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学会からのお知らせ


* 第37回地中海学会大会
  第37回地中海学会大会を6月15日,16日(土,日)の二日間,同志社大学寒梅館(京都市上京区烏丸通上立売下ル御所八幡町103)において以下の通り開催します。

6月15日(土)
13:00 〜 13:10 開会宣言・挨拶
13:10 〜 14:10 記念講演
  「祇園祭と京都町組」  脇田 晴子氏
14:25〜16:25 地中海トーキング
  「都(みやこ)のかたち」
   パネリスト:草生 久嗣/栗原 麻子/堀井 優/(司会兼任)青柳 正規 各氏
16:40 〜 17:10 授賞式
  地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞
17:10 〜 17:40 総会
18:30 〜 20:30 懇親会 [京都ガーデンパレス]

6月16日(日)
10:00 〜 12:00 研究発表
  「《ハルピュイアイの墓》──前5世紀リュキア葬礼美術における死生観」  河瀬 侑氏
  「グイド・ダレッツォ『ミクロログス』のオルガヌム理論」  平井 真希子氏
  「レッシングとエウリピデス──「新しいメデイア」像から見えてくるもの」  田窪 大介氏
  「ヴェルディ 《オテッロ》 (1887) における演出と音楽── disposizione scenica を手がかりに」  長屋 晃一氏
13:30 〜 16:30 シンポジウム
  「キリスト教の布教と文化」
   パネリスト:岡田 裕成/新保 淳乃/吉田 亮/(司会兼任)児嶋 由枝 各氏

* 会費納入のお願い
  新年度会費の納入をお願いいたします。自動引落の手続きをされている方は,4月23日(火)に引き落とさせていただきます。ご不明のある方,領収証を必要とされる方は,事務局までご連絡下さい。

会 費: 正会員 1万3千円/学生会員 6千円
振込先: 郵便振替 00160-0-77515
    みずほ銀行九段支店 普通 957742
    三井住友銀行麹町支店 普通 216313

* 常任委員会
・ 第3回常任委員会
日 時: 2月23日(土)
会 場: 國學院大学
報告事項: 『地中海学研究』 XXXVI (2013) に関して/研究会に関して/将来構想に関して/企画協力講座に関して/石橋財団助成金申請に関して/2012年度財政見込みに関して 他 審議事項:第37回大会に関して/地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞に関して/ブリヂストン美術館連続講演会に関して/役員改選に関して

訃報: 3月10日,会員の堀井令以知氏が逝去されました。謹んで,ご冥福をお祈り申し上げます。








辰野金吾のグランド・ツアーを旅する

河上 眞理



  ここ数年,辰野金吾の欧州留学時代の再検討を続けている。辰野への関心は工部美術学校研究を進めていた十数年前に出会った,あるエピソードが契機となった。同校絵画教師のフォンタネージが帰国しフェッレッティが代人教師となったが,小山正太郎や松岡壽ら生徒たちと馬が合わなかったことが災いし,好意的に伝えられていない。が,ふと手にした『工学博士辰野金吾伝』(以下『金吾伝』)中の「洋行日誌」に「ペイントルフェレツテー氏元工部省御雇教師」は「船中生等之親友」と記されていた。管見の限り,同時代の日本人でフェッレッティを「親友」と呼んだ人物は辰野を措いて他になく,興味を覚えたのだった。その後,『松岡壽研究』所収の松岡の日記の解題に従事した。日記にしばしば登場する辰野と松岡を巡る研究に足を踏み入れ,2007年にイタリア東方学研究所・立命館大学国際言語文化研究所主催のシンポジウム「イタリア観の一世紀──旅と知と美」において,「明治の美術界におけるイタリア──画家松岡壽と建築家辰野金吾の場合」を発表した。「辰野堅固」とも渾名された辰野だが,同時期にイタリア留学をしていた松岡や長沼守敬との交流では別の顔を見せ,益々興味を惹かれたのである。
  辰野は1879(明治12)年に工部大学校造家学を首席で卒業した翌年イギリスに官費留学し,フランス,イタリアでの実地研究を経て1883年に帰国した。が,こうした概要が知られるだけで,イギリスでの修学の具体的な内容も,フランス,イタリアの旅程も不明だった。後者の手掛かりとして『金吾伝』掲載の建築関係のスケッチ10枚がある。「一八八二年より八三年の間に実地見学中主として仏伊視察の間にスケッチせる建築物写生帳七〇〇図の中より」転載とあるが,「建築物写生帳」そのものは失われてしまったと考えられてきた。ところが,近年「建築物写生帳」と考えられる『辰野金吾滞欧野帳』(以後『滞欧野帳』)4冊の存在が判明し,ご所蔵者の許可を得て,筆者はこれらを研究する光栄に浴した。スケッチ10枚のうち8枚の原画を『滞欧野帳』に確認でき,「建築物写生帳」の一部であると同定した。4冊は3年間の欧州留学時代全てを網羅したものではないが,辰野の欧州体験の考察には必須の第一級史料であることに間違いない。4冊を手にとって閲覧させて頂いたときの胸の高鳴りは,今も思い出される。
  『滞欧野帳』の記載年月日を基に作表してみると,辰

野の足跡が詳細に見えてきた。イギリス留学からおよそ一年後に書き始められた第一巻は,修業先の建築家ウィリアム・バージェスの建築に関するものが大半を占める。第二巻から第四巻は,記載年月日から継続して書かれたと理解でき,フランス,イタリアでの見聞録である。第二巻はパリ滞在記,第三巻はパリからフランス各地での滞在記で,ヴェルサイユ,フォンテーヌブロー,オルレアン,ブロワ,アンボワーズ,シャンボール,シャルトル,ルーアンなどを訪問したことがわかる。ルーアン滞在記は第四巻に続き,アミアン,ラン,ランス,ソワッソンを巡り,一度パリに戻った後に南仏からイタリアに入り,ジェノヴァ,ミラーノ,パヴィーア,ヴェローナへ進み,ヴェネツィア滞在記で終わっている。『金吾伝』にはフィレンツェの2棟の建築スケッチがあり,ローマでの長逗留も周知のことなので,イタリア滞在に関する後続の野帳の存在が期待される。
  『滞欧野帳』は西洋建築の教養を積むべく,偏りなくさまざまな様式・用途の建築を実見して廻った,まさに辰野のグランド・ツアーの軌跡である。交通手段もままならない時代において,よくこれだけの距離を廻ったものだと感服する。近代日本の建築界を背負って立った人物ならではの偉業だろう。
  『滞欧野帳』には都市名のみが記され,建築名の記載はない。それで「辰野のグランド・ツアー」を実際に旅することになった。数年間かけて,地図を片手に辰野が描いた実物を探索している。時間と労力とお金もかかるが,描かれたものを同定できた時の喜びはひとしおである。
  『金吾伝』第十五図はブロワの建築の一部で,『滞欧野帳』第三巻第31葉ウラに原画がある。ある年の冬,ブロワ城の一部だろうと当たりを付けて訪問し,辰野のスケッチを見せて尋ねてみたが,皆,知らないと言う。気を取り直して寒空の下,散策を続けると立派なハーフティンバー建築に遭遇した。15世紀に建てられた《軽業師の家(Maison des acrobats)》である。図はその正面の柱を飾る木彫装飾だったのである。辰野がスケッチしていたと思われる位置に立って見る。感無量。しかしすぐに,なぜこれをスケッチしたのか,という疑問が頭をよぎる……。辰野のグランド・ツアーの足跡を訪ねる旅は楽しくも,多くの宿題を課す。私の「辰野のグランド・ツアー」の旅はまだ続いている。







ダルヴィーシュを描いたフランスの作家たち

田口 亜紀



  最近,東京・池袋にある「ペルシャン ダルヴィッシュ」というイラン料理店に行った。オーナーシェフは文字通り「ダルヴィッシュ」(ダルヴィーシュ)であり,ペルシア古典楽器の演奏も行う。夕食後,イスラム神秘主義の宗教儀式で演奏される音楽を聴かせてくれた。
  ダルヴィーシュとはイスラム神秘主義(スーフィズム)の修行者スーフィのことである。形式的になっていった正統イスラムに対し,直接神に近づくことを目的として,9世紀にイラクのエリートの間で生まれた。有名なスーフィのまわりに弟子が集まり,やがて師弟関係が教団という形で組織化され,イスラム世界全域で教団が作られる。ダルヴィーシュは地方や時代により性格が異なるが,清貧な生活,修道場での集団生活,托鉢,修行の実践を行う。その修行方法は様々だが,19世紀のヨーロッパでは「回転修行者」と「絶叫修行者」が知られていた。
  絶叫修行者は,奇声を発する修行を実践する。そして「アッラー,ハイ」というリフレインを節にのせて歌う。地面を激しく踏みならしたり,柱のまわりで何時間も踊り続けたり,興奮状態に至ると地面を転がってのたうち回る者もでる。また,回転修行者は現在でもエジプトやトルコなどで観光客を前にして踊るが,音楽に合わせて手を広げ,白いスカートをはためかせて回転運動をする。やがて忘我の境地に至り,神との合一を体験する。
  フランスでは,1704年にアントワーヌ・ガランが『千一夜物語』の翻訳でダルヴィーシュを紹介した。以降,オリエントを旅するフランス人作家たちは,奇妙な修行に勤しむダルヴィーシュに言及せずにはいられなかった。19世紀においてはフロベール,フロマンタン,ゴーチエ,ロチ,ユゴーなどである。
  フロベールは1849年マクシム・デュ・カンと行ったエジプト旅行の日記で,ドーザの修行,すなわち修行者の体の上をシャイフが馬に乗って通り過ぎる奇跡をカイロの広場で見物したと報告している。ゴーチエは『コンスタンティノープル』(1853)で,回転修行者と絶叫修行者についてそれぞれ一章をもうけ,詳細に描写する。当時は回転修行者の修道場はコンスタンティノープルのヨーロッパ側に位置したことからヨーロッパ人がよく訪れていたが,絶叫修行者の修道場はスクタリというアジ

ア側にあったことから,あまり知られておらず,ゴーチエの記述は絶叫修行者の知名度を上げることに貢献しただろう。一方でロチの『アジヤデ』(1879)では,主人公はハーレムに囲われているトルコ人女性と恋仲になり,恋で「ダルヴィーシュのように狂ってしまった」と描写される。この例のように,ダルヴィーシュはしばしば狂人とされる。
  実際,見方によってダルヴィーシュは狂人であり,いかようにも解釈できる曖昧な存在である。狂気の発作によって狂人のレッテルを貼られ,快復を証明するためにエジプト,レバノン,トルコを旅したジェラール・ド・ネルヴァルにとって,聖人であり,狂人でもあるダルヴィーシュは象徴的な存在だった。『東方紀行』(1851)ではダルヴィーシュの表象のうちに,正気と狂気に対する根源的な問いかけがある。
  百科事典『十九世紀ラルース』は,ダルヴィーシュの項目でネルヴァルの興味深い説を紹介している。ネルヴァルは,ダルヴィーシュの修行がギリシアからエジプトにいたる古代世界で行われていた秘儀に遡るのではないかと述べ,古代エジプト・ギリシアの神々とイスラムの神秘主義修行者とを同じ神話的系譜に位置づけようと試みる。ネルヴァルの想像世界において,ギリシア神話に登場するカベイロス(バッコス神と同一視される),コリュバンテス(女神キュベレの祭司),そしてダクテュロス(音楽と鍛冶の神)がすさまじい音をたてて鉄を打つ反復運動を行いながら,理性と意識を失うまで踊り続ける姿に,神との合一に達する目的で地面を叩いて絶叫するダルヴィーシュの様が重ねられている。それはまさに神と人間が共存していた古代ギリシア神話の光景を垣間見せるものであり,古代からの隠れた次元の連続性を保証するものなのである。
  『東方紀行』における宗教・神話的考察は,オリエントとヨーロッパを結びつける営みに通じる。すなわちネルヴァルはイスラム世界全域で栄えたイスラム神秘主義教団の奇妙な修行と古代ギリシア神話の接点を見いだしたことで,東洋・西洋といった線引きを無効にし,原始の形での宗教の融合を試みているといえよう。そこに源泉への回帰と永遠性の希求というふたつの夢を感じずにはいられない。







綿と技術

中平 希



  このところ,綿について調べていた。世界で最古の織物はトルコ南東部で発見された9,000年前のリネン(亜麻織物)だそうだが,綿の歴史も古い。ワタはもともと広域に自生していた植物で,新旧の大陸で独自に栽培化された。南米では6,000年前の,インドでは5,000年前の種子が見つかっている。中世から近世にかけて,地中海を通ってヨーロッパに輸入された綿織物,キャラコやモスリンはインドワタを原料にしていたが,18世紀にアメリカ南部のプランテーションで栽培品種に選ばれたのは中米原産の陸地綿でとりわけアプランドという品種だった。繊維が長く収穫量も多かったからだ。さらに19世紀にはペルーで栽培化された別品種が西インド諸島に導入され,改良を重ねた結果,繊維が最も長い高級品種に成長した。海島綿(シーアイランドコットン)である。これらの原綿がイギリスに大量に輸出された。産業革命のころ,イギリス綿工業の原料は当初のインドワタから新大陸系のワタに切り替わったわけだ。19世紀半ばの南北戦争に際してアメリカからの原綿供給が一時途絶えたとき,イギリスはアメリカ産のアプランド種を他地域の植民地に導入して原料を確保しようとした。現在,世界で商業栽培されているワタの多くがこの品種である。海島綿は19世紀にエジプトにも導入されて定着し,エジプトは高級綿の原産地になった。これに対して,アジア在来種は繊維が短く,機械紡績に向かないため,商業的にはほぼ生産されなくなってしまった。
  歴史で「綿花」というと,アメリカ南部の黒人奴隷が労働に追われる姿がまっさきに思い浮かぶが,ワタの収穫は当初はそれほど厳しい労働ではなかったらしい。摘んだ綿花から種を除く作業に時間がかかり,生産過程のボトルネックになったからである。しかし18世紀末,ホイットニーが綿繰り機を発明したことで状況が変わった。種の除去作業は効率化され,多くの綿花の処理が可能になり,その結果,需要を満たすために栽培面積が拡大され,手作業での綿摘みは過酷な長時間労働になった。現在では収穫は機械化され,奴隷に代わって大型機械が自動で摘みとり,綿繰り,繊維の圧縮までやってしまう。しかし,その実現には条件があった。ワタはアオイ科の植物で,実は枝の下から上へ順に熟し,同時に収穫可能な状態にならない。さらに収穫期にも茂る葉が邪魔になるため,収穫は長らく人手に頼ってきた。この

穫を機械化するには化学薬品の登場が必要だった。20世紀のことだ。
  現在は収穫に際して落葉促進剤,乾燥剤,成長抑制剤などの薬剤が用いられる。どれも結果として落葉を促すもので,収穫時に多くの綿花の莢を開いた状態にするために莢開裂調整剤を使用することもある。毒性の強いものも含め,さまざまな農薬を成長段階や気温に合わせて複雑に組み合わせながら収穫をおこなうのが現代のワタ栽培であるらしい。さらにワタは多くの肥料を必要とし,害虫に弱いため殺虫剤も多く使用される。地球上で使用される殺虫剤の四分の一がワタ栽培に使われているという試算もあるようだ。奴隷労働を廃して大量生産するには,かなりの代償が必要だということだろうか。
  地中海沿岸地域では,古代からウールとともにリネンの布地を衣服にしてきた。近世にヨーロッパへ輸入されるようになった新参の綿織物は,吸汗性があり,洗濯がたやすく,肌触りがやさしい点で,リネンと競合する素材だった。ただし,ヨーロッパでの綿織物生産は,最初はリネンとの交織りというかたちで始まった。機織り工程で布を支える経糸には強い力がかかるが,当初の綿糸では経糸としては強度が足りなかったため,緯糸が綿でも経糸には強度に優れたリネンが使われたのだ。綿の繊維は種子毛から取るため,最長種でも50ミリ程度しかない。これに対して茎から取るリネンの繊維は一本が1メートルにおよび,綿糸の数倍の強度がある。一時期,リネンと綿は競合しつつも,一方が他方の原料でもあったのである。しかしその後,18世紀末のアークライトの水力紡績機は,強い撚りをかけることで経糸にも使える綿糸を作り出し,原料がインドワタよりも繊維の長い新大陸系ワタに変わったこともこれを後押しした。こうして産業革命で安価に生産されるようになった100%の綿織物がリネンに取って代わったのである。現在では,綿織物にはサイジングという工程が加わっている。穀類やジャガイモを原料とするデンプンから作る糊で繊維をコーティングすることで,強度のある経糸を作るのだ。
  植物の分布,新しい技術,それらを左右する植民地政策。視点を変えるとそのなかには思いがけないつながりがある。こうした要素をわかりやすく授業のなかで生かせないかと暗中模索しているところである。







ベンボ父子の確執

―― 政治家ベルナルドと文学者ピエートロ ――

仲谷 満寿美



  ピエートロ・ベンボ(1470〜1547)は16世紀のイタリアの文学者である。ヴェネツィアの有名な出版業者アルド・マヌーツィオの協力のもとに,ダンテ『神曲』の校訂版(1502年)やペトラルカ『カンツォニエーレ』(1501年)の校訂版を出した文献学者でもあり,長年にわたる俗語文学の研究成果にもとづいた主著『俗語論』(1525年)によって,文学作品において使用すべきイタリア語の規範を確立した。最晩年には,文学界の大家としての威信を評価されて,枢機卿に取り立てられた。
  ベンボはヴェネツィア貴族の生まれだった。ベンボ家はパドヴァ近郊に農地を有していたが,優雅でありながらもかつかつだったらしい。父親のベルナルド・ベンボはラヴェンナの総督として赴任したとき,かの地にあるダンテ廟を「私費で」修復した。その一方,インノケンティウス八世の即位を祝するためにローマ大使として派遣されたときには,衣装料の名目でヴェネツィア政府から百ドゥカーティの補助金を支給された。
  貴族としての体面を保つには充分だったとしても,それほど多額の財産をもっていなかった父ベルナルドにとって,嫡出の長男ピエートロをヴェネツィア国外に留学に出したのは,息子に相当な期待をかけていたからに違いない。ピエートロは21歳の夏,ヴェネツィアを訪れたアンジェロ・ポリツィアーノを自宅で歓迎し,父の貴重な蔵書の一冊であるテレンティウスの古写本を二人で詳細に研究した。この出会いに触発されたのであろう,ピエートロは古典ギリシア語を習得することを考え始める。ギリシア語を学ぶだけなら,ヴェネツィアにも,本土領内のパドヴァ大学にも,すぐれた先生がいないわけではない。しかし彼は,敢えてシチリアのメッシーナに渡る。メッシーナでは,帝都コンスタンティノープルからの亡命貴族,コンスタンティノス・ラスカリスが教鞭をとっていた。22歳でラスカリスに弟子入りしたピエートロは,他のことには目もくれず真剣に学び,ゴルギアスの『ヘレネー頌』をラテン語に訳すまでになった。2年間の留学が終わった後,師ラスカリスのギリシア語文法の手稿本をヴェネツィアに持ち帰り,この原稿をもとにアルド・マヌーツィオが『エロテマタ』(ギリシア語文法)を出版した。
  父ベルナルドは,息子の学問の進み具合にたいへん満足し,友人に向かって「息子はギリシア人になりました」と自慢していた。息子もおいおい立派なヴェネツィ

ア貴族になってくれるだろうと思っていたはずだ。立派なヴェネツィア貴族とは,ギリシア・ラテンの幅広い教養をそなえ,献身的に祖国につくす有能な政治家を意味する。要するに,ベルナルドとしては,哲学研究と政務を両立させている自分を見習ってほしかった。あるいは,年齢の近い先輩を挙げるならば,外交官として活躍しながら,『アリストテレス「霊魂論」註解』をラテン語に訳した,ジローラモ・ドナのようになって欲しかったであろう。
  しかしながら,ピエートロは父の期待を裏切った。文学研究にのめりこんで,『エトナ山紀行』や『アーゾロの談論』といった著作を出版するのには熱心だったが,公職選挙の結果は,まったく思わしくない。ヴェネツィア共和国では,外国に派遣される大使を立候補と信任投票で決めていたが,ピエートロはスペイン大使やドイツ大使,ナポリ大使にいたるまで,何度立候補しても必ず落選した。はなはだしくは,信任票が2票しか得られなかったこともある。もちろん無記名投票だが,この2票を投じたのが父ベルナルドと弟カルロであることは容易に想像される。
  それでも,弟カルロがいたころは,まだ良かった。カルロがわずか30歳過ぎで急死したあと,ピエートロは実家に居づらくなってくる。ベンボ家に唯一残された嫡男らしく振舞うことが期待されたが,その期待に応えられないことは明らかだったからである。ピエートロは世間では軟弱な文学者でとおっていたため,もはや公職選挙を突破して政界で出世することは不可能である。かといって,ベンボ家の人間がいい歳をしていつまでも,愛だの恋だのとソネットをつくって遊び暮らしているわけにもゆかない。ピエートロは父に,外国の宮廷で文学者としてやってゆきたいと相談を持ちかける。父は反対こそしなかったが,経済的援助を断った。ピエートロは,結局,文学者としての道を選び,祖国ヴェネツィアを出奔してウルビーノの宮廷に活路を求めた。
  ピエートロはウルビーノにおいて,ローマ教皇庁に登用される日をひたすら待った。ヴェネツィア貴族であることをやめた彼の姿は,カスティリオーネの『宮廷人』のなかに見ることができる。雌伏すること6年,レオ十世によって教皇秘書官に取り立てられたベンボは,ようやく人並みの出世を果たすことができた。彼の本当の人生は,ここから始まるのである。







愛しのリットリーナ

山手 昌樹



  2012年8月29日(水)の朝をポンペイで迎えた私は,遺跡を訪れるでもなく,午後は炎天下のなか,カゼルタの庭園をひたすら歩き続けた。その帰路,私は何を思ったか,ナポリから乗車した旧国鉄をポンペイでは降りず,さらにはノチェーラ・インフェリオーレを過ぎて,10キロメートルに及ぶサンタ・ルチーア隧道を抜けたところにサレルノの強い陽射しを浴びるのであった。この長大トンネルは1977年に開通,従来の険しい山越えルートを大幅に短縮するものだった。だが敢えて言おう。隧道内の景色は古今東西同じだが,山越えルートからはサレルノ湾の絶景をまったり一望できるということを!
  さて,実はこの日のメインイベントは午前中であった。定刻通り8時8分に旧国鉄ポンペイ駅を出発,同32分にピエトラルサ-サン・ジョルジョ・ア・クレマーノ駅に降り立った私は,駅に隣接する「ピエトラルサ国立鉄道博物館」(Museo Nazionale Ferroviario di Pietrarsa)を訪れた。開館は8時30分〜13時30分なので,我ながらベストな旅程である。それに先立つこと4日前に北伊クーネオ県サヴィリアーノにある何ともコンパクトな「ピエモンテ鉄道博物館」(Museo Ferroviario Piemontese)を訪ねていた私は,巨大なピエトラルサ博物館に舌を巻いた。1845年から1975年までのあいだ,幾多の蒸気機関車を世に送り出してきた工場の跡地なのだから巨大なのも頷ける。
  1839年10月3日,両シチリア王フェルディナンド二世を乗せた列車がナポリ─ポルティチ間7キロメートルを駆け抜けた。イタリア半島における鉄道開通の瞬間である。そして150周年に合わせて1989年にオープンしたのが,かの博物館である。ナポリ湾に臨む敷地には複数の展示館が設けられ,蒸気機関車や電気機関車,気動車,客車が整然と並ぶ。一方,博物館スタッフはといえば,屋外のベンチで優雅なひと時を過ごしているのだから,私はこの広大なスペースを何の気兼ねもなく一人占めできたというわけである。そう,およそ1時間半の見学中,ほかに誰一人として訪れる者はいなかった。それもそのはず,イタリア最大の鉄道博物館の隣接駅には稀にしか列車が停まらないのである。
  イタリアでは特に2000年代後半以降,高速鉄道の整備が進んでいる。ミラノ─ローマは約3時間,ローマ─ナポリは70分足らずの旅。おまけにワインレッドのナイスな車体「イタロ」(Italo)を誇る新会社が参入,旧

国鉄としのぎを削っている。その反面,もともと便数の少ないローカル線は現状維持さえままならず,少なからずの路線がバスによる代替輸送や廃線の憂き目にあっている。高速鉄道最優先の鉄道網では,近距離移動の利便性が著しく犠牲にされるのだ。ただし,こうした傾向は今にはじまったことではないようである。
  少しは私の研究内容にもご登場願い,その点を考えてみることにしよう。かつてファシズム時代の民情を調べていた私は,ローマの国立中央文書館にて国鉄にまつわる政治警察の民情報告を閲覧,1931年末〜38年の報告書400枚強を胸をときめかせながら一枚一枚めくったことが記憶に新しい。その内容は予期に反して鉄道員に関するものが大半を占めたが,それでも時おり,乗客が顔を覗かせた。たとえば,急行列車の導入や割引運賃に満足する声。そんななか,1932年1月4日の報告書には,エミリア・ロマーニャ地方を走る急行列車の設備が優れている反面,ローカル線の車両の座席が壊れ,ドアや窓も開閉しないという記述が認められた。当時も高速鉄道が優先されていたことを想起させる一文である。
  1936年になると「リットリーナ」(littorina)という言葉が報告書に頻出するようになる。これは前年に導入された急行列車を意味するが,各地から乗客の満足する様子が届けられる一方,衝突事故も少なからず起こり,利用者のあいだに不安が広まっていたことをうかがわせる。ファシズムのシンボルに関係深い「リクトル」から命名された急行列車に対する不満は,ある種の反体制的行為として警戒されたのかもしれない。だが,この言葉は今日では一般的に「ディーゼルカー」を意味するに過ぎない。ファシズム時代には鉄道の電化が進んだが,その一方で写真のごとき気動車も量産された。当時としては,利便性と高速のシンボル。今では農村地帯の非電化単線区間をうなりながら鈍足で走るイメージの強いリットリーナ。私が愛してやまないイタリアの景観である。

littorina








表紙説明 地中海世界と動物 8


カマルグの白馬 / 加藤 玄


  カマルグ湿原と聞けば,白馬を連想する往年の映画ファンが多いのではないだろうか。フランスのローヌ河デルタの湿原を舞台とする短編映画『白い馬』(1953年)は,誇り高い野生の白馬を主役に,湿原とそこに住む人々の暮らしを詩情豊かに描いた名作である。白馬が自分を飼い慣らそうとする牧童たちに抗いつつも,少年と心を通わせていくストーリーで,とくに白馬が少年とともに海に消えていく幻想的な結末は映画史上に残る名シーンとして名高い。アルベール・ラモリス監督は,本作でカンヌ国際映画祭パルム・ドール(最高賞)の栄誉に輝いた。
  カマルグ湿原は,夏は暑く,他の季節は塩分を含んだ冷たい雨に覆われる。寒冷な北西の風がしばしば吹き込み,塩害に強い植物の発育すら妨げる。こうした厳しい環境の中で生息してきたカマルグ馬は,体高 1.35〜1.50 m と小さく,蹄鉄を必要としない堅固な蹄を持ち,頑健で小食にも耐え,驚くほどの持久力を備えている。毛色は,仔馬の時には褐色や黒色であるが,5歳から白くなる。平均寿命は20〜30年と長命である。
  カマルグ馬の起源は不明であるが,南フランスのソリュートレで発見された古代馬に骨格が類似することから,同系統であると推定されている。カエサルの『ガリア戦記』で「ガリア人が最も喜び莫大な代価を惜しまない駄馬」と記されているのもこの種であろう。中世には荷馬や軍馬として用いられたようである。近代に入ってからは,穀物の脱穀や犂の牽引などに使役されたほか,牧童や牧場主の乗馬となり,とくにこの地方の黒雄牛を追う際に能力を発揮した。しかし,農法の変化により,沼地の葦が堆肥に使用されなくなり,脱穀も次第にロー

ラーに取って代わられるようになる。湿原が干拓され脱塩が進むと深耕が可能になり,耕地とくにブドウ畑が増加した。それに伴い,より多くの役畜が必要とされたが,気性が荒く神経質で,辛い労苦には適さないカマルグ馬はその要請に応えられなかった。20世紀には,より大型の馬が西北フランスのブルターニュ地方から導入され,農耕馬としてのカマルグ馬は著しく数を減らした。
  一方,上述の『白い馬』のヒットもあり,1960年以降にレジャーとしての乗馬が盛んになると,1978年のカマルグ地域国定公園に関する法令で「カマルグ馬」が種として公認された。仔馬は生後6ヶ月で母馬から引き離され,3年間の調教の後,種馬に選ばれなければ4歳で去勢される。種馬は頸に星形の烙印を押され,アルファベットと数字の烙印が押された去勢馬と区別される。同種は血統書によって厳密に管理されるようになった。
  さて,本誌334号に書いた沼地巡検調査の話の続きである。カマルグ湿原の南東端にあるジロー塩田に向かう途中,何の変哲もない水路を越えた。地図上に Canal du Japon (日本運河)と記されていなかったら,そのまま通り過ぎてしまっただろう。辺りを見回しながら車を徐行させていると,突然甲高い馬のいななきが響いた。車を停めて,騒ぎの起きている方に目を遣ると,どうも水路に白馬が落ちたらしい。仲間の馬が心配そうに見守るなか,牧場主が四輪駆動車のウィンチを使って救出を試みていた。しばらくして,白馬は無事に引き上げられた。映画のなかでは自由を求めて海の彼方へ消えていった誇り高い白馬も,現実の湿原では思わぬ苦労をしているようだ。