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学会からのお知らせ


* 10月研究会

  下記の通り研究会を開催します。奮ってご参集下さい。

テーマ: 絵画的比喩を読む──ニコラ・プッサン作 《エリエゼルとリベカ》(1648年,ルーヴル美術館)
発表者: 望月 典子氏
日 時: 10月27日(土)午後2時より
会 場: 國學院大学 若木タワー地下1階02会議室
(最寄り駅「渋谷」「表参道」)
参加費: 会員は無料,一般は500円

  ローマで活動した画家プッサンは,ルイ13世の招聘によるパリ一時帰国を経て,その「古典主義」様式を完成させた。本発表では母国の絹卸売業者ポワンテルの依頼で描かれた 《エリエゼルとリベカ》 を取り上げる。後の王立絵画彫刻アカデミーの講演会で分析され,当時の批評も数多く残された,画家の代表作の一つである。それらの資料と制作背景を検討した上で,画家の造形上の工夫と結び付いた「絵画的比喩」を読みといてみたい。

* 10月研究会会場変更のお知らせ

10月27日午後2時開始の研究会 「絵画的比喩を読む――ニコラ・プッサン作 《エリエゼルとリベカ》(1648年,ルーヴル美術館)」(発表者・望月典子氏)は都合により会場を当初予定の「1号館1階1101教室」から下記へ変更いたします。

新会場: 若木タワー地下1階02会議室

2012年10月4日  地中海学会事務局







表紙説明 地中海世界と動物 1


雄鶏/水野 千依


  雄鶏は,世界のいたるところで親しまれている動物である。地中海世界でも,家禽としてだけでなく,妊婦の食事として多産を祈願する呪術的価値を付与されてきた。美術においては,「淫欲」の象徴として,また,キリスト捕縛後にペテロが「イエスを知らない」といって離反する直後に鳴き声を上げる象徴的存在として,頻繁に表現されている。そんなおなじみの雄鶏だが,今回は,一風変わった滑稽な姿をとらえた図像を表紙とした。2羽の雄鶏が1頭の狐を竿に結わえて運んでいる,まるで動物寓話集か謎々のような場面。ヴェネツィア,サン・マルコ大聖堂左袖廊の舗床を飾る12世紀のモザイクである。
  コンスタンティノポリスの聖使徒聖堂を模して11世紀に建立された本聖堂は,当初,ビザンティン帝国から技術者たちを招いて聖堂建設やモザイク装飾を進めた。ビザンティンには,大宮殿の有名な鷲と蛇の床モザイクをはじめ,古代ローマの舗床装飾の系譜に連なるモティーフが継承されており,その伝統がヴェネツィアの大聖堂にも息づいていることが分かる。
  しかしこの2羽の雄鶏たちは,ひとえに舗床装飾にとどまらない存在であった。17世紀初頭,司教座聖堂参事会員ジョヴァンニ・ストリンガはこのモザイクについて記している。「それは2羽の雄鶏で,シャルル8世とルイ12世を意味しており,彼らは,狡猾さゆえに狐に喩えられる君主ロドヴィコ・スフォルツァ公爵をミラノの領外へと運んでいる」。この一節がほのめかしているのは,1494年にフランスのシャルル8世がナポリ王国の継承権を主張して南下したことに端を発するイタリア戦争にほかならない。その後,神聖同盟軍により撤退さ

せられるも,1499年にはふたたび息子ルイ12世がミラノ公ロドヴィコ・スフォルツァを幽閉してミラノ公国を征服するという経緯に言及しているのだ。その後イタリアは,1527年のローマ劫掠を経て,フィレンツェが陥落する1530年まで不穏な時代が続き,加えてオスマン帝国による攻略やアルプス以北の宗教改革の脅威によって幾重にも辛酸をなめた。そして,黙示録のごとき悪夢に苦しめられたこの時期を特徴づけるのが,終末論的予言である。
  なかでもサン・マルコ大聖堂は,古くからある予言的で黙示録的な伝統のアウラに包まれてきた。聖堂の装飾全体,なかでもモザイクが,12世紀のフィオーレの大修道院長ヨアキムによって予め定められており,時の経過とともに信者たちが注意を傾けることで,その予言が明かされるという伝承が14世紀から存在していた。とくに16世紀初頭には,壁面や舗床のモザイクにとどまらず,教会の調度全体がヨアキムに関わる宗教的・政治的予言の織物とみなされた。そのなかで,狐を運ぶ2羽の雄鶏は,現在は教会椅子の下に隠されて見えない他の動物たちとともに,ヨアキムによって「来るべきことの意味とともに」定められた動物として,現在や未来の事象を解読する鍵とされたのだ。人々は,15,16世紀に風刺・政治詩において普及していた動物象徴学を援用した「紋章学的」解読に腐心した。この小さな雄鶏たちは,壁面の壮大な黙示録モザイクに劣らず,時代の情勢に応じてアクチュアルな意味をその都度獲得し,幾重にも加工され再解釈する可塑的で豊かな予言のテクストを提供したのだ。







ジュリオ・チェーザレ・クローチェとその生地サン・ジョヴァンニ・イン・ペルシチェートのカーニヴァル

小林 満



私は翼なく飛ぶが,生気はなく,すべてを静まらせる。上の方の生まれであるが,下の方にいるのを好む。しかし地面に落ちてはじめて気づくのだが,私は砕け,一歩ごとに傷ついてしまうのだ。そのためにかくも酷い扱いを受けている自分に気づくので,すっかり憔悴してしまい,ただ水泡に帰するがまま。すると私の子供たちは私を哀れむあまり眼も持たないのに私の悲痛なあえぎに涙する。


  これはもとは韻文形式のイタリア語のなぞなぞで,ジュリオ・チェーザレ・クローチェ(1550-1609)の「なぞなぞ集」に出てくるものである。原文では形容詞の形から「私」が女性名詞で表されるものであることもわかりヒントになる。クローチェは16世紀から17世紀にいたるボローニャで,なぞなぞ集やことわざ集を始め(「歯のある者にはパンがなく,パンのある者には歯がない」など今ではポピュラーになったものも見られる),イタリア語やボローニャ方言による対話や喜劇,詩や論考など,小冊子の形で500以上も出版した。彼はカーニヴァルの最中に貧しい鍛冶屋の息子として,ボローニャの近郊,サン・ジョヴァンニ・イン・ペルシチェートで生まれたが,青年期に文学に目覚め田舎を離れてボローニャへ出て,果てはヴァイオリン片手に物語や詩を披露する大道芸人になり,娯楽目的の本を印刷して販売した。  彼の最も有名な作品は,醜い小男ながら既知に富んだ農夫ベルトルドの王アルボイーノの宮廷での活躍を描いた『ベルトルドの非常に鋭い抜け目なさ』と,その息子を主人公にした『ベルトルディーノの愉快でおかしな馬鹿さ加減』である。何回か映画化され,1984年の「ベルトルド,ベルトルディーノ,そしてカカセンノ」にはウーゴ・トニャッツィやアルベルト・ソルディが出ている。
  ところで,このベルトルド,ベルトルディーノ,そしてベルトルドの妻のマルコルファは,クローチェの生地サン・ジョヴァンニのマスケラ(仮面キャラクター)になっており,当地のカーニヴァルは市役所バルコニーからの彼らの方言による口上書の読み上げで始まる。
  このサン・ジョヴァンニのカーニヴァルはイタリアでも非常に特徴的なものとして知られている。町の中央広場に一つずつトラクターに引かれて山車が登場し,その山車が変身・変形・展開することで,内部に隠されていたアレゴリーを露わにするといったもので,そのメタモ

ルフォーゼの過程でたくさんのメンバーによるストーリーやパフォーマンスが広場で展開されるのである。そして,芸術,構造,テーマの三つの視点からの厳正な審査を経て,1週間後に授賞式が同じ広場で行なわれる。
  雪(ちなみに,これが最初のなぞなぞの答え)のために2週間延期された今年のカーニヴァル。出場した15組のうち優勝したのは Ocagiuliva チームの「夢見る男」であった。緊縮財政で諸経費がカットされる今のイタリア。クローチェの生地であることにちなみ毎年この町で行なわれていた「大道芸人大会」までをも中止せざるをえなくなったレナート・マッヅーカ市長が,資金調達のため町を「マヅーク大サーカス」に変えなければならなくなる,という夢を見る,という設定のストーリー。
  最初に太鼓やシンバルを持った3匹のサルのおもちゃに扮したメンバーを載せた自動機械に模したトラクターが巨大なコンテナを引いて広場に登場する。その巨大なコンテナは木材のパッチワークでできた地味だが渋い作り。この巨大な木箱が左右上下に展開していくと,その内部から色鮮やかな「大サーカス」が現れるのだ。左側には B-LANCIO Comunale の文字の下で円盤上に固定された女性がぐるぐる回転している。「ナイフ投げ(lancio)」と「市の予算(bilancio)」の言葉遊びが踊っているのだ。そして,舞台上でショーが行なわれるなか,広場にはたくさんの奇術師,曲芸師,軽業師,大道芸人,調教師たちが現れて,芸を披露したり,踊ったり,ポップコーンを観客に配ったり,といった華やかなカーニヴァル的世界が現出する。ところが,そのうち「大サーカス」の上に,シザーハンズの扮装をしたマリオ・モンティ首相の巨大な顔と両腕が現れる。両腕の先にあるのはすべてをカットし尽くす機械仕掛けで動くハサミである。
  他のチームもマヤ文明(今年で世界が終る?)やハリーポッターなど(もちろん,ベルルスコーニも何度か登場),さまざまな題材で山車のメタモルフォーゼと派手なパフォーマンスを繰り広げ,最後にカーニヴァルの華である紙吹雪を大量に打ち上げてくれた。
  ところで,自分の生地をカーニヴァルの町にしたクローチェだが,歿したのもカーニヴァルの初日であった。







地中海学会賞受賞のご挨拶

京都大学学術出版会 鈴木哲也



  『西洋古典叢書』刊行の取り組みに対して,編集委員会や著者の先生方を差し置いて,版元としての小会を褒賞いただいたことの意味を思うとき,その重さに,改めて身の引き締まる思いでございます。ここで「改めて」というのには,二つのわけがあります。
  実は2004年に,『西洋古典叢書』の取り組みに対して小会は出版梓会から20周年記念特別賞をいただいております。同叢書に関わっては今回2度目になる,というのが一つの理由です。
  当時もそうでしたが,今回の受賞理由にも,「出版事情厳しき折」という文言をいただきました。確かに,総じて言えば我が国の出版事情は明るくはありませんし,古典刊行の営みが易しいわけでもありません。しかし,一種,業界の定型句化してしまったこの表現に「売れないでしょうし大変ですね」という意味が込められているとすれば,「ちょっと待ってください」と申し上げたいのです。
  小会が『西洋古典叢書』の刊行を開始した当初,いや,それ以来15年が経過した今でも,「いつ止めるのですか?」とか「どこからか原資が出ているのでしょうね」といった質問が,業界,それも「大手」と呼ばれる出版社の経験豊かな方々から発せられることがあります。そのたびに,(失礼ながら)その想像力の欠如にあきれ,いやそれも致し方ないな,と思いながらリアルな数字を申し上げるのですが,刊行開始以来今に至るまで,本叢書は小会のフラッグシップであり続けています。もとより1タイトルで何万部という数ではありませんが,既刊九十余巻のうち,2000〜3000部という規模ならば,大半の書目の実売数はその水準を達成しています。幸か不幸かは別として,こうした叢書に出版助成は得られませんが,総じて十分な利益を上げており,採算割れした書目は一つもありません。「せいぜい600〜700と思っていました。」ある大手出版社の編集長が驚いておられましたが,正直,その時私は気を悪くしました。決して,私たちの事業が取るに足らない存在と見られたから,というわけではありません。そうではなくて,我が国の知的関心の水準に対して,出版界のリーダーがそうした見方をしているということが許せなかったのです。ビジネスマンがマーケットを見誤っていると言うならば笑い事ですみますが,出版人として我が国の文化水準に応えていないとすれば,これは我々の存在意義に関わるでしょう。
  晴れの受賞挨拶の場で,のっけから角の立つ物言いを

したことをお許しいただきたいのですが,実際,本叢書に寄せられた読者カードからは,やや大仰に言えば現代の知の状況が見えてきます。もちろん専門の古典研究者からの批評もありますが,むしろそうでない人々,例えば上場企業のリーダー,退職した教師,全く専門外の理系研究者,職業は「農業」と書いている方等々,実に幅広い方々が,ギリシャ・ローマの世界に触れたことを喜んでおられるのです。
  もともと,『サイエンス』や『ネイチャー』といった理系学術誌の論文に古典世界からの引用が多い,ということはよく知られています。リベラルアーツの伝統は未だ健在ということでしょうが,日本だって,馬鹿には出来ません。中学や高校では,東西の古典世界についてそれなりに授業時間を割きますし,プラトンやアリストテレスといった人々の言説や業績は,知的アンテナを張っている若者なら,様々な場所で触れるでしょう。問題は,大学入学以降,そうした古典世界の事柄が,哲学や歴史学,文学といったごく狭い学問領域の専門家が扱う特殊事項として,閉じ込められてしまっていることです。「出版」(publication)とは,知を広く公開することのはずですが,実際のところ,我々出版人は「専門書」というカテゴリーの中に,古典世界を押し込んできました。こうした状況に不満を持っている人々が,実は大勢おられるのです。学術界のグローバリゼーションとインターネットの拡大の中で,知的生産物の生産性と流通速度は,日々加速しています。その結果「何が正しいのか」という根本的なところが曖昧になる,いわゆる「知のフロー化」と言われる現象が起こること自体は,今日避けがたいことかも知れません。だからこそ,「では本物は何なのか?」といった渇望が生じるのも当然でしょう。その点,西洋古典の世界は,2000年以上の長きにわたって,戦乱や災害,宗教動乱といったものに耐えて生きてきたテキストに満ちています。
  『西洋古典叢書』の読者は,まさしくそうした「本物」を望んでいるのだと思うのです。それだけに,小会では,編集委員の先生方のご指導の下,本物を本物らしく,かつ,あまりの専門性ゆえに読みやすさを失うことの無いように努めてきました。今回ご褒賞賜ることで,こうした我が国の知的関心にこれからも応え続けることが,小会の責務であることを思い出させていただきました。これが「改めて」のもう一つの理由です。本当に有り難うございました。







地中海学会ヘレンド賞を受賞して

桑木野 幸司



  このたびは地中海学会ヘレンド賞という,大変名誉ある賞をいただけることとなり,光栄に存じます。関係者の皆様がた,とくにヘレンド賞のスポンサーとしてご協力くださっている星商事株式会社社長鈴木猛カ様,また,担当の塩谷博子様,そして地中海学会事務局長の野口昌夫先生(註:授賞式当時)をはじめとする選考委員の先生がたに,心よりお礼を申し上げたいと思います。
  今回の受賞の対象となりました著作は,タイトルを L'architetto sapiente: giardino, teatro, città come schemi mnemonici tra il XVI e il XVII secolo といい,これを日本語に訳しますと,「叡智の建築家:記憶術的図式としての16〜17世紀の庭園,劇場,都市」となります。耳慣れない単語の並ぶタイトルの著作ではありますが,これは,私が2007年7月にピサ大学文学部に提出した博士論文をもとに,大幅に加筆修正を加えたものを,フィレンツェの学術出版社であるオルシュキ(Olschki)から2011年春に刊行したものです。元となった博士論文のほうは,イタリアの庭園史ならびにランドスケープに関する優秀博士論文賞である,Premio Marino Salom ─ Ville lucchesi: la cultura del giardino storico の2007年度特別賞を受賞いたしました。論文の指導をしてくださった,ピサ大学の Lucia Tongiorgi Tomasi 教授,ピサ高等師範学校の Lina Bolzoni 教授,そしてレッチェ大学の Massimiliano Rossi 教授には,心より感謝をいたします。
  また,オルシュキ社から出版するに際しては,鹿島美術財団の出版助成を受けました。財団の関係者の皆様,また選考にあたってご推薦やお力添えをくださいました,高階秀爾先生と小佐野重利先生に,この場を借りて厚くお礼を申し上げます。
  さて,この著作が分析の対象とするのは,初期近代イタリアの芸術と文学と哲学です。本書の全体を貫いているテーマは,ずばり,記憶です。すなわち,コンピューターもインターネットもなかった時代,そして紙がまだまだ貴重であった時代に,どのようにして,膨大な情報を整理し,頭の中に効率よくストックしてゆくか,その方法を教えてくれる,記憶術とよばれるテクニックが,私の研究の中心主題となっています。記憶術,といってしまうと,なんだか便利でお手軽な暗記術のように聞こえてしまいますが,実際には,古代ローマのキケローやクインティリアヌスも実践していた,由緒正しき,伝統的な修辞学を構成する一分野でした。そのテクニックが,情報の洪水ともいえる状況を生み出した,ルネサン

スの時代に再び脚光を浴びるようになります。その背景には,活版印刷技術の発展により,記憶術を解説した安価な冊子が大量に出回り,人々が手軽にこの蒼古たる技術に触れることができるようになった,という事情もあったようです。ともあれ,16世紀には,猫も杓子も記憶術。この術を知っていないと,立身出世もおぼつかない,といった状況が出来しました。
  詳しく立ち入って解説する余裕はないのですが,この記憶術というテクニックは,頭の中に,ヴァーチャルな建築空間を設計して,そこに,覚えたい情報をイメージ化して置いて行く,という基本原理にもとづいて,情報の効果的な管理を行っていました。その,情報整理のための架空の建築が,頭の中から飛び出して,現実の建築空間とも,何らかの関係を持つに至ったのではないか,それも,とびきりクリエイティヴな関係が,そこにあったのではないか,という点に着目したのが,博士論文のとっかかりとなりました。
  こうした観点から,具体的には,16世紀のイタリアを中心に提案された,庭園や劇場や都市をめぐるさまざまな提案やプロジェクト,あるいは実施作品のうちに,記憶術からの影響を丹念にさぐり,哲学と建築と美術が密接に融合する,これまで本格的に分析のなされてこなかった世界の再構築をめざしました。一部には,ドイツのプロジェクトも含まれていますが,それとても,イタリア文化の強い影響下に立案されたものでした。その結果,初期近代のある種の建築空間が,記憶術と結びつくことにより,人の精神の認識構造を写し取ったものとして機能していた側面を明らかにすることができました。当時の知識人たちの一部は,精神内面と外部の建築空間とを即座にリンクさせ,大変独創的な情報管理を行っていたのです。これは,従来の建築史や美術史の方法では掬い取ることのできなかった,知られざる精神建築史ということができます。
  さて最後になりますが,少し私ごとを述べさせていただきますと,足掛け8年におよぶ長いイタリア留学を終え,昨年の4月より,大阪大学文学研究科に着任し,美術史の授業を受け持っております。昨年度は,イタリア庭園史を講じ,本年度はルネサンス空間史について論じています。今後は,今回の受賞を励みに,さらに研究にはずみをつけるとともに,学生さんたちに地中海文化の素晴らしさを,さまざまに伝えてゆくよう,努力を続けたいと思います。どうもありがとうございました。







研究会要旨

初期アルメニア正教教会堂建築におけるドーム架構の展開

藤田 康仁

4月14日/東京芸術大学



  アルメニア正教教会堂建築(アルメニア建築)という凡そ聞き慣れない名称から,その建築の様態をイメージできる人は少なかろう。本報告では,本題に入る前に,歴史的に間断なく東西の政治勢力の脅威に晒されたアルメニア民族が,東アナトリアやカフカースという辺境の地に建て続けた異端の教会建築群について,主要な遺構を例示しながら,その特徴と時代的な流れを概観した。
  アルメニア建築は,その長い歴史の中で多様な建築形式を残した。キリスト教の国教化を背景に最初の教会建築が成立した4世紀には,シリア教会の形式に準じた単廊式や三廊式等の長堂形式の教会堂が建てられた。ドーム架構が5世紀頃より導入されると,7世紀には最初の盛期を迎え,長堂形式とドーム架構とが融合する等,多数の建築形式が発生した。停滞期を経て,9世紀頃に建設活動が再開されると,7世紀に展開した建築形式を踏襲しながら,礼拝室を複数内蔵した平面形式が考案された他,活動が活発化した修道院では,多目的建築であるガヴィットや鐘楼等の新たな形式の建築が集約的に建てられた。
  アルメニア建築に関するこれまでの研究では,その平面形態が専ら注目を集めてきた。アルメニア建築研究の嚆矢ストシィゴウスキは,その平面形式に見出した多様性から,アルメニア建築をロマネスクやゴシック等の建築様式の特徴を包含するものと見なし,その帰結として,西洋中世の建築文化が遡及できる祖型と解釈した。建築を平面形に還元する彼の分析手法は,多様性を示す上では有効だった反面,建築という立体的な構築物のもつ特性を本来的に捨象するものでもあった。また,西洋の建築様式に対する優位性を示すことが目的化したために,アルメニア建築と他の建築様式との類似性と関係性ばかりが個別的かつ短絡的に語られ,アルメニア建築自体をひとつの自律的な体系として捉える視点をも欠いていた。後続の研究でも同じ手法が準用された結果,アルメニア建築は漠然と「多様」とされたまま,そこに伏流する特質が解明されることはなかった。
  本報告の本題である架構構成(建築の内部上方を覆うヴォールトやドーム等の組み合わせによる三次元的な構成)の議論は,こうした研究上の不備に立脚している。すなわち,平面分析から脱却し,建築の立体的な形状と,それを成立させる材料や構法にも注目することで,看過されてきたアルメニア建築の特質を捉えようとする

ものである。特に,7世紀までの初期の遺構を網羅的に通観すると,ドーム下部に設けられるスキンチ(半円錐形の部位)の使用法に複数の形式が認められ,この使用法の差異に,ドームをより大きく,安定的に架構する技術的な創意の進展を見出せる。初期における「多様」な建築形式も,架構構成における一連の系譜の上に関係づけられ,その展開は周辺地域の建築にはみられないことから,アルメニア独自のものと捉えられる。
  発表後の質疑と懇親会では,多くの意見を頂戴した。最も印象的な意見は,「アルメニア建築」という概念が,アルメニア正教の建築だけでなく,アルメニア人が関与した建築群にも広く適用可能ではないかというものだった。事実,アルメニア人職人集団の働きはこれまでも指摘されており,その活動は教会建築のみならず,広くイスラーム建築の建設にも及んだとされる。実際には,この広義での「アルメニア建築」の適用は,該当例を特定する難しさに加え,アルメニア共和国を超えて,特にアルメニア人による歴史建築の多いトルコ共和国で「アルメニア」を語ることによって直ちに民族問題を喚起する政治的な困難さも孕んでいる。20世紀初頭,東アナトリアに発生したアルメニア人に対するジェノサイドは,トルコの EU 加盟等とも絡む今日的な政治案件として,調査研究を進める上でも配慮を要するのである。それでも,上述の指摘を示唆的と思えたのは,「アルメニア建築」の概念規定は措くとしても,一定程度進んだアルメニアの教会建築の理解を踏まえて,より広域に及ぶ建築文化の交流や展開を,職人集団=建築技術の視点で捉え直すことの意義がそこに含まれるのをみたからである。宗教的な性質や意味が介在しない技術的側面への眼差しは,宗教や文化の歴史的に錯綜した地域における様々な建築群を包括的に考える上で有効と思われる。つまり,宗教という枠組みを越えて建築それ自体を理解する指標として,建築技術を捉えられる。アルメニア建築の特質の解明はまだ途上ではあるが,アルメニア周辺の建築文化を理解するため,現在進捗中の調査研究では,シリアやグルジアへと調査対象を広げている。こうした取組みを通じて,建築技術の展開のみならず,例えばセルジューク朝期の墓廟とアルメニア建築のドームとの明白な類似に底流する,この地域に暮らした人々が潜在的に有した建築への心性を,いずれ明らかにできたらと考えている。







春期連続講演会 「地中海世界の歴史,中世〜近代: 異なる文明の輝きと交流」 講演要旨

ヴェネツィアと地中海世界

―― “海との結婚” から生まれたもの ――

和栗 珠里



  カナレットに代表される18世紀ヴェネツィア派の画家たちが繰り返し描いた題材のひとつに,キリスト昇天祭がある。ヴェネツィア方言でセンサ(Ascensione が訛ったもの)と呼ばれるこの祭りでは,“海との結婚” が執り行なわれる。これは,ヴェネツィアが海との結びつきによって永遠に繁栄することを祈願する儀式である。カナレットの時代には,その栄光もすでに過去のものとなっていたが,それでもなおアドリア海とイオニア海に一定の植民地を保つヴェネツィア共和国は,“海の帝国” としての誇りを捨ててはいなかった。センサの祭りは,まさにその誇りの象徴だったのである。
  周知のように,ヴェネツィアは海の中に生まれた都市である。農業にも適さず資源も乏しい環境を選んだ人々は,海とともに生きていくしかなかった。製塩と水運に活路を見出し,しだいに力をつけたヴェネツィアは,西暦1000年,ダルマツィア沿岸を荒らし回っていた海賊を撃退してアドリア海の制海権を握る。これを記念して始まった儀式が “海との結婚” の起源である。発展を続けたヴェネツィアはやがて,地中海に進出して東方貿易の覇者となり,“レヴァンテ(東地中海)の女王” と呼ばれるまでになる。それにともない,センサの祭りも壮麗さを増し,14世紀ころからはブチントーロと呼ばれる巨大なガレー船が用いられるようになった。
  ヴェネツィアがアジアとヨーロッパを結ぶ中継貿易で栄え,黄金期にはヨーロッパ随一の経済大国となったこと,東洋からさまざまな文物を西洋にもたらしたのみならず,東洋と西洋の結節点として独特の文化を育んだこと,などが講演のおもな内容であったが,ここでそれらをいちいち述べる必要はないであろう。その代わりに,センサの祭りとブチントーロについて話を続けたい。
  もともと戦勝記念として始まった儀式が結婚式という形を持つようになったのは,12世紀のある出来事がきっかけとなっている。1177年,ロンバルディーア同盟と皇帝フリードリヒ1世の間の停戦条約がヴェネツィアで締結された。このとき,前者に与する教皇アレクサンデル3世が,調停者としての功に報いるため,金の指輪をヴェネツィアに与えた。以後,センサの祭りの際にドージェがこの指輪を海に投げ込み,海と契りを交わすようになったのである。教皇はまた,キリスト昇天祭にサン・マルコ聖堂を訪れる者への免罪という恩恵もヴェネ

ツィアに与えた。それによって,この祭りの時期のヴェネツィアは,ひときわ人で溢れるようになった。市が立ち,見世物やレガッタが行なわれ,夏の訪れを告げる陽光に包まれたヴェネツィアは,一年で最も華やいだのである。
  センサの祭りの賑わいの様子は,カナレットらの筆を通して知ることができる。その画中でしばしば主役の地位を与えられているのが,金色に輝く御座船ブチントーロである。初期のブチントーロは比較的つつましい船だったと考えられているが,16世紀以降は,“水に浮かぶ宮殿” と呼ばれるほど豪華なものになった。約35メートルの船長に42本の櫂,168人の漕ぎ手は,ガレー軍艦にも匹敵する規模である。船体は金箔を施した彫刻で覆い尽くされ,船首はやはり金箔で覆われた聖マルコの獅子像と正義の女神の像で飾られた。そして船の上には,赤地の金襴緞子で織られた聖マルコの獅子の旗が翻っていた。ブチントーロは,センサの祭り以外にも,重要な祝祭のときに用いられた。この船自体も,ヴェネツィアの誇りを可視化するものだったといえる。
  センサの祭りとブチントーロは,ヴェネツィアの歴史と密接に結びついている。ブチントーロの最後がヴェネツィア共和国の最後と同じだったのも,運命だったのだろうか。1798年,ヴェネツィアを占領したフランスの兵士たちは,ブチントーロを壊し,金を取り出すために彫刻を燃やした。その光景は,国を失ったヴェネツィア人たちの誇りをさらに傷つけたにちがいない。こうして,センサの祭りも廃れ,ヴェネツィアは長い陰鬱の時代に入ったのである。
  20世紀後半,経済成長とともに,イタリア各地で途絶えていた伝統的な祭りが復活されると,ヴェネツィアでも再び “海との結婚” が行なわれるようになった。しかし,共和国時代の絢爛豪華さとは比べるべくもない。そのため,センサ祭実行委員会は,祭りの起源から1000年が経つのを記念して,ブチントーロ再建プロジェクトを発足させた。カナレットらが描いた18世紀のブチントーロを忠実に再現しようとする試みは,技術者など多くの人々の協力を得て進められているが,おもに資金不足のため,いまだ完成にはほど遠い。低迷を続けるイタリア経済の現状のなかで,人々の思いをのせたこの計画が挫折しないことを願うばかりである。








〈寄贈図書〉

L'architetto sapiente: Giardino, teatro, città come schemi mnemonici tra XVI e XVII secolo, Koji Kuwakino, Olschki, 2011
『クセノポン ソクラテス言行録 1』 内山勝利訳 2011年3月,『プルタルコス 英雄伝 3』 柳沼重剛訳 2011年4月,『プルタルコス モラリア 9』 伊藤照夫訳 2011年5月,『ポリュビオス 歴史 3』 城江良和訳 2011年10月,『ウェレイユス・パテルクルス ローマ世界の歴史』 西田卓生・高橋宏幸訳 2012年3月,『リウィウス ローマ建国以来の歴史 9』 吉村忠典・小池和子訳 2012年5月 以上,京都大学学術出版会西洋古典叢書
『帝国を魅せる剣闘士──血と汗のローマ社会史』 本村凌二著 山川出版社 2011年10月
『十六世紀ルーアンにおける祝祭と治安行政』 永井敦子著 論創社 2011年10月
『イタリアの中世都市』 亀長洋子著 山川出版社世界史リブレット 2011年10月
『阿刀田高 『新トロイア物語』 を読む』 岡三郎著 国文社 2011年11月
『預言者ムハンマドとアラブ社会──信仰・暦・巡礼・交易・税からイスラム化の時代を読み解く』 医王秀行著 福村出版 2012年2月
『魔女とメランコリー』 黒川正剛著 新評論 2012年3月
『イトコたちの共和国──地中海社会の親族関係と女性の抑圧』 ジェルメーヌ・ティヨン著 宮治美江子訳 みすず書房 2012年3月

『食べるギリシア人──古典文学グルメ紀行』 丹下和彦著 岩波新書 2012年3月
『中世教皇史』 G. バラクロウ著 藤崎衛訳 八坂書房 2012年3月
『軍事技術者のイタリア・ルネサンス──築城・大砲・理想都市』 白幡俊輔著 思文閣出版 2012年3月
『エウリピデス 悲劇全集 1』 丹下和彦訳 京都大学学術出版会西洋古典叢書 2012年4月
『ラモー氏の原理に基づく音楽理論と実践の基礎』 ジャン・ル・ロン・ダランベール著 片山千佳子・安川智子・関本菜穂子訳 春秋社 2012年7月
『ピランデッロ短編集 カオス・シチリア物語』 白崎容子・尾河直哉訳 白水社 2012年8月
『サンティアゴ 遥かなる巡礼の道』 ジャン=クロード・ブールレス著 田辺保訳 青山社 2006年11月
『ソ連・コミンテルンとスペイン内戦』 島田顕著 れんが書房新社 2011年9月
『ギリシア古代美から ヴィンケルマン論と訳』 前田信輝 龍書房 2011年10月
『館報』 60 (2011) ブリヂストン美術館・石橋美術館
『多元文化』 1 (2011) 早稲田大学多元文化学会
『純心科研論文集』 1 (2012) 長崎純心大學
『日仏美術交流シンポジウム シュルレアリスムの時代──越境と混淆の行方』 日仏美術学会 2012年6月