地中海学会月報 MONTHLY BULLETIN

学会からのお知らせ

第44回大会について

月報430号、431号の「学会からのお知らせ」でお伝えしましたように、今年6月13、14日に関東学院大学金沢八景キャンパスにて開催する予定でした地中海学会第44回大会は、11月21、22日に延期して同会場で開催することとなり、目下準備を進めています。
しかしながら、延期された日程で大会を開催できるかどうかは、今秋以降の新型コロナウイルス感染拡大状況に大きく左右されますので、場合によっては再度、第44回大会の開催について検討せざるを得なくなるかもしれません。
いずれにしても、第44回大会を予定どおり11月21、22日に関東学院大学金沢八景キャンパスにて開催するかどうかは、次号の月報でお知らせしますので、ご注意下さい。

第44回地中海学会総会

第44回地中海学会総会は、第44回大会が新型コロナウイルスの感染拡大のため延期となったことから、書面審査にて開催され、正会員176名の投票を得て、定款第28条に基づき成立しました。
2019年度事業報告、2019年度決算、2020年度事業計画、2020年度予算がそれぞれ賛成176票、172票(未承認1票、保留3票)、176票、173票(未承認1票、保留2票)で原案どおり承認され、2019年度の会計/会務執行を適正妥当と認めた大髙保二郎・野口昌夫両監査委員による監査報告も175票(保留1票)を得て承認されました。また、2021年度からの会員種別変更、学生会員の入会金・年会費の変更(それぞれ3千円から2千円、6千円から5千円への値下げ)、割引の新設についても賛成174票(保留2票)で原案どおり承認されています。
紙幅の関係上、第44回総会で承認された2019年度事業報告、2019年度決算、2020年度事業計画、2020年度予算の詳細は次号掲載となりますが、取り急ぎ集計結果のみご報告いたします。

学生会員の入会金および会費の改定

地中海学会の活動の継続およびさらなる発展のため、第44回地中海学会総会において学生会員の入会金と会費を以下のように改定することが決定されました。
【現在】 学生会員の入会金は3,000円、会費は一ヶ年6,000円とする
【改定後】学生会員の入会金は2,000円、会費は一ヶ年5,000円とする
なお、この会費等改定は、2021年度(2021年4月1日)より適用されます。

論文募集

『地中海学研究』XLIV(2021)の論文・研究動向および書評を以下のとおり募集します。
論文・研究動向 32,000字以内
書評 8,000字以内
締切 2020 年10 月末日(必着)
投稿を希望する方は、テーマを添えて9月末日までに学会誌編集委員会(j.mediterr@gmail.com)までご連絡下さい。
なお、本誌は査読制度をとっています。

新事務局長および学会本部の変更

月報431号の「学会からのお知らせ」でお伝えしたとおり、島田誠氏の事務局長任期満了により、本村凌二会長より飯塚正人氏が新事務局長に委嘱されました。これに伴い、学会本部を以下のとおり変更いたします。
旧:学習院大学 島田誠研究室
新:東京外国語大学 飯塚正人研究室

アテナイ民主政と3密
桜井 万里子

3密という語は、仏教用語の三密は別として、今年初めまではこの世に存在していなかった。ところが、コロナ禍の今、この語を知らない者はいない。思えば、古代ギリシア、アテナイの疫病蔓延は3密ゆえに深刻度を高めたのだった。月報430号でこの疫病に言及された佐藤昇氏同様、私も現在の事態のなかでアテナイの疫病について思いを致さざるを得なかった。

前431年、スパルタ陣営との衝突を避けることができないと観念したペリクレスが、ペロポネソス戦争の開戦を前にして提案した作戦では、海軍国であるアテナイは海上での戦闘に注力し、市民および在留外国人は軍船に乗り組み、兵士以外のアテナイ住民については、中心市と外港ぺイライエウスとを取り囲む城壁内へ移住し、農村部を空にするというものだった。

ただし、城壁内への移住は戦争のシーズンである晩春から秋の播種の時期が来るまでで、兵士として従軍した市民や在留外国人は、戦争シーズンが終われば、自分の農地へ戻り農作業に従事することができた。

アテナイ市民とその家族たち、在留外国人(メトイコイ)とその家族、そして奴隷たち、これらすべてが、自分の家や農地から離れて、市内に移住したのだった。家畜などの動物はエウボイアや近隣島嶼に移した。農村部で暮らしていた市民たちにとっては、慣れ親しんだ自宅での日常生活を放棄せざるを得ないことに、悲哀と憤りを覚えた、という(トゥキュディデス、第2巻16章)。

トゥキュディデスによれば、市内に家を所有する者や友人、親類のもとに避難できた者は数少なく、大多数の者たちは町の空地や、神社の境内にまで家を建てた、と述べている(第2巻17章)。おそらく、バラックのような家屋を建てたのだろう。市内は過密状態、まさに3密(密集、密接、密閉)の状態で、もちろん上水道はなく、下水道も簡易なものだった。疫病蔓延は必然の結果だった。

患者たちの病状、彼らに対する周囲の者たちの態度、死体の処理などを詳述するトゥキュディデスは、「私は病状の経過について記したい。またいつ何時病魔が襲っても、症状の経過さえよく知っていれば誤断を防ぐよすがになろうと思い、自分自身の罹病経験や他の患者の病態を実見したところをまとめて、主たる症状を記したい(第2巻48章、久保正彰訳)」と述べている。歴史家としてのトゥキュディデスの矜持をここにみることができる。

戦争のシーズンのみ城壁内に移住していたアテナイ住民たちが、年間を通して籠城しなければならなくなったのは、前413年にペロポネソス軍がアテナイ国内のデケレイアに陣地を設営し、常駐してからだった。以後、国内での農業が不可能となったアテナイは、海外から食糧、その他を輸入せざるを得なくなる。アテナイが降伏したのは、輸入食糧が搬入される港ぺイライエウスがスパルタ側の軍船で封鎖されたため、食料が逼迫し、餓死者が出るに及んでのことだった。

ところで、3密は疫病蔓延の際ばかりでなく、平時のポリスも3密に支えられていた。ポリスの市民生活に不可欠のアゴラは、アゲイロー(集めるの意)に由来する言葉である。アゴラは、市民が集まって話し合うという、市民共同体ポリスに不可欠の場だった。また、ポリスは、言うまでもなく市民共同体であって、自治・自立を第一としていたが、古代ギリシア世界においてこのような市民共同体が成立し得たのは、ポリスの存立基盤たる軍事力の中核だった重装歩兵の密集隊戦術に因るところが大きかった。貴族、上層平民から成る重装歩兵集団が相互に体を密着させて防御し合うこの戦術は、市民共同体の結束を高め、ポリス存立基盤を強化した。

さらに、アテナイの民主政の担い手は成年男子市民に限られていて、ポリスの最高議決機関である民会は、市民以外を排除した閉鎖空間だった。そこでの議論を経て、多数決で政策が決定される。時には、自説を述べる市民同士の丁々発止の議論が展開した。弁論術が発達したのも道理である。

このように、アテナイ民主政はいわゆる3密に支えられていた。一方、コロナ禍にある我々は3密を避けなければならない。コロナ禍後の世界で、民主主義はどのような形をとることになるのだろうか。デジタル機器を活用すれば解決できるのだろうか。もちろん、古代ギリシアの直接民主政と現在の議会制民主主義はまったくの別物であることは承知の上で、密集、密着することで生じる共感の高まりや相互扶助意識を、デジタルは補ってくれるだろうかと問わざるを得ない。コロナ禍が過ぎたとき、私たちはより一層の創造と工夫を重ねて、新しい世界への模索をしなければならないだろう。

アヤソフィアのモスク「回帰」に寄せて
宮下 遼

イスタンブルには地中海沿岸を見渡しても抜きんでた数の堂塔廟舎が立ち並ぶ。1453年の征服以降、歴代の帝王、群卿が戦勝のたびに珍宝万貨を費やしてモスクを中心に学院や商店街、隊商宿、公衆浴場などから成る巨大な複合施設を築き、それをローマに倣って7つあるとされるこの街の丘の頂に配置した結果である。彼らはそうすることで、正教徒の街のシルエットをイスラームの都市のそれへと描き替えるのに心砕いたわけであるし、また多大な税金が注がれる遠征の成果が公共事業として臣民に還元されていたと見ることもできる。そのため戦果を見ずに大伽藍建設に取り掛かり、しかも前例のない6本ものミナレットを聳立させたアフメト1世は大いに顰蹙を買ったという。これが、いまやオスマン建築の最高傑作と称えられるスルタン・アフメト・モスク、別名ブルーモスクである。

堂宇の規模でいえばその後、このブルーモスクを凌駕する伽藍は現れないものの、1856年落成のオルタキョイ・モスクのような傑作を幾つも生み出しながら実に400年にわたって帝都各地で大モスク建設は続けられた。しかし、1923年に共和国になると、首都ではなくなったイスタンブルに貴重な血税を注いでまで大伽藍が建設されることはなくなる。こうした状況が大きく変化したのが現在、2010年代に入ってからで、ここ数年でイスタンブルには3堂もの巨大モスクが姿を現しつつある。

第一はチャムルジャ・モスク。チャムルジャはイスタンブルの旧市街と新市街を一望の下に収めるアジア岸の丘上の一地域で、ルネサンス期の西欧人の手になる都市鳥観図は大抵、ここから描かれた。この景勝地に2019年3月に直径34メートル、高さ72メートルという大ドームを冠するトルコ最大のモスクとして落成した。しかし、話題になったのは本堂よりもむしろ6本を数えるミナレットの方だ。オスマン朝期、ミナレットを複数基建てられるのは帝王か、許しを得た大官のみで、まして6本となると世界に唯一、先述のブルーモスクのみ。各地でモスクを含む公共事業を猛然と推進するエルドアン大統領は、ついにかつてのオスマンの帝王たちに並び立つつもりではあるまいかと邪推されもした。

第二はタクスィム・モスク。こちらはイスタンブル新市街の丘の上に開かれた同名の広場の西側に建設中である。タクスィム広場は国内有数のモダンな界隈であり、トルコ共和国の顔役を以て知られる場所。広場中央には国父アタテュルクの銅像が鎮座して、政教分離を旨とする世俗主義国家の行く末に睨みを利かせてもいる。現与党のイスラーム保守寄りの政策を違憲として巻き起こった2013年の反政府運動もここではじまった。いうなれば世俗派の象徴的な空間でもあるこの広場に大モスクが建設されるのだから、こちらも大いに物議を醸した。疫禍で延びたとはいえ落成は間近である。

そして最後の1堂がアヤソフィアである。2020年7月、旧帝都を飾るほとんどすべてのモスクの雛形となったこの建物をモスクへ「回帰」させる旨が国家評議会によって決定された。1453年にメフメト2世が入堂して以来、宮城近傍にあって歴代諸帝が礼拝を行う場となり、やがて帝都の諸モスクの中で筆頭に格付けられるに至ったのがこのアヤソフィア・モスクである。オスマン朝にとっては東ローマ帝国の征服をなによりも象徴するトロフィーでもあった大伽藍は、一方ではギリシア独立戦争やトルコ独立戦争、キプロス紛争などの騒乱のたび、正教徒たちによって奪回されるべき聖所としても喧伝された。今回の決定に一番に反対を表明したのもロシア、次いでギリシアであった。

そもそも、ニケの乱での焼失に伴う再建から916年間を東方教会として、482年間をモスクとして用いられたアヤソフィアがアタテュルクの署名入りの決議書を以て博物館へ改組されたのは1934年のこと。宗教・民族対立の火種となるのを避ける目的があったのは明白である。爾来、アヤソフィアは多宗教融合の象徴として、特別なときに正教の聖歌やクルアーンの朗誦が許可される以外は非宗教的な観光施設として時を刻んできた。今回、34年の議決書に残る国父の署名の真贋を巡る議論さえ出来しながらも下されたモスク「回帰」決定には国内からも異論が多く、今後アヤソフィアがモスクとして定着するかは不透明である。まずは7月24日に行われる予定の最初の集団礼拝を見守る必要がある。

21世紀に御目見えしたイスタンブルの大モスク群は、そのいずれもが四半世紀近く続くイスラーム保守政権下で建設されている。今回の「回帰」運動を率いてきたブルサの数学教師は、次はアテネに残るオスマン期宗教施設の復活だと息巻く。こうした運動にどのような政治的意図が汲み取られるべきかは敢えて措きたいが、新しい3堂の大伽藍が1日も早く7つの丘の街のシルエットに溶け込み、純然たる祈りの場へ「回帰」することを願うばかりである。

新型コロナウィルス禍の中で劇と音楽について考える(記録)
安川 智子

2020年4月12日(日)。緊急事態宣言が出て5日目。この日は世田谷パブリックシアターで、フランスの劇作家ヤスナミ・レザの3人芝居『Art』を観に行く予定にしていた。大好きな大泉洋が出演するということで、本当に楽しみにしていた。イベント事業はすでに1か月以上前の2月26日から、「2週間」の自粛を要請されていて、「とりあえず2週間頑張ろう、4月12日の劇は行けるだろう」と、私だけでなく誰もが思っていたはずだ。音楽業界も劇業界も尋常ではない打撃を受けているが、医療崩壊を目前にして、自身の苦境を口にすることさえ憚られる事態になるとは、誰が予想しただろうか。

私自身は、3月に登壇を予定していた2つのシンポジウムが飛んだ(延期)。一つは「詩と音楽のポリフォニー」と題したシンポジウムで、もう一つは、ポール・クローデルに関わるシンポジウムだった。いずれもフランス文学を土台とする場で音楽について語るもので、私にとっては専門外の領域にかかわるため、準備の大変さを見越して、他の予定をほとんど入れていなかったことで、逆に救われた。

先の見通せない中、これまで通りの研究を続けるにも、どうも集中できない。しかしここ数年、フランスのオペラについて色々考え、大学の授業や市民講座で話し、あるいは共著の編集(澤田肇他編『《悪魔のロベール》とパリ・オペラ座──19世紀グランド・オペラ研究』上智大学出版、2019年)に携わる中で、漠然と感じていた方向転換の必要性が、今回の非常事態下でより一層明確化されるようになった。19世紀のフランスの音楽家にとって、「オペラ」は避けて通れぬ最重要ジャンルであり、この時代のフランス音楽を研究する者にとっても、オペラ事情は必ず押さえておく必要がある。一方で、フランス人にとっての「オペラ」はイタリア人やドイツ人のそれとは少々異なり、大前提として「劇の伝統」がある。劇と音楽の結びつきは、常に脆いバランスの上に成り立っていたが、20世紀に入ると、「劇」の要素を前面に出した新たな音楽劇の可能性が次々と試みられるようになる。そして、「劇」が渇望されるときというのは、大抵背後に社会不安があり、劇を通じて、その社会の闇があぶり出されるのである。

私はここ数年、オペラや音楽よりも、劇を観たいという欲望に勝てずにいた。外出自粛のさなかも、音楽を聴きたいという思いは、残念ながらあまり湧いてこず、活字の世界に没頭した(というほど読書もできなかったが)。しかしそのような「劇」に、ふと音楽が必要とされる瞬間が訪れる。

稀代の劇作家ポール・クローデルは、名文「劇と音楽」(1930)のなかで、このことについて余すことなく語っている(以下引用はすべて渡辺守章氏訳)。たとえば感動的なはずなのに違和感のある無言のシーンで、「楽器の響きが場面に雰囲気とそれを包み込む物、位、距離を与え」る、そのような体験をもって、クローデルは駐在大使として日本に滞在し(1921~27)、歌舞伎や能を体験することで、「劇の音楽とは何かを理解した」。それは、「純粋にリズムのみの、あるいは打楽器だけの手段により、言葉よりさらに直接的でさらに荒々しい方法によって、われわれの感動に衝撃を与え、運びを進めることをねらった音楽」である。

演劇が苦手だった自分がこの世界にはまり始めたのは、栗山民也氏演出の『フェードル』(大竹しのぶ主演)がきっかけで、その後も『トロイ戦争は起こらない』『アンチゴーヌ』『カリギュラ』など、栗山氏演出(翻訳はすべて岩切正一郎氏)の演劇を観に行くことが、私の最大の楽しみとなった。最初に抱いたのは、いわゆる「劇音楽」の存在感がほとんどない、という印象で、しかしその空間には、間違いなく、音楽的リズムがもたらす緊張感があった。他の演出家の劇を観たときに、はめ込まれたバックグラウンドミュージックのような「劇音楽」に遭遇し、栗山氏の音の使い方と、岩切氏翻訳の言葉がもつリズムの相性は最高だ、と改めて実感した。しかしこれらの劇の一部分を今YouTubeで観ても、まるで別物である。劇と音楽には、やはり空気が必要なのである。

人間の呼吸と一体となった絶妙なバランスと緊張感のなか、音楽の一押しで、固まった感情が堰を切ったように流れ出るということがある。恥ずかしながら今回自分がようやく音楽を欲したのは、志村けんの訃報を聞き、静かな研究室で、子供時代を思い起こしているときだった。プーランクの《エディット・ピアフを讃えて》を弾きながら、涙が止まらなくなった。

原稿の提出期限がきた。7月2日、再び東京の1日感染者数が100人超え。7月下旬には、過去最多を更新した。原稿を提出する頃に、大変だった4月を振り返ろうと記録を始めただけに、この状況は残念である。劇が観たい。

マルセルの海──地中海・瀬戸内海・南太平洋
末永 航

今年の2月、住友グループの住友史料館から、従妹と私のところに一通の電子メールが転送されて来た。アメリカの大学の歴史研究者Iさんからのもので、伊庭貞剛の子孫と連絡をとりたい、という依頼だった。この時から、新型コロナが広がる中、このIさんと従妹と私、3人のやりとりを続けながら、思いがけない勉強をさせてもらうことになった。

幕末から明治の激動の時代、住友の近代化を担ったのは広瀬宰平とその甥、伊庭貞剛という番頭だった。2人の住居は現在どちらも重要文化財となって保存されている(新居浜市広瀬歴史記念館、大津石山の住友活機園)。

貞剛には6人の息子、4人の娘がいたが、私の曽祖父で在所を守った長男以外、男子は住友系の企業で働いた者が多い。しかし次男の簡一と四男の慎吉はちょっと変わっていた。慎吉は、住友家が援助していた画家鹿子木孟郎の2度目のフランス留学にくっついて親の許しなくパリに行き、アカデミー・ジュリアンで絵を学んだ。しかし帰国後は郷里の教員、神主、町長、その他いろいろな事業を起こしたりと、なんだか自由な生涯を送った。

簡一はアメリカに留学したが、弟を呼び戻すためにパリに行き、自分がフランス人と結婚してしまう。

簡一には2女1男があった。長女エドモンドは戦争中、日本で知り合ったバルセロナの彫刻家アウダル・セラと結婚、戦後父母と共にバルセロナに住んだ。セラについては最近研究が進み、この月報の396号(2017年1月)に松田健児さんが紹介してくれている。私にとっては、せっかちだけど気のいい伯父さんだった。

簡一の末子はマルセルという男の子で、うちの祖母はいつもマッセルと呼んでいた。今回問い合わせがあったのはこの人についてだった。母も一度しか会っていないというし、もちろん私も従妹も会ったことがない。

実はマルセルについては、口惜しい思いをしていた。私が学生だった学習院大学に丸山熊雄先生というフランス文学の先生がいらっしゃって、何度も数人のお酒の席でお相伴させていただいたのだが、ずっと後になって先生の『一九三〇年代のパリと私』(1986年、鎌倉書房)という回想記を読み、巻頭の写真にマルセルが写っているのを見つけたのだった。いろいろお話を聞きたかったが、その時先生はもう亡くなっていた。

写真はパリの仲間内の集合写真で、顔ぶれは華やかだ。丸山先生とピアニスト原智恵子、ヴァイオリニスト諏訪根自子、作家きだみのる、建築家坂倉準三、文化学院の西村伊作の子弟で学院を引き継ぐ久二とユリ(後の坂倉夫人)など。そこにマルセルがいる。

エドモンドが日本に来た時、原智恵子さんの伝記を執筆中だった石川康子さんと坂倉ユリ先生をお訪ねしたことがあったが、その時はまだこの本のことを知らなかったように思う。

マルセルのことを「面白い奴でね」と言う丸山先生によると、当時「古い港の通りの立派なアパルトマンに暮らしていた」伊庭一家を訪ねて1935年の夏にカンヌに行かれ、先生たちの下宿にはまだ有名になる前の写真家ロバート・キャパも遊びに来たというからマルセルも会っていたかもしれない。

マルセルたちはその後パリに移り、やがて日本に帰って神戸近辺に住み、マルセルは鉱山関係の仕事でフランス領ニューカレドニアに行く。

1940年、フランスがドイツに降伏、ドゴールはイギリスで自由フランス臨時国民委員会をつくるが、その基盤は植民地だった。ニューカレドニアもそのひとつで、この年三国同盟を結んだ日本は敵国となる。ここにいた日本人千数百人は着の身着のままオーストラリアに強制連行され収容所に入れられたのだった。マルセルもこの中にいたが、日本人のために、ある勇気のいる行動をとったらしい。まだ論文発表前なので、それについては書けないのだが、今回Iさんが新しい史料を発見されたという。

その後マルセルは一度日本に戻り、今度は日本軍に召集されフィリピンに送られた。山下奉文大将の通訳をしていたと聞かされてきたのだが、調べてみると、戦闘末期ルソン島北部に逃走した山下司令部とは違う方角の、マニラ西方の田舎で戦死していた。34歳だった。

晩年バルセロナにいた母親はマルセルの墓を何とかつくろうとするが、スペイン人ではないので難しかったという。ずっと後になって、エドモンドの家族が日本に来た時、うちの祖母と母が神戸のお寺に位牌を収めて供養した。

カンヌの地中海、神戸の瀬戸内海、ニューカレドニアとフィリピンの南太平洋──パリを除けばマルセルはいつも海を見て生きていた。今、地中海学会の皆さんに知ってもらって、少しは喜んでくれているような気がする。

自著を語る101
『コンスタンティノープル使節記』(知泉学術叢書10)
知泉書館 2019年12月 272頁 3,300円+税 リウトプランド・大月康弘 訳

文章を書く、という作業にどのような意味があるのだろう。

高邁な思想・観念を伝える哲人。ひとの生き様に真実を見出す文学者。世相を読むジャーナリスト。人びとの暮らしから社会の仕組みを切り出す研究者。

著者の想いが奈辺にあるのだろうと想いを巡らしながら本書の翻訳を終えたいま、彼はそのすべてを体現していたのではと思えてならない。

10世紀の人リウトプランドと付き合って20年。いささか厄介な彼の文章を読み、書肆(知泉書館)の賛同を得て、旧臘、拙訳を上梓した。

そのラテン語文が、いずれの分野に属するものなのか。何をめざして書かれたのか。散りばめられた古典の引用、隠喩の解読に苦労しながら、いつも彼の熱い想いが身近に迫っていたものだった。

彼は、数奇な運命を辿った人物だった。

ランゴバルト系の富裕な家に920年頃生まれ、973年に没した。少年時代にイタリア王フゴ(アルル伯、プロヴァンス伯でもあった)の宮廷に出仕し、パヴィアで助祭となった。フゴが、イタリア王位を巡る戦いでイヴリア侯ベレンガリウス2世に破れると、後者の宮廷に出仕、その間に最初のコンスタンティノープル訪問を果たしている(949年)。その後、主人ベレンガリウス2世と仲違いをして、アルプスを越えてオットー1世のもとに逃亡、その聖堂に勤務したのち、オットーのイタリア政策に従ってイタリアに戻り、962年までにはクレモナ司教に任ぜられていた。

彼には4つの著作があった。『使節記』『報復の書』『オットー史』『説教』である。主著『報復の書』Antapodosisは、888-949年にわたるビザンツ・ドイツ・イタリア間の歴史を扱った未完の長編である。上原専禄氏の紹介によって、わが国でも広く知られた作品だろうか。それぞれの所業には天の報いが降りかかる。各地の支配者の所業を総まくり的に論断し、『使節記』にも通じる鋭い舌鋒が垣間見える稀書だった。

リウトプランドは、オットー1世(フランク王在位936-973年、皇帝として962年-)の名代として、968年6月4日から10月2日まで帝都コンスタンティノープルに赴いた。『使節記』は、その外交交渉の模様を伝える貴重な「記録」である。ビザンツの皇帝、宮廷人らの挙措描写を交えて、主人オットーへの報告書の体裁のもとに書き綴られた。当時、オットー1世は、イタリア情勢をめぐってビザンツ帝国と争っていた。使節団の目的は、以下の4点にあったようである。

①962年にオットー1世が帯びた皇帝称号問題。
②南イタリア地域における諸侯の帰順問題。
③ビザンツ側のイタリアにおける拠点バーリをめぐる攻防膠着問題。

以上の3点をめぐる打開が、リウトプランド一行の旅の目的だった。問題解消のために「和平」締結をめざして赴いた、と記され、一連の問題の打開策として、
④オットー2世とビザンツ皇女との婚姻交渉、を目的に使節は派遣されていた。

彼は、ギリシア語、ラテン語、フランク語を操り、教養高い司教にして外交官だった。その頭脳をフル回転してビザンツ宮廷人に浴びせた罵詈雑言が本書である。旅行記といえば旅先の様子を情緒豊かに書くものが多かろう。しかし、彼の場合はとにかくコンスタンティノープルの宮廷人への怒りを積み上げていた。

古典からの引用には、驚くとともに閉口した。高踏的な隠喩の使用法は勉強になったとはいえ、自身の教養のなさに狼狽えるばかりでもあった。果たしてこのテキストをきちんと理解できる人間が、オットー周辺の将兵にどれほどいたのだろうか。そんな訝る想いも去来した。とはいえ、『使節記』は、10世紀半ばの西欧=ビザンツ関係をうかがい知る上での重要史料として、長らく学界で重視されてきたものだった。ビザンツの皇帝や宮廷人に対する辛辣な筆致の背後に何を読み解くか。行間ににじみ出るリウトプランドの主張や通念を、どう理解すべきというのか。

ビザンツ宮廷人についてのシニカルで辛辣な言及は、額面通りに首肯できるものではない。しかし、それ自体興味深い証言といえなくもない。史料(テキスト)を通して伝えられる事実(ファクト)が、いずれ書き手の主観的事実でしかないのであれば、その知的フィルターを通して投映される物語(フィクション)も、また歴史の真実といえなくもない。

事実と物語のこの関係性を縦軸に、そして10世紀の世界事情を横軸に、諸賢にもリウトプランドの知性と個性を楽しんでいただければ幸いである。(大月康弘)

表紙説明

地中海の〈競技〉4:マムルーク朝期エジプトの馬術/辻 明日香

表紙はマムルーク朝期エジプト(1250-1517年)にて描かれた、『騎士道(フルースィーヤ)の書』の挿絵である。左上ではマムルーク(奴隷軍人)が棒で標的を攻撃する練習を、右上と左下では刀剣での戦いの練習をしており、右下では刀剣を棒に置き換えている。

中世イスラーム社会を代表する《競技》といえば、おそらく馬術であろう。これにはアラブの伝統としての競馬や、宮廷で人気があったポロ、流鏑馬に類するものが含まれ、アラブの伝統としての「騎士道(フルースィーヤ)」の重要な部分を占めていた。

『騎士道の書』はアッバース朝以降人気ある文学ジャンルであったが、マムルーク朝期には軍事訓練マニュアルの意味合いを帯びてきた。表紙の挿絵が描かれた時代、スルタンによって購入されたマムルークはまず軍事学校に入れられ、良きムスリムとなるための教育と、フルースィーヤ(弓射、槍術、馬術など)の教育を受けた。

マムルークは学校を卒業した後もポロ競技などを通じて訓練を続け、専用の競技場がカイロ郊外に設けられたが、これら訓練も競技場も、14世紀後半に廃れ始めた。その理由としては十字軍やモンゴルの脅威が去った1320年代以降、マムルーク朝の領域は大規模な戦闘と無縁であったということが挙げられる。平和な時代が続くと、訓練が疎かになっていくのは当たり前であろう。

こうした状況が突如変化したのが、1365年の、キプロス王率いる十字軍による、アレクサンドリア襲撃である。驚いたマムルーク朝は直ちにキプロス遠征に取り掛かったが、内紛や平和ぼけにより調整は困難をきわめた。このにわか再軍備の過程で、『騎士道の書』挿絵入り手稿本は描かれたのであろう(現存する最古の手稿本(表紙左下)は1366年に製作されている)。

馬術訓練が廃れたもう一つの理由として、ペストが挙げられるかもしれない。1340年代以降、エジプトは繰り返しペストの流行を経験した。当初は致死率においてマムルークも一般の人々も大差なかったようであるが、15世紀以降はマムルークや奴隷の致死率が一般のそれを大幅に上回るようになった。草原地帯からエジプトに連れてこられたマムルークには、エジプトのペストに対する免疫がなかったのであろう。

とすると、15世紀を通じて挿絵入りの『騎士道の書』が製作され続けた背景には(表紙左上と右下は1470年製作)、軍事技術の継承問題があったのかもしれない。ペストの度重なる流行に、エジプト経済は立ち直ることができず、軍事力も低下した状態ではオスマン朝に立ち向かえず、1517年にマムルーク朝は滅んだ。ポストコロナの世界を考えると暗澹たる気持ちになるが、ユーモラスな表情やポーズからなる挿絵を楽しんでいただけたら幸いである。(表紙左上と右下:©︎Bibliothèque nationale de France MS arabe 2824, fols.20r,70r/左下:©︎The Trustees of the Chester Beatty Library, MS Ar 5655, fol.149/右上:©︎The British Library Board, MS Add. 18866, fol.135.)