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学会からのお知らせ


* 春期連続講演会

  ブリヂストン美術館(東京都中央区京橋1-10-1)において春期連続講演会を開催します。各回,開場は午後1時30分,開講は2時,聴講料は400円,定員は130名(先着順,美術館にて前売券購入可)。

「地中海世界の歴史,中世〜近代:異なる文明の輝きと交流」
5月12日  ノルマンと地中海世界:三大文化の交差点,中世シチリア王国  高山 博氏
5月19日  オスマン帝国と地中海世界:「オスマンの平和」がもたらしたもの  飯田 巳貴氏
5月26日  ルネサンスと地中海世界:古代復興の多面性〜美術の視座から  水野 千依氏
6月2日  ヴェネツィアと地中海世界:「海との結婚」から生まれたもの  和栗 珠里氏
6月9日  地中海文明:地中海の北と南,東と西  青柳 正規氏

* 第36回大会

  第36回地中海学会大会を6月16日,17日(土,日)の二日間,しまなみ交流館(広島県尾道市東御所町10-1)において下記の通り開催します。

6月16日(土)
13:00〜13:10 開会宣言・挨拶

13:10〜14:10 記念講演
  「地中海と瀬戸内海──島の歴史と伝承と」
 樺山紘一氏
14:25〜16:25 地中海トーキング
  「崖に住む」
  パネリスト:太田敬子/陣内秀信/益田朋幸/真野洋介/司会:野口昌夫 各氏
16:40〜17:10 授賞式
  地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞
17:10〜17:40 総 会(会員のみ)
18:00〜20:00 懇親会

6月17日(日)
10:00〜12:30 研究発表
「ギリシア青銅器時代の印章の硬度と図像──《星形モチーフを伴うライオン》図像」 小石絵美氏 / 「アッティカにおける神話表現の成立──墓標陶器の図像変遷に着目して」 福本薫氏 / 「オウィディウスのメルクリウス──『変身物語』第2巻676-832」 西井奨氏 / 「古代ローマの皇帝親衛騎馬部隊騎士の墓碑と,その浮彫の「馬」図像」 中西麻澄氏 / 「メディチ家支配下のピサ平野とナヴィチェッリ運河の描写と政治的事実について」 吉田友香子氏
13:30〜16:30 シンポジウム
  「海の道──航路・文化・交流」
  パネリスト:荒又美陽/亀長洋子/武田尚子/尹芝惠/司会:末永航 各氏






秋期連続講演会「芸術家と地中海都市」講演要旨

アルノルト・ベックリーンとフィレンツェ

秋山 聰



  ベックリーンはドイツ語圏バーゼル出身の画家であり,19世紀後半のドイツ美術を代表する存在として知られるが,その生涯のかなりをイタリアで過ごしている。生活が安定した後半生,とりわけフィレンツェを好み,晩年は近郊のフィエーゾレに邸宅を得て,亡くなるまでを過ごしている。20代の大半をローマで過ごしたベックリーンは,同地で糟糠の妻とも言うべきアンジェラを得,半ば駆け落ち同然に故郷へと舞い戻るが,画家として自立することが出来ず,苦しい生活を送った。ミュンヘン滞在中(1857〜60年),子を亡くし,自らもチフスに罹患し,死にかけもしたが,その折も折,作品がバイエルン国王の買い上げとなり,またシャック伯爵に見いだされ,ヴァイマールの美術アカデミーの教授にも推戴された。宮廷での交際を嫌って,この教授職は早々に放棄してしまうものの,これ以後経済的状況は徐々に良くなって行く。
  ベックリーンが初めてフィレンツェに定住したのは1874年。ドイツではともすると体調を悪くしがちであったが,イタリアで回復,画調も全体的に明るくなる。もっともフィレンツェでの交際相手は,ヒルデブラント,フィードラー,フォン・マレース,バイヤースドルファー等ほとんどがドイツ系の文人たちで,唯一親しかったイタリア人はストロッツィ宮殿脇にあった行きつけの居酒屋の主人エミーリオ・ロッシのみだった。代表作《死の島》もこの第一次フィレンツェ滞在中(1874〜85年)に制作された。《死の島》は5ヴァージョン制作されたことがわかっているが,いずれもフィレンツェで描かれた。近年,《死の島》というタイトルは,かつて言われてきたように画商により一方的に付けられたわけではなく,ベックリーン自身が書簡の中で積極的に用いていた名称であることが判明している。第一作は画商からの依頼だが,第二作は夫を亡くしたばかりの女性にベックリーン自身が提案したもの,第三作以降は画商からの販売を想定しての依頼だった。この時期になるとベックリーンの名声はドイツ語圏において愈々高まり,かのリヒャルト・ヴァーグナーも自らの楽劇の装置を描いて貰いたがったが,ヴァーグナーの音楽にあまり共感できなかったベックリーンはきっぱりと断っている。余談ながら,1980年のバイロイト音楽祭において,ブリュンヒルデが永遠の眠りにつかされる場面の舞台装置とし

て,《死の島》を立体化した書割が用いられたが,これは考えようによってはヴァーグナー家によるベックリーンへの報復と言えるかもしれない。
  その後,ベックリーンは子供たちの教育のために一旦チューリヒに移るものの,卒中の発作に見舞われたこともあり,療養を兼ねて1893年にフィレンツェに戻り,二年後にはフィエーゾレにヴィッラ・ベラージョを購入,ここで終生過ごすことになる。秘書兼助手として呼び戻した息子カルロを巻き込んで,晩年のベックリーンが熱中したのが,飛行機実験だった。まだリリエンタールが飛行実験に成功する以前の段階であり,かなり真剣に取り組み,ドイツ政府とも交渉しようとしたらしい。フィレンツェ近郊の丘陵に出かけては実験を繰り返す夫に,妻アンジェラはあまりに危険だから止めて欲しいと願っていたようだが,ベックリーン自身は「この浮世から一瞬でも足を離せるなら素晴らしい」などと言って,一向に聞く耳を持たなかったようだ。
  フィレンツェで描かれたベックリーン作品に通有の特徴としては,アポロン的理性に対するディオニュソス的非理性の優位,鑑賞者の自由裁量を想定した主題設定,音楽との密接な関わり等が挙げられるだろう。ベックリーンの絵については時に「可聴性」という言葉が使われるように,多くの作曲家がベックリーン作品に発想を得て,楽曲を作っている。ベックリーン自身,「絵は音楽のように」受け止めて欲しいとも,自らの「絵は通奏低音を提供する」,あるいは「音楽の精神から描く」などと折に触れ友人に語っている。彼は時に音楽を聴きながら絵画制作を行ない,フルートやハルモニウムがアトリエに常備されていたらしい。《死の島》に発想を得た楽曲だけでも10曲近くあり,ベックリーン作品に基づく楽曲も50曲ほども確認されており,ある意味では画家自身の望んだように鑑賞されたと言えるかもしれない。しかし,彼自身が好んでいたのはアレグリのミゼレーレをはじめとする静謐な音楽であり,彼の絵に刺激を受けた楽曲の多くが後期ロマン派的で英雄的であるのは些か皮肉ではある。
  なお1901年にベックリーンは亡くなり,「私の全てが死ぬわけではないだろう」という銘文を付した墓に葬られたが,この予言は的確だったと言えるだろう。







研究会要旨

19世紀イタリアにおける美術品流通

──クリヴェッリの祭壇画売却に関する史料を中心に──

上原 真依

12月10日/東京芸術大学



  19世紀のイタリアでは,国内の動乱の影響もあり,数多くの美術品が売却され世界各地に散らばった。豊富な考古学遺物を有し,15世紀より盗掘や海外への遺物の持ち出しを禁じる勅令を発していたローマ教皇領は,1802年より,古代彫刻や大理石だけでなく絵画も含めた美術品を保護する制度を徐々に整備していった。例えば,1802年のドーリア・パンフィーリ枢機卿の法令第10条や,1820年のバルトロメオ・パッカ枢機卿による法令第52条により,聖堂内にある絵画の無断持ち出しや,修復,売却が禁じられ,違反者には罰金が科せられるようになった。また1821年には,教皇領の各管轄区に美術品や出土品の売却・持ち出し申請の審査にあたる文化財委員会が設置され,委員会での審議内容は中央であるローマ教皇庁に報告されることが定められた。本発表では,この保護制度が成立する時期に集中して売却されたカルロ・クリヴェッリおよびヴィットーレ・クリヴェッリの祭壇画作品に焦点を絞り,管轄区やローマ教皇庁に宛てた祭壇画の売却許可申請書や,祭壇画不法売却に関する嘆願書などの未刊行史料から,19世紀イタリアにおける美術品流通の諸相を考察した。
  まず,注目したのは1826年にフォルチェで起こったカルロ・クリヴェッリ作《聖母子》(《フォルチェ祭壇画》の中央パネル,ヴァチカン絵画館所蔵)の不法売却に関する記録と,1838年にフェルモで起こったヴィットーレ・クリヴェッリ作《玉座の聖母子と寄進者たち》(フェルモのサン・ロレンツォ・サン・シルヴェストロ・エ・サン・ルフィーノ聖堂所蔵)の不法売却に関する記録である。アスコリ・ピチェーノ国立古文書館とローマ国立古文書館に残るこれらの記録は,教皇庁が聖堂内絵画の無断売却を禁じてからも,司祭や参事会員らによる祭壇画売却が続いていたことを伝えている。加えて,不法売却の発覚後,フェルモの大司教が教区司祭の罰金の減額を求める嘆願書において「(司祭は)その素晴らしい価値には気づいてもいませんでしたので,空っぽでなおざりにされた聖堂に何か聖具を買いたいという非常に崇高な目的から(ASR, Camerlengato II, Tit. IV, fol. 2838)」祭壇画を売ってしまったと主張していることや,かなり安価な売却額から,聖堂関係者は祭壇画を聖堂に不要なものと認識していたことがうかがえる。一方で,村の住民らは《玉座の聖母子と寄進者たち》不法売

却発覚後,「故郷から大型で聖なる作品を奪った(ASR, Camerlengato II, Tit. IV, fol. 2838)」司祭を告発し祭壇画返却を訴える陳情書を教皇庁に提出し,村への返還に成功している。つまり,当時も住民からの崇敬を集めていた祭壇画については,時に住民名義の訴えが祭壇画の流出に対する抑止力として作用したと考えられる。
  一方,教皇領下における法令に則った美術品売却方法については,1855〜58年に提出されたカルロ・クリヴェッリ作《カステル・トロジーノ祭壇画》(東京国立西洋美術館など5館に5パネル分蔵)の売却申請に関する史料群が詳しい。この祭壇画については,売却申請書に加えて,アスコリ・ピチェーノ教皇管轄庁文化財委員会から派遣された視察団による報告書や,ローマ教皇庁からの売却認可書もあわせて保管されており,その売却申請から認可までの手順を再構築することが出来る。1850年代には美術品売却申請数も増加しており,各地の教皇管轄庁にある文化財委員会を通じて,ローマ教皇庁が美術品を管理する体系を確立していたと言えよう。このことは,イタリア統一の動乱期におこった《ツバメの聖母》(ロンドン,ナショナル・ギャラリー所蔵)不法売却の記録からもうかがうことができる。
  1862年,マチェラータ近郊の町マテーリカのサン・フランチェスコ聖堂に置かれていたカルロ・クリヴェッリの祭壇画《ツバメの聖母》が,町の有力貴族であり祭壇画注文主の末裔でもあったルイージ・デ・サンクティスにより無断で持ち出され,最終的に海外へ売却された。イタリア王国新政府の教育省には,「旧政府での美術品に関する法律は廃止されていない(ACS, AA. BB. AA, b. 475)」ことを理由に,売却の違法性と祭壇画返還を訴えるモレッリとカヴァルカセッレによる意見書や,1860年に教皇領からサルデーニャ王国へと併合されたマルケ地方では「教皇領の法に則る決定は,我々の決定にはなり得ない(ACS, AA. BB. AA, b. 475)」と主張する売り手デ・サンクティスの意見書が提出されている。双方の意見書はともに,旧教皇領での法令が新政府において有効か否かを争点としており,イタリア統一の動乱期における美術品保護の法令整備の遅れだけでなく,旧教皇領下の美術品売却に関する法令が当時十分認識されていたことをも示しているのである。







ゴルドーニとドゥーゼ

鈴木 国男



  かなり旧聞に属するのだが,これについてはまだ日本では書いたことがないので,この機会に御紹介しようと思う。
  話は1997年に遡る。この年,同僚の一人がウィーンで一年間の海外研修を行った。別に珍しい話ではない。私学振興財団の研修制度を利用したものだった。これは,費用の半分を所属する大学が負担するのだそうで,学部の前例としては,その10年前に鹿島茂先生がフランスに行かれたのが最後ということだった。それで10年後,すなわち2007年には私をヴェネツィアに行かせて下さい,と逸早く手を挙げたのだった。留守中の雑用や学生指導,代わりの非常勤の手当てなど,少なからず迷惑をかけることになるので,10年間は粉骨砕身働いたつもりだった。ひたすらヴェネツィアでの生活を夢見て……
  2007年は,周知の通りカルロ・ゴルドーニの生誕300年にあたる。だが,諸々の事情で海外研修は断念せざるを得なくなった。消沈する私に手を差し伸べて下さったのは,早稲田大学の関根勝教授であった。観世流能楽師の家に生まれた関根先生は,永年海外で演劇研究に携わる傍ら,各国の学生に能・狂言の指導を続けて来られた。殊にローマ大学における目覚ましい成果については,30年来の友人であり,ローマ大学で日本美術を講じていたダニエーラ・サドゥン先生からも聞き及んでいたのだが,これが「ローマ狂言」と題して日本でも公演を行なって好評を博したことは良く知られている。それが縁となって,関根先生の企画で東京のイタリア文化会館において開催されるシンポジウム「狂言とコンメディア・デッラルテ」に参加し,そのうちの一日を責任分担してゴルドーニに捧げることが認められたのである。
  何より大切なのは参加者の人選である。日本から新進気鋭のゴルドーニ研究者である大崎さやの,宮坂真紀両氏の参加を求めることは(何しろ後輩だから)すぐに決まったが,イタリアから誰を呼ぶか。頼りになるのは東大との交流協定によりパドヴァ大学で研究を行なった際にお世話になった同大のマンリオ・パストーレ・ストッキ教授と,ヴェネツィア大学のジルベルト・ピッツァミーリオ教授。いずれも斯界の権威であるが故に,ピエル

マリオ・ヴェスコヴォ氏の招聘がすんなりと決まった。当時ヴェネツィア大学の準教授で筆者とも同年代なので心安く話を進めることができた。
  できればもう一人と欲を出した時に,ヴェネツィア大学日本文学科主任のボナヴェントゥーラ・ルペルティ教授から願ってもない推薦が得られた。イタリア演劇研究の大御所で,作家としても知られるパオロ・プッパ教授が,初対面の私を信頼し来日を快諾して下さったのは,旧友ボナヴェントゥーラのおかげに他ならない。そうした多くの人の尽力で,シンポジウムは成功した。私としては,30年前の卒論の追試に辛うじて合格した心境だった。
  で,標題のエレオノーラ・ドゥーゼは? これは,修論のテーマであったガブリエーレ・ダンヌンツィオの演劇に関連して色々と勉強し,論文を書いたこともあったのだが,図らずも昔の名前でまた出ることになった。周知の通り,ドゥーゼはヴェネツィアやアーゾロと縁が深い。それで,生誕150周年のシンポジウムをやるからお前も出ろ,というかのプッパ教授からのお誘いである。本場イタリアのお歴々に交じって発表することなどございません,と正直に言うには欲の皮が突っ張ってしまったので,図々しく我が松井須磨子とドゥーゼにおけるレパートリーを題材に,比較演劇的考察を試みてしまった。
  何より嬉しかったのは,プッパ教授の御好意で,錚々たる参加者の中で特別待遇としてサン・ジョルジョ・マッジョーレ島にあるチーニ財団のゲストハウスに宿泊できたことだ。早朝にあの庭園を散策したのは,我が人生における唯一の身分不相応な特権だったと思う。
  一生泊まることもないであろうホテル・チプリアーニを対岸に望みながら,『華麗なるギャツビー』の主題歌「朝日が昇る時に」を口ずさんだのも御愛嬌と許されたい。地中海学会会員の学術的興味を満たすためには,下記の書物を紹介することで義務を果たしたと勝手に心得る次第である。

VOCI E ANIME, CORPI E SCRITTURE, Atti del convegno internazionale su Eleonora Duse, a cura di Maria Ida Biggi e Paolo Puppa, Roma Bolzoni, 2009.

(執筆者の要望により電子版では一部訂正が入りました:事務局)







写本挿絵研究とファクシミリ

毛塚 実江子



  写本研究において,装丁まで忠実に再現された「ファクシミリ」は今や欠かせない存在になっている。筆者が研究対象としている聖書写本(レオンのサン・イシドーロ王立参事会聖堂所蔵,Cod.2, 960年6月19日の記録が残る)のファクシミリは縦49.3,横39,高さ14.5cm,全517葉に及ぶ大型のもので,皮張りの木板の四隅を金属で補強した装丁である。通常時は木箱に入れられて保管されており,司書の方に二人がかりで運び出してもらう。ファクシミリとはいえ,手にするたびにその重量と存在感に圧倒される。無論,写本の大きさと価値とは単純に比例しないが,その量感からは大型写本を立派に完成させた当時の人々の意気込みが伝わってくるような心地さえする。写本のデータには普通,重さは含まれないのであるが,閲覧室に体重計を持ち込み,試みにファクシミリを測ってみると約20キロであった。成人男性,あるいは少し力持ちな女性であれば一人で持ち運ぶことは不可能ではない。写本の制作地や所蔵地の変遷,使用用途を考えると,移動可能かどうかということは常に頭の片隅にあった。そのため本物の写本に触れられた暁には,一度は持ち抱えて充分にその重さを味わってみたいと常々思っていた。古い写本,とりわけ作成され1000年以上が経つ写本は,現存していること自体がすでに奇蹟的である。制作地と推定される修道院のあった川のほとりは,今や一面の畑と化して跡形もない。写本を実見し触れることができたなら,それだけでも研究者にとっては大きな励みである。これは研究の必然性を越えた擬似的な追体験への願望であり,むしろ聖遺物に対する心情に近いのかもしれない。
  ときにファクシミリは我々研究者を本物の写本に最大限に近づけてくれるが,ときに最後の壁となることもある。つまり,所蔵する写本の実物を展示する代わりに,ファクシミリで済ませてしまう,という施設が増えているのである。たとえ観光客であってもそれを目当てに訪れる人々は落胆してしまうだろう。いかに印刷,加工技術が進み,ファクシミリの再現度が向上したとしても,当然ながら実物には代え難い。聞くところによれば,1970年代には,運が良ければ原物を手に取り,比較的容易に撮影ができた頃もあったようである。しかし大規模な国公立図書館はともかくも,大学図書館や修道院によっては紹介状があっても閲覧は難しいのが現状であ

る。これには古い写本の保存状態の問題と,やはり安全上の理由が大きいのだろう。例えば1996年9月にカタルーニャ北部のウルヘル(ウルジェイ)修道院から10世紀後半の著名なベアトゥス黙示録註解写本が盗まれるという事件が発生した。これは公開展示している部屋に二人組で押し入り,周囲を脅しケースを破壊して奪い去る,という文字通りの強盗事件であった。関係者の間では写本は解体されて売られてしまうのではないかと大変に危惧されたが,4ヶ月後に無事,他の場所で発見された。その写本のファクシミリが公刊されたのは2年後の1998年である。現存する同じ黙示録註解の他の写本も,紀元二千年記を境に次々と公刊されている。全てを確認したわけではないが,原物の代わりにファクシミリを展示している所蔵先も少なくない。
  筆者の研究対象の聖書写本も例外ではなく,1997年公刊以降,ファクシミリが所蔵先の聖堂に展示されている。原物を一目見たいと,何度か足を運んで管理や責任者の方々に閲覧を願い出たが,とうとう許可が降りなかった。写本の全体像や挿絵の細部を検討したいという美術史研究上のもっともらしい理由は「ファクシミリを見れば済む」,と一蹴されてしまう。本当の色合いとファクシミリとの違いを比較したいと言ってはみたが「コピーだから同じ」と返されてしまった。実見を希望する本当の動機は,この目で見て触れてみたい,という心情的な,むしろ願望のようなものであったため,理論的に説明することが難しく,できれば持って歩き回りたいなどと口を滑らせるようなものなら警察を呼ばれかねなかった。本物ならではのアウラを体感したいなどという理由も,ある程度は理解してはもらえたようではあったが,決定的な理由にはならなかったようである。それでも連日しつこく通ったかいがあって,代わりに特別に別の聖書写本を見せてもらうことができたのは幸運であった。閲覧が許された写本は件の写本より200年ほど制作時代が下るが,系列的に最も近しい類縁関係にあるもので,960年に制作された写本が難しいなら,せめてこちらを詳しく見て比較をしたいと交渉した末である。しかしその許可が下りた決定的な理由が,その新しいほうの写本のファクシミリは公刊されていないから,というのはなんとも皮肉なことであった。







ルネサンスの青

伊藤 拓真



  イタリア留学時代に執筆した博士論文を1年ほど前にようやく出版することができた。15世紀トスカーナのステンドグラスについての研究である。内容はともかく,青色でデザインされたカバーは美しい。中央にはフィリッピーノ・リッピ作のステンドグラスが,青色の地から浮き出すように配置されている。一重に,編集者のセンスの賜物である。図書館に並ぶ時には,このカバーは取り外されクロス製の表紙がむき出しになっているかもしれない。あるいは時が経ち,それなりの数の奇特な読者が小著を手に取れば,カバーは擦り減り廃棄されることになるだろう。少し惜しい。
  バクサンドールを引き合いに出すまでもなく,青はルネサンスの人々にとっても重要な意味を持つ色だった。当時の絵画制作において最良の青はラピスラズリを精製したもので,原料を東方からの輸入に頼っていたため,「海を越えてきた」という意味でウルトラマリン・ブルーと呼ばれた。原料の希少性とその深い色彩から,絵画材料のなかでは金に匹敵する価値を持ち,聖母のマントのような重要部分に特に好んで用いられた。しかし,中世末からルネサンスの壁画を見ると,青色に着色された部分が不自然に剥落していることがある。漆喰が大量の顔料を吸収するフレスコ壁画では,ウルトラマリン・ブルーを自由に使うことは難しい。そのため,壁画に利用する場合,フレスコ技法で全体を制作した後に別途塗布されることが多く,後年の剥落の原因となった。このような欠点にも関わらず,多くの壁画でウルトラマリン・ブルーが用いられていることからも,人々がいかにこの色に重要性を付与していたかわかる。
  時代が進むと,一部の画家や先進的な注文主の間で徐々に異なる意識が生まれる。彼らは顔料の高価さではなく,画家の技量をより強く打ち出した。これをよく示すのが1500年前後に活躍したペルジーノに関する逸話である。人気画家だったペルジーノは,フィレンツェのある修道院から壁画制作の注文を受ける。古い考えを持つ修道院長は,多くのウルトラマリン・ブルーが作品のなかに用いられることを望み,その指示を徹底するために制作現場に付きっきりで監視をした。これに嫌気がさしたペルジーノは一計を案じる。青色絵具を使って描画する際に頻繁に筆を洗い,顔料を筆洗いのなかに溜めこんでしまうのである。そうとは知らぬ修道院長は顔料の減り具合を見て「この漆喰はなんと多くのウルトラマリ

ン・ブルーを吸い込むのだろう!」と驚きをあらわにする。最終的には,ペルジーノは回収した青色顔料を修道院長に見せ,修道院長の考えを諌めるというものである。この逸話から,絵画の価値を構成するのは画家の技量であるという進歩的な考えを読み取ることができる。しかし逆説的には,ルネサンスも半ばを過ぎてもまだ,青という色彩とその顔料が人々の間で特別な意味を持っていたことも証言してくれる。
  ルネサンスの人々が青色に向ける眼差しは,現在の私たちとは異なるものであっただろう。青色にはより安価なアズライトなどもあり,空の青などに用いられていたが,人物表現に用いられる場合はあくまで代用品としての位置付けを出ないものだった。明敏に鍛えられた眼を持つ人々ならば,そのような違いをすぐに見抜いたことだろうし,多くの人々が,少なくとも違いを区別したいと思ったはずである。ちょうど宝飾品を品定めする際に,貴金属か,それを模倣した素材かを見定めるのと同じような感覚だったのだろう。とはいえ,貴金属の見分けが素人には難しいように,「偽物」のウルトラマリン・ブルーに騙される注文主も中にはいたかもしれない。
  その一方で,偽物とわかっていても,あるいは人々は青色を求めたのかもしれない。ペルジーノとほぼ同時代にフィレンツェで活躍したロッビア一族の施釉陶器では,滑らかな乳白色と並んで青色が特権的な位置を与えられた。多くの作品で人物は白く,そして背景は青色に施釉される。この2色を前にして,大理石の白とラピスラズリの青を連想するのは自然なことであろう。またステンドグラスでも,中世の作品では赤や透明のガラスが背景に用いられることもあるが,ルネサンスのトスカーナではほぼ例外なく青色が用いられるようになった。実際,1400年前後に活躍したトスカーナのあるステンドグラス職人は,青色を指して「もっとも美しい色」と呼んでいる。もともとは経済的な価値に助長されて芽生えた青色に対する明敏な感覚が,独自の展開を見せているとも言えそうである。
  この原稿を執筆しているのは2011年の末月で,街にはクリスマスのイルミネーションがあふれている。ツリーには金色の飾りが取り付けられているが,もちろん素材としての黄金ではない。にも関わらず,その金色の飾りは私たちの心を浮き立たせてくれるのである。






表紙説明 地中海世界と植物 26


テラ島の百合の壁画/中村 るい


  三島由紀夫の小説『豊饒の海』の第二巻『奔馬』に,奈良で行われる,次のような百合の儀式の記述がある。

「……運ばれた三千本の笹百合のうち,もっとも姿のよいものが選ばれて,垂ニ缶を飾ったほかは,瓶に活けられて社前のあちこちに花やいでいる。見渡すすべてに百合が関わり,微風も百合の香りにあふれ,百合の主題はいたるところに執拗に繰り返され,世界の意味は百合のなかに籠められてしまったかのようだ。」

  奈良の率川神社での初夏の神事である。その後,四人の巫女の奉納の舞が描写される。
  さて古代地中海世界で,百合は壁画や陶器の装飾によく登場する。とくに青銅器時代のクレタ島のクノッソス宮殿や付近の建築物の壁面にみられる。
  1968年以降,クレタ島北方の,エーゲ海のテラ島(別名サントリーニ島)でも,百合の壁画が出土した。壁画は非常に保存がよく,注目を浴びることになった。それというのも,テラ島は後期青銅器時代に火山噴火が起こり,古代の町並みが火山灰に厚く封印され,保存されたからだ。テラ島はエーゲ海のポンペイとも呼ばれている。
  図版で掲げた壁画は,テラ島アクロティリ遺跡のデルタ地区の一階部分を飾っていたもので,部屋の三面を連続する風景画だ。現在はアテネ国立考古博物館の2階に展示されている。赤,黄,青の三色で塗り分けられた岩山に,百合がさわやかに揺れる。野生の赤百合の群生だ。そのあいだをツバメが飛び交っている。

  壁画の描きかたは,ごく平面的で,岩石の部分は,黒い輪郭線の中を三色で埋めており,遠近法は使われていない。大気は,漆喰の地をそのまま使い,そこに黒の輪郭線で,七羽のツバメを描いている。いわば白描画だが,そののびやかな筆致に思わず目が釘付けになる。
  ところでこの岩山はどこの風景だろうか? また,なぜ人物が登場しないのだろうか?
  まず,色彩豊かな岩山は,火山岩を想起させるので,テラ島ではないかと推測される。実際に,テラ島を訪ねると,カルデラの内側のえぐれたような岩肌は,バラ色をしている。初めてテラ島を訪れた1980年代に,アテネから船で到着後,バラ色の斜面のジグザグ道を,何度か登り降りした。そして,島の中央部の洞窟を漆喰で塗り込めただけの,じつに粋なユースホステルに宿泊したことを覚えている。
  このように火山島の一部を描写したような壁画。しかし,なぜ人物が登場しないのだろうか? この小室の隣から約300の素焼きの盃が出土し,何らかの献酒の儀式と関係があったとされる。「百合の壁画」には,儀式の背景としての機能も想定できるだろう。
  青銅器時代のクレタ島でよく知られるのが,「山上の聖所」の神性の降臨の儀式である(友部直「カト・ザクロ出土〈山上の祠堂〉のリュトンについて」『富永惣一先生古稀記念論文集』1972年)。おそらく,テラ島でも「山上の聖所」の儀式が存在し,その場所を象徴的に描いたのが,この「百合の壁画」ではないかと考えられる。
  百合の凛とした姿や立ち籠める香りに,洋の東西を問わず,人々は神性の来臨を強く祈願したのかもしれない。