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学会からのお知らせ


* 「地中海学会ヘレンド賞」候補者募集

  地中海学会では第19回「地中海学会ヘレンド賞」(第18回受賞者:片山伸也氏)の候補者を下記の通り募集します。授賞式は第38回大会において行なう予定です。応募を希望される方は申請用紙を事務局へご請求ください。

地中海学会ヘレンド賞
一,地中海学会は,その事業の一つとして「地中海学会ヘレンド賞」を設ける。
二,本賞は奨励賞としての性格をもつものとする。本賞は,原則として会員を対象とする。
三,本賞の受賞者は,常任委員会が決定する。常任委員会は本賞の候補者を公募し,その業績審査に必要な選考小委員会を設け,その審議をうけて受賞者を決定する。

募集要項
自薦他薦を問わない。
受付期間:2014年1月8日(水)〜2月13日(木)
応募用紙:学会規定の用紙を使用する。

* 第38回地中海学会大会

  第38回地中海学会大会を2014年6月14日,15日(土,日)の二日間,國學院大学(東京都渋谷区東4-10-28)において開催します。プログラムは決まり次第,お知らせします。

大会研究発表募集
  本大会の研究発表を募集します。発表を希望する会員は2月13日(木)までに発表概要(1,000字以内。論旨を明らかにすること)を添えて事務局へお申し込み下さい。発表時間は質疑応答を含めて一人30分の予定です。採用は常任委員会における審査の上で決定します。

* 2月研究会

  下記の通り研究会を開催します。奮ってご参集下さい。
テーマ:中世創建の墓廟建築にみるアナトリア地域のキリスト教・イスラーム建築文化の融合
発表者:守田 正志氏
日 時:2月22日(土)午後2時より

会 場:國學院大学 若木タワー 5階 509教室(最寄り駅「渋谷」「表参道」 )
参加費:会員は無料,一般は500円

  現トルコ共和国の大部分を占めるアナトリア地域には,11世紀以降,トルコ系民族によりイスラーム建築文化がもたらされた。一方,イスラーム流入以前は,ビザンツやアルメニア,グルジアのキリスト教建築文化が繁栄していた。そこで,中世創建のイスラーム墓廟建築を対象に,工法・構法・建築構成・装飾の観点から新興のイスラーム建築文化と既存のキリスト教建築文化の融合過程を分析し,当該地域の建築文化の史的展開を考察する。

* 会費口座引落について

  会費の口座引落にご協力をお願いします(2014年度から適用します)。

会費口座引落:会員各自の金融機関より「口座引落」を実施しております。今年度手続きをされていない方,今年度入会された方には「口座振替依頼書」を月報364号に同封してお送り致しました。手続きの締め切りは2月20日(木)です。ご協力をお願い致します。なお依頼書の3枚目(黒)は,会員ご本人の控えとなっています。事務局へは,1枚目と2枚目(緑,青)をお送り下さい。
 すでに自動引落の登録をされている方で,引落用の口座を変更ご希望の方は,新たに手続きが必要となります。用紙を事務局へご請求下さい。

* 会費納入のお願い

  今年度会費を未納の方には振込用紙を364号に同封してお送りしました。至急お振込み下さいますようお願いします。ご不明のある方,学会発行の領収証をご希望の方は,事務局へご連絡下さい。

会 費:正会員 1万3千円/ 学生会員 6千円
振込先:口座名「地中海学会」
    郵便振替 00160-0-77515
    みずほ銀行九段支店 普通 957742
    三井住友銀行麹町支店 普通 216313










カオス・シチリアのタクシー運転手

── 『山猫』作家のパレルモにて ──

武谷 なおみ



  『山猫』作家ランペドゥーザの「回想録」の翻訳にここ数年苦労を重ねてきた。「公爵」が遺した未完の手稿は未亡人と養子による編集が版ごとに異なり,ただでさえ複雑なシチリア史に貴族の系譜,屋敷の内装,独特のマフィア観まで加わって理解を妨げる。もう現地に行って確かめるしかない。小説空間さながらのシチリアでは,予期せぬときに生身の登場人物が現われて喋り出す。パレルモで会ったタクシー運転手もその一人だった。
  「わしは2年前この街に帰ってきた。親父がオランダで働いていたから,オランダで生まれて育ち,オランダ人の娘に惚れて結婚した。だが時は流れる。両親が死に,女房も病気で逝っちまった。それで倅の結婚を機に,両親の墓があるパレルモに戻ってきたというわけだ」
  両親のお墓はどこかと尋ねると,カプチン修道会のカタコンベがある教会の墓地だという。私は前日そこへ行った。モーパッサンの『シチリア紀行』に触発され,怖い物見たさで訪れたのだ。200〜300年前の修道士や町のお偉方のミイラが8,000体あまり,貴族や法律家や医者を筆頭に,女性や子供も服を着て並んでいた。立ち姿だが,みんな頭蓋骨をがくんと垂れて。地上に出ると,突き刺すような強い陽射しに目が眩んだ。
  「パレルモをよく見て行きなされ。わしはたいていあの広場にいるから,運がよければまた会えるだろう」
  翌日はバスでパラッツィーナ・チネーゼ(中国御殿)の見学に行くことにした。そこはナポレオンのイタリア遠征時代,ナポリ王国からシチリアに避難してきた国王夫妻の住居に用いられた楼閣である。スペイン国王の三男フェルディナンド4世とマリア・テレジアの娘マリア・カロリーナという稀代のカップルは,フランスのミュラがナポリを支配した一時期,ランペドゥーザの母方の別荘にも2か月間,身を寄せたという。
  その朝バス停に立つと,後ろのタクシー乗り場から,「シニョーラ!」と叫ぶ声がした。ふり向くと昨日の運転手が手をふっている。先頭車両の運転手も,それにつづく同僚たちも文句ひとついわず順番をゆずり,「おお,ガエターノ」「待ってました,色男」と手をぱちぱち叩きながらはやし立てる。ここで乗らねばシチリア男の名誉に傷がつく。
  「中国御殿へ」と行く先を告げると彼は言った。「そいつは運の悪いことだ。もうすぐ修復が完成するようだが,仲間の話じゃ,20年前からずっと工事で閉まっているよ」
  シチリアでは珍しくない。仕方なく足場ごしに眺め

るだけで我慢して,次は市の南端のサント・スピリト教会まで行くことにした。1282年にパレルモ市民が「フランス人に死を!」と叫んで反抗の狼煙をあげた「シチリア島の晩鐘事件ヴェスプリ・シチリアーニ」の舞台である。異国支配にさらされつづけたシチリアの民衆がただ一度,敵の打倒に成功したこの反乱は,島民の矜持の表われとして,劇場の緞帳や祝祭の荷車の板絵に描かれている。ランペドゥーザ家の別荘を飾る肖像画にも,事件を扇動した祖先のひとりが描かれていたと「回想録」に作家は記す。
  だが,観光客もあまり訪れない教会に運転手が迷わず行けるかどうか心もとない。つい命令口調になる。「次の信号を右へ。私のガイドブックの地図によれば ……」
  「お客さん,ガイドブックなど捨てなされ。地図は全部わしの頭のなかにある。オランダとシチリアをトラックで往復して,冷凍食品を運ぶ仕事をしていたんだぞ。高速道路を走らずにオランダまで行ける。ヴェスプリの教会なんぞ,おちゃのこさいさいだ」
  彼は一方通行の道を巧みに選んで,目的地に到着した。だが,そこも扉が閉まっていた。気落ちする私に運転手は言う。「あんたはおそらく先生じゃろ。これを持って行きなされ。きっと何かの役に立つ」
  手渡されたのは『パレルモの新たな取り組み』という広報誌で,修復中の図書館や博物館の情報が載っていた。18世紀の貴族の館をマフィアが手に入れ,破壊する寸前に法的措置が施されて,文化施設に変貌したという記事も。
  帰国の日は贅沢を承知で,空港にも彼の車で行くことにした。現在パレルモの玄関は,マフィアに惨殺された二人の判事を偲んで「ファルコーネ・ボルセッリーノ国際空港」と名づけられている。運転手は出発手続きカウンターまで荷物を運んでくれた。いつもは無愛想なアリタリアの女性職員が口々に「ガエターノ,久しぶりね」と愛嬌をふりまき挨拶をする。「シニョーラはわしの客だ。大阪まで万事落ち度のないように」
  通関までの待ち時間にコーヒーをご馳走するという誘いに応じてカフェに行くと,そこにも彼の知り合いがいた。「元気そうだな,ガエターノ」と陽気に声をかけてきたのは警官二人。日本では考えられない光景だ。制服姿の警官がコーヒーを飲みながら,タクシー運転手と世間話に興じるとは。警備は大丈夫だろうか。一抹の不安がよぎる。表層と真実。歴史と人情とマフィアの島。
  『山猫』出版から55年を経て,人は今も「カオス・シチリア」と,この島を呼ぶ。








春期連続講演会 「地中海世界を生きる」 講演要旨

建築家という職能

── フィレンツェ初期ルネサンスの建設現場 ──

石川 清



  中世イタリアでは稀にしか用いられることがなかった architectus という用語が記録文書の中で多用されていく過程を辿る。建築家を意味する architectus という言葉の用例を軸にして,建築家という職能の成立過程を人文主義的活動による成果と建設の現場の記録を再構成することにより明らかにした。アルベルティは『建築論』(1452年)の中で建築家を職人と全く異なった役割を担った芸術家であり知識人であるとし,建築家の建築行為を現場施工から切り放した設計行為であると考えた。これはウィトルウィウスの『建築十書』を踏まえているとはいえ,同時代に芽生えつつあった建築家の職能意識を裏づけるものであった。しかし,それ以前からフィレンツェの活発な建設活動の中でも徐々にそのような建築家像は形成されつつあった。
  13世紀半ばにボローニャからフィレンツェにやってきたドメニコ修道会士たちは,フィレンツェ政府から優遇を受けてサンタ・マリア・ノヴェッラ修道院を設立し,政府と良好な関係を築くようになる。14世紀前半に修道士ヤコポ・パッサヴァンティが聖堂建設を総轄していたときには,助修士ヤコポ・タレンティやジョヴァンニ・ダ・カンピが聖堂建設に技術的に深く関与していたことは死者名簿の記述から確認することができる。建設に関わる助修士の中には architector と死者名簿に記録される者も出てくる。確かに彼らは聖堂と修道院の建設など本来の修道院内での任務の分担だけでなく,都市における布教活動の重視から,その技術を活かして世俗的・公共的な都市整備へ積極的に介入することもその任務としたと考えられる。事実彼らは1335年にはポンテ・アッラ・カッライアを建設し,1350年にはフィレンツェ政府への貢献により報酬を得ているからである。
  しかし,同時代の修道院の外に目を向けるならば,15世紀にはフィレンツェ大聖堂のクーポラ建設において,中世の伝統的建設法との訣別を余儀なくされ,いままでに体験し得なかった規模と困難きわまる技術的問題は従来の職人的技術の枠をはるかに超えたものであり,ここで建設の主導権が伝統的な労働の担い手から計画を実現する構想力を持った有識者へと移っていった。その役割を担った人物がブルネレスキであり,同時に施工監理から解放された建築家的役割を演じたミケロッツォやアントニオ・ディ・マネット・チャッケリであった。その建築家的役割の職名は capomaestro であったが,給

与額の違いや capomaestro という役職名に付帯する修飾語のニュアンスの違いから,複数の capomaestro の中に分担する任務の違いを読み取ることができる。
  大聖堂において建築家的役割を担ったブルネレスキは,金細工師 orafo として修業を積み,ミケロッツォは彫塑師 intagliatore として修業し,後には彫刻家 scultore としての才能を発揮しつつ,capomaestro として大聖堂の建築活動を続けた。またアントニオは指物師 legnaiuolo として,建築模型,建設機械を製作する中で建築家的素養を身に付けた。彼らは,それぞれ異なる経歴で建築家になり,自分の能力に応じて,各自個別的な方法で建築に取り組んだ。15世紀前半の建築家の経歴と手法に一般解を見出すことはできないが,それぞれの経歴の中で建築家の職能が確立へと向かう兆候を見出すことができる。
  また,15世紀後半にはいると,建築家の役割がより厳密化する過程を建設記録から読みとることができるようになる。1460年にアントニオ・ディ・マネット・チャッケリがサンティッシマ・アヌンツィアータ聖堂の architettore として建設記録の中に記録されて以来,徐々に architectus, architetto, architettore という用語が様々な建設記録の中で用いられるようになる。1480年にフィレンツェの大聖堂の建設記録の中でジュリアーノ・ダ・マイアーノが大聖堂の Principalis Architectus に選出されている。彼は1477年にすでにこの現場の caputmagister に任命されているが,その後特別に仕事の内容が変わったとは考えられない。
  また,1491年のフィレンツェ大聖堂ファサードの設計競技の記録は,architectus という用語使用の変化の特質を如実に示している。ここでは何らかの形で建設に従事する業種の人々以外に有力市民あるいは学識経験者が審査員として architectus の一員として記されている。それはアルベルティが『建築論』で主張する施工を離れた助言者,仲介者としての建築家の姿が定着しつつあることを意味している。
  以上,フィレンツェの初期ルネサンスにおける architectus という用語使用の普及とその近代的な意味の付与の中に,中世的な建設法における統合的な職人組織から建築家の職能が分化していく過程を読みとることができる。









研究会要旨

15世紀ローマにおける礼拝堂装飾壁画研究

── ブファリーニ礼拝堂とカラファ礼拝堂 ──

荒木 文果

10月12日/國學院大学



  1480年代前半に,ローマ,サンタ・マリア・イン・アラチェリ聖堂において,ウンブリアの画家ベルナルド・ピントリッキオは,ブファリーニ礼拝堂の壁面装飾を行った。続く1480年代後半には,ローマ,サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ聖堂において,フィレンツェの画家フィリッピーノ・リッピが,カラファ礼拝堂壁画を制作した。両壁画に関しては,従来,制作年代や各工房におけるアシスタントの役割といった様式的側面についての議論が中心であった。また,各礼拝堂壁画の図像学的側面を個別に扱った研究として,それぞれ H. M. ラリックの Pintoricchio's Saint Bernardin of Siena Frescoes in the Bufalini Chapel, S. Maria in Aracoeli, Rome (1998) と G. L. ガイガーの Filippino Lippi's Carafa Chapel (1986) が挙げられるが,各論考において提示された説と実際の図像表現との間には,大きな乖離が生じていたと言わざるを得なかった。それに対して発表では,ブファリーニ礼拝堂壁画とカラファ礼拝堂壁画の図像的特異性について,特に15世紀ローマという時間的・空間的「場」との関わりを重視しながら個別に考察し,新たな論を提示した。
(1) ブファリーニ礼拝堂壁画
  先述したようにブファリーニ礼拝堂壁画に関しては,従来,様式的側面が重点的に論じられてきた。一方でラリックは,アラチェリ聖堂が当時フランチェスコ会厳格派の所有であったことを重視し,フランチェスコ会の聖人聖ベルナルディーノの聖人伝が描かれた本壁画の図像表現を,厳格派の称揚と結びつけた。このような研究状況をふまえ,発表では,15世紀のローマにおける聖ベルナルディーノ受容のあり方とブファリーニ壁画との関連を探った。
  D. アラスが既に指摘しているように(Iconographie et évolution spirituelle: la tablette de saint Bernardin de Sienne, 1974),聖ベルナルディーノは,死後わずか6年(1450年)で列聖されたものの,生前に彼が異端視されていたという記憶は,とりわけローマにおいて長く残存していた。その状況下で,ブファリーニ礼拝堂の壁面に聖人伝を絵画化する際,特に重要であったのは,先のカトリック教会の聖人たちに続くに相応しいベルナルディーノ像を提示することであったと考えられる。そこで,奥壁の祭壇壁面に描かれた《聖ベルナルディーノの

栄光》と左壁面上段ルネッタ部分に描かれた《隠遁生活を送る聖ベルナルディーノ》を中心に取り上げながら,同主題作品との比較に加え,聖人の説教集や教皇庁に仕えていた人文主義者マッフェオ・ヴェージョ(1407〜1458)の著作「聖ベルナルディーノ伝」といった同時代史料を参照した。その結果,ブファリーニ礼拝堂で聖ベルナルディーノ伝を絵画化する際には,正統性に異論のない聖人たち,すなわち聖母マリア,洗礼者聖ヨハネ,聖フランチェスコに関わるアトリビュートや構図を巧みに用いて,聖ベルナルディーノの異端性を覆い,その正統性を強調したと考えられることを明らかにした。
(2) カラファ礼拝堂壁画
  カラファ礼拝堂壁画に関しても,従来,関心の対象となってきたのは様式的側面であった。一方で,図像学的側面に関して,G. L. ガイガーは,受胎告知の聖母マリアとドメニコ会の聖人聖トマス・アクィナスに捧げられ,両聖人の逸話が描かれた本礼拝堂全体の図像表現が,聖トマス・アクィナスの著作の記述と結びつくと主張した。
  対して発表では,カラファ礼拝堂壁画制作当時,ミネルヴァ教会には「受胎告知同信会」という団体を中心に,受胎告知の聖母に対する特別な信仰形態が芽生えていたという点に注目した。そしてミネルヴァ教会内で「受胎告知の祝日」に行われた典礼の記録や「同信会」の会則,さらに本礼拝堂で執り行われた注文主カラファの葬儀において人文主義者ヤーコポ・サドレートが読み上げた弔辞などの精読を通して,特異な図像表現を有する祭壇画《受胎告知》をはじめとした本礼拝堂壁画のフレスコ画の主題と「貞潔の擁護者」としての注文主カラファ枢機卿の像が交錯する様を提示した。
  両壁画は従来,各画家のモノグラフで取り上げられ,様式発展の一部として個別に論じられるのが常であった。本発表では,15世紀ローマにおける各礼拝堂の存在意義に目を向けたことで,各礼拝堂壁画の新たな図像学的解釈の可能性が開かれた。またそれは,両礼拝堂壁画の視覚的・意味内容的関係性を問う新たな研究の展望へと導いていくものであった。これら一連の研究成果を基礎としながら,主に外来の画家たちが活躍した15世紀ローマ美術史の実態解明を今後の課題とし,尽力していきたい。








啓蒙主義のヒロインとなった女性哲学者ヒュパティア

足立 広明



  ヒュパティアという名の女性哲学者をご存じだろうか。彼女は古代末期のアレクサンドリアに彗星のように現れ,周囲を照らし,そして消えていった。彼女を主人公とした映画『アレクサンドリア』が2011年に国内で公開されたので,あるいはご覧になった方もあるかもしれない。
  彼女が活躍したのは4世紀末から5世紀初頭にかけて,学術都市アレクサンドリアの千年に及ぶ歴史も後半のことである。ムセイオンの重要メンバーで数学者,哲学者として知られたテオンの娘として生まれ,間もなくその父をも凌ぐ才能を発揮し始める。アポロニオスの円錐やディオファントスの数学理論に通暁し,天体観測機器アストロラーボンを設計し,知を求めてやってくる人々全てにプラトンやアリストテレスの哲学を教えたという。
  しかし,やがて運命は暗転する。412年,テオフィロス総主教が死去すると後継者争いが生じ,キュリロスが暴力部隊を用いて主教位に就く。彼とその一党はさらにユダヤ人とも諍いを始め,これを行政権侵害越権行為として皇帝に報告した総督オレステスとも対立する。オレステスがしばしばヒュパティアに助言を求めていたことからキュリロス一党の間で疑惑が生じる。
  すなわち,オレステスと総主教の和解を妨害しているのはヒュパティアではないかという疑いである。そこで朗読者ペトロスを首謀者とするキュリロス派の暴徒がヒュパティアを待ち伏せして惨殺し,四肢をばらばらにして燃やしたという。415年3月のことであった。
  以上の経緯は5世紀の教会史家ソクラテス,6世紀の「異」教著作家ダマスキオス,7世紀のニキウ主教イオアンネスなどの諸史料から再現したものであるが,立場を異にする史料がこぞってヒュパティア殺害を証言しており,この惨劇が史実であったことへの異論は今のところ唱えられていない。そして,ここから伝説が始まる。
  すなわち,彼女の死は古代的理性の終焉と暗黒の中世の開幕を象徴するものとされ,彼女は「異」教の「殉教者」として理想化されていくのである。18世紀の啓蒙主義時代開幕とともに,ジョン・トーランド,ヴォルテール,エドワード・ギボンらがその著作のなかでキュリロスの権勢欲とそれに従う修道士たちの無知と狂信を,それに対するヒュパティアの理性と美を強調した。
  19世紀になると,イギリスのキングズリが小説『ハ

イペシア』で若く美しい無辜の犠牲者というヒュパティア像を定着させた。ヒュパティアは詩や演劇の題材となり,科学史においても教会から弾圧を受けた科学者とされ,その傾向は現在まで続く。上述の映画『アレクサンドリア』はカール・セーガンの科学教養番組『コスモス』や科学史の影響を色濃く受けたものである。
  キュリロス自身の指示が立証されないとしても,その配下の者が惨劇を引き起こした以上,その責任は免れない。啓蒙主義の広まりと教会批判のなかでこのタブーが直視され,ヒュパティアが復権した意義は小さくない。しかし,啓蒙主義300年の間にヒュパティアがヒロイン化して実像からかけ離れてしまったことも事実である。
  彼女はどんどん若く,また白くなっていった。挿絵などでは西欧系の顔立ちのヒュパティアを中東系の浅黒い顔立ちの男たちが連行していく。ヒュパティアには近代西欧の理性と科学が,一方キュリロス一党にはオリエントの非合理な野蛮さが投影される。映画『アレクサンドリア』でもこのパターンはしっかり踏襲されている。
  しかし,彼女はアレクサンドリアで生まれ育ち,そこで一生を終えたローカルな人間である。また,彼女は近代的な意味での科学者でなく,新プラトン主義,とくにプロティノスの哲学の信奉者であったことも見逃せない。すなわち,哲学,天文学,数学,音楽などに分かれて見えるものも,彼女にあってはすべて神のひとつの真理に至る道筋なのであった。このことは,弟子シュネシオスの書簡集から明らかである。
  もうひとつ重要なことがある。シュネシオスは彼女の死を見ることなく,それより以前の413年ごろに亡くなっている。ところが,彼の描くヒュパティア像はすでに十分聖化されたものとなっているのである。
  彼女は地上の肉体の美しさでなく,魂の美しさと調和を求めて独身を貫いた。そして,「神のごとき魂」の持ち主としてシュネシオスらに崇敬されるに至った。これは多くの研究者が気付き始めているように,伝統的な「異」教女性よりも,同時代のキリスト教女性聖人にずっと近い。その最期があまりに衝撃的でかき消されてしまった観があるが,彼女が同時代の社会のなかでいかに聖性を獲得していったのか,彼女がなぜ悲劇的な最期をむかえねばならなかったかを解明するためにも,この点にこそ注目する必要があるように思われる。









自著を語る 70

『表象のヴェネツィア ── 詩と美と悪魔』

春風社 2011年11月 400頁 2,800円+税

鳥越 輝昭



  本は書き手の手元を離れると独立の存在になり,どう読まれるかは ── 読まれないこともふくめて ── 自由なのですが,表題の拙著の大きなねらいのようなものを書いておきます。
  わたくしは30歳のころにヨーロッパ精神史の研究を志しました。最初の仕事がフランクリン・バウマー『近現代ヨーロッパの思想 ── その全体像』(大修館書店,1992)の翻訳でした。同じころ,イタリアの歴史や文化に関心を持つようになりました。その関心の表れのひとつが,デニス・ヘイ『イタリア・ルネサンスへの招待 ── その歴史的背景』(大修館書店,1989)の共訳でした。
  ところで,バウマーや,敬愛するフリードリッヒ・ヘーア(『ヨーロッパ精神史』1953; 2004。簡略版の邦訳1982)のような精神史家・思想史家は,ヨーロッパのさまざまな時代について超領域的に該博な知識を備えていますから,正面からヨーロッパの精神史・思想史を取り扱えます。しかし,異なる文化背景のなかで育った凡庸な研究者にそのようなことはできません。
  あるとき,ワーズワースの「自由の長女だったヴェネツィア」という詩句が気にかかり,他の人たちがヴェネツィアをどのように見なし語ってきたのかを調べはじめました。以後30年。その間に,『ヴェネツィアの光と影 ── ヨーロッパ意識史のこころみ』(大修館書店,1994)と『ヴェネツィア詩文繚乱 ── 文学者を魅了した都市』(三和書籍,2003)という2冊の本を出版しました。
  『表象のヴェネツィア ── 詩と美と悪魔』は,ヴェネツィアをめぐる3冊目の本です。これら3冊の本の最大のねらいは,ヴェネツィアに関する語りの根底にある精神の動きを洞察すること,言いかえれば,この都市をめぐるヨーロッパ精神史の事例研究でした。『表象のヴェネツィア』については,「ヨーロッパ文化史の断面」という副題も考えてみましたが,インパクトが弱いので,現行のものにしました。
  都市ヴェネツィアは,東西交易で経済的に繁栄し,海軍国家として東地中海に覇権を築き,外交的に抜け目なく手強い政治勢力でしたが,1797年にナポレオンの恫喝により,あっけなく滅亡しました。
  拙著『表象のヴェネツィア』は,都市国家ヴェネツィアが内側から崩壊していった18世紀を前史とし,主と

して国家滅亡以後のおよそ150年間を扱っています。この時代のヴェネツィアは,経済的・政治的に歴史を動かす主体ではなく,もっぱら外来の人たちによって語られ描きだされる町 ── 表象される都市 ── でした。
  わたくしは,この間のヴェネツィアに関する表象には三つの大きな特徴があると考えています。
  (1) 詩的な都市になったことです。これは,経済的・政治的な繁栄ののちに滅亡した町,という記憶から生じました。
  (2) 美を主要な特徴とする都市と見なされるようになったことです。経済的・政治的な繁栄と爛熟する文化が消滅したあとに,美という特徴が残ったのです。
  (3) 爛熟・退廃した文化の記憶から生じた魔界幻想です。
  拙著の扱うヴェネツィアの表象には以上三つの特徴があるので,副題は「詩と美と悪魔」としました。
  拙著で表象分析の対象として選んだ素材は,詩文,絵画,オペラ,映画など多分野にわたります。一方には,バイロンの詩(『チャイルド・ハロルドの巡礼』)や,トーマス・マンの小説とヴィスコンティによる映画化作品(『ヴェニスに死す』)のように,だれもが都市ヴェネツィアと結びつけるものも取り扱っていますが,もう一方では,このごろ日本ではほとんど読む人のいない L. P. ハートレーの短編小説なども扱っています。ドニゼッティのオペラ(『マリーノ・ファリエーロ』)やヨハン・シュトラウスのオペレッタ(『ヴェネツィアの一夜』)に関する政治的視角からの分析も物珍しいでしょう。日本ではほとんど知る人のいない詩人ディエーゴ・ヴァレーリが,ヴェネツィアについて魔界幻想を描いたトーマス・マンなどを病人と呼び,ヴェネツィアは生命あふれる都市だと主張していることなども,拙著では取り上げています。
  老貴婦人ヴェネツィアに伺候して過ごした30年はさまざまな発見のある興味深い年月でした。しかし,ヨーロッパ精神史のなかで見るとヴェネツィアをめぐる精神史は脇道です。脇道は面白い場所であることが多いけれども,頭と目が衰えないうちにと思い,昨年頃からヨーロッパ精神史の最大の問題であるローマについて,表象とその根底にある精神の動きを調べたり考えたりし始めました。数年後には,また「自著を語」らせていただくことがあるかもしれません。








表紙説明 地中海世界と動物 13


蜜蜂/佐藤 昇


  炎天下のギリシアで一日遺跡を巡り歩いていると,甘いものが恋しくなる。アイスクリームもいいが,蜂蜜をとろりと垂らしたヨーグルトもまた格別である。濃厚なギリシアヨーグルトの独特なコクと爽やかな酸味,それに滋味豊かな甘みが絡み合い,口いっぱいに拡がって至福のひとときを過ごせる。
  ギリシアは蜂蜜大国である。年間12,000〜17,000トンもの蜂蜜を生産し,欧州ではスペインに次ぐ生産高を誇る。それにも拘わらず,輸出は僅かに800トンほどで,2,000トンをさらに輸入しているという。一人当たりの年間消費量は,1.7キロにもなるというからまさに蜂蜜消費大国の名に相応しい(日本は400グラムにも届かない)。
  ギリシアの蜂蜜好きは古代に遡る。採蜜はすでに先史時代から行われていた。養蜂の業を人間に授けたのは,とある神話によれば,アポロンとキュレネの息子アリスタイオスであった。ニンフから養蜂を学んだアリスタイオスは,一度は蜂を死滅させてしまうものの,その後,犠牲に屠った牛の死体から改めて一群の蜂を手に入れたという。文献ではヘシオドスの言及が,養蜂を示唆する最古の例とも言われている。またアテナイのソロンは,養蜂に関して,巣の間隔を十分に空けるよう法を制定したとされている。この辺りの記述は些か注意を要するようだが,ともかく養蜂は古典期までに,ギリシア各地で盛んに行われていた。考古学的にも,養蜂に利用された土器があちらこちらで出土している。巣箱ならぬ,巣「鉢」もあれば,採蜜の際に蜂を追い払う燻煙用具も

あった。そうして作られた蜂蜜の中でも,アテナイのほど近く,ヒュメットス山の蜂蜜は一級品だったということで,ストラボン『地理書』にも取り上げられている。
  さらに古代ギリシアの文献を繙くと,蜜蜂はしばしば文化的,社会的集団を描写する際に利用されている。よく知られているように,アリストテレス『政治学』では,人間と同様「ポリス(国)」を営む動物として,蜜蜂が真っ先に挙げられている。クセノフォンは,家政を論ずる中で,妻は家の中に女王蜂の如く留まり,働き蜂を働かせるべしと論じている。さらに文化的を通り越し,潔癖性とすら見なされていたようだ。飛行中に排泄するのは,臭いに我慢がならぬ潔癖主義の故。そればかりか,不潔な愛にも我慢ができず,道ならぬ情欲にふけるものを嫌い,狙いを定めてぶすりとやるのだという。
  蜜蜂はまた神話の中で道を指し示す役割を担った。イオニア植民に乗り出したアテナイの船団は,蜂の姿をしたムーサイに先導され,海を渡ったという。建設されたエフェソス市の硬貨には蜂の意匠が施されている(写真左下)。ボイオティア地方にある英雄トロフォニオスの神託所も,蜜蜂の導きにより発見されたとされている。ホメロス風ヘルメス賛歌によれば,蜜蜂には,未来を告げ,人に道を示す業,予言術を伝授する力まで備わっていたという。蜂蜜には霊感を呼びさます力があるらしい。そういえば,先日デルフォイを訪ねた際,自家製蜂蜜が一押し商品として土産物屋の店頭に並んでいたが,さてはあれにも,いやまさか。