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学会からのお知らせ


* 第36回地中海学会大会

  6月16日,17日(土,日)の二日間,しまなみ交流館ホール(広島県尾道市東御所町10-1)において,第36回地中海学会大会(共催:尾道市教育委員会)を開催した。会員106名,一般23名,尾道市民(延べ人数)57名が参加し,盛会のうち会期を終了した。次回は同志社大学(京都市)で開催する予定です。

6月16日(土)
開会宣言 大保二郎氏
挨 拶 平谷祐宏氏尾道市長
13:00 〜 13:10
記念講演 13:10 〜 14:10
「地中海と瀬戸内海 ── 島の歴史と伝承と」  樺山紘一氏
地中海トーキング 「崖に住む」 14:25 〜 16:25
パネリスト: 太田敬子/陣内秀信/益田朋幸/真野洋介/司会: 野口昌夫 各氏
授賞式 16:40 〜 17:15
 「地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞」
総 会 17:15 〜 17:45
懇親会 18:00 〜 20:00 [グリーンヒルホテル尾道]

6月17日(日)
研究発表 10:00 〜 12:40
 「ギリシア青銅器時代の印章の硬度と図像 ── 《星形モチーフを伴うライオン》 図像」 小石絵美氏
 「アッティカにおける神話表現の成立 ── 墓標陶器の図像変遷に着目して」 福本薫氏
 「オウィディウスのメルクリウス ── 『変身物語』 第2巻676-832」 西井奨氏
 「古代ローマの皇帝親衛騎馬部隊騎士の墓碑と,その浮彫の 「馬」 図像」 中西麻澄氏
 「メディチ家支配下のピサ平野とナヴィチェッリ運河の描写と政治的事実について」 吉田友香子氏
シンポジウム 13:30 〜 16:30
 「海の道 ── 航路・文化・交流」
  パネリスト: 荒又美陽/亀長洋子/武田尚子/尹芝惠/司会: 末永航 各氏

* 第36回地中海学会総会

 第36回地中海学会総会(高田和文議長)は6月16日(土),しまなみ交流館ホールで下記の通り開催された。審議に先立ち,議決権を有する正会員560名中(2012.6.11現在)550余名の出席(委任状出席を含む)を得て,総会の定足数を満たし本総会は成立したとの宣言が議長より行われた。2011年度事業報告・決算,2012年度事業計画・予算は満場一致で原案通り承認された。2011年度事業・会計は片倉もとこ・木島俊介両監査委員より適正妥当と認められた。また,野口昌夫事務局長の任期満了及び小池寿子新事務局長の就任が報告された。

議事
一,開会宣言
二,議長選出
三,2011年度事業報告
四,2011年度会計決算
五,2011年度監査報告
六,2012年度事業計画
七,2012年度会計予算
八,閉会宣言

2011年度事業報告(2011.6.1 〜 2012.5.31)

I 印刷物発行
1.『地中海学研究』 XXXV 発行 2012.5.31発行  「ナイル水源からエデンの園へ ── 初期キリスト教教会建築の装飾におけるローマ世界のナイル河図像の受容について」 田原文子 / 「ドミティッラのカタコンベ墓室 39 (NR) の巨大人物像 ── 新発見壁画とその新たな考察」 山田順 / 「優しさの形 ── エレウサ型アンナ像の出現とその意義」 菅原裕文 / 「中世教皇庁の慈善施設 ── 施与局と救護院」 藤崎衛 / 「レオノール・ロペス・デ・コルドバの 『回想録』 ── ナラティヴ戦略としての矛盾」 瀧本佳容子 / 「ムリーリョ作 《ハンガリーの聖エリザベート》(1672年)とカリダード施療院の創設理念」 豊田唯 / 「王室礼拝堂におけるテネブルの聖務で聴かれた音楽 ── ルソン・ド・テネブルの演奏実践を中心に」 川田早苗 / 「近代ヴェネツィアにおける都市発展と舟運が果たした役割」 樋渡彩 / 「書評 水田徹著 『パルテノン・フリーズ 観察と考察』」 芳賀京子 / 「書評 望月典子著 『ニコラ・プッサン 絵画的比喩を読む』」 大野芳材








2.『地中海学会月報』 341 〜 350号発行
3.『地中海学研究』バック・ナンバーの頒布
II 研究会,講演会
1.研究会(於東京芸術大学・東京大学)  「14世紀エジプトにおけるコプト聖人 ── 特徴と社会的機能」 辻明日香(7.23)
 「東プロヴァンス地方の教会遺構と彫刻 ── 古代都市リエズに残される初期中世の史料を中心に」 奈良沢由美(10.1)
 「19世紀イタリアにおける美術品流通 ── クリヴェッリの祭壇画売却に関する史料を中心に」 上原真依(12.10)
 「古代モニュメントの再建法「アナスティローシス」の歴史研究 ── その語源からアテネ会議(1931年)まで」 大場豪(2.18)
 「初期アルメニア正教教会堂建築におけるドーム架構の展開」 藤田康仁(4.14)
2.連続講演会(ブリヂストン美術館土曜講座として: 於ブリヂストン美術館)
  秋期連続講演会: 「芸術家と地中海都市」
  9.17 〜 10.15 「ニコラ・プッサンとローマ」 望月典子 / 「ティツィアーノとヴェネツィア」 池上英洋 / 「エル・グレコとトレード」 松原典子 / 「アントニ・ガウディとバルセロナ」 鳥居徳敏 / 「アルノルト・ベックリンとフィレンツェ」 秋山聰
  春期連続講演会: 「地中海世界の歴史,中世 〜 近代: 異なる文明の輝きと交流」 5.12 〜 6.9
  「ノルマンと地中海世界: 三大文化の交差点,中世シチリア王国」 高山博 / 「オスマン帝国と地中海世界: 「オスマンの平和」がもたらしたもの」 飯田巳貴 / 「ルネサンスと地中海世界: 古代復興の多面性 〜 美術の視座から」 水野千依 / 「ヴェネツィアと地中海世界: 「海との結婚」から生まれたもの」 和栗珠里 / 「地中海文明: 地中海の北と南,東と西」 青柳正規
III 賞の授与
1.地中海学会賞授賞
  受賞者: 京都大学学術出版会
2.地中海学会ヘレンド賞授賞 副賞 受賞記念磁器皿「地中海の庭」(星商事株式会社提供)

  受賞者:桑木野幸司
IV 文献,書籍,その他の収集
1.『地中海学研究』 との交換書: 『西洋古典学研究』 『古代文化』 『古代オリエント博物館紀要』 『岡山市立オリエント美術館紀要』 Journal of Ancient Civilizations
2.その他,寄贈を受けている(月報にて発表)
V 協賛事業等
1.NHK 文化センター講座企画協力 「地中海への誘い: 古代 ── 海が紡ぐ文化」
2.同 「地中海への誘い: 地中海世界を彩った人びと」
3.同 「地中海への誘い: ルネサンスの地中海世界を彩った人々・もの・出来事」
4.ワールド航空サービス知求アカデミー講座企画協力 「古代ローマの地中海支配とその社会」
5.同 「イタリア・フィレンツェからオリエント世界へ」
6.同 「地中海学会セミナー」
VI 会 議
1.常任委員会    5回開催
2.学会誌編集委員会 3回開催
3.月報編集委員会  4回開催
4.大会準備委員会  1回開催
5.電子化委員会   Eメール上で逐次開催
6.賞選考小委員会  1回開催
VII ホームページ
URL=http://wwwsoc.nii.ac.jp/mediterr/
(国立情報学研究所のネット上 2012.3まで)
   http://mediterr.web.fc2.com/
(2012.3 上記より移行)
 「設立趣意書」 「役員紹介」 「活動のあらまし」 「事業内容」 「入会のご案内」 「『地中海学研究』」 「地中海学会月報」 「地中海の旅」
VIII 大 会
第35回大会(於日本女子大学 成瀬記念講堂)
IX その他
1.新入会員:正会員14名;学生会員4名
2.学会活動電子化の調査・研究








2012年度事業計画(2012.6.1 〜 2013.5.31)

I 印刷物発行
1.学会誌 『地中海学研究』 XXXVI 発行
  2013年5月発行予定
2.『地中海学会月報』 発行 年間約10回
3.『地中海学研究』 バック・ナンバーの頒布
II 研究会,講演会
1.研究会の開催 年間約6回
2.講演会の開催 ブリヂストン美術館土曜講座として秋期(9.1 〜 29,計5回)・春期連続講演会開催
3.若手交流会
III 賞の授与

1.地中海学会賞
2.地中海学会ヘレンド賞
IV 文献,書籍,その他の収集
V 協賛事業,その他
1.NHK 文化センター講座企画協力 「地中海への誘い: ルネサンスの地中海世界を彩った人々・もの・出来事」
2.ワールド航空サービス知求アカデミー講座企画協力 「地中海学会セミナー」
VI 会 議
1.常任委員会
2.学会誌編集委員会
3.月報編集委員会
4.電子化委員会
5.その他








VII 大 会
第36回大会(於しまなみ交流館) 6.16 〜 17
共催: 尾道市教育委員会
VIII その他
1.賛助会員の勧誘
2.新入会員の勧誘
3.学会活動電子化の調査・研究
4.展覧会の招待券の配布
5.その他

* 新事務局長および本部変更

 野口昌夫事務局長の任期満了により,青柳正規会長より新事務局長は小池寿子氏に委嘱されました。

これに伴い学会本部を下記の通り変更します。
 旧: 東京芸術大学 野口昌夫研究室
 新: 國學院大学 小池寿子研究室

* 論文募集

 『地中海学研究』 XXXVI (2013)の論文・研究動向および書評を下記のとおり募集します。
 論文・研究動向 四百字詰原稿用紙80枚以内
 書評 四百字詰原稿用紙20枚以内
 締切 2012年10月末日(必着)
 投稿を希望する方は,テーマを添えて9月末日までに事前に事務局へご連絡下さい。「執筆要項」 をお送りします。本誌は査読制度をとっています。
 『地中海学研究』投稿・執筆要項(PDF 版)








研究会要旨

古代モニュメントの再構築工法 「アナスティローシス」 の歴史研究

── その語源からアテネ会議(1931年)まで ──

大場 豪

2月18日 / 東京芸術大学



  地中海地域の古代遺跡を散策すると,かつて建物の一部であったと思われる石材が数多く散乱している。これらを建物の元の位置に戻す再建方法をアナスティローシスと呼ぶ。この言葉そのものは,古代ギリシア時代やビザンツ帝国期にも用いられたギリシア語だが,前述の定義が国際的に認知されたのは現代においてであった。
  1931年,アテネにて記念建造物の保存のための国際会議が開催される。アテネ会議と称されるこの会議では,欧州から約120名が参加し,管理体制や保存技術に関する発表や議論が実施された。そして会議の総合決議にて,「遺構の場合,可能であれば発見された当初材を元の位置に戻すこと(アナスティローシス)と共に,細心の保存が不可欠である。このために必要となる新しい建材は,常に識別できなければならない」,という文面が成文化された。今回の研究会では,この文面のうちアナスティローシスが登場した背景と,識別を行う理由を発表した。
  アナスティローシスという言葉が現代に登場した端緒を探る上で,ギリシア人技師のニコラス・バラノスに着目する。バラノスは19世紀末より約40年アテネのアクロポリスにて発掘とモニュメントの再建を指揮した人物で,後者において建物の当初材を使っている。パルテノン神殿の北側列柱廊の場合,ドラムと柱頭のうち使用された当初材の割合は約9割に及ぶ。残りの約1割については,エルギン卿の使節団による建材の持ち去り等の原因でアクロポリスに残存しないため,代用の建材を用意する必要があった。
  この再建事業をバラノスはアナスティローシスと称した。呼称の理由についてシュミットの研究では,再建との対比,と指摘されている。この場合の再建とは,フランス人建築家ヴィオレ = ル = デュックに代表される建築家の想像に基づいた再建を指し,20世紀前半において既に科学的な見地を持つ人々から批判されていた。こうした時勢の下,バラノスのアナスティローシス事業では建物の当初材を元の位置に戻し,荒廃した古代モニュメントをかつての姿に再現することで,非科学的な再建との違いを示している。
  一方バラノスは,「柱の幾つかのドラムを元の場所に戻すこと」 という厳密なアナスティローシスの意味を拡大解釈している。対象となる建材はドラム以外の当初材

にも広がり,更にそれらを用いた再建事業そのものを体現する言葉となった。だが当初材以外にもその代用が必要となることから,実践上新しい建材も拡大解釈の対象になると思われる。
  アテネ会議の会期中の10月25日,アクロポリスにてバラノスは会議の参加者達にアナスティローシス事業を説明している。同事業の沿革や概念,方法,意義を語ったバラノスに対して,アテネ会議の公文書の中には同事業を支持する参加者の声明が存在する。フランスの歴史的記念建造物の主任保存官ジュール・フォルミジェの声明文には,「建材を元の位置に戻すことで,建物を本来の姿に多少なりと戻し,その理解を容易にするのに極めて望ましい」,と記されている。また参加者が同事業を支持した一説として,彼らがバラノスの事業から強い影響を受けたため,とある。そのため,当初材の再配置を通して彼らが古代モニュメントのかつての姿を実見出来た点が,アナスティローシスの評価に繋がったと考えられる。更にこの方法を普及すべく,それまでギリシア語でしか用いられなかったアナスティローシスが英・仏・独・西・伊語に置き換えられ,「当初材を建物の元の位置に戻すこと」という意味が新たに付けられた。
  続く当初材と新しい建材の対応について,バラノスは新しいドラムの表面に使われたセメントを着色している。着色の理由についてバラノスは,採石されたばかりの大理石があまりにも純白で,当初材との調和に欠けるため,新しい建材を当初材に似た,黄色に近い色で塗ったと説明している。この処置に対してイタリアからの参加者2名が反対意見を表明している。その一人建築家グスターヴォ・ジョヴァンノーニによれば,当初材は歴史的価値を有するだけでなく,新しい材料を当初材同様に加工することで,人々が両方の建材を同一視する恐れがあるという。そこでペンテリコン産の大理石(白色)等の当初材と見分けがつく建材の使用を提案している。この提案は会議の参加者による投票にて承認され,イタリアの識別案が総合決議の文面に記載されるに至る。







春期連続講演会 「地中海世界の歴史,中世 〜 近代: 異なる文明の輝きと交流」 講演要旨

オスマン帝国と地中海世界: 「オスマンの平和」 がもたらしたもの

飯田 巳貴



  13世紀末にアナトリア西部で誕生したオスマン朝は,広大な領土を支配した大帝国であり,その王朝は1922年まで存続した。これは日本でいえば鎌倉時代から大正時代にあたり,世界史上でも稀な長命の国家である。帝国の屋台骨は,広い領土の各地から登用された様々な出自の人材が支えていた。オスマン人=トルコ人ではなく,オスマン帝国はトルコ人だけの国ではなかった。
  アナトリアでは10世紀以降次第にイスラーム化とトルコ化が進み,13世紀中葉にはトルコ系君侯国の群雄割拠状態となる。しかしここはムスリムの最前線であり,住民にはキリスト教徒が多く含まれ,敵は異教徒という単純な図式で割り切れるものではなかった。宗教や民族の違いは小さな差異でしかなく,宗教の異なる者同士の同盟や,ムスリム同士の敵対はごく普通に見られた。
  13世紀末アナトリア西部にオスマン1世率いる集団が支配を広げ,14世紀後半になるとビザンツ帝国の内紛に乗じ,その一派と提携してバルカンへ進出した。バルカンでは降伏したキリスト教徒騎士,在地のキリスト教聖職者,役人を再登用し,優秀なキリスト教徒子弟を教育して直属の軍団や側近に登用する制度が設けられた。
  1453年,メフメト2世がビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを征服する。「征服者ファーティフ」 メフメト2世は,アレクサンドロスやローマ帝国の後継者と自認し,ビザンツ帝国から世界帝国のイメージを継承したと自負していた。主都の再建事業は,「ローマの都の再建」 を目指したものであり,イスラームの君主であることに加えて,東地中海世界の皇帝として中央集権体制を整備した。
  スレイマン1世(在位1520-66年)の時代,帝国の領土は最大になる。「スルタンの奴隷」とよばれた軍人を中心とするスルタンの側近グループには,元キリスト教徒のデヴシルメ登用者が多く見られた。イスラーム世界の奴隷は,実力と運次第で社会的上昇が可能であった。オスマン帝国はある程度まで実力主義であり流動性の高い社会であった。
  スレイマンのもとに派遣されたハプスブルグ家大使ビュスベックは,帝国の高官には出自に関係なく実力によってその地位に達する者が多いと記している。スレイマン期から16世紀後半にかけての大宰相では,イブラヒム・パシャ(在位1522-34年,アドリア海沿岸出身で元キリスト教徒のヴェネツィア在留民といわれる。スルタンの妹婿),リュステン・パシャ(在位1544-60

年,セルヴィア出身で元キリスト教徒,スルタンの娘婿),ソコルル・メフメト・パシャ(在位1565-79年,ボスニア出身,元キリスト教徒)などが活躍した。
  またエーゲ海のレスボス島出身のギリシア人であるバルバロス・ハイレッディン(バルバロッサ)は,兄弟で海賊として名をあげ,アルジェリアの領主となった後,帝国に臣従してオスマン海軍総司令官およびエーゲ海諸島部州軍政官となった。彼はエーゲ海諸島を次々に征服し,1538年にプレヴェザ海戦でヴェネツィアと皇帝の連合艦隊を撃破した。
  当時のヨーロッパは,婚外子や非キリスト教徒などにとって決して生きやすい場所ではなかった(前述のビュスベックも婚外子であったため,非常に苦労したといわれる)。そうした人々にとって,非ムスリムであっても納税と引き換えに宗教や居住,移動,職業などの自由が法的に保護されるオスマン帝国は,能力に応じて社会的上昇の機会が得られる場であった。アルヴィーゼ・グリッティ(1480頃-1534年)は,ヴェネツィア共和国のドージェ,アンドレア・グリッティ(在位1523-1538年)がイスタンブルで商業活動に従事した期間に,現地のキリスト教女性との間に庶子として生まれた。ヴェネツィアで教育を受けた後イスタンブルに戻り,大宰相イブラヒム・パシャの厚意を得て,私的顧問および商売のパートナーとなった。アルヴィーゼは後にその功績により,「ハンガリー大公」の称号を受けている。
  集団でオスマン帝国にやってきた人々もいた。15世紀末以降,レコンキスタ後のイベリア半島から移住したユダヤ人(セファルディム)である。セファルディムは商人や職人などが比較的多く,歓迎された。元マラーノのナスィ一族はその代表格である。ヨセフ・ナスィはセファルディム系の宮廷侍医を介してオスマン宮廷との結びつきを強め,人的ネットワークを駆使して集めた帝国内外の情報を商業とスルタンへの助言に生かし,見返りに商業特権を獲得した。1566年には,ナクソスおよびキクラデス諸島の大公職を授与された。
  オスマン帝国は,オスマン以前の地中海周辺の諸文化や制度,人的資源,そして各地の地域内・地域間のネットワークを継承した。トプカプ宮殿美術館に所蔵されるスルタン一族の衣装は,ヨーロッパからインドに至る帝国内外から材料を集め,また紋様を模倣して作られている。オスマン帝国は既存の諸制度を柔軟に混合し,効果的な統治を実現したのである。







地中海学会大会 研究発表要旨

ギリシア青銅器時代の印章の硬度と図像

── 《星形モチーフを伴うライオン》 図像 ──

小石 絵美



  青銅器時代のエーゲ文明では現在約一万個の印章印影が確認され,10〜15年毎に約千個の印章印影が発掘等で追加される。これらの印章印影の約50%が出土地不明であり,また現時点で印章と印影が同一のものと認められるものは,一万個のうちたった一組である。これらの事実からも我々がもつ印章印影の情報量の少なさが分かる。
  印章印影には多くの研究が行われてきたが,その中でも大きな問題の一つに印章製作の作者又は工房の同定がある。作者同定の代表的な研究は J. ヤンガーと J. ベッツが共同で始め,後にヤンガー個人が行った後期青銅器時代の印章印影の作者同定を試みた研究である。しかし,彼の研究は同一工房の作品と同定するための判断基準が不明瞭であること等の多くの問題を含んでいる。ヤンガー以外にも多くの研究者がこのような工房(作者)の同定を試みたが,この問題は依然として残されている。
 ところで,近年印章の材質に注目した研究が始められ,印章研究の新たな手がかりを提供している。印章は石,金属,ガラスそして象牙の四つに大別され,これらは大きく異なる二つの加工方法により製作されることが知られている。すなわち,ナイフを用いた手による製作方法と,刃先が高速に回転し,より強力な加工を施すドリルを用いた製作方法である。技術の相違と材質の関係に注目した I. ピーニは,軟石と硬石よりモチーフに相違が認められることを指摘した。
  しかし,ピーニ自身も述べるように,彼の研究は軟石と硬石によるモチーフの選択の検討に留まり,研究の余地が残されている。つまり,モチーフが材質により相違するなら構成やモチーフの形姿も同様に相違が存在し,更にその相違は年代や出土地域にも関連する可能性も推測される。このような材質ごとの年代,出土地そして図像学的相違又は共通性を明確にすることは,上記の印章印影の作者同定の問題の手がかりとなると考える。それを証明するには,各モチーフで表される各形姿と各構成がいつ始まり,どのような変化を辿り終焉するのか,すなわち図像学的発展を明らかとし,この発展が地域とどのような関係性を持つのかを印章印影全体で分析することが必要である。しかし30分に満たない本発表において現存する印章印影全てを扱うことは不可能である為,

ここではライオンモチーフに星形のモチーフが共に表される 《星形モチーフを伴うライオン》 図像に焦点を絞り論説を進める。具体的な方法として,硬度ごとに主要モチーフであるライオンの形姿とその画面構図を調べる。次にそれらと出土地域の関係を分析する。
  《星形モチーフを伴うライオン》 図像を表す印章印影は,LB I-III 期に年代付けられた13点(軟石8,硬石4,金属1)が確認される。これらの作例で注目したい点は下記の4点である。
(1) 硬石軟石の共通性 1: 硬石2点と軟石1点から,左右対称構図ではライオンは 「後脚の立位」 で表される可能性がある。
(2) 硬石軟石の共通性 2: LM I の硬石軟石各1点は 「走位」,旋回構図で表される。また LM III の軟石硬石各1点は単体構図,「振向」 で表される。
(3) 軟石の特徴: 軟石は LM I-II に年代付けられる5点全てが単体構図において 「座位/走位」 で表される。
(4) 出土地不明作例: 出土地不明の4点が LM I-II に年代付けられた軟石であり,この時期に軟石はクレタのみで確認されることから,これらの作例4点はクレタ出土の可能性が極めて高い。
  以上から,《星形モチーフを伴うライオン》 図像においては,軟石硬石間で図像学的特徴の相違と共通性が認められた。すなわち,ある構図に対し特定の形姿を用いる法則が軟石硬石間で共通すること,そして軟石のみに認められる構成と形姿の法則があることが分かる。また,この図像は硬度の相違に関わらず地域(クレタ)と深い関わりを持つことが明らかとなった。従って,《星形モチーフを伴うライオン》 図像では,クレタにおいて硬石軟石がそれぞれ一定の造形表現の法則のようなものに従い製作されたことが推測される。
  本発表の結論は 《星形モチーフを伴うライオン》 図像の範囲内の結論であり,「異なる材質ごとの図像学的発展とその地域との関係を明らかにすることで印章の工房の活動を推測する」 という印章全体を扱う大きな研究テーマ中の大変小さな一部分の位置付けとなる。これ以外の数多くの印章印影に同様の研究を行うことで印章研究の工房特定に貢献するだろうと考える。







地中海学会大会 研究発表要旨

古代ローマの皇帝親衛騎馬部隊騎士の墓碑と,
その浮彫の 「馬」 図像

中西 麻澄



  7年ほど前から始めた乗馬を契機に,古代ローマの馬図像研究 ── その対象はコイン,記念柱等のモニュメントの浮彫,騎馬像,モザイク等 ── に取り組んでいる。その中でも本考察は,皇帝親衛騎馬部隊騎士というエリート騎士たちの墓碑浮彫に焦点を当てたものである。
  古代ローマの帝政期には,皇帝を警護する親衛騎馬部隊騎士(Equites Singulares Augusti / 以下 ESA と表記)や,高官を守る親衛騎馬部隊騎士(Equites Singulares / 以下 ES と表記)がいた。騎士である彼らの墓碑には,「馬」 の浮彫画が付いたものが多数ある。
  本発表は基礎史料に,主にローマにある758基もの ES(A) の墓碑の,銘文と全体の写真が収録された M. P. SPEIDEL, Die Denkmäler der Kaiserreiter. Equites Singulares Augusti (1994)を使用した。通常の碑文研究では,年代や文字の書体,碑文枠等が墓碑の分類基準となるが,本考察ではその基準を一度放棄した。まず浮彫図像だけから墓碑を分類し,次に図像と銘文を対照する方法を試みた。なぜなら墓碑の表面は,碑文と同等あるいはそれ以上の面積を浮彫画が占めているからである。
  その結果,墓碑の 「馬」 浮彫の図像には,騎乗しないタイプに,(1) ロングレーン図,(2) 引き馬図,騎乗するタイプに (3) 曲乗り図,(4) 狩猟図があることがわかった。アーラ隊などの身分の低い騎士とは異なり,彼らエリート騎士の墓碑には,戦闘図はほとんどないこともわかった。これは当時の 「騎士」 は,階級ではなく,身分であったためと考えられる。
  各図像については,まずロングレーンとは,長い手綱を用い,馬には乗らず,手綱さばきのみで馬の後方から,馬に勇ましく美しい動勢をとらせるよう誘導する,一種の馬事披露である。引き馬図は,さらに四つのタイプに分けることができた。中央の人物像を挟んで両側に馬がいるタイプ,側面観の馬の前に人物がいるタイプ,武器が描かれているタイプ,そして引いている馬を背景に,人物が肖像画のように大きく配されるタイプである。また曲乗りとは,スエトニウスの史料にもあるように,当時の名門の青年も行なった,難易度の高い乗馬技能の披露であり,浮彫図では馬に手放しで乗り,両腕を広げ,駈足をさせている。そして狩猟図では,墓主が馬に乗り,前方の木の洞穴から顔を出す大猪に向かい長槍

を構え,猟犬や召使の勢子を伴っている。
  次に以上のように分類できた浮彫図像と,銘文を翻訳し対照した。すると浮彫画と故人の階級に対応関係があるものがある事が ── 本考察でおそらく初めて ── 明らかとなった。すなわち墓主の階級によって使用が許された,あるいは社会通念として適切とされる図像があった可能性が非常に高い事がわかったのである。
  中でもロングレーン図は,ESA 騎士の墓碑でのみ用いられる図像であった。墓主である ESA 騎士本人は墓石最上部の 「死者の晩餐図」 の臥台に優雅に横たわる。中央のメイン画面の銘文板を挟んだ,最下段のロングレーン図に墓主は登場せず,馬丁が長手綱をもちロングレーン披露をしている。見世物が日常となっていた古代ローマの生活においても,ESA 騎士たちは自身では馬には触らず,よい馬を持ち,よい馬丁にそれを披露させる事がステータスであった事が読み取れる。またロングレーン図像は,モザイクやコイン,モニュメンタル彫刻などの他の形式には全く見られない,ESA 騎士の墓碑の独自な図像でもある。一方,肖像タイプの引き馬図や,曲乗り図は,ES 騎士の墓碑に付される浮彫であった。ESA 騎士とは異なり,画面に馬丁はおらず,自ら馬に乗ったり,自らの手で馬を引き,愛馬を伴う自身の肖像を墓石に残している。ESA 騎士に比べ,ES 騎士は馬との親密度が高かったといえるであろう。墓碑最上部の 「死者の晩餐図」 は,彼岸の理想化された風景と考えられるが,ロングレーンの馬事披露と同様,馬を引く肖像や,馬に乗り曲馬を披露する姿は,現実生活の中のひとコマを浮彫図像にしたものといえるであろう。
  また3世紀以降見られる大猪狩猟図は主に ESA 騎士のもので,プライベートで馬に乗る姿を墓碑浮彫にしている。多くのモザイク画にみられるように,狩猟は当時頻繁に行われた贅沢な遊びであった。墓碑図像の獲物が現実に仕留めることが可能な猪であり,非現実的な理想の獲物である獅子ではない事も,浮彫画に現実味を与えている。ただし大猪狩猟図像の成立に関しては,石棺等の他の形式の図像伝統も大きく関与していたと考えられる。







『泉の書』(1526年)の空間認識

永井 敦子



  ノルマンディのルーアン市を描いた絵図の一つに,1519〜26年にジャック・ル・リユール Jacques Le Lieur が作成した 『泉の書 le Livre des Fontaines de la ville de Rouen』 がある。作者は詩人としても知られ,ルーアンでは13世紀まで遡る裕福な商人の家系の出であった。一族には14世紀から地方官職や所領と爵位を得る者が現れており,件のジャックもまた,おそらく20代後半の1503年に国王の公証人・秘書官の職を得た後,1517年に都市参事会員に選出された。
  現在は 『泉の書』 のほぼ原寸大の複製版が市販されている(éditions point de vues, 2005)。もとは羊皮紙製の説明書1冊77葉と4枚の図で,図の1枚はルーアン市街全体をセーヌ河の対岸から見渡した構図である。残る3枚は,それぞれ1257年に開かれたガロール水源,1500年のカルヴィル水源,1518年のヨンヴィル水源から市内の共同井戸まで,水路(上水道)が中央を貫通する構図である。水路にはトワーズ単位の目盛りが打ってあり,水源と貯水槽や分岐点,水路沿いの道路・広場と主要な建物などが描かれている。市庁舎と城塞との距離約 600 m が,ガロール水源からの図の上では 1.6 m になる程の縮尺で,水路図はどれも細長く数メートルに及び,ときに水路の屈曲とともに図面が側に継ぎ足されている。
  これらの図面は当時の都市景観と建築についてだけでなく,空間認識についての史料としても興味深い。水路図では,水路沿いの一本の道路を挟んで向かい合う家々が,ある部分では道の両側を1階の床として互いに上下反対に描かれ,あるいは角に立つ建物の屋根から道の奥を覗き込んだように,道の両側に屋根だけを横に並べて描かれている。都市の全景図がこれと組み合わされているが,それは市街をほぼ水平に眺望したもので,密集した建物に隠れて道路網・水路網が描かれていない。ル・リユールは水路図を,おそらく水路に沿って歩きながら作成し,都市全体の図も鳥瞰する視点ではなく地面近くの視点から描いた。その結果,水路ごとの部分図と都市の全体図が整合されていないように,現代人には見える。現代人なら,まず都市全体を鳥瞰した地図を頭に思い浮かべ,そのなかに水路を引き直していこうとするだろう。現に複製版の解説には,18世紀に作成された全市の地図の上に,ル・リユールの図に描かれている範囲を示した図が添えられている。
  だがル・リユールを含む16世紀の人々に,現代人の

ように地図を用いる空間認識が浸透していなかった可能性は十分にある。イーフー・トゥアンは 『空間の経験』 のなかで,空間の概念化には文化的・社会的な差があると指摘した。ダニエル・ノルマンもまた,1564年から66年までフランス王シャルル9世の国内巡幸に随行した,ジューアン Abel Jouan の記録を取り上げた際に,「道順(としての移動記録)から地図(の上に示された移動記録)へは,何かの閾を越えなければならない。ところでジューアンは,行程を地図上に落として報告することに何ら意を砕いていないのである」と言う。さらにフランソワ1世期に作成された,不正確なうえに道路地図でもないフランスの全国地図と,シャルル8世のイタリア侵略に際して作製された図,あるいは1549年のブーローニュ攻防戦の後にニコレ Nicolas de Nicolay によって描かれたブーロネ地方の道路地図とを比較して,次のように言う。「長い間,純粋に地図を描くことと,そこに(道路を表す)線を引くこととは,別々の作業であった。それは単に技術上の困難さではなく,むしろ理解と認識の問題に関わるのであろう。」(J. Boutier, A. Dewerpe et D. Nordman, Un tour de France royal. Le Voyage de Charles IX (1564-1566), Paris, 1984. 訳とカッコ内補足は筆者)
  16世紀に製作されたルーアン全体の鳥瞰図・道路地図としては,1575年のベルフォレ Belleforest のものが知られている。ル・リユールとベルフォレの間に,あるいはベルフォレの後に,空間認識における 「閾越え」 が起きたのではないだろうか。筆者はルーアンの祝祭記録から,16世紀前半に盛んだった総行列の行程上に都市民が集まる形式と,1580年代以降に定着する都市民が各自の家の前で祝火を焚く形式には,都市の共同性の表明として違いがあると捉えており,この形式の転換が都市空間認識に関わる「閾越え」の結果かもしれないと思う。それはかつて,都市参事会史料で祝火についての記述を読んでいたとき,大聖堂から市内各地へと火が点されていく様子を,地図の上で,あるいは上空から眺めるように鮮やかに想像した,極めて個人的な心象に基づいている。では祝火を焚いた人々,そう指示した人々,あるいは史料にそう記述した人々に,同じ想像は可能だったのだろうか。そして都市の全体地図を作製する前に水路だけの部分図を作った人々,地図を持たずに旅をした人々の空間認識を,私たちはどのように分析,または追体験できるだろうか。







セミナー 「エドワルド・チリーダ」 に参加して

── チリーダと地中海 ──

吉本 由江



  昨年9月,サン・セバスティアンのチリーダ・レク美術館において,スペインの彫刻家エドワルド・チリーダ(1924〜2002年)に関するセミナーが開かれ,講師としてベルリン美術大学のアナ・マリア・ラベ,マドリード・コミーリャス教皇大学のリカルド・ピニリャ,映画監督のスサナ・チリーダが招かれた。
  セミナー第1日目は,時間・空間・素材のテーマに沿って,チリーダのアンソロジー及び造形作品と,同時代または過去の哲学的テキストとの対話が試みられ,セミナー2日目は,チリーダの晩年に撮影されたドキュメンタリー映画 『チリーダ ── 芸術と夢』(1998年)の紹介と上映の後,出席者を含めて活発な討論が行われた。また,屋外の会場では,チリーダと影響関係のある詩の朗読が行われた後,参加者は,各自チリーダのアンソロジーから選んだ一文を順に読み上げ,その言葉を記した風船を一斉に空に放ってセミナーを終了した。
  チリーダの芸術は地中海に対しアンビバレントな様相を示す。内戦期少年時代の数年間をパリで過ごしたチリーダは,1948年再びパリへ移り,翌年の「五月サロン」では最初期の石膏作品 《形態》 が高い評価を受けた。この半具象的女性像は,チリーダがルーヴル美術館で接したギリシア美術,特にアルカイック彫刻からの影響を示している。自ら回想するように,当時チリーダは地中海の 「白い光」 に強く魅かれる一方で,その影響から離れる必要性を感じ,このパリ滞在は一年余りで終止符が打たれる。他からの影響を絶ち,彼が帰途に着いたのは,スペイン北部カンタブリア海沿岸のサン・セバスティアンであり,彼の曰く 「黒い光」 であった。この故郷で,チリーダはバスク地方の伝統に根差した鉄での作品制作に集中することになる。1956年パリ・マエ画廊での初の個展に向けて,フランスの哲学者ガストン・バシュラールが寄せたカタログには,若い力に溢れ鉄と取り組むチリーダの姿が生き生きと描き出されている。
  チリーダのグラフィック作品は,自らの選択により色彩を排除した結果として終生モノクロームであり,彼の 「黒い光」 への根本的な志向と一致している。しかし,後に 「作品内部に光が入る必要性」 を感じたチリーダは,1963年にアテネを旅行し,その影響を肯定的に吸収し表現する段階へと達する。この時期からチリーダは大理石の素材にも取り組み,《カンディンスキーへのオマージュ》(1965年)では空間の交差により,《ゲーテへのオマージュ IV》(1978年)では,深い掘り込みが

もたらす白色大理石の輝きにより,彫刻内部における光の効果を模索している。
  一方,1968年,『芸術と空間』 の特別出版のために芸術家の協力を求めていたマルティン・ハイデッガーは,チリーダとの面会の後,空間についてそれまでに記した文章を乞い,その後,彼に挿絵の協力を要請した。チリーダが四半世紀に渡り故郷の海岸のために計画を温め1977年に完成した 《風の櫛》 は,物が存在論的価値を持つ場であり,それを取り巻く物や人との相関関係にあるとするハイデッガーの空間概念に呼応している。環境芸術としての大規模な彫刻作品の内,ヒホンの防護海岸に設置された 《水平線賛美》(1990年)では,現在が永遠につながり到達しえない距離が人を等しく中心に置く水平線のシンボリズムに焦点が置かれている。
  この水平線のシンボリズムは,1985年以前,山の内部空間から水平線を眺め,月と日の光を受けるという新しい着想をチリーダが得た時,彼の光への志向と融合を果たしていた。ホルヘ・ギジェルモの詩 「深遠なるものは大気」 にインスピレーションを受けたこのプロジェクトは,現存の山に対し,水平線が見える位置に50メートル平方の空洞を掘り進み,山中の空間において,同様の方形空洞を二つ垂直上方に設けるもので,シチリア,フィンランド,スイスから場所の提供が打診された。しかし,チリーダが直観を受けたのは,カナリア諸島第二の島フエルテベントゥーラの海岸から400メートルに位置するキンダヤ山であった。
  チリーダは,山を彫刻とするこの壮大なプロジェクトを 「寛容のモニュメント」 と呼び,場の巨大さの前にあらゆる人間が同等となる全人類に向けたオマージュとした。開発権買い上げにおける公職スキャンダルや山に対する影響,キンダヤ山が有する遺跡の保護などから多くの論争と拒絶反応を引き起こしたこのプロジェクトに対し,チリーダは以下のコメントを残している。「ユートピアは実現されないのかもしれない。他の場所で他の誰かがやり遂げるのかもしれない。それとも,この彫刻,太陽と月の光に接することができるこの広く深い空間,人類の邂逅の場は,キンダヤ山の聖なる山の心に届き得るのかもしれない。」
  荒い側面が山肌を思わせる 《メンディ・フツ》(1984年)では,白色大理石に方形の空間が交差し,チリーダが立ち返り発展させてきた光への志向と,それが生んだキンダヤ山プロジェクトの原型を見ることができる。






学会からのお知らせ


* ブリヂストン美術館秋期連続講演会

  9月1日より29日までの毎土曜日(全5回),ブリヂストン美術館(東京都中央区京橋1-10-1)において秋期連続講演会を開催します。各回,開場は午後1時30分,開講は2時,聴講料は400円,定員は130名(先着順,美術館にて前売券購入可)。

「芸術家と地中海都市 II」
9月1日  「ダヴィッド,ドラクロワとギリシャ」  鈴木 杜幾子氏
9月8日  「フィリッポ・リッピとプラート」  金原 由紀子氏
9月15日  「ヴィラ・メディチとフランスの画家たち ── ローマのフランス・アカデミーをめぐって」  三浦 篤氏
9月22日  「ミラノのスフォルツァ宮廷のレオナルド・ダ・ヴィンチ ── アンブロジアーナのコレクションから」  小佐野 重利氏
9月29日  「ローマとハドリアヌス帝」  池上 英洋氏

事務局夏期休業期間:
    7月30日(月) 〜 8月31日(金)