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学会からのお知らせ


* 10月研究会

  下記の通り研究会を開催します。奮ってご参集下さい。(当日,教室が変更になる場合があります)

テーマ: 15世紀ローマにおける礼拝堂装飾壁画研究 ―― ブファリーニ礼拝堂とカラファ礼拝堂
発表者: 荒木 文果氏
日 時: 10月12日(土) 午後2時より
会 場: 國學院大学120周年記念1号館1階1104教室(最寄り駅「渋谷」「表参道」 ) ← 隣の 1103 教室 に変更になりました。
参加費: 会員は無料,一般は500円

  本発表では,1480年代にローマで制作された二つの礼拝堂壁画,サンタ・マリア・イン・アラチェリ教会(フランチェスコ会)のブファリーニ礼拝堂壁画とサンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会(ドメニコ会)のカラファ礼拝堂壁画を対象に,特にローマという場との関わりを重視しながら,各礼拝堂壁画の図像学的特異性に対して新たな解釈を提示する。その上で,二大托鉢修道会の競合意識に着目し,先行研究において従来個別に取り上げられてきた両壁画が,制作当時には対作品と見做されていた点にも言及する。

* ブリヂストン美術館秋期連続講演会

  秋期連続講演会をブリヂストン美術館(東京都中央区京橋1-10-1)において下記の通り開催します。各回,開場は午後1時30分,開講は2時,聴講料は400円,定員は130名(先着順,美術館にて前売券購入可)です。

「芸術家と地中海都市 III」
10月19日 ピカソ: 青春の光と影 ── 赤と青のバルセロナ  大 保二郎氏
10月26日 フェイディアスとアテネ   芳賀 京子氏
11月2日 ローマのブラマンテ: 真の古代建築との出会い  飛ケ谷 潤一郎氏
11月9日 ミケランジェロとヴェネツィア  石井 元章氏
11月16日 マドリード宮廷とベラスケス  貫井 一美氏

* 新名簿作製

  新名簿作製のため,会員各位の掲載項目の確認書を月報361号に同封してお送りしました。ご確認の上,変更がございましたら9月30日(月)までに事務局へご連絡下さいますようお願い致します。









表紙説明 地中海世界と動物 10


蛙/水野 千依


  古来,蛙には治癒力や抗毒力が託され,固有の伝説が生み出されてきた。そのことをよく示すのが,表紙にあげた数々の護符である。
  イタリアのアブルッツォ州,ウンブリア州,マルケ州では,魔術(兇眼マロッキオ,妖術,呪い)から身を守るために,蛙を象った銀の護符を身に着ける習慣が古くから存在した。異教的呪術性を帯びた護符はキリスト教に容認されはしなかったものの,実際には広く普及していた。蛙は単体でも守護力を見込まれたが,三日月と象徴的に組み合わせた例が多い。互いに無関係にみえる形象だが,同じ治癒力をもつ像を重ねることで強力な効果を期待されたと想像される。なかでも目を引くのは,月に「JESVS+MARIA」と刻んだ例である。異教的フェティシズムとキリスト教との妥協の産物といえようか。しかし,次第に蛙は護符から姿を消し,代りにキリスト教聖人がその地位を継承し始める。その聖人とは,アブルッツォ地方で篤い崇敬を集めた聖ドナート。癲癇(聖ドナート病)や狂水病を予防治癒し,兇眼の悪影響や魔術に抗する無敵の聖人である。こうした奇跡力によって,蛙に代り聖ドナートを伴う新しい護符が生み出された。新種の護符は,興味深いことに全体の形態や細部において古い護符をなぞっており,聖人像は蛙や蟾蜍ひきがえるの形象に重なるように見える。異教の呪術性をキリスト教の聖人崇敬に移植させつつも,未だそのプロセスが完遂されていないことを仄めかしているかのようだ。一方,呪術的象

徴を取り除き,それまで護符に積層してきた記憶や装飾を排し,聖人が単独で表現される例が登場する。蛙を中心とする象徴体系が次第にキリスト教の聖人崇敬へと取り込まれ,いわば悪魔祓いにされていったといえよう。
  類似する変遷を示すものに「蟾蜍の石」という呪物がある。ヨーロッパ全土,特に北部では,ある年齢以上の蟾蜍の頭部に石ができ,それが格別の抗毒効果や予防治癒力を有すると信じられた。時にそれは,三畳紀〜白亜紀の魚類レピドテスの化石の歯だとする伝承も存在した。この石は,入念な儀礼行為を通じてのみ採取できるとされ,蟾蜍の石を嵌込した指輪を身に着ける慣習も中世末から近代まで流布した。しかしヨーロッパ中部から南部では,次第に蟾蜍の石は,キリスト教の使徒聖パオロとマルタ島に関わる伝承に包含されていく。紀元60年頃,パオロたちは難破しマルタ島にたどり着く。そこでパオロは奇跡的に蛇の危険を逃れ退治したことから,島には毒蛇から永遠に守護される恩恵が,その土地や海の化石には抗毒力が授けられた。この逸話から,「聖人・マルタ島・毒」を核とする複合的神話-儀礼体系が練り上げられ,レピドテスの石は蟾蜍の石との関係を断ち,聖パオロ崇敬と結びついた海の化石に形を変えて残存した。
  キリスト教の純然たる聖人像の前世がこうした呪力をそなえた動物だったとしたら,蛙に注目してみることもあながち見当違いではないのかもしれない。








地中海学会大会 記念講演要旨

京都の変貌

── 「洛中洛外図屏風」から豊臣秀吉の時代へ ──

仁木 宏



  大会会場の同志社大学寒梅館は,室町幕府の「花の御所」(1378〜1559年)の跡地にあたる。本日は,この「花の御所」をビジュアルに描いた,初期「洛中洛外図屏風」(上杉本など)を解読しながら,京都の変貌について明らかにしたい。
  中世京都(12〜15世紀)の全体像を描く画像はない。「年中行事絵巻」(12世紀)や「一遍上人絵伝」(13世紀)などで都市の賑わいは表現されるが,都市全体は描かれない。これは,京都を一つの都市とみる思想・認識がないことによるのではないか。その原因は,中世京都の都市構造にあったと考えられる。
  京都では,断片的な土地ごとに分割支配がなされていた。都市住人の生業をめぐっては「座」(ギルド)が支配単位で,「座」はそれぞれの領主(朝廷,貴族,寺社)に貢納し,反対給付として生産・販売の独占特権を得ていた。さらに,貴族・寺社・武士と都市住人が主従の関係をとり結ぶことも見られた。都市全体を統括する領主権力は存在しない。室町幕府は警察・軍事や裁判,課税などの公権をもっていたが,限定的であった。結果として,中世都市京都は,モザイク状,パッチワーク様の都市構造をもつことになった。こうした事情もあり,京都の住人が自らを,京都の「都市民」であると考える意識はあまりなかったものと推定される。
  「洛中洛外図屏風」が描く16世紀の京都の姿には,こうしたモザイク状の中世都市と,より統一感のある近世都市への胎動の両方が看取される。「洛中洛外図屏風」に描かれる幕府,内裏の建物はいずれも低層で,屋根は板葺き,杮(こけら)葺きであった。幕府,内裏のあり方は一般の武家邸,貴族邸とそれほどちがわない。こうして,ひとつが頭抜けることなく,幕府・武家邸,内裏・貴族邸,寺院が上京に散在することになった。これら武家・公家・寺家が全体として支配層を形成する「権門体制」が,首都京都を覆っていたのが中世京都であった。
  「洛中洛外図屏風」によれば,そうした諸権門の拠点の間を町屋が,都市民の世界が埋め尽くしていた。内裏には子供が遊びに入っていたずらをしたし,戦乱が迫ると女性や子供は内裏に避難した。幕府の周辺には上京 No.1 の繁華街が位置した。都市民の豊かな都市生活が展開していた様子は,「洛中洛外図屏風」に描かれた商い,ものづくりの様子や遊び・年中行事などからうかがい知られる。16世紀の京都では,領主階級と都市民が

「近く」で生活を共にしていたのである。
  「洛中洛外図屏風」が成立する前提として,名所・年中行事などを描く扇絵,図帖などがあった。そうした個々の画題を該当場所にはめ込み,上京・下京を現実の地理的に表現することで「洛中洛外図屏風」は誕生した。古代平安京を除けば,日本で初めて,都市の全体像が1枚の画像に表現されたのである。これは単なる絵画技法上の展開ではない。都市思想,都市認識上の重大な画期と考えるべきであろう。
  このような都市としての統一感の醸成には,都市共同体の成立が大きな役割を担っていた。16世紀の京都では重層的な地縁的共同体が成立していた。数十軒の家々からなる「町」(ちょう)が基盤的な共同体で,さらに数十以上の「町」が結集したのが「上京中」「下京中」の惣町であった。町は,町並みの端に防衛装置である「構」(かまえ)を築いていた。惣町を囲う「惣構」は,「洛中洛外図屏風」では土塀として表現されるが,実際には巨大な土塁(土でできた城壁)と堀からなっていたことが発掘調査によってわかっている。
  これらの都市共同体は,都市における治安・軍事,法を担い,建物・土地の自主管理,生業の相互保障を行った。「誰が町人であるかは町が決める」状況が現出し,中世的な都市支配である権門体制の有名無実化が進んでいった。都市自治を基盤とする統一的な都市のあり方が実現する可能性がはらまれ,そこに西欧の中世都市のごとき発展の方向性もないことはなかったが,現実にはそのような方向には歴史は進まなかった。
  1580年代から京都を支配し始めた豊臣秀吉は,強力な全国統一の過程で首都京都を再編し,桓武天皇以来というべき都市改造を断行した。「聚楽第」(じゅらくだい)という近世風の城郭を洛中に築き,全国の大名の屋敷に取り囲ませた。貴族邸を内裏のまわりに集め,寺院を寺町に集めることで,天皇・寺院と都市民の間を隔て,支配しやすくした。そして「御土居」(おどい)と呼ばれる巨大な都市城壁を築き,都市共同体が築いた惣構を圧倒した。こうして,京都は,近世的な計画都市,国家権力の支配拠点としての色合いを急速に濃くしてゆくのである。
  「洛中洛外図屏風」の描く京都の姿は,中世から近世へ遷移する都市社会のあり方をビジュアルにとらえていることが改めて理解できるであろう。








地中海学会大会 研究発表要旨

レッシングとエウリピデス

── 「新しいメデイア」像からみえてくるもの ──

田窪 大介



  『ミス・サラ・サンプソン』(1775年,以下『サラ』)は,ドイツの劇作家ゴットホルト・エフライム・レッシング(1729-1781)が26歳の時に書いた悲劇である。この『サラ』が初めて上演された時,それを見ていた観客の多くが感動の涙を流したと言われている。ベルリンでこの悲劇を見たレッシングの友人であるフリードリッヒ・ニコライの報告によると,彼は「始めから第5幕までしばしば泣いてしまい,その終わりの部分では感動が強いあまり泣くことすらできなかった」。
  この戯曲はイギリスのあるみすぼらしい宿屋が舞台となっている。サー・ウィリアム・サンプソンは,駆け落ちした自分の娘のサラとその恋人メルフォントを自分の家に連れ戻すために,召使ウェイトウェルを連れてサラたちのいる宿屋にやってくる。サラとメルフォントの結婚を認めようとしているサー・ウィリアムは,自分が大切な娘を愛しており,駆け落ちという彼女のあやまちを許したいという父の愛と許しをサラに伝えたい。そのために彼は,サラに宛てた手紙を召使いのウェイトウェルに届けさせる。最初は手紙を受け取るのをためらうものの,手紙を読んだサラは喜び,父親と仲直りをする。しかしそこに,メルフォントの昔の愛人マーウッドが割り込んでくる。自分を裏切ったメルフォント(およびその恋人)への復讐心に燃えるマーウッドは,サラとメルフォントを引き離そうとたくらむが失敗する。最後の手段として,マーウッドはサラに毒を盛る。サラが死にかけている時に,ようやくサー・ウィリアムが彼女の前に姿を現す。父親の愛と許しを確認したサラは死に,メルフォントも絶望して自害するという形で戯曲は幕を閉じる。
  『サラ』は,イギリスの家庭悲劇からの影響を受けて出来上がった,いわゆる市民悲劇というジャンルに位置づけられている。しかしレッシングは,『サラ』を書く際にエウリピデス(紀元前485/4-前406)の『メデイア』も参考にしたと思われる。それは第2幕第7場においてはっきりとしている。マーウッドは,結婚しないまま自分とメルフォントとの間にできた娘のアラベラを利用して,かつての父としての気持ちを思い出させ,サラとの結婚を断念して自分の元に戻るよう企てるが,しかし失敗する。そこでレッシングはマーウッドに,「私の中に新しいメデイアを見るがいい! (Sie in mir eine neue Medea!)」と言わせて,アラベラを殺害すること

を予告する。
  ここでレッシングは,単に「メデイアを見るがいい」とではなくて,「新しいメデイア」と言わせている。つまり彼は,ギリシア神話ないしエウリピデスの『メデイア』におけるメデイアを単に引き合いに出すのではなく,そのメデイア像に独自の要素を加えた,「新しいメデイア」を提示している。
  『メデイア』の中では,メデイアの怒りの対象が自分を裏切ったイアソンであるにもかかわらず,実際の殺害の対象はイアソン本人ではなくて,彼の新しい妻とその父親そしてメデイアの子供たちになっている。このようないわば怒りの対象と殺害の対象の不一致を,レッシングは『サラ』において解決させている。すなわち舞台上でレッシングは,マーウッドに,自分を裏切ったメルフォント本人を短剣で刺し殺させようとする。それが失敗したマーウッドに残された最後の手段として,レッシングは彼女にサラを毒殺させ,サラの死後メルフォントに自殺させるという形でマーウッドの復讐を完成させている。それに至るまでのプロセスを,レッシングは,(エウリピデスの『メデイア』にはなかった)裏切られた女の顔の変化を細かく描写することで際立たせている。
  レッシングがこれまでにない「新しいメデイア」像を提示しているというのは,作品内に限定した話ではない。前述のように,メデイアをモチーフとして扱った作品は,オヴィディウス(前43-後17)やセネカ(前4-後65),コルネイユ(1606-1684)などに至るまで,多くあった。しかしそれらの多くは,メデイアのモチーフを模倣ないし再現したものにすぎない。レッシングより前にゴットシェートが試みた演劇の改革も,フランスのいわゆる擬古典主義に基づいたものだった。これに対してレッシングは,メデイアのモチーフに基づきつつ,それを怒りの対象と殺害の対象の一致として新しいものに変えた。これは,レッシングが他界して少し後に始まる,いわゆるドイツの古典主義に近いものになっている。そこでは,例えばゲーテ(1749-1832)が『ヘルマンとドロテア』(1797年)においてドイツの青年とフランスの女性の恋愛物語を扱いながらも,文体をホメロスのようなヘクサメトロスにして書き,かつ各章に芸術の女神ムーサイの名前を載せたことと姿勢が類似している。この点においてレッシングは,ドイツの古典主義を先取りしていたと考えることができる。









地中海学会大会 研究発表要旨

ヴェルディ《オテッロ》(1887)における演出と音楽

── Disposizione scenica を手がかりに ──

長屋 晃一



  映像が発明される以前である19世紀のオペラ上演を知るために欠かせない資料に『Disposizione scenica (以下 DS と略)』がある。「舞台配置」と訳されるべきこの印刷物は,フランスで1840年代に出版され始めた『Livrets de mise-en-scène』に起源をもち,1850年代以降,ミラノ・スカラ座の支配人リコルディによってジュゼッペ・ヴェルディ(1813-1901)のオペラを中心に作成された。一連の DS の中でも,1887年2月5日にスカラ座で初演されたオペラ《オテッロ Otello》は111ページにわたり,動作や身振り,表情に到るまで詳細に記されている。《オテッロ》の DS は,リコルディによるばかりではなく,台本作家のアッリーゴ・ボイトが手を加え,ヴェルディが校閲したとされる(Hepokoski: 1990)。DS からは19世紀当時の舞台上演における制約と限界,そして,ヴェルディが理想としたに違いない「ただ一つの解釈」(1889年1月1日リコルディ宛書翰)への可能性が読み取られる。発表者はその一例として第2幕第5場にあるオテッロ(以下 Ot と略)とイヤーゴ(以下 Ja と略)の演出註を取り上げた。デズデーモナの不義の証拠を求める Ot が Ja に詰め寄り「喉を掴み押し倒す」演出註,その Ja が「起き上がる」演出註である。この部分は,アリアとアリアの間にありながら,きわめて劇的な瞬間として当時の雑誌においてイラスト化もされた。しかし,台本から楽譜へ,また DS から明らかになる舞台化へというプロセスを比較・分析すると,それぞれに差異が生じてくる。
  まず,ヴェルディの楽譜は台本と演出註の位置が異なる。ボイトの台本において,Ot の演出註は8行ある詩行のうち第5行の後に置かれる。内容から第6-8行にある Ja への脅し文句を動作によって強調する意図が窺え,そのことは形式すなわち脚韻,音節数,文型においても,演出註を挟んで変化することからも裏付けられる。Ja の演出註は4行の詩行冒頭に置かれる。神の名を借りて Ot に抵抗する Ja の非難が動作によって強められている。
  しかし,楽譜では Ot の演出註は詩行の後に置かれ,Ja の演出註も第1行第9音節の後,台本におけるハイフンの上に持ち越される。Ot の演出註は2小節半の半音階下行を含むオーケストラ伴奏におかれる。一方,Ja の演出註は,神への祈りを唱え,減七の分散和音による

上行を含む2小節半のオーケストラ伴奏の後,詩行が再び開始される真上に置かれる。Ot の演出註が置かれた下行する伴奏は,Ja が倒れる動きを想起させるが,Ja の演出註前に置かれた上行する伴奏は,楽譜からでは判然としない。
  DS を読み解くと,下行する伴奏には,Ot が Ja の喉をつかみ左回りに廻り,舞台左手奥に突き進んでいく様子が点線の導線で示される。一方,上行する伴奏には,Ot が Ja から離れて舞台中央に歩く導線が図示されている。これらの伴奏は,いずれも Ot の動作を示すものとして舞台化されたことが分かる。しかし,同時に DS には Ot が「残忍に彼を見やると,軽蔑の身振りをし」という記載がある。その矢印の向きから,この眼差しは強い効果を持ちながら,客席からは見えない。
  初演時に発行された雑誌『Il teatro illustrato e la musica popolare』(1887年2月)には,この倒れ込む場面が銅版画で掲載されている。その背景から高い再現性が窺えるこの挿絵では,Ot は正面を向いて目を見開いている。挿絵は実際の舞台とは異なり,この眼差しの効果を活かしているのである。DS における残忍な眼差しと軽蔑の身振りという叙述は,初演の舞台とは異なる。初演時には Ot が「手で顔を隠す」動作であった。初演の Ja 役を歌ったヴィクトル・モレの『A propos de la mise en scène du drame lyrique Otello』(1888)の叙述から裏付けられる。ヴェルディ自身,この動作から Ot が恥じ入っているように見える,と DS の修正をリコルディに求めている。
  この部分は,Ot と Ja それぞれが歌う二つのアリアに挟まれた,橋渡しの役割を担っている。アリアは舞台中央前面で歌われるため,二人がこれらの演出註で奥に向かったのは,アリアとの位置的なコントラストを形成するためだと言える。音楽と動作を一致させ,位置的なコントラストを形成することが,19世紀の舞台における現実的な解決であった。ヴェルディは同時に,その動作では客席からほとんど見えないはずの表情を DS に付け加えさせた。この舞台全体の効果と微細な表情の効果は,DS の叙述の中で一致しないまま投げ出されている。








研究会要旨

近世ヴェネツィアにおける劇場建築の誕生ならびに発展と変容

青木 香代子

4月13日/國學院大学



  1582年,イタリアで最初期の常設劇場がヴェネツィアに建設された。所有者の名からテアトロ・ミキエル,テアトロ・トロンと呼ばれた二つの劇場は,コメディア・デッラルテを上演する劇団のなかで,当時最も有名かつ人気が高かったジェロージ劇団とコンフィデンティ劇団の役者達が主導して建設し,入場料を支払う観客を対象に上演をおこなった点で,同時代の他劇場とは異なった。しかしながら,それは必ずしもヴェネツィアという特異な都市における特殊な事例にとどまるのではなく,重層するボックス状の観客席や興行形態など,後の17・18世紀に他都市でも建設されたオペラ劇場に引き継がれる要素の萌芽をみせたのである。
  テアトロ・ミキエルとテアトロ・トロンは,上演に対する締め付けを強めた十人委員会の決定で,1580年代後半には閉場・解体されたと考えられる。しかし,トロン家は17世紀初頭にヴェネツィアで再びコメディア・デッラルテが流行すると,真っ先に劇場を再建した。そして1637年,テアトロ・サン・カッシアーノと改称し,最初の公共オペラ劇場として再開場する。この出来事は,オペラ劇場という新しいビルディング・タイプの誕生を意味するだけではなく,フィレンツェやマントヴァなど他都市の宮廷で誕生し,初期の発展を遂げたオペラを商業化・大衆化させた点においても重要な出来事だった。
  トロン家がいちはやく公共オペラ劇場の建設と運営に着手した理由は不明である。しかし,その前年にパドヴァで行われた「エルミオーナ」上演と関連があったことが指摘できる。この上演では,5段の桟敷席のうち2段目がヴェネツィア貴族専用席だったことから,これがトロン家をはじめとするヴェネツィアの貴族たちが,当時まだ新しい芸術だったオペラに関心を持つきっかけの一つとなったと考える。さらに,「エルミオーナ」上演における主要な役者のうち少なくとも4名が,翌年のテアトロ・サン・カッシアーノの杮落としにも出演している。なかでも,ヴェネツィア貴族アントニオ・グリマーニが主演だったことは重要である。
  グリマーニ家は,16世紀はじめにドージェを輩出しただけでなく,高位官職や枢機卿等の高位聖職就任者を数多く送り出した名門貴族である。また,美術品のコレクターとして知られているだけでなく,ルツァンテやケレアに代表される劇作家や役者を庇護するなど,代々

ヴェネツィアの文化的な発展においても重要な役割を担ってきた。30歳の時に「エルミオーナ」上演で主演したアントニオ・グリマーニは兄のジョヴァンニと共に,テアトロ・サン・カッシアーノの杮落としを成功させたフランチェスコ・マネッリとベネデット・フェッラーリを引き抜き,1639年,テアトロ・サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロを開場させる。以後この劇場は,競合する劇場に対する執拗な妨害行為を繰り返しながら,ヴェネツィアにおける主要劇場として1699年まで存続した。また,1656年,グリマーニ兄弟は一家にとって二つ目の劇場となるテアトロ・サン・サムエーレを開場する。この劇場は,当時喜劇上演専用の劇場としてはヴェネツィアで唯一のものだったヴェンドラミン家のテアトロ・サン・サルヴァトーレに対抗して建設され,これによりグリマーニ家はオペラだけではなく,喜劇上演でもヴェネツィアにおいて優越的地位に立とうとしたのである。1670年代になると,劇場間における競争の激化により,ヴェネツィアの劇場は相次いで入場料を引き下げた。そうした中,1678年にグリマーニ家の三つ目の劇場として建設されたテアトロ・サン・ジョヴァンニ・グリソストモは,入場料を高価格で維持し,上演内容も限定するなどして他の劇場との差別化を図り,成功を収めたのである。そして,その名声はイタリアのみならず,次第に他地域へも広まっていった。以上のことから,17世紀半ばのヴェネツィアにおける劇場の発展・変容にとって,以前からヴェネツィアの文化的発展の担い手だったグリマーニ家が強い影響力を持っていたといえる。
  ヴェネツィアで最初の常設劇場が建設された16世紀末は,多くの都市が,コメディア・デッラルテを不穏なものとみなし,その上演に対する締め付けを強めた時代だった。また,ヴェネツィアにオペラが流入した1630年代は,各地の宮廷が次第に権力を失っていく時代であった。このように,コメディア・デッラルテとオペラという共に他都市で誕生し,初期の発展を遂げた新しい芸術は,各地における社会的変動の波から逃れるようにしてヴェネツィアに流入したといえる。そして,それがヴェネツィアの文化的・社会的な特質と結びついたことで劇場建築は誕生し,その後発展・変容していったのである。









地中海を遡航する移民たち

── 移民文学の可能性 ──

菊池 正和



  2012年の夏,ピランデッロの生家にほど近いシチリア南部の町ポルト・エンペードクレから夜行のフェリーに乗り,ランペドゥーサ島へと向かった。朝陽の中に浮かび上がってきた,ほとんど凹凸のないテーブル状の島影を見ながら,私はある映画の二つのシーンを思い出していた。
  陽光が白く降り注ぐ船上から青い海へ一斉にダイブする水着の観光客,そして,暗い夜の海に浮かぶ小型船の明かりに我先にと殺到し,船べりにしがみつこうと伸びてくる無数の黒い手。映画 Terraferma (邦題『海と大陸』,2011年)で描かれていたのは,イタリア本土とアフリカの間に浮かぶ漁業の島に訪れた二つの変化 ── 観光業と難民という明暗の中で,人間らしさを失わずに人生を切り開こうとする家族の物語であった。
  地中海に浮かぶイタリア最南端の領土ランペドゥーサ島は,人口およそ5,500人,面積約20 km2 で,地理的にはシチリア島よりもむしろアフリカ大陸に近い場所に位置する。2000年を過ぎた頃から地中海南岸からの移民が増え始め,「アラブの春」を機にここ2年ほどは5万人を超える移民が押し寄せている。ゴムボートに溢れんばかりの移民の映像や,密航の途中での船の転覆と遭難救助,収容所の定員オーバーと一斉強制送還といったニュースが,定期的にテレビニュースや新聞紙上を賑わせている。
  シェンゲン協定によりヨーロッパの域内移動が自由化されたのと期を同じくして,対照的に域外からの人の流入に対しては,その管理が厳格化されたという印象を覚える。ヨーロッパというアイデンティティを確立するために非ヨーロッパは外部化され,遠心的なベクトルが地中海においては南へと働き,経済的・政治的な理由で北上する移民と衝突する。その最初の防波堤がランペドゥーサ島なのである。
  エドワード・サイードは,ポストコロニアル時代の学術研究や文化に関する論考の中で,周辺地域からのヨーロッパへの影響の還流を指摘し,宗主国の言説や技法を用いて内側から宗主国の文化に批判・修正を加える行為を「遡航」という言葉で表現した。ここからは,ヨーロッパとイスラム,アフリカとの接触の領域であるイタリアで活躍する一人の作家を取り上げ,「遡航」の具体例としての移民文学の可能性について述べてみたい。
  ── あなたの名前は? もしあなたが外国人の名前を

持っていたら,途端に一枚のバリアが生まれる。それは「わたしたち」と「あなたたち」のあいだの乗り越えることのできない境界なの。あなたがいるのは内か外か,あなたが属しているのは「わたしたち」か「あなたたち」か,名前はすぐさまあなたに感じとらせてくれる ── (『マルコーニ大通りにおけるイスラム式離婚協奏曲』より)
  現在のヨーロッパが集合的/個人的な意識において抱えている内と外,自己と他者との間に存在するバリアを,軽快なユーモアとアイロニーで告発し打ち破ろうと奔走しているのが「アラボ・イタリアーニ」の作家アマーラ・ラクースである。アルジェリアに生まれ,アラビア語とイタリア語の2言語で創作活動を行う彼の存在は,まさにサイードが指摘していた「遡航」する移民に他ならない。ラクースの眼差しは,キリスト教文明とイスラム文明との衝突と相対化,そしてその内側における個人の実存の探究へと向けられる。そこでは,国籍や言葉,宗教や文化の相違に基づく偏見や誤解が告発され,周縁における移民の疎外が描かれているが,同時に,周縁の空間が胚胎する混淆の可能性に立脚した両文明の共生が模索されている。ラクースの文学には,アラビア人としての矜持と地中海的な穏やかさ,寛容さがあるように私には感じられるのである。
  地中海を北上する移民たちの多くは,現状では語るべき声を持たない庇護されるべき対象かもしれない。しかし今後は,サイードの言う「遡航」は否応なく進展し,地中海周辺の,そしてヨーロッパの社会や文化は新しい尺度や価値観の内に測られることになるだろう。その時,移民の存在はどこに位置づけられるのであろうか。中心と周縁の関係はどのような変化を見せるのであろうか。
  ランペドゥーサ島で私を出迎えてくれたレジデンスのオーナーのアントニオは笑いながら言った。「移民? どこにもいないよ。バカンスの時期だからね」。実際,島に滞在していた4日間移民の影は全く見えず,昼は陽光が反射して青くクリアに輝くラビットビーチに浮かび,夜は観光地だけが醸成する陽気で弛緩した大気の中をそぞろ歩いた。「無防備なランペドゥーサに,400艘の移民船」テレビニュースがそう伝えたのは,島を出て3日後,パレルモのホテルにいた時のことだった。








〈寄贈図書〉

『涙と目の文化史──中世ヨーロッパの標章と恋愛思想』 徳井淑子著 東信堂 2012年8月
『ルネサンスの秋 1550-1640』 ウィリアム・J・バウズマ著 澤井繁男訳 みすず書房 2012年9月
『表象のヴェネツィア──詩と美と悪魔』 鳥越輝昭著 春風社 2012年11月
『11世紀イベリア半島の装飾写本 ── “モサラベ美術” からロマネスク美術へ』 久米順子著 中央公論美術出版 2012年11月
『糸の箱舟 ── ヨーロッパの刺繍とレースの動物紋』 D. ダヴァンツォ=ポーリ監修 伊藤亜紀監訳 宮坂真紀・長嶺倫子・西浦麻美子訳 悠書館 2012年12月

『現代トルコにおける政治的変遷と政党 1938〜2011』 宮下陽子著 学術出版会 2012年12月
『中世後期シエナにおける都市美の表象』 片山伸也著 中央公論美術出版 2013年1月
『ゴシックの視覚宇宙』 木俣元一著 名古屋大学出版会 2013年2月
『アンダルシアの都市と田園』 陣内秀信・法政大学陣内研究室編 鹿島出版会 2013年2月
『創造の軌跡』 アントニオ・ロペス著 木下亮訳 中央公論新社 2013年3月
『ローマ政治家伝 I カエサル』 『ローマ政治家伝 II ポンペイウス』 マティアス・ゲルツァー著,長谷川博隆訳 名古屋大学出版会 2013年8月