都市を支配した三人の君主,互いに顔見知りであったとも思しき,マントヴァのルドヴィーコ・ゴンザーガ(在位1444-1478年),フェッラーラのボルソ・デステ(在位1450-1471年),ウルビーノのフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ(在位1444-1482年)を取り上げ,彼らがいかに芸術家たちを用いたかについて考えてみた。芸術家の処遇は決して一律ではなく,君主や宮廷の性格によって状況が異なったのである。

ところで,宮廷における画家たちの役割とは何だったのだろうか。まずは君主の肖像画を描くこと,美術をもって君主の居場所を華やかに飾ることが挙げられ,さらには壁画等において巧妙な図像プログラムにより,君主の家督相続の正当性や家門の権威の根拠を主張,あるいは家門の存続を祈念するといったことが期待された。弱小君主は権力の基盤が不安定であったからこそ,美術作品を政治的プロパガンダに利用する必要があったのである。

さて特定の画家を厚く遇したのはマントヴァ君主のルドヴィーコ・ゴンザーガである。彼は,アンドレア・マンテーニャを宮廷画家として召し抱えるために手を尽くし,その実現の後は様々の仕事に用いた。ルドヴィーコはバルバラ・フォン・ブランデンブルク(選帝侯ホーエンツォレルン家のフリードリヒ2世の孫)との結婚により同家の国際的な地位を上げ,また1459〜60年のマントヴァ公会議で教皇とも良好な関係を結び,次男を枢機卿にすることに成功した。マンテーニャはそのことを踏まえた壁画を,サン・ジョルジョ城「夫妻の間」に描いている。そこにはルドヴィーコとその一族の者たちの集団肖像画が描き込まれた。マンテーニャは,ゴンザーガ家君主三代に40年以上にわたって仕え,ルネサンスの宮廷芸術家としてはもっとも成功を収めた人物であったといえる。

二人目,フェッラーラ君主ボルソ・デステの注文でスキファノイア宮殿「月暦の間」に描かれた大壁画は,その重要性においてマントヴァの「夫妻の間」にも匹敵するものである。12カ月に分割されたそれぞれの区画には,ギリシア・ローマ神話の神々や天空の神々に導かれつつ,ボルソ・デステの善政のもと繁栄するフェッラーラの町の様子が描かれる。ボルソは庶子であったにもかかわらず君主になったため,妻帯せず子を作らず,弟である父の嫡子エルコレに家督を譲った。よって壁画においても彼は家族ではなく廷臣たちに囲まれる様子で描かれている。先の「夫妻の間」において妻子や孫たちとともに描かれていたルドヴィーコ・ゴンザーガとは対照的である。またボルソは画家の価値というものを認めることなく,地元の画家を用いるにも職人程度にしか考えていなかったことが知られる。スキファノイア宮殿の壁画を手掛けた画家フランチェスコ・デル・コッサが自らの仕事に対する査定の不当を訴えるボルソ宛の書簡は,そのことを証言するものである。

三人目,ウルビーノ君主フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロは,自国の画家としてはジョヴァンニ・サンティを用いたが,このラファエッロの父親は画家としてはさほど優れた腕前を有していたわけではない。よってフェデリーコは,ピエロ・デッラ・フランチェスカをはじめ,ウルビーノ国外から優れた画家を招き,特にアルプス以北のフランドルからヨース・ファン・ヘント,あるいはスペインのペドロ・ベルゲーテのように,イタリア半島の外からも画家を招聘した。フェデリーコは文武両道に秀でた名君であったが,彼は先代君主であった兄が市民に刺殺されたことにより君主になり,名君たらざるをえなかったともいえる。また男児がなかなか生まれなかったため,家門存続には問題を有した。そのような彼の君主としての諸側面を,ピエロ・デッラ・フランチェスカやペドロ・ベルゲーテらの肖像画はよく描き出している。フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロといえば,彼が宮殿に設けたストゥディオーロ(書斎)が有名であるが,それは彼の内面を映し出すもう一つの肖像画であった。

秋期連続講演会「芸術家と地中海都市 IV」 講演要旨
フランドルの画家たちとイタリア諸都市

──ブリューゲルを中心に──

廣川 暁生

16世紀,イタリアの盛期ルネサンスがアルプスの北側に浸透すると,フランドルの画家たちは遠近法や理想的人物表現の習得を目ざしてイタリアへと赴いた。彼らが訪れた都市はローマだけではないが,こうした画家たちはロマニストと呼ばれた。彼らの先陣を切ったヤン・ホッサールト(1478年頃-1532年)は1508年から9年にかけてローマに滞在し,古代遺跡のスケッチを残しているほか,後の油彩画では主題の選択や人体表現に,イタリア・ルネサンス美術の影響が色濃く見られる。1552年から58年にイタリアに滞在し,ヴェネツィアでヤーコポ・ティントレットとの共作の記録が残るマールテン・デ・フォス(1532-1603年)は,アントウェルペンに戻った後,イタリア主義の画家として名高いフランス・フローリスに師事し,ヴェネツィア派の画家やラファエロヘの傾倒が感じられる作風で人気を博した。

16世紀フランドルのイタリア主義的な潮流の中で,むしろ初期フランドル美術の伝統の継承者として名高いピーテル・ブリューゲル(父)(1525/30−69年)もまた,1551年にアントウェルペンの聖ルカ組合に自由親方として登録した後に,イタリアへと旅したことが知られている。フランスのリヨンを経由してシチリアに到着,そこから北上してローマに至り滞在したと推測される彼の足取りは,ローマで共同制作を行ったとされるクロアチア出身の写本彩色画家ジュリオ・クローヴィオの財産目録(1588年)に,「ブリューゲルの手による水彩で描かれたフランスのリヨンの絵」という記述の他,ブリューゲルがおそらくローマ滞在中に制作し,現在では失われたとされる数点の作品についての記録があることからも裏付けられる。ブリューゲルのイタリア滞在と関連づけられる,特定の場所に基づく作例は数が少ないが,版画《メッシーナ海峡での海戦》(1561年発行),油彩画《ナポリの港の風景》(1563年頃),ローマのテヴェレ川のリーパ・グランデの波止場を描いた素描(1552−54年頃),連作版画〈大風景画〉(1555-56年発行)中の《ティヴォリの風景》の4点が知られる。

一方ブリューゲルの死後,1595年頃にヨーリス・フーフナーヘル(1542-1601年)により発行された2点のエッチング《メルクリウスとプシュケのいる川の風景》,《イカロスの墜落のある川の風景》は,下部中央に,「ピーテル・ブリューゲル,1553年,ローマにて制作」というラテン語の銘が見られる。フーフナーヘルはアントウェルペン出身の芸術家,コレクターであり,ブリューゲルがローマ滞在中に制作した未完成の素描を手に入れ,それを完成させて版画を制作した可能性が指摘される。ブリューゲルの死後,彼の下絵による版画も数多く再版されたが,その中でフーフナーヘルは,ブリューゲルのイタリア滞在と関連のある《ティヴォリの風景》と《メッシーナ海峡での海戦》に関心を示したのである。

『世界都市地図帳』第3巻(1581年)所収の,フーフナーヘルの《ティヴォリの景観図》では,案内人が指差す画面右下の「滝の情景」として,ブリューゲルの《ティヴォリの風景》の図像を反転させ簡略化した模写がはめ込まれている。フーフナーヘルにより「都市地図」と結びつけられたブリューゲルの《ティヴォリの風景》は「実景に即した風景」というお墨付きを得て,ティヴォリの都市と切り離せない図像として広く普及し,それ以降この地を訪れたフランドルの画家に少なからぬ影響を与えた。一方,『世界都市地図帳』第6巻所収のフーフナーヘルによる《メッシーナ海峡》の場面は,全体の構図をブリューゲルの版画に負っている。場面に付されたラテン語の銘文には「今世紀で最も優れた画家ピーテル・ブリューゲルのスケッチの中から見いだされた。彼自身の手で描かれ,ヨーリス・フーフナーヘルによって伝えられた。1607年」とある。フーフナーヘルはとりわけブリューゲルのイタリア滞在に高い関心を持ち,積極的に素描の収集を行うとともに,「地誌的な」関心を喚起させるブリューゲルの2点の作品を,『世界都市地図帳』で取り上げることで,その「地誌性」をクローズ・アップし,まさに「実景と同等である」と讃えていることがわかる。

ブリューゲルのアルプスやイタリアでの体験から生まれた初期の風景素描や版画は,より間接的で広範囲な後世への影響という観点から見れば,幻想的で観念性の強いフランドルの「世界風景」の伝統に「自然のありのままの姿」をもたらしたと言えるが,そこではフーフナーヘルが強調した「実景」かどうかは必ずしも重要視されていなかった。しかし17世紀の,次第に細分化する風景画の展開に大きな影響を及ぼしたブリューゲルの風景表現において,「地誌性」と「普遍性」が見事な共存を見せていたことを考えるならば,彼の「イタリア体験」はある意味その原点となったと言えるだろう。

秋期連続講演会「芸術家と地中海都市 IV」 講演要旨
“ゴシックの都”ナポリをつくった芸術家たち
谷古宇 尚

ナポリの中心地は,古代の主要な道筋,すなわち東西に走る3本の通り(プラテイアあるいはデクマヌス)と南北方向の20ほどの通り(ステノポス,カルド)によって形づくられている。南側のデクマヌスは,いまはスパッカナポリ(「ナポリを真っ二つ」の意)と呼ばれ,ナポリやヴェズヴィオ山を一望する丘上のサンテルモ城から,町中に引かれたまっすぐな細い裂け目として読み取ることができる。格子状の街区は他の古代起源の町にも見られるが,ナポリの場合,南北方向の通りの数が多いため,区画が非常に細長くなっていることが特徴的である。4世紀のキリスト教公認後に建造された聖堂建築は,この南北に細長い形に合わせて作られることになる。

ナポリはギリシア人の入植によってつくられ,紀元前4〜3世紀のサムニウム戦争を経て,ローマの支配下に入った。イタリアの他の都市と同じく,古代の遺産が多く残されている。真ん中のデクマヌスとカルドの交差する地点には中心広場(フォルム)があったが,ナポリではそこにディオスクロイ神殿があった。のちにサン・パオロ・マッジョーレ聖堂へと造り替えられ,17世紀の地震で聖堂に使われていた神殿部分は失われてしまったが,高い基壇の上に立つファサードには,縦溝彫りの施された堂々たる円柱が配置されている。

このようにナポリの聖堂建築は,古代の町の区画といかに折り合いをつけ,また古代の石材をどのように再利用しているかが,建築の変遷を読み取る上での鍵となる。

例えばナポリ大聖堂は,4世紀にさかのぼると考えられ,アポロ神殿の上に建造された。8世紀に聖レスティトゥータの遺骸がイスキア島から移され,この聖女に捧げられることになる。この聖堂は5廊を備えたバシリカ式,すなわち長方形の平面を基本とする建築で,カルドに沿って平行に配置された。聖堂はアプシスの置かれる建築端部を東に向けることが多いが,ナポリではバシリカの長方形を,南北に細長い格子状の区画に合わせるため,アプシスが北や南を向く例が多い。このサンタ・レスティトゥータ聖堂も内陣を北に持つ。

しかしながら大規模な聖堂の場合,この細長い区画をはみ出してしまうことになる。アンジュー家が首都をナポリに置いた13世紀後半,この大聖堂は新たに建造される。その際に取られた方法は,非常に大胆なものだった。サンタ・レスティトゥータ聖堂はファサード側の一部が削られたが,ゴシック的な改築を施されながらもほぼ残され,新聖堂はその左側面をこの旧聖堂の入口側の面と接するように建造されたのである。つまり,旧聖堂へは新聖堂の左側廊から入ることになり,新聖堂はアプシスを東側に置き,その縦軸を旧聖堂のものから90度回転させることになった。そしてまた,この新聖堂はカルドを一本またいでしまっている。

ナポリはゲルマン民族の侵入以降,ビザンツ帝国領内に留まりナポリ公区・公国を形成し,その後ノルマン人やシュタウフェン朝の支配を受けることになる。ナポリ公時代の痕跡はほぼ皆無である。11世紀以降,北方から来た君主たちの治めるシチリア王国においてもナポリが重要な都市であったことに変わりないが,シチリア島のパレルモがその中心であった。それゆえ現在のナポリの姿は,1268年にアンジュー家のシャルル1世がナポリに王国の首都を移してから,形づくられたといえる。

フランス出身の王家であるアンジュー家は,フランス人の職工を雇い,ゴシックの最先端の様式をナポリに移入した。そのもっとも顕著な例が,1270年に建造が開始されたサンテリージョ聖堂である。サンテリージョとはフランスの聖人エロワのことであり,この聖堂は他に,やはりフランスを代表する聖人といえるトゥールの聖マルタンとパリの聖ドニにも捧げられている。聖堂の建築細部,とりわけ南扉口の刳り型や葉飾り装飾は,同時代のフランスの建築装飾にきわめて近い。

これ以降,サン・ロレンツォ,サン・ドメニコ,サンタ・キアーラ,サン・ジョヴァンニ・ア・カルボナーラなど,数多くのゴシック聖堂が建造された。フランス的な要素は,徐々に南イタリアのローカルな要素と融合していった。ナポリの都市景観を描いた有名な「ストロッツィの板絵」(1465-78年頃制作。ナポリ,サン・マルティーノ博物館)では,こうした新しい首都ナポリを飾るゴシック期の建造物が威容を誇っている。聖堂の内部は,フィレンツェやシエナ,ローマなどイタリアの他の都市から訪れた当代一流の芸術家たちによって装飾された。絵画ではジョットやカヴァリーニ,彫刻ではティーノ・ディ・カマイーノの名を挙げることができる。こうした芸術家たちは,ナポリの独特な建築的環境,あるいは政治・社会・宗教的状況に適応しながら作品を制作し,彼らの後継者を南イタリアにも残していったのである。

メスキータを守れ!
伊藤 喜彦

ここしばらく,コルドバ大モスクについて調べている。学生時代からずっと関心を持っていた建築でもあり,手元にある多くの文献や図版,何度も訪れて撮りためた大量の写真をいじくり回しながら原稿を準備しているのだが,そんな中,昨年2月に他界した恩師,鈴木博之先生のことがしきりに思い出されるのである。

鈴木先生から学んだのは大モスクの建築そのものについてではない。そもそも先生から,手取り足取り何かを教わった記憶はない。学生時代から,指導されるというよりはその少し猫背の後ろ姿を見て勝手に学ぶ,という感じであった。が,恩師のふとした一言というのは頭の片隅に残っているもので,教える立場になった今でも,あるいは今だからこそ,そうした思い出から学ぶことが少なくない。

鈴木研で西洋建築史を学ぶ中でいつの間にか関心はスペイン中世,それも初期中世に具体化していったが,先生からは一度も止められなかった。研究室に留学期間を含めて8年半いたが,相談に行くたびに「いいですね」と言われるばかりであった。かなりあとになって酒席で他の学生に「学問は真ん中をやりなさい,端っこは真ん中がわかればわかる」というような発言をされたので,私が「先生,何で早く止めて下さらなかったんですか?」と問うと笑っておられた。

鈴木博之の活動の軸のひとつに建築保存というテーマがあったが,いかに世の中の役に立たないことをするかを日々考えていた学生時代の私にはいまいちぴんと来なかった。だが,退官も間近な頃,とあるシンポジウムで鈴木先生が,やれる者,やりたい者だけではなく,建築史学徒にとって建築保存は必ずやらねばならぬ活動だ,という趣旨の発言をされたのが妙に印象に残った。

恩師のことを改めて私に思い出させたのは,コルドバ大モスクで1523年におきた事件の詳細である(Nieto Cumplido, M., La Catedral de Córdoba, Córdoba, 2a ed., 2007, pp. 499-507)。

王朝変わってハプスブルグ家の皇帝カール5世(スペイン国王カルロス1世)の時代は,コルドバ大モスクにとっても大きな転機であった。新司教アロンソ・マンリケとその補佐ペドロ・ポンセ・デ・レオンは1521年,大聖堂参事会に対し,聖歌隊席が教会堂の端にあるのはおかしいので修正すべきであると意見を述べ,改築を提案する。築500年から700年のコルドバ大モスク=大聖堂の中央部に巨大な主祭壇,交差廊,聖歌隊席を備えた新身廊部を建設するという野心的計画は1523年に急速に具体化し,4月,取り壊し作業が始まった。

これに驚きと抗議の声を上げたのが市議会であった。市議会が事態を把握したのは工事開始後である。その後の展開から推測するに,教会側が抗議を恐れて直前まで事実を公表していなかった可能性が高い。4月29日の市議会では,(1)堂内に礼拝室や墓地を有している貴族に不利益,(2)世界に一つしかない建築である,(3)王室礼拝室にも不利益がある可能性があり,工事には王の許可が必要,という3点の理由から,大聖堂参事会に工事差し止め請求することが決議された。

5月2日,市が大聖堂参事会に対して工事差し止めの要求をしたものの,大聖堂参事会はこれを市の管轄外だと拒絶。これに憤激した市の有力者たちは5月4日,王の許可が出る前に工事に参加する職人は,死刑にして財産を差し押さえるという脅しをかけた。一般市民には貴族の礼拝室うんぬん(上記理由(1))は伏せ,「壊されそうになっている建築は非常によいものであり,一度壊してしまったらその素晴らしい姿をもとに戻すことは不可能」だと理由を述べている。教会側もすぐさま反撃に出る。5月8日,大聖堂参事会は,工事の邪魔をする者を破門にすると宣言したのである。わずか2週間ほどの間に事態は随分ヒートアップしている。その間にも取り壊し作業が粛々と行われていたのかもしれない。

6月6日,市は国王に事態を直訴したが,なぜか大モスクの建築美については一切触れなかった。7月,王立大審問院によって市の貴族たちの破門は解除されたが,結局工事差し止めの命令が出されることはなかった。8月31日,司教アロンソ・マンリケはセビーリャ大司教に昇格し,その一週間後の9月7日,順当に取り壊し作業を終えたコルドバ大聖堂新身廊部は,いよいよ着工したのである。

こうして,市民による歴史的保存運動は不発に終わった。そもそも取り壊し作業が始まってからの反対運動に無理があったとも言えるし,国王への働きかけ方などで戦略的ミスがあったとも考えられるが,根本的には初めから負け戦だったのである。しかしまあ,500年前の建築保存運動の顚末のなんと既視感のあることか! 負け戦に挑んだコルドバ市民の姿に,なぜか恩師のそれを重ね合わせてしまう私を見て,天国の鈴木先生が「いいですね」と頷いているような気がする。

イギリス戦勝記念オペラ?

──ナポリにおけるイギリスとインドの残像を追って──

山田 高誌

オペラ研究の一環として,筆者は一昨年夏南インドを訪れた。その目的はタミルナード州東海岸の小村ナーガパッティナムと,そこに暮らす「ベンガル人」を目にしたいと思ったからである。

その関係について訝しがられるに違いないので先に言い訳をしておこう。18世紀ナポリで上演された喜劇オペラの一つ,ジュゼッペ・パロンバ台本,ドメーニコ・チマローザ作曲《いつも悪い道を選ぶ女》(ヌォーヴォ劇場,1785)に「ネガパタン」という「ベンガル人の令嬢」という人物が登場するのである。当初,オペラとしてはおそらく最初のケースということだけに気を取られていたが,調べていくうちに,どうやら彼女の名前は空想上のものではなく,実在のナーガパッティナムという地名から取られたのではないかということに気が付かされた。それだけではない,そこには,当時摂政として政治の実権を握ったナポリ王妃マリア・カロリーナが押し進めた親イギリス政策が反映されているのではないか,つまり,17世紀半ばよりオランダの植民地であったナーガパッティナムを1781年の海戦でイギリスが打ち破り1784年に正式にイギリス領とした「イギリス戦勝記念」を祝う作品だったのではないか,と同時代の喜劇オペラ群の読み直しの契機を与えてくれたからである。

1768年,ナポリ王国の二代目国王フェルディナンドIV世のもとに,啓蒙君主として名高いマリア・テレージアの娘マリア・カロリーナが嫁いできた。彼女の性格は,狩猟と社交を好んだ庶民派王とは反対に芸術に理解があり理知的で,第一王子誕生後,つまり1775年以降宮廷のすべての実権を掌握していた。

1776年以降,王一家の民間劇場での喜劇オペラ鑑賞も,同地で上演されたすべてのオペラ作品の楽譜の収集,保存という王令(1796)も王妃の意向を受けて実現した出来事であったし,1780年代には,スペイン派大臣タヌッチを罷免,代わりにイギリス大使W.D.ハミルトン(1730-1803)の重用を図り,ナポリ海軍をイギリス式に再編成させるという実務でも手腕をふるった。

極東に先に進出していたオランダをナーガパッティナムで制したように,当時イギリス軍は破竹の勢いであった。フランス優位であったアメリカについても1763年のパリ条約に基づきカナダとミシシッピ以東のルイジアナを領有し,ほか西インド諸島,カナダも手中に収めていた。インドにおいても,1764年以降,東インド会社を通してベンガルにおける地租権を獲得するなどインド支配を確立する最中にあった。また,英海軍士官クック船長による3回の太平洋航海によって,タヒチ諸島,豪州,ハワイ諸島が発見されたことは当時大きなニュースとなっていた。

王妃マリア・カロリーナは,芸術愛好家だった英国大使ハミルトンとの劇場での親交のなかで,このような近代的イギリス海軍の活躍のニュースにたびたび触れ,熱狂したことであろう。

このような背景を踏まえて前述のチマローザのオペラを読んでみよう。ネガパタンは,ベンガルからフランスの船に乗り,トラーパニ近郊グラナテッロに向かっている。英国人船長ロビンソンは彼女の高貴さにすっかり惚れ込み,さらに乗船客の一人若者ジャンポンポニオは,エウフラジアという許嫁がグラナテッロで待っているにも関わらずネガパタンに気を寄せ始める。到着地では,許嫁の父や,エウフラジアに恋する男爵などの登場とともに様々な諍いがおきるが,最終的にジャンポンポニオとネガパタンは結ばれる,という内容である。

ここでネガパタンは「異国人」であるも,「高貴なる野生」を発展させたヨーロッパ的な教養と気高い精神を持つ令嬢として描かれ,音楽も宮廷オペラの語法に近い。その姿には,まさにイギリスがオランダから勝ち取ったナーガパッティナムの領土としての正当性が投影されているかのようであり,一方ジャンポンポニオは「ナポリ的」な放縦な性格を表象しているように思われる。彼らを運ぶフランスの船の船長が英国人であるのも,イギリスのフランスへの優位を暗示し,そして最終的に彼ら二人が結ばれるという点には,イギリスとナポリが様々な苦難を乗り越えて「幸せな結婚」をするという意味が重ねられていると読むことができよう。

同時代ナポリでは,《賢いクエーカー教徒の娘》(1783),《クック船長,あるいはタヒチのイギリス人》(1785)など,異国オペラが次々と上演されていたが,躍進するイギリスの「戦勝地」というフィルターを通してみれば,うっすらと一本の線が浮かび上がってくる。事実,これら作品群の公演を手掛けたのは,一人の興行師ブランキ(拙論『地中海学研究』XXVII)であった。王妃の意図を忠実に汲み取ってローカライズしたものがこのような形で実ったのであろう。1799年のナポリ革命の際,英軍の助けによって王家はパレルモに避難できたとともに,すばやく王政復古を実現させることができたこともこのような友好関係が背景にあった。

表紙説明 地中海世界の〈道具〉4

エジプトの畜力揚水車/堀井 優

エジプトの農業は灌漑に支えられてきた歴史を有し,ナイル川の定期的な自然増水が利用され,また河川や井戸の水を汲み上げる技術が活用されてきた。後者の場合に使用される揚水具として,はねつるべ(シャードゥーフ)や,スクリューを内蔵した円筒状のタンブールのように人力によるもの,また牛やロバなどの畜力を利用する揚水車(サーキヤ)がよく知られている。表紙はその一例であり,1798年にはじまるナポレオンのエジプト遠征に伴って行われた学術調査の成果を示す『エジプト誌』のなかに収録された,揚水車を描いた図版の一つである。

畜力揚水車は,水平の回転運動を垂直の回転に変換して水を汲み上げる仕組みをもった,木製の機械である。家畜が動かす水平の歯車は,垂直の歯車と嚙み合わされており,後者と同じ心棒に取り付けられた車輪を回転させる。この車輪に巻かれた長い縄は,多くの陶製の壺が結びつけられた数珠状をしている。これらの壺は,車輪の回転に伴って下降し,水面に達したところで水を満たして上昇に転じ,最上部で水を水路に流して空になった後,再び下降する。その稼動時には,機械の軋む音が聞こえたという。

『エジプト誌』の本文によれば,ある揚水車の水平の歯車は直径が2.6メートルあって40個の歯をもち,これと嚙み合わさった垂直の歯車は直径が1.68メートルあって24個の歯をもち,半径1メートルの車輪に巻かれた縄に付された22個の壺が,1分あたり0.1062立方メートル(106.21キログラム)の水を,6.75メートルの高さへ汲み上げていた。また前述の図版の揚水車は,56個の壺をもち,1分あたり0.067606立方メートルの水を,10.39メートルの高さへ汲み上げていたという。

なお『エジプト誌』には,やはり畜力によって回転し,垂直の車輪の外枠部に水を入れて汲み上げる方式の揚水車を描いた図版も収録されている。この揚水車の場合,車輪の下部が水面に接触しているから,浅い場所から水を汲み上げるのに適していたことになる。

このような揚水技術は,エジプト農業の多様性に寄与した。ナイル川の自然増水を利用するベイスン灌漑は小麦やソラマメなどの冬作に適していたが,人工的な灌漑によって,大量の水を必要とする米や砂糖きびなどの夏作も可能だったからである。とりわけ19世紀に綿花の需要が高まると,下エジプトでは揚水車が急増し,水路網が整備されて耕作面積が拡大した。やがて揚水車は木製からブリキ製に変わり,また動力ポンプが普及して,現在は伝統的な揚水車はほとんど見られなくなったといわれている。