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学会からのお知らせ


* 学会賞・ヘレンド賞

  本学会では今年度の地中海学会賞及び地中海学会ヘレンド賞について慎重に選考を進めてきました。その結果,次の通りに授与することになりました。授賞式は6月16日(土)にしまなみ交流館(尾道市)で開催する第36回大会の席上において行います。

地中海学会賞:京都大学学術出版会
  「西洋古典叢書」刊行事業に対して
  京都大学学術出版会は,古代ギリシア・ローマの古典をすべからく邦訳刊行することを目標として1997年6月より「西洋古典叢書」を出版してきた。第I期(1997/6〜1999/4)に15冊,第II期(2000/5〜2004/2)に31冊,第III期(2004/2〜2006/8)に17冊,第IV期(2007/6〜2011/3)には21冊が出版され,2011年度からは1年に7冊程度刊行する予定で翻訳書の出版がつづけられている。刊行総数は90冊を超え,100冊の区切りを見据えるところまできた。昨今の厳しい出版状況にあって,本邦初訳となる知られていない翻訳書の出版にも力を注ぎ,読者に日本語で西洋古典を享受する機会を増やしてきた意義はきわめて大きい。

地中海学会ヘレンド賞:桑木野幸司氏
  桑木野氏による著書 L'architetto sapiente: giardino, teatro, citta come schemi mnemonici tra il XVI e il XVII secolo (叡智の建築家:記憶術的図式としての16〜17世紀の庭園,劇場,都市)(Olschki, 2011)は,これまで知られていなかったイタリアを中心とする初期近代ヨーロッパの「建築」,「記憶術」,「百科全書主義」の創造的関係の解明に取り組んだ労作である。同氏は16,17世紀の建築文化の中に潜在していた「認識形而上学」的側面,すなわち空間の配置・構成・装飾パターンが人の認識プロセスに創造的に関与する仕組みを,豊富な事例の分析を通して明らかにした。その中で従来の建築史,庭園史,美術史それぞれの枠組みからでは捉えられなかった豊かな建築文化の再構成の方法を示した意義は大きい。

* 『地中海学研究』

  『地中海学研究』 XXXV (2012) の内容は下記の通り決まりました。本誌は第36回大会において配

布する予定です。
「ナイル水源からエデンの園へ──初期キリスト教教会建築の装飾におけるローマ世界のナイル河図像の受容について」 田原文子 / 「ドミティッラのカタコンベ墓室39 (NR)の巨大人物像──新発見壁画とその新たな考察」 山田順 / 「優しさの形──エレウサ型アンナ像の出現とその意義」 菅原裕文 / 「中世教皇庁の慈善施設──施与局と救護院」 藤崎衛 / 「レオノール・ロペス・デ・コルドバの『回想録』──ナラティヴ戦略としての矛盾」 瀧本佳容子 / 「ムリーリョ作《ハンガリーの聖エリザベート》(1672年)とカリダード施療院の創設理念」 豊田唯 / 「王室礼拝堂におけるテネブルの聖務で聴かれた音楽──ルソン・ド・テネブルの演奏実践を中心に」 川田早苗 / 「近代ヴェネツィアにおける都市発展と舟運が果たした役割」 樋渡彩 / 「書評 水田徹著『パルテノン・フリーズ 観察と考察』」 芳賀京子 / 「書評 望月典子著『ニコラ・プッサン 絵画的比喩を読む』 大野芳材

* 第36回大会

  先にお知らせしましたように第36回総会を6月16日(土),しまなみ交流館(尾道市)において開催します。総会に欠席の方は,委任状参加をお願いいたします。
一,開会宣言
二,議長選出
三,2011年度事業報告
四,2011年度会計決算
五,2011年度監査報告
六,2012年度事業計画
七,2012年度会計予算
八,閉会宣言

* 7月研究会

テーマ:ボエティウス復活──ルネサンスの音楽思想
発表者:山本 成生氏
日 時:7月21日(土)午後2時より
会 場:国立西洋美術館講堂
参加費:会員は無料,一般は500円

訃報 4月26日,本学会常任委員の福井千春氏が逝去されました。ご冥福をお祈りします。






瀬戸内海で地中海を想う

──第36回大会のご案内──

末永 航



  今年の地中海学会の大会は尾道で開催することになりました。倉敷や広島など,これまでも何度か瀬戸内海を会場にしてきましたが,かなりひさしぶりです。また,瀬戸内で地中海を想う時をご一緒したいと思います。
  尾道は広島県の東部,昔の国名でいうと備後地域にある古い港町です。瀬戸内海の真ん中あたりに位置します。12世紀に背後にある後白河法皇領太田荘の倉屋敷が置かれ,ここから産物が船で運びだされるようになりました。その後,明との貿易にも利用され,江戸時代には北海道や北陸と大坂を結ぶ大動脈「西廻り航路」の寄港地として繁栄します。
  近代になっても広島県の経済の中心地として大きな役割を果たし,戦災を受けずに迎えた戦後は造船業など新しい産業も発達しました。
  古くから豪商が多く,文化の支援にも熱心だったため,社寺や住宅など多くの文化財が残っています。また志賀直哉,林芙美子など多くの作家たちとも縁が深く「文学の町」といわれますし,小津安二郎の『東京物語』をはじめてとしてたくさんの映画の舞台にもなってきました。
  初めて来られる方には,この町の地形そのものがいちばん印象的なことかもしれません。駅を出ればいきなり海です。町は細長く海沿いに延び,山が迫っていて,平地はわずかしかありません。向かいには「向島(むかいしま)」というかなり大きな島が市街の長さだけ横たわっていて,間に挟まれた海(尾道水道)はまるで川のように見えます。
  市街はわずかな海沿いの地域に,下町ともいえる海岸通りと長い商店街が延び,北側はすぐ尾道三山と呼ばれるそれぞれに古いお寺がある山になります。寺の下の斜面が,始めは別荘地として開発された坂の町の住宅地で,車が使えない不便さから空き家が増えたのですが,これを活かして若い人たちがさまざまな再利用を始めていて今いちばんおもしろい地域になっています。
  今回の会場は駅前,つまり海のそばの,近代的なホールです。
  大会はまず16日の午後,学会前会長の樺山紘一先生の記念講演「地中海と瀬戸内海──島の歴史と伝承と」から始まります。
  つづくトーキングは「崖に住む」。尾道と地中海の斜

面都市をそれぞれの専門家が語り合います。イスラーム教徒とキリスト教徒の関係史を研究し中東の都市に詳しい太田敬子さん,イタリアや日本,いや世界の都市史研究の第一人者で最近アマルフィの名誉市民になられた陣内秀信さん,ビザンティン美術の研究者でギリシアをよく知る益田朋幸さん,そしてまちづくりの専門家として尾道の路地のすべてに通暁し,「空き家プロジェクト」でも活躍する真野洋介さんが集まってくれます。司会はイタリア都市史の専門家で現在の学会事務局長,今回の大会の発案者でもある野口昌夫さんです。
  翌17日には5本の研究発表の後,シンポジウム「海の道──航路・文化・交流」があります。地中海と瀬戸内海を,航路を切り口に考えていきます。荒又美陽さんは地理学の立場からフランスのアフリカ系移民を,亀長洋子さんはイタリア中世史の専門家として海洋都市国家ジェノヴァを,武田尚子さんは社会学の視点から瀬戸内海の漁村を,尹芝恵(ユン・ジヘ)さんは主に絵画資料から,瀬戸内海を通って江戸幕府に向かった朝鮮通信使を,それぞれ研究されています。尾道在住の末永が進行役をつとめます。
  地中海学会ではこれまでも松江や佐伯など大学以外が受け入れ元となって大会を開いたことがありましたが,今回は尾道のNPO法人おのみちアートコミュケーションが運営を担当いたします。商都の旦那衆の伝統を受けつぎ,コンサートをはじめさまざまなイヴェントをボランティアで企画運営してきた団体です。尾道市からもご協力を得,市内の日頃おつきあいのあるいろいろな団体や個人の方が力を貸してくれます。
  学会の開催ははじめての経験ですので,行き届かない点も出てくるかもしれませんが,なにとぞお許しください。
  ヴェネツィアのような,リジュボア(リスボン)のようなこの町では,住民はみんな自分の町が大好きです。訪れる人にやさしい人たちです。この機会に是非町を散策して尾道の人たちともふれ合う時をおもちくださればと思います。
  四国へ渡る橋の西のルート,「しまなみ海道」の起点でもあり,魅力的な島々もすぐ近くです。
  皆さんのお越しをお待ちしています。







新カイロ物語

──『スルターンのトゥグラの書』から──

松田 俊道



  在外研究でカイロに滞在する機会を得た。革命による変化が目につくが,言論の自由はその大きな成果の一つであろう。革命直後に,『スルターンのトゥグラの書』(ダール・アルシュルーク出版)が出版された。これは小説であるが,作者による一つのイスラーム文明論であり,イスラーム時代以後のエジプト史のある理解でもある。エジプトで活躍したイブン・イヤース(1448-1524)やジャバルティー(1753-1825/26)の著作が現代の問題に結びつけられている。また,主人公が,自らが作成した地図に従ってカイロを旅する九つの旅物語を年代記風に記したものでもある。最後にそれぞれの地図を重ね合わせると,このカイロの地図はオスマン朝最後のスルターンのトゥグラ(花押)の形にぴったりと符合するというものである。
  作者のユーセフ・ラハーは,1976年にカイロに生まれたが,イギリスで英語や哲学を学んだ。カイロやベイルートで活躍し,アブダビの英語の新聞に連載小説などを書いている。
  「旅,それは都市の地図の中に光り輝く幸福を探求することである」(アリー・バドル)という言葉に発想の手がかりがあるように思われる。同様に作者は,歴史への飽くなき関心から,アラブの古典のなかにも創作のヒントをえている。イブン・バットゥータの旅行記,アラビアンナイト,エジプト人史家マクリーズィー(1364-1442)の地誌などの恩恵を受けている。
  作者は,主人公にイスラーム文明論やエジプト史,オスマン朝史を語らせる。たとえば,マムルーク朝最後のスルターンのトゥーマーン・バーイは,エジプト民族主義運動という考え方で言えば,エジプトのために戦って死んだエジプト人の殉教者の英雄の一人なのである。その理由をイブン・イヤースの年代記で説明する。すなわち,エジプトを支配したマムルークのうち,ルーム人は二人だけしかいないのである。エジプトで良く知られているチーズ,ギブナ・ルーミーはここから来ている。このチーズは,アレクサンドリアでは今でもギブナ・トルキーと呼ばれているという理由からもわかるように,トルキーだけでなく,セルジュークの子孫を継承したトルコマン族をも意味している。そしてセルジュークはアッバス朝カリフの臣民であったのだ。つまり,マムルークはオスマン家の人とは違うということを言っているので

ある。
  さらに言えば,作者は,このエジプト人の民族意識の問題を,アラブのエジプト征服以来エジプト人とは誰かの問題としてとらえている。したがって,ナセルがエジプト人として政権を取り戻したとはみなさない。また,エジプト史を語る彼の矛先は手厳しい。返す刀で,ナセルを鋭く批判する。すなわち,ナセルはマムルーク朝の最低のスルターンよりも失敗した人物であったと。
  さて,小説の中では,オスマン朝の最後のスルターンでオスマン家の第25代カリフであるスルターン・メフメト6世が幽霊になって主人公のムスタファの前に登場する。それはオスマン朝のカイロ征服の505回目の記念日であった。スルターンは,ムスタファが偶然手に入れ,その指にはめている指輪の彫刻は,スルターンのトゥグラに他ならないことを告げる。そこには,Muḥammad Waḥīd al-Dīn Khān ibn ‘Abd al-Majīd al-Muzaffar Dāyman (アブド・アルマジードの息子のムハンマド・ワヒード・アッディーン・ハーンは永遠なる勝利者である)と書かれていた。さらに,彼はムスタファに失われたコーランのマルヤムの章の写本七つのうちの一つを探し出すことを義務づける。これがないと,ヒジャーズにおけるカリフの職が執行できず,ムスリムに対する攻撃を広く審議することが出来なくなり,危機がやって来ると告げる。王朝の死は文明の終焉となってしまう。ウンマの再興が望まれるのだと。その使命を帯びたムスタファはついにマルヤムの章を記した写本の一つを発見する。
  ムスタファは,カイロの中の彼が日々行動する場所を,自分が作成した絵入りの地図にイラストと共に書き入れ,その地名に独自の名前を付けていた。その地図を彼は念入りに時間をかけて作成した。その地図をもとに大カイロの中を旅するのであるが,その地図を眺めながら,彼はこの指輪に彫られたトゥグラが,大カイロの地図とぴったりと一致することに気付いて小説は終わる。
  本書はもちろん歴史家の手による研究ではない。今エジプトは大きな変革期を迎えている。その背後に潜んでいる歴史を抉り出したという点では,本書はタイムリーなものである。エジプト人の若者自身が,エジプトの歴史やイスラーム文明がどうあるべきかを考え,それを提示したという点で大変興味深いものである。







ギリシアの経済危機に思うこと

木戸 雅子



  昨年の東日本大震災と原発事故で日本全体がショック状態にあった時,ギリシアの友人たちから電話やメールが次々に来た。ギリシアでは毎日テレビで朝から晩まで津波と原発事故の映像が流されている。とにかくまず家族でギリシアに避難して来いと口々に勧めてくれる。うちには家が二つあるからとか,三つとか,何年でも家族で住んでくれてかまわない,というのである。ギリシアに家族で移住してその後いったいどうやって暮らすのか,とついつい笑ってしまう。すると「真面目に言っているのよ,ちゃんと聞きなさい」と言われる。1か月ほどそういう状態が続いた。しかしその後ギリシアの経済危機がいよいよ悪化して,今度は日本で日常的にギリシアが報道されるようになった。ギリシアに1972年に留学して以来ずっとギリシアに関わってきたが,これほど両国が互いのニュースを繰り返し流すということは初めてのことである。
  それぞれの報道はどうだっただろうか。ギリシアでは世界各国と同様日本人の冷静で我慢強い災害時の態度が賞賛され,ギリシアだったらあり得ないと好意的であった。そうした報道を見て,友人も何か力になれないかと,私に電話をくれたのだろう。一方日本のメディアは,多くの場合EU側の立場に立っている。この経済危機を説明するために働きもののドイツ人を蟻に,怠け者のギリシア人をキリギリスに譬え,地図に蟻とキリギリスをイラストで入れて流すテレビ局まであった。これはあまりにも一方的で,ギリシアを見下している。
  確かにユーロに加入して以来,ギリシアは急速に発展し,それが実力以上の急成長だったのは明らかである。私が留学した時はパパドプロス率いる軍事独裁政権下にあった。人々の暮らしは慎ましく,町の様子は日本の昭和30年代頃の感じで,イメージとしてはアンゲロプロスの『旅芸人の記録』そのものだった。留学中に軍事政権が倒れ,民政化し,キプロス紛争などとギリシアの現代史を目の当たりにした。その頃のギリシアがよくここまでと思うほどヨーロッパ化し,最近ではギリシアの中間層の生活は日本のそれよりも見た目にははるかに豊かである。給与水準は日本の平均よりも低いのに,何故このような生活ができるのか常々不思議であった。40年前に日本の遥か後ろを歩いていたはずのギリシアと現在のギャップが彼らの負債分なのだ,と大雑把に捉えるとわかり易い。
  この実力以上の支出がギリシアを世界経済の厄介者にしたという否定的な見方が主流だが,この間,ギリシア

人が勤勉に働かず快楽を追及し,バカンスを楽しむことに浪費してきただけではないということも事実である。EU に入ってギリシア人を大きく変えたのは教育だと思う。そしてその成果は確実に表れている。大学4年間に EU の交換留学制度のエラスムス・プログラムで何度も他の国の大学で学べる。友人の子供たちも在学期間にスペイン,スウェーデン,オランダなどに留学し,その後大学院へ進学している。40年前のギリシア人が内向きで海外を知らず,教育水準も低かったことからすると,隔世の感がある。ごく普通の庶民も EU の国々で見聞を広め,質の高い教育の場を与えられ,実力をつけた若者が確実に増えているのだ。こうした EU の教育プログラムは大学に限らず,小,中,高校でもさまざまなものがある。例えば,エコロジー,水問題,といったテーマで研究をさせ,各国で開かれる夏のキャンプなどで国際的な交流を持つ。その成果は美しい小冊子としてまとめられる。これを指導する教員は毎年のように外国へ生徒を引率して出かけている。
  子供のころからグローバルな視野が培われた大学生は,実にしっかりしておりその教育水準の高さに驚かされる。ギリシアの今後を憂慮する一方で,そうした若者たちを見ると,ギリシア人のもつ底力を信じたくなる。すでに困難な時代を幾つも乗り越えてきた人々であるが,今までと違うのは,こうした国民力が育っていることではないか。少し時間はかかるだろうが,きっとギリシアはまた乗り越えるだろう。
  しかし優秀な若者は育ったが,ギリシアに職がないため,海外流出が進んでいる。将来的にもなかなか戻れないだろうから,ギリシアはせっかく培った学問・教養面においても貧しくなってしまう,と嘆く友人もいる。
  そうした中で最近若者たちに新しい動きがある。若者が音楽,美術,演劇でかつてないほど活発に活動をし始めたというのである。演奏会や劇の上映が頻繁にあり,学生や失業者には入場券を割引きするので興行は盛況だという。経済危機下で芸術活動が活発になるというのは,日本的には「それどころではないだろう」となかなか理解しにくい。これは仕事のない若者が本気で自分たちの生き方を模索し始めた証だとみられている。経済危機に見舞われながら内面に向かうというのは,いささか強引かもしれないが,どこか古代ギリシア人を彷彿とさせはしまいか。友人の多くはあまり今回の事態に非観的ではない。これはギリシアが変われるチャンスだというのだ。そうであることを心から祈る。







カルヴィーノ「世界の記憶」再読

――情報と現実のずれ――

橋本 勝雄



  光速を超える粒子が観測されたとか,NASA が600光年彼方に「第二の地球」を発見したとか,iPS 細胞の樹立に成功したとか,そんな科学ニュースを目にするたび,カルヴィーノだったら,そこからどのような物語を作りだすだろうと考えることがある。
  頭に浮かぶのは,イタリアの現代作家イタロ・カルヴィーノ(1923-1985)が60年代に出版した二冊の短編集『レ・コスミコミケ』,『柔らかい月』(Le cosmicomiche, 1965; Ti con zero, 1967)のことだ。冒頭に置かれた科学的言説の一節を土台に,あらゆる時空間に存在する年齢不詳の Qfwfq 老人が自由奔放な語りを繰り広げる,宇宙的(cosmico)で喜劇的な(comico)短編群である。
  この連作はその後『世界の記憶,その他のコスミコミケ物語』(La memoria del mondo e altre storie cosmicomiche, 1968/1975)を経て,最終的に『旧・新コスミコミケ』(Cosmicomiche vecchie e nuove, 1984)に至るまで,作品の削除と追加,配置変更がなされたが,そのなかで,最近とくに気になる未邦訳作品がある。
  短編「世界の記憶」(La memoria del mondo, 1968)は,明らかにこのシリーズに属する作品で,68年版では本のタイトルの一部になっているが,84年版には収録されず,Qfwfq も登場せず冒頭の科学論文の引用もないという点でも変わっている。
  近未来に時代設定された物語は,ある国際組織の局長が引退を迎えて後任のミュラーに対して語りかける形で進行する。冒頭の二人称(「ミュラー,君を呼んだのは,ほかでもない,つまりこういうことなのだ」)は,一見すると小説『冬の夜一人の旅人が』(Se una notte d'inverno un viaggiatore, 1979)の技巧的な語りを思わせるが,主人公=語り手が眼前のミュラーに話しかける(ただミュラーの反応は描かれない)という意味であって,それほど特異なものではない。
  その組織では,題名のとおり「世界の記憶」すなわち「人類のあらゆる知識を集積化した総体的歴史」の製作に取り組んでいるのだが,本当の目的は,やがて(50億年後に)訪れる太陽の終焉,そして人類の絶滅に備えて,人類が貯えた情報を残すことだと明かされる。
  「人類が絶滅したとき,それははたして何になるのだろう? 人類自身にかんする,そして宇宙にかんする一定量の情報だ。もはや更新も増加もしない以上,その量

には限りがある。宇宙はしばらくのあいだ,情報を集めて精製する特別な機会を手に入れた」。
  こうして,人類が死滅した後のはるかな未来に存在するであろう知的生命体に伝達すべき知識の集大成,情報の取捨選択をめぐる省察が始まる。
  もはや存在しなくなった人類と,人類が構築する包括的で詳細な情報の集積の対比,いわば「世界」と「世界の記憶」は,1985年のニューヨークでの講演「書かれている世界と書かれていない世界」(Mondo scritto e mondo non scritto)を連想させる。
  しかしここでは,並置する二つの世界の差異というより,「存在しなくなった世界」と「残されたその記憶」を同一視すること,すなわち「そこに収められなかったものは存在しなかったと同じ」であるという記録/記憶の宿命に焦点が当てられる。
  その記憶は中立的で客観的なデータの集積ではない。むしろその記録の網の目から漏れたものこそが本当に重要であり,「宇宙は,記録されない瞬間の不連続な網の目に存在する」という主張が興味深い。局長の任務は,「我々の各部局が収集し選別したデータ全体に,それらのデータが真となるのに必要なわずかな主観的な痕跡,やっかいで不安定な何かを与えること」なのである。
  語り手の論理はしだいに逸脱し,主観的な事柄の挿入から,記録上の(そして現実における)事実の歪曲と抹消へ,そしてカルヴィーノには珍しいショートショート的な「意外な結末」に至るのだが,それについてはここでは触れないでおこう。
  この「世界の記憶」からすぐ連想されるのは,情報を増やし続けるインターネット(たとえば書籍の電子化による過去の情報の取り込みとか,ブログや SNS による個人記録の蓄積)である。文字だけでなく音声,映像を含めたデータは,コンピュータの処理能力の向上に並行して,ますます稠密かつ膨大になるだろう。
  一個人にかかわるあらゆる情報が収集され,その本人自身も詳細な記録を残す環境が整いつつある現代において,データ化された情報が肥大する一方で,そのデータの網の目から漏れた部分が現実に落とす影は色濃くなっているように思える。
  45年前に書かれた作品のなかに,ネット社会に生じる情報と現実の齟齬の問題が浮き上がってくるのが面白い。







自著を語る 68

『預言者ムハンマドとアラブ社会
信仰・暦・巡礼・交易・税からイスラム化の時代を読み解く』

福村出版 2012年2月 543頁 8,800円+税

医王 秀行



  預言者ムハンマドに関する書籍は,日本でもかなり多くなってきた。中でも,イブン・イスハーク(767年バグダードに没)の著した『預言者ムハンマド伝』(後藤明・医王秀行・高田康一・高野太輔訳 全4巻 岩波書店 2010〜12年)が刊行されたことは意義深い。筆者も訳者の一人である本書は,ムハンマドの伝記の決定版としてイスラム世界で読み継がれてきた。原典資料が日本語で読めるようになったことで,ムハンマド時代の研究環境が飛躍的に改善されることになる。索引や系図も完備されており,初学者でも研究に利用しやすくなっている。かくいう筆者が,表記の研究書を出版できたのも,この翻訳書の完成によるところ大である。
  アラブのイスラム化とは何だったのか,一概には言えない。偶像崇拝が真っ向から否定され,カアバ神殿の周囲で行われていた誓願,奉納,占い,直訴,埋葬,屠殺などの儀礼行為はそのほとんどか瞬く間に消えていった。一方で,礼拝や断食のように新規に設立された儀礼もある。そして本書で詳しく扱った巡礼行事のように,儀礼の内容はさほど変わらなくとも,イスラム的な意味づけが新たに付加されていったものもある。アラブ的なものすべてが否定された上でイスラム的な枠組みが樹立されたわけではない。
  前イスラム時代は,アラブ・イスラム教徒からジャーヒリーヤ時代と呼ばれ,無知蒙昧の偶像崇拝の時代とみなされてきた。個々のアラブにとっては自ら属す部族の掟が何よりも優先され,部族は血の復讐,部族間抗争に明け暮れていたと思われてきた。そのようなイメージを払拭するのは難しい。ムハンマド死後,ほどなくシリアやイラクで開花したアラブ,イスラム文明を見れば,相対的にこの時代を,粗野で未開な社会であったとみなす考えはもっともなものである。ただ筆者は,イスラム文明の形成は地中海,ペルシアの影響というよりも,前イスラム時代の文化的蓄積が,高度な文明の形成へとつながったと考えている。
  初期史料の多くは9世紀後半以降のものである。そこではメッカがアラビア半島の信仰,交易の中心地であり,クライシュ族は高貴な人々とたたえられる。こうした記述は,イスラム史料の特徴から来るものであり,実際のところ,メッカは半島のあまたのオアシス都市のひ

とつにすぎなかった。各地で有力な偶像が祭られ,巡礼祭が盛大に行われた。巡礼の時期はスーク(年市)の立つ時期でもあった。地域のこうした祭礼は特定の時期に実施された。メッカ方面では春,シリアでは夏至の頃,イエメンでは冬といった具合である。気候や季節風,海流の影響もあった。各地で神聖月が設定され,様々な部族が巡礼儀礼や交易の維持管理にあたっていた。季節に応じた行事を盛り上げるために暦は太陰太陽暦が用いられた。ムハンマドが導入した純粋な太陰暦はこういった前イスラム時代の大規模なシステムを否定するものであり,メッカを唯一の巡礼地とするイスラム化を促進することとなった。メッカを中心とする求心力の強いイスラム世界の成立は,それ以前のアラビア半島に見られた,人,物,財のダイナミックな流れを可能にしていた社会システムが背景にあるのである。
  アラビア半島は決して貧しい社会ではなかった。乾地適応したラクダはアラビア半島でこそ多くの飼育が可能であり,羊の10倍で売れた。金銀鉱山は各地に存在し,金塊,銀塊は交易に用いられて,地中海方面から,絹,綿の衣料,小麦,葡萄酒,武器,奴隷,馬,宝石など高価な商品がメッカなど諸都市に流れ込んだ。メッカではもともと巡礼地に近いという地理的条件により,皮なめし産業がさかんであったが,メッカ巡礼が大規模化するに伴い,一層の発展をみた。アラブ社会の活発な商業活動は,前イスラム時代から連綿と続いていたのである。
  半島各地の年市では,取引税は取られていたものの,強力な王権が一律に税を課すという事例は,ムハンマド以前にはほとんどなかった。ムハンマドが各地に課したサダカは,メディナのイスラム政府の軍事的力を背景にしたものであったが,ムハンマドの死とともにアラブ諸族の猛反発を浴び,サダカの移送はその後のカリフ政権により否定された。メディナ政府はその財政的危機を大征服,聖戦の実施に求めざるを得なくなるのである。サダカ,ザカートは救貧税としてイスラム社会に定着するに至る。
  巡礼,交易活動の隆盛,豊かな経済,自立的な社会,高い文化水準,といった観点から,イスラム発生前後のアラブ社会を連続的に捉えていかねばならない。






表紙説明 地中海世界と植物 27


柘榴/小池 寿子


  イランからインドにかけての原産とされる柘榴は,西南アジア地域で栽培されていた最古の果樹のひとつだ。学名を Punica granatum (pomegranate) という。熟すとはじけるように固い皮を破り,まるで傷口のようにぱっくりとひらくその亀裂からのぞく丸く真っ赤な多くの種子。種子を取り囲む半透明の仮種皮は,淡紅色で甘酸っぱく,水を渇望しながら生死のあわいを生きるこの地域の人々に豊かな果汁と薬用効果をもたらす。防虫効果もあり,自身をかたくなに守りつつも,身をひらけば一気に豊穣の小宇宙へと誘ってくれる柘榴は,その出自から,生死の象徴性を帯びて巣立っていった。
  ディオニュソスの滴り落ちた血から生え出たとされ,アドニスの神木となり,大地母神の果実とされては豊穣多産の女性原理をもかたどる。冥界で柘榴の実を食べたペルセポネは地上界へのまったき帰還は許されず,その芳しい効能は「香り高い葡萄酒を,柘榴の甘き汁を,あなたにさし上げましょう」と『雅歌』で謳われる。男性女性を超えた生と死の表象としての柘榴は以降,その見事な形色ゆえに紋章や服飾デザインとしてももてはやされ,イメージの世界に実を結び続けているのである。
  ここでは柘榴揺籃の地から遥か北に上った島に種を落とした柘榴を見たい。地中海の波頭を思わせる波形文に囲まれたじつに見事な円形の中に,上質の油で丹念に金髪を後ろに撫でつけ,きれいに髭を剃った男の肖像がある。チュニックを着て,肩にローブを巻きつけたこの端

正な顔立ちの男は,古代神の像かと思いきや,頭部の後ろにはΧ(キー)とΡ(ロー)を組み合わせた文字があり,紛れもなくキリストのイメージであると知れる。やや憂いを感じさせる思慮深い顔立ちと円形枠のバランスもさることながら,彼を讃えるようにシンメトリカルに配置された果実こそ,古代以来もっとも神聖視され,神々のアトリビュートとして華麗な歴史を歩んだ柘榴だ。
  この舗床モザイクは,神話上の英雄ベレロフォンがペガサスに乗ってキマイラを退治する場面などを控えて,帝国時代の個人の大邸宅の奥の間の床を飾っていた。それ以前の時代なら,こうした奥座敷にはバッカスやオルフェウスなど秘教秘儀の生と再生の神が飾られるところだが,家主がキリスト像をなんと心得ていたかはわからないものの,ΧΡを頭にもつ新しいイメージを自らの守護神として選んだのであろう。柘榴の死と再生のイメージは,現存する限りここで初めて,キリストの人像イメージと結びついたのである。
  古代ローマ帝国がその版図をブリテン島にまで伸ばし,都市をも築いて定着した頃,土着の神々や遥か地中海世界から上ってきた神々がキリストとあい混じり,やがて訪れる破局も知らずに,柘榴の汁をしたたらせながら健気に暮らしていたことを物語っている。

  《キリスト》舗床モザイク 350年頃 ヒントン・セントメアリー,ドーセット州,イギリス 大英博物館蔵