地中海学会月報 MONTHLY BULLETIN

学会からのお知らせ

第47回地中海学会大会について(続報)

先日、来年の大会についての打ち合わせのために山形県鶴岡市羽黒町の出羽三山神社を訪れ、大会に関わってくださる方々とご相談をしてきました。会場として予定されている「いでは文化記念館」は、出羽三山神社の入り口である随神門に近く、200名以上を収容しうるホールを擁しているとともに、羽黒の修験文化についての教育的な展示館でもあり、ミュージアムショップでは出羽三山信仰についての様々な書籍やグッズが入手できます。「いでは」には、出羽という地名と、西洋のイデアが掛け合わされているということですので、地中海学会大会を開催するのもあながち不自然なことではないかもしれません。
なお、開催日程ですが、現地との協議および会計年度末に関わる事務局業務に鑑みて、従来よりも遅くなり、6月最終週末あたりになりそうです。
今回、主として大会に関わってくださるのは出羽三山神社に加えて、鶴岡市教育委員会、羽黒町観光協会、出羽三山魅力発信協議会、手向地区自治振興会、庄内観光コンベンション協会などの方々です。地中海学会大会の具体的様相についてご説明したところ、積極的な関心を示していただき、いろいろとご提案もいただいております。今後、早急に大会準備・実行委員会で作業を進め、常任委員会の議を経て、近く大会の内容をお伝えできればと思います。

12月研究会

下記の通り研究会を開催いたします。
参加を希望される方は、学会ホームページのNEWS欄「研究会のお知らせ(12/17)」に掲載されるGoogleフォームにて参加登録をお願いいたします。参加登録をされた方には、後日メールで Zoomアドレス等についてご連絡いたします。
テーマ:コルネイユとレッシング
    ──崇高の観念を手掛かりに──
発表者:田窪大介氏(國學院大學)
日 時:12月17日(土)午後2時より
会 場:Zoomオンライン会議システム
参加費:無料
要旨:17~18世紀のヨーロッパ悲劇には、アリストテレスの『詩学』が必要不可欠な要素となっているが、フランスの劇作家コルネイユとドイツの劇作家レッシングとではアリストテレスの解釈が異なっている。しかしそれぞれの解釈において、「崇高」の観念が重要な役割を果たしている。本発表では偽ロンギノスにおける崇高の観念を手掛かりに2人のアリストテレス解釈を比較し、2人が演劇の中で目指していたものについて考察する。

紅海から地中海世界を眺める
―港まちの発掘調査から― 長谷川 奏

2018年5月号の『地中海学会月報』に、「地中海とインド洋を結ぶ──紅海沿岸の港町調査こと始め──」というエッセイを書かせて頂いた。サウジアラビアの紅海沿岸にある小さな港町の考古学調査は、その後コロナによる中断はあったものの、順調に進んでおり、本稿はその続編である。ここではその折にも書かせて頂いた遺跡小史を、まず振り返ってみよう。研究対象のハウラー遺跡は、文献研究の場においては、ローマ時代に著された『エリュトラー海案内記』に見られるアラビア半島側の港町まちレウケコーメーの有力候補のひとつである。同資料によれば、インド洋から紅海に入った船は、エジプト側にあるベレニケから北上してミヨスホルモス(現在のクサイル)に渡り、その後東に向かって、レウケコーメーに到達したという。地中海世界の覇権をアウグストゥス帝が掌握した直後、アエリウス・ガッルスがエジプト総督を務めていた時代には、アラビア半島の香辛料交易の掌握をめざしたローマ軍が上陸した港町にもなった。しかし、少なくとも、現在のハウラー遺跡には当該の時代の考古学的な痕跡はなく、あくまでも今後の可能性にすぎないが、もしもそうした痕跡がみつかれば、帝政時代の有力な交易品であった見事な赤色の金属的な光沢をもつローマ陶器やインド洋由来の産物が複合して出土することは明らかであり、活力があった時代の広域経済ネットワークが浮かびあがる絵図は、調査を手掛ける古代研究者の夢の世界でもある。

現実の発掘調査は、地表面からもその痕跡が確認される初期イスラーム時代層から始まっている。ヒジャーズ地域にあるこの遺跡は、初期イスラーム時代には多くの穀物をエジプトからヒジャーズに運ぶネットワークの中に置かれ、さらにエジプトに安定したファーティマ朝政権ができた時代には(10~12世紀)、エジプトからのメッカ巡礼者の受け入れ窓口として、豊かな生活文化が営まれた場であったようだ。さて、私たちがいま特に注目しているのは、考古学資料と歴史文献の記述との接点である。その議論は、集落址の一角から、1.5mの幅を測る分厚い壁を持った方形(30~40m四方)の建造物がみつかったことから始まっている。私たちは樹木伐採を行うまで、対象を単なる邸宅址と考えていたが、重厚な遺構の作られ方と見晴らしの良い立地から、どうやら要塞になりそうなのである。ムカッダシーという10世紀後半の記述家によれば、ハウラーというまちには、人が多く住まう集落、海辺の市場に加えて砦があったことが記されており、私たちはその砦を発見した可能性があるのだ。2023年の春期から開始される予定の発掘調査では、王の宮殿や王の墓がみつかったというようなセンセーションとは異なる「控えめな大発見」を調査で検証し、発掘成果を世界規模で発信していくことになる。ハウラー遺跡は、おそらく十字軍戦争の後の海洋ネットワーク変貌のあおりを受けて、あるいはそれまで潤沢であった井戸水が枯渇したなどの理由によって、13世紀くらいまでには廃墟になったと思われ、中世以後の集落形成はみられていないので、浅い砂層堆積さえ取り除けば、現代から初期イスラーム時代までタイムスリップできる宝物のような遺跡とも言える。

現在では、初期イスラーム時代に建っていた建造物の上物(うわもの)部分は珊瑚や火山岩ブロックという建材が持ち去られてほぼ完全に失われており、遺跡調査は、僅かに残されている建物基礎の痕跡を手掛かりに、港町全体の景観を復元していく困難の連続ではあるが、今後の発掘調査によって、初期イスラーム時代の物質文化像が明らかになることは確実である。これまでの調査で、既に、イラクやシリア方面から運ばれたと推測される白釉陶器やラスター彩陶器、エジプトから渡ったと思われる多彩釉陶器などに加え、遺跡の近郊で生産されたと考えられる独特の幾何学彩文を下地に持つ陶器や火山岩に由来する石材を加工した石製のランプや容器等の在地の産物が出土しており、遠隔ネットワークと近隣の流通が交錯する網目文様が見え始めている。いずれにせよ、この遺跡から取り上げられる初期イスラーム時代の生活文化のアセンブリッジは、遺跡の下層に眠っているかもしれない古代、あるいは古代末期の物質文化と無関係ではない。またメソポタミアと交渉を重ねた東地中海世界やエジプトの文明、ギリシア・ローマ文明等が交錯し、先進性の高い文化を育んだアラビア半島の北西部の前身伝統とも深いつながりがある。今後ハウラー遺跡調査を通じて日の目を見るイスラーム遺物も、アラビア半島の反対側に位置するペルシア湾周辺の遺物や、イラク・イランの影響下にあった遺物とは大きく異なり、地中海世界と深く接触してきたエジプトやシリアとの交流を如実に反映したものになるであろう。

優しすぎるオルフェウス
長屋 晃一

先日、新国立劇場で上演されたグルックのオペラ《オルフェオとエウリディーチェ》を観にいった。演出はダンサーで振付師の勅使河原三郎、指揮は気鋭の音楽家・鈴木優人である。オルフェオ役のカウンターテナー、ローレンス・ザッゾは抑制された演技のうちにエウリディーチェを失った悲しみを歌い、またその内面をダンサー(特にハンブルク・バレエのプリンシパル、アレクサンドル・リアブコ!)がみごとに踊っていた。この舞台は、新国立劇場はじめてのバロック・オペラということで、ずいぶんと話題になったようである。
さて、バロック・オペラとはいいながら、この作品はバロック・オペラを終わらせた作品、といってよい。音楽史においては、作曲家グルックと台本作家カルツァビージによる「オペラ改革」の旗印となった作品として名高い。「オペラ改革」とは、当時のオペラ・セリアにつきものだった、歌手の技巧を偏重した慣習をあらため、物語のドラマに音楽が寄り添い、聴衆の感情にうったえるようにする、というものである。
物語はよく知られたオルフェウスの神話をもとにしながら、その実、大きく異なる。舞台は、エウリディーチェの葬送の場面で幕をあける。羊飼いやニンフたちが悲しみに沈んで歌う中、オルフェオの嘆きがひときわ響く。合唱を下がらせ、ひとり悲しみに暮れるオルフェオのもとに愛の神が現れて、冥界から地上まで振り返らなければエウリディーチェをよみがえらせようという。さて、冥界に赴いたオルフェオ、その歌で復讐の女神や死霊たちの心を動かしてさらに進むと、エウリディーチェのいる冥界の楽園エリュシオン。オルフェオはようやく再会したエウリディーチェを連れて行こうとするが、彼女は目を合わせてくれない夫に不審を覚え、次第にオルフェオをなじり出す。死んでいた方がましだったとまでいう妻に、ついにオルフェオは振り向いてしまう。2度目の死を迎えたエウリディーチェ、しかし、そこに愛の神が登場し、オルフェオの苦しみは愛の証拠に他ならないと、エウリディーチェをよみがえらせて、喜びのうちに幕が下りる。
羊飼いやニンフの踊り、あるいは冥界の死霊の踊り、精霊の踊りといったバレエが、舞台を彩り、舞台装置家ジョヴァンニ・マリア・クアーリオの描く美しい背景があったにしても、声のスペクタクルというべき装飾性はほぼ皆無である。何よりもエウリディーチェの闇が深い。せっかく冥界まで降りてきた夫に、目を合わせてくれないからと言って、非難を浴びせ、このオペラ随一の切迫感に満ちたアリア〈なんと辛いひと時〉を歌う。
1762年10月5日、ウィーンのブルク劇場で迎えた初演の反応はどうだったのか。『ヴィーネリッシェス・ディアリウム』という当時の新聞に、この初演の批評が載っている。少し長いが引用したい。

「構想は新しく、関連づけは自然である。ここでは、優しさとすばらしさが一貫して支配している。優しい情熱に相応しい言葉は簡潔で短く表現され、よけいな飾りは見られない。(略)このうえなく優しい夫のこともこの状況では疑わしく思われてならない。エウリディーチェは泣き、死の方がまだ我慢できるように思えると非難の言葉をあびせる。悲しみが彼女の心を支配するようになり、彼女は倒れる。(略)作者はただ優しい夫を描き出し、われわれ観客を愛と優しさが原因となった罪の証人としたのである。(略)」(1762年10月13日)

ずいぶんと好意的な批評である。あのエウリディーチェの性格にも理解を示している。だが、それ以上に面白いのは、オルフェオに対して「優しいzärtlich/Zärtlichkeit」をくどいほど連呼していることである。ここまで「優しさ」を押し出したオペラの批評にはお目にかかったことがない。
この作品以前のオペラ・セリアでは、「寛大な英雄」や「運命を甘受する(あるいは抗う)英雄」はあっても、試練に負けてしまう「優しい英雄」という人物像はまったくといっていいほど見られない。性格造形でも《オルフェオとエウリディーチェ》は新しかった。
この優しく弱い男性役は、やがてモーツァルトの《魔笛》のタミーノに(大蛇に襲われて気絶するのに娘の救出役に選ばれる)、また19世紀のイタリア・オペラのテノール役に受け継がれていくとみてよい。おそらくこの流れは、18世紀のお涙頂戴劇から19世紀のメロドラマへの潮流と重なっている。観客が感情移入し、涙を流すための舞台にはうってつけの役柄である。そしてメロドラマは20世紀に映画やテレビ・ドラマに流入し、いま私たちの身の回りには涙を流せる優しいドラマがあふれかえっている。
昨今の何に対しても「優しさ」が求められる傾向には辟易するが、グルックが描き出したオルフェオの「優しさ」には、むしろ現代の日本は上演場所としてふさわしいのかもしれない。古典的傑作の鑑賞という閉じた世界でなく、今、ここ、の世界として、《オルフェオとエウリディーチェ》が上演されるとき、あらためてこの音楽が生きていることを実感せずにはいられない。

コンヴェルサーノの絵画を訪ねて
川合 真木子

2014年2月のある日、筆者はプーリア州のバーリ近郊を走るバスの中にいた。突如として出現する村落にアナウンスもなく停車する他は、一面の荒野と、崩れた塀で囲まれたオリーブ畑が続く。

アドリア海に面したプーリアは、決して交通の便のよいところではない。あえて調査に向かったのは、コンヴェルサーノという小都市に、ぜひ見ておきたい絵画があったからである。目指す街までは、留学先のローマから国鉄で4~6時間かけてバーリへ行き、そこからローカル線に乗り換え、さらに1時間程度の行程のはずであった。しかし、その日は日曜日で、ローカル鉄道スッド・エスト線は運行しないという。バーリ駅前の唯一開いているバールで、代替バスのチケットを買うことができたのは幸運だった。

半日かけて到着したコンヴェルサーノの旧市街は、小さな丘の上にある城と大聖堂を中心に、こぢんまりとまとまっていた。大聖堂の傍らのホテルに投宿し、その日のうちに城の中にある美術館で、お目当ての《解放されたエルサレム》との対面がかなった。トルクァート・タッソの同名の叙事詩に取材し、パオロ・フィノーリアが手掛けた、10枚にわたる油彩の大型連作である。十字軍の騎士タンクレーディと、ムスリムの女戦士クロリンダの悲恋、魔女アルミーダと、彼女の虜となった騎士リナルドのエピソードなどが、合戦場面を交えてドラマティックに描き出される。フィノーリア特有の、執拗なまでに描きこまれた豊かなドラペリーが、画面に一層の迫力を与えている。1643年頃から描かれた本連作は、『解放されたエルサレム』を扱った多くの絵画の中でも最大級の規模を誇る。第二次大戦下に一旦売却されるも、戦後に取り戻されたこの街の宝ともいえる作品群である。

パオロ・フィノーリア(c.1590-1645)は、17世紀にナポリからプーリア一帯で活躍した画家である。姓についてはフィノーリオとされることも多いが、ここでは後述のデ・ドミニチの表記に従う。一般的に知名度が高いとはいえないが、現在でもナポリのサン・マルティーノ修道院をはじめとする多数の聖堂に、彼の作品が残っている。ナポリで流行したカラヴァッジョ風の明暗表現を巧みに用いながら、硬質で重みのある人物描写には、他の画家の追随を許さない独特の熱量が感じられる。

『ナポリ芸術家伝』(1742-1744)を書いたベルナルド・デ・ドミニチは、フィノーリアを、17世紀ナポリ画壇を牽引したマッシモ・スタンツィオーネの弟子として紹介する。特にサン・マルティーノ修道院での活動に触れ、1656年のペストで亡くなったと推測している。

実際には、フィノーリアはナポリで活動した後、1635年頃から、コンヴェルサーノの領主ジャンジローラモ・アクアヴィーヴァ・ダラゴーナ2世(1600-1665)の宮廷画家となり、同地で没した。ジャンジローラモ2世は、勇猛な武人として知られる一方、300点余りの絵画を所有するコレクターでもあった。この伯爵のコレクションについては、2018年にコンヴェルサーノで、Artemisia e i pittori del conte: la collezione di Giangirolamo II Aqcuaviva d’Aragonaと題した展覧会が開かれ、プーリアの美術を知る貴重な機会となった。

ジャンジローラモ2世とその妻イザベッラ・フィロマリーノ(1600-1679)が1636年に創建した、女子修道院に付属するサンティ・コスマ・エ・ダミアーノ聖堂もまた、往時の華やかな芸術の様相を今に伝えている。聖堂は双子の医師とされる聖人、コスマスとダミアヌスに捧げられている。現在も隣接する女子修道院の管理下にあるが、頼めば解錠し中を案内してくれる。

聖堂に入ると、大祭壇にはローマから送られたとされるアレッサンドロ・トゥルキの《聖コスマスと聖ダミアヌス》が置かれ、堂内全体がフィノーリアと工房によって装飾されているのを見ることができる。計8つある礼拝堂のうち、フィノーリアの手になる祭壇画は5箇所に残されている。パドヴァの聖アントニウス、聖教皇ウルバヌス、聖ロザリア、聖ドミニクス、そして聖ヤヌアリウスらに捧げられた各祭壇画は、フィノーリアらしい重厚な画風を伝える。聖コスマスと聖ダミアヌスの生涯を一面に描く身廊天井の華やかなフレスコや、壁の金箔張りのスタッコ装飾と、油彩の各祭壇画との対比は鮮やかで、小ぶりな聖堂ながら濃密な空間が演出されている。また、フィノーリアの祭壇画の中でも、ナポリの守護聖人である聖ヤヌアリウスが目隠しをされ、斬首される直前の場面を描いた作品は特に興味深い。処刑人が前景に立つ奇妙な構図もさることながら、伯爵夫人イザベッラがナポリ大司教の遠縁であることと併せて、ナポリの文化との関連がうかがわれるからだ。

フィノーリアがコンヴェルサーノに残した絵画群は、知る人ぞ知るこの画家の活動の記録であると同時に、17世紀南イタリアの芸術的交流の証人でもある。たどり着くまでの道中の不便はさておき、こうした作品との出会いは現地調査ならではの醍醐味であり、このプーリアの小都市への訪問を、未だに忘れがたいものにしている。

フランス・オペラとイタリア人
森 佳子

オペラ史では常に、イタリア人の存在は重要である。とりわけ隣国のフランスでは、イタリアの作曲家や歌手がオペラ文化に与えた影響は大きかったのではないか。ここでは、両国の関係からみた、フランス・オペラの歴史とその魅力の一端について紹介していきたい。

遡って17世紀初め、イタリアで誕生したオペラはヨーロッパ中に広まっていたが、唯一フランスでは受け入れられなかった。そしてリュリによって、フランス独自のオペラが創始された。当時のイタリア・オペラは、レチタティーヴォ・セッコと、華やかな装飾を伴うダ・カーポ・アリアの繰り返しで構成される。しかし、リュリのオペラはそれと全く異なり、「歌う演劇」といった形式を維持している。例えばレシタティフは、古典悲劇のデクラマシオンをもとに作られ、声や歌い方には情熱を伴う「自然さ」が求められた。また、レシタティフとアリア(エール)の区別は曖昧である。カストラート(去勢歌手)は「不自然」なものとして好まれず、主役にはオート・コントル(高音域のテノール歌手)が起用された。

しかし18世紀中頃になると、フランスでもイタリア・オペラ支持者が増えてくる。1752年にパリ・オペラ座で、ペルゴレージ《奥様女中》が上演されたことをきっかけに、フランス・オペラとイタリア・オペラのどちらが上か、という議論(ブフォン論争)が起こり、後者が優勢となったのだ。この時、イタリア語の美しい歌声に加え、喜劇特有の庶民的で親しみやすい物語が観客にとって新鮮に感じられ、後にイタリア・オペラ支持者を増やすきっかけとなった。イタリア派の中には、フランス人の歌声を「わめき声」と言って中傷する者すらいたという。

19世紀に入ると、ますますオペラ界でイタリア人は重用された。とりわけ重要な鍵を握る作曲家は、ロッシーニ(1792-1868)である。彼は1824年にパリに行き、テアトル・イタリアンの音楽演出監督となり、「第1の王の作曲家」および「歌唱の総監督」の称号を得る。テアトル・イタリアンとは、ナポレオン1世によってオペラ座と並ぶ「大劇場」に認定された、パリのイタリア・オペラ専門劇場であった。ここでは、フェスタ、カタラーニ、パスタ、マリブランなどのイタリア人歌手が活躍し、大きな影響を与えた。こうして、イタリアの歌唱法はフランスでも定着し、声そのものの美しさとレガートを重視した歌声に矯正されていく。

ロッシーニはフランス・オペラにも取り組み、自作のイタリア・オペラの翻案である《コリントの包囲》(1826)《モイーズ》(1827)《オリ伯爵》(1828)、そして新作《ギヨーム・テル》(1829)の初演に成功した。これらにおいては、フランス的な演劇性とイタリア的なメロディの融合が見られる。

このうち《ギヨーム・テル》(全4幕)は、特にフランスのテノール歌手に大きな影響を与えた作品だ。当作は、13世紀のハプスブルク家支配に抵抗するスイス人の物語である。音楽的な特徴としては、アリア(エール)が少なく、レシタティフ中心の場面が多いことが挙げられ、比較的「通」向けのオペラであると言える。しかしその中で、アルノール(テルの同胞)が、テルの救済を誓う場面で歌う「先祖伝来の住処よ」(第3幕)は、大変魅力的なアリアとして知られる。この時彼は、住み慣れたかつての我が家の前に立ち、敵に殺された父メルクタールを想い、恋人のマチルドを想い、ある決断をする。

この「先祖伝来の住処よ」は、テノール歌手にとって難易度が高いことで知られる。一番の難所は、「Je viens vous voir pour la dernière fois.僕は最後にここに来た」と歌う箇所であり、高音がC5(高いドの音で、ハイC、3点ドとも言う)にまで達する。1829年の初演ではアドルフ・ヌリがこの役を演じたが、一説によれば、このアリアは省略されるのが常だったという。一般に当時のテノールは、イタリアの歌唱法である「ベル・カント」の伝統を引き継いだ、ヘッドヴォイス(強い裏声)とファルセットのミックスが主流であったが、その歌い方では高音部に力強さが出なかったのだろう。

その後ヌリを引き継いだデュプレは、1837年の再演で、いわゆる「裏声」を使わずにC5まで胸声で歌い、パリの観客を驚かせた。デュプレの声は、口蓋を上げて喉部を下げることで得られるもので、それゆえにくぐもった響きになるという。しかし力強さにおいてはベル・カント系の声より優れており、ロマン派的な表現には相応しい。彼はこの方法を、イタリア滞在時代に、師匠のドンツェッリから習得したという。

しかしデュプレによる一連の再演では、有名な「りんごの場面」を含む多くの場面がカットされ、3幕に短縮された。そして、彼の歌うアリアがオペラのクライマックスとなった。こうした犠牲を払うことで、テノールの歌声の素晴らしさが、当時の観客の印象に残るようになり、《ギヨーム・テル》の人気はうなぎ登りとなった。この変更の是非を問うことはやめておくが、厚みのあるオーケストラ伴奏で歌われるこのアリアが、より男性らしく力強いテノール像を具現化していることは確かだ。

バカロレアは弁証法がお好き?
田窪 大介

コロナウイルスは、世界中に混乱をもたらした。それは経済だけではなく、(人との関わり方という意味も含めた)社会においてもそうではあるが、学問の分野も例外ではない。大学を含めた学校では、教師も学生も、オンラインでの授業を余儀なくされるところがあった。また、試験の扱い方にも、変化が生じた。2020年のフランスでは、毎年6月頃に始まるバカロレアの最終試験が廃止され、学年度の筆記試験の結果で合否を決めることが決まった。これによって、最終試験に全てを賭けていた学生たちは目の前が暗くなる思いであっただろうと、バカロレア経験者である筆者は心中を察する。

時が経ち、コロナウイルスへのいわば対応ができるようになった今年は、最終試験が実施されるようだ。ただし、口頭試験のプログラムが縮小されたり、一部の専門科目(美術の実践など)の試験日程が延期されたりなど、コロナ禍の影響は今でも少なくない。

しかし、それでもバカロレアは、授業内容や問題形式まで大きな変更をせず、従来の形式を維持した。コロナ禍が始まる前と比べるとやや盛り上がりに欠けるが、小論文形式である哲学の問題は、これまでと同様フランス国内で注目されている。昨年度出された問題の一部には、「議論することは暴力を放棄することになるか?」や「我々は未来について責任があるか?」といったものがあった。学生たちが、およそ4時間だけ哲学者になる時間である。

バカロレアの哲学の問題は、シンプルな言葉で書かれてはいるが、時としてその内容は難しい。しかし、そのような哲学の問題には、一応攻略法が存在する。すなわち、解答の構成を「イエスか、ノーか、その両方か」とすれば良い。もとい、フランスだから「ウイか、ノンか、その両方か」というべきか。

フランスの高校では、イエスかノーかその両方か、という論の展開方法を「弁証法的構成」として教えられる。論理的に(つまり普通に)考えて、まずは「その通り」とし、その後で「しかし」を導入し、そして「つまるところ」でまとめる。このような「正・反・合」は、ヘーゲル的な弁証法の形式になっている。ある意味、「哲学は哲学を持って制す」ということになるだろうか。
ただし、この「正・反・合」は、必ずしも「イエス」から始める必要はない。例えば筆者が受験した際に出された問題は、「人は死から勝利を得ることができるか?」というものだった。人間も含めた地球上のあらゆる生物にとって死は不可避である。ここでの解答は、論理的に(普通に)考えてイエスではなくノーから始めなければならない。すなわち、「(正)死から免れることは不可能、(反)しかし可能な限り死を遠ざける努力をすることは可能であり、意義がある、(合)死者がかつて存在したという記憶は他者の中に残るのであり、この意味において人は時間的制限を越え、死を克服することができる」と言った具合にすれば、一応の弁証法的な論の展開に持っていくことができるであろう。

このような弁証法的構成は、実は哲学に限ったものではない。これは、バカロレアの文系コースにおいて、他の科目でも応用することができる(というか、応用しなければならない)。
過去のバカロレアの文学の試験に、「1830年4月、バルザックはヴィクトル・ユゴーの『エルナニ』について、真新しいものは何もない、と評した。これについてあなたはどう思うか?」と言うものがあった。これは解答者の個人の視点での答えが求められるため、論理的展開を正しく行うことができれば、イエスと解答しても良いし、ノーと解答しても良い。ただし、一方(イエス)を答えたら、他方(ノー)も書かなければならない。その上で答えをまとめるので、ここでも正・反・合という弁証法が成り立つ。高校2年で行われるバカロレア先行試験の国語(文学とは呼ばれない)でも、「ボードレールの『悪の華』はすべてを描き、すべてを裸にすると非難された。これについてあなたはどう思うか?」という問題が出されており、これも同じような弁証法的構成を持って解答することが可能と思われる。

筆者が実際に受けた歴史の問題でも、「発足以来、国連は平和の維持という任務を成し遂げることができているか?」というものがあった。これも正・反・合で答えることが可能であり、時事の事柄(ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争とデイトン合意)を含めて答えを書いた記憶がある。ただしここ数年、歴史の小論文の構成は時系列型や分析型、比較型などが求められる傾向にあり、弁証法的構成が扱われるのは少なくなっているようだ。

バカロレアの文系コースにおいて、弁証法的構成は合格への鍵になりうる。筆者がこのようなことを理解したのは、かなり時が経ったつい最近のことなのかもしれない。否、今もその本質を理解していないのかもしれない。

地中海の《癒し》《癒し》12:ポール・シニャック《調和の時代》/坂上 桂子

「湾の黄金色に輝く海岸の前には、小さな砂浜の間から、青い海が広がっています……私はここで、幸福を見つけました」。
 2022年5月、サン・トロペのアノンシアード美術館では新印象派の画家ポール・シニャックが、同地にヨットに乗って到着してからちょうど130年になるのを記念して、「シニャックとサン・トロペ」展が開催された(~10月まで)。

サン・トロペは、南仏の地中海沿岸の都市マルセイユとニースの中間あたりに位置する港町である。1920年代にはコクトーやシャネルが訪れ、1950年代には映画の舞台となったり、ブリジット・バルドーが別荘をもつなどして、今日では高級リゾート地としてその名が知られる。しかし19世紀末までは、アクセスの不便さもあって、小さな漁村にすぎなかった。

そんなサン・トロペが20世紀に有名なリゾート地として多くの人を呼ぶようになるひとつのきっかけとなったのが、シニャックによるこの地の“発見”である。彼はここにクロスやリュス、マティスらを呼び、しだいにフォーヴィスム運動を担うことになる画家たちが集まるようになる。

点描法を創始したジョルジュ・スーラの忠実な“弟子”だったシニャックが、サン・トロペに向かったのはスーラの死がきっかけだった。1891年、スーラが31才の若さで亡くなると、翌1892年3月、シニャックはヨット「オランピア」号に乗って旅立つ。船は大西洋からミディ運河を快走し、5月、サン・トロペに行き着いた。

冒頭で引用したように、シニャックは母に宛てた手紙でサン・トロペのすばらしさを語っており、以来シニャックは1896年までの間、1年の半分をこの地で暮らすようになる。それまで描いていたパリ郊外の寂寞とした風景は一変し、強い陽光に照らし出された、自然豊かな景色が描かれるようになった。

ここにとりあげた《調和の時代》はその代表作の1点で、構図はスーラの《グランド・ジャット島の日曜日の午後》にも似ているが、舞台は地中海の風景へと置き換わっている。本を読む人、絵を描く人、手を取り合う恋人たち、スポーツに興じる人々、輪になってダンスをする人々などが描かれ、画面手間にはアイリスの花、奥には大きな笠松、さらにヨットが走る輝く海がみえている。

美しい背景のなか、人々が豊かな暮らしをする様子には、シニャックがサン・トロペで見つけた「幸福」が反映されており、そこは人々に「癒し」をもたらす、まさに楽園といえるだろう。シニャックは南仏の地で、古代のアルカディアをもイメージしたものと思われるが、ただし、彼が表そうとしているのは、過去の世界ではない。本作の副題には「黄金時代は過去にではなく、未来にある」とあり、アナーキストでもあったシニャックが、過去でも現在でもなく、将来の理想的暮らしを描こうとしたと思われる。地中海の癒しは画家に幸福をもたらし、未来の理想郷までをも想像させたのだった。

[図版出典]
ポール・シニャック《調和の時代》、1894-95年、油彩・画布、300×400cm、モントルイユ市庁舎、https://www.wikiart.org/en/paul-signac/paul-signac-1893-95-au-temps-d-harmonie-oil-on-canvas-310-x-410-cm(最終アクセス 2022年10月16日)