地中海学会月報 MONTHLY BULLETIN

学会からのお知らせ

*第47回地中海学会大会について
既に、6月の常任委員会の議を経、第46回地中海学会大会の懇親会においてアナウンスされたところですが、第47回地中海学会大会は、山形県鶴岡市羽黒町のいでは文化記念館を会場とし開催されることとなりました。日程については現段階では未定であり、場合により、総会とは切り離す形で7月上旬の開催もありえますが、詳細が固まり次第、月報およびホームページ等を通じて、詳細を改めてご連絡いたします。

出羽三山とは、羽黒山、月山、湯殿山を指し、東北随一の修験の行場として知られており、能や歌舞伎等の古典芸能に登場する山伏の多くは、羽黒の山伏とされています。今回は、三山を司る出羽三山神社の権宮司であり、山中修行を統括する峰中導司でもある阿部良一氏の全面的な支援を得ての開催となります。今のところ、原則対面での開催を考えておりますが、オンライン併用の可能性も検討してゆきたいと思います。

やや問題があるとすれば、交通の便ということでしょうか。かつての熊野での大会も、会場の新宮市まで、名古屋から3時間半、新大阪から4時間余りかかりましたが、今回の羽黒町には、東京からの場合、空路では羽田から庄内空港に飛び、そこからバスで鶴岡市に30分弱で到着し、会場の羽黒町まではさらにバスで20分ほどかかります。鉄道ですと、東京から新潟まで新幹線で2時間、新潟から鶴岡まで在来線特急で2時間、計約4時間の旅となります。東京以外にお住まいの会員の方々には、さらに時間がかかる旅となってしまうとは思いますが、熊野同様、我が国有数の聖地霊場の1つである羽黒において、非日常的な数日間を過ごし、リフレッシュ(ないし擬死再生)していただければと思います。なお、三山を巡るエクスカーション催行の可能性も模索しております。
 
舎につきましては、出羽三山神社周辺には数々の宿坊や羽黒山の斎館、休暇村出羽羽黒等があり、数人1部屋で宿泊の場合は便利です。シングルの場合は、鶴岡駅周辺に相当数のビジネスホテルが存在します。詳細については、改めてご案内する予定です。

熊野での大会同様、地元の研究者を交えつつ、さまざまに地中海文化との比較が行えればと念じています。

地中海学会大会 記念講演要旨
イタリアでの発掘50年
青柳 正規

ローマ大学での留学1年目が終わろうとしていた1970年の6月ごろ、私が師事したジョヴァンニ・ベカッティ教授の助手からローマ石棺についての研究報告を秋のゼミで発表する指示をもらった。写真や図版だけではどうしても納得がいかない部分があったので、発表を約10日後にひかえたころ、ルーブル美術館に行って対象作品を実際に調査することにした。ローマを朝の5時にたち、最高時速110キロしかでない中古車でパリに着いたのは、同じ日の真夜中直前だった。翌日、カメラや巻き尺などをもってルーブル美術館にいったところ、ド・ゴール元大統領の逝去により閉館中との看板がでていた。急遽フェリーでイギリスに渡り大英博物館で同種の作品を調査することにした。その結果を使ってゼミで発表したところ、ルーブルの石棺は誰もが対象とするが、大英博物館の石棺はなかなか思いつかないということで、ベカッティ教授からはじめて好意的な言葉をもらった。偶然のこととはいえ、足で稼ぐ調査がいかに重要かを知らせてくれた出来事でもあった。

帰国がせまったころ、ベカッティ教授は帰国後のことをあれこれと心配してくださった。そのなかで今でもよく覚えているのは、古典考古学の専門図書館がない日本で研究を続けるには二つのことに留意すべきではないか。一つは、狭い範囲でもよいから自分が専門とする分野の新しい研究業績に関する書評を欧米の学術雑誌に掲載すること、そうすることで、ある程度学界の動向に遅れることなく自分の研究を継続することができるのではないか、というものである。もう一点は、難しいことかもしれないが、小さな規模でよいから実地調査を根気よく続け、現場で得た第一次資料を欧米で発表すれば、さまざまな関連情報を逆に得ることができ、日本にいても欧米の第一線の研究サークルに参画し続けることが可能であろう、ということだった。

最初の現地調査は、ポンペイ遺跡にある「エウローパの舟の家」という住宅の部分発掘とポンペイ壁画の実測である。その折、ベカッティ先生の学友だったデ・フランチシス教授がナポリ考古学監督局総監のポストにあって何かと便宜を払って下さり、ポンペイ遺跡監督官のチェルッリ・イレッリ博士とはそのときから今日まで同じ分野を専門とする研究者として共著の本や論文をともに発表してきた。

ポンペイの次に手がけたのは、シチリア南海岸にあるアグリジェント郊外のローマ時代の海浜別荘の発掘である。1980年から86年までの7年間、夏を中心とする約3ヶ月半を毎年シチリアで過ごすことになった。

シチリアを終えたあと手がけたのはタルクィニアのやはり海浜別荘である。ローマの北西約100キロにあるこの遺跡は、ティレニア海に面している総面積3,500平方メートルほどの大規模な遺構である。1992年から発掘調査を開始し、2005年に一応の終止符をつけた。われわれの調査に関する講演の機会を得た。古代別荘の研究では珍しい3世紀中頃の別荘所有者をある程度特定することができ、そのことによって、当時中央政府は衰退の著しいエトルリア地方を再興させるため、高官を派遣していたことを明らかにすることができた。

2001年の冬にイタリア文化財環境財省から正式の発掘許可がおりた。その時点で資金の目途がたっていたわけではなかったが、この発掘を通じて学際的な研究を発展させようと意気込む研究者が数多く参加しくれる見込みがたった。そこで、東京大学や東京工業大の火山学、地理学、植物学、環境学、地球化学、情報学、歴史学、表象文化論などの研究者を中心に研究チームを構成し、「火山噴火罹災地の文化・自然環境復元」というテーマで学際的研究を展開し、そのなかに「アウグストゥスの別荘」発掘調査も位置づけることとした。

2年目の発掘は、この遺跡がいかに重要であるかを証明する画期的なシーズンとなった。ペプロスというギリシア式の衣装をまとう女性像が出土したからである。また、その年と発掘3年目の2年間にわたって出土した酒の神ディオニュソスの大理石像は、若者らしいしなやかな筋肉と左腕に抱えたヒョウを愛犬のようにいつくしむやさしさを兼ねそなえた青年裸体像で、ギリシア彫刻をみるような清冽さをもった彫刻である。
発掘開始から21年目を迎えた今年の夏、発掘範囲は約2,500平方メートルに広がり、ようやくポンペイを埋没させた79年の噴火の際のか最終と同定できる地層を発見することができた。21年かけて調査発掘を行い、79年の噴火時点では別荘建築は存在していなかったという結論で終わらなければならないと腹をくくりつつあったときの発見である。発掘調査はしばしば終了間際に大きな発見がある。われわれの調査も同様の僥倖に恵まれることを祈るばかりである。

研究会要旨
三十年戦争における教皇庁の対スペイン政策
―ウルビーノ公領併合初期(1623-1625)を中心に― 喜友名 朝輝 8月6日/オンライン会議システム(Zoom)

教皇ウルバヌス8世(1623-1644)の時代、教皇庁はヨーロッパ各地の諸戦争への対応に追われていた。のちに三十年戦争と呼ばれるこの一連の戦争は、最終的に宗派分裂をもたらしただけでなく、ヨーロッパの政治・軍事情勢を一変させた。スペイン・ハプスブルク家の絶頂の時代は衰退の時代に転じ、フランス王権の影響力が増大した。

教皇庁の動きも、この情勢転換の一要因であった。三十年戦争期のローマ・マドリード関係は極度に悪化しており、当時の教皇や教皇大使は、ハプスブルク勢力よりもフランス王に有利になるよう秘密裏に活動していたといわれる。通常、この時期のローマ・マドリード関係史の研究は、三十年戦争をめぐる交渉と、その決裂に焦点を当ててきた。

しかし外からの視点、例えばフランスの宰相リシュリューの書簡や、ローマ宮廷に滞在したヴェネツィア大使の報告書を参照すると、教皇が当時の教会国家の領土問題にもかなり注意を払っていたことは明白である。実際に近年刊行された政治書簡や、デジタル・アーカイブの手稿文書を調査すると、領土問題がローマ・マドリード関係に悪影響を与えていたことが明らかとなる。

1623年6月末、ウルビーノ公国ではフランチェスコ・マリア2世の息子が死去し、公国後継者が途絶えた。ウルビーノ公国は教会の封土であったため、教皇庁は公国の教会国家への直轄領化に動き出した。一方メディチ家も封土の一部を要求したため対立が生まれ、教会国家とトスカーナ大公国の間の国境に軍を配備する事態にまで陥った。このような状況で教皇庁はスペイン王権を、メディチ家と協力しうる潜在的な脅威とみなしていた。ただしスペイン王権が望んでいたのはイタリアの政治・軍事的安定であり、王権は問題の早期解決のみを要求した。そのため王権は、教会国家への全領土直轄化をかなり早い段階から容認しており、ローマ駐在スペイン大使が、教会国家へのウルビーノ直轄化を容易にする根回しをしていたほどであった。交渉の末、1624年4月にメディチ家が譲歩することで、教会国家への全領土直轄化が確定した。1625年には教皇庁がウルビーノ統治官を派遣し、ウルビーノ公の存命の間はその統治官が委任統治を行うこととなった。

しかしながら、1625年4月から10月にかけて、ウルビーノ問題はローマ・マドリード関係を悪化させる一要因となる。スペイン王権は同時期に北イタリアで起こっていたヴァルテッリーナ戦争に対処するため、まだ存命中のウルビーノ公に援軍の派遣を要請した。しかし、ウルビーノ公国では臣民に志願する意思がなく募兵は難航した。スペイン王権やウルビーノ公は臣民を強制的に兵役につかせるため、ウルビーノ統治官の協力を得ようとした。統治官の協力の可否は、ローマとスペイン勢力側(直接的にはスペイン大使とウルビーノ公)との争点となった。

教皇庁は、スペイン王とフランス王の間の「中立」を維持するために、ウルビーノでの募兵に教皇の臣下であるウルビーノ統治官が協力することを禁じた。さらに、ウルビーノの軍事施設に詰めている兵士の募兵も教皇庁は禁じた。これらの方針により募兵の困難は増幅する結果となり、教皇庁へのスペイン勢力の不信感が生まれ、両者の関係は悪化した。事実、この件に関するローマ駐在スペイン大使やウルビーノ公の不満は消えないだろう、とウルビーノ統治官は書簡の中で吐露している。

一方で教皇庁は、スペイン王のための募兵と称して公国内に反乱分子が潜伏し、円滑な領土直轄化を妨げる恐れがあると考えた。結果としては杞憂に終わったが、教皇庁が、スペインに対して少なからず警戒心を抱いていたことが分かる。

このようにウルビーノの問題は、ローマ・マドリード関係に確実に悪影響を与えていた。関係悪化の原因は、教皇庁の対スペイン政策であった。ウルビーノの地において教皇庁の「中立」政策は、スペイン勢力に不信感を与えていたのである。ただ、教皇庁の側でもウルビーノ公国の直轄化を転覆されないかと、警戒心が生じていた。従来の研究においてウルビーノ問題は等閑視されてきたが、実際にはローマ・マドリード間の関係悪化を招く一因となっていたのである。

ウルバヌス8世の時代におけるローマ・マドリード関係史に新たな視点を加えることは、ヨーロッパ政治に留まらずグローバルな布教政策の理解にもつながっていく。ローマ宮廷は、様々な次元の利害が交錯する場であった。例えば1625年には日本宣教の管轄権をめぐる問題が、スペイン王権、教皇庁、各修道会の間で展開していた。ローマ宮廷中枢でのスペイン側との交渉を、政治史や宣教史の枠を超えて横断的に探究することは、ローカルからグローバルまでの多様な利害の相互作用を把握する助けとなるかもしれない。

エジプト、サッカラ遺跡で発見されたグレコ・ローマン時代のカタコンベ
河合 望

エジプトでは前3000年頃の王朝開闢時にメンフィスに首都が置かれたとされている。これは前3世紀の神官マネトが著した『アイギュプティカ』に初代の王メネスが首都メンフィスを建設したというくだりが元となっている。メネス王は考古学的には確認されていないが、メンフィスの主要な墓地であるサッカラ遺跡から第1王朝のアハ王以降の高官の大型墓が発見されていることから、初期王朝時代からメンフィスはエジプトの行政の中心地であったと考えられている。サッカラ遺跡は、初期王朝時代以降主要な墓地として発展し、最古の階段状ピラミッドも造営された。そして、コプト時代までの約3,500年間にわたってメンフィスの主要な墓地であった。筆者の専門とする古代エジプトの最盛期である前2千年紀の新王国時代第18王朝にメンフィスが再び首都となったためサッカラには多くの墓が造営されたとみられるが、当時の宗教の中心地であった上エジプトのテーベに比べ調査研究が遅れており、ようやく20世紀末になって新王国時代第18王朝におけるメンフィスとその墓地サッカラ遺跡における様相が明らかとなってきた。このような状況から、未だ研究が不十分なサッカラ遺跡における新王国時代の墓地の調査を目的として、筆者らは2015年にサッカラ遺跡の踏査を開始し、2016年にテティ王のピラミッドの北西部に約10ヘクタールの新王国時代の墓地の存在を明らかにした。そして、2017年には北サッカラ台地の東側斜面にも新王国時代の墓が位置している可能性が高いことがわかり、2018年に有望な地点の1つで試掘調査を行ったところ、末期王朝時代からプトレマイオス朝時代に年代づけられる遺物が上層から出土し、下層から目的とする第18王朝に年代づけられる遺物が出土した。

この結果を踏まえて、2019年3月の調査では調査区を北に20メートル広げた。すると石灰岩のブロックを積んだ壁体が砂の中から現れ、我々は期待で胸を膨らませた。さらに砂を除去してレベルを下げていくと2体の遺体の埋葬が検出され、同じ層にはプトレマイオス朝時代末からローマ支配時代頭に特徴的な土器が集中して出土した。これらの土器はいずれも前1世紀から後1世紀頃に年代づけられるものであった。大量の土器片を取り上げてさらに掘り進めると、ちょうど石灰岩ブロックの壁体の位置から約5メートル下の岩盤の露頭の前に日干しレンガ製のヴォールト天井の一部が検出され、これが岩窟墓への入口の天井であると推定された。前1世紀から後1世紀頃の土器群が出土した層より低い位置から岩窟墓への入口部の一部が発見されたため、期待はさらに高まり、8月に現場を再開した。3月の調査で発見されたヴォールト天井のある日干しレンガの遺構の全体像を掴むべく発掘調査を続けたが、次から次へと複数の埋葬が検出され、それらの記録に時間を要した。ようやく日干しレンガの遺構の大部が姿を現すと、長さ約9メートルの階段があり、その上をヴォールト天井が覆っていることがわかった。周辺から出土する遺物はもっぱら前1世紀から後1世紀頃の土器片やテラコッタ製像ばかりで、新王国時代の遺物は見当たらない。嫌な予感がしたが、考古学者は遺跡を選ぶことはできないのである。ヴォールト天井の日干しレンガ遺構の内部に堆積した砂を除去すると、最奥部に良質の石灰岩製の軒蛇腹があり、その上の岩盤の露頭を穿った場所に石灰岩製のステラ(石碑)が置かれていた。神々の図像が微かに見えたが、下に刻された文字はヒエログリフではなさそうであった。間近で見るとそこに書かれていたのがギリシア文字でフィルアモンの息子メネラオスという人物のために捧げられたものであることがわかった。そして、ステラの前にはイシス・アフロディーテ女神のテラコッタ像の破片やローマンランプなどが置かれていた。その時、グレコ・ローマン時代の途轍もない遺構を発見したことを実感した。

入口の前を掘ると、左右対称に石灰岩製のライオンの横臥像が墓を守護するように配されていた。入口部は床から天井まで日干しレンガが積まれており、未盗掘ではないかとの期待が高まったが、内部に入ると墓の外からの堆積の上に人骨が無造作に置かれており、繰り返し使用されていたとことが推定された。岩窟墓内部の規模は、幅2.5メートル、奥行き15メートルで、北壁に2つの側室が穿たれていた。通廊や側室の中にはミイラが納められた木棺などが置かれており、南壁には彫刻とギリシア文字が書かれたステラや図像の描かれた木版が複数壁に嵌め込まれていた。私たちが発見したのはグレコ・ローマン時代のカタコンベであった。これはサッカラ遺跡で初めての発見であった。本格的な調査はこれからであったが、コロナ禍で2年間調査が中断されている。なるべく早く発掘調査を再開し、専門家のご協力を仰ぎながら地中海世界の文化が融合したグレコ・ローマン時代のエジプトの埋葬習慣や来世観を明らかにしていきたい。

ジョージアの「土産話」
武田 一文

ツアー客とおぼしき一行が成田の税関をするすると通り過ぎていく。それに続こうとする私に「ちょっとよろしいですか」と声が掛かる。中年男の一人旅は目を引くものである。研究でトルコに、と言う私が手に提げた包みの中身を問われ、陶器と答えると税関職員の目がきらりと光り、古いものですかと。笑いながら現代のお土産物ですと返し、怪しげな骨董商にでも見えたのだろうかと考える。美術史という学問をやっているから、というわけでもないがモノには相応の執着があり、海外へ出た際には「それっぽい」ものを求めることがしばしばである。トルコではアヴァノスの陶器やキリム、ギリシアではイコン、キプロスではレース、等々。もちろん税関職員を煩わせる金額でも骨董品の類でもないが、フィールドの記憶と共にあるこれらの品は財宝のように後生大事に持ち帰ったものである。

見目には地味なコレクションの中で異彩を放つ煌びやかな品が一つある。高さ5㎝ほどのエマイユ・クロワゾネ(有線七宝)のプレートである。枠全体に金鍍金が施され、縁には淡水真珠の飾りが付く。中央に描かれるのは聖ゲオルギオスの半身像である。ゲオルギオスを守護聖人とするジョージア(グルジア)で求めたものだ。

4~5世紀にキリスト教を受け入れたジョージアでは、ビザンティンの影響を強く受けつつも独自の教会建築と美術を生み出した。2017年、筆者はジョージアの聖堂を実見する機会を得た。バルカン半島のビザンティン聖堂は多少見慣れてきた筆者にとっても、ジョージアの聖堂は刺激に富むものであった。モザイク壁画を有するゲラティ修道院、荒涼たる山肌に削り込まれたダヴィド・ガレジャ修道院遺構、山深いスヴァネティにひっそりと建つ小聖堂たち……。

当地で驚いたのは教会壁画もさることながら、イコン、エマイユ・クロワゾネ、そして金属打ち出しの装飾品の見事さである。エマイユ・クロワゾネはビザンティン工芸の白眉であるが、漠然とコンスタンティノポリス由来であると思い込んでいた自らにとってジョージアがエマイユの大生産地であったことを知り、不勉強を恥じる思いであった。これらは首都トビリシの博物館に見事なコレクションがある一方、近年建設されたスヴァネティ地方メスティアのスヴァネティ博物館にもイコンと金属打ち出しが数多く展示されている。

スヴァネティはジョージア北西部に位置し、コーカサス山脈を望む山岳地帯である。ジョージア国内でもアクセスが良くなく、コーカサスの雪解け水が濁流となって流れる河を下方に眺めながら急峻な崖沿いの道路をひたすら走ることになる。中世においては当然周辺と隔絶した状況であり、物見の塔が林立する風景と共に独自の文化を育んだことが知られている。

上述スヴァネティ博物館にはこの土地柄によって守られたイコンが並ぶ。しかしその作風はなかなか強烈である。もとよりビザンティン美術は、かつて山下りんが「おばけ絵」と呼んだように近現代の眼に馴染みやすいものではないが、当地の12~14世紀に描かれたいわゆるスヴァン派の作例は、太い描線、極めて大きな頭部と瞳、大きく張り出した顎、といったプリミティヴの一言で片づけられない個性的な顔貌表現を持つ。一方多くの金属打ち出しは、当地の美術制作が素朴な田舎仕事でなかったことを雄弁に物語る。中世ジョージア美術を知るには、トビリシだけでなくスヴァネティも欠かせぬ地であると言える。

中世ジョージアの作例に魅了された私にとって何か「それっぽい」品を土産にしたいという欲求が出たのは当然のことであった。現代ジョージアにおいてエマイユ・クロワゾネが土産物になっているということは聞き及んでいたが、実際見かけるのは小さなアクセサリー、それもモダンなデザインが少なくないといった具合で食指が動かない。そんな中通りすがったトビリシのあるショーウインドウに、まさに中世風のエマイユが並んでいたのは幸運な出会いであった。見ると金線を多用した本格的なクロワゾネで、その分価格もそれなりである。ややたじろいだ筆者の視界に、ほぼ最小サイズのゲオルギオス像が入ったのも幸運であったろう。ジョージアのゲオルギオス、しかもエマイユ。文句のない選択である。幸い店頭にはクレジットカードのエンブレムも……と考えていたが店員はカードは使えないと言う。ジョージア・ラリの現金はさほど持ち合わせておらず、あとは何かあった際、のユーロだけ。再び逡巡したあげく、今が「何か」だと思い両替屋に走った末の入手であった。

研究室の扉近くの書棚に鎮座するゲオルギオス像は、良く見るとコストの関係か一部銀線が使われ、ガラスは均質で濁りが少なく、また地の部分には反射を良くするため金属箔が使われるなど、中世のものとは当然異なる部分もあるが、ジョージア工芸の遺風を良く伝えてくれる。ややとぼけた表情の聖ゲオルギオスは、聖堂入口近くに居並ぶ軍人聖人像よろしく研究室を守護してくれているのである。

自著を語る106
小林功・馬場多聞編著『地中海世界の中世史』
ミネルヴァ書房 2021年3月 228頁 2,750円(税込) 高田 良太

このたび「自著を語る」にて月報に拙文を掲載していただくことになった。出版企画を主導された小林功、馬場多聞の両先生は本学会の会員ではないが、本書のタイトルがまさに「地中海」を冠していること、また本学会の会員として、筆者以外にも阿部俊大、澤井一彰の両先生が寄稿されておられることから、かねてより本書について月報の場を借りて紹介する企画が編集部内で温められ、最終的には、担当委員である筆者が執筆の責を負うことになった。

本企画についての最初の連絡を私がいただいたのは、2019年4月5日のことである。小林功先生からメールにて、「大学でテキストとなるような中世地中海史の概説書」への寄稿を求められ、二つ返事でお引き受けすることにした。その後、小林功先生の同僚である馬場多聞先生から改めてメールがあり、以下のような章立てが示された。

 第1章 中世前期の東地中海 小林功先生
 第2章 中世前期の中西部地中海 小林功先生
 第3章 中世後期の東地中海 筆者
 第4章 中世後期の中西部地中海 阿部俊大先生
 第5章 オスマン帝国と地中海 澤井一彰先生
 第6章 地中海と紅海 馬場多聞先生

この構成と執筆者を一見するだけで、本書の特徴が浮かび上がる。ひとつには「中世」と「地中海」の意味をそれぞれ広くとっていること、またもう一つには、「他者の存在」がキーワードとなっていることである。

まず、舞台設定について。本書では、「中世」を定義するというより、中世を中心としてみえてくるある歴史的世界が描き出されている。主たる記述はローマ帝国の帝政期から説き起こされ、17世紀後半のクレタ島の陥落によってその幕を閉じる。筆者の執筆した聖テトス教会の話や、澤井氏の執筆したスエズ運河の話のように近代にまで話題は及ぶ。

同様のことは「地中海」という舞台の設定についても指摘できる。本書においては、しばしば海の外側の世界との接続の話が俎上に乗せられる。阿部氏と澤井氏の取り上げる話題のなかには、地中海と大西洋の歴史の相関性があり、馬場氏は地中海から紅海へ、さらにはインド洋の交易圏への接続へと構想を広げる。筆者もイタリア商人の黒海への進出について言及している。こうして、「地中海」が閉じたフレスコなどではなく、しばしばその外界を含めた開かれた世界であることが、本書を通じて示されるのである。

続いて、もう一つの特色である「他者の存在」についても述べておきたい。本書の執筆陣をみると、キリスト教とイスラームの分断によって理解されることの多い中世の地中海の両方の側から執筆者が出ている。さらに、小林氏がビザンツとイスラームの対峙を扱い、阿部氏がレコンキスタを扱い、澤井氏がオスマン帝国とイタリア諸国との関係を扱うように、ほとんどの章においては宗教的にみた時の「他者」を前提とした説明がなされる。また「対立」のみにも、各章は焦点をおかない。筆者の担当章においても、キリスト教内でもローマ・カトリックとギリシア正教会のそれぞれの影響圏との相互関係を取り上げさせていただいた。「対立」のみでもまた「共生」のみでも切り取りきれない、複雑なあわいのリアリティが本書において提示されたのではと思っている。

本書の企画をいただいた時に筆者の頭に浮かんだのは、担当する章で中世のクレタ島の概説を書くことであった。勤務先で自分の研究について講義する時、学生にとっての参考文献になればという思いからである。ミクロな視点が本書の魅力となっていると褒めて下さる方もおられたが、黒海海域やモンゴル帝国との接続など、筆者の担当範囲で盛り込めなかった話題は多く、心中は微妙である。他方、執筆作業を進めるなかで筆者の記述の中核のひとつとなった「アナスタッスの遺言書」についての史料の日本語訳や紹介を、筆者の勤務先の紀要に載せることもできたことで、本書の内容を補完できたとも思う。

こうして完成した本書は、かのブローデルの思考した「地中海」といかに異なっているのか、読者の皆さまの批判に委ねることとしたい。個人的には、馬場氏に依頼されて筆者の学生時代のアルバムから、ブローデルとも縁の深いドブロブニクの写真を探して提供できたことが、本書における筆者の最大の貢献ではないかと思っている。

関係者が対面で集まる機会は未だ実現していないが、立命館大学中東・イスラーム研究センター(CMEIS)に労をとっていただき、2021年9月13日に本書をとりあげたオンラインイベントであるBook Launchが開催された。執筆者の5人と編集の中川勇士氏が一堂に会することができたのみならず、接点のなかった研究者や院生との交流もあり、本書を媒介として地中海研究そのものが拡大していくことに、密やかな喜びを感じている。

表紙説明

地中海の《癒し》《癒し》11:笑い/京谷 啓徳

昨年の大会トーキングおよび月報451号で山辺規子先生が紹介されたように、中世の健康書『タクイヌム・サニターティス』が推奨する健康法は、飲食、睡眠、運動など、現在でも通用するものが多かった。そこでも論じられているように、健康のためには四体液のバランスが肝要である。

人は胆汁質が過多となるとメランコリー(憂鬱)に陥ってしまうが、そのバランスを直すのが笑いである。ボッカッチョの『デカメロン』やラブレーの『ガルガンチュアとパンタグリュエル』のような、笑いに満ちた読み物は、メランコリーの病気を治すための、まさに読む薬でもあった。実際現代医学においても、笑いによる免疫力の向上が唱えられており、笑いによる健康法を実践しておられる方も多いことだろう。

ということで、今号の表紙にはイタリア・ルネサンス絵画から、印象的な笑顔のイメージを集めてみた。笑顔というと「モナ・リザの微笑」を想起する方も多いと思うが、西洋美術史において、微笑み(smile)と笑い(laugh)の表現は一線を画されている。モナ・リザのように口を閉じ、少し口角を上げたのが微笑である。ダンテの『饗宴』によると、微笑とは魂の喜びの輝きが、口を通して表に現れ出たものである。微笑に対して、はっきりと笑っていることを示す絵画表現は、開いた口を描くこと、そしてとりわけ歯が見えるように描くことであった。

ピエロ・ディ・コジモの描いたシレノスの満面の笑顔は特に印象的である[表紙上]。シレノスはバッカスの取り巻きで、通常はロバの上で居眠りをしていることが多いが、ここでは右手を挙げて私たちに笑顔で挨拶をしているかのようだ。口元を見ると前歯が描かれていることが分かる。この絵で笑顔を見せている陽気なシレノスも、対作品では蜂に刺されて痛い目に遭うことになる。ここではいまだその成り行きを知らずに、彼は無邪気な笑顔を見せているのだ。

笑顔そのものにクローズアップした絵画主題はそれほど多くはないが、有名なのは「笑う哲学者デモクリトス」だろう。泣く哲学者ヘラクレイトスとセットになっていることが多い。ブラマンティーノが描いた壁画のデモクリトスも、はっきりと歯を見せている[表紙右下]。西洋美術史の中には、より大きく口をあけ、舌さえ見せて笑うデモクリトスの作例も存在する。

陽気な神と哲学者の笑顔を紹介したが、対して悪意ある笑い、悪魔の笑いというものもある。キリスト教主題でいえば、たとえば《キリスト嘲笑》がそれにあたる。人々が醜い顔で、大きく口をあけてキリストを嘲笑する。それと共通性を感じさせるのが、レオナルド・ダ・ヴィンチのいわゆる「グロテスクな頭部」。奥の人物は、顎がはずれそうなほどの大口をあけて哄笑している[表紙左下]。

コロナ禍で気持ちも塞ぎがちな昨今ですが、皆さん、笑顔で健康になりましょう!