地中海学会月報 MONTHLY BULLETIN

学会からのお知らせ

第45回総会について

延期された第45回大会の初日に開催する予定でいた第45回地中海学会総会については、月報439号の「学会からのお知らせ」でもお伝えしたとおり、書面開催の準備を進めております。
6月前半をめどに、2020年度事業報告、2020年度収支決算、2020年度監査報告、2021年度事業計画、2021年度収支予算に加え、新会長と役員の選出に関する常任委員会提案の審議をお願いする議案書をお送りしますので、いましばらくお待ちください。

地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞

2020年度地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞について、慎重に選考を進めた結果、以下のとおり授与することになりました。

地中海学会賞:受賞者なし
地中海学会ヘレンド賞:熊倉和歌子氏

熊倉和歌子氏の『中世エジプトの土地制度とナイル灌漑』(東京大学出版会、2019年2月25日)は、地中海の穀倉たるエジプトのデルタ地域を対象に、アラビア文字手稿文書群の緻密な分析を通して、チェルケス・マムルーク朝からオスマン朝初期までの中世エジプト(14世紀末~16世紀半ば)における土地制度と土地保有状況の変化がエジプト農村社会に与えた影響を実証的かつ詳細に解明する一方、GISの手法を歴史学的分析に導入して、画期的な成果を上げた研究書である。エジプトは年間総降水量が30ミリ未満のほぼ雨の降らない地域であり、現在約1億に達する人口の大半がナイルという世界最長の川1本に飲料水、生活・産業用水のすべてを依存してきた。首都カイロを頂点として地中海に向けて広がる巨大三角州は、古代より毎年6~9月頃に訪れる氾濫を利用した灌漑システムによって潤されてきたが、熊倉氏は16世紀前半にオスマン朝が編纂した『土手台帳』を精査し、古地図や現代の地図と照合したうえで、衛星写真やGISを駆使し、最終的には農村地帯を足で歩き、貯水のための土手の遺構を特定して新たに地図上に位置づけることに成功した。このようにして灌漑水路や土手・堰堤の具体的な空間把握が可能になったことで、500 年前の文書史料における灌漑システムの建設・修繕の実態が明確な姿を現すに至ったのである。
これらの事実を世界で初めて明らかにした本書の質の高さは圧倒的で、現存しないチェルケス期の史料がオスマン朝初期の史料に引用されていることに注目し、それを手がかりに原状を復元した手法も卓越しており、地道な伝統的歴史学の方法論を現代的なGISの空間情報、さらには現地を自分の足で歩くフィールドワークの手法と融合させて、新しい研究手法の豊かな可能性を示した点も高く評価できる。広域地中海問題への取り組みにも貢献する優れた著作であり、ここに地中海学会ヘレンド賞を授与する。

6月研究会

下記の通り研究会を開催します。
参加を希望される方は、お手数ですが、学会ホームページ・トップページのNEWS欄「研究会のお知らせ(6/12)」に掲載されているGoogleフォームにて参加登録の手続きをお願いいたします。参加登録をされた方には、後日メールでZoomアドレス等の詳細についてご連絡いたします。

テーマ:トリグリフを有する祭壇──地表近くに計画された構築物
発表者:川津彩可氏(早稲田大学理工学術院総合研究所 招聘研究員)
日 時:6月12日(土)午後2時より
会 場:Zoomオンライン会議システム
参加費:無料

供犠の行為を日常から行っていた古代ギリシアでは、犠牲となった獣を祭壇で焼き、神々に捧げ、集まった人たちと共に肉を食した。神殿建築をはじめドリス式のオーダーで建てられた建築では、通常、トリグリフやメトープで構成される装飾帯のフリーズが建物の軒部分を綾なしていた。一方で、地面の近くにトリグリフが割付けられた構築物の例も散見され、その出現はアルカイック期にまで遡る。このような地表付近にトリグリフが配された祭壇について、ケルキュラ、シュラクサイ、コリントス、ペラホラ、メガロポリスなどの遺構を巡りながら、その特徴や性質を考察する。

エーゲ世界のハンコ
小石 絵美

2020年秋、政権交代により行政改革担当大臣に就任した河野太郎氏によって、行政のハンコ廃止が進められている。さまざまな問題を抱えながらも、効率化という面では有効であろうし、文化的視点に立つならば、寂しさを感じることもあるかもしれない。

ところで、筆者はギリシア青銅器時代に栄えたエーゲ美術のハンコの研究を行ってきた。海外研究者と話をすると、「日本はハンコの文化があるから、エーゲ世界のハンコも理解しやすいかもしれないね」と言われることがある。確かに、似ている部分も多少はあるのだろう。

エーゲ世界のハンコ研究を始める時には、当然さまざまな名称が登場するが、日本のハンコを思い浮かべれば、用語それ自体は難しくない。ハンコの正式名称である印章sealは、最も幅広く使われる用語で、印章本体を指す場合と、印章を粘土塊に押し付けることにより生じるレリーフ状の印影seal-impressionも含める場合がある。「ハンコをお願いします」と言われれば、誰もがハンコ本体が欲しいのではなく、押印が求められていると分かり、それと同じ感覚だろう。印章本体を指す用語、印章石seal-stoneは、石製印章が多いことから発生した用語のようだが、実際は骨やガラス、金属による印章も頻繁に認められるため、近年ではこの言葉を避ける研究者もいる。印影seal-impressionは、印章を生乾きの粘土に押し付けることで生じるレリーフだが、その印影が押された粘土塊自体も筆者は印影sealingsと呼び、小型の粘土塊で三日月型やペンダント型のように形が整えられたものnoduleや、大型の粘土塊で土器などの泥封に適したものobject sealingなどの種類がある。粘土塊には複数の印章が押されることがあり、それぞれ異なる図柄(印章)が押し付けられている。海外の印章研究者と、このタイプの粘土塊について話をする際、日本の書類にも、この粘土塊と同じように押印欄が複数並んだ書類があると伝えると、多くの場合、興味深いと喜んでもらえる。

さて、私たち日本人の持つ印章は、円筒や四角柱のような形が一般的だが、エーゲ世界の印章は、より古い時代ほど形が豊富にある。スタンプ型、ボトル型、半球型や三角柱型など、この場には挙げきれない程の種類がある。中でもユニークなタイプが動物や人間の形を模ったもので、エジプトで有名なスカラベ型はもちろん、人間や猿、イノシシ、鳥の形をした、とても愛らしい本体が見受けられる。

こうした印章の形の豊富さには、おそらく素材が関係している。この時代は、硬度の低い軟石やアイボリー製(この時代は象牙よりもカバの牙が多い)印章であり、その加工は特別な道具を必要とせず、ナイフや錐で作製された。おそらく、小型の彫刻を彫るように作られたのだろう。しかし、印章本体の種類の豊富さに反し、その印影(レリーフの文様)は幾何学文様が主流である。

中期~後期青銅器時代になり、弓旋盤(弓を前後に動かし、弦に絡めた刃先を高速回転させるドリルのような道具)がエーゲ世界にもたらされる。その結果、硬度の高い貴石・準貴石の加工が可能となり、製作時間の短縮と大量生産が可能となった。印章本体の形はレンズ型、アーモンド型など限られた形へと縮小するが、印影として現れるレリーフ文様がより絵画的になり、図像学的な資料として、文字通り飛躍的に発展を遂げる。複数の人物が登場する宗教儀式、狩猟、戦闘、海洋文様、動物闘争など、多様な主題が生き生きと表わされる。

エーゲ美術には、美しく保存状態の良い壁画があるが、その現存数は少数である。土器は圧倒的な出土数を誇るが、当時の宗教儀式などを表す図像表現は少ない。それに対し、印章は小型で断片的ではあるが、出土数は多く、壁画や土器には確認されない主題を表わす。そのため、当時の社会や宗教を伝える貴重な資料といえる。

ところで、アテネ大学に留学していた筆者が、数日後に控えた博士論文の口頭試問の予行演習をしていた時のことである。指導教官に、エーゲ世界と日本のハンコは似ていると、冗談半分の軽い気持ちで話をした。一般的に、三文判などの複数のハンコを所有することや、複数のハンコが同じ「小石」という文字を表わしても、書体などのデザインの相違によって見分けられるなど、実にたわいない話であったが、これが興味深いと気に入られ、日本のハンコについて口頭試問の導入で取り上げることになった。即席でハンコのデザインを作り、解説したところ、審査員の先生方の雰囲気が、とても和やかになった。今思えば、口頭試問の大変な恐怖と緊張が少し和らいだのは、日本のハンコ文化のおかげかもしれない。日本のハンコ廃止が進むことで、こうしたハンコにまつわる経験も減っていくのだろう。一抹の寂しさを覚えるものの、手続きは楽が一番と思うのは、決して筆者だけではないだろう。ハンコ廃止が進み、私たちの生活と日本のハンコ文化がどのように変化していくのか見守りたい。

サルデーニャのニセモノ青銅小像
金沢 百枝

2019年の秋、イタリアのサルデーニャ島に行った。ロマネスク聖堂とその美術の調査が当初の目的だったが、島を車で走っていると、荒野に突如現れる黒々とした構築物ヌラーゲに魅せられた。内陸部では比較的どこにでもあるが、島の北西部にとくに多い。崩れかけたヌラーゲを車窓から100は見たに違いない。

ヌラーゲとは、サルデーニャ島にしか残らない先史時代の構築物だ。火山性の硬い黒い石を積み上げた円錐状の塔で、紀元前1600年頃からみられ、8,000近くのヌラーゲが島中に現存すると目されているが、詳しくはわかっていない。最大のヌラーゲは30メートルもの高さに及び、後期には中央の塔を5つの塔が囲むといった複雑な構造をもつものもできた。

そんなヌラーゲから紀元前8世紀頃の青銅製小像が多数見つかっている。カリアリの国立考古学博物館の展示では、剣を手にした戦士、弓をひく戦士、捧げもののパンをもつ奉納者、鹿、牛、狐、船などさまざま。なかには、敵を決して見逃さない4つの眼をもつ戦士もいた。イタリア本土の奉納像とも異なる独特の様式である。

カリアリ王立大学附属古代博物館(現カリアリ国立考古学博物館の前身)館長ガエターノ・カーラは、1819年から、偽造が発覚した1856年まで、ヌラーゲに住む人々がフェニキアと交易していた時代(紀元前7-8世紀ごろ)という設定で、330点もの偽の青銅小像を博物館の一室で職人に作らせていた。

偽の像はカーラが発掘作業を行った数カ所から「出土」し、その一部は考古学好きで、王自らサルデーニャ島で発掘作業に携わったともされるイタリア王カルロ・アルベルト(在位1831~49年)のコレクションに加わった。カーラはサルデーニャのローマ遺跡からの発掘品をルーヴル博物館や大英博物館など、世界各地の博物館に売り、現代の価値にして82万ユーロほどを手にしていたという。

19世紀のイタリア王家を巻き込んだこの偽造スキャンダルについては、サルデーニャ島西部の町オリスターノのアルボレア考古学博物館で知った。1938年創立のアルボレア考古学博物館は、カブラスやタロスといったローマ/フェニキア遺跡が近いためか、そうした遺跡から地元の考古学者が発掘した品や中世美術などを並べる小さな博物館だが、わたしたちが訪れたときには、旧館一階の空間を大々的に使って「にせものブロンズ像」の展示が行われていた。常設展示のように見えたが、博物館のウェブサイトを見ると、2018年にトリノで行われた「サルデーニャ考古学者としてのカルロ・アルベルト」展(2019年3月22日~11月4日、トリノ王立博物館)の関連企画で、普段は収蔵庫に眠る150体の青銅小像がカリアリ考古学博物館から来ていたようだ。

「にせものブロンズ像」の「ほんもの」からの逸脱ぐあいが面白い。先に書いたように「強さ」を強調する4つ眼の戦士から着想したのだろうか。特撮の制約やコストカットの必要上、すでに使った怪獣をマイナーチェンジするなど、デザインが限定されたという「ウルトラマン」の怪獣同様、本物らしくみせるために原型に忠実にしようともしているのだが、皆をあっと驚かせるような特殊な形を持っていたほうがよかったのだろう。カーラ館長が描くめちゃくちゃなスケッチをもとに、職人は忠実にブロンズ像を作っていった。手が4本ある戦士像は、太陽、星、蛇、剣を手にして4足獣に乗っている。蛇が牽く乗り物に乗っている像もある。東方のフェニキアの遺物にしばしば見られる尖った帽子や角、長い髯などを付け加えている。細い手足、尖った頭、つぶらな瞳の「ニセモノ」たちはどこか似通っている。

19世紀から20世紀初頭のヨーロッパは、考古学に湧いた時代だった。方法論は未だ整備されておらず、宝探しと紙一重。ハインリヒ・シュリーマンが「プリアモスの財宝」を発見したのが1873年。ハワード・カーターが「ツタンカーメンの墓」を発見したのが1922年である。館長が密かに偽造をはじめたのは1819年だから、それら以前である。謎に満ちたヌラーゲから、いかなるものが発見されても驚かないような時代の雰囲気もあったに違いない。イタリア王自ら発掘にやってくるなど、プレッシャーもあったのだろうか。今では信憑性はかけらもないが、ニセモノたちはカリアリ博物館で1883年までホンモノと一緒に展示されていたという。

偽造事件というと不穏だが、19世紀のニセモノたちは、不思議とおおらかなアウラを纏っていた。

(左)4つ眼の戦士の青銅小像(紀元前8世紀、カリアリ国立博物館蔵)
(右)カーラ館長考案のニセモノ青銅(1819年~56年、カリアリ国立博物館蔵)

ボンヴェジン・ダ・ラ・リーヴァのミラノ
濱野 敦史

数年前、ふとしたきっかけでミラノに2年ほど滞在する機会を得た。ミラノには縁もゆかりもなかったのだが、偶然にもその直前に興味を引かれていたのが『ミラノの驚異De magnalibus Mediolani』という作品だった。イタリアの中世に詳しい人であれば、その名前を聞いたことがあるかもしれない。だが、その中身についてはよく知られていないと思われる(執筆にあたっては、Bonvesin da la Riva, Le meraviglie di Milano, a cura di Paolo Chiesa, Milano, 2009を利用した)。

1894年、マドリードのスペイン国立図書館でフランチェスコ・ノヴァーティというイタリア人文献学者が傷んだ15世紀の写本を手に取った。これが失われたと思われていたボンヴェジン・ダ・ラ・リーヴァの『ミラノの驚異』が再発見された瞬間だった。以前からこの作者の名前は知られていた。ボンヴェジンはラテン語と俗語で詩を執筆しており、俗語作品は中世におけるミラノ方言の資料として価値が高い。写本の発見から4年後、ノヴァーティは『ミラノの驚異』を自身の手で活字化した。さらに、その後も新しい編者による新版や対訳を含むイタリア語訳の刊行が繰り返されてきた。再発見以来、『ミラノの驚異』は高い注目を受けてきたといえるだろう。

ボンヴェジンは13世紀前半にミラノで生まれたと推定され、1313年から1315年までに死去している。ラテン語教師として活動する傍ら、ウミリアーティの第三会に属してさまざまな慈善団体の運営にも関わった。1290年には年金の権利と引き換えにコロンベッタ施療院に200リラを寄進していることから、ある程度の豊かさを享受していたようだ。『ミラノの驚異』を執筆したのは1288年とその本文中に記されている。

12世紀以降の北イタリアでは都市を賛美するさまざまな作品が執筆された。『ミラノの驚異』もそうした流れに位置づけられ、数多くの側面からミラノの都市と住民を称賛している。なかでも歴史の研究者がとくに関心を寄せてきたのが、その叙述に数字を利用したことだった。本作品では、教会や都市の門などの数や、都市の人口、公証人、内科医、鎧製造業者などの人数が具体的な数字で提示されており、「都市の主要な門はたいへん頑丈で、6を数える」といったような描写がいくつもある。だが、なかにはどのような根拠で数字を挙げているのか疑いたくなる項目も少なくない。ボンヴェジンはそうした批判を想定していたようで、入念な調査をしてから執筆したと序文と第8章で述べている。さらに、項目によっては若干の根拠を提示している。20万人とされる都市の人口を例にすると、ボンヴェジンは都市内で消費される小麦の量を根拠として挙げており、その量の正確さは粉挽きから税を徴収する者が確約したと述べている。もちろん、こうした主張を鵜呑みにはできないが、数字に信憑性をもたせるための手法は注目に値する。

ところで、本作品はどのような目的で書かれたのだろうか。序文では、作品が読まれた結果として、ミラノの偉大さを知ったさまざまな人が神を称えること、外国人がミラノ人を敬愛して擁護するようになること、ミラノ人がその高貴さを失わないことが期待されている。序文を受けて、8章から構成される本論では、地理、建築物、住民、富、軍事力、信仰、自由、格の高さを題材にミラノの偉大さが語られる。とはいえ、章ごとの力の入れ方はかなり異なっている。もっとも節の多い第3章が35節からなるのに対して、第1章は3節、第6章と第7章は2節しかない。いずれにしても、第3章がもっとも数字を利用した議論をしており、この部分に注目が集まってきたのはある意味で当然ではある。

とはいえ、そうした数字の利用はボンヴェジンにとってミラノを賛美する手段の1つでしかなかったようだ。それを確認するためには、本作品の実質的な結論部にあたる第8章を読む必要がある。この章でボンヴェジンは世界中にミラノに比肩する都市がないということを強調している。その根拠として挙げられているのは、水の豊かさ、聖職者の多さと徳性、法に明るい専門家の多さ、独自の典礼、ミラノ大司教の格の高さ、教会への忠実さで、数字に関わるものは2点にとどまる。そのため、数字を利用する部分だけに注目すると、作品の全体像をゆがめて捉えることになってしまうのではないだろうか。実際、本作品への注目は数字の利用に集中しすぎている。特定の描写に限定せずにもっと広い文脈から本作品を捉える視点がもっとあってもよいだろう。

冒頭の話に戻ると、偶然にもほぼ同時に過去と現在のミラノに目を向けることになったのだが、はたしてそれは本当に偶然だったのだろうか。ひょっとすると、ボンヴェジンはいまでも外国人にミラノを敬愛してもらいたいと思っているのかもしれない。

ペスト終焉とオルサンミケーレのタベルナーコロ
出 佳奈子

今から1年ほど前の2月下旬、その頃はまだ、約1ヶ月後にせまった久しぶりのイタリア滞在を楽しみにしていた。その後の数日間で状況が一変し、イタリア訪問を断念せざるを得なくなったのは、私1人に限られた経験ではないだろう。

そんな折、脳裏に蘇ってきたのが、フィレンツェのオルサンミケーレ聖堂内に佇む「タベルナーコロ」の存在である。かつてフィレンツェを留学先に選んだ理由の1つは、巨大とも言える規模のこの大理石製の収納容器について調査することであった。その内部には、「オルサンミケーレの聖母」と呼ばれた板絵が、今なお収められている。現存する板絵は1347年にベルナルド・ダッディが描いたものだが、これは、「オルサンミケーレの聖母」としては3代目にあたり、もとの聖母図は、1284年に「オルト・サン・ミケーレ」の呼称をもつこの地に建てられた小麦市場のロッジアの柱の壁画であった。その後、建物が火災に見舞われたため、市場の再建と聖母図の描き直しが進められた。年代記作者ジョヴァンニ・ヴィッラーニによるならば、「オルサンミケーレの聖母」は、1292年の7月、病人や手足の不自由な者たちを癒す奇跡を示し、多くの悪疫を一掃する存在とみなされるようになる。以降、病を癒す奇跡の聖母の存在は、フィレンツェ近郊の人々の信仰をよりいっそう集めていった。

1348年、大規模なペストがヨーロッパを襲った。昨年から続くコロナ禍にあって、この疫病には大きな関心が寄せられてきた。なかでも1348年のそれは、多くの人々の命を奪ったことで知られている。人口の3分の2が失われたとも伝えられるフィレンツェでは、これをきっかけに、病を癒す奇跡で知られていた「オルサンミケーレの聖母」に縋ろうとする者の数が増大した。恐ろしい症状をともなう得体の知れない病とそれが引き起こす突然の死を恐れた人々は、この聖母に対して、ひいてはこの聖母図を管理し、彼女への讃歌の献呈を組織的に執り行っていた「オルサンミケーレの聖母同信会」に対して、多額の遺贈金を残していった。彼らは、奇跡的な病の治癒、あるいは、もしかしたら告解をせぬままにむかえることになる死ののちの魂の救済を乞い願ったのである。

ペストが終息したのち、同信会に残された多額の遺贈金の管理と使用をめぐって、フィレンツェ共和国政府は同信会運営に積極的に介入していく。この状況下で建設されたのが、「オルサンミケーレの聖母」の板絵を収納・保護するためのタベルナーコロであった。その指揮をとったのは、ペスト後のフィレンツェの美術界を牽引した画家オルカーニャである。幅3.9メートルの正方形の基部に11.4メートルの高さで聳えるこの大規模なタベルナーコロの下部には、聖母マリアの生涯の物語が浮き彫られている。いくつかの研究が明らかにしてきたように、その内容は「聖母マリア讃歌」に由来し、かつて信者たちがこの聖母に捧げていた讃歌の歌声を想起させる。一方で、その頂きに鞘から抜いた剣を手にして立つ天使の存在はあまり注目されてこなかった。しかし、この天使こそは、やがてペストと名付けられることになるこの疫病の終焉を告げる最重要とも言える存在なのである。

昨年3月、現教皇フランシコは、ローマのサンタ・マリア・マッジョーレ聖堂に古くから安置されてきた聖母イコン「ローマ市民の救い(Salus Populi Romani)」に、疫病の終焉を請う祈祷を捧げた。この聖母イコンは、6世紀末のいわゆる「ユスティニアヌスのペスト」の際に、教皇グレゴリウス1世がローマ市中に持ち出し、疫病の鎮静をとりなしてほしいと懇願したところのものである。ヤコブス・デ・ウォラギネの『黄金伝説』では、その折、クレスケンティウスの城の上空に大天使ミカエルが現れ、剣を一振りして血のついた刃を拭い、これを鞘に納めたところ、悪疫が一掃されたとも伝えられている。オルサンミケーレのタベルナーコロの頂きに立つ天使には、悪疫を払ったこの天使の存在が重ねられているのかもしれない。

実のところ、大天使ミカエルと疫病の終焉の結びつきは、旧約聖書「サムエル記」および「歴代誌」にあるダヴィデ王治下の疫病の終焉の逸話に遡る。神の怒りに発したこの疫病は、アラウナの麦打ち場でダヴィデの前に現れた神の御使いが、祭壇の建設とそこにおける神への祈祷を求め、王がこれに応じたことで鎮まった。その後ダヴィデは、主の神殿とそこに安置されていた十戒の石板を収めるタベルナクルムとをこの麦打ち場に移させたという。疫病の終焉と天使の結びつきは、キリスト教徒たちの間で、古くから受け継がれていたのである。1348年のペスト禍にあって、教皇クレメンス6世もまた、この疫病の終焉を懇願するミサ祈祷文を、上述の旧約聖書の逸話にもとづきながら考案している。ペストの後、偶然にも小麦市場であったオルサンミケーレに建てられたタベルナーコロは、頂きの天使を通じて、そしてその下の破風に穿たれたダヴィデの星のモティーフを通じて、あの疫病の終焉を今に伝えている。

ルイ14世の音楽
川田 早苗

新型コロナウイルス禍で、海外へ調査に行くこともできず、懸案事項の調査は滞ったままだが、この機会に読めていなかった研究書を通読している。その中で、以前探索した一次資料と関連づけながらルイ14世と音楽の関係というものを改めて考えてみると、歴史的な出来事と音楽様式の変遷が面白いほど連動している。

まず、ルイ14世の生きた時代(1638~1715)は、音楽史上重要な音楽理論書であるメルセンヌの『音楽汎論』出版2年後からラモがリヨンでグラン・モテを書いている時期に重なる。これは、音楽分野の時代区分においてはバロック期に当たり、音楽理論から演奏様式までその構成要素が一変した時代だ。「旋法による対位法から調性音楽へ」、「二重合唱から技巧的なソリストへ」、「音楽作品構成の大規模化へ」と移った時期である。またバロック期は、演劇との結びつきによる「音楽劇誕生の時代」であり、フランスでは叙情悲劇が生まれた。

イタリア音楽の影響を大きく受けたヨーロッパ全体の流れの中でも、フランスはそれなりに独自の道を進んだ。その理由は、ルイ14世の政治的意図が国家の音楽政策の根幹にあったからだ。国家的な視点から、あらゆる芸術をフランスの栄光を他国に顕示するための政治的手段と見做していたルイ14世は、音楽の視覚的・音響的大規模化を進めた。

ルイ14世が採った音楽政策は、親政開始を境に大きく二分割される。それは、宰相マザランと財務総監コルベールの政策提言に従ったことによるものだ。両者ともにフランス王国の偉大さを顕示するという方針は同じだが、その方法において大きく異なる。マザランは、フランスを象徴する都市パリにローマを模倣させるという方法を採用し、音楽においてはイタリア直輸入の豪華絢爛なオペラをパリで上演させた。

それに対し、マザランの死後の財政を担ったコルベールは、フランス独自の様式の創造を優先した。ルイ14世は彼の政治政策に従い、親政開始以降、独自路線を推し進めた。親政開始直後、宮廷の芸術分野からイタリア人芸術家を遠ざけ、イタリアの影響を一旦断ち切り、フランス独自の音楽様式を確立させることに専心した。

さらに、親政開始以降の時期も二分割できる。王国の威光を示す手段としての音楽ジャンルが、前半(サン・ジェルマン・アン・レ滞在期)の「叙情悲劇」から後半(ヴェルサイユへの宮廷の移動後)の「グラン・モテ」へと急に移行したことが顕著にみてとれる。この時期を境に王の音楽趣味だけでなく様々な分野の政策が変化した。その理由としてマントノン夫人の存在が強調される傾向があったが、一次資料を調べた限りでは、政策決定への彼女の影響に言及する資料は見当たらないし、国家そのものを体現していたルイ14世が1人の女性の意見を政策に反映していたとは到底思えない。

これは私の個人的意見だが、彼女の存在よりも強くルイ14世の政策に影響を与えたものは、1683年の王妃マリー・テレーズの死そのものだろう。公式の資料や宮廷人の回想録などを読むと、国だけでなく王にとっても彼女の死が一大事であったことが見て取れる。ルイ14世は彼女の死をひどく悲しんだのだ。40代後半、当時としては高齢であった王は、配偶者の死に遭遇し、死というものを自分自身のこととして意識したのだろうか。

1682年以降のヴェルサイユにおけるオペラは急拵えの劇場で上演され、しかも王主催の会は1685年1月が最後となった。ヴェルサイユ宮殿にも機械仕掛の舞台装置付き劇場建設の予定はあったものの、ルイ14世はそちらには着手せず、王室礼拝堂の建設とそこで演奏される荘厳な音楽創作と音楽隊の充実に注力した。王室礼拝堂付き音楽隊は歌手、器楽奏者を含め100名を超えていた。現在私たちが見ることのできる王室礼拝堂は、1710年になってやっと完成したが、それは、建築や装飾などを含むあらゆる芸術分野から集められた卓越した芸術家たちによって成就された、彼の時代に特徴的な重厚で大規模な芸術の集大成と言えるだろう。ルイ14世自身もその出来に相当満足していたようだ。

ルイ14世の意志は、その後引き継がれたのか。彼は子供たちの音楽教育にも細心の注意を払い、彼らにクープランをはじめとするフランス随一の音楽教師を付けたが、天然痘により彼ら全員が亡くなったことで、ルイ14世の意志は途絶えたと言えるだろう。ルイ14世没後、摂政となったオルレアン公フィリップは作曲や演奏を楽しみ、王の音楽隊を大幅に縮小し、音楽を単なる娯楽へと変質させた。ルイ15世親政開始と共に、音楽もヴェルサイユへと戻って来たが、王自身は音楽には興味がなく、マリー・レグザンスカやポンパドゥール夫人など専ら女性たちがそこでの音楽活動を担った。王室礼拝堂では聖務も音楽演奏もルイ14世の時代のまま踏襲されたが、ルイ15世には先代のような求心力はなく、ルイ14世が構想した音楽が同じ熱量を持って再現されることはなかっただろうと思えてならない。

表紙説明

地中海の《癒し》1:病を癒す聖王ルイ/加藤 玄

今号から新シリーズ「地中海の《癒し》」が始まる。昨年来、コロナ禍で慣れない生活を強いられ、心身に不調を来す人も多いと聞く。地中海世界における「こころ」と「からだ」の《癒し》の多様な模索が、読者の皆様にとって、この状況を乗り切るヒントになれば幸いである。

表紙の図版は1335~40年頃に製作された『フランス大年代記』の写本挿絵の一部である。王冠を被り、白百合紋の青マントを着たフランス国王ルイ9世が、赤ローブの人物の首の辺りを触っている。病人の患部に触れて治療している場面である。病の治癒能力は歴代フランス国王が持つと見なされた超自然的な力であり、祝祭日に聖別された場所で行われる格式の高い儀式の際に、瘰癧(るいれき)という首のリンパ節が腫れる病に冒された病人を、十字のしるしを切りながら触れることで癒すのである。そのため瘰癧が「王の病」と呼ばれたことは、マルク・ブロックの研究『病を癒す王(邦題『王の奇跡』)』によって広く知られているところである。

ジャン=クロード・シュミットによれば、肉体と魂を同時に対象とする中世ヨーロッパにおける疾病対策は予防・看護・治療に分類される。治療はいわゆる霊的な(魂の)治療を指し、教会が主導して行う秘蹟と、教会が管理する奇蹟からなる。病を癒す奇蹟を起こすことは、当時の聖人の一番大きな役割であった。

敬虔さで名高いルイ9世は、2度目の十字軍遠征中の1270年夏、チュニス近郊で病没した。翌年の春、彼の遺骨がパリへ運ばれたときの様子を、ギョーム・ド・サン=パテュスの『奇蹟集』が次のように語っている(ジャック・ル・ゴフ著、岡崎敦・森本英夫・堀田郷弘訳『聖王ルイ』から引用)。

(ある女性は、)誓約にもとづき祝されし聖ルイの遺骨が海の向こうからフランスへと帰還したとき、この遺骨は運ばれてきた道すがら、また諸都市において、遺骨が納められていた匣に口づけした多くの瘰癧患者たちを癒した、と語った。そして巷で噂されていたところによると、彼らはすぐに癒された。

この時点ではルイ9世はまだ聖人として正式に認められてはいなかった。しかし、ル・ゴフによれば、彼が生前に持っていた瘰癧を癒す力が、その死の直後の時期にも依然として有効であると信じられており、遺骨が運ばれる途上においても、瘰癧患者たちを惹きつけたのだという。このことが、ルイ9世が死後にも奇蹟を起こす力を持つという信仰を生んだ。『奇蹟集』によれば、彼が埋葬されたサン=ドニ大修道院には様々な病人が殺到し、彼の墓に触れたり、その上に横たわったり、石棺を削ってその粉を飲んだりすることによって癒されたという。こうしてルイ9世の死後の癒しの奇蹟は、瘰癧以外にも、高熱・精神病・麻痺・盲目・聾唖などへと対象範囲を広げた。1297年に彼は教皇庁によって列聖され、「聖王ルイ」と呼ばれるようになったが、その背景には病からの平癒を願う多くの人々の信仰があった。

出典:Ms. Royal 16, G Ⅵ, fol. 424v ⒸBritish Library