地中海学会月報

MONTHLY BULLETIN

学会からのお知らせ

4月研究会

  下記の通り研究会を開催します(教室は変更になる場合があります)。奮ってご参集下さい。

テーマ: 石材と木材による混構造としての古代ギリシア神殿 ── 木造架構とその生産体制を通して
発表者: 川津 彩可氏
日 時: 4月19日(土)午後2時より
会 場: 國學院大學 若木タワー 5階 509教室(最寄り駅「渋谷」「表参道」)
参加費: 会員は無料,一般は500円

  木造建築から石造建築へ移行したと考えられている古代ギリシアの神殿建築は,主要躯体構造は石造であることに対して,それを覆う上部架構部分は概して木造によるものであった。本発表では,ギリシア神殿を特徴づける切妻造架構の小屋組および小屋裏空間に着目し,アルカイック期からクラシック期にかけてのギリシア文明圏における神殿建築を対象として,木材の使用状況,その架構技術,および工匠の職能等の観点より考察したい。

第38回地中海学会大会

  第38回地中海学会大会を6月14日,15日(土,日)の二日間,國學院大學常磐松ホール(東京都渋谷区東4-10-28)において下記の通り開催します。

6月14日(土)
13:00 ~ 13:10 開会宣言・挨拶
13:10 ~ 14:10 記念講演「神々をあがめる人々」 本村 凌二氏
14:25 ~ 16:25 地中海トーキング
  「カミ・酒・ヒト」
   パネリスト: 藤崎 衛/古山 正人/茂木 貞純/(司会兼任)飯塚 正人 各氏
16:40 ~ 17:10 授賞式
  地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞
17:10 ~ 17:40 総会(会員のみ)
18:00 ~ 20:00 懇親会[有栖川宮記念ホール]

6月15日(日)
9:30 ~ 12:00 研究発表
  「ヘルメス柱と道祖神にみる境界信仰の類似と共通性 ── 性神的要素と境界感覚を中心に」平井 倫行氏 / 「女性哲学者ヒュパティアと古代末期の独身修行(asceticism)」足立 広明氏 / 「中期ビザンティン聖堂における「受胎告知」の配置 ── カッパドキアの事例を中心に」菅原 裕文氏 / 「カルロ・クリヴェッリ祭壇画研究 ── ファブリアーノ,ラメッリ家文書を手掛かりに」上原 真依氏 / 「18世紀ヨーロッパにおけるパステル作品批評の特徴に関する考察 ── J. E. リオタール《チョコレートを運ぶ娘》に対する評価の分析を手掛かりとして」宮崎 匠氏
13:00 ~ 16:00 シンポジウム
  「聖なるものと聖なる場」
   パネリスト: 加瀬 直弥/真道 洋子/水野 千依/(司会兼任)伊藤 重剛 各氏

ブリヂストン美術館春期連続講演会

  春期連続講演会「地中海世界を生きる II」を4月26日から5月24日までの毎土曜日(全5回),ブリヂストン美術館(東京都中央区京橋1-10-1)において開催します。詳細は367号を参照下さい。

会費納入のお願い

  新年度会費の納入をお願いいたします。自動引落の手続きをされている方は,4月23日(水)に引き落とさせて頂きます。ご不明のある方,領収証を必要とされる方は,事務局までご連絡下さい。
  退会希望の方は,書面にて事務局へお申し出下さい。4月11日(金)までに連絡がない場合は新年度へ継続とさせて頂きます(但し,会費自動引落のデータ変更の締め切りは,4月4日)。会費の未納がある場合は退会手続きができませんので,ご注意下さい。

会 費: 正会員 1万3千円/ 学生会員 6千円
振込先: 郵便振替 00160-0-77515
    みずほ銀行九段支店 普通 957742
    三井住友銀行麹町支店 普通 216313

秋期連続講演会 「芸術家と地中海都市 III」 講演要旨
マドリード宮廷とベラスケス
貫井 一美

  マドリードが,現在のような都市構造を持つようになったのは,18世紀後半,啓蒙専制君主として名高いブルボン王家のカルロス III 世の時代,すなわちフランシスコ・デ・ゴヤの時代である。しかしブルボン王朝に先駆けて統一国家としてのスペイン帝国を築いたのは神聖ローマ帝国皇帝カール V 世(スペイン国王カルロス I 世)に始まるハプスブルク王朝であり,帝国の首都がマドリードに置かれたのは,16世紀の半ば過ぎ,フェリペ II 世の時代である。
  マドリードには,先史時代,ローマ,西ゴート時代の遺跡が残されているが,この場所が具体的な年代と共に歴史上に認められるのは,ムハンマド I 世が砦を築いた9世紀後半である。マドリードは町の西南にマンサナーレス川が流れ,自然の要塞としての立地条件を備えていた。マドリードという名称は,アラビア語の「マジェリット(湧水)」といわれている。1083年にアルフォンソ VI 世によってキリスト教徒の手に戻り,以後町として機能していく。15世紀後半,イサベルとフェルナンド,カトリック両王の時代には聖ヒエロニムス会系の修道院サン・ヘロニモ聖堂が建立された。現在もスペインの立太式が執り行われる由緒ある聖堂として健在である。カール V 世は,イスラム時代からの要塞を改築し,宮殿とした。この建物は,1734年のクリスマスに火災で焼失するまでスペイン・ハプスブルク家の王宮(アルカサル)として機能することになる。
  フェリペ II 世は1561年,この地をスペイン帝国の首都とし,首都マドリードが誕生する。以後,マドリードは,西から東へと拡大,ハプスブルク家,続いてブルボン家のスペインの首都として繁栄していく。フェリペ II 世は,王家の狩り場となるカサ・デ・カンポを購入,現在もマンサナーレス川にかかるセゴビア橋は,1582年,フアン・デ・エレーラによって建設された。続くフェリペ III 世の治世にはフアン・ゴメス・デ・モーラによって,四方を建物で囲まれたマヨール広場,旧マドリード市庁舎が建てられた。このようにして16~17世紀にかけてマドリードは帝国の首都にふさわしい外観を備えて行った。
  17世紀,スペインは「黄金世紀」と呼ばれる芸術文化の最盛期を迎える。政治的には無能とされるフェリペ IV 世は,芸術擁護には実に熱心な国王であり,美術や演劇を愛した。彼はルーベンスのような外国の画家だけでなく,ベラスケスに代表されるようにスペイン人芸術家のパトロンとなり,スペイン・ハプスブルク家の王室コレクションを充実させていった。これらの絵画コレクションは,マドリードのアルカサルだけではなく,フェリペ IV 世の趣味の館,ブエン・レティーロ宮殿,狩猟休憩館であったトーレ・デ・ラ・パラーダの壁を飾ったのである。
  ブエン・レティーロ宮殿は,フェリペ IV 世の治世を象徴する壮麗な大建造物であった。現在は,一部の建物と庭園部分(現レティーロ公園)を残すのみとなっている。宮廷画家ディエゴ・ベラスケス(1599~1660)の《ブレダの開城(槍)》はこの宮殿の「諸王国の間」を輝かしいスペインの勝利を永遠化するために描かれた。
  フェリペ IV 世の宮廷画家ベラスケスは,若干23歳で王家に仕える画家となった。彼はスペイン・ハプスブルク王家の伝統的な肖像画を継承しながらも,モデルとなる人物の人間性をも反映させた新たな宮廷肖像画のスタイルを確立する。伝統的な作品にみられるポーズや象徴性による公人としての姿だけを描いた肖像画に,モデルの心情や精神性を加味し,17世紀においては近代的とも言える宮廷肖像を誕生させた。このように,モデルの人間性に迫るというベラスケスの肖像画の真髄が最も顕著であるのが,一連のエナーノの肖像画であろう。エナーノは,宮廷演劇での道化役や王家の人々を楽しませるなどの目的で宮廷に仕えていた。身体的,精神的ハンディキャップを持っていた,このような人々の姿をベラスケスは,マドリード宮廷という厳格な宮廷儀礼が最優先される特殊な状況のもとで,誇張もなく,隠すこともせず,画家の目がとらえたそのままに描き出す。道化としての,あるいは公的な場面での自らを演ずる姿ではなく,一人の人間の肖像がそこにはある。ベラスケスの代表作《ラス・メニーナス》は,正式には《国王フェリペ IV 世一家の肖像》という名称を持つ。国王の夏の執務室の壁を飾っていたであろうこの作品は,一見宮廷の日常生活を切り取ったかのようである。王宮内にある画家のアトリエをマルガリータ王女一行が訪れたかのようなこの場面にもまた,エナーノたちの姿が描かれる。マルガリータ王女,侍女たち,鏡に映る国王夫妻,そして画家の自画像。宮廷肖像画の傑作と評されるこの作品には,彼の宮廷画家としての自負と同時に,地位や名誉といった社会的束縛から解き放たれた人々の,一人の人間としての姿を永遠にとどめようとしたベラスケスの近代的な人間観もまた永遠化されている。

研究会要旨
古代ローマ時代のガラスにみる都市景観
── 大港プテオリと温泉保養地バイアエ ──
藤井 慈子
12月14日/國學院大學

  ガラス製品は,一般庶民にとって,ローマ帝政時代に初めて身近な生活用品となった。ガラス器には,人々の関心や信仰に関わる様々な意匠が施された。その中に,都市景観を刻んだガラス瓶の一群がある(準完形7点,断片8点の計15点)。いずれも直径 10 cm 程度の透明な球状瓶である。口縁は「切り離し」,頸部は円筒形で,胴部との接合部には括れがある。この器形に基づき,その製造年代は,3世紀後半~4世紀に設定されている。胴部表面には,海からみた都市景観が,図像および銘文(ラテン語)によって刻まれている。その出土は,帝国西半分に広く分布しており,その状況から土産物とみなされている。
  それでは,ガラス瓶に刻まれた都市景観は,広大なローマ帝国の何処なのだろうか。それは,ナポリ北西の「カンピ・フレグレイ(灼熱の平野)」と呼ばれる火山地帯に位置するプテオリ(現ポッツオリ)およびバイアエ(現バイア)である。両都市は広大なナポリ湾の一角にあって,海を挟んで向かい合うように位置する。その距離は5キロほどである。火山地帯という特性は,両都市に繁栄と凋落の双方をもたらした。共和政末期から帝政初期にかけてこの一帯,特にバイアエは温泉保養地として有名となり,火山活動による温泉や蒸気で満ちた洞窟,様々な病に効く「効能ある水」,遊覧や牡蠣の養殖に適した湖(ルクリヌス湖)が名所・名物となった。一方プテオリは,国際的な港として共和政末期から帝政初期に繁栄した。その近辺のクレーターが様々な湖や湾となり,大型船の接岸が容易な深い海(プテオリ)やミセヌム艦隊の停泊地(ミセヌム)を生みだしたからである。東方(アレクサンドリア)からの大型商船(穀物輸送船)の荷は,プテオリ経由で首都ローマに運ばれ,2世紀にテヴェレ川河口のオスティアの港が整備された後も,プテオリは港として補完的な役割を保持したとされる。ガラス瓶が製造された3世紀後半~4世紀は,プテオリとバイアエにおける別荘・港の改修記録から,いわば復興期ともみなされている。しかしながら,4世紀末のブラディシスマ(緩慢な地盤の沈下と隆起を繰り返す地殻現象)により,沿岸の都市および港湾施設は壊滅的な被害を受け,まもなく凋落の一途を辿った。
  ガラス瓶上の都市景観は,それぞれ微妙に意匠が異なっており,献辞が添えられた事例も存在する等,同一の意匠によって大量生産されたものではないと考えられる。一方で準完形7点を中心に,意匠要素を比較検討すると,バイアエ・タイプ(牡蠣の養殖棚 OSTRIARIA + 一対のドーム型建造物 = 浴場 STAGNVMBAIAE)とプテオリ・タイプ(埠頭 PILAE + 陸上の競技場 STVDIVM,円形闘技場 AMPHITHEATRVM,神殿〈第13番目の神 DECATRIA の銘文と関連するか〉,劇場 THEATRVMPVTIOLI)に大別できる。前者には,杯を持つ人物像(都市バイアエの擬人像か)や埠頭 PILAE 等もみられる。後者には,公共建造物の間をつなぐ列柱図の上に,プテオリの地区名や広場 FORVM,商業地 IMPVRIVM / ENPORIVM 等の銘文もみられる。さらに最新事例(スペインのメリダ出土)には,港 PORTVS,ガウルス山 CAVRVS,市場 MACELLVM,大地区 VICVS MAGNVS の銘文等,これまでにない意匠要素も含まれている。
  以上から,バイアエ・タイプは,温泉保養地の景観(浴場と牡蠣の養殖施設),プテオリ・タイプは公共建造物が並ぶ港湾都市(埠頭)の景観となっていて,帝政初期の栄華を描いたものとも推測できる。仮にそうだとすると,先行する都市景観図から意匠要素を抽出・組み合わせて後代のカット職人が製造したとも考えられる。実際,都市や港の景観を描いた壁画や浮彫が,帝政初期から存在する。ガラス瓶上に刻まれた埠頭図についてみると,イタリアのスタビアエ出土の壁画(1世紀),ローマ出土の壁画(3世紀頃,現在消失)が先行する。埠頭図の描き方は,壁画では鳥瞰図,ガラス瓶上では真横から見た構図と異なるが,埠頭を飾る記念的建造物およびアーチ状の橋脚部,ならびに船首のような先端部は共通し,プテオリ埠頭の特徴とも解釈できる。一方で,プテオリ・タイプの神殿図内の放射冠を有する神像についてみると,帝政後期の不敗の太陽神とみることもでき,ガラス瓶上の都市景観を,復興期の実写と捉えることもできる。
  報告者は,2009年にそれまで知られていた10点を中心に,ガラス瓶上の景観について,瓶の製造年代と同時期とみなして取り上げた。しかし,新たな5点を含め,これらの都市景観が,両都市の帝政初期の栄華を懐旧したものか,復興ムードに湧く帝政後期の姿を写したものか,他の都市景観資料との比較を通して,全体を再検証する必要があると考えるようになった。

エーゲ海とビザンツ帝国
仲田 公輔

  エーゲ海の島嶼部とビザンツ帝国といえば,聖ヨハネ修道院を擁するパトモス島や,ネア・モニ修道院が所在するキオス島などを思い浮かべる人も多いかもしれない。しかし長きにわたってこの海域を支配したビザンツの足跡は,とりわけエーゲ海が「内海」であった中期ビザンツ時代(7~11世紀頃)のものが,様々なかたちで多くの島に残されている。
  中期ビザンツの歴史は,その存続のための周辺勢力との抗争,特にイスラーム勢力との長きに渡る戦いを抜きにして語ることはできない。これは大小様々の島と海岸線が複雑に入り組み,その地勢に守られたエーゲ海域についても例外ではない。とりわけ820年代にアブー・ハフス率いる一派がアンダルスから到来し,クレタ島を根城して以降は,この地を拠点とした,あるいは中継点としたエーゲ海への略奪活動が増加することとなった。
  アナトリアの陸地でのビザンツ・アラブ間の抗争が比較的早い段階で膠着化し,9世紀頃にはほぼタウロス山脈周辺での局地戦に終始していた一方で,キリキア,シリアやクレタを拠点とするアラブ海軍の活動は,エーゲ海の奥深くにまで至り,コンスタンティノープルをかすめる勢いさえも見せていた。ビザンツ側は対応に追われ,年代記史料によれば皇帝レオン6世(886-912年)も大いに頭を悩ませていたという。彼の著書である軍事書『タクティカ』において,従来の軍事書には存在しない海戦についての章が割かれているのも,これが原因と考えることもできるかもしれない。
  もちろん,ビザンツ側による実際の軍制上の対処も行われた。7世紀にはコンスタンティノープル攻囲戦後にエーゲ海域においてカラビシアノイと呼ばれる艦隊の一種が創設され,後には小アジア南西岸を含めた海軍のテマ(軍管区)・キビュライオトンが設置された。これは分割再編を経て,11世紀頃までにはエーゲ海,コルポス,キクラデス等の諸テマが成立するに至る。
  これに平行して10世紀頃からはアラブ艦隊の活動に睨みを効かせるため,エーゲ海島嶼部には多くの城塞が設置された。こうした城塞の多くは切り立った岩山に建てられるのが特徴であり,まさに天険の要害の様相を呈していた。これらの城塞群については,H. Eberhard による研究が Jahrbuch der österreichischen Byzantinistik 誌36号(1986年)に収められている。
  2013年8月,筆者はコス島に残るそうした城塞の一つの遺構を訪れる機会を得た。もとはといえばパトモス行きの船便を待つために立ち寄ったのであるが,ヒポクラテスの生地として知られるこの島にもビザンツの古址が残されていると知り,是非とも訪問してみたいと考えたのである。城塞が位置するのは港を有する中心街から車で約20分,島のほぼ中心にあるピリと呼ばれる町である。この町の南東部,ディケオ山西麓のパレオ・ピリ(古ピリ)と呼ばれる地区には,教会・住居等を含めた諸々のビザンツ期以来の旧跡が広がっており,城塞はその一角において,上述の典型に洩れず岩山の頂に築かれている。
  遺跡の構造は島が経た複雑な歴史を物語っている。1204年にコンスタンティノープルにラテン帝国が成立すると,コス島はジェノヴァの支配に入った。ニカイア皇帝ヨハネス3世バタツェスは一時的な再征服に成功したが,14世紀には再びキオス島等に勢力を誇っていたザッカリア家の有するところとなった。しかし,実権はトルコ系勢力の手に渡っていたという。1337年頃には聖ヨハネ騎士団が領有し,拠点であるロドス島防衛のための要衝としてコス島はさらなる防備を施された(同島の港がある街にも騎士団の別の要塞が現存する)。その後オスマン朝の手に渡ったのは1523年のことである。このため城塞は幾度もの改修を経ており,表層部には聖ヨハネ騎士団期の痕跡を見て取ることができる。それでも頂上付近の門などには,10~11世紀頃のビザンツ期当初の基址も残されている。
  さて,約2時間に及ぶ「攻城戦」は運動不足の足にはいささか堪えたが,なるほど周囲の島々とその間の水路を一望に収めることができるその頂からの眺望は,往時の役割を思わせるものであった。この地から行き交う艦船の動きを見渡していたビザンツの人々はいかなる心境であったのだろうか,などと感慨に耽っていると時間はあっという間に過ぎ,予想以上の見応えに満足しつつ山を下りた。
  なおこの機会には古代の史跡には目もくれずにビザンツ探訪に励んだため,数週間後に偶然にもヒポクラテスを専門とする研究者の方と対面した際にきまりの悪い思いをすることになるのだが,それはまた別の話である。

オンミ・タンゴ
── チュニジアの雨乞い祭り ──
田村 愛理

  チュニジアでは各地で乾季に行う雨乞い儀礼がある。雨乞い儀礼には二種類あり,ひとつはイマーム(導師)を中心として神に降雨を祈願するモスクでの集団礼拝「サラート・アルイスティスカー」で,現在でも男性が主体で行うイスラームの正式なサラート(礼拝)のひとつである。いまひとつが,子供たちと女性が行う「オンミ・タンゴ」である。
  オンミ・タンゴは直訳すれば「我が母タンゴ」だが,「聖タンゴ」と言うニュアンスであろうか。女の子はお母さんやお祖母さんに教わりながらタンゴ人形を作る。まず二つの木片か葦で土台となる十字型を作り,その型に白布を使って人形の頭部を作り付け,絹糸で髪を付け,目や口も刺?でかたどる。それからきれいな布切れ端などでアルーサ(花嫁)のように伝統的な衣装を着せて首飾りも付け,仕上げにスカーフを被せる。すると棒切れと布切れ端でできた人形は,「聖タンゴ」に生まれ変わるのだ。子供たちは,いくつかの集団毎に男の子も交じってそれぞれの人形を掲げ,歌を唄いながら行列をしてまず地域の聖人廟にお参りし,それから近隣を練り歩く。訪れる家の門々では,主婦たちが水を入れた容器を持って待っていて,人形に水をかけてくれるので,子供たちは大はしゃぎでその度に笑い歓声をあげるのだ。子供たちが唄ったという歌の文句が楽しい。
  「子供たちよ! オンミ・タンゴは川で着物を洗ったよ。幼子らよ! オンミ・タンゴはお花を下さいと神様にお願いしたよ。おんな達よ! オンミ・タンゴは雨を降らせて下さいと神様にお願いしたよ。オンミ・タンゴは首飾りをして,どうぞ願いをかなえて下さいと神様に祈ったよ。雨よ降れ降れ,きれいなオンミ・タンゴは,神様が望むならびしょ濡れでお家に帰るよ。ヤーアッラー,ヤーアッラー! ニンジン来い来い,お腹に入っておくれ。ピーマン来い来い,摘み取ってあげるよ。緑豆よ来い来い,ふやかしてあげるよ。ヤーアッラー,ヤーアッラー,雨よ降れ降れ,きれいなオンミ・タンゴは,神様が望むならびしょ濡れでお家に帰るよ。ヤーアッラー,ヤーアッラー!」
  通りのそこかしこから子供たちの賑やかな歌声や嬌声が聞こえてくるようだ。夜は家々でクスクスなどのハレのご馳走が振る舞われ,子供たちの興奮に満ちた楽しい一日は終わるのである。オンミ・タンゴはオウメ・タンゴ,オンミ・バンゴ,オン厶・テンボと地域により呼称が異なり,アブー・タンボという男の聖人となる地域もあるし,小麦をおくれとおねだりする地域もあるようである。いずれにしても,子供たちにとっては,オンミ・タンゴはキリスト教のサンタクロースに匹敵するような親しみやすい存在で,楽しい祭りであったという。クリスマスのようにプレゼントをもらえるわけではないが,子供たちが大人の助けを借りながらも自分たちだけで作り上げる祝祭空間自体が嬉しく興奮の源泉なのだ。一昔前まで日本各地で行われていた初午や地蔵祭りを彷彿とさせる楽しい子供の行事だったのである。
  すっかりイスラームの祭礼として子供たちに馴染まれてきたのだが,「オンミ・タンゴとは一体何者なのだろうか?」という問いへの答えはチュニジアの民俗研究者の間でも様々であるようだ。今のところ,彼女はイスラーム以前の土着宗教,恐らくはアフリカ=アマジク(ベルベルの自称)文化に混淆したフェニキア由来の信仰ではないかという説が有力である。フェニキアの女神信仰と言えば地中海全域に広まっていた戦と豊饒の神であるタニト女神が有名だが,このタニト信仰がアマジク文化を経てイスラーム文化の中に取り入れられ,豊饒をもたらす水のシンボルとなり,女子供の雨乞い祭りになったのではないかというのである。真偽の程は確かめようがないが,オンミ・タンゴ祭りに限らずチュニジアや北アフリカのイスラーム文化には実に豊かな地中海の歴史的地層が重なり,多様な文化が溶け込んでいる。もう一つ身近な例をあげれば,今日の北アフリカ・ムスリム庶民の生活文化の中に深く染み込んでいるハムサ(手型)護符信仰は,この地域のユダヤ教徒も等しく共有している民間信仰である。俗説では預言者ムハンマドの娘のファーティマの手とされるが(ユダヤ教徒はモーセの姉のミリアムの手としている),その起源は右掌を向けて行うタニトへの礼拝儀礼に由来するのではないかとも言われている。民間信仰儀礼や祭りを観察していると,日常を覆っている地層の表面がぱっと割けて,積み重なってきた歴史の地層断面が底まで覗けるように思える時がある。オンミ・タンゴという子供の祭りはそのような地中海文化の深層を垣間見させてくれる日常の裂け目のひとつであろう。残念ながら,チュニスのような都会では今はもう見られず,人々の思い出話を収集するばかりなのだが,今も地方で行われているというこの祭りの歌と子供たちの笑い声をいつか実際に耳にしたいものである。

自著を語る 72
『イスラーム建築の世界史』
岩波セミナーブックス S11 岩波書店 2013年7月 276頁 3,200円+税
深見 奈緒子

  拙著は2008年の岩波セミナーをもとに,イスラームが生まれる前から現代までの長い歴史をたどった本である。セミナーでは,今までの知見から,初期イスラーム,中世前期,中世後期,近世という時代分けをして,イスラーム建築の歴史について4回の講義を行った。拙著の1章から5章にあたる部分である。
  本にまとめるに際して,通史を目指した。その理由は,藤森照信先生の「建築史家をめざすなら,通史を書かなきゃだめだよ ……」との一言に感化された。今まで,建築の歴史を断片的に綴り,17世紀以前に比重をおいてきた私にとって,世界の建築史の中でのイスラーム建築の総体的な位置づけ,そしてイスラーム建築とは何かを考えるまたとない機会となった。
  現代までという長い時間軸に加えて,アフロユーラシアという広域を扱った。特に2章から5章までは,今まで紹介されることの少なかった事例に着目し,なるべく多くの情報量を記載することを目指した。しかも建築技法やイスラーム用語など聞きなれない言葉が頻出する。著者の稚拙な文章力も伴い,かなり読みにくい著書となったことを反省している。そこで,本稿では,こんな読み方もあるのではと提案してみたい。
  まず,時代順に並べた「口絵」で雰囲気をつかみ,そして目的と概要を記した「はじめに」。1章では,1節の「生態系と文化から見た建築」を。2章から5章までは,各1節で地図を見ながら各時代の様相を把握し,各最終節最終小見出しの文章を読んでいただきたい。つまり,700年から1000年では「新たなる折衷様式」,1000年から1250年では「構造美の追求」,1250年から1500年では「共時的世界へ」,1500年から1750年では「近世の栄華」となる。これらの部分は,各時代のイスラーム建築の動向を周りの地域の他の宗教の建築と比較し,位置づけを目指したものである。西洋あるいはイスラーム以外の東洋の建築史との比較に関しては,探求不足な点が多く,読者の方からぜひご指摘をいただきたい。
  転じて,6章と7章では私の研究では比較的縁遠かった近代と現代に挑戦した。このふたつの章は,なるべく多くの情報量を目指した5章までと異なり,今まで調査で自分自身が赴いた土地で感じたことを中心に,いくつかのテーマを設定してエッセイ風につづった。
  このように,あらすじを辿ってから,時代と地域のマトリックスの中で,各章の詳細な記述を読んでいただければ,拙著のわかりづらさも多少軽減するのではと期待する。アラビア半島から発した宗教が,広くアフロユーラシアに伝播していく。それぞれの風土と新しい宗教が出会うことによって生じた折衷,さらには圏域内で繰り返された頻繁な交流による変容,これらがイスラーム建築に多様性をもたらした。逆に,宗教の普遍性ゆえに,アラビア語で綴られたコーランのように,多様なる建築の中に共通性を見いだせる。宗教的普遍性と地域/時代的多様性を内包するそれぞれの建築が,どのような状況で成立していったのかという点は,イスラーム建築史を研究するうえで最も興味深いテーマと言えるだろう。
  2014年の2月にモルディブに珊瑚石モスクの調査に出かけた。1平方キロ未満という平坦な島々が首飾りのように連なって環礁を造り,環礁が連なっていくという特殊な風土を持った地である。珊瑚石を木材のように使用するというモルディブの生態的独自性に加え,イスラーム,環インド洋文化,仏教文化,南アジア文化,海洋文化など様々な側面を観察できる。モルディブのモスクは拙著では紹介できなかったが,近世の章に入る建築である。このようにイスラーム建築史という側面から,今後も探求しなければならない建造物も数多い。
  しかしながら,イスラーム建築史という枠組みの中で研究を続けてきた私にとって,拙著はイスラーム建築からの脱皮をも意味する。6章で指摘したように,イスラーム建築史は,近代のヨーロッパにおける建築史の興隆,オリエンタリズム建築の建設活動,加えて当時の世界建築史という視座から成立した,近代的な枠組みである。ひるがえって,モルディブで述べたように,アフロユーラシアでは,さまざまな文化が影響し,宗教が共存して歴史を築いてきた。枠組みを超えて,人,モノ,情報の移動が織りなす建築文化の積層をとらえてみたいと思うようになった。
  1960年代からの堀内清治先生たちの「地中海建築研究」は,地中海を舞台に建築文化を考えるという先駆的な研究であった。けれども,時代設定はイスラーム暦元年までと限られていた。おそらく,地中海,あるいはインド洋,シルクロードのように人・モノ・情報の動いたネットワークで建築史をとらえ直すことが,21世紀の世界建築史への礎になるのではと妄想する。イスラーム暦元年以後の地中海建築,環インド洋建築に焦点をあて,今後も研究を続けたい。

表紙説明:地中海世界と動物 16

グリフィン/倉橋 良伸

  かつてのコンスタンティノポリス,現在のイスタンブールには,ローマ(ビザンツ)帝国が築いた壮麗な大宮殿が立っていた。大宮殿は,北東に聖ソフィア大聖堂,北西部に大戦車競技場(現在のアト・メイダヌ「馬の広場」),そして東部と南部をマルマラ海側の大城壁に囲まれた広大な敷地を占めた。歴代の皇帝は,大宮殿から隣接する競技場のロイヤルボックスに直接姿を現した。
  ビザンティウムを自らの名を冠した町に大改築したコンスタンティヌス1世が建設を開始し,その後も様々な施設が次々に追加されていった。皇帝とその親族だけでなく,元老院議員など要人たちの住居や公衆浴場,そして謁見の間なども包含する巨大な複合施設だった。
  歴代皇帝のなかでも,今回ご紹介するモザイクと最も関わりが深いのは,ユスティニアヌスであろう。532年に発生した「ニカの乱」は,大宮殿にも少なからぬ損害を与えたので,この機会に大規模な改築を行ったのである(モザイクの制作年代は特定されていない)。おりしも,帝国はこの皇帝の下で全盛期を迎えており,あり余る財力が惜しげもなく投入されるところとなった。
  オスマン帝国によりコンスタンティノポリスが1453年に攻略されて以降,宗教施設など他の多くの公共建築と共に大宮殿も徹底的に破壊された。跡地には,帝国の威信をかけたスルタンアフメット・ジャーミィ(ブルーモスク)とその付属広場,さらに住宅やホテルなどが林立する。今日では,その威容を見ることはできない。
  1912年と1913年に発生した大火により,聖ソフィア大聖堂の南西部に位置する街区が焼失した。その結果,大宮殿南西部の遺構の一部が姿を現した。本格的な発掘調査は,1935~1938年になってからであった。前年にトルコ共和国政府によって保全命令が出されていたことが大きい。第二次大戦による中断を経て,1952~1954年に一応終了し,現在も調査・研究が続いている。
  これらにより,大宮殿の中庭かポルティコを飾っていたと推察される,長さ 70 m,幅 6 m 30 cm に及ぶ,全面モザイク張りの巨大な床面が発見された。このモザイクは,1953年に一般公開され,その後,発見された他の作品と共にモザイク博物館に収蔵されることとなった。博物館は,土産物屋がひしめくアラスタ・バザールの中にあって,入り口が目立たないこともあり,観光客が殺到することのない,知る人ぞ知る名所となっている。
  このモザイク群の特徴は,帝国がキリスト教化された時代にありながら,宗教色が乏しいことである。庶民のほのぼのとした日常生活や神話の一場面,さらには想像上の生き物さえ登場させているのである。ここで紹介するグリフィン(グリュプス)もその一つである。グリフィンが鹿を襲うモチーフは,紀元前より地中海世界で広く見られるものである。本来の姿であれば,上半身が鷲であろうが,この作品のように四肢をライオンとするものも多い。躍動感を伝える素晴らしい描写力が,今さらのように我々に当時の高度な技術を実感させよう。