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第37回地中海学会大会
◇ 記念講演       ◇ 懇親会
◇ 地中海トーキング   ◇ 授賞式 地中海学会ヘレンド賞
◇ シンポジウム







学会からのお知らせ


* 第37回地中海学会大会

  6月15日,16日(土,日)の二日間,同志社大学寒梅館ハーディーホール(京都市上京区烏丸通上立売下ル御所八幡町103)において,第37回地中海学会大会を開催した。会員130名,一般16名が参加し,盛会のうち会期を終了した。会期中2名の新入会員があった。次回は國學院大學(東京都)で開催する予定です。

6月15日(土)
開会宣言・挨拶 13:00~13:10  桜井万里子副会長
記念講演 13:15~14:15  「京都の変貌 ── 「洛中洛外図屏風」から豊臣秀吉の時代へ」  仁木宏氏
地中海トーキング 14:25~17:00  「都(みやこ)のかたち」  パネリスト: 草生久嗣/栗原麻子/堀井優/司会兼任: 青柳正規各氏
授賞式 「地中海学会ヘレンド賞」 17:15~17:30
地中海学会総会 17:30~18:00
懇親会 18:30~20:30 [京都ガーデンパレス]

6月16日(日)
研究発表 10:00~12:30
 「《ハルピュイアイの墓》 ── 前5世紀リュキア葬礼美術における死生観」  河瀬侑氏
 「グイド・ダレッツォ『ミクロログス』のオルガヌム理論」  平井真希子氏
 「レッシングとエウリピデス ── 「新しいメデイア」像から見えてくるもの」  田窪大介氏
 「ヴェルディ《オテッロ》 (1887) における演出と音楽── disposizione scenica を手がかりに」  長屋晃一氏
シンポジウム 13:30~16:50  「キリスト教の布教と文化」  パネリスト: 岡田裕成/新保淳乃/吉田亮/司会兼任: 児嶋由枝各氏

* 第37回地中海学会総会

  第37回地中海学会総会(堀川徹議長)は6月15日(土),同志社大学ハーディーホールで下記の通り開催された。

  審議に先立ち,議決権を有する正会員548名中(2013.6.12 現在)540名の出席(委任状出席を含む)を得て,総会の定足数を満たし本総会は成立したとの宣言が議長より行われた。2012年度事業報告・決算,2013年度事業計画・予算は満場一致で原案通り承認された。2012年度事業・会計は木島俊介監査委員より適正妥当と認められた。(役員改選については別項で報告)

議事
一,開会宣言
二,議長選出
三,2012年度事業報告
四,2012年度会計決算
五,2012年度監査報告
六,2013年度事業計画
七,2013年度会計予算
八,役員改選
九,閉会宣言

2012年度事業報告(2012.6.1~2013.5.31)
I 印刷物発行
1. 『地中海学研究』 XXXVI 発行 2013.5.31 発行
 「軍事書『タクティカ』とレオン6世期のビザンツ帝国東方辺境」  仲田公輔
 「18世紀初頭のヴェネツィア共和国における財政・税制 ── 1709年の大寒波とトレヴィーゾにおける消費税・関税への影響」  湯上良
 「イタリアにおけるル・プレ家族モノグラフ法の受容 ── パゾリーニ伯爵夫人の農民調査」  山手昌樹
 「研究ノート ギリシア青銅器時代印章印影の表象とライオンモチーフの組み合わせ」  小石絵美
 「書評 水野千依著 『イメージの地層 ── ルネサンスの図像文化における奇跡・分身・予言』  石井元章
2. 『地中海学会月報』 351~360号発行
3. 『地中海学研究』バック・ナンバーの頒布

II 研究会,講演会
1.研究会(國學院大学・国立西洋美術館)
 「ボエティウス復活 ── ルネサンスの音楽思想」  山本成生(7.21)







 「絵画的比喩を読む──ニコラ・プッサン作 《エリエゼルとリベカ》 (1648年,ルーヴル美術館)」  望月典子(10.27)
 「イスタンブル庶民の俗信的世界を窺う ── 17世紀オスマン朝の市井の名士たちを中心に」  宮下遼(12.15)
 「中世後期の西地中海域で展開された戦争と平和 ── イベリア半島を中心として」 黒田祐我(2.23)
 「近世ヴェネツィアにおける劇場建築の誕生ならびに発展と変容」  青木香代子(4.13)
2. 連続講演会(ブリヂストン美術館土曜講座として)
  秋期連続講演会 「芸術家と地中海都市 II」
9.1~9.29 「ダヴィッド,ドラクロワとギリシャ」 鈴木杜幾子/「フィリッポ・リッピとプラート」 金原由紀子/「ヴィラ・メディチとフランスの画家たち: ローマのフランス・アカデミーをめぐって」 三浦篤/「ミラノのスフォルツァ宮廷のレオナルド・ダ・ヴィンチ: アンブロジアーナのコレクションから」 小佐野重利/「ローマとハドリアヌス帝」 池上英洋
  春期連続講演会「地中海世界を生きる」
4.6~5.4 「聖俗の支配者としてのローマ教皇: 中世ヨーロッパを読み解く鍵として」 藤崎衛/「人文主義者たちの仕事と読者: ダンテ,ペトラルカからポリツィアーノまで」 村松真理子/「君主の魅力: 中世地中海に君臨した皇帝フリードリヒ2世」 高山博/「公証人であること: フィレンツェ書記官長コルッチョ・サルターティの時代の公証人と社会」 徳橋曜/「建築家という職能: フィレンツェ初期ルネサンスの建設現場」 石川清

III 賞の授与
1. 地中海学会賞授賞 受賞者: 該当者なし
2. 地中海学会ヘレンド賞授賞 副賞 受賞記念磁器皿「地中海の庭」(星商事株式会社提供)  受賞者: 片山伸也

IV 文献,書籍,その他の収集
1.『地中海学研究』との交換書: 『西洋古典学研究』 『古代文化』 『古代オリエント博物館紀要』 『岡山市立オリエント美術館紀要』 Journal of

Ancient Civilizations
2. その他,寄贈を受けている(月報にて発表)

V 協賛事業等
1. NHK 文化センター講座企画協力「地中海への誘い: ルネサンスの地中海世界を彩った人々・もの・出来事」
2. 同 「地中海への誘い: バロック世界の輝き」
3. 同 「地中海への誘い: 伝統と革新の18, 19世紀ヨーロッパ」
4. ワールド航空サービス知求アカデミー講座企画協力 「地中海学会セミナー: 地中海世界への誘い」

VI 会 議
1. 常任委員会  5回開催
2. 学会誌編集委員会  3回開催
3. 月報編集委員会  4回開催
4. 大会準備委員会  1回開催
5. 電子化委員会  E メール上で逐次開催
6. 賞選考小委員会  1回開催
7. 将来構想委員会  3回開催

VII ホームページ
URL = http://mediterr.web.fc2.com (2012.10 まで)
   http://www.collegium-mediterr.org (2012.10 上記より移行)
 「設立趣意書」 「役員紹介」 「活動のあらまし」 「事業内容」 「入会のご案内」 「『地中海学研究』」 「地中海学会月報」 「地中海の旅」

VIII 大 会
第36回大会(於しまなみ交流館)
 共催: 尾道市教育委員会

IX その他
1. 新入会員: 正会員 19名; 学生会員 8名
2. 学会活動電子化の調査・研究

2013年度事業計画(2013.6.1~2014.5.31)
I 印刷物発行
1. 学会誌 『地中海学研究』 XXXVII 発行  2014年5月発行予定
2. 『地中海学会月報』発行 年間約10回
3. 『地中海学研究』バック・ナンバーの頒布

II 研究会,講演会







1. 研究会の開催 年間約6回
2. 講演会の開催  ブリヂストン美術館土曜講座として秋期(10.19~11.16,計5回)・春期連続講演会開催
3. 若手交流会

III 賞の授与
1. 地中海学会賞
2. 地中海学会ヘレンド賞

IV 文献,書籍,その他の収集

V 協賛事業,その他
1. NHK 文化センター講座企画協力 「地中海への誘い: 伝統と革新の18, 19世紀ヨーロッパ」
2. ワールド航空サービス知求アカデミー講座企画協力 「地中海学会セミナー」

VI 会 議
1. 常任委員会      2. 学会誌編集委員会
3. 月報編集委員会    4. 電子化委員会
5. 将来構想委員会    6. その他

VII 大 会
第37回大会(於同志社大学寒梅館) 6.15~16

VIII その他
1. 賛助会員の勧誘
2. 新入会員の勧誘
3. 学会活動電子化の調査・研究
4. 展覧会の招待券の配布

5. その他

* 新役員

  第37回総会において下記の通り新役員が選出されました。(再任を含む)
会  長: 陣内 秀信
副 会 長: 武谷なおみ  本村凌二
常任委員: 秋山  聰  安發 和彰  飯塚 正人
    石井 元章  石川  清  太田 敬子
    片山千佳子  亀長 洋子  小池 寿子
    児嶋 由枝  島田  誠  末永  航
    杉山晃太郎  高田 和文  高山  博
    貫井 一美  野口 昌夫  深見奈緒子
    堀井  優  益田 朋幸  師尾 晶子
    山田 幸正  山辺 規子
監査委員: 大髙保二郎  木島 俊介

* 論文募集

  『地中海学研究』 XXXVII (2014) の論文・研究動向および書評を下記のとおり募集します。

 論文・研究動向 四百字詰原稿用紙80枚以内
 書評 四百字詰原稿用紙20枚以内
 締切 2013年10月末日(必着)

  投稿を希望する方は,テーマを添えて9月末日までに事前に事務局へご連絡下さい。「執筆要項」をお送りします。本誌は査読制度をとっています。







* 新名簿作製

  本学会では,今秋,新名簿を作製する予定です。作製準備のため,会員各位の掲載項目の確認書を本月報に同封してお送りします。ご確認の上,変更がございましたら9月30日(月)までに事務局へご連絡下さいますよう,お願い致します。

* ブリヂストン美術館秋期連続講演会

 10月19日より11月16日までの毎土曜日(全5回),ブリヂストン美術館(東京都中央区京橋1-10-1)において秋期連続講演会「芸術家と地中海都市III」を開催します。詳細は追ってご案内致します。

* 『地中海学研究』 訂正

  第37回大会で配布した『地中海学研究』 XXXVI (2013) の奥付 (最終頁) に日向太郎 (Taro Hyuga) 編集委員の名前が抜けていました。お詫びして訂正します(大会後に郵送したものは訂正済みです)。


訃報 7月3日,会員の鈴木武志氏,7月5日,同永沼博道氏が逝去されました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

事務局夏期休業期間: 7月30日(火)~9月3日(火)










春期連続講演会 「地中海世界を生きる」 講演要旨

聖俗の支配者としてのローマ教皇

── 中世ヨーロッパを読み解く鍵として ──

藤崎 衛



 ローマ教皇ベネディクト16世が退位し(2013年2月末日),新教皇フランシスコが選出されたというニュースは,日本でも大きく取り上げられ,注目を集めた。
  このたびの教皇交代は新しいことがいくつも重なる出来事であった。新教皇はアルゼンチン出身ということで,ヨーロッパ・地中海世界以外の出身者として初めてであること,またイエズス会出身者の教皇として初めてであること,さらに,まったく新しい教皇名の採用は(前任者二人の教皇名にあやかったヨハネ・パウロ1世を除けば)千年以上前の10世紀以来であること,などが挙げられる。しかし何より,教皇の自発的な退位表明が,719年前のケレスティヌス5世以来の稀有な例であるということで,人々の目は中世の教皇史へと向かった。
  中世の教皇は,聖と俗,二つの顔を持つ支配者であった。19世紀後半に至るまでの長きにわたり,イタリア中部には,教皇領とか教皇国家,あるいは教会国家と呼ばれる領土が広がっていたが,その歴史は中世に始まる。8世紀半ば,フランク王国カロリング朝王ピピンが,イタリア半島に侵入していたランゴバルド勢力からかつてのラヴェンナ総督府領を奪い,教皇に献上した。これにより,ローマ周辺の土地だけを保有していた教皇は,ティレニア海とアドリア海をまたぐ広大な土地の支配者となったのである。以後,教皇は霊的な指導者としてだけでなく,領域を支配する世俗的な統治者としても,地中海世界およびヨーロッパ世界のさまざまな勢力の間で存在感を強める。
  やがて11世紀後半から12世紀にかけて,教皇権は他の世俗的勢力からの影響を排除しようとし,改革の時代を迎える。そしてまさにこの時期,教皇庁という独自の組織が姿を現した。「教皇庁」にあたるラテン語のクリアという言葉が,初めて現れたのである。
  とはいえ,世俗権力の排除によって誕生した教皇庁においては,この頃,組織的・制度的な成熟が進んだ。宗教的な責務ばかりでなく,財政・司法・文書発給などの行政的業務があふれかえり,膨大な数の人員が配置された。スタッフには聖職者だけでなく,俗人もまた,含まれていた。教皇領という,この世の土地も拡充し,当然,その経営もおろそかにしてはならなかった。
  こうした中で,1294年に教皇の座にのぼった人物が,ケレスティヌス5世を名のったピエトロ・ダ・モッローネである。わずか5か月あまりで退位したこの教皇

は,後を継いだボニファティウス8世とともに,中世教皇史における一つの「曲がり角」に位置する人物である。若いうちに孤独の中で苦行と祈りに身を捧げる生活を始めたピエトロは,ひとたび修道会を組織するまでになったが,リーダーであり続けることを望まず,やがてアブルッツォの山中での孤独な修行生活へと戻った。しかし,彼のもとに教皇就任の要請が届いたのである。それは,2年前からずっと難航していた教皇選出会(コンクラーベ)にけりをつけるためであった。教皇庁内部では,陰に日向に影響力をふるうローマの貴族の政争が絶えず,教皇選挙権を持つ枢機卿たちの間でも,次なるリーダーを誰にすべきかの意見は一致しなかった。
  このような状況において,かのアブルッツォの隠者ピエトロから,枢機卿たちのもとに一通の手紙が届いたという。それは,ただちに教皇を選出しなければ神罰が下るであろう,という警告であった。ところが,ピエトロにとってはこの書簡があだとなる。というのも,枢機卿の一人が,それならばと思いついたのか,われはピエトロを教皇として選ぶと宣言し,他の選挙人たちもこぞってその提案に同意したからである。かくして,高徳の士のもとに教皇の就任を要請する一団が到着した。ピエトロは頑なに固辞するも,ナポリ王カルロ2世などの説得が功を奏し,最終的に教皇着任を承諾したのであった。背後に,「シチリアの晩禱」事件(1282年)をきっかけに展開する,地中海沿岸諸国の対立関係があったことも,見逃せない。
  いずれにせよ,ピエトロは選出を受け入れ,ケレスティヌス5世として即位したのであるが,すでに述べたように,この時期,教皇庁は組織・制度が充実しつつあり,さながら役所,あるいは法廷のような存在となっていた。みずから作り上げた修道会を率いることを断念した隠者が,西欧を覆うラテン・キリスト教世界のかしらたる教皇庁を取り仕切れるはずもなかった。残念ながら俗界の統治センスに欠けた教皇は,即位からわずか5か月で,玉座を降りた。
  そして現代,バチカン市国は世界最小の国でありながら,世界各地に教会と枢機卿が散らばり,南米からも教皇が生まれる。しかし,中世において教皇とは,広大な領域を統治し,地中海世界およびヨーロッパ世界において国際政治にたびたび巻き込まれる,まさに聖俗両面の顔を持ち合わせる存在であった。









春期連続講演会 「地中海世界を生きる」 講演要旨

人文主義者たちの仕事と読者

── ダンテ,ペトラルカからポリツィアーノまで ──

村松 真理子



  人文主義者とは,どんな人たちだったのか? 「仕事」という観点から考えてみると実は彼らこそが私たちの「祖先」だったのではないか? その二つの問いかけからはじめ,その答えをさがす講演会だった。
  「人文主義者」ということばを使うからには,それは誰なのかをまず確認することが不可欠である。そこではじめに,「人文主義者」・「人文主義」を,終わりなき論争「ルネサンスとはいつのことで,それは何を指すのか」という問いとともに,少し考えてみた。そして,「ルネサンス」と一般に言われる時代以前の中世末期から存在した世俗的な知の従事者を,広く「人文主義者」とその先駆と考えることとした。
  この知の従事者とは誰で,どんなことをしたのだろうか。最近邦訳の出たグリーンブラッドの『1417年,その一冊がすべてを変えた』(柏書房)などを紹介しながら,そのあり方について考えてみた。すなわち,いかに中世末期からルネサンスへと向かっての時期に「知」が,精神世界・宗教的な制度から世俗の世界へと開かれていき,同時に,古典語とともに「俗語」が用いられるようになったか。さらにその主体として市民,権力としての「世俗」的な制度が「修道院」「教会」に並びたち,その重要性を増していったか。そして,本と「ことば」にいわば職業的に関わり,書くこと,語ることで身を養い,世俗的図書館や文献学や出版業を作り出していった人々のあとをたどりながら,一般的に人文主義の先駆とされるペトラルカ,ボッカッチョよりさらにダンテまで,知的従事者の仕事とその系譜を遡ることをした。
  ダンテがその言語論において,学者や聖職者ではないものの,「高貴」な精神を有する人々の解するイタリア語と,それを著作に用いる必要性について主張しながら,その実践として『神曲』をいかに完成したかをまず取り上げた。この長大壮大な詩作品は,カトリック的な中世の世界観を表現するとともに,古代以来の古典文化を価値の礎として据えたものであったが,同時にダンテ自身,文書や外交という,ことばを用いる専門的技能を,政争に破れてフィレンツェを追われた後も生計の糧としていたわけである。そして,その世俗的知の能力と精神は,ジオットをはじめとする同時代の美術家,芸術家らにも共有されていたのである。
  次の世代になると,ペトラルカ,ボッカッチョらが

「人文主義」の先駆として,「古典研究」や「写本」の収集に情熱を抱き,さらにポッジョ・ブラッチョリーニらの古代の書物への憧れ,ブックハンターとしての活動へとひきつがれていく。そして,16世紀に入ると,正しい言葉,標準とするべき言葉としての「イタリア語」をめぐる論争が重要となるが,マキャヴェッリが政治制度とならんで,統一的に用いるべき「ことば」についても論じることになる。そして,急速に発展する刊本の世界で,「本」のために用いるべき正しい言葉,文法,綴りが必要となるこの時代に,14世紀のトスカーナ語を模範とするべきだとの古典主義的言語論を説いたのが,教皇庁書記官となる人文主義者ピエトロ・ベンボだった。ロレンツォ・デ・メディチのフィレンツェで活躍したポリツィアーノにいたると,古代世界と古典語に関する知は,「文献学」に結実し,さらには詩の創作としての表現にまで高められる。ボッティチェッリなどの絵画作品の図像表現のイメージを支えたのも彼ら人文主義者たちで,《春》や《ヴィーナスの誕生》とポリツィアーノの詩『スタンツェ』のつながりを紹介した。また,ポリツィアーノは同時に世俗的な制度として開かれた「大学」で講座を担当するようにもなる。
  このように古典語と俗語の両方のことばを世俗的な場で用い,その能力と知識によって身を立てたのが,「人文主義者」という職業人であった。そして,彼らこそが,知や情報が修道院という閉ざされた場から広い外の世界に放たれ,多くの人々が手にとることのできる「本」の形をとって流通する礎を築いたのだ。さらに,知識を深めたい人々のために情報を提供する文筆家,雄弁や文書の作成で身を養い政治家を支える「書記」や「役人」,勉強や学問の場を支えるため「学校」や「大学」で働きそこに経済的な基盤をもつ教師等々,知とことばを操る能力によって生計をたてるカテゴリーの,さらに広く言えば私たち皆の,つまり広く本の読者や愛書家たちの「祖先」がこの「人文主義者」たちだと言っていいのではないか。
  人文主義者たちはただ遠い歴史をつくった人々ではない。私たちの中に今も世界中で生きつづけている存在,あり方なのではないだろうか。








地中海学会大会 研究発表要旨

《ハルピュイアイの墓》

── 前5世紀リュキア葬礼美術における死生観 ──

河瀬 侑



  紀元前5世紀頃のトルコ西南部リュキア地方では,石柱型と呼ばれるモニュメンタルな形式の墓が制作された。中でもその規模の大きさと特徴的な浮彫装飾により注目されたのが,クサントスで発見された《ハルピュイアイの墓》(大英博物館所蔵)である。
  本作の浮彫は二つの場面の組み合わせにより構成されている。一つは玉座の人物と立像との対面図像で,ギリシア美術とペルシア美術の要素の融合が指摘され論議が続けられてきたが,今日では被葬者を含むクサントス王家の人物を表した「死者崇拝」の場面であるとする見方が主流となっている。もう一つが,女性の頭部に鳥の身体を持つ存在が小さく表された人を抱きかかえて飛び去る略奪図像である。
  本発表はこの略奪図像に特に注目し,その解釈を通じて本作の浮彫上に表された死生観について考察することを目的とする。遺体を地面から高く上げた位置に置く石柱墓の形態は,リュキア独特の志向を示しているとして知られる。ギリシアの図像を用いまたペルシアの宮廷美術の影響下にありつつも,このような図像を墓に配することは同地方特有の表現であり,固有の死生観を反映しているのではないだろうか。
  略奪図像に関する議論は,大きく二つの段階に分けられる。第一は,これが何者であるかという問題である。19世紀前半の Fellows による発見当初この人頭鳥身像はハルピュイアイと解釈されたが,Furtwängler (1882) が図像学的にはセイレンと見なすべきであると反論して以来,セイレン説が多数を占める。
  その上で第二に,これが有する性質についての議論がある。現在主流をなしているのは Buschor (1944) 以来の,「小さな人」は人間の霊魂であり,人頭鳥身像はこれを昇天させる存在であるとする見方である。Tsiafakis (2003) は,人頭鳥身像は死者に対し恐怖よりもむしろ慰めを与える存在であるとした。Vermeule (1979),Borchhardt (1990),Rudolph (2003) らの説も主旨において同様と言っていい。これに対する反論は極めて少なく,管見の限り Draycott (2008) のみがこの問題を取り上げており,「小さな人」はギリシアの伝統的な嘆願の身ぶりを取っていることから,誘拐の場面と見なしうると簡略に指摘する。
  この問題について議論するためには,改めて怪物図像を整理し,本図像の持つ意味を検証することが必要であ

ろう。しかし現在まで,このような見地に立って怪物図像全体を見渡し,誘拐の図像を系統的に分析することは行われていない。
  議論の俎上に載せるべき図像には,セイレンとスフィンクスがある。この両者はともに女性の頭部に獣の体を持つ合成の怪物であり,元々は東方から伝播したと考えられている。始めは男女両方の形姿が見られたが,ギリシア世界に定着する過程で女性型となった。文学においては人を殺す怪物であるとされ,美術では葬礼のコンテクストに多く表され,またしばしば人を攫うものとして表現される。
  このような怪物による誘拐の場面において,襲われる人々に嘆願の身ぶりが見られる例がある。ここには怪物による誘拐という「恐ろしい死」の概念が表されていると言え,それは古代においては「κήρ」という言葉で表現された観念であった。ホメロス『イリアス』に記述されるこの言葉は,「死の運命」そのものとそれが擬人化された女性の神格とを共に意味し,いくつかの「誘拐」の作例について,そこに表されるスフィンクスあるいはゴルゴンの頭をしたセイレンを,ケールであると見なす研究者もいる。そのような作例中にも,嘆願の身ぶりを見ることができる。
  これらからは,暴力的に人間を連れ去る合成の怪物の図像という伝統があったこと,そして死というものを略奪する怪物の姿として表すという死生観があったことが知れる。本作の略奪図像もこの系譜の中に位置づけることができるものであり,「小さな人」の嘆願の身ぶりがこのことを裏付けていると言えよう。
  また,従来顧みられてこなかった,略奪場面を構成する第三の要素である「頬杖の人」については,同様の身ぶりが葬送の場面を表した作例において見られる。それゆえ,これは哀悼の感情を表すものであると考えたい。
  本発表では「怪物による誘拐」の図像を整理し,本作の略奪図像をより大きな文脈の中に位置づけることで,この問題について再検討を試みた。それによって,嘆願する人物を連れ去る有翼の怪物という本作の構図は,従来考えられていたような「安らかな昇天」を示すものではなく,「恐ろしい誘拐」の図像の系譜に属するものであり,そしてそれを眺めて哀悼する人を配して悼みの感情を表現した本作は,力強く奪い去っていく恐るべき死という観念を表現したものであったと結論する。









地中海学会大会 研究発表要旨

グイド・ダレッツォ 『ミクロログス』 のオルガヌム理論

平井 真希子



  11世紀前半にグイド・ダレッツォによって書かれた『ミクロログス』は,同時代の音楽実践を明快に説明した音楽理論書として名高く,長期にわたり広い範囲で筆写され読まれ続けた。内容の大半は単旋聖歌を歌うための基本となる理論であるが,全20章のうち第18,19章ではオルガヌムを扱っている。オルガヌムとは,単旋律であるグレゴリオ聖歌に別の声部を付け加えていく手法のことであり,初期多声音楽全般を指す。
  グイドの業績としては,現代の五線譜へとつながる記譜法や階名を使った歌唱の元となった賛歌が良く知られており,オルガヌム理論はそれほど重視されてこなかった。しかし,11世紀およびそれ以前の多声音楽は12世紀以降のものとは大きく異なるうえ,その史料は限られたものしかない。オルガヌムを詳細に論じた理論書は,9世紀の『ムジカ・エンキリアディス』 『スコリカ・エンキリアディス』(以下 ME/SE と略す)とこの『ミクロログス』(以下 ML と略す)のみと言ってよい。ME/SE では,前提となる音組織はテトラコルドに基づいており,今日から見れば変則的と言えるのに対し,ML では全音階を前提としている。また,特定の音や音型を選ぶ理由について ME/SE では説明していない場合が多いが,ML ではある程度の説明を試みている。このような点から,初期多声音楽の様相を知るためには,グイドのオルガヌム理論の精緻な理解が必要であると考えられる。本発表では,ML 第18章の文章による説明と第19章に多数載せられている譜例とを分析し,グイド理論がどのような音感覚や発想に基づくものなのかを検討する。
  グイドのオルガヌムは,12世紀以降に見られる多声音楽とは異なり,聖歌旋律の1音に対しオルガヌム声部の1音が対応し,聖歌より低い音高をとるのが基本である。聖歌とオルガヌムの音程関係は,両声部が完全4度を保ったまま動く平行部分と,聖歌のみ動きオルガヌムが同音を続ける斜行部分との交替から成っている。ただし,フレーズの最後の部分では「オクルスス」と呼ばれる終止形を経て両声部はユニゾンとなり,その際には反行も使われる。斜行部分では,オルガヌム声部はすべての音高を取りうるわけではなく,特定の音高(境界音)が選ばれる。その理由としてグイドは,聖歌声部との間に作られる音程として好ましいのが完全4度,長3度,全音であるためとしており,完全5度と半音は使わないと説明している。ここから,好ましい音程関係を上に持

つ C,F,G が境界音にふさわしい音ということになる。
  譜例の分析では,平行部分と斜行部分との移行がスムーズに行われるように工夫されていることが特徴的であった。オルガヌム声部は移行部でもなるべく同音を保つように,また動く場合でも跳躍よりは順次進行で動くように書かれている。また境界音として実際に使われているのは大部分が C,F であり,G は例外的な場合にしか使われない。その理由についてグイドは明確にしておらず,説明をしかけて急に「グレゴリオ聖歌では C と F が多数使われている」という話題へと飛躍してしまう。この問題に関しては,先行研究においても詳細に論じられていない。
  グレゴリオ聖歌の音組織は,一般に旋法理論で説明されている。しかし,旋法によらず基礎となる音組織自体に「強い音」「弱い音」の差があるのではないかという仮説が一部の研究者により提示されている。それによれば,ACDF 等は「強い音」であり旋法理論上重要な位置にある場合以外でも強勢を持ちやすいという。一方,G は比較的「弱い音」であり強勢を持ちにくいことになる。グイドの境界音の選択は,このことと関係している可能性も考えられる。
  ML と近い時代の楽譜史料である《ウィンチェスター・トロープス集》は,多くのオルガヌム曲を含んでいる。記譜法は音高を明確に示すものではないが,最近の研究で解読が進みつつある。それによれば,オルガヌム声部はグイド理論と似た規則に基づいて作られているが,音の選び方は ML よりはかなり自由度が高いように思われる。境界音としては C や F のみならず A や D も多く使われている。このような選択は,グイドとは異なるが「強い音」の中から選んでいるという点で共通点がある。この点については,今後の研究の進展を期待したい。
  最後に,『ミクロログス』のオルガヌム理論の特徴をまとめると,以下のようになる。1) 全音階を前提とする。2) 4度平行と斜行との交替を原則とする。3) 斜行の際,境界音を選ぶ理由として,音程の好ましさを順位付けしている。ただしその根拠は明確ではなく,G より C,F を重視しているが理由を説明していない。4) フレーズの最後でオクルススによりユニゾンに至る方法を説明している。5) 譜例を多数提示している。譜例では音進行のなめらかさを重視しているように思われる。









研究会要旨

中世後期の西地中海域で展開された戦争と平和

── イベリア半島を中心として ──

黒田 祐我

2月23日/國學院大学



  中世地中海世界では,西欧すなわちラテン・キリスト教世界,ビザンツ世界,そしてイスラーム世界という三つのサブ文明世界同士が直接に接触する地帯,すなわち「フロンティア」を生み出さざるを得なかった。それは,双方のサブ文明世界の影響力が衝突する場となり,その結果どちらからも異質にみえる特殊な地域を形成していった。しかしこれまでの研究は,西欧世界とイスラーム世界とが接触するイベリア半島の歴史を,宗教的な寛容あるいは不寛容,社会的な共存あるいは対立といった,二者択一図式で説明しようとしてきた。この研究上の根深い「対立」を,中世後期のカスティーリャ王国とナスル朝グラナダ王国との間に成立した中世最後の「境域(frontera)」の具体事例から解消することが目的となった。またこの過程で,イベリア半島もそこに含まれる西地中海世界のダイナミズムの一端を示した。
  まず,中世における戦争と平和それぞれの一般的な特質を明らかにした。中世の対異教徒戦争は,大規模な両陣営が直接衝突する「会戦」ではなく,中小規模で断続的に繰り返される「消耗戦」あるいは前線に点在する重要拠点を攻囲する「拠点奪取戦」で推移しており,この点で西欧内で繰り広げられる戦争と大差のないものであった。中世という時代の制約を受ける戦争は長期間にわたって継続することはできず,ゆえに当時の為政者らは「外交」を通じた休戦を常に模索していった。この点で戦争と平和との不可分さは明らかといえる。
  次に平和であるが,異教徒勢力同士の間には恒常的な和平を締結できないため,必然的に休戦協定という期限付きの戦争停止によりもたらされた。13世紀から15世紀末に至るまでの中世後期の西地中海世界は戦争行為以上にこの休戦協定により不安定ながらも保障される平和状態によって,ヒトやモノ,あるいは情報が往還していた。カスティーリャ王国とグラナダ王国という「異なる世界」に各々が属する国家間でも,休戦期間から交易,小規模な紛争解決手段に至るまでを包括する協定が頻繁に締結され,時に破棄されながらも再締結されていった。恒常的な和平ではなく,両王国のその時々の力関係に左右されつつも,15世紀の末に至るまで大規模な戦争行為が生じることを抑止し続けたのである。
  では,上記の国家間レヴェルの戦争と平和は,日夜境の向こう側と交渉していた「境域」で,どのように認識されていたのであろうか。英語の「フロンティア」の語

源である "frontera" という語彙そのものもイベリア半島で生まれ,対アンダルス(イスラーム・スペイン)国境域をもっぱら示す概念となっていたが,中世後期には,双方が地理的に近接して居住する場を作り出していった。それは,対異教徒防衛を担う「フロンティア」となるため,必然的に「戦争遂行型社会」となる。またそれは,各々の軍事的な資質を中心として形成されるヒエラルキー社会であり,立身出世のために戦争が推奨される場となっていった。ここでの戦争とは,王国間で維持された休戦協定を遵守せずに日々行使される略奪という「不法」な形態をとった。
  しかしこの略奪の応酬に恐れおののく「境域」社会は,同時に境の向こう側との和平関係を個別に模索していった。こうして「戦争遂行型社会」として成立した「境域」は,「和平維持型社会」として機能していった。各拠点単位での交渉により,宗教と構造の異なる社会同士は,王国間レヴェルで行使される戦争あるいは平和とは別次元で局地的な略奪に終始するとともに,局地的な和平協約を締結して,ヒトやモノ,そして情報の移動を確保した。具体例を挙げれば,王国間レヴェルで禁止されている品目の交易を許可し,最前線地帯に横たわる無住地の牧草貸与契約を締結した。さらに「境域」では宗教的な境すらも流動的となり,改宗行為は,一定の手続きをとったうえで許可された。戦争行為が頻発する「境域」は,和平関係も同時に密になる,特異な場であった。
  結論として,イベリア半島を含む西地中海世界における「フロンティア」とは,戦争と平和が双方ともに最大限に激化する場と定義づけることができよう。それは,戦争の担い手を軸として形成されるヒエラルキー社会でありながらも,この戦争の担い手を軸に,「対岸」と平和関係が築かれる社会となった。貴族は立身のため,市井の民は自衛のため,宗教と政治の境界をやすやすと越えていくことを可能とする場であった。このように西地中海世界に固有の「透過性のある国境線」は,1492年にナスル朝グラナダ王国が滅亡した後も,舞台を北アフリカ沿岸部,あるいは新大陸へと舞台を移して再び現れる。それでは中世から近世にかけて成立していく様々な「フロンティア」の間には,どのような類似と差異が見出されるのであろうか。これを報告の最後に今後の課題として提起した。









Angeli del Fango (泥の天使たち)

石井 元章



  1966年11月4日にフィレンツェでアルノ川の大氾濫,ヴェネツィアで歴史的なアクア・アルタがあり,多くの文化財が甚大な被害を蒙ったことは周知の事実である。フィレンツェの主だった建物の地階の柱には,その日の水位が痛々しく刻まれている。留学生仲間と多くの時間を過ごしたマックス・プランク財団の美術史研究所でも,雑誌室の入口脇の柱に赤く彫り込まれた水位を眺めては,氾濫の凄まじさを思い起こしていた。
  一度でもイタリアに住んだ人ならば,夏の終わりに始まる雨季が11月に迎える末期の凄まじさに驚いたことがあるに違いない。留学一年目の夏,雲一つない晴天が数ヶ月も続いた8月後半のある日,イタリア人の友人が空を見上げ,もうすぐ雨が降るぞ,空気が湿っているのが分からないかと言う。狐に摘まれたような気でいると,翌日本当に瀧のような大雨が降ってきた。日本では経験したことのない,垂直に降る大雨である。雨量は大型台風並みであるが,風を伴わないのでまさに垂直に降る。近所の人々が "Piove (雨が降ってる)" でなく,"Acqua, acqua! (水だ,水だ)" と叫んでいる意味が良く分かる。翌日は何事もなかったかのような快晴。それが1週間から10日ほど続くとまた大雨が降る。雨と雨との間隔が次第に短くなり,果ては毎日のように雨が垂直に降る。この時期がおおよそ10月後半から11月である。1966年の大洪水が起こったのもこの頃である。毎年アルノ川の水嵩がポンテ・ヴェッキオの橋脚の上の方まで増え続け,今にも橋が崩壊するのではないかと思われる勢いで雨の中を濁流が流れ続ける。雨が止み,川の水嵩が減り始めると橋脚には何本もの流木が絡みついたままになっている。アルノ川下流域でも岸辺の樹々の枝にポリ袋などが巻き付いているのが,ピサに通う電車の中から見えた。その度に,1966年の大雨はこんなものではなかったのであろうと考えた。
  1966年に起こった大氾濫の水が引いた後,幾多の美術品が泥水に浮かんでいたというが,それを教会から運び出して「救出」したのが,所謂 "Angeli del Fango (泥の天使たち)" である。彼らの姿を当時のモノクロ報道映像で初めて目にしたのは,留学中の下宿のテレビだった。また,ウッフィーツィ美術館を飾る作品群のキャプション脇に,この氾濫が与えた被害の修復が終わった年とそれを支援した個人・団体の名が掲げられていること

に注目するようになったのも,留学中のことであった。
  泥の天使たちは美術品のみならず,何十万冊に及ぶ図書館の蔵書をも救い出した。泥をかぶった本や雑誌を一つ一つアルノ川沿いの欄干の上に開いて干し,付着した泥を払ったのである。彼らの懸命な姿は絶望の中から再び立ち上がるあらゆる被災者を象徴的に表している。その意味で東日本大震災で被災した人々とも重なる。
  博士論文の研究調査のため,各地の図書館や古文書館に足繁く通っていた頃,この泥の天使たちの翼に触れたと感じる瞬間が2度ほどあった。初めは,国立中央図書館で S. ビング主宰の雑誌 "Le Japon artistique" (芸術の日本)を閲覧した時だった。届けられた文献の頁を繰るとすぐに大量の頁の欠損に気付いた。ひどいものは,ある号の表紙に別の号の記事の一部が綴じ付けられていた。本来36巻あるはずの『芸術の日本』が11, 12冊に「編集」されてしまっていた。ジャポニスム研究の上で重要な文献の一つである『芸術の日本』は,バーナード・ベレンソンが設立したハーヴァード大学付属研究所ヴィラ・イ・タッティですでに実見していた。国立中央図書館では確認を行なう予定だったが,必要な頁が欠損していて仕事にならなかった。しかし,本全体を救おうとしたが叶わず,苦肉の策で綴じ合わせてしまった天使たちの仕事の跡を垣間見た気がした。
  次に彼らの存在に触れたのは,フォルテ・デル・ベルヴェデーレにある同じ国立中央図書館エメロテーカ(定期刊行物資料室)に行った時のことだった。ここには比較的マイナーな新聞や雑誌が分蔵されている。要塞の奥にあるほとんど人気(ひとけ)のない閲覧室に座った私の許に,依頼した19世紀の新聞が括られた束のまま届けられた。その紙紐は括られた後,おそらく一度も手を触れられたことがないのであろう,固く締まっていた。その紐を解き,重なった新聞の束を一つ一つほぐしていくと,その紙面に泥が付着していることに気が付いた。四つ折りになった新聞を平たく伸ばし,頁を繰ると,その度に乾ききった泥の塊がザザッと出てくる。その作業が調査の間ずっと繰り返される。この新聞は泥の天使たちによっても救われることがなく,氾濫の泥水を自らの中に含んだまま,誰にも顧みられずに時を過ごしていたのであろう。私はざらついた歴史の片鱗に触れた気がして感動を覚えた。