地中海学会月報

MONTHLY BULLETIN

学会からのお知らせ

ブリヂストン美術館秋期連続講演会

本学会では今年度の地中海学会賞及び地中海学会ヘレンド賞について慎重に選考を進めた結果,次の通りに授与することになりました。授賞式は6月14日(土)に第38回大会の席上において行います。

芸術家と地中海都市 IV

10月11日 13世紀ローマとアルノルフォ・ディ・カンビオ: 教皇庁の墓碑彫刻を中心に  児嶋 由枝氏
10月18日 水都ヴェネツィアを彩った建築家たち  陣内 秀信氏
10月25日 ルネサンス宮廷都市と芸術家たち  京谷 啓徳氏

事務局移転

学会事務局は7月31日,下記へ移転しました。eメールアドレスに変更はありません。

東京都港区元麻布3-12-3 麻布聖徳ビル2F
〒106-0046
電話 03-6804-6791/FAX 03-6804-6792
最寄り駅: 地下鉄南北線・大江戸線「麻布十番」

表紙説明 地中海世界と動物 19
亀/宮下 規久朗

亀は食用にもなり,甲羅が工芸品になるなど,役に立つ動物であった。日本ではスッポン以外の亀を食べる習慣はないが,西洋では大航海時代以降,大きな亀を船に積み込んで甲板に放し飼いにしておき,適宜食料としたという。放っておいても長生きする亀は保存食に適していたのだ。しかし,亀が美術の主人公となることは,博物画やエンブレム以外にはなかった。

日本では,「鶴は千年,亀は万年」といわれ,亀は鶴と並んで長寿を象徴するおめでたい動物であった。中国やインドでも神聖な動物と見なされてきた。霊獣四神のひとつで北方の星宿を神格化した玄武は亀に蛇が巻きついた姿で表され,それはわが国の高松塚古墳やキトラ古墳の石室の壁にも描かれている。

古代インドの世界観は,亀がこの世界を支えているものであり,仏教でも亀が須弥山を支えていたが,日本でも五重塔の礎石に亀を彫ることがあった。大阪の野中寺の礎石も亀の形をしている。バルセロナにあるガウディのサグラダ・ファミリア聖堂にも,中央の門の2本の柱の下には,西洋では珍しいことに亀がいるが,これは不変性を意味するとともに,亀のようにゆっくり建設を進めるということを示すという。その意味通り,いまだに建設が続けられている。

亀はカタツムリとともにのろさの象徴であり,イソップ寓話の「兎と亀」や,俊足のアキレスが亀を追いかけてもつかまえられないというゼノンのパラドックスにもそれが表れている。

ルネサンス以降,亀は怠惰の象徴にもなったが,思慮深さを意味することもあり,エンブレムにもしばしば登場するようになる。これは,「急いてはことを仕損じる」とか「ゆっくり急げ」といった標語を示すものであった。1640年にニュルンベルクで刊行された『エンブレマータ・ポリティカ』には,亀に帆がついており,「Festina lente (急がばまわれ)」とある。何事も亀のように慎重に進めるべしというモットーである。

ローマのマッテイ広場に《亀の噴水》という噴水がある。これは,1581年から84年にかけてジャコモ・デラ・ポルタによって作られ,ブロンズの4人の青年像はタッデオ・ランディーニによって制作された。青年たちが亀にふれて,水盤に落とそうとしているが,これらの亀は,1658年にバロックの天才彫刻家ベルニーニがこの噴水を修復したときに加えたと考えられている。水となじみのある亀を配することによって,ユーモラスな効果が生まれている。噴水制作の名手ベルニーニらしい卓抜な発想であったといえよう。

マニエリスム風の人物のポーズは,1601年から1603年までこの前の館パラッツォ・マッテイ・ディ・ジョーヴェに住んでいたカラヴァッジョの《洗礼者ヨハネ》(カピトリーノ美術館)に反映していると思われる。3人の制作者がいたとは思われぬほど統一感のあるこの優美な噴水は,知る人ぞ知るローマの名所となっている。日本人の観光客を見かけることはないが,いつも少数の欧米の観光客が写真を撮っている。

再生のための「ギリシア悲劇」を
村田 奈々子

ギリシアの財政危機が表面化したのは2009年の秋。まもなく5年の歳月が経とうとしている。この危機は,ユーロ圏のみならず,世界の経済の動向に大きな影響を及ぼすと危惧された。

「古代のギリシア人は,人類の遺産と見なされる普遍的な文明を生み出したのに,どうして今日のギリシア人はこんなにも堕落してしまったのだろうか」

ギリシアの経済的な惨状,それを生み出した政治の腐敗やいびつな社会のあり方を,古代ギリシアの偉大さと比べる ── このような論調が,日本だけでなく,世界のメディアでみられた。古代ギリシア悲劇の本質を理解することもなく,その字面だけを借りて,この危機を「ギリシア悲劇」と名づけることすらみられた。

古代と現代のギリシア人を安易に結びつける,皮相的な語りに,私は強い反感を覚えていた。一方で,古代のギリシア人の血と精神を,現代のギリシア人が受け継いでいるとしたら,と想像することもあった。もしニーチェの言うように,「ギリシア悲劇」が ── デュオニソス的悲劇が ── ギリシア人に形而上学的慰めをもたらす作用を持ち,ペシミズムの中にこそ,ギリシア人が強さを見出すのだとしたら,どん底にある今こそ,ギリシア人は,国家や社会の膿を吐き出して,再生する機会をみずから掴むはずだ ── と期待したのである。

あれから5年,ギリシアは変わったか。
今年2月末にアテネを訪れた。日本のメディアでは,ほとんど報じられなくなったが,デモは相変わらず続いている。既得権益を持つ者たちの緊縮策に対する抵抗は根強い。政府も改革の実行に決死の覚悟で臨んでいるようにはみえない。ギリシアのユーロ圏脱退が現実味を帯びていたのは一時のことだ。救済資金供出元のトロイカ(EU, IMF, ECB)の言うことに,おとなしく従う姿勢を示しておけば,ギリシアはユーロ圏を追放されることなどない。ギリシアが脱退すれば困るのはユーロ圏や EU 諸国だろう。世界の国々も経済の混乱は避けたいはずだ。そうタカをくくったかのような態度が,政府のやり方から透けてみえてくる。今はただ嵐が過ぎ去るのを待つのが一番の策 ── とでも言うように。

要は,何も変わっていないのである。私の友人のギリシア人も,もう政府を見限り,良い方向になど変わるわけはないと,なかばあきらめ顔。アテネの中心部は,私の目には,ゆっくりとではあるが着実に,みすぼらしくなっているように映った。日中ひとりで歩くのが怖いと感じられる通りも増えた。変わったといえば,それくらいであろうか。今日の「ギリシア悲劇」のペシミズムは,現代のギリシア人に再生の力を与えることはなかったということになるのだろうか。

「ギリシアは確実に貧しくなっているように見えます。ただ太陽だけは,ギリシアを裏切りませんね。今日も燦々とアッティカの大地を照らしています」

ギリシア人の友人のコスタスにメールを送った。彼は今,アメリカに住んでいる。財政危機後,ギリシアの大学の給与が激減し,研究の継続どころか,家族も養えなくなった。有期契約ではあるものの,ミネソタ州の大学で職が見つかったことは,彼にとっては大きな幸いだった。足を引っ張られることがないよう,新天地での就職についてはぎりぎりまでギリシア人の同僚に話すことはなかった。彼は,ギリシアにほとほと愛想をつかし,家族で国を離れた。

「その通り。ギリシアの豊かさは太陽だけ。ナナコ,僕の代わりに,祖国の大地にキスしてください」
コスタスからの返事だった。19世紀末から20世紀初頭,国家破産の余波を受けて大量にアメリカに渡ったギリシア人移民の手紙の文面にそっくりだと,思わず苦笑した。同時に,ギリシアが,再び「移民」を送り出す国に変化している現実を目の当たりにして,悲しくなった。

軍事政権が崩壊して民主化(1974年)して以降,海外居住のギリシア系移民たちは,国の新たな出発と発展に期待して続々とギリシアに戻ってきた。彼らが求めていたのは,太陽の恵みだけではなかったはずである。しかし今,太陽の恵みを残して,少なからぬギリシア人が,国をあとにしている。

さて,ギリシアのどこの大地にキスをしようか。親友のお願いを無碍にするわけにはいかない。リカヴィトスの丘へ登って行く小道にしよう。コスタスと何度か散策した場所である。春先にしては強い日差しを浴びながら,青色や黄色の野生の小さな花が咲く小道をひとり歩いた。途中,かがみこんで,わずかばかりの土を手のひらにとり,唇をちかづけた。

今日の「ギリシア悲劇」は,いまだ終幕を迎えていない。再生のための悲劇を期待する自分が,まだここにいる。

地中海学会大会 研究発表要旨
ヘルメス柱と道祖神にみる境界信仰の類似と共通性

── 性神的要素と境界感覚を中心に ──

平井 倫行

ヘルメス柱とは,ギリシア諸都市の街角や家々の戸口などに数多く建立された,石もしくはテラコッタ,青銅などで作られた柱である。多くはヘルメス神の胸像を戴き,街道や共同体の境界を示す印として用いられた。特徴としては,その中ほどにはしばしば男根が取り付けられている点だ。古代ギリシアの神ヘルメスは,商人および旅行者の守護神としての役割を担うと同時に,生殖や街道に関連した境界神である。

複数の領域が存在するとすれば,その間には必然的に境界が発生する。というよりも,むしろ境界こそが領域を成立させている。従って,境界は一つの領域を他の領域から分離するのみならず,それを接続する役割を有している。それは,この境界神が旅や交易の安全,豊饒,多産性といった権能の他に,外部からくる邪悪な影響力を威圧する性格を有したという点にも顕われている。

この西欧における信仰は,ただちに我国における道祖神信仰を想起させる。道祖神は,関東西部,中部地方を中心に全国的にみられる境界信仰である。その起源は比較的たどり易く,一般的にはイザナギ・イザナミ神話において,黄泉の国より逃亡してきたイザナギが,あの世とこの世の境界線として設けた「千引きの石」,あるいは「此よりな過ぎそ(これより行ってはならぬ)」と言って投棄した杖に由来していると考えられる。この神もまた,村落と村落,共同体と共同体の間に祀られ,旅人を守護し,境界において不吉な存在の侵入を阻止する役割を担うと同時に,空間と空間を接続する神で,多くは性を強調した姿として表現されている。

この類似の意味は極めて大きい。何故なら,それは境界信仰における性のテーマの重要さを示すものであり,またその意味を論及することは,人類が境界に対し抱いて来た,始原的な感情をも明らかにするものだからである。しかし,この比較を具体的な主題として取り上げたものは,国内において現在まで僅かな論文や指摘をみるに留まり,十分な研究が為されていない。

人々が社会生活を営み,共同体の安全が維持されようとすれば,外部に対し内部を明確にする必要があり,そこに必然的に境界が発生する。そして,それが維持されるためには,そこを守護する強力な存在があらねばならない。しかし旅をするものにとっては,境界はたえず越え続けねばならないものである。かくして旅人にとっては,境界の神は,境界を無事に越えさせてくれると同時に,境界を開き,かつその旅路を守護してくれるものでなくては困るのであり,また共同体に所属する者にとっては,訪れるものが必ずしも歓迎すべきものであるとは限らない以上,それを閉ざす機能が期待されるのである。ヘルメス柱と道祖神を比較することで,ここに,性とは元来が境界に存在し,開く機能と閉じる機能,ふたつの機能を担うものであった,という文脈が見えて来る。

近代になるまで,境界感覚はより明確なものであった。共同体と共同体を隔てている空間は非現実的な空間であり,日常性から切り離された異界であった。境界神は此岸と彼岸とを分離する役割を持っており,また不可分にこの世と他界とを結ぶ役割を担っている。生と死との中間に位置し,二つの異なる世界を繋ぐ役目を果たしているのだ。ヘルメス柱においても道祖神においても,境界の守護と,旅の安全という,閉じる機能と開く機能,相反する性質を共存させている,という点においては共通しており,境界神がしばしば性的な要素を強調した像によって表現されるのも,こうした性格のためである。性は一つの個体としての生命が,他の個体と交合する前提であり,それは極めて原初的な,他者,外的世界との接触であり,非連続性が曖昧になる瞬間である。そこでは境界を越え出る機能と,境界を維持する機能のふたつが絶えず問題とされる。他者と自己とが結びつく特権的な瞬間,であればこそその感覚は,様々な象徴体系のなかで拡大されたり,あるいは縮小されたりするのである。それは,例えば聖と俗,美と醜,正と邪,内と外,自己と他者,浄と穢といった対立として表象されよう。

本発表では,この二つのまったく異なった文化圏における信仰形態の類似と共通性の考察から,人類が普遍的に有してきた境界感覚を論じた。

地中海学会大会 研究発表要旨
カルロ・クリヴェッリ祭壇画研究

── ファブリアーノ,ラメッリ家文書を手掛かりに ──

上原 真依

ヴェネツィア出身の画家カルロ・クリヴェッリは,1468年以降,現在のイタリア・マルケ地方を中心に活動し,30点余りの祭壇画を制作した。ほとんどの祭壇画は長らく聖堂などに放置されていたが,19世紀にその市場価値が認識されると,次々に解体され世界中に売却されていった。これまで F. ゼーリや P. ザンペッティらは,分割されたパネルのサイズや様式,制作時の契約書をもとに再構成案を提示してきたが,未だ本来の祭壇画の全貌が解明されていない作品も多い。本発表では,これまで看過されてきた19世紀の資料,すなわち郷土史家の証言や,売却時の史料,美術館/コレクターにおける所蔵記録を紐解くことで,クリヴェッリが晩年,ファブリアーノの聖堂のために制作した作品について考察した。

従来,クリヴェッリが同市のために制作したのは《聖母子と聖フランチェスコ,聖セバスティアヌス》(ロンドン,ナショナル・ギャラリー所蔵)と《ファブリアーノ祭壇画》(ミラノ,ブレラ絵画館などに分蔵)の2点と考えられていた。しかし発表者は2012年,19世紀におけるファブリアーノの有力貴族,ラメッリ家の末裔 P. セリーニ氏の全面的な協力により,ラメッリ家宮殿内に残された未刊行史料を実見する機会を得,カミッロ・ラメッリ(1804-1855)が記した同市の歴史書や聖堂に関する覚書の中に,3点目のクリヴェッリ作品を確認した。

カミッロ・ラメッリは,19世紀にファブリアーノで高等学校の教師を務める傍ら,文書館や聖堂で調査を行い,同市の歴史や一族に関する覚書を多数残したが,一部を除きその殆どが刊行されていない。クリヴェッリ作品は『ファブリアーノの歴史研究 第7冊 絵画について』と,『ファブリアーノ聖堂内における絵画作品』の2冊中で記録されていた。発表者は,まず,すでにファブリアーノ由来作品として知られる2点に関する証言を取り上げ,ラメッリが幼少のころからおじジョヴァンニの邸宅でクリヴェッリの《ファブリアーノ祭壇画》パネルを目にしていたことや,聖堂からの持ち出し先や時期に関する記録がローマ国立古文書館所蔵の輸出記録や売却申請,さらにミラノの貴族ピエトロ・オッジョーニの遺贈品リスト(モデナ公立文書館所蔵)と合致することを確認した。次に,ラメッリがサン・フランチェスコ聖堂にあった3点目のクリヴェッリ作品として記録した「聖ベルナルディーノを伴う聖母」を取り上げ,聖人の一致からその候補作品としてボルチモアのウォルターズ美術館所蔵の《聖母子と聖人たちと寄進者》が挙げられることを,パネルの実地調査や来歴に基づいて考察した。

同作品の来歴は1897年のマッサレンティ・コレクション(ローマ)以前に遡れず,年記もないため,これまで制作年も本来の設置場所も明らかになっていなかった。2004年,R. ライトボーンは手前台座に記された文字を手掛かりに,アンコーナ出身のベルナルディーノ・フェッレッティ修道士が,アスコリ・ピチェーノの聖堂のために制作させたとする仮説を提示したが,1480年代のアスコリ・ピチェーノでは,近郊の村モンテプランドーネ出身の福者ジャコモの図像が圧倒的に多く,同じフランシスコ会士であるシエナの聖ベルナルディーノの作例は殆ど確認できないことを考慮すると,ウォルターズ作品がアスコリ・ピチェーノのためのものだったとは考えにくい。顔の表現や衣襞に見られる様式が,1490年前後の祭壇画作品と共通しており,さらに1491年1月9日付の《ファブリアーノ祭壇画》契約書(アンコーナ国立古文書館ファブリアーノ分室所蔵)において,クリヴェッリがファブリアーノに住居を構えると明記されていることから,ウォルターズ作品が,この時期にファブリアーノのために制作された可能性は十分考えられるのである。

晩年のクリヴェッリ祭壇画は,既存の人物の繰り返しや協力者の介入などを理由に,質的に劣った点が認められるとして,これまで等閑視されがちであった。しかしベルナルディーノ・ディ・マリオットの《聖母子と天使たち》(1498年,ファブリアーノ絵画館所蔵)やロレンツォ・ダレッサンドロの《聖母子と聖人たちと寄進者》(1491年,カルダローラ,サンタ・マリア・デル・モンテ聖堂所蔵)のように,15世紀末にファブリアーノ周辺で制作された多くの祭壇画作品にクリヴェッリに類似する様式が認められることから,画家がこの地で果たした役割は大きいと言える。ファブリアーノ由来のクリヴェッリ作品を検証することは,晩年のクリヴェッリ工房の広がりや,さらには15世紀のマルケ絵画の展開を明らかにする上で必要不可欠であり,新たに確認したカミッロ・ラメッリの証言は今後重要な意味を持つであろう。

春期連続講演会 「地中海世界を生きる II」 講演要旨
商人になること,商人であること

── 中世イタリアの事例から ──

亀長 洋子

地中海世界の商人のことを考えるさい,中世のイタリア商人の活動は否応無しに目に留まる。彼らは,同時代を生きた何処の商人にも優るとも劣らぬ存在感を示し続けた。

彼らの顕著な様相は,中世イタリア商人が活動した範囲の幅広さに見ることができる。彼らは東西地中海世界に加え,黒海,太平洋から北海にかけての他の海にも進出している。無論そこには中世という時代の限界もある。13世紀のモンゴルの平和のもと,マルコ・ポーロに代表されるイタリア商人たちは,はるか中国まで足を伸ばしたが,モンゴルの平和の終焉と黒死病の猛威などにより14世紀後半以降の地中海世界は低成長の時代を迎え,彼らの活動範囲の拡大は途絶える。そうした困難のなかでも,彼らは数々の創意工夫と努力の精神をもって危機の時代を乗り切っていく。

そうした精神は,彼らの中で育まれていった商業技術の進展に見ることができるだろう。中世後期には,定着商業の進展のなか,イタリアの商人達は簿記システム,数々の種類の商業帳簿,商業書簡,為替,海上保険のシステムなどを駆使して商業を展開する。商業手引書と呼ばれる商業についての情報・マニュアル本が地中海世界に登場してくるのも中世後期である。こうした史料は情報満載で,その中には様々な地域や商品,通貨が現れ,イタリア商人が携わった世界の豊かさがあふれでており,彼らの博識ぶりがうかがえる。

彼らはこうした知識をすぐさま身に付けたのではない。彼らは商人になるための研鑽を幼少期から重ねていた。14世紀前半のジョヴァンニ・ヴィッラーニのよく知られた記述によれば,当時のフィレンツェには読み書きを習っていた男女が8千人から1万人おり,算盤や算術を習っている男子は1千人から1千2百人ほどいたという。縦横の刻みの入った板もしくはテーブルの上に小さな玉をおいて計算する当時の算盤は,十二進法や二十進法の入り混ざった当時の貨幣を換算する上で有益であった。当時の算術教本には,現在の日本の小学生の算数同様,具体的なものを題材にした文章題の問題も含まれていた。

6歳頃から読み書きを修得した少年は,10歳頃で2年程度算盤の学校に通った後,実業の道へ足を踏み出していく。14世紀中葉のフィレンツェでは,毛織物商人フランチェスコ・デュランテの息子達が,各人のそうした年頃に次々と毛織物商人のところで見習いを始めていたことが記録に残っている。また海上商業の盛んな港湾都市ジェノヴァには,11世紀半ばから,海外に赴く行為者と,彼に投資する本国に残る投資家との間でかわされた一種の遍歴商業の契約文書が数多く残存するが,このシステムのなかで,若者は海外に赴く側として活躍することも多かった。当初は,本国に残る投資家だけでなく,海外に赴く行為者も出資する形での契約システムであったが,徐々に行為者側の資本はゼロでよいシステムが普及する。この変化は,自己資本をあまり持たない若者にもビジネスチャンスを増やすことになる。

若者のビジネスチャンスを考える上で,その背後にある親族間のつながりは重要であった。前述の行為者と本国に残る出資者の関係をみたさい,しばしば叔父や伯父が出資者として海外に赴き事業を行う甥に資金を渡している契約が見られる。定着商業の時代になっても,若者は海外の拠点に駐在しファミリービジネスに関与している。また15世紀前半のフィレンツェにおいて,反メディチと認定された亡父に連座して政治的追放刑を科された若きフィリッポ・ストロッツィとその兄弟は,ナポリの親戚のもとで商人としての腕を磨いていくことになる。広範な地域で活躍する商人達の世界において,信用の一つの根拠の形として,親族であることの意味は大きいものであった。

中世イタリアの商人達は,キリスト教における利息禁止の原則を守るふりをしつつ一見利息に見えないような形での利益追求を求めていたが,同時に彼らは敬虔なキリスト教徒でもあった。彼らの遺言を読んでいると,自身の親族への財産分与以外に,貧者への救済,ミサ,ろうそくや聖歌隊の経費等々の形で,自身や家族の霊的救済のために遺産を用いよとの細部にわたる指示が頻繁に表れる。中世後期のイタリア商人達の寄進によって建立された豪華な礼拝堂も,単なる大商人の自己顕示欲に留まらず,個人の利益や合理性を指向しつつも神を畏れ敬うイタリア商人のメンタリティがあってこそ生まれてきたのだといえるだろう。合理性を尊びながらも近代人になりきれないところが人間味あふれる中世イタリア商人の魅力なのである。

春期連続講演会 「地中海世界を生きる II」 講演要旨
ルネサンスの画家

── 聖ルカからアペレスへ? ──

水野 千依

15世紀にフィレンツェで花開いたルネサンスという潮流は,古典文化の復興を掲げ人間性を再発見した人文主義を背景に,芸術面でも高度な技術刷新を達成し,数々の巨匠の名作を今に伝えている。この時代に生きた画家とはいかなる存在だったのだろうか。

キリスト教文化における最初の画家と謳われるのは,福音書記者聖ルカ。生前の聖母子を目の前にして真の肖像を描いたとされ,福音書に比する地位を聖像に認める動きのなかで象徴的存在として崇められてきた。中世の画家がこの聖ルカを理想としたとすれば,ルネサンスの画家の技比べや技巧的洗練は,古代ギリシアを代表する画家アペレスのそれに擬えられようか。当代の画家や彫刻家をアペレスやゼウクシスといった古代の巨匠に擬える修辞は珍しくない。古代ローマの大プリニウスが伝えるプロトゲネスとアペレスの技比べという有名な逸話(『博物誌』36, 81-83)は,腕を動かさずコンパスもなしに完全な円を描いた「ジョットの○」の神話へ,さらにミケランジェロやデューラーの離れ業を語る逸話へと翻案されている。

では,この芸術的革新の時代,画家たちは旧来の伝統的な礼拝対象の聖像制作にいかに関わったのだろうか。マンディリオンやヴェロニカの聖顔布をはじめ,「人の手によらない」がゆえに格別の地位をもつ礼拝像に,「芸術家=人の手」はいかに挑んだのだろうか。「職人から芸術家へ」地位を上昇させたとされる時代に,聖ルカはアペレスに座を譲ったといえるのだろうか。

この問いをめぐって,講演では二つの視点から考察を試みた。一つは,祖父の時代から続く芸術工房を経営した画家ネーリ・ディ・ビッチの『覚書』を繙きながら,15世紀フィレンツェの芸術的伝統と実践のありようを探るもの。当時の画家は医師薬剤師組合に所属し,芸術制作は,現代のように個人の芸術的創意の所産ではなく,家系を軸とする互助精神に基づく共同作業によるものであった。家系内の世代間の継承と師弟関係による継承によって,数世紀にわたるルネサンス美術の連続性が確立された。都市のなかでの工房の位置や活動の実態,弟子の教育と工房内の人員構成をはじめとする運営の詳細,複数の芸術家による共同制作と様式形成,また工房が手掛けた作品類型の広範さや交渉事例など,『覚書』は多くの情報を伝えてくれる。なかでもネーリは,祖父の代に遡る伝統的な絵画技法や様式を守る画家であったが,中・上流階級からうけた注文は数多い。高い社会階層の人々が必ずしも最先端の美術様式を好んだわけではなく,保守的・回顧的様式の作品にも大きな需要があったことは特筆に値する。また,多岐にわたる活動のなかでも,古い聖画を修復したり,その枠縁や聖龕など作品に付随する要素に介入する例も多く,古い磔刑像を自身の絵画に嵌め込んだ,後の「絵画タベルナクルム」を予感させる作例も残している。さらに著名な芸術家の手になる図像を複製・翻案した作例も少なくない。これらは,ネーリの芸術的創造性の乏しさを示すものと考えられかねないが,彼が頻繁に描いた「受胎告知」は,当時,国際的に巡礼を集めていたある奇跡像の図像を踏襲したもので,複製によって奇跡像の力に与る礼拝的意味も想定される。

次に目を向けた第二の視点は,実際に生み出された作品である。まず,「人の手によらず」奇跡的に生成したキリストの聖顔布上の肖像をとらえようと,いかに「人の手」が挑戦していくのかを,様々な作例とともに考察した。さらに,現代では彫像や祭壇画として鑑賞される作品のなかに,近年,聖遺物や聖体を納めたと想像される空隙や聖遺物そのものが発見されている例を,中世からルネサンスに至るまで辿った。以前から,ネーリの祭壇画に画中画的に別の祈念画が描き込まれる構想が気になっていたが,その原型はフラ・アンジェリコに求められるものの,画中画の背後に,まさに聖遺物ないし聖体を収納する空間が見出された例があることはきわめて興味深い。ロレンツォ・モナコの《聖母戴冠》やピエロ・デッラ・フランチェスカの聖アントニウス多翼祭壇画はじめ,ルネサンスにあっても,絵画や彫刻は独立した造形物というより聖遺物や聖体のためのパラテクスト的存在であり続けた。

この延長で最後に問題としたのが,ブルネッレスキやミケロッツォといった初期ルネサンスの建築家が「古代風(アッランティーカ)」様式で設計したテンピエットやタベルナクルムが,しばしば有名な聖遺物や奇跡像を擁するために設置されたという点である。ルネサンスの古代様式が,ギリシア・ローマの異境世界のみならず,「キリスト教古代」という含意とともに探求されていた様相が浮上すると同時に,礼拝価値と芸術価値が複雑に交差する当時の造形作品のあり方を垣間見ることができよう。

〈寄贈図書〉

『地中海帝国の片影: フランス領アルジェリアの19世紀』 工藤晶人著 東京大学出版会 2013年3月
『中世教皇庁の成立と展開』 藤崎衛著 八坂書房 2013年12月
『教会の怪物たち: ロマネスクの図像学』 尾形希和子著 講談社 2013年12月
『イタリア・モード小史』 M. G. ムッツァレッリ著 伊藤亜紀・山﨑彩・田口かおり・河田淳訳 知泉書館 2014年1月
『エウリピデス 悲劇全集 3』 丹下和彦訳 京都大学学術出版会 2014年2月
『公共善の彼方に: 後期中世シエナの社会』 池上俊一著 名古屋大学出版会 2014年2月
『名作短編で学ぶイタリア語』 関口英子・白崎容子編訳 ベレ出版 2014年2月
『キリストの顔: イメージ人類学序説』 水野千依著 筑摩書房 2014年6月
Mediterranean World, XXI (2012),一橋大学地中海研究会
『デルフィ古代建築調査 1994-1996 中間報告』 熊本大学デルフィ遺跡調査団,1997年/
『西洋建築史における建築技術の比較研究及び地中海建築情報のインターネット化』 伊藤重剛他著,1999年 / 『ギリシア古代都市メッセネのギムナシオンにおける家型墓の建築的研究 中間報告』 熊本大学ギリシア古代建築調査団,2002年 / Theory and Practice of Site Planning in Classical Sanctuaries, by Juko Ito, Kyushu University Press, 2002 / 『建築技術に着目した地中海建築の比較研究および地中海建築情報データベースの拡充』 伊藤重剛他著,2003年/New Measurements and Observations of the Treasury of Massaliotes, the Doric Treasury and the Tholos in the Sanctuary of Athena Pronaia at Delphi: Text and Plates, 2 vols., by Juko Ito et al., Kyushu University Press, 2004 / 『ギリシア古代都市メッセネのアスクレピオス神域の建築及び考古学的国際共同調査 中間報告』 林田義伸・伊藤重剛・吉武隆一著,2007年 / 『メッセネ・フィガリア国際共同調査シンポジウム「ギリシア古代都市を掘る」』 熊本大学ギリシア古代建築調査団,2010年 / Architectural Study of the Stoas of the Asklepieion at Ancient Messene, by Y. Hayashida, R. Yoshitake and J. Ito (ed.), Kyushu University Press, 2013,以上,熊本大学ギリシア古代建築調査団関連書