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学会からのお知らせ


* 「地中海学会ヘレンド賞」候補者募集

  地中海学会では第18回「地中海学会ヘレンド賞」(第17回受賞者:桑木野幸司氏)の候補者を下記の通り募集します。授賞式は第37回大会において行なう予定です。応募を希望される方は申請用紙を事務局へご請求ください。

地中海学会ヘレンド賞
一,地中海学会は,その事業の一つとして「地中海学会ヘレンド賞」を設ける。
二,本賞は奨励賞としての性格をもつものとする。本賞は,原則として会員を対象とする。
三,本賞の受賞者は,常任委員会が決定する。常任委員会は本賞の候補者を公募し,その業績審査に必要な選考小委員会を設け,その審議をうけて受賞者を決定する。

募集要項
自薦他薦を問わない。
受付期間:2013年1月8日(火)〜2月14日(木)
応募用紙:学会規定の用紙を使用する。

* 第37回地中海学会大会

  第37回地中海学会大会を2013年6月15日,16日(土,日)の二日間,同志社大学寒梅館(京都市上京区烏丸通上立売下ル御所八幡町103)において開催します。プログラムは決まり次第,お知らせします。

大会研究発表募集
  本大会の研究発表を募集します。発表を希望する方は2月14日(木)までに発表概要(1,000字以内)を添えて事務局へお申し込み下さい。発表時間は質疑応答を含めて一人30分の予定です。採用は常任委員会における審査の上で決定します。

* 2月研究会

  下記の通り研究会を開催します。発表概要は355号をご参照下さい。

テーマ:中世後期の西地中海域で展開された戦争と平和──イベリア半島を中心として
発表者:黒田 祐我氏
日 時:2月23日(土)午後2時より

会 場:國學院大学120周年記念1号館4階1403教室(最寄り駅「渋谷」「表参道」 )
参加費:会員は無料,一般は500円

* 会費口座引落について

  会費の口座引落にご協力をお願いします(2013年度から適用します)。
会費口座引落:会員各自の金融機関より「口座引落」を実施しております。今年度手続きをされていない方,今年度入会された方には「口座振替依頼書」を月報354号に同封してお送り致しました。手続きの締め切りは2月22日(金)です。ご協力をお願い致します。なお依頼書の3枚目(黒)は,会員ご本人の控えとなっています。事務局へは,1枚目と2枚目(緑,青)をお送り下さい。
  すでに自動引落の登録をされている方で,引落用の口座を変更ご希望の方は,新たに手続きが必要となります。用紙を事務局へご請求下さい。

* 会費納入のお願い

  今年度会費を未納の方には振込用紙を354号に同封してお送り致しました。至急お振込み下さいますようお願いします。
  ご不明のある方はお手数ですが,事務局までご連絡下さい。振込時の控えをもって領収証に代えさせていただいております。学会発行の領収証をご希望の方は,事務局へお申し出下さい。

会 費:正会員 1万3千円/ 学生会員 6千円
振込先:口座名「地中海学会」
    郵便振替 00160-0-77515
    みずほ銀行九段支店 普通 957742
    三井住友銀行麹町支店 普通 216313








研究会要旨

絵画的比喩を読む

──ニコラ・プッサン《エリエゼルとリベカ》(1648年,ルーヴル美術館)──

望月 典子

10月27日/國學院大学



  ルーヴル美術館所蔵の《エリエゼルとリベカ》は,ローマで活躍していたフランス人画家ニコラ・プッサン(1594〜1665年)の代表作のひとつであり,古代彫刻を思わせる女性達の多様な身ぶりと表情,明晰な空間,そして明るい色彩を特徴とする。本発表では,同時代資料を基に,この作品との関連ではあまり強調されてこなかった注文主との関係に焦点をあて,プッサンが様々な造形要素を画面上に巧みに配置して,いかに多層的なイメージの読み取りを可能にしたのかを分析した。
  注文主 J. ポワンテルはパリ在住の絹卸売商人であった。1645年から47年までローマに滞在し,プッサンと親交を深めたことが知られている。帰国した翌年,彼はマザラン枢機卿所蔵のグイド・レーニ作《マリアの教育》(エルミタージュ美術館)に比肩する「様々な女性美」を描いたタブローを画家に要望した。プッサンがそれに応えて制作したのが,旧約聖書を題材とする本作品である。
  発表では,先行研究を踏まえた上で,(1) 駱駝の不在 (2) 理想美の追求 (3) 神学上の意味の次元の存在(予型論) (4) 石柱と球体の表象 (5) 理論と実践,という五つの観点から,特権的な観者である注文主を念頭に置いた上で画家が施した「絵画的比喩」について考察した。
  この作品は後年,王立絵画彫刻アカデミーの「講演会コンフエランス」(1668年)で取り上げられたが,その際,聖書に忠実なら不可欠な駱駝が描かれていないという批判が起こった。プッサンは同主題を他に2度扱っており,そこでは駱駝を登場させていることから,本作品で意図的に排除したことは確実である。この点については,プッサンが旧約聖書に加えヨセフスの『ユダヤ古代誌』を参照した可能性を指摘できる。聖書では暗示されるに過ぎない井戸端の大勢の女性達が,ヨセフスでは具体的に描写され,主人公達とのやりとりと,リベカの美徳との比較がされているからである。そしてこのヨセフスの該当箇所には駱駝への言及がない。画家は敢えて駱駝を省くことで,観者にヨセフスの著作を想起させ,物語の連想の幅を広げているのだろう。また,財産目録によると,ポワンテルはデッラ・ポルタの人相学の著作を所有しており,絵画における人物の性格づけや表情に関心があったらしい。画家はそれに応えるべく,「様々な女性美」を表すと同時に感情表現を描き分けるのに相応しい典拠と場面を用いたと言える。

  その女性美を描くためにプッサンは,「講演会」で批判が出る程まで古代美術に依拠したが,それはエリエゼルによるリベカの「選択」という主題と重ねながら,自然の最も優れたものを選別した古代美術の,模範としての役割をパリの画家達や愛好家達に示そうとしたからに他ならない。同時に,ローマ滞在中に見た古代作品をポワンテルに楽しく思い出させる効果もあったであろう。
  プッサンの作品では,リベカは明らかに聖母マリアのイメージと結び付いており,先行研究では予型論的意味の存在が主張されてきたが,その具体的な典拠は確定していない。今回,画家が参照し得たテキストとして,ルイ・リシュオムの『霊的絵画』(1611年)を新たに提示した。この著作は,ローマのイエズス会修練院にあった絵画作品と庭園の記述からなり,庭園の泉のエクフラシスと共に,リベカが受胎告知のマリアの予型であることが明確に記されている。ポワンテルは遺言書などから信心深い人物であったと推測され,そうした神学上の意味の連想は彼に相応しいものである。
  最後に,一際目立つモティーフである井戸の石柱とその上に置かれた球体について検討した。それは,既に指摘されている「運命」と「美徳」の対比であると同時に,A. アルチャーティの「技芸が自然を助ける」というエンブレムと,そこから派生した球体と立方体の組合せの表象であることを明らかにした。この寓意内容の解説は,ポワンテルが所蔵していた V. カルターリの神話解釈書にも見出すことができる。この寓意は,絵画制作とは移りゆく自然の観察に基づくが,確固たる基礎である幾何学(遠近法)や光学理論などの学芸を十分知悉している必要がある,というプッサンの信念,彼の絵画理論への関心と結び付く。実際,本作品にはイタリアの画家 M. ザッコリーニの光と影及び色彩の理論に基づく表現がなされている。この作品の翌年に制作されたポワンテルのための《自画像》(1649年,ベルリン美術館)には,書物を持つプッサンの姿が描かれているが,その書物の背には,ザッコリーニの理論書を彷彿させる「光と色彩」という文字が,プッサンの存命中に補筆されていたことが知られている。
 美術愛好家ポワンテルは,画家の作品を多数所有し,「画家にして哲学者パントル・フイロゾフ」というプッサンのイメージ形成に寄与した人物であった。こうした観者だからこそ,最大の効果のある仕掛けを画家は本作品に施したのである。







秋期連続講演会 「芸術家と地中海都市 II」 講演要旨

フィリッポ・リッピとプラート

金原 由紀子



  初期ルネサンスのフィレンツェの画家フィリッポ・リッピは,流麗な線と抒情的な画風で知られる。ヴァザーリは,リッピが修道士にあるまじき色好みで奔放な人物であり,修道女ルクレツィア・ブーティと駆け落ちして子どもをもうけたという逸話を書き記した。この駆け落ちのエピソードは,19世紀のロマン主義の時代にイギリスやイタリアの文学者や芸術家に好んで題材として取り上げられた。そのため,リッピの破戒僧としてのイメージは根強く,憂いをおびた少女のような聖母マリア像にルクレツィアの面影を読み取ろうとする風潮も残る。
  ルクレツィアが1456年まで過ごしたサンタ・マルゲリータ女子修道院は,フィレンツェの北西 15 km に位置するプラートの町にあった。フィリッポ・リッピはここに1452〜66年の15年間にわたり滞在し,円熟期の代表作となる壁画を制作したのである。現在のプラートは観光客もまばらな小都市だが,14世紀半ばまではれっきとした都市国家であった。ただ,トスカーナの他の都市とは異なり,古代エトルリアやローマに起源を持たず,中世に生まれた二つの居住地が11世紀後半に合併して誕生したという珍しい町だった。そのため,古代に起源をもつフィレンツェやシエナにはない,大きなコンプレックスを抱えていた。それは,司教座聖堂(大聖堂)を持たないこと,「都市 città」の称号を持たないこと,古代にさかのぼる由緒ある歴史と伝統を持たないことである。古代末期からキリスト教布教の重要な拠点であった都市は司教座聖堂をもち,それ故に「都市 città」の称号を名乗ることができた。だが,中世に誕生したプラートは,司教座聖堂を持たないが故に「町 terra」としか名乗れなかった。こうした問題を解消してくれたのが,プラートの高名な聖遺物「聖帯(サクラ・チントラ)」である。
  「聖帯」とは,聖母マリアが生涯の最後に天に昇った時に,キリストの弟子のトマスに与えたと伝えられる腰帯である。この帯の伝承は5〜6世紀の東方のテキストに既に記されていたが,プラートではある市民がこの帯を12世紀にエルサレムからプラートに持ち帰り,サント・ステファノ聖堂に寄進したと伝えられている。「聖帯」の崇敬はプラートで13世紀末に盛んになり,それ以降,とりわけ《聖母被昇天と使徒トマスへの聖帯の授与》の主題の中で聖帯が頻繁に造形化された。14世紀には,プラートの聖帯の伝説そのものを絵画化した祭壇

画と壁画が同聖堂のために制作されている。
  このような文化的独自性をもつプラートに,フィリッポ・リッピは1452〜66年に滞在した。これは,サント・ステファノ聖堂の主要礼拝堂をフレスコ画で装飾するという仕事のためである。フィレンツェ共和国に併合されたプラートで,資金難にもかかわらずこれだけの大事業が実施されたのは,同聖堂を司教座聖堂に昇格させたいという長年の宿願が背景にあった。この大規模な壁画は,洗礼者ヨハネと聖ステファノの誕生から殉教までの生涯を描いている。遠近法を駆使して奥行きの深い室内空間に同時代人の肖像を描き込んでいるかと思えば,奥行きの浅い岩山の風景の中に同じ聖人を4度繰り返して描くことで年月の経過を表現するなど,近代的あるいは擬古的な物語叙述の手法を取り混ぜて駆使している点は注目に値する。また,リッピが下絵を提供したと考えられるステンドグラスの最上段には,《聖母被昇天と使徒トマスへの聖帯の授与》が表わされている。そこで聖母が手にする帯はプラートの聖帯の色と形態を反映して,両端が房に分かれた緑色の帯として表現されている。このステンドグラスとフレスコ画を礼拝堂全体の装飾として見ると,プラートの3人の守護聖人を表わしており,礼拝堂正面の最も高い位置に《聖母被昇天と使徒トマスへの聖帯の授与》を配置することで,聖母マリアと聖帯の優位を視覚的に表わしていると考えることができるだろう。
  フィリッポ・リッピはこの壁画を制作するかたわらで,プラートの慈善団体や修道院からも祭壇画や板絵の注文を受けていた。そのうち,サンタ・マルゲリータ女子修道院長の依頼で1456年に着手し,長い中断を経て,1466年頃に助手が完成させた祭壇画《聖母被昇天と使徒トマスへの聖帯の授与と四聖人》は,保存状態があまり良くない上に未完成と思われる部分もあるが,リッピの魅力を充分に伝える作品である。ルクレツィア・ブーティのいた修道院のための作品であることから,左端に立つ聖女マルゲリータの清純ではかなげな容貌にルクレツィアの面影を読み取ろうとする者は多い。だが,ここでは何よりもまず,リッピ自身の手になるその洗練された流麗な描線をこそ堪能すべきだろう。こうした祭壇画や板絵は今もプラート市立美術館や大聖堂附属美術館で鑑賞することができる。プラートは,フィリッポ・リッピの作品を最も多く所蔵する町なのである。







秋期連続講演会 「芸術家と地中海都市 II」 講演要旨

ヴィラ・メディチとフランスの画家たち

──ローマのフランス・アカデミーをめぐって──

三浦 篤



  19世紀フランスの画家たちにとって永遠の都ローマは特別な都市であった。ローマが古典美術の宝庫として規範的な地位を保ち続けたからというだけではない。フランス美術アカデミーの別館がローマに存在し,17世紀以来の美術制度であるローマ賞コンクールによる留学生たちの寄宿舎となっていたこともまた大きな理由であった。ローマに留学したフランスの画家たちは,イタリアの古典美術を学びながら,代表的な作品を模写して本国に送る使命を果たしていたのである。
  この「ローマのフランス・アカデミー」の本拠地が,ナポレオンの命によりヴィラ・メディチに移転したのは1803年のことである。それ以降,19世紀フランス美術界においては,ヴィラ・メディチこそがアカデミー派の絵画伝統を支える象徴的なトポスのひとつとなった。そればかりか,ローマに滞在したフランス人芸術家たちの交流拠点にもなっていたことを忘れてはならない。2010年秋にヴィラ・メディチでアカデミスム芸術に関するシンポジウムが開催され私も参加したが,改修されたかつての寄宿舎にそのとき泊まることができたのは貴重な経験であった。
  さて,19世紀フランスのアカデミックな美術制度の根幹を成していたのは,パリ国立美術学校,ローマ賞コンクール,サロン(官展)であり,フランス学士院の美術アカデミーが全体を統括していた。中でも,ローマ賞コンクールは新人画家の登竜門であり,グランプリを獲得して国費でローマへ5年間留学するのは,若い画家たちにとって憧れの的であった。ただし,裸体デッサンと歴史画制作の実力を試される厳しい試験を突破して留学できるのは,歴史画部門で原則として毎年1名というまことに狭き門でもあった。その栄光に浴した者は,ローマのフランス・アカデミー館長の監督の下,ヴィラ・メディチを宿舎として研鑽に励むことになり,毎年「ローマ作品」(自作や模写)を本国に送る義務もあった。
  ヴィラ・メディチのフランス人留学生の中で興味深いのは,アングルの場合であろう。アングルは1801年にローマ賞を受賞するが,財政的な理由で留学を待たされ,出発したのは1806年であった。ローマには1820年まで滞在し(1810年からは私費),その後1820年から24年までフィレンツェでイタリア滞在を続けた。フランス本国で「ローマ作品」の評判があまり良くなかったアングルは,イタリアを属国化していたナポレオン帝政の下でローマに居続けることを選び,ナポレオン関連の

作品や肖像画の注文を得て生活していた。その後,王政復古期に状況が変わり,新しく台頭したロマン派に対抗する新古典派の旗手として帰国する運びとなった。ところが,ラファエロ信奉者のアングルであったが,サロンに出品する作品はその独特の様式化が批判され続けるという,不本意な日々を送ることとなる。1835年から41年まで,今度はローマのフランス・アカデミー館長として再びヴィラ・メディチに滞在できたのは幸いであった。総計24年のイタリア生活がアングルに与えた影響はきわめて大きい。
  19世紀フランスには,私費でイタリアに留学する画家たちもたくさんいた。三度イタリアに旅行したコローもそうである。最初は1825年から28年にローマに滞在し,古典古代の美術を学習するとともに,ヴィラ・メディチ近辺やフォロ・ロマーノを始め都市風景を描くことで風景画家としての基礎を作った。コローがヴィラ・メディチ前の噴水をローマの景色を背景に描いたことから,それが「コローの噴水」と呼ばれるようになったのはよく知られている。その後,コローは1834年にヴォルテッラからヴェネツィアへ旅してイタリアの風土,芸術への回帰を果たし,1843年には再びローマを訪れ,近郊の景勝地ヴィラ・デステを主題に風景画を制作した。空間の広がり,光の効果,微妙な陰影など成熟した様式が見られる。
  ヴィラ・メディチを舞台にした芸術家相互の交流もまた見逃せない側面である。同じローマ賞の寄宿生同士で分野をまたがって交友があったほか(画家,彫刻家,建築家,版画家に加えて作曲家もいた),ローマを訪れた他の公費・私費留学生たちと知り合うこともあり得た。ローマ賞受賞者のガルニエ(1849-53,建築)とボードリー(1851-55,絵画)のつながりが,帰国後のパリ・オペラ座再建事業(建築と壁画)にも反映していることは間違いないであろう。あるいは,ヴィラ・メディチで行われた夜のアカデミーを通して,国費のドローネー(1857-60)と,私費のモロー(1857-59)やドガ(1856-59)が,絵画傾向の違いを超えて交わりを結んだことも興味深い。
  最後に,日本との関わりで付け加えておくならば,1900年のパリ万国博覧会のときにパリに派遣された黒田清輝は,イタリアにも足を延ばし,1901年にローマのヴィラ・メディチを訪問している。その体験が東京美術学校に及ぼした影響について現在調査中である。







ヨーロッパとイスラームの邂逅

──過去と現在──

黒田 祐我



  2011年の6月末,筆者は国際中世学会に参加するためにスペインはバルセローナ近郊の中都市リェイダに滞在した。駅から町に出たとたんに気づいたのは,トランス・サハラの人々の多さであった。彼らは中世の城砦跡のふもとの街区に集住し,昼間からベンチに寝そべり,夜にその街区は彼らであふれていた。本当に私はスペインにやってきたのかと疑問を抱くほどに,彼らは自身の文化と言語を用い,ほとんどスペイン人コミュニティにとけこもうとはしていなかったようにみえ,異様な光景であったことを鮮明に記憶している。
  現在 EU 圏では,合法・非合法を問わず,ムスリム移民との間で大きな軋轢が生じている。テレビでは連日,彼らの引き起こす宗教的問題,スペイン人の彼らに対する迫害と差別,そして非合法な入国の実態を取り上げている。これらの背景に,宗教や文化の違いによって生じる 9・11 の同時多発テロ以後の恐怖感がにじみ出ている。
  筆者は中世スペインにおける異教徒間交渉を専門としている。中世スペインは周知のとおり,キリスト教徒,イスラーム教徒(ムスリム)そしてユダヤ人という,地中海文明圏で誕生した三大啓示宗教を奉ずる人々が行き交う坩堝であった。研究者や知識人の中には,この坩堝に宗教的な寛容を見出して,将来的な「文明の衝突」に備えるとともに,宗教多元主義の実現への指針を中世の共存状態に求めている。他方で,中世に展開された十字軍運動や異端審問,ユダヤ人迫害といった当時の西欧一般にみられた宗教的に不寛容な態度を強調する者も多い。
  しかし,当時のスペインや地中海文明圏で実際に記述された史料を読み解いていくと,上記のような「寛容か不寛容か」という二者択一的な図式自体がいかに不毛であるかを思い知らされる。当時の地中海文明は,宗教を越えてヒトやモノ,情報が行き交う場であったが,スペインもここに属していた。しかしこのような交流は,宗教や文化的な差異を度外視したうえで為されていたわけではない。スペインをはじめとする地中海圏では,それぞれの宗教的なアイデンティティを保ち,異教徒に対する不信と猜疑心を抱きつつ交流が展開されていたからである。この圏内で,西欧すなわちラテン・キリスト教世界,ビザンツ世界,イスラーム世界という,いわば「サ

ブ文明世界」が重なり合い,モザイク状に自らの独自性を主張し続けていたのであった。
  同じ中世地中海文明をゆるやかに構成するこれらの「サブ文明世界」の境界域は,まさに寛容と不寛容が最も過激な形で常に並存していた。そこでの戦争行為は対異教徒のそれとなるため,十字軍あるいはジハードという聖戦となる。「国家」同士が休戦関係にあろうとも小規模な略奪は絶えることがなく,耳削ぎや首級を取り合う残酷な争いが常態化していた。しかし興味深いことに,この境界域では,休戦関係が保障されていなかろうと行商人が往来しミクロな外交交渉がなされ,人々は文明を越えて頻繁に行き来していた。最も越えがたい壁とされる信仰の面ですら,キリスト教徒からムスリムへ,あるいは逆方向に改宗することが慣習化していたのである。寛容かつ不寛容である文明の境界域の民は,戦争を強く望みつつも,戦争行為が横行するがゆえに現実的な平和を最も希求していたのではないか。そしてその「妥協点」は,境の向こう側との共生という形となって現れていった。折り合うことが不可能とされる異教徒と日頃対面する彼らにとっての至上命題とは,生存そのものとなる。これは逆に,生存自体が脅かされない限り,信仰の相違はさしたる問題とはならなかったことを意味すると考えている。
  さて,再び現代世界に目を転じてみよう。これからは,政治的な国家単位の境界が曖昧となり,グローバルに人々と彼らが保持する文化や宗教が混交する世界となっていくのであろう。いわば,全世界が境界域になってしまうといえ,文化交流が深まるとともに,軋轢も深刻化する世界が我々に待ち受けていると想定される。
  牧歌的な友好関係,あるいは逆に不倶戴天の敵対関係を中世地中海文明に見出すことからは,将来への具体的な示唆を得ることはできない。別の宗教に畏怖し,彼らに嫌悪感を持つことは,おそらく自然な人間の感情ではないか。それでも,彼らと接触し続けることから,同じ人間であるとの確信が得られ,次第に交流が深まっていく。恐怖感に押しつぶされながらも,相手を抹殺しようとせずに受容していく中世スペインの境界域民の歴史は,異文化・異文明と接する困難さと,そこに含まれる大きな可能性を同時に我々に語りかけてくれている。







ロドス島のパチャの味

澤井 一彰



  2012年の夏,約15年ぶりにロドス島を訪れる機会があった。以前に,やはり10年ぶりにアテネを訪問した際にはユーロ導入後の首都の発展と,その変貌ぶりに驚かされたが,その時とはうってかわって,今回のロドス島の印象は15年前とほとんど変わらないものだった。中世から残る見事な城壁,石畳がつづく複雑に入り組んだ街路,そしてギリシア有数の観光地であるにもかかわらず,にこやかで親切な地元の人々,何もかもが以前のままのように思えた。
  ロドス島は,19世紀前半にギリシアが独立した後も,1912年に至るまで長らくオスマン帝国の一部でありつづけた島である。また,1923年に行われたトルコ共和国とギリシア王国との間の住民交換に際しても,当時のロドス島はイタリアの軍事占領下に置かれていたために,トルコ系住民は強制的に移住させられることもなく,その一部は島に留まりつづけた。このため,ロドス島には現在も2,500〜3,000人のトルコ系住民が生活しているとされ,島の至る所に「トルコ的要素」の痕跡を確認することができる。島には今も,オスマン帝国時代にモスクであった建物が数多く残されており,また私が宿泊したホテルは,かつてオスマン帝国の高官の邸宅を改装したものだった。
  よく知られているように,オスマン帝国時代の長い共生の歴史の結果として,「トルコ料理」と「ギリシア料理」には共通点が多く,それが現在も多くの「起源論争」を巻き起こしている。たとえば,単純なところではトルコでの「トルコ・コーヒー」はギリシア国内では「ギリシア・コーヒー」となり,トルコでジャジュクという,キュウリとヨーグルトにニンニクで香りをつけた前菜は,ギリシアではザジキと呼ばれる。他にも,蜜に浸したパイであるバクラヴァにいたっては,両国の間で国際的なパテントの奪い合いになる騒ぎに発展した。
  この点,第三者であり,オスマン帝国の歴史を研究する私にとっては,名前は似ていても,各々の製法や味付け,あるいは大きさなどに微妙な違いがあって,それがご当地料理を味わうときの楽しみにもなるわけだが,当事者であるトルコ人やギリシア人の多くは,「こちらが元祖だ」,「いやこちらこそが本家だ」と必死になって争っているようにも見える。
  そうした料理のひとつにパチャがある。パチャは足,とくに踝より下の箇所を意味するペルシア語に起源をもち,羊や牛の足や頭部(ケッレ)を煮込んだスープであ

るため,ケッレ・パチャと呼ばれることもある。スープはそのままでも具が胃袋に変わるとイシュケンベと呼ばれ,こうした類似の名称や特徴をもつ臓物スープの広がりは,私が実食して確認しただけでも東はイラン(キャレ・パーチェ)から北はルーマニア(チョルバ・デ・ブルタ),西はセルビア(シュケンベ・チョルバ)やハンガリー(パッツァ),南はペロポネソス半島やギリシアの島々にまで及ぶ。もちろん実際には,かつてのオスマン帝国の領域を中心として,もっと広い地域に分布しているに違いない。
  オスマン帝国が厳格なイスラーム国家だったと考える方々には意外かもしれないが,パチャやイシュケンベは,飲酒の文化と深いつながりをもつ。日本におけるラーメンやお茶漬けのように,飲んだ後のシメとして一般に好まれ,そのため臓物スープ専門店の営業時間も深夜から早朝に及ぶ場合が多い。二日酔いの防止になるという説もあるようだが,肝心の効能の方は定かではない。むろん材料は臓物なので,独特の臭みがあり,それをニンニクやヴィネガー,場合によってはレモンなどで中和させて飲む。
  ロドス島の新鮮なアフタポット(タコ。トルコ語も同じ)やツィポウラ(タイ。トルコ語はチュプラ)を肴にギリシア産のワインをすっかり堪能して宿に帰った後で,トルコ留学の時の癖がぶり返したのか,件の臓物スープが無性に飲みたくなった。まぁここもオスマン文化の影響を受けているはずだと,フロント係にまず「胃袋スープが飲みたい」と言ってみたがどうにも通じない。それではと,「近くにパチャを飲ませる店はないですか?」と聞いたところ,しばらく考えていたが「え,「パツァス」のことですか? 旅行者が行くようなところではないですが,街に一軒だけあります」と手持ちの地図に印をつけてくれた。私が「今日はたくさん飲んだので,シメの一杯が欲しくなりまして」と呟くと,フロント係は「いやぁ,私はあの臭いがどうにも苦手でして」と答えた後に,あなたは「ギリシア人以上にギリシア人ですね」と言って笑った。ギリシア人を○○人に置き換えれば,似たような会話が,かつてオスマン帝国の領域であったあちこちの地域で交わされているに違いない。
  ちなみにロドス島で飲んだパチャならぬパツァスの味は,イスタンブルの居並ぶ名店に勝るとも劣らないほど美味だったということを最後に記して,スプーンならぬ筆を置くことにしたい。








表紙説明 地中海世界と動物 5


海の生物と古代ローマ人/島田 誠


  地中海を支配した古代ローマ人にとって,海の生物は身近な存在であった。古代ローマ時代の邸宅,別荘,浴場や集会場など様々な建造物の床や壁を飾っていたモザイク画やフレスコ画には,魚,貝や蛸,海豚などの海の生物を描いたものが数多く見出される。それらのモザイク画やフレスコ画は,古代ローマ人の海の生物への知識の豊富さを示している。本号の表紙に掲げた写真は,ペルシアのダレイオス3世に迫るアレクサンドロス大王を描いたモザイク画など華麗な装飾で知られるポンペイの「ファウノの家」で発見されたモザイク画である。このモザイク画は多くの海の生き物を描いていることから「海の動物相 fauna marina」と呼ばれ,現在はナポリ国立考古学博物館に所蔵されている。
  さて古代ローマの別荘,特に海沿いの別荘 villa maritima には海の生物を描いた装飾用の絵画のみならず,実際に魚を飼うための養魚池 piscina を備えているものが多数あった。共和政末期の政治家であり,多くの著作を残したキケロは,ローマ社会の有力者でもあった養魚池を備えた別荘の所有者を養魚池持ち piscinarius と呼んでいる(『アッティクス宛書簡集』第20書簡[1巻20]3節)。帝政前期の著作家大プリニウスの『博物誌』(9巻81節172項)によれば,養魚池持ちの一人であり,雄弁家としてキケロのライバルでもあったホルテンシウスは養魚池で飼っていたウツボを非常に愛していたため,ウツボが息を引き取ると涙を流したと信じられて

いたとされる。この種の養魚場に関して,帝政成立期アウグストゥス時代の非常にグロテスクな次の逸話を後3世紀の歴史家カッシウス・ディオ(『ローマ史』54巻23節)が伝えている。
  前15年にプーブリウス・ウェディウス・ポッリオという,解放奴隷の父を持つローマ騎士が亡くなった。ディオによれば,彼は何ら輝かしい業績を挙げることはなかったが,その贅沢さと冷酷さで名高かったと言う。このローマ騎士は,現在のナポリとポッツオーリの間のナポリ湾岸に豪奢な別荘を所有しており,そこで人を食べるように馴らした巨大なヤツメウナギを何匹も飼っており,死罪にしようと思った奴隷をヤツメウナギに投げ与えていたのである。あるとき,彼が初代皇帝アウグストゥスを迎えて饗宴を催した際に,一人の奴隷が高価なガラス製の杯を落として壊したため,ポッリオは皇帝の面前にもかかわらずその奴隷をヤツメウナギに投げ与えるように命じたと言う。奴隷が皇帝の膝にすがって命乞いをしたため,皇帝もそのような残酷な行為を止めるように説得したが,ポッリオは皇帝の声にすら耳を傾けなかった。そこで,皇帝はポッリオが所有する全ての杯を持って来させ,それらを全て打ち壊させた。そこで,ようやくポッリオは怒りを抑えて奴隷を罰することを止めたと言う。この養魚池の所有者にとって,奴隷の身体は飼っているヤツメウナギの餌に出来る程の価値しかなかったのである。