地中海学会月報 MONTHLY BULLETIN

学会からのお知らせ

4月研究会

4月研究会は事情により下記の通り、5月20日(土)に開催される予定です。
参加を希望される方は、学会ホームページのNEWS欄「研究会のお知らせ」に掲載されるGoogleフォームにて参加登録をお願いいたします。参加登録をされた方には、後日メールで Zoomアドレス等についてご連絡いたします。
テーマ:ラウンドテーブル『帝国スペイン 交通する美術』をめぐって
発表者:伊藤喜彦(東京都立大学)、今井澄子(大阪大谷大学)、久米順子(東京外国語大学)、松原典子(上智大学)、岡田裕成(大阪大学)
日 時:5月20日(土)午後2時より
会 場:Zoomオンライン会議システム
参加費:無料
要旨:『帝国スペイン 交通する美術』(三元社、2022)執筆陣によるオンライン座談会です。同書編著者である岡田裕成氏(大阪大学)をゲストとしてお招きし、同書の執筆陣のうち本会会員である伊藤喜彦、今井澄子、久米順子、松原典子が、イベリア半島中世の記憶とヨーロッパ各地や新大陸の潮流が遭遇する場となったハプスブルク・スペインにおける「交通する美術」について語ります。

第47回地中海学会大会について

第47回地中海学会大会は、6月24日(土)、25日(日)に、山形県鶴岡市羽黒町の出羽三山神社随神門前に位置する「いでは文化記念館」において、対面開催の予定です。現段階でのプログラムは以下の通りです。

6月24日(土)
13:00~
基調講演:岩鼻通明(山形大学名誉教授)
地中海トーキング:聖地の食べ物・飲み物
 司会:秋山聰(東京大学教授)
 登壇者:伊藤新吉(羽黒山参籠所斎館料理長)
    相沢政男(竹の露酒造合資会社代表役員)
    師尾晶子(千葉商科大学教授)
    澤井一彰(関西大学教授)
総会

18:30~ 懇親会(羽黒町内の宿坊を予定)

6月25日(日)
10:30~
研究発表:未定
12:00~
昼食
13:00 
シンポジウム:修行とその周辺
 司会兼任:松﨑照明(東京家政学院大学客員教授)
 登壇者:阿部良一(出羽三山神社権宮司)
     渡部幸 (出羽三山神社歴史博物館学芸員)
     益田朋幸(早稲田大学教授)

6月26日(月)
9:00~
バスによるエクスカーション(予定、人数制限あり)
 行程案は以下の通りです。
 JR鶴岡駅前→羽黒町→出羽三山神社参拝→出羽三山神社斎館にて昼食→湯殿山本宮参拝(→即身成仏見学)→庄内空港→JR鶴岡駅

新年度会費納入のお願い

2023年度会費の納入をお願いいたします。自動引き落としの手続きをされていない方は、以下のとおりお振込ください。
会 費: 正会員  10,000円
学生会員  5,000円
個人会費割引A 8,000円
個人会費割引B 8,000円
振込先:口座名「地中海学会」
    郵便振替 00160-0-77515
    みずほ銀行 九段支店 普通957742
    三井住友銀行 麹町支店 普通216313

アーティゾン美術館土曜講座 地中海学会連続講演会 「蘇生する古代」第3回要旨
よみがえるムーサたち
──フェッラーラ、リミニ、ウルビーノ──
京谷 啓徳

古代ギリシア・ローマにおける詩歌、文芸、音楽、舞踊、学問の女神ムーサたち。その名がミュージアムやミュージックの語源にもなっていることは周知のとおりである。土曜講座では、彼女たちがルネサンス期のイタリアにおいて、絵画・彫刻の中によみがえっていく様子をたどってみた。

人文主義的教養を有したフェッラーラ君主レオネッロ・デステが宮殿にストゥディオーロ(小書斎)を構えようとしたとき、それにふさわしい装飾として選んだ絵画主題がムーサたちであった。ところが中世以来長らく、ムーサはヴィジュアル・イメージとしては表現されていなかった。よってレオネッロは、抱えの古典学者グアリーノ・ダ・ヴェローナに調査を依頼した。グアリーノは各種古代文献を博捜し、その依頼に応えた。グアリーノが9柱のムーサの職掌・属性や、その姿・アトリビュートについてしたためた書簡が残されている。レオネッロのストゥディオーロ自体は火災で焼失してしまったが、もともとこの場所で連作をなしていたであろう、ムーサを描く複数の板絵が、各地の美術館に所蔵されている(8点が現存。中でも著名なものはコスメ・トゥーラ《カリオペ》、ミケーレ・パンノニオ《タリア》など)。

興味深いのは、グアリーノの書簡に記されるムーサと、その後一般化するムーサ図像の間には懸隔があることだ。例えばグアリーノによってポリュムニアやタリアが農業と結びつけられたのは、農業が盛んであったフェッラーラならではのことだろう。実際、ベルリン国立絵画館の《ポリュムニア》は犂と鍬を手にしている。またグアリーノの記すムーサとレオネッロのストゥディオーロのために制作された絵画の間にも若干の齟齬がある。レオネッロの死後、後継者となった弟ボルソ・デステによりストゥディオーロも引き継がれたが、おそらくボルソの指示により、数点のムーサには改変が加えられたのだ(コスメ・トゥーラの描いた《カリオペ》はヴィーナスを思わせる姿に改変された)。

さて、レオネッロ・デステと同時代の著名な君主として、ウルビーノ君主フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロとリミニ君主シジスモンド・マラテスタがいるが、両者とも、彼らの身の回りをムーサのイメージで飾らせた。それはレオネッロ・デステのストゥディオーロの名声のなせる技であったとともに、人文主義的教養を有したルネサンス君主たちの古代への憧憬を偲ばせるものでもある。

シジスモンド・マラテスタは、彼の墓所とするために中世の教会を改修したマラテスタ神殿(テンピオ・マラテスティアーノ)に、「ムーサたちの礼拝堂」を設けた。そこを飾る浮き彫りのムーサ連作を制作したのは、彫刻家アゴスティーノ・ディ・ドゥッチョである。マラテスタ神殿のムーサ図像で興味深いのは、それらが、レオネッロ・デステのストゥディオーロのもの以上に、グアリーノ書簡の記すムーサのイメージに忠実であることだ。シジスモントはおそらく、レオネッロからグアリーノ書簡の写しを借り出したのだろう。

一方、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロのドゥカーレ宮殿では、有名なストゥディオーロの階下に、キリスト教の礼拝堂と並んで「ムーサの小神殿」が設定された。この小神殿に飾るためのムーサ連作を描いたのは、ラファエッロの父ジョヴァンニ・サンティである。このムーサ連作では、多くのムーサたちが楽器を演奏しているが、その図像はいわゆる「マンテーニャのタロッキ」におけるムーサ図像と密接に関連している。

また、レオネッロ・デステとボルソ・デステの姪であるマントヴァ侯妃イザベッラ・デステのストゥディオーロにも、ムーサたちは姿を現す。この場所を飾ったマンテーニャの《パルナッソス》では、画面前景でアポロンに率いられたムーサたちが踊っている。同じくイザベッラのグロッタ(古代彫刻やそのレプリカの陳列室)の入り口を飾る浮き彫り装飾にもまた、ムーサたちの姿が見える。イザベッラは伯父たちのストゥディオーロを飾ったムーサを意識していたことだろう。

以上のように15世紀の後半、ムーサの図像には複数の系統が存在していた。そして16世紀に入り、ジョヴァンニ・サンティの息子であるラファエッロが、ヴァチカンの教皇宮殿「署名の間」に、ムーサたちが勢揃いする《パルナッソス》を描くこととなる。ラファエロはとうぜん父親のムーサ連作を知っていたはずであるが、彼が描いたムーサ図像は父のそれとは異なった。ムーサの中には楽器だけではなく、古代演劇の仮面を手にする者もいるのだ。これは古代ローマ石棺に由来する。つまり古代文献由来のムーサではなく、古代のヴィジュアル・イメージに直接典拠を持つムーサ図像がここに出現したのである。

カイロ旧市街のバイトヤカン
宍戸 克実

コロナ禍の第何波の頃だったのかもはや記憶にないが、その最中に始まった事業がある。それは『緊急的文化遺産保護国際事業(専門家交流)「カイロ旧市街の持続可能な保護策のための事業/住民参加のまちづくり」』という文化庁の委託事業で、日本学術振興会カイロ研究連絡センターの深見奈緒子氏(センター長)が発起し、一般社団法人日本建築街づくり適正支援機構(代表理事:連健夫)が受託実施している。筆者は見習いの身として末席に連なっているに過ぎないが、この場をお借りして事業を紹介させて頂く。

大都市カイロにおいて、道路整備やインフォーマル街区の一掃と再開発、また、新都心の建設が強力に進められる一方で、リビングヘリテージとしてのカイロ旧市街(歴史地区)が適切に保全されているとは言い難い。本事業は、カイロ旧市街が抱える問題に向き合うべく、文化財保全やまちづくりにおいて日本側が持つ経験と蓄積をエジプト側と共有した上で持続可能な保護策を模索し、具体的な展開に繋げていくことを目的としている。とはいえ、日本とエジプトは文化や制度などあらゆる面で異なることに加え、エジプトやカイロが抱える諸問題、さらに日本自体もまちづくりに苦労している現状を鑑みると、その道のりは極めて厳しい。当初はコロナ禍ということで現地訪問もままならず、現地の関係者が奔走しオンライン機器を駆使したハイブリッド形式でワークショップを行うなどの苦労もあった。

本事業が始動するに至った背景には、深見氏が「歴史的カイロにおいて歴史的建造物と伝統的居住様式を軸として持続的コミュニティを考える」(トヨタ財団助成2016-18年)と、「カイロ旧市街の遺産保全と都市史再考」(大林財団助成2018-19年)を通じ、バイトヤカン(ヤカン邸)を主催するアラー・ハブシー氏(メヌーフィヤ大学教授)とともにカイロ旧市街の諸問題に向き合ってきたことがある。バイトヤカンとは、カイロ旧市街スークシラーハ通りに立地する歴史的建築物をアラー氏が買い取り、地域再生のための拠点とすべく整備が進められている公益性の高い民間施設である。2022年には図書室と木工職人訓練室(日本外務省草の根無償資金協力事業による)が完成し、地域の文化・産業支援の場として、また地域の交流空間となるべく展開している。本事業においてもアラー氏が目指すバイトヤカンのコンセプトに共感し、ここを活動の拠点としている。

様々な問題を抱えたカイロ旧市街において、地域再生を目指すバイトヤカンは貴重な存在である一方、地域全体を巻き込んで水平展開することの難しさも見え隠れする。エジプトの社会制度は民意を反映する仕組みに乏しいようで、まちづくりや歴史資産保全に住民が関与する余地は見当たらない。また、ハーラ(伝統的居住単位)はあるものの、まとまりのある住民コミュニティが存在せず、地域への愛着が育まれるような余裕もなさそうである。無数にある問題点を指摘することは容易であるが、本事業は文化庁の委託事業であることから現地政府の意に反しない形での活動が求められている。

本事業で実施している具体的な活動は、建築まちづくりファシリテーター育成講座と住民ワークショップの定期開催である。現地の若手建築家や専門家、大学院生を対象に日本側からまちづくり事例やワークショップ手法の紹介、文化財の保護や活用などをテーマに話題提供し、意見交換するものである。地域住民を集めたワークショップでは、前述の受講者がファシリテーター役を務め、住民の意見や要望を可視化した上で、地域の環境改善や歴史遺産の活用方針などをまとめる経験を重ねていく。住民ワークショップは男女を別日に分けて実施し、双方とも驚くほど白熱した議論が交わされた。ファシリテーター役は切実な意見や要望が飛び交う議論をコントロールすると同時に、日本式ワークショップをエジプト式に適応させていく。ワークショップを通じて地域の魅力や生活文化、課題を再認識した住民らからは遺産や歴史に対する愛着が芽生え、地域環境を改善しようという意識の高まりを感じた。

建築まちづくりファシリテーター講座や住民ワークショップの開催が回を重ねるにつれ、本事業の役割こそがファシリテーターであると気付かされる。招かれざる客とならぬよう配慮しながら、様々なレベルの機関や団体、専門家、地域の住民や事業者をつなぐ潤滑油となり、バイトヤカンのような地域再生の核の発展に寄与できればと願う。最近届いた知らせでは、スークシラーハ通りのまちづくりにおいて、休眠状態の歴史的建築物をコミュニティ主導で利活用する取り組みが始まる気配があるという。今後の展開が大いに楽しみであると同時に、引き続きバイトヤカンの応援を継続していきたい。

トルチェッロ島への憧れと聖堂訪問
龍 真未

コロナ禍中は留学先のチューリヒからスイス国外へと出ることはしばらくなかったが、緩和を機に2022年3月某日、かねてより訪れたいと願っていたトルチェッロ島へと向かった。アルプスの南、地中海地域の青々とした空や海(とその食べ物)がふと恋しくなるものである。幸いにゴッタルドベーストンネルが2016年に新しく開通したことで、チューリヒからヴェネツィアまでは約6時間、乗り換えなしの列車の旅ができるようになった。国境を越える前に、スイスでは義務づけられることのなかったFFP2マスクの着用を促すアナウンスが流れ、いよいよという緊張感が高まる。

トルチェッロ島はヴェネツィア本島から北西へ水上バスのヴァポレットで1時間ほどラグーナ(潟)を移動した先に位置する。ヴェネツィアの墓地サン・ミケーレ島、ガラス細工で有名なムラーノ島、レース編みの名産地ブラーノ島を経て、水上バスが進むにつれ、あたりはなにもなく荒涼としてくる。若干の心細さを覚えてきたころ、見えてくるのは真っ青な空へと大きく聳え立つ鐘楼だ。筆者の目当ては、船着場から水路沿いの小道を歩いた先の、サンタ・フォスカ聖堂と並んで建つ、ヴェネツィアで最古の建築物サンタ・マリア・アッスンタ聖堂である。

トルチェッロ島はヴェネツィア発祥の地ともいわれ、その起源は古代ローマ時代まで遡るという。聖堂内碑文からは639年ランゴバルド人の襲撃を機にラヴェンナ総督イサクによって聖堂が創設されたことを知ることができる。「神の母(テオトコス)」に捧げられたこの聖堂は典型的なビザンティン様式の建造物であり、同時にアリウス派・ランゴバルド派に反するカトリック派の信仰を重視する意味合いが持たれた。これが司教座聖堂となるサンタ・マリア・アッスンタ聖堂のはじまりである。8~9世紀には何度か改修工事が行われ、現在の聖堂は11世紀初頭、司教オルソ・オルセオーロ(在任1008–18)の頃に着手された改築がもとになっている。司教座そのものは1689年にムラーノ島に移されたものの、この聖堂は一見の価値がある。聖堂西側の中央扉口に接続する、おそらくは創建当初あったとされる八角形の洗礼堂の痕跡や初期キリスト教時代のバシリカの形式を残すその建築物、厳かに輝く11~12世紀のモザイク画があるからだ。

さて、「被昇天の聖母」の名を冠する聖堂に入ると、目にとまるのは黄金に輝く後陣上方の聖母子像であろう。ビザンティン由来のオディトリア型とよばれる聖母マリアは正面観で立ち、右手を胸に、左手で幼児イエスを優しく抱く。幼児イエスは左手に律法の巻物を持ち、右手で祝福を与えている。聖母は金の装飾が際立つ青く輝く衣を頭から足の先まですっぽり覆っており、右足を横にずらしてゆるやかに身体をくねらせたS字曲線によって優美さが強調されている。左手でキリストの遺体を包んだ聖骸布を象徴する白い布をもち、このことから、この後陣のモザイク画にはキリストの受肉から死、そして復活までの救済が暗示されていると考えられる。整然と並ぶ十二使徒の上方で、聖母の静かに、毅然とした表情で佇む姿にはどこか安心感があり、いつまでもこの聖堂にいたいと感じるほどだった。

一方、後陣の対面に位置する西側内壁のモザイク装飾は、静かな後陣のそれと比べると賑やかな印象である。6層に分けられた壁画には大きく2つの主題を読み取ることができるだろうか。上部に置かれるのは、十字架のキリストとその左右の聖母マリアと福音書記者ヨハネから成る「デイシス」と、キリストがアダムとエヴァを冥府から救い出す「アナスタシス(キリストの冥府降下)」であり、この2層によってキリストの死と復活の神秘が表現される。第2の主題は3段目以降に描かれ、そこには「エティマシア(空の御座)」やキリストの足もとから地獄へと注がれる業火の川など、ビザンティン由来の「最後の審判」であることが一見してわかる描写が詰まっている。燃え盛る地獄の火の池の中に魔王が鎮座し、その膝にはアンチキリストがちょこんと座る。使い魔に罪人たちを焼くよう指示する様子は実に惨たらしい。罪人は描き分けられたその姿から皇帝や皇后、司教、イスラム教徒であろうことがうかがえる。こうした「最後の審判」の図像伝統は、その後の西ヨーロッパ美術に大きな影響を与えているのだが、ビザンティンの聖堂では同主題は描かれない。ビザンティン美術特有の複数主題を、「最後の審判」の西壁であわせて見ることのできるトルチェッロ島の作例は大変興味深く、見れば見るほど新しい発見に出会えそうだ。

信徒はしんと静かな聖堂のなかで聖母に見守られながら神に祈りを捧げ、自らの生き方を顧みながら聖堂を後にするのだろうか。鐘楼にいつまでも見送られ、帰りの水上バスを待つ船着場、そして船の上での、地平線を焼き尽くすかのような真っ赤な夕焼けに、気づいたら涙していた。おそらくは中世の人々も「ヴェネツィアの原風景」とよばれる同じ光景を目にしたのであろう。

コルヌコピアの象徴するイタリアの記憶
荒木 智子

チェーザレ・リーパ(Cesare Ripa, c.1560-1620?)の『イコノロギア』(Iconologia)は、本来であれば目に見えない美徳や、人間の感情や精神、学問といった抽象的な事柄を寓意的人物像として、つまり擬人像として表現し、ヨーロッパにおける寓意的図像の伝統を整理し著した集成である。1593年にローマで刊行された当初は挿絵のないテクストのみの書であったが、1603年に再びローマで刊行された際には図版が加えられた。イタリア国内のみならずヨーロッパ中で大いに人気を博し、各国語に翻訳され何度も版を重ねた。その口絵に記されているように、「詩人や画家、彫刻家」にとっては有用かつ「必読書」であった。バロック時代には、芸術家や人文主義者に広く参照されていた事実があり、必然的にバロック時代の芸術を研究する現代の研究者達にも「必読書」となっているわけである。そういうわけでバロック時代の美術を研究している筆者は、『イコノロギア』を折に触れ副次的な研究書として参照するわけである。しかしながら、副次的な書というにはあまりに興味深くしばしば読み耽ってしまい、本来やるべき研究の方が放っておかれるものであるから本末転倒である。

「豊穣」(Abondanza)に始まる各項目は、それぞれを説明する詳細なテクストと、版画の端的な線とハッチングの描写ながらも的確にテクストを反映した挿絵と共にアルファベット順で整理され、さながら図像百科事典の如き仕様である。全ての項目に対し挿絵が付与されているわけではなく、またその挿絵が必ずしも項目に正しく対応しているわけではないため(リーパによれば、これは版画家のミスであるという)、そうした場合はテクストに従って表現に生かすようリーパ自身も読者に向けて予め断りを入れている。現代の我々の目にも、ただページを捲りながら挿絵を見るだけでも面白く、識字率が高いとは言えなかった17世紀の芸術家たちにとって確かに「必読書」であっただろう。

『イコノロギア』に頻出するモチーフとして、コルヌコピア(豊穣の角)がある。例えば、1603年版の図版151枚中、11体の擬人像がコルヌコピアを抱えた姿で表されている。テクスト中での言及箇所を拾えば、11を遥かに上回るだろう。最初の項目で優雅な女性像として登場する「豊穣」は、柘榴や葡萄の他様々な果実、オリーブや花々の溢れ出す、大きなコルヌコピアを右手に携えて堂々と最初のページを飾る。
17世紀のイタリア人にとってコルヌコピアというモチーフがどの程度身近であったのかは分からないが、現代を生きる筆者は留学中のローマの至る所でコルヌコピアに遭遇した。美術館の絵画中に、屋外彫像の傍らに、そしてジュエリーや菓子に至るまでである。

リーパは、「イタリア及びその各州と島々」(Italia con le sue provincie, et parti del’Isole)を説明するテクスト中で、「多種の果実でぎっしり詰まったコルヌコピアは、〔イタリアが〕世界のどの地域よりも、より豊かな土地であることを意味する」と述べている。地中海性気候に恵まれたイタリアの肥沃な大地、そこから生まれる多種多様の果実や植物を溢れんばかりに詰め込んだこの豊穣の角は、そのままイタリアという国家の有する文化の多様性と豊かさを象徴している。イタリアの国土の肥沃さについては、ウェルギリウスの『農耕詩』にも言及されている通りであるが、南北に走る長靴型の国土で生産される野菜や果実に地域差が大きいことは、実際にイタリアに住むことで体感した。

また「幸福」(Felicità)の項目で、リーパは「コルヌコピアは苦労によって獲得される果実を表す」と述べ、苦労せず幸福に辿り着くことはできず、幸福は苦労という存在によって認識され、希求されるものであると記している。

筆者はコロナ禍のローマで博士論文を執筆していたが、半分がロックダウン生活であった。当然「幸福」を味わうどころか、むしろ半ば投げやりになっていたクリスマスに、大家である友人がリーパの擬人像さながらコルヌコピアを抱えて家に帰ってきた。コルヌコピアのケーキである。彼女は、コルヌコピアが如何に長きに亘ってローマにおいて幸福のお守りであったかを滔々と語り、「Andrà tutto bene!」と言った。以来、私にとってコルヌコピアは、豊かな自然に溢れたイタリアで彼女と過ごした幸福な記憶の象徴となった。

2023年の始まりに件の友人から新年の挨拶と共に、50cmを超えると思われる巨大なコルヌコピア型ケーキの写真が送られてきた。リーパの挿絵で見た、煌びやかで優雅な女性像や河の神たちが恭しく捧げ持つ柘榴や花々に満ち溢れたコルヌコピアは、パイ生地で作られ、中にはカスタードとフルッティ・ディ・ボスコ、金貨を模ったチョコレートがこれでもかという程に詰め込まれていた。

地中海的風景
──ナポリ湾からクリミア半島、ロシア極東まで
谷古宇 尚

私はまだクリミア半島を訪れたことはない。2014年にロシアがウクライナから一方的に編入し、今般の両国間の軍事紛争につながっている。そのクリミアが面する黒海は地中海の一部とはされないが、古代以来、地中海世界と緊密に結ばれていた。18世紀の終わりにエカテリーナ二世によりロシア帝国に併合され、テュルク語系の地名はセヴァストポリ、シンフェロポリ、フェオドシヤなど、ギリシア語風に改称された。フェオドシヤは1266年から2世紀間にわたってジェノヴァの植民市であり、カッファと呼ばれた。現在でもジェノヴァ人の作った城砦が残されている。

この町は、19世紀ロシアの国民画家とも言えるイヴァン・アイヴァゾフスキー(1817–1900年)が生まれ、サンクト・ペテルブルクのアカデミーに通ってヨーロッパを歴訪した後、政治の混乱を避けるべく再び若くして居を定めた場所である。ロシア海軍の公式画家であった彼は海景画で知られ、ペテルブルクのロシア美術館に収蔵される大きな《第九の波》(1850年)が有名である。アイヴァゾフスキーはアルメニア人でありながら、この元はタタール人の土地で黒海を描き続けたのである。

アイヴァゾフスキーの描く海洋の光景は、朝日が昇り、あるいは月明りのもと、また時に波濤高く、非常に劇的である。海や船のみ描かれることが多い。しかしグルズフやコクテベリなどクリミアの景勝地が背景となる作品を見ると、あることに気づかされる。それらはナポリ近郊の風景に似ている。地質学的に詳らかにすることはできないが、彼の描く黒海に迫る断崖はソレント半島やカプリ島を思い起こさせる。また、フェオドシヤの砂浜から岬にかけての眺めは、キアイアからポジッリポを望むかのようであり、海から見るセヴァストポリの丘は、ナポリの心地よい住宅地ヴォメロに見える。

実際、アカデミーを卒業したばかりのアイヴァゾフスキーは奨学金を得て、1840年から1842年にかけてイタリアに滞在している。ヴェネツィアではサン・ラザロ・デイ・アルメーニ島にあるアルメニア・カトリック(メキタリスト)の修道院を訪れ、また『ネフスキー大通り』(1835年)でラファエロを学ぼうとしない当代の画家に言及するニコライ・ゴーゴリに会っている。その後、アイヴァゾフスキーはローマ、そしてナポリに滞在して、ナポリ湾やヴェズヴィオ山、カプリ島、アマルフィ海岸を描いてゆく。それらは、やや年長のロシア人画家シルヴェストル・シェドリン(1791–1830年)やアレクサンドル・イヴァノフ(1806–1858年)に倣ったものであった。彼らは10年、20年以上イタリアに滞在し、グランド・ツアーの目的地を抒情的な風景画に仕上げている。

アイヴァゾフスキーがヨーロッパに旅立つ直前、一時フェオドシヤに戻ってきていた際、まだ12~13歳の子供が絵画の手ほどきを受けた。両シチリア王国の副領事を務めていたジェノヴァ商人の息子レフ・ラゴリオ(1826–1905年)である。彼は後にペテルブルクのアカデミーを優秀な成績で卒業して間もなく、ロシア国籍を得ている。ローマに20歳代から30歳代にかけて5年あまり滞在し、ナポリ近郊の風景画をいくつか残した。彼の描くごつごつとした岩に波が打ち寄せ、断崖が際立つカプリ島の海岸線は、後年にロシアに戻って描いたクリミアの景勝アユ・ダグ(熊山)とよく似ている。イタリアの血を引くラゴリオは、シェドリン以来のロシア人によるナポリ近郊の風景画を基に、クリミアを地中海になぞらえて絵画化したのである。

18世紀初頭にピョートル一世により建造が始められたペテルブルクは「ヨーロッパへの窓」と呼ばれる。一方エカテリーナ二世によって併合されたクリミアは、ロシアの風景画家によってまさしく地中海の一部とされた。こうして、ナポリ近郊の典型的な風景をクリミアに見出すことによって、ロシアはヨーロッパの一員であることを主張することができたのである。

さて私は、北海道で20年以上勤務しているが、いまだに北方領土を訪れる機会がない。しかしながらロシア極東を何回か旅する中で、ソ連・ロシアの画家たちが1960年代から南千島を山ほど描いてきたことに気づいた。その多くは、色丹島の斜古丹(マロクリリスコエ)湾から向かいにある国後島の爺爺(チャチャ)岳の姿を捉えている。この構図はナポリ湾とヴェズヴィオ山の組み合わせと同じで、またこの2つの山はいずれもカルデラから中央火口丘が突き出す二重火山である。おまけに斜古丹湾の左手には、ソレント半島の断崖にも見えるトレズベツ岬がある。画家たちはクリミアだけでなく、アジアに向き合うロシアの端っこにも地中海的な風景を見出すことによって「ここもヨーロッパだぞ」と主張しているように思われてならない。

地中海の《癒し》16:温泉と沼/大西 克典

イタリア半島中部のトスカーナには温泉地がいくつも点在しており、夏になるとヨーロッパ各地から訪れる多くの観光客・湯治客で賑う。なかでもトスカーナの北西部、ルッカとピストイアの間に位置するモンテカティーニ・テルメは鉄道でのアクセスもよく、温泉地周辺の街区も整備されているので人気の温泉地である。写真は、このモンテカティーニ・テルメに点在する温泉のひとつテットゥッチョTettuccioである。

実はモンテカティーニは古くから温泉地として名声を博していたというわけではない。モンテカティーニの南側に広がるフチェッキオ沼は淡水魚の豊かな漁場であると同時にマラリアの発生地でもあり、温泉の湧き出す低湿地帯への人の定住を阻んできたからである。16世紀以降の干拓によってマラリアの脅威は徐々に遠のきつつあったとはいえ、18世紀に至ってもこの街の中心は交通の便の悪い丘の上にあり、温泉は十分に整備されていなかった。1761年にこの地方一帯の状況を記したある報告書は、テットゥッチョを含めてモンテカティーニには5つの源泉があると述べた後、「テットゥッチョを除く全ての[源泉]は非常にひどいありさまである」と報告している。また、比較的よく管理されていると語られているテットゥッチョにしても、イタリア語で「小屋根」を意味するその名の通り、18世紀半ばまでここには源泉を覆い、入浴の際に身を整える小屋が建っていただけのようである。一方で、この報告書はテットゥッチョの温泉水がヨーロッパ各国に輸出されているとも述べており、その泉質のよさには既に定評があったらしい。

良質でありながら有効活用されていないこの温泉に目をつけ、温泉保養地としての基礎を築いたのは、18世紀後半にこの地を治めたトスカーナ大公ピエトロ・レオポルドである。彼は温泉水などの排水のための水路を整備するとともに、大公・大公妃が利用するにふさわしい温泉施設を新たに建築させた。現在見られるようなテットゥッチョの建物が作られたのはこの時のことである。レオポルドによる温泉整備をひとつの契機として、モンテカティーニ・テルメの開発は19世紀に入ると本格化し、湯治客向けの豪華なホテルが次々に建てられ、近代的な街路が温泉周辺に整備されていった。20世紀に入ると市庁舎もテットゥッチョに程近い場所に移転し、名実ともに温泉がこの街の中心となっていく。一方で、マラリアの元凶であるとともに、豊かな水産資源で人々の生活を支えてもいたフチェッキオ沼は、一連の干拓と開発の結果20世紀の半ばにはほぼその姿を消していく。モンテカティーニ・テルメの近代史は、温泉の整備と沼地の征服の歴史なのである。

《出典》
写真:テルメ・テットゥッチョ(筆者撮影)
図:17世紀のフチェッキオ沼(V. Santini, «Il padule era la nostra fabbrica»: Economia e ambiente del Padule di Fucecchio nel primo Novecento, Ghezzano; Felici, 2010, p.180.)