写真で綴る地中海の旅

JOURNEY
地中海の<城>

アッコ(イスラエル)

地中海の〈城〉12:アッコの十字軍城塞/太田 敬子

アッコʿAkkōは,イスラエル北部の西ガリラヤ地方に位置する北部地区にある。アラビア語ではアッカー,英語ではアクレと呼ばれる。アッコは地中海に面した港湾都市であり,古来東地中海交易の拠点として栄えた。

十字軍によるアッコの占領は1104年のことである。アッコ攻撃に際してイェルサレム王ボードゥアン1世は90隻以上の戦艦で町を封鎖したという。占領後,十字軍は同市を堅牢な港湾城塞都市として発展させた。アッコがムスリムの手に再び帰したのは1187年7月のヒッティーンの戦いの後である。ヒッティーンで十字軍に大勝利を収めた後,サラーフ・アッディーン(サラディン)は速やかに軍を展開し,7月9日にアッコを征服した。ヒッティーンにおける惨敗とイェルサレム陥落の知らせは西ヨーロッパに伝わり,教皇グレゴリウス8世は救援を訴える教皇勅書を公布した。

一方,イェルサレム王ギー・ド・リュジニャンは,1189年になると反撃を開始,8月28日,52隻のピサ船に伴われてアッコの前に陣を張った。さらにヨーロッパ各地から十字軍の先発部隊がつぎつぎと到着し,アッコ包囲戦に加わった。こうして第3回十字軍はアッコを巡る攻防戦となった。1189年9月,サラーフ・アッディーン自身がアッコに到来したときには,すでにキリスト教徒軍は膨大な数になり,町の包囲体制を固めていた。ムスリム軍はギーの軍を外側から逆包囲する形で布陣した。1190年になると,国王に率いられた本格的十字軍団が聖地へと出発,フランス王フィッリプ2世は1191年4月に海路でアッコに到着,イングランド王リチャード1世も6月に合流した。これに対して,サラーフ・アッディーンは増援部隊をエジプトから呼び寄せ,50隻のエジプト艦隊もアッコ沖に展開した。アッコ包囲は町の守備隊,町を包囲している十字軍,さらにそれを外から攻めるムスリム軍との間の複雑な戦闘となった。

7月になると町の城壁の一部が十字軍の攻城機によって破壊された。城内の守備隊は疲弊し,7月12日にアッコはキリスト教徒に引き渡された。イェルサレムを失ったとはいえ,13世紀に亘り,アッコは貿易によって大きな利益を上げていた。当時アッコの歳入はイングランド王国全土のそれとほぼ匹敵していたという。しかしながら,アッコの繁栄は1250年より新たなエジプトの支配者となったマムルーク朝によって脅かされていく。

1290年,マムルーク朝第7代スルターン・カラーウーンはアッコ征伐に出陣したが,その直後の11月11日にカイロ郊外で亡くなった。後継者となったハリールは父の事業を受け継ぎ,1291年4月,大軍を率いてアッコに到来,大投石機を立てて包囲した。包囲攻撃は1ヶ月に及び,5月18日,マムルーク朝軍は町に突撃し侵入することに成功した。マムルーク朝軍は5月25日にアッコの城塞に入り,28日にアッコの市壁は破壊された。アッコの陥落はシリアにおける十字軍国家の終焉を象徴する出来事であった。

*地中海学会月報 408号より