地中海学会月報 MONTHLY BULLETIN

学会からのお知らせ

12月研究会

下記の通り研究会を開催します。奮ってご参集下さい。

テーマ: 神話の語りと叙事詩の性質
――オウィディウス『変身物語』における統一性をめぐる考察
発表者: 河島 思朗氏
日 時: 12月19日(土)午後2時より
会 場: 東京大学本郷キャンパス法文1号館2階 215教室
参加費: 会員は無料,一般は500円

オウィディウス『変身物語』はおよそ250編の様様な神話を語る物語群である。小さな物語の寄せ集めでありながら,叙事詩であることをどのように理解すべきか。『変身物語』研究のひとつの重要な焦点は,この「矛盾」に向けられている。本発表は,この性質を矛盾とはとらえずに,物語群でありながら統一性を有する叙事詩であることを論じる。

会費口座引落について

会費の口座引落にご協力をお願いします(2016年度から適用します)。
会費口座引落:1999年度より会員各自の金融機関より「口座引落」を実施しております。今年度手続きをされていない方,今年度(2015年度)入会された方には「口座振替依頼書」を月報本号(384号)に同封してお送り致します。
会員の方々と事務局にとって下記のメリットがあります。会員皆様のご理解を賜り「口座引落」にご協力をお願い申し上げます。なお,個人情報が外部に漏れないようにするため,会費請求データは学会事務局で作成します。
会員のメリット等
振込みのために金融機関へ出向く必要がない。
毎回の振込み手数料が不要。
通帳等に記録が残る。
事務局の会費納入促進・請求事務の軽減化。
「口座振替依頼書」の提出期限:
2016年2月19日(金)(期限厳守をお願いします)
口座引落し日:2016年4月25日(月)
会員番号:「口座振替依頼書」の「会員番号」とは今回お送りした封筒の宛名右下に記載されている数字です。
なお3枚目(黒)は,会員ご本人の控えとなっています。事務局へは,1枚目と2枚目(緑,青)をお送り下さい。

会費納入のお願い

今年度会費を未納の方には振込用紙を本号に同封してお送りします。至急お振込み下さいますようお願いします。
ご不明のある方はお手数ですが,事務局までご連絡下さい。振込時の控えをもって領収証に代えさせていただいております。学会発行の領収証をご希望の方は,事務局へお申し出下さい。

会 費: 正会員 1万3千円/ 学生会員 6千円
振込先: 口座名「地中海学会」
郵便振替 00160-0-77515
みずほ銀行九段支店 普通 957742
三井住友銀行麹町支店 普通 216313

地中海学会大会 記念講演要旨
動物と人間の二重肖像画(ダブル・ポートレイト)について
木島 俊介

「動物と人との関わり」というテーマをいただいて即座に画家シャガールのことが念頭に浮かんだ。マルク・シャガールは,1887年,帝政時代の白ロシアの町ヴィテブスクに生まれ,ここで育ったユダヤ人である。彼は,1912年,画家になるべくパリに赴いたのだが,その10年後,1922年頃から,彼自身の伝記を書き始めている。「ma vie わが人生」という自伝を30歳の画家が意識的に記すというのは特異なことだ。シャガールの絵画といえば,登場者はおおむね一定していて,故郷ヴィテブスクの貧しいユダヤ人ゲットーを舞台とし,貧乏だが善良な人たち,美しい恋人ベラ,そして動物たちだ。そのような動物と人間との関係を描写しただけであったなら,シャガールは単なる風俗画家だろう。

しかしながら,このシャガールが,いくたびかの故郷喪失,ユダヤ人コミュニティーからの離脱にみまわれることとなると,そこから,故郷ヴィテブスクへの,絶えざる精神的帰還,詩人アポリネールの言葉でいうならば「超自然」的な回帰をくり返すという必然に至る。というよりもむしろ,「故郷顕示」の強靭な意志の持続を自身に課するということとなる。

最初の重要な故郷離脱は,1912年,25歳の時のことだった。画家となるためにパリに出るのだが,この時の覚悟は相当なものであったらしく,この頃に描かれた重要な作品は《ゴルゴダ》と命名され,彼自身を裸の少年の姿に変えて,磔刑の十字架にかけている。この時の故郷離脱は単なる地域の移動ではない。ユダヤ教の一派ハシディズムの世界,敬虔主義と訳されるのだが,そこから,キリスト教世界という異文化の世界への不安な旅立ちを意味していた。この時点から実は,故郷ヴィテブスクが,失われた「楽園」として,夢想化され,というよりも新たな現実としてドラマ化されてゆくこととなるのである。この精神上の,そして図像上の変化のきっかけとなったのは,パリで知った詩人アポリネールらとともに,画商のボラールが愛好していたサーカスを観る機会に恵まれたことにあった。空を飛翔する,宙に浮く,天使のごとき人たち,互いに何の障碍もなく,恐れもなく,言葉を意志を通じ合わせて親密な動物と人間。モーゼのいう幕屋の雛形にしつらえられ,天と地との象徴と見えたドーム型のサーカス小屋。マルク・シャガールの本名は「ムイシャ」,モーゼのことであった。「すべての人間の魂は神聖で,地上のどこにでもいる両足動物の魂は神聖だ」。神の「恩寵(ヘブライ語のハシド)」という言葉からくるハシディズムはこのように教えていた。この地上のすべての存在物の魂のうちには,神の恩寵が,愛が,分け隔てなく照射され,内在化されている。この信仰に生きるものたちは,動物にも人間にも,全ての些細な存在物の魂のうちにも,等しく内在している神の恩寵を見ようとし,これによって互いをつながらせることにより,聖なるもの,広大深遠な宇宙を和解させる一つの原理を観ようとする。

そのシャガールが,第2次世界大戦によって故郷ヴィテブスクは焼滅し,彼の家族,愛する妻ベラの家族,すべてが消滅してしまった後,1947年,亡命先のアメリカで描いている作品《柱時計と自画像》の内容は極めて複雑である。赤いロバに擬えた絵筆を持つ自分と,既に亡くなっていた愛妻ベラをここで重ねあわせて,ダブル・ポートレイトとしているのみならず,ロバの画家が描いているキャンヴァス上には,つまり画中画には,ヴィテブスクの地上で磔刑に処せられている,イエスとしての,あるいはキリストとしての自分自身(ユダヤ人が何故にこれを描くのか),その胸に,救いの手か,哀れみの手か,優しく差し伸べる,ありし日の,白い婚礼衣装の妻ベラ。天空に飛翔し来った柱時計は,時の救いを意味しているのか,救いのなさを意味しているのか定かではない。更にこの画面のこちら側には,これを描いた生ける画家の存在のあることが強く主張されているのである。これは動物と人間との二重肖像画というよりも,何重にも重ねられた複雑な肖像画で,近代の美術批評においては,作品のこちら側に在る作者の魂の「開かれ」こそが最も重要なのである。

 

ルイス・デ・モラーレス
――もう一人の「神のごとき」画家―― 松原 典子

「神のごとき(divino)」と形容される美術家と言えば,誰もが思い浮かべるのはあのミケランジェロのことだろう。しかし,このイタリア・ルネサンスの巨人が活躍したのとほぼ同じ頃,スペインには同じく「神のごとき」と称されたもう一人の画家がいた。ポルトガルとの国境に近いエクストレマドゥーラ地方バダホスの町で,50年以上にわたりひたすらに敬虔な宗教画を描き続けた,ルイス・デ・モラーレス(1510/11~1586年)である。

プラド美術館では現在,2016年1月初旬までの予定でこのモラーレスの展覧会(El Divino Morales)が開催されている。同館が所蔵する油彩23点のうちの19点と,スペイン内外の美術館や個人コレクション,聖堂から借り受けた39点,それに現存する2点限りの素描を含めた60点ものモラーレス作品が一堂に展覧されるのは,史上初めてのことである。そもそもこの画家の名前を掲げた展覧会自体が,プラド美術館では1917年以来,実に1世紀ぶりであるし,その他の場所でも2000年にバダホスとリスボンで開かれたもの以外には見当たらない。プラド美術館はこの20年余りの間に10点の新たなモラーレス作品を獲得し,世界最大のモラーレスのコレクションを有するにいたった。近年の新たな作品や記録の発見を踏まえ,周到な準備の末に満を持して開かれた今回の展覧会は間違いなく,長く忘却の淵にあったこの画家の復権を加速させることになるだろう。

今日と違って,生前のモラーレスは主要都市から離れて活動していたにもかかわらず,貴族や高位聖職者をパトロンにもち,大きな工房の主として人気と名声を博していた。国王フェリペ2世が,エル・エスコリアル修道院装飾のために呼び寄せようとしたとさえ伝わる。バダホスとその周辺の聖堂のために20ほどの祭壇衝立も手掛けているが,何といってもその名を世に知らしめたのは小型の礼拝画であった。取り上げた主題の数は少なく,「聖母子」と,「エッケ・ホモ」,「柱に繋がれたキリスト」,「十字架を担うキリスト」,「ピエタ」といった受難のキリスト像が全作品の大半を占める。同一の図像で複数のバージョンが制作されていることからも,その人気の高さを推し測れるが,かといって単調に陥っているわけではない。つば広帽を被り,パフスリーブが特徴的な白い上衣と緑のマントをまとった通称「ジプシー姿の聖母」や,字を書く幼子キリストを抱いた聖母,「柱に縛られたキリストを前に悔悟する聖ペテロ」など,珍しい図像のバリエーションを展開してもいる。

彼のトレードマークとも言える真っ暗な背景を前に浮かび上がる,憂いを帯びた優美な聖母や,痛みというよりも深い悲しみを湛えたキリストの姿は,深奥な精神性に満ちていて,人々を聖母やキリストの生涯についての瞑想と祈りへといざなったことだろう。その霊性は,1560年代にバダホスに滞在した神秘思想家ルイス・デ・グラナダの『祈りと瞑想の書』(1554年)に通じるものであり,またモラーレスの最も重要なパトロンでカトリック改革の強力な推進者として知られるバダホス司教(後のバレンシア大司教)フアン・デ・リベーラの影響も重大であったと思われる。

18世紀の画家で著述家アントニオ・パロミーノによれば,モラーレスが「神のごとき」と呼ばれた理由の一つは,このような宗教画ばかりを描いたことにあるが(実際には肖像画もわずかながら描いている),もう一つは「息を吹きかけて動くかどうか試してみたくなるほど入念に描かれたキリストの頭髪」に見られるような技巧にあったという。100点前後とされる現存作品の中には工房作や模作も含まれていて,質は必ずしも均一ではない。しかし,優れた作品に認められる正確なデッサン,精緻な仕上げ,レオナルドの“スフマート”を思わせる柔らかい陰影などは確かに,モラーレスが敬虔さのみを売りとするただの一地方画家ではなかったことを示している。パロミーノが伝えるように,セビーリャの著名なフランドル人画家ペドロ・デ・カンパーニャの下で修業したのかどうかも含め,形成期についてはほとんど何もわかっていないが,おそらくは当時のスペインで触れ得る限りのフランドルとイタリアの美術を源泉としつつ,一目見てモラーレスとわかる独特の様式を確立していったのだろう。様式的にはまったく異なるが,その表現の独創性という点ではエル・グレコにも匹敵する画家であり,どこか土着的な宗教性においては,同じエクストレマドゥーラ地方が生んだ17世紀のスルバランを予告しているとも言えるだろうか。

はからずも,プラドでの展覧会とほぼ同時期に東京の三菱一号館美術館で開かれている「プラド美術館展─スペイン宮廷 美への情熱」には,モラーレスの最も典型的な聖母子像の一つが出品されている。画家の最盛期,1565年頃のものとされる秀作である。

北イタリア絹産業遺産を訪ねて
飯田 巳貴

近世以降地中海貿易におけるイタリアの相対的な地位低下が進むなかで,養蚕,絹撚糸製造,絹織物製造は,イタリア半島の各地で経済を支える重要な役割を担った。現在,手織り機械で生産を続ける数少ない企業の中に,ヴェネツィアのBevilacqua社がある。同社は中近世ヴェルヴェットの復刻を手掛ける一方,現代的なアレンジを施した手織り・機械織り絹織物の製造にも力を入れている。大運河に近い同社の工房は,壁一面に大量のジャカード紋紙の束が積まれ,19世紀の木製大型ジャカード式織機が所狭しと並ぶ。今も数台が現役稼働中で,女性の織手が実際にヴェルヴェット製造の作業過程を見せてくれた。複雑な紋様のヴェルヴェットは,一日に数センチしか織れないこともある根気のいる作業だ。薄暗い工房で,織機にぶら下げられた裸電球に照らされる織り手の手元を凝視している時,前方に長くのびる数百本の経糸の下に,沢山の糸巻が取付られた木枠が透けて見えた。それまで完成品である織物にばかり気を取られていたのだが,埃くさい木の床に這いつくばってその糸巻軍団を覗き込み,無数の経糸の列を見上げた時,布は糸から作られるという至極当然の事実が真に迫ってきた。

織機の準備も大変手間がかかる。大まかにいうと,10mを超える長く丈夫な経糸を絡まないように並べ,片端の経糸ビームに揃えて巻いた後,全て綜絖(一般にヴェルヴェットは6枚)と筬に通し,織り手の手前のクロスビームに取り付ける。工房スタッフによると,その織機の経糸は約800本で,糸を張る準備だけで約3か月を要した。ヴェルヴェットを製造中の別の織機は経糸が約1,600本あり,糸巻に糸を巻く過程から手掛けたので,準備に約6か月かかったそうだ。

中世後期,経糸の数は現在よりも遥かに多く,徐々に減少するものの,「軽い」織物でも4,000~5,000本,ヴェネツィアが得意とした重厚な高級品では7,000~10,000本という商品もあった。当然準備作業にも長い時間がかかったであろう。現代の機械製造に慣れた目から見ると,気の遠くなるような手間と時間である。絶妙な色合いの手織りヴェルヴェットは,昔も今も非常に高価である。同社の手織り製品は最近クレムリンの室内装飾にも使用されたそうだが,後継者の育成と並んで,顧客の確保と開拓が懸案事項であるようだ。

近世イタリアは絹撚糸分野でも先進地帯で,ボローニャ式水力撚糸機械を用いて,生糸を加工し輸出した。十分な動力を得るには単なる水流ではなく急峻な地形を利用した速い流れが必要不可欠で,北イタリアではアルプスの山麓一帯が製造の中心であった。近代以降養蚕は中国や日本の安価な生糸に押されて下火になり,輸入生糸の撚糸加工が主となる。

水力を利用した絹撚糸製造機械は,コモの絹博物館やボローニャの産業博物館などでも目にする。また近年地元の産業遺産として撚糸機械を修復・公開する場所が登場しつつある。今春,そのひとつであるロンバルディア州レッコ湖湖畔の小さな町アッバディア・ラリアナの市立モンティ絹糸工場博物館(Civico Museo Setificio Monti)訪問の機会を得た。レッコを出た列車の車窓の左側は湖が迫り,右は急峻な斜面が聳え,湖畔の街道沿いに小さな集落が点在する。見学は予約制で,若い女性職員が貸切状態で親切に案内してくれた。

モンティの名は,1818年にミラノ南方から移住してゼルボ川の急流に近い同地に絹撚糸工場をひらいたピエトロ・モンティに由来する。工場には2台のボローニャ式円形撚糸機械が設置されたが,後に1台を撤去し,3台の長方形の撚糸機械が導入された。現存の円形撚糸機械は1818年製で,1934年には操業を停止し,一時スイスの技術博物館に寄贈されていた。1978年にアッバディアのコムーネが建物とともに紡績機を購入し,修復を経て1998年にから一般に公開されている。円形撚糸機は直径5m,高さ11mの4階構造で,972個の糸巻が取り付けられている。往時は各階10人の職人が24時間体制で糸巻や絹糸の調整を行なった。原則的に全て糸が巻き取られて作業が終わるまで,機械を止めない。

この博物館の魅力は,この巨大な撚糸機械が実際に動く姿をオリジナルの場所で見られることである(現在は電力を用いている)。保存状態は非常によく,手が触れるほど近くから詳細に観察することができる。無数の中小の糸巻と巨大な躯体が一体となって滑らかに動く様は,圧巻である。建物の裏には修復された大型水車もあり,いずれ水路を復元して水力で稼働させる計画もあるらしい。同地の他にも稼働中の撚糸機械を見学できる場所はいくつかあり,またYouTube等で動画の閲覧もできる。美術館で豪華な衣装をまとった絵画を堪能したら,それを生み出した産業の遺産にも,心と目を向けていただければ幸いである。

ギリシアの「お神輿」を担ぐ
山口 大介

photo6-1(山口)早いもので,ギリシアに住んですでに十年もの月日が過ぎた。この間,ギリシアはオリンピックやユーロ景気でつかの間の繁栄を経験したかと思えば,今や経済危機に喘ぎ国家破たん寸前という目まぐるしい変化を続けている。実際,この国の行く末には暗雲が立ち込めており,出口の見えないどん底にあるともいえる。しかし,どんなに周囲の環境が大きく変わろうと,そこには変わることのない人々の日常というものがある。自分たちの原点を見失ったときにこそ,本当の意味で一つの民族は終焉を迎えるのだ。経済的動向に揺り動かされることのない生活に根ざした文化・慣習は,これからもギリシア人たちの「心の拠り所」として機能していくことだろう。

私がこの十年,一度も欠かさずに参加しているギリシアの行事がある。ギリシア正教最大の祭り,パスハ(復活祭)である。毎年,このお祭りを昔からの友人たちと過ごすため,私はペロポネソス半島南部の遺跡の村,マヴロマティ村へと出かけるのが習慣となっている。

本当のところ,羊の肉が大嫌いな私にとって,キリストが復活したあとに食する料理そのものは「年に一度の受難」ともいうべき苦役なのだが,その前日,金曜日の祭事が楽しみで村へと足を運ぶのである。

パスハ前日までの一週間は「受難週間(メガリ・エヴドマーダ」と呼ばれ,毎日のように教会で様々な礼拝が行われるが,とりわけ聖大金曜日(メガリ・パラスケヴィ)の夜には少々変わった祭事が執り行われる。それが「エピタフィオス」である。

「エピタフィオス」といえば,古代ギリシア史に精通した方々には,ペロポネソス戦争における最初の戦死者を弔う国葬のためにペリクレスが行った演説として有名であろうが,現代のギリシアではすでにギリシア正教の中に取り込まれてしまっており,通常聖大金曜日に行われる礼拝,特にその日にキリストの墓を模して作られる天蓋付きの祭壇のことを指す。家型をしたその箱の中にはキリストのイコンが収められてはいるものの,担ぎ棒が固定されたその姿は日本の神輿にそっくりである。イエス・キリストの受難と死を記念するこの日,村の女性たちが総出で,エピタフィオスを色とりどりの花々で飾り上げる。少々趣は異なるが,形からしてこれはまさしくギリシアの「お神輿」だと,日本人なら恐らく全員がそう感じるだろう。

夜になると,皆でこの「お神輿」を担ぎ,「キリエ・エレイソン(主,憐れめよ)…」と祈りを捧げながら村中を巡るのである。神輿を担がない村人は,自分たちの家の前で「迎え火」を焚き,そこで「神輿」の到来を待つ。その「迎え火」の前で「神輿」はしばし歩みを止め,待っていた村人たちは次々と「神輿」の下をくぐりながら,自分たちの幸せを願うのである。

すべての「迎え火」を経由したあと,「神輿」は再び教会へと戻り,そこで役目を終える。人々は「神輿」を飾る花を好きなだけ持ち帰り,次の年のパスハまでお守りとして持ち続けるという。(あまり目にしたことはないのだが)通常各家々の暖炉の上などに飾るのだそうだ。

今でこそ,様々な行事のたびに村の教会に顔を出し,お祈りの言葉まで口にするようになったが,最初はもちろん,信仰を持たない一外国人として,ギリシア人たちが大切に守ってきた礼拝の場に,単なる興味本位だけで踏み込んでいくことはできなかった。この村の人々は,そんな私をあたたかく迎え入れ,このような宗教上の大切な行事に実際に参加する機会まで与えてくれた。村人と共にこの神輿を担ぐとき,ことあるごとに様々なことを教示してくれた今は亡き村のヤニス神父の言葉が胸に浮かぶ。「大事なのは正教徒かどうかではない。教会に来て,我々の慣習を学ぶことなんだ」と。

キリストの死の記念行事であるエピタフィオス。日本のお祭りのような溌剌とした雰囲気はなく比較的しめやかではあるものの,参加する子どもたちは隠し持った爆竹(!)をあちこちに投げながら大はしゃぎだ。その様子は,お祭りで大騒ぎをする日本の子どもたちと何ら変わりない。

日本とギリシア。神道とギリシア正教。そして,エピタフィオスと神輿。これほど遠く見える文化の間にも,どこかしら似通った慣習があるというところに,人間社会の面白さを感じずにはいられない。

エーゲ海と2015年難民問題
野中 恵子

今は2015年10月上旬。拙稿を読んでいただける頃,難民問題はどうなっているかわからないが,その上で、今の時点で是非書きとめておきたいことを書いている。この夏報道が始まる前,私はエーゲ海をまたぐトルコ・ギリシアの現場で彼らの状況を見ていた。彼らの苦境と同様に,地元の混乱と困惑もあまりに深刻だ。

EUは早い段階から難民受け入れを表明した。将来を見越し労働人口として社会統合するとの理想・利益先行の理論には違和感も,さらなる人の移動を誘発し多くの人生を翻弄しうる危うさも感じる。無論,標榜する人道主義自体は立派だ。ただし,ブリュッセルを支える中心的諸国はエーゲ海から物理的に遠いのだ(地中海からの難民に対処してきたイタリアなども,北西欧は地中海から遠いと感じていたか)。戦禍のシリア・イラクからも遠い(米国は遥かに遠い)。今回の難民問題で改めて感じたのは,強者が弱者の事情を顧みず弱者を強者の意向に従わせることが,予測不可能な新たな問題を引き起こしかねないことだ。

この私見は,難民を生んだシリア内戦も「イスラム国」も,どれほど現代の中東政治問題なのかという疑問でもある。よくよくの再考を促したい。現代中東の混乱を,歴代各国指導者の非民主性にばかり帰せられるのか。近代までオスマン帝国統治下の中近東では,異なる信仰の諸集団が共存する難しい条件にもかかわらず,曲がりなりにも平穏は機能していた。その均衡は帝国主義西欧による植民地化工作で破壊され,以降1世紀を通じ,中東では次々と危険な諸問題が起こってきたのである。均衡破壊の様々な後遺症だ(イスラエル建国で問題は増幅する)。だが強者の世では,後遺症ではなく地域のもともとの病理現象と見なされる。

無論オスマン統治下での共存は,西欧流の人道主義に適う理想的な平等ではなかった。だが西欧が強要した理想は,難しい条件の中で内戦を避けるために可能な共生の知恵を絞り努力していた,当事者ではないから言えた勝手だ。さらに当時の介入は強者の優越な祖先創作願望と一体で,その結果エーゲ海にはギリシア独立以降第二次世界大戦後にかけ,東岸(アナトリア)の前をギリギリで通る奇妙な線引きがなされた。エーゲ海はあたかも,西地中海,遠い北海,はたまた北大西洋のキリスト教諸大国の保護海域のごとくになり,オスマン帝国終焉後の住民交換でイスラム教国となったトルコは部外者とされたのだ。だが,経済危機と難民の二重の問題に直面した今ほどギリシアが,この線引きの意味を痛感したことがあっただろうか。

トルコにとりギリシアとの骨肉の相克の壁であったこの境界は,ギリシアのEU加盟後,加盟国・非加盟国の壁としての明暗を分かつものとなった。拡大EUの過程で露呈したように,キリスト教諸国を集め富裕圏の中に入れ,これを貧困に苦しむ異文化圏たるイスラム教圏から守る壁である。壁で隔てられた側が不満と羨望を募らせるのは止めようがない。ヨーロッパに近い地中海のイスラム諸国のみならず,イスラム教が普遍宗教だからこそ,背後の広域にわたるイスラム諸国の人々も同様の想いを抱く。だから今,これらの人々は戦禍を逃れた難民の流れに機を見,ともに壁をつきやぶる移民となっているのではないのか。

人々が経済規模のより小さな中東欧諸国を通過して西欧にたどり着くまで,距離は長く,予見不可の時間がかかる。これらの国々はEU加盟国として,あるいは候補国としてEUの価値観共有の履行を求められても,大国との間には有する条件でも,加盟への思惑と期待でも相違がある。歴史的には東欧は西方と対峙するビザンツ・オスマン領であったし,中欧はずっと,異質な東方との最前線において緊張の中にあった。そもそも,これほどの広域と,固有の主権と事情を有する多様な諸国を共通の理想と基準で統合するということが,どこまで可能だったのか。何のための,誰のための理想なのか。

冬は足早に訪れる。今後は大陸で,さらに悲惨で危険になるとも知れぬ旅を続けよなどと言えるはずもない。EUの受け入れ分担宣言や国際社会への共同負担呼びかけは,難民の欧州流入が激増する後でなければならなかったのか。シリア周辺国が殆ど自力で大量難民を保護せざるをえないでいる(好意だけではないのだ)一方,西欧は古くからの中東への政治・軍事面での関与者としての然るべき対応をしてきたか。難民受け入れ宣言以降もなぜ,違法組織頼みとなるエーゲ海での危険なギリシア密航を放置し,地中海から迎えの移送船を派遣しないのか。

人は生活者であり,ずっと難民キャンプでは暮らせない。だが無制限移住受け入れはどこまで適正か。公平な負担はどこまで現実的で,誰が基準を決めるのだろう。

ギリシアの置かれた現状にトルコでの同情は大きく,ある人は私に「(EUに)加盟するなら自分が強国でないと」と溜息をついた。強者の理論に弱者はどこまでついていけるのか。弱者が抵抗した時EUは,そして難民はどうなるだろう。

表紙説明 地中海世界の〈道具〉10

弓/岡田 泰介

弓は,おそらく旧石器時代に生まれ,世界中で変化に富んだ発達をした。そのため,分類法や定義は,文化圏ごとに微妙に異なっている。もっとも汎用性が高いのは構造をめじるしとする分類法で,それによるなら,すべての弓は単弓(simple bow)と複合弓(compositebow)の二種類にわけられる。ちがいは,単弓が単一の素材でつくられるのに対して,複合弓は複数の素材でできていることにある。

古代の西アジアと地中海沿岸でつかわれた複合弓は,木製の芯を,薄く削いだ動物の角と腱で補強したもので,弓の両端には弓弦を張る角製のパーツ,「耳」をとりつけた。弓身の剛性が大きく,弦をはずした状態では弓をひくのと反対の方向へ強く反っているのが特徴で,弦を張るためには,かなりの力と技量を必要とした。この複合弓には,さらに,弦を張った状態では弓身がなだらかなカーブを描く長身の「Yrzi弓」と,把手を中心とする上下の弓身が弓をひくのと反対方向へ強く湾曲している短身の「スキタイ弓」との,二種類があった。Yrzi弓のほうが古く,スキタイ弓は,その名のとおり,紀元前8~7世紀頃に遊牧民のキンメリア人とスキタイ人によってもたらされた(表紙は,前525~500年ごろ,アテナイで流行したモチーフ「スキタイの射手」を描いた皿)。

青銅器時代のギリシアに複合弓があったかどうかは,はっきりしない。エウボイア島レフカンディの前10世紀の火葬墓でみつかった鹿角の部品は,それが弓の「耳」ならば,ギリシアにおける複合弓の最古の証拠である。アテネ近郊エレウシスで出土した前8世紀の土器画の弓は,両端に「耳」をもっているようにみえるので,複合弓かもしれない。ホメロス叙事詩の詩人は,まちがいなく複合弓を知っていた。弓の素材として野山羊などの角への言及がなんどかあるだけでなく,「反り返った(palintonos)」という弓の枕詞はあきらかに弦を張っていない複合弓をさしている。それらは,たぶんYrzi弓のなかまだったのだろうが,くだって前7~6世紀頃になると,ギリシア人は,新型の複合弓,スキタイ弓を知るようになったらしい。そのもっとも早い例を,前6世紀前半の有名な「フランソワの壺」に描かれた射手にみることができる。

武士道を「弓矢の道」というように,日本では弓は武士のシンボルだったが,ギリシア人にとっての弓のシンボリズムは,それとは違っていた。彼らには,身体をぶつけあわせる近接戦をおもんじ,弓を,わが身を危険にさらすことなく戦う武器としてみくだす感覚があった。それでも,ホメロス叙事詩では弓の位置づけはまだアンビバレントで,フィロクテテスやテウクロスのような英雄も弓を手にしている。しかし,前7世紀以降,いわゆる重装歩兵(hoplites)戦術が発達するにつれ,弓は,盾と槍に象徴される重装歩兵の対照概念となり,英雄として表象される重装歩兵の優越性を裏づけするシンボリズムをになうようになっていく。その背景には,熟練を要するスキタイ弓の普及にともなって,射手が,狩人などを中心とする特殊技能者として,一般の戦士から分離し周縁化されていくような状況があったのかもしれない。