地中海学会月報 MONTHLY BULLETIN

学会からのお知らせ

4月研究会

下記の通り研究会を開催します。奮ってご参集下さい。

テーマ:川村清雄のヴェネツィア滞在後期について
発表者:石井 元章氏
日 時:4月16日(土)午後2時より
会 場:東京大学本郷キャンパス法文1号館2階215教室
参加費:会員は無料,一般は500円

本発表は新資料を基に,これまで不詳であったヴェネツィア滞在後期(1879-81)の川村の活動を明らかにすることを目指す。川村は1876年2月ヴェネツィア到着後美術学校に在籍するが,1878年以降はその活動を学校の外に求め,ヴェネツィア芸術サークルに参加して,イタリア人ばかりでなく当時ヴェネツィアに集っていたスペイン人や英国人,ロシア人を含む国際的な芸術家サークルと積極的に交わっていた可能性がある。

第40回地中海学会大会

第40回地中海学会大会を6月18日,19日(土,日)の二日間,首都大学東京(八王子市南大沢1-1)において下記の通り開催します。

6月18日(土)
13:00~13:10 開会宣言・挨拶
13:10~14:10 記念講演「ミケランジェロの芸術」
      長尾 重武氏
14:25~16:25 地中海トーキング「ニュータウンの古今東西」
      パネリスト:島田 誠/中島 智章/松原 康介/吉川 徹/
      司会:山田 幸正 各氏
16:40~17:10 授賞式 地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞
17:10~17:40 総会
18:00~20:00 懇親会

6月19日(日)
10:00~12:00 研究発表
  「バナサ青銅板に見るマルクス・アウレリウス治世の北アフリカ」 大清水 裕氏
  「ダンテにおける《太陽と月の比喩》」 星野 倫氏
  「ジュゼッペ・ヴェルディのオペラ《リゴレット》(1851)における作劇法
    ――《ヴァンドーム公》(1850)を手がかりとして」 園田 みどり氏
  「パブロ・ピカソとアンドレ・マッソンの闘牛絵画がもたらしたもの
    ――スペイン内戦に直面した隣国フランスを舞台に」 宮田 渚氏
13:00~16:00 シンポジウム「地中海の水と文化」
       パネリスト:飯田 巳貴/樋渡 彩/深見 奈緒子/
      (司会兼任)陣内 秀信 各氏

新年度会費納入のお願い

2016年度会費の納入をお願いいたします。自動引落の手続きをされている方は,4月25日(月)に引き落としさせて頂きます。ご不明点のある方,領収証を必要とされる方は,事務局までご連絡下さい。
退会希望の方は,書面にて事務局へお申し出下さい。4月15日(金)までに連絡がない場合は新年度へ継続とさせて頂きます(但し,会費自動引落のデータ変更の締め切りは,事務処理の都合上4月8日となります)。会費の未納がある場合は退会手続きができませんので,ご注意下さい。

会 費:正会員 1万3千円/ 学生会員 6千円
振込先:口座名「地中海学会」
    郵便振替 00160-0-77515
    みずほ銀行九段支店 普通 957742
    三井住友銀行麹町支店 普通 216313

研究会要旨
神話の語りと叙事詩の性質
――オウィディウス『変身物語』における統一性をめぐる考察―― 河島 思朗 12月19日/東京大学

オウィディウス(紀元前43-後17)はエレゲイアと呼ばれる恋愛詩のジャンルで有名になった古代ローマ時代の詩人である。彼は,紀元後8年頃に『変身物語』を書き上げた。『変身物語』は,全15巻,約12000行のなかに,約250編の様々な神話を語る物語群であり,叙事詩の韻律(ヘクサメトロス)で歌い上げられている。小さな物語・神話の寄せ集めでありながら,叙事詩であることをどのように理解すべきか。叙事詩として有すべき統一性はあるか。統一性があるとするならば,どのようなものか。作品研究の重要な焦点は,物語群でありながら叙事詩であるという「矛盾」に絞られている。

本発表は,まず初めに『変身物語』の冒頭部分,「序歌」と呼ばれる箇所を考察することによって,作品の性質と企図を議論し,問題の所在を明らかにした。序歌については多様な解釈がなされており,序歌の理解は,各研究者の作品に対する態度を表すことになる。
古典文学作品,とりわけ叙事詩においては,序歌に作品の主題が描かれる。『変身物語』の冒頭4行も序歌の役割を果たしている。内容としては,「変身を主題とした多彩な話が,歴史的経過に即しながら並列されるにとどまらず,ひとつの途切れることのない歌を構成して,織り成されていること」,そのことが作品の根底をなす詩的技法であると理解できる。しかし,この序歌の宣言に関して,先行研究はその規則にしたがって作られてはいるが,例外が多々あると解する。とりわけ,叙事詩に相応しい統一性については,その欠如が指摘されている。

そこで,序歌部分をさらに細かく検証し,『変身物語』が叙事詩の形式をあえて選択している点を明確にした。具体的には,Kenney(1976)がillasをilla(2)に校訂したことをもとに,序歌に表される文学形式への示唆を確認した。「途切れることのない歌を導いてください」(4)という表現は,カッリマコスや新詩人派,ウェルギリウス『牧歌』の文学形式の継承を示唆する。その一方で,叙事詩の詩作の意志をも表している。同様に1~2行にも文学形式への示唆が見られる。

その結果,「新たな叙事詩」を作り上げようとする詩人の意志が明確になった。『変身物語』は一人の人物や出来事を中心的に描き出すことによって,叙事詩の統一性を呈する作品ではない。カッリマコス以降の新たな技法をも受け継ぎ,詩人自身が生涯書き続けたエレゲイア詩の要素を多分に含みながら,新たな叙事詩を試みた。そこには,新たな統一性の在り方が包含されている可能性がある。では,『変身物語』が新しい叙事詩であるならば,その統一性はどのように表されるであろうか。

本発表は第10巻に含まれる神話を具体例として,『変身物語』における統一性の原理を垣間見た。

243~739行には,伝説の詩人オルペウスを語り手として,大きく3つの恋の物語が含まれている。最初に「ピュグマリオーンの物語」,次に「ミュッラの物語」,そして「アドーニスの物語」が語られる。そのアドーニスと女神ウェヌスの恋の物語のなか,524行で,「(アドーニスは)いまやウェヌスさえをも喜ばし,母親(ミュッラ)の情熱の復讐をしている」という一文が語られる。この「母親の情熱の復讐をしている」という言葉の解釈をめぐって議論がなされ,いまだ明確な理解が得られていない。本発表は,3つの物語群の連関を考慮することで,この一文の解釈が可能になることを明らかにした。

3つの物語は独立した個別の神話であると理解されている。しかし,物語群に複数の共通点を見いだし,その観点から考察したときに,物語が相互に影響関係を有していることが浮き彫りになる。「ピュグマリオーンの物語」は一見すると「ミュッラの物語」と密接な結びつきを有していない。しかし,ミュッラの忌むべき愛の性質を知ってから,「ピュグマリオーンの物語」を振り返ったときに,物語は再解釈を余儀なくされる。物語は他の物語と連関するなかで,別の様相を呈するのである。

さらに,その視点を有したあとで,「アドーニスの物語」を読むとき,物語の意味が浮かび上がる。「母の情熱の復讐」という語句は,それ自体としては理解しがたい。しかし,物語の連関のなかでとらえるとき,その意味が明らかになる。『変身物語』において,物語相互の影響関係は従来の研究以上に強いことが明示された。

『変身物語』における個々の物語は独立する物語とみなすことができるが,しかし連続する物語として読み進めたときに,互いの物語の理解はいっそう深まるのである。このような,物語同士の連関と相互影響関係は「途絶えることのない歌」となるように織り成された『変身物語』の基本的な詩的技法であり,叙事詩の統一性を作り出す原理になっているといえよう。

※本研究はJSPS科研費15K16717の助成を受けた。

古代ローマ史研究雑感
島田 誠

歳月の経つのは驚くほど早い。筆者が古代ローマ史を研究し始めてから,いつの間にか30年以上が過ぎてしまった。最近では,学説史を振り返るような仕事を頼まれることも多く,学説の変遷を痛感する機会が増えている。この30年間に多くの研究がなされ,多くの研究者の支持を受けて定説と思われた見解が揺らぎ,新しい説が支持されることがあり,さらには古い学説が甦ったように見えることすらある。その中でも,ローマ帝政期の属州支配体制に関して,従来の定説とは全く異なった主張がなされ始めていることには驚かされる。また古代地中海世界全体の社会経済の特徴に関する議論でも再び振り子が逆方向に揺れ始めているように思われる。

ローマ帝国の属州支配体制の基本的性格の評価の変化については,2冊の書物の主張を紹介したい。

1冊目は1987年に刊行されたガーンゼイとサッラーの『ローマ帝国 経済・社会・文化』(P. Garnsey and R. Saller, The Roman Empire: Economy, Society and Culture, Berkeley & Los Angeles 1987)である。この書物の第3章は「官僚機構のない政府」(Government without Bureaucracy)と題されており,その冒頭において古代ローマでは地中海世界を支配する帝国の規模にふさわしい統治機構が発展しなかったと明言される。この本では,ローマ帝国政府は法と秩序の維持と税の徴収という2つの基本事項にしか関心がなく,その結果,ごく少数の役人からなる初歩的な行政機構しか持っていなかったと主張されていた。その前年(1986年)に最初の論文を専門雑誌に発表したばかりの大学院生であった私は,この本の主張に感心し,ローマ帝国の支配は行政の大半を地方都市の自治に委ねた究極の「スモール・ガバメント」だと納得していたことを覚えている。

ところが,ガーンゼイとサッラーの本の30年後に欧米各国の主要研究者を網羅して刊行された『支配と行政 帝政盛期のローマ行政機関の日常』(Rudolf Haensch & Johannes Heinrichs (Hrsg.), Herrschen und Verwalten: Der Alltag der rischen Administration in der hohen Kaiserzeit, Kln Weimar Wien, 2007)と題する論文集の序言では,全く異なったことが主張される。それによれば,この論文集の幾つか論考によってローマ帝国の行政組織が一部部門では近世西欧絶対主義時代の行政機構にも比肩できるものであったことが明らかになったとされる。この主張は未だ問題提起にとどまっているが,この論文集の中で指摘されているローマ帝国の行政における軍隊の重要性は注目される。パピルス文書や英国のヴィンドランダで発見された書写板から知られるようになった軍隊での文書を用いた組織管理の存在とそこで経験を積んだ兵士たちがある時期から行政分野に大量投入され始めたことは多分史実だろう。

さて古代ローマ史だけに関わることではないが,古代地中海世界全体の社会経済の特徴についても,再び議論が始まっている。この議論は,私がまだ高校生であった1973年に刊行されたフィンレイの『古代経済』(M. I. Finley, The Ancient Economy, Berkeley & Los Angeles 1973)で決着がついたと思われていた。フィンレイは,この書物の中で近代的な経済的概念に基づく市場中心の分析が古代ギリシア・ローマ社会には適用できないこと,古代ギリシア・ローマ人,特に社会の指導的な立場にある人々は身分や社会的地位に相応しい振舞いを優先して,その地位や身分に相応しい農業からの収入によって生計を立てることが社会的に期待され,商工業は在留外人,解放奴隷など社会の周縁に位置する者たちの生業だったと主張している。フィンレイ説の登場で,ローマ帝国の経済は資本主義であり,都市では商工業が発展して「都市ブルジョワジー」が支配層を形成していたと主張するロストフツェフ(M. Rostovtzeff, The Social and Economic History of the Roman Empire, Oxford, 1926)等の主張は一掃されたように思われた。

しかし,最近,一部の経済史研究者の中に1~2世紀におけるローマ帝国の経済は専ら市場経済であり,経済の各部分は現代の世界市場ほど強く結合されてはいないが,それでもなお包括的な地中海市場の一部として機能していたと主張するものが(P. Temin, The Roman Market Economy. Princeton and Oxford, 2013)出現している。この主張はいささか極端と思われるが,最近の研究を見ると,古代地中海世界おいても,ある程度の経済発展が見られ,局所的には市場経済が生まれ,都市への人口集中,貨幣経済の普及や投資活動が確認されるとの見方が,次第に主張されるようになっている。

よく「歴史は繰り返す」と言われるが,このような学説の循環を見ると,歴史研究者の考えこそが繰り返しているのかもしれない。

ヴェネツィアの磁器,あるいはラッティモ
大平 雅巳

ヨーロッパで最初に磁器づくりを試みたのはヴェネツィアではなかったか。かねてからの思いに駆られて,昨年,ムラーノ島を訪ねた。いうまでもなくヴェネツィアは,13世紀以来,東西交易の中心であり,『東方見聞録』に記された「ポルツェラーナ」(磁器)も数多くこの地を経由した。そして1291年にガラス工房が集められたムラーノ島からは,ルネサンスのころ,優美で精妙な製品が生み出され,ヨーロッパ各地へ輸出されていた。手本となる東洋の磁器と高度な窯業技術,そして商才にたけたヴェネツィア商人とくれば,舞台は半ばととのっている。

諸書によれば,ヴェネツィアの「磁器」に関する最初の記録は,1504年,ヴェネツィアに滞在していたフェラーラ公エルコレ1世・デステが「ポルチェラーナ・コントラファッタ」(模造磁器と訳すべきか)の鉢を7個買ったというものである。さらに15年後,彼の後継者であるアルフォンソ1世は,この模造磁器の小皿と鉢を送ってきたひとりのヴェネツィア人を雇おうとしたが,実現しなかったという。この人物は,あらゆる種類の磁器をつくれると元老院に上申したレアンドロ・ペリンゲなる鏡作りのマエストロだという説があるが,疑問も呈されている。もし,こうした記録が事実ならば,現存するヨーロッパ最初の磁器(といってもマイセンなどとは異質の軟質磁器だが)として有名なメディチ磁器に先立つこと,半世紀以上である。しかし今のところ,これらの記録を裏付けるようなものは見つかっていない。

ムラーノ島のガラス博物館の展示品で,磁器かと見まがうのは白色不透明のガラスである。ミルクのような白さから「ラッティモ」(英語では「ミルク・グラス」)と呼ばれるこのガラスの製造は,15世紀中ごろ,ムラーノ島で始まったという。ちょうど中国磁器の輸入が拡大しつつあった時期で,その流行を意識して開発されたのは間違いない。現存する初期のラッティモは数が少なく,同博物館にも展示されていなかったが,カタログによれば,繊細なエナメル彩色をほどこした聖餐用の杯やゴブレットなどがあるという。帰国してから調べたところ,アメリカのコーニング・ガラス美術館の所蔵品に,16世紀初期のラッティモがあった。これは中国風の把手のない薄手の小碗で,ルネサンス期マヨリカ陶器に通有の美しい横顔が見込みに描かれていなければ,形も素地の乳白色も中国の白磁によく似ている。これなどを見ていると,模造磁器というのはもしかしたらラッティモのことだったのではないかという疑念が湧いてくる。ちなみにラッティモの技術は,ムラーノ島からの職人の流出に伴って,フランス,ドイツ,ボヘミアなどにも伝わっていった。

ヨーロッパ各地で磁器の開発競争が繰り広げられた18世紀には,ヴェネツィアにもヴェッツィ,ヘヴェルケ,コッツィという三つの磁器工場がつぎつぎと誕生した。ヴェッツィは,すでに本格的な硬質磁器製造に成功していたマイセンから逃亡したアルカニスト(一種の錬金術師)を通じて磁器の製法を得た。ヘヴェルケは七年戦争を避けてドレスデンから逃れてきた商人で,やはりマイセン風の磁器を目指した。しかし,十分な磁土に恵まれなかったこともあって,ともに製品は少なく,短命に終わった。比較的長続きしたのは1765年に始まったコッツィで,ヴェネツィア西北方のトレットの磁土を用い,1812年まで操業した。コッツィの器にはイタリア風ロココとでもいうような陽気な華やかさがあり,底裏の赤い錨のマークも海の都ヴェネツィアらしい。

ヴェネツィアのカ・レッツォーニコ宮殿には,これらの磁器とともに,18世紀に再び人気を博したラッティモが同じケースに並んでいる。器の形,大きさ,そして上絵付けの図柄には共通するところが多く,見た目だけでは磁器なのかガラスなのか判別がむずかしい。しいて言えば,ラッティモのほうがやや純白に近いように見えたが,ひとつひとつ展示プレート頼りで見て回ったというのが正直なところである。耐熱性,硬さにどの程度の差があったのかわからないが,実用性よりも装飾性を優先したならば,当時は,ラッティモが磁器の一種と見なされていたとしても不思議はない。すでに17世紀,オランダのデルフト陶器が「磁器」として販売されたという例もある。そうだとしたら,両者の工房に絵付け師の行き来はあったのか,価格や購買層に違いはあったのか? ラッティモが新たな気がかりとなるヴェネツィアの旅だった。

アルジェリア人作家,アシア・ジェバールの死
石川 清子

昨年のノーベル文学賞はベラルーシの女性作家,スベトラーナ・アレクシエービッチ氏に授与された。この賞が世界情勢に対するメッセージ性を帯び,各国政治の力学を反映したものであるのは承知のうえで,賞の発表時に,これまで読んだことのない作家の存在を知るのは新鮮な喜びであると言いたい。個人的なエピソードの披露で恐縮であるが,アルジェリアの女性作家アシア・ジェバールの翻訳『愛,ファンタジア』(みすず書房,2011年)を刊行して以来,秋になるとノーベル賞をめぐって10月の第2木曜夜までハラハラ,ドキドキの数年が続いた。英国のブックメーカー予想オッズでジェバールは村上春樹とともに受賞者候補の常に上位にいたからだ。万が一受賞した場合にそなえて複数の新聞社から,コメントや原稿の依頼が数週間前から続く。まさか受賞はあるまいと思っても,ひょっとして,と当日電話が鳴るのをどきどきしながら待つのがこの数年の恒例だった。

アシア・ジェバールは2015年2月,78歳で突然この世を去った。従って昨年のノーベル賞レースから外れたわけだが,アルジェリアと作家や文学の関わりについて,彼女の死に際して思ったことを記してみたい。

ジェバールはフランス支配下のアルジェリアに生まれ,支配者の言語フランス語で書いた小説をもって独立戦争時にパリで作家のスタートを切った。21歳のデビューから,小説のみならず映画や演劇においても常に自国の女性を中心テーマに据え,植民地支配を経験したイスラーム圏の女性を描いてきた。フェミニズムやポストコロニアリズムの興隆とともに,主に英語圏で評価され世界的名声を獲得した作家である。それではジェバールがアルジェリアの国民的作家かというとそうとは言えない。もちろん,ジェバールを熱く語るアルジェリアの読者は数多い。植民地支配,アルジェリア戦争,独立の熱狂と混乱,90年代の暗黒の内戦時代という激動のアルジェリア現代史と伴走した,歴史家でもあるこの聡明な女性に対して,国をあげて追悼することをアルジェリア政府は結局しなかった。ブーテフリカ大統領はフランスのオランド大統領に2日遅れてようやく弔意を表した。ジェバールは「不滅の人々」les immortelsと呼ばれるアカデミー・フランセーズ会員でもあった。アルジェリア大統領の弔辞は敬意溢れる丁寧なものであったが,ジェバールをカミュと同等に位置づけた。これは20世紀の大作家に比する存在ともとれるが,所詮アルジェリア人ではない,他者の言語で書く作家扱いともとれる。また,パリ在住だったジェバールの遺骸を本国に移送する際にも国費は使われなかった。多くのアルジェリア人作家同様,本国を離れて活動せざるを得なかったジェバールは,故郷シェルシェルにある父の墓の傍らへの埋葬を望んだ。

ジェバールは明らかに国民的作家ではない。フランス語で執筆していたからか?国外を拠点としていたからか?それとも女性の手で女性の声を表現したからか?ジェバール作品が20以上の言語で翻訳されているのに対し,アラビア語翻訳は,海賊版を除いて2014年に初めて1冊目が出版されただけである。『ムルソー,反捜査』というカミュの『異邦人』で殺害されたアラブ人の弟の視点から,20世紀のこの名作を書き直して昨今話題になっているアルジェリアの作家カーメル・ダーウードは,アルジェリアにおいてフランス語で執筆する自らの異質性をジェバールに重ねつつ,ジェバールが国民的作家として名を残さない理由として,上述の「過ち」に加えて「根っからのアルジェリア人だった」という過ちをあげている。謎かけのようだが,妙に納得できる指摘である。アルジェリア文学とは何かと問いつめると,言語をはじめとして,この国の複雑なアイデンティティを炙り出すことになる。

しかしまた,世界的に著名な作家,とりわけアラビア語の作家を輩出していないアルジェリアで,さらには世界各地で,ジェバールはやはり拠り所となるべきイスラーム圏の女性作家であり続け,それは没後に世界各地で企画された追悼シンポジウムの数の多さが物語っている。

「ジェバールは自分の墓石以外に自国に名を残すことはないだろう」というダーウードの挑発的な予想に反して,作家を顕彰する文学賞が速やかに制定された。その年アルジェリアで刊行されたアラビア語,フランス語,そしてタマジグ語(ベルベル語)の優秀な物語作品に賞が授与される。喜ばしい話だが,第1回の受賞者3人が全員男性だったことでジェバール支持者から失望と非難の声があがった。ジェバールに続く次世代の有望な女性作家がたくさんいるのに,と。

ジェバール作品はアルジェリアで,そして世界で読み継がれていくだろうか。そのためには翻訳をせねば,と思うこの頃である。

自著を語る77 
稲川直樹+桑木野幸司+岡北一孝著
『ブラマンテ 盛期ルネサンス建築の構築者』
NTT出版 2014年12月 469+89頁 6,400円+税 稲川 直樹

ルネサンスの建築家ドナート・ブラマンテは,その重要性にもかかわらず活動や作品に依然不明な点が多い。没後500年にあたる2014年を機に友人たちとまとめたのが本書である。ブラマンテに関する日本語文献としては従来,アルナルド・ブルスキ著『ブラマンテ』の拙訳(中央公論美術出版2002,原著改訂版1985)しかなかった(その後,福田晴虔氏が『ブラマンテ』中央公論美術出版2013を上梓された)。この名著から四半世紀以上を経た研究の現況を通観するため,クロノロジカルな評伝の形を選んだ。全七章のうち第一章を岡北,第六章を桑木野が,それ以外を稲川が執筆した。

第一章では建築における建築のルネサンスとは何かから説き起こし,ブラマンテの芸術形成の基盤となった十五世紀ウルビーノ宮廷の芸術文化やアルベルティ,ピエーロ・デッラ・フランチェスカの理論と作品を論じ,若き日のブラマンテの関与が推測される《聖ベルナルディーノの奇跡》連作絵画の分析に繋げた。

第二章と三章はブラマンテのミラノ時代の活動を追う。二章では建築理論家としてだけでなく,画家や詩人,軍事技術者など,宮廷芸術家ブラマンテの多彩な活動を活写し,三章ではミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァと弟アスカニオ枢機卿のためブラマンテが設計した建築作品を検証している。従来は建築工事へのブラマンテの関与を示す史料の少なさが研究者泣かせだったが,本書ではむしろ,親方として画家組合に登録していながらブラマンテが,工房経営や組合活動よりも自由な創作や研究を選んだことが工事責任者としての立場を失わせたことを論述した。

第四章から六章はローマ時代のブラマンテを扱う。四章では十五世紀後半の教皇たちによる都市ローマの復興と建築事業を俯瞰したあと,アレクサンデル六世治下のブラマンテの活動を探った。1500年代初頭,ブラマンテが教皇側近たちのためサンタ・マリア・デッラ・パーチェの回廊やサン・ピエトロ・イン・モントリオのテンピエットを設計したことはよく知られる。本書では,それに先立つ1490年代半ば頃から建築家が度々ローマに滞在して研究や設計活動を展開していたとの推察をもとに,ボルゴ・ヌオーヴォの敷設やリアーリオとカステッレージ両枢機卿のパラッツォの計画に加え,作者不詳の『ローマ古代遺物の眺望』と近年注目を集めるフェッラーラ市立図書館所蔵のウィトルウィウス『建築十書』の図入り手稿を,この時期のブラマンテによる古代ローマと建築論研究を彷彿とさせる史料として分析した。

第五章ではブラマンテとそのパトロンの教皇ユリウス二世による,古代を凌駕するほど壮大で,それゆえ未完に終わる多くの事業を論じた。その頂点を成すサン・ピエトロ聖堂再建のブラマンテによる初期案に関して本書は,定説である集中式案に替えて長軸式案を提示している。サン・ピエトロ初期案の先行研究については説明が不足した嫌いがあり,この場を借りて補足しよう。「羊皮紙の平面図」が集中式平面の半分を記録するとの説を流布させたのはR・ウィットカウアー著『人文主義時代の建築原理』(1949)の記述だった。しかし論拠とされた19世紀末のL・パストール著『教皇列伝』の記事は,フォン・ガイミュラーの集中式平面説の影響下で解釈された象徴的な言説であり,決定的ではない。本書で論じた長軸式初期案説をヴォルフ・メッテルニヒやC・テーネスは30年前から提唱してきたが,ヴィチェンツァのCISAで2014年11月から15年2月まで開かれた,ルカ・ベルトラミーニ監修の展覧会 “Donato Bramante e l’arte della progettazione” ではサン・ピエトロ初期案の生成過程が長軸式で再現され,この見解が漸くオーサライズされつつあることが実感された。

第六章では視点を変えてブラマンテの庭園建築やランドスケープ・デザインに光を当て,ベルヴェデーレの中庭とジェナッツァーノのニンフェウムの史的分析を通して,建築の外部に空間デザインを拡張していく手法とその独創性,後世への影響を検証している。
終章ではブラマンテのローマ時代の活動と作品を,設計と現場の合理的で近代的な組織や,建築言語と建築論における革新性の観点から評価し,最後に,十六世紀建築史全体が「ブラマンテ派(スクール)」と総称される多士済々の弟子や追随者の活躍によって展開されていく様子を追跡した。

ブルスキの本の改訂版から30年の間に,明らかになった事実もあれば依然不確かな事柄も多い。それらの吟味と整理という所期の目的は大方果たせたかと思う。独自の解釈や仮説も数多く示したが,それによって先学の研究で培われたブラマンテ像をいくらかでも刷新できたかどうかは,読者の評価を俟ちたい。いずれにせよ,本書がブラマンテとルネサンス建築史研究のための一石となることを望んでやまない。

表紙説明 地中海世界の〈道具〉14

ちゃぶ台/鶴田 佳子

今,日本でちゃぶ台を使っているご家庭はどのくらいあるだろうか。昭和の一家団欒を象徴するようなちゃぶ台であるが,トルコにも似たような脚の短い食卓がある。直接,床に座り,食卓に並んだ食事を皆で一緒にいただく。また,調理台として使用されるものもある。表紙はトルコの市場と家庭で撮影した写真である。

上部の1枚は,伝統的な民家が保存されている街サフランボルの木工芸屋さん。新市街の木曜市で店開きをしていた。積み上げられた大小7種類のちゃぶ台は,円形の板に3本脚が付き,折りたためる(天板と脚が別々のパーツになっているタイプもある)。このちゃぶ台はトルコ語でイェルソフラスyer sofrasと呼ばれるもので,yerが地面,地べたを,sofraが料理の並んだ食卓や食事を意味する。つまり地面や床に近い高さの食卓である。サフランボルが位置する黒海地域は豊かな森もあり,写真のような木製の工芸品だけでなく,伝統的民家では柱・梁はもちろん,造り付けの家具や扉,天井などの建材にも木材が多用されている。

伝統的民家が立ち並ぶ都市は黒海地域以外の山間部にも点在している。そのような都市の民家で調査をしていると,床に座ってくつろぐ姿を見かける。リビングルームやキッチンでちゃぶ台を使い,食事や作業をしているのである。左下2枚の写真はイスタンブルからアンカラへ抜ける旧街道沿いの小都市ギョイヌックでの食事風景。断食明けの食事に親戚や近所の友人を呼ぶので一緒に食事をしようと招待されたときの様子である。2階建ての一軒家で,1階のメインリビングでは男性陣が食事をとり,この写真にある女性の食事空間は2階の一部屋であった。このように行事があると家の中でも男性と女性で空間を分けて使用している。丸いテーブルは臨機応変に活用ができ,筆者のような飛び入りの来客があっても問題ない。床座であるため椅子も不要であり,ちょっと詰めれば一人分のスペースはたやすく確保できる。そして食後のティータイムはテーブルを片付けて(左下の写真は片付け中の様子。テーブルの天板に装飾が施されていた),ゆったりソファーに腰掛けたり,床でくつろいだりと,思い思いにお茶とおしゃべりを楽しんでいた。

イェルソフラスは食卓としてだけでなく,ハムルと呼ばれる小麦粉を練ったものを伸ばす台としても使用されている。木製の細い麺棒でハムルを薄く円形に伸ばすとユフカというクレープのような薄い生地ができあがる。このユフカを円形の鉄板で焼き,焼きあがったユフカに白チーズや刻んだパセリ,あるいはほうれん草などを載せ,折りたたんだものがギョズレメである。写真右下(地中海地域のカシュの金曜市)にあるように,野菜や日用雑貨,衣料品が並ぶ定期市の一角でも時折,ギョズレメ屋さんを見かける。どの店も女性たちが粉をこね,調理している。市場での買い物で小腹がすいたときにちょうど良い軽食である。地面に腰を下ろしている女性がちゃぶ台でユフカを伸ばしている。自転車に乗った子供の後ろに見えている円形の鉄板でユフカを焼き,具材を挟めばギョズレメの出来上がり。

ちゃぶ台は持ち運びが容易で,座るスペースさえ確保できれば室内でも屋外でも調理や食事空間をサポートする道具として重宝されるのである。