地中海学会月報 MONTHLY BULLETIN

学会からのお知らせ

4月研究会

4月研究会は事情により下記の通り、5月20日(土)に開催される予定です。
参加を希望される方は、学会ホームページのNEWS欄「研究会のお知らせ」に掲載されるGoogleフォームにて参加登録をお願いいたします。参加登録をされた方には、後日メールで Zoomアドレス等についてご連絡いたします。
日 時:5月20日(土)午後2時より
会 場:Zoomオンライン会議システム
参加費:無料
タイトル:ラウンドテーブル 『帝国スペイン 交通する美術』をめぐって
要旨:『帝国スペイン 交通する美術』(三元社、2022)執筆陣によるオンライン座談会です。
同書編著者である岡田裕成氏(大阪大学)をゲストとしてお招きし、同書の執筆陣のうち本会会員である伊藤喜彦、今井澄子、久米順子、松原典子各氏が、イベリア半島中世の記憶とヨーロッパ各地や新大陸の潮流が遭遇する場となったハプスブルク・スペインにおける「交通する美術」について語ります。
プログラム
•「『帝国スペイン 交通する美術』について」岡田裕成(大阪大学)
•「大モスクから大聖堂へ」伊藤喜彦(東京都立大学)
•「『イダルゴ訴訟記録文書』とサンティアゴ・マタモロス」久米順子(東京外国語大学)
•「帝国スペインにおけるタピスリー」今井澄子(大阪大谷大学)
•「ポンペオ・レオーニとスペイン」松原典子(上智大学)
•「マドリード王宮のインカ王像 イメージのグローバルな交通と世界帝国の表象」岡田裕成
•質疑、ディスカッション(司会:伊藤喜彦)

第47回地中海学会大会について

第47回地中海学会大会は、6月24日(土)、25日(日)に、山形県鶴岡市羽黒町の出羽三山神社随神門前に位置する「いでは文化記念館」において、対面開催の予定です。現段階でのプログラムは以下の通りです。

6月24日(土)
13:00~ 基調講演:岩鼻通明(山形大学名誉教授)
     地中海トーキング:聖地の食べ物・飲み物
      司会:秋山聰(東京大学教授)
      登壇者:伊藤新吉(羽黒山参籠所斎館料理長)
          相沢政男(竹の露酒造合資会社代表役員)
          師尾晶子(千葉商科大学教授)
          澤井一彰(関西大学教授)
総会
18:30~ 懇親会(羽黒町内の宿坊大進坊を予定)

6月25日(日)
10:30~ 研究発表
12:00~ 昼食
13:00  シンポジウム:修行とその周辺
 司会兼任:松﨑照明(東京家政学院大学客員教授)
 登壇者:阿部良一(出羽三山神社権宮司)
    渡部幸 (出羽三山神社歴史博物館学芸員)
    益田朋幸(早稲田大学教授)

6月26日(月)
9:00~ バスによるエクスカーション(予定、人数制限あり)
 行程案は以下の通りです。
 JR鶴岡駅前→羽黒町→出羽三山神社参拝→出羽三山神社斎館にて昼食→湯殿山本宮参拝(→即身成仏見学)→庄内空港→JR鶴岡駅

研究会要旨
聖地・羽黒へのいざない
松﨑 照明
2月18日/オンライン会議システム(Zoom)

山形県の日本海側、米どころ庄内平野で亡くなった人たちの霊は、月山(標高1,984m)へと昇り、平野の人々のくらしを見守るという。古くは、海沿いの生の山、鳥海山(2,236m)と平野の奥にそびえる死の山・月山とが一対で信仰されていたというが、中世に至って、月山と山麓にある羽黒山(414m)、葉山(1,462m)の三つが奥の三山と呼ばれて信仰対象になる。さらに近世、葉山が湯殿山に代わって出羽三山信仰は栄える。

今年6月の地中海学会大会は、この出羽三山信仰の中心である羽黒山で行われる。

羽黒の山岳信仰(修験)がいつ頃から始まり、古代の羽黒山の景観、建築がどのようであったかはわからないが、山頂にある三神合祭殿前の鏡池から、池に納められた平安(91面)、鎌倉時代(56面)を中とする500面以上の鏡が発見されている。また、『吾妻鏡』承元3年(1209)に「出羽国羽黒山衆徒等群参」などとあるから、平安時代末には羽黒山を拠点にした山伏が多数いた可能性が高い。そして、鎌倉、室町時代には、全国的に羽黒山伏の名前は知られるようになる。例えば、能『道成寺』で、若い娘が想いを寄せた「其形端正」「見目能僧」の僧は「奥よりも熊野詣の先達」で、羽黒山伏を想定したらしい。

来る羽黒大会は、2018年度に行われた熊野三山新宮(和歌山県)での大会に続く、日本の聖地での開催だが、熊野の「くま」と奥の三山の「おく」との二つには大きな違いがあるように思う。熊野新宮は紀伊半島の南端で海に面し、背後に山が迫っているため、耕作する平地が極めて少ない。それに対して羽黒山は広大な庄内平野の「奥」に位置する低山で、背後に月山が控え、ここから出る水が庄内平野を潤す。二つの聖地は、歴史上東西の代表的な聖地であるとともに、まったく違った地形によって構成されているのである。いわばそれは、海岸接地型聖地と海岸から肥沃な平地を挟んである奥山型聖地といって良いのかもしれない。この二つの聖地型とその比較は、西欧地中海沿岸に作られた聖地を研究する上でも参考になるはずである。

新宮では、海岸を歩き、手を立てたような急な階段を上って屹立する象徴的な秘所(神倉の岩坐)に至るが、羽黒では、奥へ奥へと導く長い階段(2,446段)を登って山上の御神秘(鏡池)へと到着する。熊野とは違った羽黒の見どころは、まさにここにある。大会会場の「いでは文化記念館」からすぐの出羽三山神社随神門を通って階段を下り、ほどなく左に見える堂々とした国宝の五重塔(応安5年1372)を過ぎ、ここから別当天宥(寛永7年1630就任)による参道杉並木を奥へ、一、二、三の坂と上って山頂に至る、山頂の巨大な三神合祭殿(重文、旧寂光寺観音堂、文政元年1818)とその前に広がる鏡池、それに付随する建治元年(1275)銘の大梵鐘を吊った重要文化財の鐘楼(元和4年1618)、山岳信仰に特徴的な豪華な装飾がなされた摂社・末社の建物。そして高僧の住房であった斎館(重文、旧華蔵院17C後半)など、森の奥に設えられた諸建築が、自然と一体になって来訪者を包み込む(随神門前から山頂行きのバスがある)。また、エクスカーションでは、芭蕉が『奥の細道』(元禄2年1689)で「語られぬ 湯殿にぬらす 袂(たもと)かな」と詠んだ湯殿山の御神体も訪ねる。他に鶴岡城下には、明治時代に地元の職人たちが見よう見まねで作った木造の西洋風建築、重要文化財三棟もある。

懇親会が予定される門前町の手向(とうげ)は、明治時代に修験宗禁止令が出るまでは、妻帯する修験者たちが住み、全国から参詣者を導き、迎えた集落で、他者を迎え続けた文化が残る所である。

旅に出て、見知らぬ土地での親切が、どれほど身にしむかは、地中海学会の皆さんには分かっていようが、熊野新宮の人たちが、その温暖で広い海に面する風土から、明るく、饒舌に外からの人間を迎えてくれたのに対して、冬は深い雪に閉ざされ、辛抱に辛抱を重ねる羽黒の人たちは、口が重く、快活に接し始める人は少ない。しかし、一度その懐に入ると、人の良さと温かさ、あつい親切は格別である。いつぞや、現在の能楽五流には残らない演目を維持し、室町時代の装束も使われる鶴岡、黒川の能を見た折、冷え込む春日神社拝殿の舞台横で、別の団体に配るべき昼食を、「エガラ(いいから)、ケー(食え)、ケー」と御馳走してもらった。それを肴に、羽黒山伏が途中、奈良の春日大社に参詣して大峰山の修行に行く能『葛城』を、お神酒で体を温め、ほろ酔いで見た経験は、この世のものではないようで忘れられない。
森敦が名作『月山』で、「月山は月山と呼ばれるゆえんを知ろうとする者にはその本然の姿を見せず、本然の姿を見ようとする者には月山と呼ばれるゆえんを語ろうとしないのです。」と書くように、羽黒、出羽三山は一度の来訪でその全容を受け取ることは難しいが、まずは大会に参加し、いちど聖地・奥の三山を体感して頂きたい。

アーティゾン美術館土曜講座 地中海学会連続講演会 「蘇生する古代」第4回要旨
ルイ14世時代のヴェルサイユ宮殿と古代
望月 典子

文化・文明の源泉を古代ギリシア・ローマに見出したヨーロッパの人々は、中世の間も古代美術を継承し、ルネサンス以降、自分たちのアイデンティティと古代への憧憬から「古典的なるもの」に権威と価値を見出していった。17世紀になってヨーロッパの覇権を手に入れようとしていたフランスは、とりわけ古代ローマ帝国との連続性を希求し、歴代国王は例外なく、自らを古代ローマ帝国の相続人として、フランスを「新しいローマ」たらしめようとした。その時、地理的にも時間的にも離れた場所にあって具体的に機能したのは、まずは断片としての古代遺物であり、フランスの都市に残る古代ローマ遺跡に加えて、ローマから持ち込まれた古代彫刻やそのコピーであった。さらに古代ローマという本来の場所から召喚するため、古代の神々や英雄を寓意化し、それらをイメージ・記号として扱った。そこは、過去と現在、神話と歴史が結びつく世界であり、そうしたイメージの力を使って、ルイ14世の治世を古代ローマのアウグストゥスの黄金時代に比肩させようとしたのである。ヴェルサイユ宮殿はそうした記号体系が十全に機能した場所だった。

1661年の親政開始の頃から、ルイ14世は頻繁にヴェルサイユに通い、前王の小城館の増改築を開始した。その時、若い王が仮託する最も重要な古代神話のイメージが太陽神アポロンであり、74年頃までのヴェルサイユ宮の造営では、さながら「アポロン(=太陽王)の神殿」として、城館と庭園の装飾、祝祭が総合的にプログラムされた。城館から庭園の西に延びる軸線はグラン・カナル(大運河)に続くが、その手前に設置されたのが黄金に輝くアポロンの彫像を伴う《アポロンの泉水》である。日の出とともに水から現れたアポロンは、白馬4頭立ての戦車を駆って太陽の1日の運行を開始する。アンドレ・ル・ノートルによる幾何学式庭園の東西の軸線上を城館に向かって進み、王の寝室に隣接していたテティスのグロットで1日の終わりの眠りにつく。アポロンが通過する軸線の左右の木立には「四季」の泉水が配され、1年を巡る太陽を暗示し、さらに軸線上の城館寄り中央に置かれたラトナの泉水が、アポロンの幼少期の神話を物語る。テティスのグロットとの隣接関係によって王をアポロンに喩える王の寝室は、シャルル・ル・ブラン率いる画家たちが装飾を施した7惑星を主題とする王のアパルトマンの中心に位置し、中央天井画では、戦車を駆る光輝くアポロンを四季の寓意像が囲み、戦車の傍らには「フランス」の擬人像と、王の美徳を表す「寛大」と「壮麗」の寓意像が控える。その天井画の周囲には、王の美徳を補完する古代史の出来事と4大陸の擬人像が描かれ、アウグストゥスらの古代の歴史上の人物が、神話の神と現世の王を仲介する役割を果たし、全世界に徳をもたらす王というイメージを作り出している。さらに庭園や城の整備と並行して催された3回の祝祭では、至るところにアポロンのイメージが配された。

1674年に城館の庭側正面の水花壇に置く彫刻群のデザインがル・ブランに大量発注され、アポロン神話と関わる四季や1日の4つの時などの寓意像28体とバルナソス山を模った2つの泉の設置が計画された。だが、完成を見ずに方針が変わり、王が現実に支配するフランスの4大河川とその支流の寓意像が飾られることになる。この頃から次第に、アポロンを中心とする古代神話の世界に、現世の王の歴史が入り込んできた。1678年にオランダ戦争が終結すると、建築家アルドゥアン・マンサールと画家ル・ブランの協力により「鏡の間」の造営が始まった。当初はアポロン神話による天井装飾案が練られたが、2度の計画変更の末、ルイ14世の輝かしい戦果を描くことが決定され、中央に親政開始、その左右にオランダ戦争を中心とした事績が表された。現実世界での王の力が増すに従い、古代の神々や英雄を媒介するのではなく、ルイ14世その人が現れるようになったのである。

過去が強く意識されるのは、今との比較においてである。ルイ14世の治世の後半は、新旧論争がもっとも活発化した時代だった。「鏡の間」の付柱には古代のコリント式ではなく、フランス式オーダーが用いられ、天井画の解説板にはラテン語ではなくフランス語を使用しており、ここでは古代に対する自らの時代の優位という近代派の立場が明白である。とはいえ、天井画に現れる王は古代風の鎧を纏い、ほぼすべての場面において、現実の人間は王のみで、他は神話の神々や寓意像によって占められているし、壁のニッチには古代の彫像が鎮座する。実際、王は1680年代以降、古代彫刻とそのコピーを大量にヴェルサイユに設置し始めた。古代の神々と英雄の記号体系に、神格化されたルイ14世のイメージが参画し、自らの時代の優位を確信しながらも、常に古代と対峙するという、近代的な「古典的なるもの」の観念をそこに見出すことができる。

パレスチナのキリスト教徒
―ジフナ村の鐘の音を懐かしむ―
藤澤 綾乃

イスラーム教徒が多数派を占めるパレスチナ自治区は、ユダヤ教徒はもちろんのことキリスト教徒にとっての「聖地」でもある。ヨルダン川西岸地区に位置する最も有名な「聖地」としてはベツレヘムが挙げられるが、それ以外にも幾つかの場所でキリスト教の伝統が守られている。そこにはパレスチナ人(すなわちアラブ系)キリスト教徒が住まい、イスラーム教徒との間で、付かず離れずの「すみわけ」が維持されている。

筆者は2014年よりパレスチナ自治区での考古学的発掘調査に関わっており、滞在中はジフナ村の宿舎にお世話になった。ジフナは、ラマッラから北へ8㎞の場所に位置する人口およそ1,000人の小さな村であり、キリスト教徒が多数を占めている。古代ローマ時代にはゴフナの名で知られ、地方都市として栄えた。初期ビザンティン時代まで遡る教会堂遺構が残されていたことなどから、この地には古くからキリスト教の伝統が受け継がれていたことが確認される。なお、教会堂は初期イスラーム時代に一旦放棄されたが、その後十字軍時代に部分的に再建された痕跡が残されている。

ジフナの教会堂遺構については、19世紀後半から関心が寄せられており、ゲランやコンダー、キッチナーによって踏査が為された。1868年のゲランの報告書では、アプシスと2本の柱の存在について言及され、1873年のコンダーとキッチナーの踏査に基づいた報告書では、4本の支柱や洗礼槽の存在について言及された。その後1970年にバガッティによって発掘調査が行われ、2つの教会堂遺構が検出された。1つは村の北側に位置していた。遺構は十字軍時代に年代づけられたが、一部の建材がビザンティン時代に遡ると推察されている。しかし、バガッティの報告書では、層序や年代などの詳細は示されていない。なお、もう一方の教会堂については位置情報が示されておらず不明瞭である。

現在、村では2つの教会堂が機能しており、いずれの教会堂も近代に建設されたものである。これらの教会堂には、古代の建材がおもむろに置かれて(見方によっては「散在」して)いる。村を歩いていると思いがけない場所に教会堂遺構に関連する建材が転がっていたりするので、足元から目が離せない。ジフナに限らず、パレスチナでは至る所に古代の遺物や遺構が土から顔を出しているが、それらを考古資料と見ている住民は少ない。教会堂の近くでは、子供たちが古代の石材の上に座っておしゃべりをしている姿を何度か目にした。

ジフナから少し北東へ足を運ぶと、タイベという村がある。この村もまた、キリスト教徒が多数を占める希少な村であり、旧約聖書に登場する「エフライム」と同定されると伝えられている。タイべは、ビール生産が有名であり、日本でも幾つかのパレスチナ料理屋で扱いがあるが、村の中心部に初期ビザンティン時代に遡る教会堂遺構が2つ残されている。そのうちの1つであり、「聖ゲオルギオス教会」あるいは「エル・ハドル」の名で知られる遺構は、現在も行事などで使用されている。

エル・ハドルは、2000年から2009年にヴァンサンの発掘調査によって全体像が明らかにされ、ビザンティン時代の層序は2層確認された。第1期の教会堂は、5世紀後半から6世紀前半、第2期の教会堂は、6世紀後半に年代づけられた。第2期の層からは、舗床モザイクやクローバー型の洗礼槽、複数のレリクアリウム(聖遺物収納箱)が発見されている。発掘調査は隣国ヨルダンの協力によるものであり、それ以前の調査で推察されていた建築型式とは全く異なる型式であったことが明らかにされた。エル・ハドルからの出土遺物の一部は、村内のミュージアムやパレスチナ観光考古省の倉庫に保管されている。残念ながら、筆者がタイベを訪問した時は、ミュージアムは開かれておらず、パレスチナ観光考古省の倉庫で見た遺物もケースの中で眠ったままになっていた。

ジフナ村とタイベ村は、パレスチナでは少数派であるキリスト教徒によって構成された珍しい村であるが、もちろんこれらの村の他にもキリスト教徒は住んでいる。中枢都市であるラマッラには近現代に建設された教会堂が7つもあり、そのすぐ近郊ではビザンティン時代に起源をもつ教会堂遺構も発見されており、現在もパレスチナ人考古学者らによって発掘調査が行われている。また、パレスチナ各地の入植地にはユダヤ人が住まい、一方でナブルス周辺にはサマリア教徒の伝統も残されている。限られた土地の中に、アラビア語を使うイスラーム教徒とキリスト教徒、ヘブル語を使うユダヤ教徒、そしてサマリア語を使うサマリア教徒が、互いに衝突しながらも絶妙な距離感でそれぞれの伝統を守り抜いている。

「レオナルド・ダ・ヴィンチ理想都市模型展」をめぐって
感染症に立ち向かい、20世紀を先取りした都市計画
松田 達

2022年11月17日から12月11日まで、浜松の静岡文化芸術大学ギャラリーにて、「レオナルド・ダ・ヴィンチ理想都市模型展」が開催された。筆者は偶然と縁により、この模型を所属大学に受け入れ、展覧会の企画から実現まで携わることが出来た。同時期に地中海学会を知り入会することとなったため、本展覧会をめぐる一連の出来事を報告しておきたい。この展覧会はレオナルド・ダ・ヴィンチ(以下、レオナルド)の都市構想スケッチをもとに、20世紀半ばにつくられた「理想都市模型」を展示するものである。模型を中心に、希少図書、同時代の他の理想都市模型、CG、AR/VRを用いた展示、学生の描く理想都市など、多面的な展示を行った。

模型の由来から触れておきたい。レオナルドは、1482年にミラノに移住し、2年後の1484年からミラノで猛威を振るったペスト禍で、人口の3分の1が亡くなるという都市の惨状を目の当たりにした。それがきっかけとなり、感染対策上、2層、3層に分離された立体的都市が構想された。20世紀の歩車分離のシステムを5世紀も前に先取りしたような、驚くべき先駆的な都市計画である。ルネサンス時代には主に軍事的観点から、多くの星型・正多角形型の理想都市が考案されたが、レオナルドの理想都市の目的は根本から異なっていたのである。

レオナルドは、このころの手稿に都市建築のスケッチを描いている(『パリ手稿B』紙葉15裏、16表、36表、37表、37裏、39表等)。道路はトンネルで立体交差し、階段で接続される。上下層の高低差、道路幅員、道路の勾配など、具体的な長さも記載されている。上層は身分の高い人が使い、下層は労働者や家畜、荷車が使用するという。街には運河がめぐらされ、汚物やごみの運搬にも用いられることが想定された。不衛生が原因と考えられる感染症から街を守る計画であった。

レオナルドの計画が実現することはなかったが、20世紀になってこれらのスケッチをひとつの模型にまとめる人物が現れた。アルベルト・マリオ・ソルダティーニ(1914-1960)である。飛行家・芸術家・建築家のソルダティーニは、1952年にミラノのレオナルド記念国立科学技術博物館が設立される際、「レオナルド・ギャラリー」の設計を行うとともに、レオナルドが考案した様々な機械を模型化している。そして1955年にギャラリーが拡張する際、「理想都市模型」をつくった。3m×1.7m程度の巨大な木製模型であり、レオナルドの複数のスケッチが結び付けられている。水路のスケッチ(同、紙葉38表)や、軍事的な目的とされる階段建築のスケッチ(同、紙葉47表、68裏)のアイディアも統合され、理想都市模型としてまとめられた。

この模型がなぜ日本にあるのか?1984年に池袋西武で開かれたイタリアンフェアの際に、イタリアから東京に運ばれ展示されたという。ただし、ほぼ同じ模型がミラノの博物館にもあり、どちらがオリジナルでどちらがレプリカかは、展覧会を行うまで明確ではなかった。しかし、展覧会を機に様々な情報が集まり、どうやら本学にあるものはレプリカのようである。とはいえ1980年代にイタリアでつくられた模型が大変綺麗な状態で現在も残っていることも、十分貴重である。この模型は、その後、浜松や東京で展示されたことはあったが、長く武蔵野美術大学の長尾重武先生が大学で保管していた。しかし長尾先生が大学を退官し、しばらく経って模型の保管場所を新しく探すことになった。その際、東京電機大学の横手義洋先生を通して筆者に連絡があり、過去に浜松で展示されたという縁と、本学理事(当時)の高田和文先生が長尾先生と長年の知己であったという偶然があり、2021年秋に本学に寄贈されることになった。

そこで筆者は、三菱財団人文科学研究助成(「レオナルド・ダ・ヴィンチ理想都市模型に関する学際的研究」)などを得て、この模型の共同研究を進めるとともに、イタリア大使館らの後援や協力を得て、2022年秋に展覧会を行った。シンポジウム「レオナルド・ダ・ヴィンチと理想都市の夢」(2022年11月27日)では、パネリストとして長尾先生を始め、池上英洋先生、五十嵐太郎先生にもお越し頂いた。これが本展覧会開催の経緯である。

展覧会では単に過去の模型を展示するだけではなく、プロジェクション・マッピングやARと組み合わせて模型を展示した。同時代の理想都市パルマノヴァの模型も展示し、レオナルドの都市構想を数分のCG映像でまとめなおした。360度VRで都市の内部に入る体験もできるようにするなど、歴史的な内容を現代的手法で展示した。いまこの模型を展示する意義のひとつは、コロナ禍の現在とペスト禍の当時を重ね合わせ、感染症と都市計画の関係を問いなおすことが出来ることにあるだろう。500年前の都市構想を現代的に見せることで、レオナルドの構想から現代の都市のあり方のヒントを少しでも探れる内容になっていたとすれば幸いである。

自著を語る108
Du frère au maître. Les dominicains de France face au système universitaire des grades au Moyen Âge
Cerf(Paris) 2022年11月 534頁 38.00€
梶原 洋一

本書は、2018年3月にリヨン第二大学に提出した博士論文を若干改訂したものである。表題を訳せば、「修道士からマギステル(博士)に。中世におけるフランスのドミニコ会士と大学学位制度」となろうか。学問活動で名を馳せたドミニコ会が、大学(托鉢修道会と同時期、13世紀前半に制度として確立した)の神学部が発行する学位をどのように捉えていたか、という問いのもと、修道会の規則と実践のせめぎ合い、修道生活の理念と学位の関係を実証的に描こうと努めた。

構成は、まず総序に続き、主要史料の特徴と残存・刊行状況の紹介を独立した一章として立て、かなりの頁を割いた。月報414号(2018年11月)に訪問記を書いたローマの文書館が所蔵する総長書簡記録簿も含め、有名とは言い難い史料も多く用いたことに加え、ドミニコ会や大学という制度的枠組みを重視する本書にとって、それらが残した法制・規範的文書の持つ性格と限界は基本的な前提となるからである。

考察本体は4部に分かれる。第1部(1~3章)では、異端論駁と民衆教化の使命ゆえに、ドミニコ会が修道士に確固たる神学的教養を要求し、その実現のため独自の学院ネットワークを設置した過程を叙述した。ドミニコ会教育制度については多くの先行研究があるが、往々にして建設の時代である13世紀に注目を偏らせてきたのに対し、14世紀以降の展開、特に学生の段階的選抜が一種のエリート主義を生み、修道会に亀裂をもたらすという副作用を強調する点が、本書の特色と言えよう。

続く第2部(4~6章)では、パリで確立された神学部の学位制度が、14世紀後半以降になって各地の後発大学に波及する経緯を確認した。新設の神学部では托鉢修道会が圧倒的な主導権を握り、彼らのための「学位工場」に堕する危険があった。ドミニコ会は、学位を帯びた修道士が野放図に増加し、「マギステル(神学博士)」の質が担保されない事態を懸念して、内部審査に合格した修道士にのみ学位取得を許可し、各大学へと派遣するという仕組みを14世紀末から構築した。その経過を修道会総会の決議などから辿った。

とはいえ、それだけではコトの半分にすぎない。新しい制度的環境の中で、個々の修道士たちがどう振る舞ったかという、実際面を考える必要がある。15世紀後半から16世紀初めに学位を取得、または取得しようとしたドミニコ会士1,000名以上のプロソポグラフィをもってこれに答えたのが第3部(7~9章)で、まさに本書の中核部分である。学位を目指す修道士の年齢、キャリアを見ると、幹部役職さえ経験していた13世紀の先達に比べ、「小粒化」は明白だった。だからこそ監視を強める必要があったのだが、管理制度自体もまた状況に応じ、様々な拡大解釈を許容する余地があった。学位取得に際し、修道士たちは決して上からの指示に受動的に従ったのではなく、それぞれの事情・希望に合わせ権限者と果敢に交渉した。交渉相手は修道会の上長だけではない。教皇はしばしば、個々の修道士、あるいは修道会からの求めに応じて大学学位を直接授与していた。ここに一つの矛盾がある。ドミニコ会士たちは学位を重視しつつ、大学自体は次第に軽視するようになったのである。

ところで、ある根本的な問いをここまで棚上げにしてきた。ドミニコ会士にとって学位とはいったい何であったのか、どうしてそこまで欲しがるのか、というそもそも論である。第4部(10、11章)が示すように、学位はドミニコ会にとって一つの避けがたいジレンマだった。学知を重んじる修道会の理念からすれば、大学学位は栄誉の極みであって、トマス・アクィナス列聖はこの傾向に一層拍車をかけた。かたや、現実のマギステルたちの虚栄、傲慢、貪欲は絶えず修道会を蝕んだ。それでも、大学的なるものが確実に彼らの自意識の深いところに根を下ろしていたことは、説教や、修道院のために書かれた聖史劇の分析からもわかる。ドミニコ会という集団は、それ自体が一つの「大学」の様相を呈したのだ。

本書の刊行は、博論の口頭試問官の一人で、ご自身もドミニコ会士であるベルナール・オデル教授(フリブール大学)のご厚意で成った。謹んで御礼を述べたい。2019年3月に初稿を送って以降、向こうも多忙なのか出版社との連絡が何度か途絶え、本当に出せるのか直前まで半信半疑だった。校正ゲラさえ、こちらが要求して初めて出てくる具合で、日本とは出版事情もだいぶ違うようだ。博論の内容をほぼ全て詰め込んだので、手にしてみるとかなり分厚く、「生涯全部の仕事を出してしまったかのよう」という(呆れの?)お言葉も頂戴したが、もちろん、そうはならないように今後も精進したい。事実、やるべきことは山積みである。他の修道会との比較、中世末期の厳修派運動による影響など、新しいテーマには着手したばかりで、本書で扱った手稿史料の校訂版も作りたい。「マギステル」への道はまだまだ遠い。

表紙説明

地中海の《癒し》17:ピストイアのチェッポ病院《7つの慈善事業》/金原 由紀子

中部イタリアのピストイアの街並みは中世の趣を色濃く残すが、大聖堂近くに明らかに異質な建物がある。13世紀後半に創設されたチェッポ病院である。14世紀半ばに黒死病が流行した際、病院には患者から多くの財産が遺贈されて資産を増やした。すると、市政府は病院を運営するチェッポ同信会の世俗化を進め、監督権限を大聖堂聖堂参事会から奪い、市の役人を病院長に就けた。1401年にピストイアがフィレンツェの支配下に入った後、病院長の職を巡る争いが激化したため、病院は1501年にフィレンツェのサンタ・マリア・ヌオヴァ病院の傘下に編入された。翌年、フィレンツェの捨子養育院のファサードをモデルにルネサンス様式の柱廊が増築される。1526年に有名な《7つの慈善事業》の彩釉テラコッタをサンティ・ブリオーニに注文したのは、前年にフィレンツェから送り込まれた新病院長レオナルド・ブオナフェーデである。彼は後にコルトーナ司教にまで出世することになる人物で、美術パトロンとして知られていた。

《7つの慈善事業》は病院や同信会の装飾に取り上げられることの多い主題で、6つはマタイによる福音書25:35-36を典拠とする。ここに含まれない《死者を埋葬する》はトビト書1:17に起源を持ち、12世紀末には第7の慈善事業として組み込まれた。柱廊では向かって左側面に第1場面《裸の人に服を着せる》が、ファサードに左から《旅人に宿を貸す》、《病人を見舞う》、《囚人を訪ねる》、《死者を埋葬する》、《飢えた人に食べ物を与える》、《渇いた人に水を与える》と並ぶ。福音書に語られた順と異なる配置なのは、病院の活動と密接な事業を中央に置いたためだろう。各場面には病院長ブオナフェーデが必ず登場し、医師、給仕や世話係、病人や困窮者など大勢の同時代人が等身大で表わされる。《病人を見舞う》では、大きな帽子を被る医者が脈をとったり頭の傷を診たりと患者を治療し、茶色の衣に白いエプロン姿の世話係がそれを手伝う。寝台の枕元には患者の識別番号を記した板と薬草の束が吊され、病室の細部まで描写されている。同時代性が強調される一方で、慈善事業の神学的説明も忘れていない。《囚人を訪ねる》では中央のブオナフェーデが彼の名義聖人レオナルドに手を引かれて囚人を見舞うが、格子の外に足枷をつけて座り込むのは「小さき者」として囚人に扮したキリストである。また、《旅人に宿を貸す》では左側に巡礼者たちが表わされ、中央に病院長がひざまずいて巡礼者の足を洗う。この旅人は、ニンブスを持ち毛皮の外套を着ることからフィレンツェの守護聖人洗礼者ヨハネだろう。左から5人目のニンブスを持つ旅人は、帆立貝をつけた巡礼者の隣に立つことからピストイアの守護聖人の使徒大ヤコブである。病院長が足を洗うのはフィレンツェの守護聖人で、同都市の政治的優位を示すともとれる。

チェッポ病院は2017年から一部が公開され、復元した男性病棟の様子やピストイアの医療と医学教育の歴史を紹介する博物館となっている。

(表紙写真)上から順に、チェッポ病院ファサード、《旅人に宿を貸す》、《病人を見舞う》、《囚人を訪ねる》