地中海学会月報 MONTHLY BULLETIN

学会からのお知らせ

4月研究会

下記の通り研究会を開催します。奮ってご参集下さい。

テーマ:川村清雄のヴェネツィア滞在後期について
発表者:石井 元章氏
日 時:4月16日(土)午後2時より
会 場:東京大学本郷キャンパス法文1号館2階215教室
参加費:会員は無料,一般は500円

本発表は新資料を基に,これまで不詳であったヴェネツィア滞在後期(1879-81)の川村の活動を明らかにすることを目指す。川村は1876年2月ヴェネツィア到着後美術学校に在籍するが,1878年以降はその活動を学校の外に求め,ヴェネツィア芸術サークルに参加して,イタリア人ばかりでなく当時ヴェネツィアに集っていたスペイン人や英国人,ロシア人を含む国際的な芸術家サークルと積極的に交わっていた可能性がある。

第40回地中海学会大会

第40回地中海学会大会を2016年6月18日,19日(土,日)の二日間,首都大学東京(八王子市南大沢1-1)において下記の通り開催します(予定)。詳細は決まり次第,ご案内します。
6月18日(土)
13:00~13:10 開会宣言・挨拶
13:10~14:10 記念講演  長尾 重武氏
14:25~16:25 地中海トーキング
「ニュータウンの古今東西」
パネリスト:吉川 徹/松原 康介/中島 智章/島田 誠/司会:山田 幸正 各氏
16:30~17:00 授賞式
地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞
17:10~17:40 総会
18:00~20:00 懇親会
6月19日(日)
10:00~12:00 研究発表
13:00~16:00 シンポジウム
「地中海の水と文化」
パネリスト:飯田 巳貴/樋渡 彩/深見 奈緒子/(司会兼任)陣内 秀信 各氏

常任委員会

第1回常任委員会
日 時:2015年10月24日(土)
会 場:東京大学
報告事項:第39回大会及び会計に関して/研究会に関して/職員退職に関して 他
審議事項:学会誌の編集・印刷所に関して/第40回大会に関して/連続講演会に関して/企画協力講座に関して 他
第2回常任委員会
日 時:2015年12月19日(土)
会 場:東京大学
報告事項:『地中海学研究』XXXIX (2016)に関して/研究会に関して 他
審議事項:第40回大会に関して/地中海学会賞に関して/地中海学会ヘレンド賞に関して/連続講演会に関して 他

会費納入のお願い

今年度会費(2015年度)を未納の方には本号に同封して請求書をお送りします。至急お振込み下さいますようお願いします。ご不明点のある方,学会発行の領収証をご希望の方は,お手数ですが事務局までご連絡下さい。なお,新年度会費(2016年度)については3月末にご連絡します。

会 費:正会員 1万3千円/ 学生会員 6千円
振込先:口座名「地中海学会」
郵便振替 00160-0-77515
みずほ銀行九段支店 普通 957742
三井住友銀行麹町支店 普通 216313

研究会要旨
1640年代のイエズス会本部と日本管区の交渉
――管区代表プロクラドールの活動を通して―― 木﨑 孝嘉 10月24日/東京大学

17世紀なかば,日本のキリシタン時代は終わりを迎えつつあった。それまでの約1世紀にわたってヨーロッパから日本にはキリスト教やルネサンスの科学知識が持ち込まれ,逆に日本からヨーロッパにも銀によって買われるさまざまな文物とともに聖俗の情報がもたらされた。そして,その情報はヨーロッパ諸国や修道会がその後の管区運営,すなわち対アジア政策を決定するために不可欠なものであった。

本報告では,布教情報の一例として「殉教録」に着目し,その編纂動機として日本管区の利益,イエズス会の利益,カトリック全体の利益を想定し,そのどれが最も重視されたのかを検討した。まず情報運搬の担い手として,イエズス会の管区代表プロクラドールに着目し,日本管区代表のペドロ・モレホン,セバスティアン・ヴィエイラ,アントニオ・カルディンと中国準管区代表のアルヴァロ・セメードの4人の経歴を見た。彼らはいずれもプロクラドール就任以前から管区幹部としてアジア各地に滞在し,その事情にも精通していたが,ヨーロッパに戻ると,信者獲得や殉教報告といった布教成果の情報を外部向けに編纂すると同時に,それを王侯貴族に伝達して活動資金の獲得交渉を行った。例えば,モレホンとヴィエイラは日本布教権益をめぐってイエズス会と対立する托鉢修道会や布教聖省と交渉し,カルディンとセメードは後述するようにマカオの所属について相互に争った。その他,彼らはアジアに同行する修道士のリクルートをも担当するなど,そのヨーロッパでの働きによって,管区すなわちアジアの行く末を左右する重要な存在であった。このような有り様は,フィリピンから日本布教を担当したドミニコ会の聖ロサリオ管区代表プロクラドールの職務内容にも共通点が見られる。例えばディエゴ・アドゥアルテは管区の布教史を執筆し,フィリピンで常に不足した修道士を多数メキシコからの帰路に同行した。

次に,極東の日本管区からヨーロッパへともたらされ出版された「殉教録」,殉教報告とその執筆者を検討した。それらは当初ルイス・フロイスなど殉教現場の比較的近くで活動した宣教師が書いていたが,次第に司教や準管区長など幹部が現地からの報告書をまとめて執筆するようになり,1614年に日本から修道士が追放されると,情報集積地のマカオで(後にはゴアでも)当地の幹部が執筆するようになり,その編著者リストはモレホン,カルディン,セメードなど管区代表プロクラドールと重なるようになった。ヴィエイラも殉教担当プロクラドール経験者であり,上記著述活動と合わせて彼ら管区代表プロクラドールはヨーロッパでの交渉に際しての情報伝達者として適任であった。

最後に,1640年代イエズス会在マカオコレジョの帰属をめぐり日本管区と中国準管区が対立したことが示される内部向けの史料(カルディンの建白書)を用いて,日本管区代表プロクラドールのカルディンと中国準管区代表プロクラドールのセメードの主張を検討した。この建白書において,カルディンは日本管区の栄光の歴史を述べ,マカオが当初より日本管区に所属したことを強調している。また,セメードの日本布教には未来が無いという主張に対しては,東南アジアに広がる日本管区での布教状況を記して反論した。カルディンは,さらに話題を布教資金に転じ,セメードが日本管区の資金を不当に中国準管区に付け替えたことを非難するために,両管区の収支を挙げている。それによると,日本管区の収入の多くは実際には得られない状態になっており,1642年,43年のアントニオ・ルビノ,ペドロ・マルケス殉教団への臨時支出は重い負担となっていた。それに対して,中国準管区は比較的裕福であるとカルディンは主張している。この建白書の主旨は,マカオの所属はもとより日本管区の存続・予算確保であるが,その他にも収入予定の一例として『殉教精華』という殉教録の献呈によって教皇から寄付が得られるという記述もあった。

この内部史料と同様に,彼らの著作においても管区の歴史が語られ,他管区の成果も紹介される。中にはその成果を「横取り」しているものもあった。つまり,カトリック全体やイエズス会のためには,布教成果は「共有」されたのである。同じ情報が,内部向けと外部向けでは目的を異にして利用されたのである。

彼らプロクラドールは,広くカトリックやイエズス会のための報告を作成しつつも,背後ではより下位の所属である管区のために貢献しようとした。このように,ヨーロッパのアジア戦略の決定が,必ずしも大局的見地からのみ行われたわけではなく,ときには個人的な方針の対立から行われたことが明らかになった。

元首政期ポンペイのルクレティウスウァレンス家
樋脇 博敏

1992年に,ポンペイから南東へ2kmほどのところにあるScafatiで別荘と墓所が発見され,出土した墓碑銘からそこはルクレティウスウァレンス家の墓所であることがわかった。8基の墓碑と7名の埋葬が確認されており,墓所の出入り口正面には,ネロ帝期からフラウィウス朝初期のポンペイにおいて「植民市の筆頭者」と称されるほどの威勢を誇ったデキムスルクレティウスサトリウスウァレンスが埋葬されている。

都ローマのエリート層の墓碑を見慣れている者は,このサトリウスウァレンスの墓碑もさぞかし高価で巨大な大理石板に麗々しく履歴が刻文されているのだろうと思ってしまいがちだが,実際は,人間の上半身を象った80cm弱の大理石板に故人の名前のみが彫られているにすぎない。その他7基も同様で,人型の墓石に,名前のみ,または名前と享年のみが刻まれた寡黙な記念碑である。columella(小柱)とよばれるこの人型の墓は,ローマ入植以前からポンペイ周辺で建立されていたもので,約400基が確認されている。このうち碑銘をもつのは約170基で,多くは故人名のみの簡素な作りとなっている。サトリウスウァレンスの墓も,このポンペイ土着の葬祭慣行にならったもので,生前の業績を喧伝する都ローマのエリート層の墓とは一線を画している。

ルクレティウスウァレンス家の墓所で唯一,形式も内容も異なる墓碑が,デキムスルクレティウスウァレンスのもので,高価で巨大な大理石板に履歴や顕彰の詳細が自慢げに刻文されている。彼はクラウディウス帝によって騎士身分に取り立てられ,ポンペイで公葬された人物である(したがって,彼の遺骨はこの墓所には埋葬されていない)。皇帝による騎士叙任という中央政界との直接的なつながりを持つ人物だけがローマ様式の墓碑で記念され,その他の者はコルメッラ様式の墓碑で記念されているのである。これをローマ文化の影響と見るのか,それとも土着文化の根強さと見るのかはさておき,「ローマ化」なるものについて考えるとき,この墓所は興味深い事例を提供してくれるだろう。

ポンペイも含めてローマ時代の墓といえば,都市に接するネクロポリスや街道沿いなどの人目に付きやすい場所に建立されていたと思いがちであるが,ルクレティウスウァレンス家の墓所はこの点でも異なる。四囲に壁を巡らせた一族のためだけのプライベートな空間に,寡黙な墓が並ぶばかりで,多弁で目立ちたがりのローマ風の墓碑とは実に対照的である。H.Mouritsenは,ポンペイでは1世紀後半頃からエリート層の墓碑が簡素なものとなり,ネクロポリスでの埋葬から,郊外別荘の個人墓所での埋葬へと中心が移っていったことを指摘し,こうした変化の背景を,成り上がりの解放奴隷たちが都市エリート層をまねてネクロポリスに壮麗な墓碑を建立するようになったため,都市エリート層の名望活動の中心は公共広場へと移り,ここに自身の立像や騎馬像を競って建立するようになった,と説明している。

ルクレティウスウァレンス家の人々が広場に像を建立したかどうかはわかっていないが,名望活動(この場合は選挙運動)の一環としてサトリウスウァレンスとその息子が共催した剣闘士試合の告知文と,そのすぐ近くに書き添えられた息子の選挙ポスターが,何枚か残っていることはよく知られている。興味深いのは,これらの告知文と選挙ポスターが68年のものだということ,つまり,79年のポンペイ滅亡までの10年ほどの間,消されずに残されていたことである。日本では,選挙毎に候補者ポスターが掲示され撤去される。コンサートなどのチラシも公演が終われば,その役を終える。しかし,ポンペイでは,選挙や試合の終了後も,それらの塗書を消さずに残しておくことが間々あった。大通りに面した家壁には無数の塗書が,何年の選挙や試合なのかなどお構いなしに(そもそも選挙ポスターや剣闘士試合の告知文には年号が書かれていなかった),掲示され続けていたのである。したがって,それらは選挙公報や催事案内というよりも,市政を代々支えてきた有力家系のお歴々を紹介し宣伝する一種の「ポンペイ紳士録」のようにも見える。ちなみに,解放奴隷たちは,どれほど金満であっても,その出自のゆえに,市政を担うまでには,つまりこの「ポンペイ紳士録」に名を連ねるまでには,数世代を待たねばならなかった。その意味で,家壁の選挙ポスターなどの塗書は,自由な生まれの名門出身者と奴隷生まれの成り上がりを差別化できる媒体だったといえよう。

このような視点から見てみると,ルクレティウスウァレンス家の墓所における葬祭慣行の簡素化・周縁化・プライベート化は,都市エリート層の名望活動の衰退を示すというよりは,名望活動における戦略の変化を示すと解釈したほうがよさそうである。

世界遺産のランゴバルド
西村 善矢

2011年,イタリアに点在するランゴバルド期の建造物群7件がユネスコの世界遺産に登録された。登録名は「イタリアのランゴバルド族。権勢の足跡(568-774年)」。7件の所在地は北の王国から中南部のスポレート大公領およびベネヴェント大公領にわたって分布し,教会,修道院,要塞,聖域などからなる。

まず,イタリア半島に到来したランゴバルド人が最初に大公を配置した都市であるチヴィダーレ・デル・フリウリには,「ランゴバルドのテンピエット」と呼ばれるサンタ・マリア・イン・ヴァッレ教会の壁面ストゥッコ装飾をはじめ,個性豊かな遺産が数多く残る。また,ブレーシャ大公(のちランゴバルド王)デシデリウスが753年ブレーシャに創建したサン・サルヴァトーレ(のちサンタ・ジュリア)女子修道院遺構は,中世初期の修道院とはどういうものかを知る格好の場である。

一方,ミラノ近郊のカステルセプリオには,古代後期に遡り,ランゴバルド人によって再利用された要塞が残る。再利用といえば,先に挙げたブレーシャの修道院もローマ期の邸宅遺構の上に建てられているが,スポレートのサン・サルヴァトーレ教会やカンペッロ・スル・クリトゥンノのテンピエット(スポレート近郊)もまた,古代ローマ神殿の円柱などを再利用して建設されている。これに対し,760年頃ベネヴェント大公アレキス2世が個人礼拝堂として建設したベネヴェントのサンタ・ソフィア教会は,コンスタンティノープルの同名の聖堂およびパヴィアの国王礼拝堂から着想を得ている。

ランゴバルドの建造物は再利用や模倣だけではない。プーリア州はガルガーノ半島にあるモンテ・サンタンジェロのサン・ミケーレ聖域は,ノルマンディのモン・サン・ミッシェルをはじめとするヨーロッパ各地の大天使ミカエル修道院のモデルとなった。

このように世界遺産に指定された建造物群を概観してみると,奇妙な事実が浮かび上がる。ユネスコの登録名の後半部分は,直訳すれば「権力の場所(Places of Power)」である。確かに前述の建築群は,いずれも王国・大公領のエリートたちの手によって建設されたか,支援を受けた場所である。しかし,そこには王国の首都パヴィアの名前はないし,スポレート大公領の中心都市も,町はずれの教会が世界遺産に指定されているにすぎない。パヴィアやスポレートの市内にはランゴバルド期に遡るモニュメントがほとんど残っていないことから,これは仕方のないことであろう。ただ,ローマ期以来の遺構と中世の町並みが調和するスポレートは,都市全体を世界遺産に指定してもおかしくない。今年4月,スポレート滞在中に訪れたトラットリアの店主は,町が世界遺産となっていたら,市内が旅行者でごった返し,大変なことになっていただろうと,皮肉を込めて語っていた。

いずれにせよ,ランゴバルド期のモニュメントが世界遺産に指定されたことにより,各地でランゴバルド人の認知度が上がるとともに,その歴史と文化に関する啓蒙活動が盛り上がりを見せていることは間違いない。ここではチヴィダーレ・デル・フリウリの例を紹介しよう。この都市では3年前から「紀元568年。最初の大公領チヴィダーレ」と銘打つイベントが毎年企画され,昨年も5月に3回目が開催された。このイベントは考古博物館で開かれる研究集会の部と野外での実演の部からなる。研究集会では,一線で活躍する考古学者に加えて民間の「実験考古学者」たちが,ランゴバルド期の手工業生産(土器,ガラス器,衣装など)や定住などについて発表を行った。一方,野外ではイタリアのほかヨーロッパ各国から参加した民間の実験考古学グループが,武器製造や織物などの手工業労働や日常生活を実演してみせた。プログラムのなかには戦闘や葬儀,そしてランゴバルドの神話と歴史についての語りの実演まであった。

このイベントの特徴は,それが科学的な検証に耐えうること,そして一般人に開かれていることである。そのことを象徴的に示すのが,イベントの中心人物の一人と目される考古学者マルコ・ヴァレンティ教授の報告である。彼はシエナ近郊のポッジボンシ考古学公園内に昨秋開設された,カロリング期の一村落での生活と労働を再現する施設を紹介するなかで,考古学者は科学的なデータとその解釈に基づく学術情報をできるだけわかりやすく一般人に提供する義務があるとの持論を展開した。
ランゴバルド史家ヤルヌートは2001年ウィーン研究集会の報告にて,その前年に催された展覧会『ランゴバルド人の未来』と掛けて,「ランゴバルド人にとっての未来」は明るいと評した。ランゴバルド史研究の将来は,世界遺産となったことでさらに明るくなるであろうか。

小説に描かれた町
――十九世紀後半のオビエド―― 徳永 麻子

マドリード,チャマルティン駅発の電車に揺られておよそ5時間のシエスタから目を覚ますと,オビエドに到着していた。駅のホームに降り立つと,ひんやりと湿った空気が肌を刺し,8月下旬ながら上着を持ってこなかったことが深く後悔された。私が初めてオビエドを訪れたのは,学部4年生の夏だった。本来ならば卒業論文の執筆に邁進すべき時期なのだが,行き詰まっていた私は,文献探しのため渡西するまでただ目次を弄る日々を過ごしていた。テーマが文学表現上における都市と現実の比較であったため,現地調査なくしては進めようがなかったのも事実ではあったのだが……。オビエド駅を出て更に強く感じた湿気が,これまで抱いていたスペインの印象を大きく塗り替えた。駅舎正面口から南東へ延びるウリア通りは,町の中心部に近づくにつれて賑わいが増していった。旧市街を目指して北東の路地に入ると,オビエドを象徴するカテドラル,サン・サルバドールの尖塔が見えた。優美なゴシック建築を横目に,市役所へ続く小道を進むとシマデビジャ通りに出た。平日の午前中という時間のせいか,日陰の通りは閑散としていた。

「オビエドは幾多の作品の舞台となった町である」という言葉を耳にしたことがあった。事実,アストゥリアス州の州都であるオビエド,特にシマデビジャ通りを中心とした旧市街は,郷土作家達によって描かれてきた。中でも最も名が知られている作家がクラリンである。十九世紀後半にスペインで活躍した作家レオポルド・アラスはペンネームをクラリンとし,1883年から病没する1901年までの間をオビエドで暮らした。

クラリンの代表作である長編小説『ラ・レヘンタ』(La Regenta)(1884-5)は,十九世紀後半の地方都市オビエドをベツスタ(Vetusuta=古ぼけた)という名に置き換えて物語の舞台とした。元裁判官夫人アナ・オソーレスを主人公に,ブルジョア階級に生きる女性の姦通と挫折を描いた作品である。ベツスタの町は今日のオビエドと同様に旧市街と新市街に分けられ,その位置関係は厳密に模倣されたのだった。そして作者は,近代化の過渡期にあったオビエドを丁寧に描いている。

十九世紀中頃のオビエド市民たちは,カテドラル,サン・サルバドールが聳え立つ現在の旧市街を中心に生活を営み,そこには,市場や現存しないフォンタン劇場,市役所といった重要な施設が一カ所に集中していた。それらの中央に位置し,当時オビエドの中で最も賑やかで,町の軸となっていた通りがシマデビジャ通りだったという。この通りはカテドラルが建つ現アルフォンソ二世広場と現プラサ・デ・コンスティトゥシオンを繋ぐ細く狭い通りで,更に南に位置するダオイス・イ・ベラルデ広場までほぼ直線に続いていた。

ところが70年代以降,町の中心的役割を担う場所は,シマデビジャ通りから新たな通りへと代替わりする。その発端となったのが鉄道駅の建設であった。町の北西に建設されるオビエド駅と共に,町の中心へかけて長く広い大通りを開拓する計画が立ち上がった。当時不景気に見舞われていたオビエドは失業者で溢れかえっており,その状況を改善すべく,この計画の遂行に多くの労働者が雇われた。新たな通りを拓くという計画は,それまでシマデビジャ通りを基軸とし,狭い空間の往復により完結する日々を送っていた住民たちの生活に変革をもたらすことになる。この新たな通りこそ,今日において華やかな商業施設が立ち並ぶウリア通りである。

単に道を拓いただけではなかった。オビエドの象徴でもあった大木カルバジョンが,工事の妨げとなったため,市民の反対があったにも拘らず切り倒されたのだ。日々市民に木陰を与え,地元紙の名前として使われ愛されていた大木の伐採と共に,それまでの古い町を中心としたオビエドの幕が降ろされたように思える。因みに現在のウリア通りには,かつて大木が立っていた場所に記念プレートが埋め込まれている。鉄道駅完成後,人々の賑わいはシマデビジャ通りから徐々に石畳のウリア通りへと移っていった。大通りの両側と区画整理された新市街には真新しい建物が並び始め,結果,ウリア通り周辺から南西の新市街,そしてカテドラルの庇護を受ける旧市街を分ける明確な境界線が出来上がった。

幸運にも,期間内にウリア通り開拓前後について言及されている資料を入手し,卒業論文をどうにか書き終える事が出来た。縁もあって,現在も引き続き『ラ・レヘンタ』の研究を続けている。持ち帰ったオビエドの地図を広げる度,あの夏のひんやりとした湿った空気を思い出す。

ドゥカキスと難民
池上 公平

1988年夏,ギリシアを訪れた私は,アテネから列車でイタリアへと向かった。コンパートメントの相客はヴェローナに向かうというギリシア人の医師。その頃はちょうどアメリカ大統領選挙の最中であったが,民主党の候補者はマイケル・ドゥカキスであった。ギリシア人の医師は,ドゥカキスがギリシア人移民の子であること,正教徒であることを強調し,彼が大統領になったらすごいことだと熱を込めて語った。しかしギリシア人医師の期待もむなしく,11月の選挙でドゥカキスは敗れ,共和党のジョージ・ブッシュ(父)が大統領になった。

アテネを夕方出発した列車は翌朝,ユーゴスラヴィア(現在のマケドニア共和国)とギリシアとの国境に到着し,ギリシア側のイドメーニ,ついでユーゴスラヴィア側のゲブゲリアで長時間停車した。当てもなく待つ間,私は果物を売りに来た男からブドウを買った。いったいどれほど停車しただろうか。ようやく動き出した列車はバルカン半島をゆっくり北上し,スコピエ,ニシュを経てベオグラードに達し,そこから西に向かってザグレブ,リュブリアナを通過して翌朝トリエステに着いた。

昨2015年,中東からヨーロッパを目指す人の波が急増した。リビアなど北アフリカから海を渡ってイタリアを目指す難民は以前から多かったが,昨年はそれに加えてシリアやトルコからギリシア,バルカン半島への難民が急激に増加した。イタリア,ギリシア両国に流入した難民は10月に入った時点で50万人近くに達した。彼らの多くはドイツを目指し,ドイツには2015年1年で80万人が流入したという推測もある。かつて私が暇をもてあましたゲブゲリアの国境には膨大な数の難民が押し寄せ,その様を私はテレビのニュースで見た。彼らの多くは列車ではなく徒歩でバルカン半島を北上し,ハンガリーに入ったところで足止めされた。その後ブダペスト駅にあふれる難民たちの姿を,報道を通じてご覧になった方も多いに違いない。難民の増加につれて事故による犠牲者も急激に増加しつつある。地中海やエーゲ海で難民を乗せた船やボートが転覆し,大勢の犠牲者が出たことも読者の方々は先刻ご存じであろう。なかでも家族とともにトルコからギリシアに渡ろうとした幼い男の子が,ボートの転覆によって犠牲となった事件は悲劇としか言いようがない。ドイツはじめEU諸国の間で難民の受け入れと支援への動きが活発化し,難民は鉄道やバスで移動できるようになったが,支援に消極的な国もあり,情勢が劇的に好転したというわけではない。そしてEU諸国では難民の増加に反比例して,彼らを排斥しようとする動きが顕著になってきている。その間,日本においては,記者会見で難民問題への対応を問われた安倍首相が,移民問題に対処する前にやることがある,という微妙にずれた返答をしたり,ある漫画家がフェイスブックに難民を侮辱する漫画を投稿し,物議を醸すということがあった。

東からヨーロッパへと津波のように押し寄せる人々,その圧力が引き起こす様々な問題,軋轢,摩擦,暴力,死は,歴史上今回が初めてというわけでは,もちろん,ない。ビザンティン帝国が滅亡した際にも同様な出来事があった。1453年に陥落した時のコンスタンティノポリスの人口は5~6万人であったとされているが,住民の多くが捕らえられ,奴隷として売られ,また亡命者,難民として逃れることを余儀なくされた。ジョナサン・ハリス(『ビザンツ帝国の最後』白水社,2013年)はラグーザ(ドゥブロブニク)に逃れた亡命者が初めは暖かく迎えられたが,その数が急速に増えたために市当局が門を閉じ,亡命者を閉め出したことを伝えている。排除された彼らはイタリアに,さらにフランスやドイツに逃れ,イギリスやスペインにまで達した者もいた。シルヴィア・ロンケイ(L’enigma di Piero, Rizzoli, 2006)は,ピエロ・デッラ・フランチェスカの《キリストの鞭打ち》を手がかりとして,ビザンティン帝国の皇統とその文化,宗教を存続させようとするベッサリオンやピウス2世教皇らの努力,西欧と東欧の連携の模索とその失敗を描き出している。こうした事例は550年も前の出来事であるが,現在の状況に通ずるものがあり,私には21世紀が15世紀ををなぞっているかのようにさえ思われる。もちろん,オスマン帝国とISを同一視することは不可能である。オスマン帝国には文明があった。ISには暴力と破壊しかない。しかしながらEUから見て東の地域における混乱が,このような事態を招いたという点では,相似形をなしていると言うこともできよう。今日かくのごとき状況に至った遠因は,湾岸戦争,9.11,アフガニスタン戦争,そしてイラク戦争にあり,そこにはブッシュ父子の姿がある。もし1988年の大統領選挙でドゥカキスが勝っていたら,世界は変わっていたであろうか。

表紙説明 地中海世界の〈道具〉13

公職抽籤用の革袋と秘密投票用の容器/徳橋 曜

左の写真は,中世のフィレンツェで公職の抽籤に用いられていた革袋である。多くの北・中部イタリア都市のコムーネ体制は,文字通り政治を共有する体制であった。共有物である政治への関与は機会均等が建前となり,その理念に沿って市民が短い任期で役職に就いたのである。その公平性を追求した結果,フィレンツェでは公職が抽籤で選ばれた。写真の革袋は街区単位の抽籤用で,それぞれに4つの街区の印(画面左からサント・スピリト区=聖霊を示す鳩,サンタ・マリア・ノヴェッラ区=顔のついた太陽,サンタ・クローチェ区=十字,さらに画面にはないが,サン・ジョヴァンニ区=サン・ジョヴァンニ洗礼堂)が描かれている。これらの袋に役職候補者の名札が入れられ,名札を引き出された者が当選となるのである。手前の小さな巻物がその名札。開かれた巻物にはZenobius Benedicti Carocci de Strozisとラテン語で書かれた名前が見える。画家のザノービ・ディ・ベネデット・ディ・カロッチョ・デリ・ストロッツィ(1412~68)らしい。

名札の抽出は公正無私に行われたとしても,袋に名札が入れられるまでには,人脈や有力者の恣意の入り込む余地がたっぷりあった。まず,各行政区で複数の候補者が推薦される。一旦候補となると,役職に当選するまでリストアップされているが,その間に定期的に審査委員会の審査を受ける。絞り込まれた候補者の名札を袋に入れる作業も,抽籤管理委員会の監督下にある。これらの段階で恣意的な操作が行われえたのであり,コジモ・デ・メディチは抽籤管理委員会を利用して,政治の実権を握ったとされる。袋に自分の名前を入れてもらうために,手を尽くしてコネを作った者は少なくなかったろう。15世紀のある処世訓は,自分の住む行政区で後ろ盾を作ることの重要性を説いている。

そしてコムーネ体制のもう一つの特徴は,市民の合議である。都市は合議制の立法機関を持っていたし,同業組合や兄弟団も合議で運営された。そうした場で議決に用いられた道具が,右の写真の投票用容器である。起立式の投票が行われることもあったが,重要な議決では秘密投票が行われた。「黒と白の豆で」あるいは「容器と小球で」という議事録の表現が示すように,投票には黒と白の二色の豆(黒が賛成・白が反対)が使われることが多く,フィレンツェではソラマメが用いられた。黒または白の豆を握り,手を容器に突っ込んで豆を離す。こうすれば賛成か反対かを他人に見られない。狭い都市社会の中で人々は,親族・友人等の様々な人間関係に何重にも絡めとられ,党派・派閥間の対立もしばしばあった。だから,人脈や派閥に煩わされずに投票できることは(少なくとも建前上)重要であった。写真の木製容器は17世紀のヴェネツィアの船体防水工の同業組合で用いられていたもので,側面の口から手を入れるようになっている。賛否の意思が周囲に分からぬように,厳重に工夫されているのである。

明確な身分格差が必ずしも存在しない社会で,稠密な人間関係を利用し,また利用されながら生きていた人人。その思いが,これら二つの道具にはこもっている。

写真(左)R. Cardini – P. Viti (a cura di), Coluccio Salutati e Firenze, Mauro Pagliai Editore, Firenze, 2008 (右)ジャンドメニコ・ロマネッリ監修『世界遺産ヴェネツィア展 カタログ』, 東映/TBS,2011