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学会からのお知らせ


* 4月研究会

  下記の通り研究会を開催します。

テーマ:近世ヴェネツィアにおける劇場建築の誕生ならびに発展と変容
発表者:青木 香代子氏
日 時:4月13日(土)午後2時より

会 場:國學院大学120周年記念1号館4階1403教室(最寄り駅「渋谷」「表参道」 )
参加費:会員は無料,一般は500円

  16世紀末のヴェネツィアで建設された劇場は,常設の劇場として,また有料上演を行う公共劇場として,近世イタリアにおける最初期の事例である。さらに,これを契機にヴェネツィアでは劇場建設が相次ぎ,他都市にも多大な影響を及ぼした。
  本報告では,まず16世紀末のヴェネツィアにおける劇場誕生の経緯と実態を明らかにする。次に,その後の発展と変容を,特に17世紀半ばに三つの劇場を所有した一家の事例に着目しつつ考察する。

* 第37回地中海学会大会

  第37回地中海学会大会を6月15日,16日(土,日)の二日間,同志社大学寒梅館(京都市上京区烏丸通上立売下ル御所八幡町103)において下記の通り開催します(予定)。詳細は決まり次第,ご案内します。

6月15日(土)
13:00 〜 13:10 開会宣言・挨拶
13:10 〜 14:10 記念講演  脇田 晴子氏
14:25 〜 16:25 地中海トーキング
  「都(みやこ)のかたち」(仮題)
  パネリスト:草生 久嗣/栗原 麻子/堀井 優/
  (司会兼任)青柳 正規 各氏
16:30 〜 17:00 授賞式
  地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞
17:10 〜 17:40 総会
18:30 〜 20:30 懇親会

6月16日(日)
10:00 〜 11:30 研究発表
13:00 〜 16:00 シンポジウム
  「キリスト教の伝道・布教」(仮題)
  パネリスト:岡田 裕成/新保 淳乃/吉田 亮/
  (司会兼任)児嶋 由枝 各氏

* 会費納入のお願い

  今年度会費(2012年度)を未納の方には本号に同封して請求書をお送りします。至急お振込み下さいますようお願いします。ご不明のある方,学会発行の領収証を必要とされる方は,お手数ですが事務局までご連絡下さい。なお,新年度会費(2013年度)については3月末にご連絡します。

会 費:正会員 1万3千円/ 学生会員 6千円
振込先:口座名「地中海学会」
    郵便振替 00160-0-77515
    みずほ銀行九段支店 普通 957742
    三井住友銀行麹町支店 普通 216313

* 常任委員会

・ 第1回常任委員会
日 時:2012年10月27日(土)
会 場:國學院大学
報告事項:第36回大会及び会計に関して/ブリヂストン美術館秋期連続講演会に関して/研究会に関して/学会サーバに関して 他
審議事項:第37回大会に関して/財務委員に関して/事務局バックアップ体制に関して

・ 第2回常任委員会
日 時:2012年12月15日(土)
会 場:國學院大学
報告事項:『地中海学研究』 XXXVI (2013) に関して/研究会に関して/将来構想に関して/エル・グレコ公開シンポジウム後援に関して 他
審議事項:第37回大会に関して/地中海学会賞に関して/地中海学会ヘレンド賞に関して/ブリヂストン美術館連続講演会日程および担当者に関して/企画協力講座担当者に関して 他








いま,スタジオ・アッズーロにふれること

金井 直



  イタリアを代表するメディア・アート・グループ,スタジオ・アッズーロは,昨年,結成30周年を迎えた。これを記念する展覧会が,川崎市市民ミュージアムで開催され(2012年9月22日〜11月4日),初期のヴィデオアート「ヴィデオアンビエンティ」から,近年の双方向的なインスタレーション「アンビエンティ・センシービリ」まで,その活動の一端が紹介された。
  会場入口付近に設置された《泳ぐ人》(1984年)は,12台のモニターを並置・同期させて,プールを力泳する人物を捉えたもので,フレームの制約=物質性を逆に活かしきった,ヴィデオアート史にのこる傑作である。一方,会場奥に広がる《センシティヴ・シティ》(2010年)は上海万博のイタリア館のために制作された映像インスタレーションであり,シラクーサ,マテーラ,ルッカ,キオッジャ,トリエステ,スポレートの街なみと人びとの映像・声が,鑑賞者の掌の接触に応じて,広がり,重なり合う。このインタラクティヴィティは,90年代末から国内でスタジオ・アッズーロの展覧会にふれる機会をえた日本の多くの鑑賞者にとっては,おなじみの装置・体験と言ってよいだろう。
  そう,「装置」かもしれない。そのオン・オフをくりかえす鑑賞形態に,率直に言えば,私は一種のプログラム性を感じてしまった。なるほどカルヴィーノに想を得たコンセプトは美しい。登場人物が語る街の記憶は,私自身のイタリアの思い出とも絡み合って飽きさせない。にもかかわらず,体験型ミュージアムにも似たその手続きは,昨今の現代美術界を席巻する参加型アートにも通ずる,既成の「開かれ」に留まってはいなかったか。
  こうした印象を抱いたまま,私はグループの代表であるパオロ・ローザ氏を松本に迎えることになった。講演「スタジオ・アッズーロ 地中海への/からのまなざし」(松本市美術館,2012年9月28日)である。
  講演の中味は,グループの歴史と主要作品,さらに映画や舞台とのコラボレーション事例の紹介と,さながらメディア・アート史の縮約であったが,コーディネーターを務めた私にとって興味深かったのは,グループが目指すインタラクティヴィティの起源として,ローザ氏がくりかえし70年代の経験・実践を語った点である。
  ローザ氏は1949年生まれ。ブレラ・アカデミー在学中から,ロマン主義/近代主義的な作家・作品主義を避

け,むしろ前近代のボッテーガに近い恊働を志向しつつ,スクウォッティングや,後の社会センターにも通ずる活動に関わりながら,ミラノにおける芸術=政治を実践したという。要するに70年代のアウトノミア運動,対抗文化の一翼である。その帰趨・展開として,1982年,スタジオ・アッズーロが誕生することになるのである。同グループの総合芸術志向は,ときに一種のスペクタクル性を帯び,とりわけ日本では,その特殊な受容史と相まって(ラフォーレやエルメスによる後援),アート=モードの幻想をかき立ててきた感もあったが,たしかに彼らは一貫してグループであることにこだわり,市場に流通しやすい作品づくり(スティル,スケッチ,マルチプル)も拒否しつづけてきた。そこにローザ氏が主張するような70年代以来の政治意識があるとすれば,近作の示すインタラクティヴィティにも,現代美術の一様式以上の含意・射程を認めるべきかもしれない。
  たとえば,最初期のインタラクティヴ作品《テーブル──なぜこの手は私に触れるの?》(1995年)以来,スタジオ・アッズーロは,一貫して手を作品の重要なインターフェイスとしているが,この態度は,先行するヴィデオ映像作品《物の庭》(1992年)においても顕著である。同作では,赤外線カメラが捉える熱伝導イメージをとおして,触る手と触られる物との「インタラクティヴィティ」が示された。一方,作り手としてのローザ氏がくりかえし強調するのは,「手で考える」こと,つまりドローイングの重要性である。紙に線を送りだす,その直接的な手触りが起点にあればこそ,鑑賞者の経験=手触りにつながることができるというのだ。デジタル化しえない手の連鎖こそが,彼らの作品の導線なのである。
  つまり,《センシティヴ・シティ》を,情報とツールのセットとして消費してはならないということだろう。もちろん作家主義的な近代美学にしがみついて,独創性を評定するのも当て外れだ。むしろ,ひとつの作品の実現に関わった直接経験の隊列に,手を介して参入することこそが,ここでは鑑賞者に期待されているのである。
  近年のインタラクティヴ・アートが戦略的に「あいだ」を狙い,「いま・ここ」にまどろむとすれば,スタジオ・アッズーロは,実は熱く直接行動を呼びかける。70年代的か。いや,むしろ,芸術を支える不屈のエートスを,私はそこに見る思いがする。







秋期連続講演会 「芸術家と地中海都市 II」 講演要旨

ミラノのスフォルツァ宮廷のレオナルド・ダ・ヴィンチ

──アンブロジアーナのコレクションから──

小佐野 重利



  2013年春に,東京都美術館でミラノのアンブロジアーナ図書館・絵画館所蔵作品からなる「レオナルド・ダ・ヴィンチ 天才の肖像」展が開催される。同展監修者の立場から,地中海学会秋期連続講演会のテーマに即して,展覧会への案内もかねてお話したい。
  同展では,真筆絵画が10点余りとされるレオナルドの作品から《音楽家》と,フィレンツェのアンドレア・デル・ヴェロッキオ工房時代から没する数週間前まで携帯して書き記され,編纂により『アトランティコ手稿 Codice Atlantico』に収められた22葉を展示する予定である。これらを中心に,いわゆるミラノのレオナルド追随者たち(レオナルデスキ)の絵画6点を通して,レオナルド絵画の広がりを示すとともに,アンブロジアーナが所蔵する珠玉の素描コレクションから精選した50点余──15世紀前半のピサネッロおよびその周辺の素描にはじまり,レスタ神父の素描帖からの12点にいたる素描──によって,イタリアのルネサンス以降の素描の歴史における素描家レオナルドの重要性を浮き彫りにするのが,展覧会の趣旨である。ほぼすべてが本邦初公開作品である。
  レオナルドは,わが国でも多くの関連著書や展覧会を通じて最も馴染みある芸術家ー哲学者,あるいは「万能の人」として知られている。
  彼がフィレンツェからミラノのスフォルツァ宮廷に移るのは,1482年のことで,その経緯は以下のように考えられている。レオナルドに関する最初の伝記とされるアノーニモ・ガッディアーノ本(1506〜32年頃)には,彼はアタランテ・ミリオロッティとともに,リラを献上するためにミラノ公のもとに派遣されたとある。しかも,ミリオロッティは画家・建築家で,レオナルドからリラ・ダ・ブラッチョの演奏法を学んだとある。『アトランティコ手稿』(1082葉)に鏡文字でなく左から右へと綴られた普通の右手書き文字による,ルドヴィーコ・イル・モーロ宛の自薦状の草稿がある。リラの献上に際して,宮廷に雇用してもらいたく自薦状をしたためたのであろう。その草稿は20世紀の多くのレオナルド研究者によって,弟子(メルツなど)によるコピー説などが出され,とにかくレオナルドが右手でも文字が書けた可能性を否定する傾向が強かった。本展では,『アトランティコ手稿』559葉表(レオナルドの父への手紙の下

書)の考察から,レオナルドが「両利き」で通常文字も書いた可能性を示す。
  レオナルドのミラノ宮廷時代に話題を移す前に,本講演では彼のフィレンツェのアンドレア・デル・ヴェロッキオ工房時代の活動を,そこで出会ったサンドロ・ボッティチェッリとの交友,ドメニコ・ギルランダイオなどほかの工房仲間との関係を絡めて手短に考察する。考察の対象となるのは,ともにウフィツィ美術館所蔵のアンドレア・デル・ヴェロッキオおよびレオナルド作《キリストの洗礼》とレオナルドの《受胎告知》,およびウフィツィ素描版画室所蔵の「雪のサンタ・マリアの日/ addi 5 daghossto 1473」と制作年の記された最初の素描《風景》である。
  『アトランティコ手稿』に,画家がミラノに移る際に主に持参した作品からなると思われる作品リスト(ほとんどが素描か)を記した888葉表,1490年頃にレオナルドが所蔵していた40冊の本のリストを記した559葉表がある。前者には,先述したアタランテ・ミリオロッティと同定しうる人物についての言及「顔を上げるアタランテの頭部の肖像」があり,これとウインザー城所蔵のレオナルド素描に描かれた縮れ毛の青年との顔貌の比較から,展覧会協力者ピエトロ・マラーニ氏はアンブロジアーナの《音楽家》のモデルをアタランテ・ミリオロッティとする説を提唱した。後者のリストからは,画家自身の謙虚な言葉「無学の人(omo sanza lettere)」から導き出された「ラテン語を解さないレオナルド」という神話化された言説を検証する機会ともなろう。ほかにも,左利きで,独自の「左文字(鏡文字)」の能筆を創案し,右手では通常文字は書けなかったとする言説は,画家のミラノ時代の数学の師にして友人ルカ・パチョーリが,著書『数の力について De viribus quantitatis』(1508年ヴェネツィアで上梓)で,鏡を使うか紙葉を裏返して光にかざして見ない限りは読めない左利きの反転文字の文章に触れ,「何度となく述べたとおり左利きの,〈絵画の光〉たる我らのレオナルド・ダ・ヴィンチが行ったように」と付言したことが拡大解釈されたことによる可能性などを論じる。
  最後に,レオナルドの『絵画論』の記述に言及しつつ,ミラノのレオナルド周辺で制作された絵画作品に彼の絵画に関する思索の影響を探る。







秋期連続講演会 「芸術家と地中海都市 II」 講演要旨

ローマとハドリアヌス帝

池上 英洋



  学生さんに薦められて手にとった『テルマエ・ロマエ』が面白くて,時代考証がちゃんとなされていることにも感心してしまった。この漫画のおかげで古代ローマの歴史や文化に関心を抱くようになったという学生さんも少なくなく,同書にかぎらず,『チェーザレ』や『ヒストリエ』といった西洋史を題材とした漫画のヒットが,少なからず最近の歴史ブームに貢献しているのだろう。
  同書で主人公ルシウスが仕えているのが,ハドリアヌス帝であるという設定もよくできている。というのも,彼は建築事業を次々とおこした皇帝であり,おまけにおそらくは自らも設計に細かく口を出すほどの建築マニアであったと考えられているからである。浴場はローマ時代の都市の重要な構成要素であるが,それらを建設する機会が豊富にある時代として描かれるに,ハドリアヌス帝の治世以上にふさわしい時代はない。そこで今回の講座では,同書と,それをもとにした映画のヒットにあわせて,ハドリアヌス帝をとりあげ,そのひととなりと生涯を追いながら,彼がローマとローマ帝国の歴史にはたした役割を概観することをテーマとした。
  ハドリアヌス帝は76年,スペイン系の家系に生をうけた。先帝トラヤヌス帝のいとこの子にあたるが,先帝に嫡子がいなかったこともあって,早くから目をかけられて出世街道を歩んだ。トラヤヌスの歩みをなぞるように,上部ゲルマニアといった重要な属州の総督に就いたほか,軍人皇帝として領土拡大に忙しいトラヤヌスが都を離れている間,議会で皇帝からの文書を代読する役目をおっていた。しかし後継者の地位が約束されていたわけではなく,トラヤヌスが亡くなった時に他にもライヴァルがいたこと,しかし帝妃がハドリアヌスを強く推したこと,そして後継者に指名されたハドリアヌスが早速四人の有力者を謀殺したこともまたよく知られている。
  ユダヤ民族に対し,彼らの民族としての誇りでさえあった割礼を禁止し,加えてエルサレムにローマ色を強制的に持ち込んだあげく,当然のように勃発した反乱を鎮圧して,その後ながきにわたるディアスポラをひきおこしたのもハドリアヌス帝である。彼の一生につきまとうこうした血なまぐささの一方で,拡大一辺倒だった帝国の路線を変更し,パックス・ロマーナを実現したのもまたハドリアヌスであった。彼は,パルティアとの間にある緩衝地帯にあったアルメニアほか三属州を,即位直

後に放棄している。先帝が自ら7万人規模の軍を4年間も率いて樹立した属州だけに,費用対効果の観点からも,元老院での批判は小さくなかったはずである。
  しかし,元老院との関係をほぼ一貫して良好に保ったことは,ハドリアヌスの統治の巧みさをよく示している。愛するアンティノウスが亡くなった時,通常は必要とされる元老院の承認をへずして神格化を急がせたような事例もあるにはあったが,ドミティアヌス帝時代の混乱の主因が皇帝と元老院との反目にあったことを,ネルヴァ帝以降の皇帝たちはよく肝に銘じていたのだろう。
  先帝は小麦を無料配布し,コロセウムでの百日間にわたる剣闘試合を催すなど,文字通り「パンとサーカス」の日々を演出した。ハドリアヌスもまた大衆の人気をえるための努力を惜しまず,大規模な建築事業をおこすなど華やかなエピソードに事欠かないが,しかし彼の真に偉大な点は,戦費の圧縮を柱として,帝国の経済的安定をはかったことにある。彼が道路と地方の拠点整備に腐心したのも,限られた兵力を効率的に運用せんがための方策にほかならない。「ハドリアヌスの長城」はその象徴的な存在であり,また二度にわたる大規模な視察巡行も,国境地帯の安定化のためにこそおこなわれた。また,これまで皇帝たちが出していた告示のたぐいをまとめたものが,ユスティニアヌス法典ができるまで一種の帝国法として存続したことも,ハドリアヌスの多岐にわたる才能をよくあらわしている。
  ウェヌスとローマという二人の女神が背中合わせに座していた,ハドリアヌスによる神殿は,今日一部の遺構を残すのみであるが,かつて帝国最大の規模を誇ったその威容を想像するには充分である。なにしろ我々には,パンテオンや彼自身のための墓廟(カステル・サンタンジェロ)など,建築事業家としてのハドリアヌスのスケールの大きさをしのばせるものが多くある。そして大巡行の成果でもあるヴィッラ・アドリアーナの「創造的」再現建造物群の数々に,我々は彼の想像力の豊かさとロマンティシズムを見るのだ。
  今後は,充分に議論されたとはいいがたいミトラ教とハドリアヌス帝との関係,およびマルクス・アウレリウス帝時代に顕著となる帝国の治安悪化と経済的混迷が,どの程度ハドリアヌスら先帝たちの時代に起因していたのかといった問題が明らかになることを期待したい。







イフリーキアの伝統

深見 奈緒子



  2012年8月,チュニジアのイスラーム建築調査に赴いた。チュニス,カイラワーン,スファックス,マフディーヤ,モナスティール,スースからの報告である。
  遺構が少ない古い時代,建築史のパズルを解こうにも,数ピースしか残らない。こんな状況で,全体像を見いだすことは不可能に近い。ただ,本で学ぶだけではなく,現地でその実態に触れると,パズルのピース数は倍増,いや俯瞰図に近いものが見えそうになる。
  イスラームが支配した地中海周辺の建築は,東岸の大シリアとエジプト,北アフリカとスペイン,少し時代が下ってアナトリアと東ヨーロッパという大きく三つに括られる。しかし,今回の現地調査を通して,チュニジアのイスラーム建築は,モロッコとスペインの建築とは趣が違うこと,いわばイフリーキア(北アフリカ中西部)の伝統を実感した。
  天井架構に偏執的な思い入れを抱く私にとって,9世紀にカイラワーンの大モスクの多柱室に構築された二つのドームは画期の象徴だ。イスラーム以前のドーム架構は,地中海世界にはハギア・ソフィアのような技法があり,ペルシア世界にはスクインチという技法があった。カイラワーンのドームは東方にあるスクインチを採用する。しかも同時代のミフラーブにラスター・タイルが貼られ,バグダードの近郊で焼かれたタイルが,はるばる運ばれたといわれる。アグラブ朝のラッカダ宮殿から同様なタイルが発掘されたことは,現地でラスター風のタイルが焼かれたことを物語る。9世紀,シチリアから南イタリアまで版図をのばしたアグラブ朝は大きく東方と関係し,渡来した技法や様式を習得していった。
  チュニジアに現存するイスラーム建築の中で,最も古い実例は,8世紀後半のモナスティールとスースのリバートである。リバートとは,コーランでは軍馬をつなぎとめる場や騎馬隊を意味しているという。二つのリバートは,アラブ・イスラーム軍が地中海沿いに北アフリカを進行した際に築いた砦であった。堅固な城壁や望楼,前線に従事する人々が暮らす部屋に加えて,礼拝の場としてのモスクを備える。
  モナスティールのリバートは増改築が繰り返されたが,スースの方は,建立された時代の様相を伝える。スースのリバートの入口の上に,矢狭間のある直径2メートルあまりの小ドームがあり,そのドームには,四隅に45度方向にアーチを架けたスクインチ技法を使う。と

はいえ,隅のアーチがかなり大きく,技法としては未成熟だ。それから,石造望楼が円形断面である点も興味深い。一般に10世紀以前,モスクの塔(ミナレット)は正方形断面である。東からの人の移動とともに新たな技法の到来は,アグラブ朝以前の8世紀に遡る。
  おそらく8世紀から9世紀のイフリーキアは,モロッコやスペインより,かなり東方からの影響が大きく,その様相は,むしろトゥールーン朝のエジプトと近いものがあっただろう。加えて,この東からのスクインチ技法は,アグラブ朝に取ってかわったファーティマ朝はもちろんのこと,ズィール朝のハンマームであったとされるスースの遺構をはじめ,オスマン朝治下に引き継がれ,植民地時代フランス統治下に造られた建築まで採用される。それは,ペルシアのスクインチとはひと味違うイフリーキアのスクインチ技法となる。
  一方,タイルに目をやれば,アルハンブラに代表される14世紀にはスペインやモロッコで腰壁にモザイク・タイルが流行するのに比べ,イフリーキアでは,アグラブ朝以降ラスター・タイルの伝統は途絶え,600有余年後のオスマン朝期に,白地に青,緑,黄の絵付けタイルが盛んに造られるようになり,現代に至る。その引き金となったともいえるオスマン朝中心地から齎されたイズニク・タイルと,ラッカダ博物館で出会った。そこにはチュニジアには稀な「赤トマト」が残っていた。
  この調査を通じ,二つのことを学んだ。ひとつは,北アフリカとスペインという一体的な見かたでは見えない,独自のいわゆるイフリーキアの伝統が形成され,それには東のアッバース朝の影響が大きかった点である。もうひとつは,同じ時代に入ってきた新たな技術でも,全てが咀嚼され根付いていくわけではない点である。こうした新様式や新技法の取入れ,そしてその消化,土着要素といりまじったその土地特有の折衷という段階まで,文化変容の鍵を握っていたのは何だったのだろう。こうした問題の仮説を見いだすのは建築史の醍醐味だ。今後も,そのときめきを求め現地調査から,いままで見えなかったパズルのピースを探したい。
  本稿は,JSPS 科学研究費基盤研究 B 「モノの世界からみた中世イスラームの女性〜ガラス器と陶器を中心に」(代表:真道洋子) 23320035 の助成を受け,2012年8月のチュニジア調査に基づくものである。







シニョレッリとエコロジーの夏

尾形 希和子



  2012年4月から8月にかけてルカ・シニョレッリ展がウンブリアの三都市で開催された。意外にもイタリアでは1953年以来実に59年振りである。論議を呼んだその展覧会以降長く画家は正当な評価を受けてこなかったが,近年主に英米の研究者による研究が進み,ナポレオン時代にマルケ州から流出した美術品の一つ,アルチェヴィア祭壇画が修復後2008年に里帰り公開され,シニョレッリの重要性が再認識されるようになっていた。
  本回顧展はシニョレッリ作品66点を含む100以上の作品で構成される大規模なものとなった。国外に流出した作品が一堂に会すのはもちろん,修復後本展を機に公開されたオルヴィエトのアルベーリ図書館のフレスコ画のような作品をオリジナルの場所で見ることができるのが醍醐味である。さらに,シニョレッリ研究者でなければ足を運ばないようなモッラのオラトリオ・ディ・サン・クレシェンティーノ,ウンベルティデのサンタ・クローチェ教会美術館などの関連会場も,コースの一環としてカルネの中に割引チケットが綴られていた。また画家の生歿地コルトーナとアレッツォを結ぶヴァル・ディ・キアナの各地で並行して開かれた一連の展覧会「アレッツォの地におけるルネサンス」でもシニョレッリ作品を見ることができた。ウンブリア,ヴァル・ディ・キアナの両企画もそうだが,最近ではこうした「周遊型」とでも呼べるような展覧会形式がイタリアでも流行っているようだ。ある人はこれを「村起こし」と呼んだが,なるほど,日本の越後妻有(えちごつまり)トリエンナーレや瀬戸内海の島々の美術館のように地域振興や観光効果も期待できるのだろう。ウンブリア州は昨夏外国人観光客数がかなり伸びていた。この展覧会も功を奏したかもしれない。
  今回は,図書館が軒並み閉まるので例年は避ける8月のイタリア行きとなった。お蔭で本展の会期に間に合ったわけだが,一方でこの夏の異常な暑さに遭遇した。昨夏イタリア半島はアフリカからの熱波に繰り返し見舞われており,ローマ出発後,オルヴィエト,アレッツォ,サン・セポルクロ,チッタ・ディ・カステッロと回り,ペルージャ入りする20日過ぎに次の熱波が戻ってきた。沖縄の暑さに慣れているとはいえ,クーラー無しでは体温調節できない世代の同行の学生は熱中症で一日寝込んでしまった。イタリア人たちもこんな暑さは生まれて初めてだとぼやいていたが,統計上でも1800年以来二番目に暑い夏だったという。日中太陽が照りつけてもいつもなら日が落ちれば上着が必要になるぐらい肌寒くなるのだが,昨夏に限っては夕方7時を回っても30度

近くある熱帯夜がウンブリアでも続いた。
  越後妻有も車無しでは回るのが困難と聞くが,イタリアも小都市間の移動は公共機関では途方も無く時間がかかるため,ペルージャ泊の三日間は旧知の友人に車を出してもらった。インターネットで予約したホテルになかったクーラーが,彼の車には付いていて助かった。10年前のイタリアならクーラーなどほとんど目にすることも,また実際必要もなかったのだが,今や地球温暖化により砂漠化が進んでいるという。
  車で緑のウンブリアを回りながら,友人との話は異例の暑さから環境・エネルギー問題へと広がる。平原を埋め尽くすソーラーパネル群に「再生可能エネルギーの開発が進まない日本も見習わねば」と感心する私だが「皆楽をしたいから使える農地を簡単に手放すのさ」と,彼は批判的である。彼自身,身を二つに折るようにして育てた野菜を毎日市場で売る親の生業を継がなかったのだが。電気自動車に話が及ぶと,導入され始めたが,頻繁にチャージの必要があるため,車で長距離移動するイタリア人の生活にはなじみにくいとのことだ。
  カンペッロの彼の家でトリュフのブルスケッタや手打ち麺ストランゴッツィをご馳走になりながら,向かいの山で燃え続ける山火事に眼をやる。小さなヘリコプターが時折やってきては水(とおそらく消火剤)を撒いているが,何とも心もとない。何日も断続的にこうした消火活動が続くが一向に消えないそうだ。軍所有の大量の水を運べる輸送用ヘリは,それを操縦できる兵士が海外に派兵されているため,宝の持ち腐れだという。沖縄に強行配備されてしまったオスプレイを思い出した。国民の安全よりも戦争を優先する国家のあり方は日本もイタリアも変わりがない。
  毎夏高温と乾燥のイタリア半島では山火事が絶えないが,昨夏は南部を中心にさらに多発し,ローマではモンテ・マリオまで燃えて気温上昇に拍車をかけていた。そもそも降雨量が少ない年だった上,ウンブリアでは消火活動のため水不足になり近々給水制限があるかもしれないと言っていたが,その後どうなっただろうか。特産ワインのサグランティーノの畑に火が迫った時は,いの一番に消火されたらしいが。
  ペルージャの展覧会は再生可能な材料を使うなどエコロジーにも配慮したものだった。シニョレッリに導かれたこの夏の旅は,3.11 以降日本が直面する環境とエネルギーの問題をイタリアでも再考させられる旅になった。








表紙説明 地中海世界と動物 6


カイロ市門にみられる牡牛の図像/山田 幸正


  「偶像」を否定するイスラームにおいては,モスクなどの宗教的公共建築に,動物などの具象的な装飾モチーフはほとんど使われることはない。したがって,地中海世界に遺存するイスラーム建築のなかで「動物」を探すことは至難なことといえよう。それでも,限られた知識を引っ掻き回した結果,いくつか思い当たった。その一つが中世エジプト・カイロに建設された市門である。
  10世紀初頭,チュニジアに建国したファーティマ朝は,西暦969年,エジプトに進出した。ナイル河の東岸,それまでの市街地の北方に,その政治的拠点たる新都を建設し,それを「アル・カーヒラ(勝利者)」と命名した。これが現在,イスラミック・カイロと呼ばれている旧市街の中心部である。当初1辺1.2 kmほどの矩形を区画していた泥レンガによる壁や門は,1世紀余りで荒廃してしまい,1087年から1092年の間に北側だけをやや拡張する形で,強固な石造のものに改められた。現在もこの時建設された三つの市門,ナスル門,フトゥーフ門,ズワイラ門がそのままに遺っている。ハーキム・モスク(1002/3年)を挟んでナスル門の西約150 m,市域北辺のほぼ中央にあるフトゥーフ門は,宮殿などのたつ中枢部に通じる街路に開き,しばしば遠征軍の凱旋行進が行われ,記念門的な性格を持っていたと考えられる。そのため,両脇に一対の半円形の塔が突出し,その壁面には半円アーチと矩形のくぼみ,2本の縄状モールディングが施されている。近づいてもっと詳しくみると,入口アーチ上部には一連の菱形文様,表面に幾何学的な文様が刻まれた腕木が並んでいる。さらに,そのう

ち2本(表紙上手6本の両端)の腕木先端に何やら動物の頭が象られている。はじめ,「牡羊」であると思った。ファーティマ朝第4代カリフ・ムイッズは,占星術の知識から牡羊座(白羊宮)において木星と土星が重なる967年にエジプト征服を決意し,準備を始めたと言われ,また羊は占星学的に火星,つまり勝利者カーヒラに関係づけられる。しかし,クレスウェルはこれらの図像を「牡牛」としている。ちなみに,牡牛座(金牛宮)は金星で,女性に関係づけられ,まったく正反対となる。クローズアップされた写真をみると,大きく丸まった角の間に大きな耳が描かれ,牛のようにもみえる。いずれにしても,ごく小さくてよほど注意しないと気づかないような装飾であるが,この門を建設した人物のなにがしかの意図が込められたものであることにはちがいなかろう。
  同じような牡牛の図像は,トルコ東部のディヤルバクル大モスク(1092年)の東西柱廊の柱頭上部6か所にみることができる。これらの柱廊部分は1124/5年,1163/4年といずれもフトゥーフ門より時代がやや下るが,古い部材が再利用された可能性をクレスウェルは指摘している。この大モスクには牡牛の頭のほか,古代西アジア以来の牛を襲う獅子の図像が東側入口のアーチのスパンドレルなどに彫刻されている。また,トルコ中部のカイセリにある墓塔ドゥネル・キュンベトの壁面には,多くの幾何学文や植物文の浮彫のなかに,いくつか動物らしい図像がみられる。入口上部には,頭部が人で翼を持った豹が2頭向き合い,その間にかなり傷んでいるが,双頭の鷲が描かれている。