地中海学会月報 MONTHLY BULLETIN

学会からのお知らせ

第45回地中海学会大会

第45回地中海学会大会は2021年6月12日(土)、13日(日)の2日間、大塚国際美術館にて開催する予定です。ご存知のとおり、コロナ禍で状況は予断を許さず、昨年同様、延期やオンライン開催となる可能性も否定できませんが、大会実行委員会は着々と準備を進めておりますので、ご期待ください。

6月12日(土)
13:00 開会宣言
挨拶:田中秋筰(大塚国際美術館)
13:15~14:15 記念講演:青柳正規
「イタリアでの発掘50年」
14:30~16:30 地中海トーキング
「地中海が見た病と健康(仮)」
パネリスト:
篠塚千恵子/畑浩一郎/山辺規子(予定)/吉村武典
司会:小池寿子(予定)
16:40~17:10 授賞式
地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞
17:10~17:40 総会(会員のみ)
18:00~20:00
懇親会(於:システィーナ・ホール)

6月13日(日)
10:00~12:00 研究発表(3名程度)
12:00~14:00 昼食
14:00~17:00 シンポジウム
「模倣し複製する地中海」(仮)
パネリスト
:京谷啓徳/飛ヶ谷潤一郎/日向太郎/園田みどり
司会:芳賀京子
17:00 閉会宣言

新名簿作製

新名簿作製のため、会員各位の掲載項目確認書を月報438号に同封してお送りする予定です。ご確認のうえ、変更がございましたら5月1日(土)までに事務局までご連絡下さいますようお願いいたします。

地中海学会研究会発表者募集

ご存知のとおり、地中海学会は事業の1つとして年間4~6回の研究会を開催しており、今年度も3回の研究会を開催しました。これまでの研究会は学会事務局のある東京都内で開催してきましたが、今年度は新型コロナウイルス感染拡大防止のため、オンラインでの開催に移行しており、世界中どこからでも参加できます。ご自宅での研究発表も可能ですので、発表を希望する会員は事務局にお申し込み下さい。次回研究会は4月10日(土)の予定です。

会費納入のお願い

2020年度会費の納入をお願い申し上げます。自動引き落としの手続きをされていない方は、以下のとおりお振込をお願いいたします。なお、正会員の会費が改定されていますのでお間違いのないようにご注意下さい。

会 費:正会員 10,000円
学生会員 6,000円
シニア会員 8,000円
準会員 8,000円
振込先:口座名「地中海学会」
郵便振替 00160-0-77515
みずほ銀行 九段支店 普通 957742
三井住友銀行 麹町支店 普通 216313

会費口座引落について

地中海学会では、会員各位の金融機関口座より会費の「口座引落」を実施しております。会費の口座引落にご協力をお願いします。
今年度(2020年度)入会された方には「口座振替依頼書」をお送りします。また、新たに手続きを希望される方、口座を変更される方にも同じく「口座振替依頼書」をお送りいたしますので、事務局までご連絡下さい。今回申し込まれる方は、2021年度から口座引落を開始します。
なお、個人情報が外部に漏れないようにするため、会費請求データは学会事務局で作成しております。

地中海学会第44回大会 記念講演要旨
異文化との出会いとその後
パネリスト:菅野裕子/斎藤多喜夫/石井元章/飯田巳貴 司会:飯塚正人

第44回地中海学会大会は、春先からの新型コロナウイルス感染拡大を受け、最終的には史上初のオンライン開催となったものの、本来ミナトヨコハマの関東学院大学で開催される予定だったことから、大会初日の地中海トーキングも、大会準備委員会が「異文化との出会いとその後」という、ヨコハマにふさわしいテーマを考案し、パネリストの人選も行って、横浜と地中海における異文化接触と受容が生み出した歴史の諸相に光を当てた。

トーキングの口火を切ったのは菅野裕子氏(横浜国立大学)で、「古典主義建築の意匠と横浜の近代建築への応用」と題し、横浜に現存する8つの古典主義建築のなかから、明治37年竣工の旧横浜正金銀行本店と昭和6年竣工の旧英国総領事館を取り上げ、それぞれの個性を明らかにした。最初期の代表的な日本人建築家・妻木頼黄が設計した横浜正金銀行本店(現神奈川県立歴史博物館)は、古代ギリシア・ローマのデザインを起源とする古典主義のオーソドックスなデザイン・モチーフを数多く組み合わせている点で、明治の日本人による学習の集大成的な趣がある一方、ディテールには、単なる西洋の模倣に留まらないオリジナル・デザインへの妻木の意欲がうかがえる。これに対し、英国工務省が設計した旧英国総領事館(現横浜開港資料館)は、もともと戦勝を記念して古代ローマに建てられた「凱旋門」を彷彿とさせるデザインかつ当時の日本の玄関口であった海に正対していながら、戦勝記念を連想させる特徴を巧妙に隠しているようにも見え、ペリーの上陸地点近くという立地の持つ意味と合わせて、興味深い建築とされた。

続く斎藤多喜夫氏(横浜外国人居留地研究会)は「横浜洋食事始め」と題して、まずは文明開化期の横浜における洋食レストランの歴史を紐解いていく。1860年に開業した横浜ホテルのフレンチ・レストラン以来、幕末維新期の横浜で開業した洋食レストランの多くはフランス人シェフの活躍の場であり、宮内省の料理人をはじめ、たくさんの日本人が彼らのもとで修業した。こうして初期横浜の洋食史を紹介した斎藤氏はしかしそこに留まらず、トークの後半では地中海における食文化の交流に目を向ける。地中海料理に不可欠なライム、レモン、オレンジ、シトロン、砂糖といった栽培作物はもともと熱帯・亜熱帯の植物であり、アッバース朝がインダス川下流域からイラクのサワード地方に移住させたズット族による移植をきっかけに、シリアからシチリア、アンダルス、さらには新大陸へと広がった。それを考えると、地中海料理自体、異文化との出会いの賜と見ることができるだろう。

かくて横浜から地中海へと聴衆の視線が移動するなか、3番目に登壇した石井元章氏(大阪芸術大学)は、ヴェネツィアで学んだ2人の日本人の足跡をたどり、イタリア美術の受容に関する両者の差異を指摘する(「異文化接触と受容: ヴェネツィアと日本: 川村清雄と長沼守敬の差異」)。洋画家の川村清雄と彫刻家の長沼守敬はそれぞれ、1870年代から80年代のヴェネツィアで学び、日本語を教えた。幕臣の家に生まれ、留学前から日本画の素養のあった川村は当地で装飾画を中心に受賞を重ねるが、日本的な「平面性」「装飾性」に感銘を受けたヨーロッパの画家たちの呼びかけに応じて、日本美術と西洋美術を組み合わせた新しい美術を模索する。一方、佐幕派の武士階級出身で、日本語講師として家族を養う収入を得るために渡航し、ヴェネツィアで初めて彫刻を学んだ長沼は、19世紀後半の新古典主義にヴェリズモを加味したアカデミズム彫刻を日本に移植した。両者がイタリア美術を受容するにあたって見せた違いが個々の才能や留学時の文化状況に起因することは明らかで、これもまた異文化との出会いを考えるうえでは重要な要素に違いない。

とはいえ、ヴェネツィアの魅力はもちろん芸術に留まらない。最後に登壇した飯田巳貴氏(専修大学)は「近世ヴェネツィア商人の人的ネットワーク」と題して、東地中海のヴェネツィア領を奪ったオスマン帝国が重要な交易相手となり、商業・金融業に従事するユダヤ人(セファルディム)をはじめ「トルコ人」(オスマン領出身のムスリム)、ギリシア人、アルメニア人などの外来者が市中に増える一方、毛織物や絹織物などの輸出向け製造業が成長した16世紀以降のヴェネツィアにおける商取引を、実例を交えて分析した。当時はオスマン帝国の高官や役人が直接・間接に交易に乗り出しており、オスマン朝高官の納税額がヴェネツィアの税収に影響するほどだったが、そうした状況下、ヴェネツィア商業の柔軟な対応を支えたのは異教徒、外国人、レヴァント人など、まさに異文化に属する人々のネットワークだったと言う。

以上を受けたパネリスト相互の議論は、時間の制約もあって、ほぼ質疑応答だけで終わってしまったものの、当日のトーキングの中身はそれを補って余りあるほど充実したものであった。登壇されたパネリストの皆さまに深く感謝したい。(飯塚正人)

地中海学会大会 シンポジウム要旨
地中海都市の重層性
パネリスト:高山博/山下王世/加藤磨珠枝/黒田泰介(司会兼任)

地中海学会第44回大会は新型コロナウイルスの感染を考慮して、インターネットを使ったオンライン形式で開催された。開催予定校であった関東学院大学 建築・環境学部には、引き続き後援を頂いた。オンラインでの大会開催は当学会初の試みであったが、飯塚事務局長並びにウェブ委員会関係諸氏の尽力によって、さしたる混乱もなく、無事に大会並びにシンポジウムを終えることが出来た。ここに記して、厚く御礼申し上げたい。

大会2日目に開催されたシンポジウムは「地中海都市の重層性」と題して、3名のパネリストにご報告を頂いた。古代より多様・多彩な文明を育んできた地中海世界には、幾層にも重ねられた衣のごとく、過去の遺跡や歴史的建築物を転用・再利用してつくられた空間が数多く存在する。本シンポジウムはこうした現象に注目して、パレルモ、イスタンブル、ローマの3都市に見られる文化的・芸術的な重層性を論じ、地中海世界の魅力の一端を描き出そうとするものである。

シンポジウムの趣旨説明と発題を兼ねて、冒頭に筆者より「都市空間と時間の積層 ──古代遺構のスポリア/再利用──」と題する発表を行った。副題の「スポリア」とは、狭義には古代ローマ建築の装飾や部材の転用・再利用を意味し、人類史上で普遍的に見られる極一般的な建築行為といえる。ローマ市内に残るマルケルス劇場とオクタウィア回廊は、スポリアによる空間形成のあり方を示す好例だ。ルッカの古代ローマ円形闘技場遺構は、中世より住居として再利用され、今日では楕円形平面の1街区を構成する。1838年に建築家ロレンツォ・ノットリーニによって街区内部に設けられたアンフィテアトロ広場は、地中海都市の重層性を如実に示すと共に、その多様性とアクティビティを生み出す場となっている。

高山博氏(東京大学・西洋史)からは「中世パレルモとシチリア ──異文化の重なりと謎解きの愉しみ──」をご発表いただいた。地中海最大の島、シチリア島の都市パレルモには、ノルマン・シチリア王国の首都としてコスモポリタン的な文化が花開いた。アラブ・ノルマン様式の赤い丸屋根を連ねたサン・カタルド教会は、見事なモザイク壁画を誇るモンレアーレ大聖堂と共に、異文化の接触と受容が大きな実りを結んだノルマン王朝のシンボルだ。傭兵あがりのノルマン人による国盗り物語や、異国情緒たっぷりの建物は、多くの人々を魅了してきた。高山氏にとって、ラテン、ギリシア、イスラームの3つの文化が併存・重積したノルマン・シチリア王国は、複雑さと知的刺激に満ちていて、その謎を解く愉しさにあふれているという。羊皮紙に書かれたギリシア語、アラビア語の書物は、パレルモでラテン語に翻訳された。パレルモは、ビザンツとイスラームの先進的な文化が西洋へ流入する玄関口となったのである。

山下王世氏(立教大学・イスラーム建築史)には「オスマン朝イスタンブル:ビザンツの遺産を受け継いで」をご発表いただいた。「コンスタンティヌス帝の都」コンスタンティノポリスは、ビザンツ帝国の首都として繁栄した。この都市の象徴であるアヤソフィア大聖堂は、ユスティニアヌス帝の命により537年、アンテミオスとイシドロスによって建設されたものだ。1453年に同市を陥落させたオスマン朝のメフメト2世は、大聖堂を王のモスクへと改修させる。堂内にはイスラームの礼拝に必要なミフラーブ(メッカの方向を示す壁がん)とミンバル(説教壇)が設置された。堂内を彩るモザイク画の上には漆喰が塗られ、建物隅にはミナレット(礼拝を呼びかけるための尖塔)が設けられると共に、イスラーム神学校や図書室等の付属施設が建設された。5人のスルタンが眠る墓廟の建設は、アヤソフィア大聖堂がオスマン社会において、極めて重要なモスクであったことを物語っている。

加藤磨珠枝氏(立教大学・西洋美術史)には「永遠の都ローマ ──カピトリヌスの丘に立ちて──」をご発表いただいた。ローマ七丘の1つ、カピトリヌスの丘は古代より聖地として、フォルム・ロマヌムと共にローマ帝国の政治、宗教、文化、司法の中心だった。帝国滅亡後も都市の象徴であり続けた丘の頂きには、1527年のローマ劫掠後、教皇パウルス3世の命を受けたミケランジェロによってカンピドーリオ広場が整備された。セナトーリオ宮(ローマ市庁舎)の傍らにあるカピトリーニ美術館は、1471年にシクストゥス4世が古代ローマの彫刻群をコンセルヴァトーリ宮の中庭に置かせたのが始まりとされる。その後も歴代教皇により美術品が蓄積され、1734年にはクレメンス12世が建物を一般公開、西洋最古の公的美術館となった。丘の麓に広がる古代の廃墟の眺めは、多くの芸術家や観光客を魅了してきた。都市の歴史・芸術と、教皇庁との政治関係が結びついて展開したカピトリヌスの丘の美術館構想によって、ローマならではの魅力をもつ場が生まれたのである。(黒田泰介)

研究会要旨
イスラーム都市と水施設:マムルーク・オスマン期カイロのサビール・クッターブについて
𠮷村 武典  12月5日/オンライン会議システム(Zoom)

都市における水資源の確保は、その多くが乾燥地域に属し、水源が限られる中東・北アフリカ地域において、重要なインフラの要素と言える。例えば、中世アラブの歴史家イブン・ハルドゥーンは『歴史序説』において、都市の要件として外敵や気候上の害からの保護、牧草地・農地とのアクセス、燃料(木)の入手の容易さに並び、水資源の確保をあげ、「水の存在は住民一般にとっての共通の福祉である」とも述べている。

エジプトのカイロ歴史地区(イスラミック・カイロ)には多くのモスクやマドラサなどの歴史的宗教施設や街区の遺構が現存するが、マムルーク朝からオスマン朝時代にかけて建てられた、「サビール(sabīl/pl. asbala)」と呼ばれる給水施設が歴史的建造物として多く見られる。サビールは、ダマスクスやイエルサレムなどシリア地域の諸都市やイスタンブル(トルコではセビルと呼ぶ)、にも見られ、宗教寄進(ワクフ)施設として建てられた(イランのサッカー・ハーネ、モロッコのシカーヤなども中東・北アフリカ地域の諸イスラーム都市の給水施設としてあげられる)。

サビールは給水施設として「公共井戸」と訳されるが、アラビア語の原義は「道」を意味し、特にsabīl Allāh(神の道)のように、宗教的な努力=ジハードと同義として使われる語であり、道行く人への水の供給が宗教的慈善行為の一つとして考えられたことから、サビールと結びつけられるようになったと見られる。都市の水インフラと宗教的な慈善とが結びつくことで、有力者、富裕層によりオスマン朝時代を中心にワクフ施設として積極的に建設されるようになったと推察される。特にカイロの場合、サビールに初等教育施設であるクッターブまたはマクタブ(クルアーン学校)が併設され、サビール・クッターブと呼ばれる複合施設として他の地域と異なる建築的特徴を持つことになった。サビール・クッターブには、モスク、マドラサ、廟などの施設に附設される付属型と、単独で建設される単独型の2つのタイプに分けられる。共通する構造として、1階部分にサビール、2階部分にクッターブがおかれ、サビール部分は通りに面して1~3面の金属製の格子窓が設置され、外部に水を供給する仕組みを持つ。給水をおこなう部屋には、水を滝状に流す装置(shādirwān)や天井、壁に金泥を施したクルアーンの文言を含む華麗な装飾も一部みられ、水が豊かな天国をイメージした空間を創出している。給水は、地下部分におかれた貯水槽に水運び人によりナイル川の水が運ばれた水が貯められ、サビールの管理人(muzammilātī, sabīlī)により汲み上げ、供給作業が行われたとされる。

サビール・クッターブの最初の例は、14世紀中頃のナースィル・ムハンマドが、父カラーウーンの複合施設(病院、マドラサ、廟)に附設した付属型ものとされ、15世紀のカーイトバーイのものが単独型の最初の例とされる。マムルーク朝時代のサビール・クッターブの特徴は、付属型のものが多数で、単独型の数は極めて少ないことが指摘される。そのためマムルーク朝時代の地誌などの史料には、サビール・クッターブについての独立した項目は見られず、モスク、マドラサの項目から記録を抽出する必要がある。一方、オスマン朝時代に入ると、単独型の建設数が増加し、特にカーヒラ城域、カーヒラ南部のダルブ・アフマル地区に多く建設され、この地域の都市化、市街地化の進展が窺える。マムルーク朝、オスマン朝時代を通したサビール・クッターブの建設総数については、ナポレオンの『エジプト誌』やアリー・ムバーラクの『新編エジプト地誌』には多くの記述が見られるも、分類や選定基準が異なるため物件数には開きがあり確定は難しい。一方、現存する遺構としては、89件が山田幸正、山下王世の調査(1995、2000年)により確認されている。

建設地点の分布状況は、カーヒラ城域とダルブ・アフマル地区に集中し、オスマン朝時代に建設されたものが3/4近くを占めている。また、建設年代の分布状況は、オスマン朝時代にエジプトを実質的に支配した、サンジャク・ベイの台頭期(1630年代)、イェニチェリ、アザブ軍の台頭期(1670年代)、カーズダグリーヤの台頭期(1760年代)、と各勢力により政治的な安定期が見られる時期と一致し、各時代の支配勢力が、権威の象徴、富の再分配、権力の承認を目的にサビール・クッターブをワクフとして設定したことが推察できる。カーヒラ城域とダルブ・アフマル地区の具体的な建設地点のマッピング情報の観察からは、マムルーク朝時代には、付属型も単独型も大通り沿いに建設されているが、オスマン朝時代になるとより中、小規模の通り、街区入口、街区内と建設地点の変化が見られた。

デモステネスのエロティック・エッセイ
吉武純夫

西洋古典叢書(京都大学学術出版会)の『デモステネス弁論集』は、まもなく最後の第7巻が出て完結しようとしている。その中には、この弁論家に帰されている61篇の全弁論といくつかの手紙などが収められているが、デモステネスはギリシア最大の弁論家とされるわりに日本語訳されたものはそれまで僅かしかなかった。北嶋美雪先生によって開始され木曽明子先生に引き継がれた20年越しのこのプロジェクトにはとても大きな意義があったと思う。

ところで、私はこの最終巻で第60番と61番弁論の翻訳と解説を担当した。最後を飾るというよりも最後に回された2編というほうが相応しいのかもしれない。彼の得意とした議会弁論・法廷弁論とは違い、この2つだけが演示弁論だというせいもあるが、偽作の疑いをかけられてもいる2つなのである。しかしその2つは、少なくとも文学的にたいへんおもしろい作品である。葬礼演説である第60番は、カイロネイアの戦いで斃れた戦死者たちに向けたその真摯なまなざしのゆえに、現存する5つの葬礼演説の中で異彩を放つものとなっている。そこにある魅力は第7巻での解説を読んでもらうことにして、ここでは「エロティック・エッセイ」と題されることもある第61番のおもしろみを簡単に紹介したい。

この弁論は、聞かせてほしいとせがまれた弁者が、あるとびきりの美少年のために第三者が書いたロゴス(弁論)を、短い解説を加えた上で読み聞かせる、という形のものである。弁者はそのロゴスが、エロスを含むものだが品位を欠くものではないと説く。なるほどそれは、美少年に向かってその美貌と性格のよさと勇気を誉めあげ、彼が人生をよいものにするためには何を学ぶべきかを聞かせ、それを好意からの最美の贈物と思ってくれと言い添え、社交性を忘れてはならないが心を許すのは最大の明察を持つ人にだけとするように、と結ぶような内容である。彼が学ぶべきものというのは哲学で、精神を快楽に惑わされぬものにしてくれるのだという。これを「哲学の勧め」(プロトレプティコス)というジャンルに数えることもできるが、その哲学論はプラトンとイソクラテスの二番煎じで、たしかに誠実なものであるが感銘を受けるほどのものではない。これは哲学の勧めであるに劣らず、それをも道具にしてしまった誘惑の書なのである。

ここにあるのは、まぎれもないペデラスティ(少年愛)である。そしてペデラスティについての1つの明確な態度表明を見てとることができる。まず、世間のエロス語りのなかには少年に恥辱を与えるものが多く、恋慕者も行為で恥辱を与えることが少なくないが、そのようなことをせず分別を持って愛する人が「正しい」恋慕者なのだと言う。ただし、古代ギリシアの同性愛では、恥辱を与えるのはどのような性行為かという暗黙裡の認識があった、という事情はK.J.ドーヴァーが解明している通りである。ここでは、正しい恋慕者はそれを行なったり言いふらしたりしないとされているのであって、それ以外のことは一切しないとされているわけではない。実際このロゴスの最後では、少年に相手をよく見極めよと言っているが、見極めた後にどうすべきかは何も言っていない。また、古代ギリシアでは少年は恋慕者に言い寄られても、それに喜ぶそぶりを見せてはならないというのが通念であったが、このロゴスでは少年たちがみなそっけない態度をとりがちなことへの不満も示されている。

それにもまして印象的なのは、この弁論のなかにプラトン『パイドロス』へのかなりの対抗意識が見受けられることである。かの対話編は、パイドロスが弁論家リュシアスの書いたエロス論をソクラテスの前で読み上げてみせる場面で始まっていた。そのエロス論というのは、「君は君を恋慕している者ではなく恋慕していない私のような者にこそ身を任せるべきだ」と少年に語って聞かせるという破廉恥なものであった。私たちの弁論も、途中で第三者のエロス論を朗読するという同じ構成をとり、また誘惑の匂いも少なからず含んでいる。しかしその内容は、よい人生のためには哲学を学ぶ必要があるというまっとうなアドヴァイスまで織り込んだ、「正しい」エロス語りである。『パイドロス』は、エロスを契機として哲学(愛知)の本質を語ることをめざした大作であったが、こちらは小品ながらペデラスティのひとつの「正しい」形を示そうとした作品であると考えることができる。

ところで、先述したように、この弁論はデモステネス作品といっても偽作である可能性が少なくないと言われている。しかしこれが偽作であるかないかは論じても仕方がない。考えてよりおもしろい問題は、この弁論冒頭の弁者と、途中から読上げられるロゴスの作者のうち、どちらがデモステネスであろうか、という問いである。その答えは、やはり第7巻の解説をご覧ください。

ジェルバ島のユダヤ教徒の語りから
田村愛理

チュニジアのジェルバ島には、BC586年の第1次エルサレム神殿破壊に由来する最初のディアスポラ共同体と自称する千人に満たないユダヤ教徒が、2つの居住区、ハーラ・ケビーラ(大街区)とハーラ・スィゲーラ(小街区)に分かれて住んでいる。2020年はコロナ禍で中止となったが、筆者はチュニジアの友人と彼らの大祭エルグリーバを中心に調査をして来た。強く印象に残るのは彼らの持つアイデンティティの複雑さだ。彼らのライフヒストリーは、ヒトという社会的生物の柔軟で複合的なアイデンティティの在り方を示唆し、我々の視野を広げてくれる。

ラファエルさん(インタヴューした人物名は仮名)は、島の中心都市ホウム・スークで小さな宝石店を経営している。以前訪ねたユーセフさんの店が見つからずに訊ねに入ったのだ。彼は30代半ばの小柄な男性で、アンダルシア系であるという。彼は、ユーセフさんが最近体調を崩して店を閉めていること、イスラエルに移民したユーセフさんの息子は、暮らしに満足できずフランスへ移ったこと、また20世紀中頃に活躍し、近年フランスなどにおいても作品が注目されている銀細工師モシェ・ネムニに注目して世に出したのはユーセフさんだったことなどを話してくれた。島のユダヤ教徒は銀細工で定評があるが、ネムニは、トリポリから移住して来てジェルバ島で活躍した。その後チュニスに移りイタリア国籍を得たが、最後はイスラエルに移民したという。

ラファエルさんは島の生活が好きで、ここで暮らしていくつもりだが、今ポルトガルの国籍を取るために申請を出そうと思っていると言う。2015年にポルトガル政府は500年前のレコンキスタによるセファラディーム(イベリア半島出自ユダヤ教徒)追放を歴史的過ちとし、「ユダヤ帰還法」を制定し、彼らの子孫に市民権を付与するとした。スペインも同様の法を制定したが時限法で2019年に打ち切られ、国籍取得審査がより厳しかった。この話を聞いた時には500年という時が一瞬のうちに足元に押し寄せ、歴史が個人の生に結ばれて行く様を感じさせられた。

ホウム・スークのシナゴーグを案内してくれた80歳代の土産物店主ミハエルさんは、もともとギリシア系ユダヤ教徒で、2世代前にジェルバ島に移民した人だ。彼自身は長じて島を出て、フランスに渡り、結婚し子供も育てたが、結局この島に戻って来て、ここで死ぬつもりだと言う。医者になった息子はパリにいるが毎年のように過越祭の時には孫たちを連れて島に来る。隣の民芸服店主のヤーコブさんはトルコ系で、その近所でオシャレな洋服店を経営しているハナさんは、40代のイタリア系女性だが、イスラエルに行くよりこの島で商売をしようと自分の代で移って来た。これが西方系ユダヤ教徒の多いハーラ・ケビーラの現象で、東方系でより保守的なスィゲーラの方では定着度が高いのかといえば、共同体で最も権威があるエルグリーバ・シナゴーグの首席ラビの家系も16世紀にトリポリから来たのだし、この街区でインタヴューした女性の一族もチュニジア本土から移って来たという。ディアスポラ伝説とは裏腹に、実際にはハーラの人々の出入りは多い。

このような出自の多様性はユダヤ教徒に限らない。島の多数派のスンニーや少数派のイバードのイスラーム教徒も盛んに出稼ぎし、また各村の由来譚を聞いてみても、16世紀頃にリビアや本土から移住したという話が多い。キリスト教連合とイスラーム勢力の地中海攻防の戦乱の中で島は何度も侵略され、1310年のキリスト教徒側の占領時には人口の4分の3が虐殺されたり奴隷にされたという。このような歴史を顧みれば、多くの村は16世紀にオスマン帝国下に入ってからの比較的安定した時期に成立したことが窺われる。

島の住民は、アラブ、ユダヤ、アマジグ(ベルベル)、アフリカ系と実に多様で、拡大家族の居住する砦状の家屋を中心に屋敷地(メンゼル)ごとにまとまり、従来は外部者とあまり行き来しなかった。しかし、村外れや境界に点在する病癒しと縁結びに霊験あらたかという聖人廟への巡礼はよそ者にも許され、馳走の共食も行われる。これらの聖人はユダヤ教徒のエルグリーバ(客人の意)・シナゴーグの名の謂れとなった聖女のように、どの共同体にも属さない身元不明の漂着者である。ユダヤ教徒もイスラーム教徒も共有している「漂着聖人信仰」は、自然環境が厳しい上に絶え間ない侵略に晒された歴史の中で、人々に非境界的共生空間を提供し、移住や難民も多かった島の多元性を保障してきたと考えられる。

しかし、そもそも地中海自体が周囲の多様な人々を繋いできた場であることに鑑みれば、ジェルバ島の示す多元性はその一典型に過ぎない。これに比して、国民国家型民族アイデンティティを当然とし、物理的障壁を築きよそ者の移動を阻止しようとする国、あるいは難民も容易に受け入れようとしない心理的障壁を固守する極東の島国などは、後世の歴史家から「異端審問」にも匹敵する偏狭な閉鎖性の典型例と指摘されるのではないか、と思うのである。

表紙説明

地中海の〈競技〉17:カタルーニャ州の「人間の塔」/阿部 俊大

「人間の塔(カタルーニャ語ではカスティcastell)」は、イベリア半島北東部のカタルーニャ地方の伝統的な競技である。都市の祭日などに、チームごとに何層の塔を作れるか(組めるか)が競われる。カタルーニャの中心都市バルセロナでは、カタルーニャ各地の代表チームが集まって競われることもある。

「人間の塔」には、様々な世代の男女が参加する。参加者は、一般に揃いの色のシャツと白いズボンを身につけ、腰には、他の者が上に登るための手がかりや足場の役割も兼ねて、サポーターとして幅広の黒いベルトを巻いている。土台の部分は通常、頑健な成人男性たちが構成する。その上の部分は比較的体重の軽い若者たちや女性が構成し、さらに上に行くほど身軽な若い世代(高校生→中学生、といった感じか)が増えていく。塔の一番上の段が組み上がったら、最後に身軽な子供(小学生低学年くらいか)が組み上がった塔をスルスルと登っていき、一番上にたどりついて手を挙げたら成功である。その後、子供は塔を降りていき、上の段から順次、塔は解体されていく。この子供は、歳を重ねるにつれ、徐々に下の段を担当するようになっていき、大人になっても「人間の塔」に参加し続けることが可能である。このように「人間の塔」は、子供から大人まで、老若男女が参加して行われる競技であり、世代や性別を越えて団結を固める効果が期待される。さらに、周りで見ている、参加者の親族や友人たち、観客たちも、土台の支えに参加することができる。また、この「人間の塔」を組むには、集団での相当量の訓練が不可欠であり、参加者は年間を通じて訓練を積むそうである。これらの点からも、仲間意識を高め、共同体の団結を強化する効果を持つ競技といえるだろう。

この塔は、高いものでは8段や9段に及ぶ。上の段に行くほど年少者が構成するわけであり、塔が途中で崩落した際の危険性が心配されるが、現地のある雑誌によると、2005年の段階で、塔が失敗する確率は4%以下だったそうである。また、上に登る子供はヘルメットのような防具を被り、落ちる場合も途中の段や周辺に詰めかけている観客が受け止めるので、それほど大事故は多くないそうである。とはいえ、19世紀から21世紀にかけ、3件の死亡事故が知られており、それなりの危険を冒す競技であることは間違いない。

カタルーニャ南部、タラゴーナ近郊のバイスVallsという都市がこの競技のルーツとされ、18世紀には言及が見られる。カタルーニャの南のバレンシア地方のムイシャランガmuixerangaという競技が伝播し、発展したものとされる。その後、バイス周辺のパナデス地方へ広がり、20世紀にはカタルーニャ全体に拡大した。特にメディアの普及と共に人気が高まり、1990年頃からそれまでに行われていなかった地域にも拡大した。2010年にはユネスコの無形文化遺産に認定されている。